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『動物からの倫理学入門』

伊勢田 哲治 20081120 名古屋大学出版会,364p.

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last update:20220122

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■伊勢田 哲治  20081120 『動物からの倫理学入門』,名古屋大学出版会,364p. ISBN-10:4815805997 ISBN-13:978-4815805999 \2940 [amazon] [kinokuniya] ※

■内容

動物と人間とでは、なにが違うの? 動物倫理という「応用問題」を通して、倫理学全体へとフィードバック。動物実験、肉食、野生動物保護といった切り口から、人間の道徳までも考えてしまう、柔らかでスリリングでまっとうな入門書。

■目次

序 章 倫理へのけもの道―倫理学の全体象をみわたす

0-1 動物についてちょっと考えてみる
0-2 倫理学は何をする学問か
0-3 メタ倫理学・規範倫理学・応用倫理学

コラム0 倫理的相対主義

  第T部 基 礎 編

第1章 動物解放論とは何か―動物の権利運動を通して規範論の基本原理を見る

1-1 動物愛護から動物の権利へ
1-2 功利主義
1-3 義務論
1-4 義務論の要素を入れた功利主義
1-5 二つの倫理学理論と動物

コラム1 「生き物を殺してはならない」というルールは存在するか

第2章 種差別は擁護できるか
     ―メタ倫理学の視点から人間を特別扱いする議論を吟味する

2-1 事実を見ればわかるという系統の議論
2-2 事実と価値の関わり
2-3 能力差に訴える議論
2-4 メタ倫理学のさまざまな立場

コラム2 自然主義的誤謬にまつわる誤謬

第3章 倫理は「人と人の間のもの」か
     ―社会契約説の視点から契約という考え方を取りいれてみる

3-1 契約として倫理を見る
3-2 契約説と動物
3-3 ロールズ以後の契約説と動物の権利論

コラム3 カントのメタ倫理学と契約説

第4章 倫理なんてしょせん作りごとなのか
     ―進化動物学を手がかりに道徳の理由と起源を考える

4-1 道徳の理由と利己主義
4-2 道徳の起源と進化論
4-3 再び道徳の理由について考える

コラム4 共通先祖説と滑りやすい坂道

  第U部 発 展 編

第5章 人間と動物にとって福利とは何か
     ―動物実験問題を通して価値があるとは、幸せとはどういうことかを考える

5-1 動物実験
5-2 福利論
5-3 動物の福利への福利論の応用

コラム5 自由の価値

第6章 肉食は幸福の量を増やすか
     ―菜食主義や工場畜産の論争を通して意思決定システムとしての功利計算や厚生関数について考える

6-1 菜食主義
6-2 功利主義のさまざまなバージョン
6-3 厚生経済学

コラム6 マイナス功利主義

第7章 柔らかい倫理から動物はどう見えるか
     ―野生動物問題を通して環境倫理学、徳倫理学、共同体主義、ケアの倫理について考える

7-1 野生動物の倫理
7-2 環境倫理学のさまざまな立場
7-3 徳倫理学
7-4 徳倫理学と環境と動物

コラム7 徳倫理学とメタ倫理学

終 章 動物は結局どう扱えばいいのか
     ―往復均衡法を手がかりに倫理学の考え方と理論の改良の方法を考える

終-1 本書の内容を振り返る
終-2 対立する倫理学理論の使いかた
終-3 結局動物とどう接すればよいのか

文献案内もかねた文献表

あとがき

索引

■引用

 「この状況が一変するのが1970年代後半である。倫理学者のピーター・シンガーが1973年に『動物・人・道徳』という本の書評を『ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス』という有名な書評紙に発表し、さらにそこで展開した考えを1975年に『動物の解放』という本にまとめた。これらの著作の特徴は、動実験施設や工場畜産と呼ばれる現代の畜産のやりかたにおいてとれだけ動物が苦しめられているかを細かく描写した上に、動物の扱いを考える上での枠組みと、「種差別」(speciecism)という概念を紹介したことであつた4)。「種差別」という言葉は「人種差別」(racism)や「性差別」(sexism)という言葉と同じやりかたで作られており、種を理由とする差別が人種や性別を理由とする差別と同くらい無根拠なものだというメッセージを秘めている。こうしたアナロジーは60年代に公民権運動やウーマン・リブ運動を経験してきた世代に訴えかけるものがあったと思われ、シンガーの著作をきっかけとして本格的な動物の権利運動団体が世界各国(特に英語圏の諸国)に作られていった。シンガー自身は功札義をべースとしているために動物の権利という言葉をほとんど使っていない(このつながりについては後で説明する)。しかし面白いことに、シンガーに影響うけたはずの人々はむしろ「動物の解 4)正確に言うと、「種差別」そのものはイギリスの動物愛護活動家リチャード・ライダーの造語だが、有名にしたのがシンガーであったためにしばしばシンガーが造語したと思われている。」([18])
 →◇種/種差別主義

