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『流儀』注の候補であった部分

稲場雅紀・山田真・立岩真也 2008 『流儀』


▼略 ロスマン『医療倫理の夜明け――臓器移植・延命治療・死ぬ権利をめぐって』(Rothman[1991=2000]○)、香川知晶[2000]『生命倫理の成立――人体実験・臓器移植・治療停止』○。これらの紹介として立岩[2001-(1)]「米国における生命倫理の登場」○ 略▲

◆中井久夫
 「いい幻聴だってある
 「水中毒もそうだけど、幻覚だって――本人が招いているわけではないにしても―― 一種の「依存症状態」とならないともいえないですよね。酒やパチンコだって自分がしたくてしているうちはまだいいのであって、「しているのか、させられているのかわからなくなる」と危ないですね。
 ある精神科医がパチンコに凝ったことがありまして、何時間もやっていると、声とも声でないとも思えるものが聞こえてきたのだそうです。「ドンドンドンドンやれやれ。やってすってんてんになってしまえ」と。ギョッとしてやめたそうです。聞こえてよかったようなものです。幻聴はどこか自分につながっていますから。[…]
 だから幻聴が全部が悪いものではないんですよ。いい幻聴だってあります。私が東大分院にいたころ、幻聴の言うとおりに生きていって損しなかったという人がいました。彼女は病気になってからずっと家の前を掃いていたのです。あるとき牛乳配達のお兄ちゃんが通りかかったときに「あの人と結婚しなさい」という声が聞こえたのだそうです。で、結婚した。彼はダンプの運転手になりました。気のいい人で、病院の窓から見ていると、外からドーッとダンプが入ってくる。彼が彼女を連れてきているのです。……いい夫婦だったですね。幻聴は医者も選んだそうです。光栄にも私を。」(中井[2007:181-182]) [ta:案→ts:多分掲載しない] 略▲

▼略 著書に『公害原論』(宇井[1971→1988])、『キミよ歩いて考えろ――ぼくの学問ができるまで 』(宇井[1997]) 略▲

▼略 「『ち・お』もおかげさまで一〇歳になります。よく育ってくれたものだと感涙にむせんでいます。これもひとえに読者のみなさんのおかげと心からお礼申しあげます。これからもよろしく。さて、『ち・お』本誌では「青春闘争録」などという個人的な昔話をはずかしげもなく開陳していますが、さらにその前史をこのホームページでさらけだそうと悪趣味なことを思いついてしまいました。
 ぼくの生育史の第一回です。ぼくは一九四一年六月二二日、岐阜市の長良川のほとりで生まれました。太平洋戦争がはじまる半年ほど前のこと、「ドイツとソ連が開戦した日に生まれました」と小学校の誕生会でいったのをおぼえています。
 ぼくの父は軍医で、転任になり一家は福岡県の甘木に移りました。それが三歳のころ。
 そして、父はさらに満州の病院へ転任になり、母とぼくは岐阜県の美濃町(現・美濃市)にある父の実家へと移りました。その後、一八歳になるまでここにいましたから、ぼくの故郷は美濃市です。[…] 美濃紙という上質の和紙で有名なこの町は野口五郎の出身地です(野口五郎は芸名で、飛騨山脈にある野口五郎岳からとったもの。これ、「トリビアの泉」なら“何ヘエ”でしょうか)。」(山田真[2004:ジャパンマシニスト社HP「編集委員のお部屋」])http://www.japama.jp/chio/staff.html 略▲

▼略 ★ 山田真[2005]『闘う小児科医――ワハハ先生の青春』○ 略▲

▼略 ★ 鷲田清一(わしだ・きよかず) 一九四九年生れ、哲学。著書に『悲鳴をあげる身体』(鷲田[1998])、『教養としての「死」を考える』(鷲田[2004]) 他
 「最近、ジャンケレヴィッチの『死とは何か』(青弓社)というインタビューの新装版が出たので、参考になると思って読んでみました。さしたる予断もなく読み始めたのですが、後半になって意外なことが語られていたのでちょっと怖くなってしまいました。安楽死が、あっけないほど簡単に、むしろ肯定的な語り口で述べられていたからです。[…]
 だから、ヨーロッパのキリスト教圏では生命を操作する技術に厳しく、日本では建て前はいろいろあっても根本はいい加減なものだという思い込みがあったのですが、ジャレケレヴィッチを読んで、これはちょっと考え直してみないといけないかなと思いました。私たちはああいう人たちの言葉で自己形成し続けてきたのに、精神とか肉体とか自己といった哲学の基本的なコンテキストについて、とんでもないミスリーディングをしてきたような気がしてしまったのです。ショックを受けて、やや放心状態に陥っているというところです。で、そんなことも念頭に置きながら、死と共同体の問題を基点に考えを進めてみたいと思います。」(鷲田[2004:144-145]) [ta:案→ts:多分掲載しない] 略▲

▼略 ★ 上野 千鶴子(うえの・ちずこ) 一九四八年生まれ、社会学。著書に『家父長制と資本制――マルクス主義フェミニズムの地平』(上野[1990])、『近代家族の成立と終焉』(上野[1994])他 [ta:案→ts:多分掲載しない] 略▲

▼略 ★ 竹内 芳郎(たけうち・よしろう) 一九二四年生。哲学者。著書に『イデオロギーの復興』(竹内[1967])、『課題としての〈文化革命〉』(竹内[1976])他。

▼略 ★ 水俣病
 「水俣病は終わっていない」つるたまさひで 
   はじめに
 「水俣病は終わっていない」ということについて書きたい。きっかけは八月初旬に東京都写真美術館で行われていた東京水俣展。九六年に最初に開催された水俣展にはとても興味があったのだが、日本にいなかったので行けなかった。今度、再び東京で開催されると聞いて、行って来た。そして、この展覧会で水俣病とはなんだったのかという問いをつきつけられた。そして、その会場で購入した岩波新書『証言水俣病』(栗原彬編・二〇〇〇年初版)を読んで、その問いは、より明確に私をつきつけ続けている。この本の年表なども借りながら、以下、書いてみたい。
   水俣病問題の概略
 水俣病がチッソ(新日窒)が出した工場廃液が含む有機水銀が引き起こした病気だということは説明するまでないことだが、知らない人も多いかもしれないその経過について、少し振り返ってみる。
一九五三年  この頃から水俣湾周辺で原因不明の患者散発。
一九五六年  水俣病発生の公式確認。(原因不明の脳症患者四名発生と保健所に報告、新日窒付属病院から) 
一九五九年  新日窒付属病院の実験で廃液を投与された猫発症。(この事実の発覚は六八年)
一九六〇年  患者家族互助会と新日窒「見舞金契約」締結。内容は死者三〇万円 葬祭料二万円、生存患者年金一〇万円など、「今後原因が工場排水とわかっても追加保障しない」という内容を含み、後の判決で「公序良俗に反する」と指摘されたもの。
一九六八年五月  製造工程の変更により水銀流出止まる。
一九六八年九月  政府、水俣病についての正式見解発表。厚生省、公害病認定。
一九六九年〜七三年 裁判闘争や自主交渉闘争で「補償協定書」調印へ
一九七三年〜七八年 患者認定基準の問題により未認定患者が増え、患者に補償されないという事態の発生。この問題の顕在化。
一九八九年〜九六年 「和解」への動き
一九九六年  「水俣病被害者・弁護団全国連絡会議」とチッソ、和解協定書調印。和解の内容は裁判や認定申請などを取り下げることを条件に二六〇万円の一時金と医療費・医療手当てを支給。一万人以上が対象に。(なお「関西訴訟」は和解を拒否し裁判を継続している。)
 この年表で明らかにしたかったのは第一に、水俣病の原因がはっきりしてからもチッソは製造工程が変更されるまでの約十年間、水銀を流しつづけ、行政もそれを認めてきたこと。そして、原因を認めた後も「認定制度」の問題で多くの患者を苦しめつづけ、根本の認定制度が改められることのないまま、多くの患者の高齢化などをテコに国・行政の責任をほとんど問わない、非常に不充分なこの「和解」を患者団体が受け入れざるをえない状況を作ってきたこと。
   「和解協定」について
 この九六年の「和解協定」に少し触れたい。この結果について水俣病患者連合の佐々木清登さんは「[…]高齢化が進んで身体はますます悪くなり、そしてどんどん亡くなっていくことをどうしても考えなければなりませんでした。[…]いろいろな問題が山積していましたけれども、決断を先に送れば、解決がいつになるかもまったくわかりませんでしたので、本当に身を切る思いで、和解受諾という生涯忘れられない決断をしたわけです。「山を動かすことはできなかった」、受諾通知のなかにそう書きましたが、私はそのとき初めて人前で男泣きに泣きました。」と述べている。水俣展では彼が涙ながらに、和解受け入れについて発表するビデオが流されていた。
 この和解を「水俣病全面解決」と評価する運動もあり、私たちの労働組合が参加している大田区労協の水俣支援の運動も幕を閉じたように見える。多くの未認定患者がこの「和解協定」を受け入れるなか、「支援」の運動は形態を変えざるを得ない。しかし、水俣は私たちに今なお、さまざまな問いを提起し続けている。以下、その問いのいくつかを概観してみたい。
   なぜ、原因解明後も水銀が流されつづけたのか?
 「水俣の証言」の最終章「現代を問う」の扉にこんな文章がある。少し長いが途中を略しながら、引用する。
 「[…]水俣病を生みだしても製造されつづけたのは[…]アセトアルデヒド[…]オクタノール[…]当時[…]塩化ビニールは、これをもとに作られる可塑剤を大量に添加しなければ加工できなかった。[…]塩化ビニール製品の普及はチッソと業界に膨大な利益をもたらす一方で、私たちの暮らしを便利で豊かなものに変えていった。日本は水俣病に象徴される悲劇の発生を甘受したからこそ、急激な経済成長を成し遂げたのである。しかしこの半世紀、豊かさや便利と引き換えに私たちは多くを失ってしまったのではないか。不知火海とともに病みつづけた水俣病と日々向かい合ってきた患者たちの言葉は、この社会の病の深さを気付かせてくれる。」