 「1−5 二つの倫理学理論と動物
 1−5−1 功利主義と動物
 ずいぶん長々と回り道をしたが、ようやく動物の話に戻る。以上のよう倫理学理論からは、動物の権利の運動にどういう判断を下すことになるだろう。実は功利主義からも義務論からも、配慮を人間に限らないという考え方は支持されている。
 功利主義についてはいろいろな立場を紹介したが、ここは動物に関する個々の行為を選ぶところではなく、動物と人間の関係はどうあるべきかという規則を選ぶ場面なので、行為功利主義から言っても規則功利主義の立場から言っても功利計算をして考えることになる。
 まず、なぜ動物の虐待が功利主義の観点から見ていけないことだと言えるのか、「もう分かった」という読者も多いだろうが、念のために説明しておこう。功利△039 では幸福の量が少しでも多くなるような選択肢が道徳的に望ましい選択肢だということになる。そういう観点からすれぱ、動物の幸福の量だって多い方がよいにきまっている。さらに、どんな人の幸福も同じに数える、という立場からすれば、単にホモ・サピエンスじゃないというだけである相手の幸福を考慮しないのは差別に思える(日本語だと「どんな人の」という言い方になって最初から動物が排除されているような感じだが)。シンガーが「種差別」という言葉を広めた背景にはそういう考え方があったわけである。
 功利主義はまた、どういう生物までが配慮の対象になるかについても後付けでない答えを持っている。すなわち、ある生き物が配慮の対象になるかどうかは、結局その生き物が幸福になったり不幸になったりする能力を持つか、が基準になるのである。功利主義者のべンサムが(すでに引用したように)「問題は彼らは苦しむことができるのか、なのである」と言ったのはこういう意味だったわけである。痛みや苦しみを感じる能力はすべての脊椎動物が持っているように思われるし、多くの無脊椎動物にもその能力はもその能力があるように思われる(釣りをする人は魚類には痛覚がないようだと言うが、仮に痛みを感じないにしても陸にあげられて窒息しているのは明らかに苦しんでいるように見える)。植物については今のところ痛みや苦しみを感じるという科学的な証拠はない。痛みや苦しみを感じる能力を持つことを英語でsentientと言い、そうした能力を持つ生物を sentient being と呼ぶ。日本語では sentient にあたる言葉がないので、「有感生物」ということばをうちあげて訳語としている。
 ところで、興味深いことに、動物を殺してよいかどうかについてはシンガーはわりと寛容な態度をとっている。実は、功利主義の観点からは、「有感生物を殺してはならない」という判断は単純には出てこない。相手を殺すことがだれも不幸にせず、他のだれかを幸福にするならば、その相手を殺すことがだれも不幸にせず、他のだれかを幸福にするならば、その相手を殺すという選択肢が全体の幸福の量を最大化することになる。人間については、死にたくないという欲求がたいていの人にあるので、人を殺すことはその人の欲求充足に反することになる。しかし、動物がそもそも「死にたくない」と思うことができるかどうかがあ△040 やしい、とシンガーは考える。この考え方の前提として、「ある概念を持っていければその概念についての欲求も持てない」という考え方がある。動物が「死」という概念を持っているかどうかはあやしい。「死ぬ」というのは「自分が将来存在しなくなる」ということだから、「死ぬ」ということを理解するには、「自分」とか「将来」とかという概念が理解できなくてはならない。しかし、ほんどの動物は、そういう概念が理解できるようではない(動物行動学でこういう問題にどうアプローチしているかについては第二章で触れる)。そう言うと「動物だって死ぬのをこわがるよ」と反論する人がいるかもいれないが、動物が恐怖を見せるのは死に対してというよりはその前段階のさまざまな徴候(たとえば刃物とか鉄砲とか)に対してではないだろうか。もちろん死にともなう痛みや、痛みを予期した恐怖などはあるだろうが、それは死への恐怖とは別ものである。
 もし動物に「死」が理解できないのだとすれば、まったく痛みや恐怖を感じさせずに殺すことができるなら、動物を殺すことは(功利主義的には)不正ではない。動物の肉を食べることについても、幸せに育てられた動物を、まったく感じさせずに屠畜できるなら、食べるために殺すこと自体には反対す必要はない。実験動物を殺す必要があるような動物実験についても同様である。これは、原理的には、動物実験をする研究者たちの動物福利の立場と非常に近いの辺りについては第五章や第六章でもっとくわしく紹介する)。
 ただし、大型類人猿については、死を理解するだけの知的能力があるという証拠もあり、殺すのは不正だとシンガーは考える10)。他の多くの場合についても、殺すことが間接的にもたらす苦痛のため、動物を殺すことが不正である場合は多い。また、現在のように大規模に肉食や動物実験を続けるためにはどうしても非人道的な環境で育てざるをえないため、シンガーは総論としてはこれらの営みに強く反対し、肉食に対しても動物実験に対しても事実上の廃止に近い厳しい制限を要求している。△041
 このシンガーの立場を聞いて、なかなかよさそうな立場だと思っただろうか? シンガーは実は邪悪な哲学者として非常に強硬な批判をあびている。殺すことの是非をめぐるシンガーの議論は、種差別を否定する以上、人間にもあてはまる。ということは、「死」という概念が理解できない幼児や認知症の患者も、幸福の最大化のために殺してよい場合があるということになる。シンガーはこれを積極的に認め、重度障害新生児の安楽死を場合によって認める議論をしている。重度障害新生児は苦痛に満ちた短い生涯を送る。快楽をより多く苦痛をより少なくという考え方からは、重度障害児の苦痛を減らすために安楽死を行うことは場合によって容認される(ただし、そうした安楽死がほかの人に与える影響も考えなくならないので全面的に「容認される」と言い切ることはできない)。成人の場合は死ぬこと自体への本人の嫌悪という別の要素が入ってくるが、新生児の場合、そもそも「死」という概念を持たないので、「死にたくない」という欲求を持つこともない。シンガーはこの主張のために、世界各国の障害者団体から「障害者の生きる権利を認めていない」として強く批判されている。シンガーの主張を支持するにはそれなりの覚悟が必要である。ただ、これからいろいろな立場を紹介するけれども、シンガーの立場はその中でもおそらく一番首尾一貫している。
 またすでに紹介したような功利主義がよく批判される点、特に、絶対的な権利を認めない、という点は、けっして人間の倫理に限った話ではない。動物の愛護について考える人だって、動物を食べるのは絶対によくないとか、動物を実験で苦しめるのは絶対によくないと思っている人は、そういう「絶対に」というのがてこない功利主義には不満を感じることになる。動物の権利運動の人たちが、シンガー自身があまり使わない「動物の権利」という考え方を使うようになったのもそのあたりに理由があるのではないだろうか。