 これにつけ足す必要はないかもしれないが、少し蛇足をつける。水俣病の原因が特定されていたにもかかわらず、水銀が流されつづけた六〇年代は日本の高度経済成長の時期とちょうど重なる。その高度経済成長のつけをいまなお、「からだで払わされ続けている」人がいることを忘れるわけにはいかない。物質的な豊かさや便利という麻薬はいまも私たちすべてを支配し、世界中で、いちばん声の小さい人びとに大きな犠牲を強い続けている。二一世紀、私たちはこの流れを変えることができるだろうか。
   緒方正人さんからのメッセージ
 緒方正人さんはこの「水俣の証言」の最後の証人として、私に上記の問いを思い起こさせてくれた。そして、制度としての救済ではなく、「個」に帰って魂を救うことの必要性を説く。(ここだけ書くと、かなりうさん臭いな。)ぼくが緒方さんと出会ったのは八〇年代。両親の実家がある水俣の隣り町、水俣市に次いで多くの患者がいる津奈木町を訪れていた。確か正月?(お盆だったかなぁ?不確かな記憶)チッソ水俣工場の前でたった一人で座り込んでいる彼の前を偶然、スクーターに乗って通りかかった。(このスクーター、その昔、水俣市の教育長をやっていたというおじのスクーターだった。)そこで、緒方さんの話を聞いた。組織や制度ばかりに頼る運動にずっと関わってきたぼくは最初に彼の話を聞いたとき、とっても混乱させられ、同時に、とてもひきつけられたのを覚えている。
 運動の世界を泳ぎまわることで、自分が存在する根拠にほとんど向かいあうことをしないで生きてきた自分がいた、というか今でもいる。緒方さんは「個」に帰ることの必要性を説くが、ぼくには帰るべき「個」が見つからない。そんなこと、考えてもこなかったのだ。
 アジアでの二年の旅を終えて、ぼくはスピリチュアリティという言葉をみやげにもらった。その正体はいまだにつかめなくて、説明がうまくできないのだが、とにかくスピリチュアリティがとても大切だということを頭ではない部分で思い知らされて、アジアから帰ってきた。緒方さんがいうところの帰るべき「個」の核に自分のスピリチュアリティがあるのではないかと、今思いついた。そこに目を向けようとしないで、バイパスしたまま社会にコミットしてきたし、それは可能だった。また、一方で社会へコミットすることを抜きにインナーワールドに閉じこもるのも間違っていると思う。その抜き差しならない関係をもう少し考えつづけようと思っている。[ta:案→ts:多分掲載しない]▲
 ■この部分は使う:  「障害者にされてしまった」障害者という問題
 水俣病運動には「こんな障害者にされてしまった」という感覚や思いが、いつもつきまとっているように感じる。露骨にこういう表現が出てくるわけではないが、「こんな身体にされてしまった」とか「この子は水俣病のせいで何にもわからんようになって」という表現はある。このことは、水俣病を原因としない障害者の友人・知り合いを多く持つぼくに複雑な感情を抱かせる。
 水俣病運動の世界では、障害のある身体の写真が告発のために多用される。ベトナムにおける枯葉材の運動もそうだ。そこからは、その障害を引き受けて、ポジティブに生きていくというイメージは絶対に生まれない。それは明確なマイナスイメージのシンボルとして多用される。確かに「されてしまった」というのは書いてきた通りだ。マイナスイメージを刻印された人たちが、障害のある存在として、その生を積極的に生きていくための言説が存在しなければならない。しかし、ぼくが知る限りでは存在しない。その言説の端緒を障害学に探すことができるのではないかと考えている。そして、この「証言 水俣病」の視点はそれにつながることが出来る広さと深さを持っていると思う。■
  ▼おわりに
 前述の緒方さんの証言の最後の部分を引用する。(ちなみに後書きによると、この本の証言は水俣・東京展での講演をもとに構成されたもの。緒方さんはこの文章の確認をお願いした編集者に「講演の瞬間が大事であり、真意は伝わっているが、文章化することで自分の手を離れている」ことを強調し、一切の補足訂正をしなかったという。)
 「和解とか救済とかいう言葉が安っぽく論じられまかり通っていく。いくつもの変換装置がつくられて仕組みの中に組み込まれ、あるいは自ら進んで入ってしまう。いろんなところでそういうことが起きていると思います。私は、それぞれがそういう時代の中から身を剥がしていくということを一つ学びました。私もいまだに救済を求めています。そう願わずにはいられません。それはしかし、今までいわれてきたような患者運動、組織運動の中ではなくて、命のつながる世界に生きるという意味で、それこそこの世にいる限り、そのことを求めつづけるんだろうと思います。ただ、国のほうを見てではなくて、不知火海を見て、ずっとそういうふうにありたいと思っています。」 (つるた[2000]『すくらむ』月刊、大田福祉工場労働組合発行]) 略▲