 「なぜ動物解放論はそんな影響力を持つのだろうか。特に本書の前半で詳しく述べたように、動物解放論の議論は、はじめて接したときには突拍子もなく感じるかもしれないが、論破しようとするとなかなか手強い。それは動物解放論がいくつかのかなり広く共有されている規範的判断や背景理論を組み合わせることで導き出せるものだからである。「倫理判断は普遍化可能である」「遺伝的差異自体は△320 差別をする理由にはならない」「動物も人間と同じように苦しむ」「認知能力や契約能力など、動物と人間を区別する道徳的に重要な違いとされている違いは人間同士の間にも存在する(すなわち、限界事例の人たちが存在する」「限界事例の人たちにも人権があり、危害を加えてはならない」、これらの組み合わせから容「動物にも「人権」があり、危害を加えてはならない」という結論が導ける。
 この結論に反対しようとすると、前提のどれかを否定しなくてはならないが、ここに挙げられている規範的判断は、少なくとも現代市民社会に生きるわれわれにとっては抜きがたい確信となっているものであり、動物に権利を認めたくないばかりに少し修正しょうしすると他のところに大きな影響が生じてしまう。「倫判断は普遍化可能である」というのを否定すれば、人々が自分に都合のよいときだけ都合のよい規範を持ち出してらおとがめなしということになってしまう。遺伝的差異自体は差別をする理由にはならない」というのを否定すると性別やの肌の色による差別も認めることになってしまう。「動物も人間と同じように苦む」というのを否定すると、「自分以外の人も自分と同じように苦しむというのも否定せざるをえなくなる可能性が高い。「限界事例の人たちが存在する」というのを否定するのは明白なまざまな事実に目をつぶることになってしまうだろう。「限界事例の人たちにも人権があり、危害を加えてほならない」というのを否定すると赤ん坊や知的障害者に危害を加えてもよいことになってしまう。動物に権利を認めないのはそれなりに覚悟が必要なことなのである。
 といっても、動物に権利を認めれば問題が解決かと言えばそうは簡単には言えない。動物解放論者は「少なくともぎりぎりの選択では人間の方が他の動物より優先される゛」という強固な直観と向き合わなくてはならない。この直観を動物解放論の中で生かすのは難しい。別の言い方をすれば、「倫理判断は普遍化可能である」をはじめとした前述の判断や背景理論に「極限的選択における人間の優先」を付け加えると、全体としてつじつまがあわなくなってしまう(均衡が破れた状態になってしまう)ということである。これはまさに往復均衡法が発動するシチュエーションであるが、とうやって均衡を実現したらよいのだろうか。
 一つは功利主義を使ってシンガーの路線で全体の整合性をとるやり方である。「限界事例の人たちにも人権があり、危害を加えてはならない」という部分を修正して、動物の命(とある種の限界事例の人たちの命)は奪ってもよいということにするということだった。この路線は障害者差別だと△321 いってごうごうたる非難をあびたから、あえてシンガーの後に続くのはかなりの覚悟がいる。動物の権利を重視するのなら、解決策は極限的選択における人間の優先という方向になるだろう。これはレーガンよりも過激な立場で、憲法にうたわれるような基本的人権をあらゆる動物に同等に認めることになる。これならたしかに当面の矛盾は解決されるが、もっと大きな問題を抱え込むことになる。というのも、それだけ強力な権利になってくると、どの範囲にまでその権利を認めるのかが大きな問題になってくるからである(シンカーのバージョンでその間題がないわけではないが)。
 他方、徳倫理学は倫理判断の普遍化可能性や人権の概念を制限して、身内びいきを積極的に認め、人権を絶対化しない方向へ進んだ。直観の食い違いの解決のためにやっていることはシンガーと似たようなことなのだが、特定のグループだけが人権を失うのでなくあらゆる人が絶対的な人権を失うという路線なので差別にはならず、かえって非難されにくかったのかもしれない。しかし、そうやって人権という考え方を否定すると時計の針を200年以上巻き戻す結果になる。それが人間と動物の間の最低限の差を残すための代償だとしたら、ちょっと大きすぎるのではないだろうか。キャリコットが描く同心円的な倫理のイメージは、そういう問いかけに対する答えとなっている(つまり往復均衡をもう一歩先へすすめているわけである)。しかし、そのようなやり方で共同体主義と市民社会的権利を平和共存させようとするなら、市民社会的権利が働く範囲内では動物にし同じタイプの権利を認めざるをえなくなるだろう。問題の範囲がせばまっただけで、矛盾が解決するわけではない。
もうーつの路線は種差別を別のやり方で擁護する、たとえば「魂」はヒトにだあるから種の差はぜんぜん連続的ではないのだ、といった主張をするというや方である。広い往復均衡法で言えば、背景理論の方を修正するという路線のー種になる。言い張るだけではもちろんだめだから、魂が存在する証拠を出す必要があるだろうが、認知動物行動学やダーウィン進化論が進展すればするほど、ヒトがそんなに特別だと主張するのは難しくなってきている。さらには、仮に魂の存在を認めたとしても、魂に道徳的価値があるかどうかというのはまた別に議論必要な問題である。
 残りの選択肢はもっと過激になる。一つは倫理そのものを相対化して「倫理的△322 になるのは自分の利益になる範囲だけでかまわない」と認めることだが、これでは道徳的直観のほとんどを敵にまわすことになる。ダーウィン進化論そのちのを否定するのも一つの方法だが、反ダーウィン主義者がたくさんいるアメリカならともかく、他の国でその路線は支持されないだろう。
 こうして細かく見ていくと、どのやり方も均衡にはほど遠い。ここで二つ問題が出る。均衡にたどり着きたければどちらに向かえばよいのか、という問題と、均衡が達成できるまでの当面の間、どうしたらよいだろうか、という問題である。
 まず前者の問題だが、基本としては、一番無理がなく均衡を作れる方向を探す、ということになるだろう(もちろん、どれが無理が多いと感じるかは人それぞれだうが)。前節でも見たように、二層理論は功利主義を出発点として往復均衡を実現する方法として比較的すぐれている。これは、ここで見てきた中では、シンガーの路線を修正して、道徳的直観の果たす役割をもっと拡大することを意味する。功利主義的な批判的レベルでは場合によっては限界事例の人たちの命を奪ってもよい場合があると認めた上でも、直観的レベルではそうした例外を認めないような直観(つまり人間であるかぎり命はつねに神聖であるといった直観)を持っていた方がみんなが幸せになるということは十分ありうる。ただ、これで終わりではない。この路線は、有感生物全体について同じ直観を持った方がよいのではないか、という疑問に答えなくてはならない。
 後者の問題(均衡が達成できるまでの当面の間どうしたらよいかの問題)は、どうするのがよいだろうか。これは他の問題にもまして定説らしいものはないので,以下はわたしの個人的見解である。本書の後半の章で見てきたように,動物実験にせよ菜食主義にせよ野生動物保護にせよ,現に進行している問題であり,対処しないわけにはいかない。これについては,実際に行われている対処が答えにるだろう。功利主義者も義務論者も徳倫理学者も潜在能力論者も,動物の福利に配慮し,環境エンリッチメントなどの取り組みを進めるべきだということにはほとんど反対しない。それだけいろいろな立場から支持される政策は,たとえば一義者だけから支持される政策よりも,当面の解決としてすぐれた政策だと言えるだろう。
 ただし,これは単なる多数決をとろうという話ではない。ある程度往復均衡を生き延びた理論の間での最大公約数をとろうというのである。単なる多数決なら,現状維持で決まりだろう。しかし本書の中で確認されてきたのは,現状△323 維持というポリシーはつじつまのあわないところがいろいろあるために往復均衡を生き延びることができないということである。ある程度の議論を生き延びた立場はー致して,動物に対して,日本の現状よりはるかに強い保護(権利という形の保護になるかどうかは別として)を要求している。動物実験や工場畜産は,継するにしても今よりはるかにきびしい規制の下で行われなくてはならなくなるだろう(ヨーロッパなどではすでにその方向に進んでいるのは本文でも紹介したとおりである)。