★ […]著書に『刑事訴訟法』(平野[1958])、『刑法概説』(平野[1977])他

★ スモン病
「スモン被害者として」古賀 照男
 「わたくしは、スモンに罹患し、裁判に関係し、先の泉さんの話にもあったように分裂等を経て、スモン運動に参加した。東大医学部、薬学関係者を含めて、キノホルム被害者を支援する会、が発足した当初からずっと行動し、各地の支援の人々とも連携をしながら行動を共にしてきた。
   ことごとく敗訴
 まず、厚生省で一週間の座り込みをしたとき、薬害エイズで被告になっているミドリ十字社長の松下廉三が、当時の薬務局長だった。一週間の座り込み貫徹をしたときに、彼から謝罪を勝ち取った。が、そのときにすでにサリドマイド事件があり、座り込みがあった後、サリドマイド事件は和解ということになった。当時、森永ヒ素ミルク事件、そして四大薬害とも言われるコラルジル、クロロキン、スモン、サリドマイド、この四つの被害者や支援者との連携の中で、直接行政、企業にぶつかる、公開性を求める、というやり方できた。わたしは、高裁に残り、敗訴した。最高裁判所でも敗訴した。東京地裁の法廷前にテントを張った。和解案が提示されていたが、最高裁判所の可部恒雄氏がスモン問題を全面解決すべく、東京地裁に下りてきた。最高裁の調査官でスモン解決のために東京地裁の裁判長として全国地裁(スモン裁判)をまとめたのである。そして、東京地裁は他の裁判の中心である、判決も東京地裁が先である、と表明していた。金沢地裁が先ほど泉さんが話したような、奇妙などうしようもない判決をなぜしたか。それは東京地裁への援護射撃の判決である。和解案を全面的に認めさせるための判決であると、わたしは認識し、金沢地裁の結審のときに金沢に行ったときに、金沢にスモン患者自身やそれを支える人々などの何の運動もないことを知り、これは負けると思った。
 司法の動きはこれだな、と思った。判決を勝ち取ることが今後の救済につながるのではないかと考えて、法廷前にテントを張った。翌日の昼に強制退去となった。その後、裁判長と話し合いをして、現状の原告の動向から考えて、判決を出せば筋が通る。国も製薬会社も被害者を補償せざるを得ない、と話しあった。そして判決が出た。これは和解案とかわらない。ただし、わたし自身は切り捨てられている。サリドマイド事件の後、一九六七年に指導要綱というものが出ている。これによると一〇月以降の罹患は国に責任があるが、わたしはその前の六月に罹患した。指導要綱前の罹患だから、国は関係ないと切り捨てられた。そして裁判は負けた。しかし、他の薬害や公害の運動に広く係わってきた。
   ウイルス説を展開する企業と研究者
 東京高裁においてのわたしの提訴に対する裁判内容はひどい。田辺製薬はウイルス説を全面展開する。元京都大学のウイルス研究所の助教授井上幸重氏とその助手で薬学出身の西部陽子氏がウイルス説を出していた。製薬会社はそれを基本にして何の立証もなく、論文だけで終始一貫ウイルス説を展開していた。裁判長がわたしに和解を勧めたので、田辺製薬がスモンと自社販売のエマホルムとの因果関係を認め、責任を認め、患者に謝罪する、ということを要求したわけです。ところが、原告は全国でわたし一人しか残っていない。司法は、そういう弱者(少数者)にはそっぽを向いている。結局、判決内容はわたしの原疾患をいっぱい並べたてて、あれはもう田辺製薬が書いたとしかいいようがない判決文だった。そうしてわたしは裁判に負けました。