■書評・紹介・言及

野崎 泰伸 20090321 「『動物からの倫理学入門』の一つの読み方――倫理・正当化・正義」,京都生命倫理研究会 伊勢田哲治著『動物からの倫理学入門』合評会 於:京都女子大学

◆立岩 真也 2022/12/20 『人命の特別を言わず/言う』,筑摩書房
◆立岩 真也 2022/12/25- 『人命の特別を言わず/言う 補註』Kyoto Books

 第1章★17 「シンガーは実は邪悪な哲学者として非常に強硬な批判をあびている。殺すことの是非をめぐるシンガーの議論は、種差別を否定する以上、人間にもあてはまる。ということは、「死」という概念が理解できない幼児や認知症の患者も、幸福の大化のために殺してよい場合があるということになる。シンガーはこれを積極的に認め、重度障害新生児の安楽死を場合によって認める議論をしている。重度障害新生児は苦痛に満ちた短い生涯を送る。快楽をより多く苦痛をより少なくという考え方からは、重度障害児の苦痛を減らすために安楽死を行うことは場合によって容認される(ただし、そうした安楽死がほかの人に与える影響も考えなくならないので全面的に「容認される」と言い切ることはできない)。成人の場合は死ぬこと自体への本人の嫌悪という別の要素が入ってくるが、新生児の場合、そもそも「死」という概念を持たないので、「死にたくない」という欲求を持つこともない。シンガーはこの主張のために、世界各国の障害者団体から「障害者生きる権利を認めていない」として強く批判されている。シンガーの主張を支持するにはそれなりの覚悟が必要である。」(伊勢田[2008:41])
 「一つは功利主義を使ってシンガーの路線で全体の整合性をとるやり方である。「限界事例の人たちにも人権があり、危害を加えてはならない」という部分を修正して、動物の命(とある種の限界事例の人たちの命)は奪ってもよいということにするということだった。この路線は障害者差別だと△321 いってごうごうたる非難をあびたから、あえてシンガーの後に続くのほかなりの覚悟がいる。」(伊勢田[2008:321-322])
 功利主義について『功利主義入門』(児玉聡[2012])、功利主義と生命倫理について『生命倫理学と功利主義』(伊勢田・樫編[2006])、安楽死・尊厳死との関わりでは「功利主義による安楽死正当化論」(有馬[2012])、それをさらに増補し他の論点と合わせた検討した『死ぬ権利はあるか――安楽死、尊厳死、自殺幇助の是非と命の価値』(有馬[2019])。」

 第2章★32  ★32 「ただここで話が完結するわけではない。次のように続く。リンク先の頁にはさらに長い引用がある。
 「といっても、動物に権利を認めれば問題が解決かと言えばそうは簡単には言えない。動物解放論者は「少なくともぎりぎりの選択では人間の方が他の動物より優先される」という強固な直観と向き合わなくてはならない。この直観を動物解放論の中で生かすのは難しい。別の言い方をすれば、「倫理判断は普遍化可能である」をはじめとした前述の判断や背景理論に「極限的選択における人間の優先」を付け加えると、全体としてつじつまがあわなくなってしまう(均衡が破れた状態になってしまう)ということである。これはまさに往復均衡法が発動するシチュエーションであるが、どうやって均衡を実現したらよいのだろうか。△147
 一つは功利主義を使ってシンガーの路線で全体の整合性をとるやり方である。「限界事例の人たちにも人権があり、危害を加えてはならない」という部分を修正して、動物の命(とある種の限界事例の人たちの命)は奪ってもよいということにするということだった。この路線は障害者差別だといってごうごうたる非難をあびたから、あえてシンガーの後に続くのはかなりの覚悟がいる。動物の権利を重視するのなら、解決策は極限的選択における人間の優先という方向になるだろう。これはレーガンよりも過激な立場で、憲法にうたわれるような基本的人権をあらゆる動物に同等に認めることになる。これならたしかに当面の矛盾は解決されるが、もっと大きな問題を抱え込むことになる。というのも、それだけ強力な権利になってくると、どの範囲にまでその権利を認めるのかが大きな問題になってくるからである(シンカーのバージョンでその間題がないわけではないが)。
 他方、徳倫理学は[…] 」(伊勢田[2008:321-322])
 「ごうごうたる非難をあびた」ことが別の箇所でも紹介されていることは、第1章註17(70頁)でも引用した。この本に対するコメントとして、野崎泰伸「『動物からの倫理学入門』の一つの読み方――倫理・正当化・正義」(野崎[2009])。このたびの私の書き方とはだいぶ違う立場からのものだが、一貫した論ではある。」


*作成:三野 宏治立岩 真也
UP:20100712 REV:20220122, 20230101
殺生  ◇哲学/政治学(political philosophy)/倫理学  ◇身体×世界:関連書籍  ◇BOOK
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