   田辺製薬への抗議行動
 終始一貫やってきた実践運動の一つとして、今月二四日にも田辺製薬への抗議行動をします。医薬品事故対策室というのが厚生省にあります。そこから通達を出させた。スモンウイルス説を撤回せよ、エマホルムとスモンとの因果関係を認めよ、スモン患者に対し責任を認めよ、スモン患者に対し謝罪せよ、と電話で話し合いました。医薬品事故対策室に、田辺製薬に質させようとしましたが、回答はありませんでした。行政と企業の癒着がはっきりしました。医薬品対策室もわたしに対してスモンであることを認めています。関西水俣訴訟を支える会と共同して、田辺製薬に行き、回答を寄越せと抗議行動を一時間毎回やっています。もしここで参加できる方がいましたら、二四日朝八時から淀屋橋でビラ撒き、一〇時から田辺製薬の前で抗議行動をしますのでよろしく。
 コメント:抗議行動は以後も続けています。今年(一九九九年)も七月二八日に淀屋橋でビラ撒きをしました。」(古賀[1999:□]○)
▼略 著書に『素顔の医者――曲がり角の医療を考える』(中川[1993])、『医療の原点』(中川[1996])他 略▲
▼略 著書に『あなたの「老い」をだれがみる』(大熊[1986])、『ルポ 老人病棟』(大熊[1988→1992])他 略▲

 「サリドマイドの開発から訴訟まで
 サリドマイドは、ドイツ(西独)のグリュネンタール社が開発した催眠剤で、一九五七年一〇月一日、「コンテルガン」の商品名で市販された。後に妊娠初期の妊婦が服用することによって胎児に独特の奇形(フォコメリア等)が生じることがわかり、一九六一年一一月一五日にドイツ(当時西独)のW.レンツ博士がコン照るガンが原因と警告した。一九六一年一一月二六日、グリュネンタール社は回収を決定した。
 「一九六〇年九月に米国メレル社はFDA(アメリカ食品医薬品局)に販売許可を申請したが、M・ケルシーさんはデータが不備として認可を拒否した。
 「日本では、大日本製薬が独自の製法を開発し、一九五八年一月二〇日に「イソミン」の名称で販売を開始、一九五九年八月二二日には胃腸薬「プロバンM」に配合して市販した。
 東京の都立築地産院では一九五九年から一九六一年までに三例のフォコメリア児の出産が報告されるなど、全国で被害が生じたが、大日本製薬は当時西ドイツに研究員を派遣するなどして情報を入手していたにもかかわらずこれを無視し販売を続けた。また厚生省も一九六二年二月に亜細亜製薬のサリドマイド剤「パングル」を認可するなど、世界の大勢を全く無視し続けた。
 「一九六二年五月一七日に大日本製薬がイソミンとプロバンMの出荷停止を、二四日にはサリドマイド剤メーカー五社がそれぞれの製品の出荷停止を厚生省に申し入れた。その九月一三日にようやく大日本製薬などが販売停止・回収に踏み切った(しかしその後も回収されないサリドマイド剤が市中で販売されていた)。厚生省は翌一四日、サリドマイドの被害調査を東大・森山教授に依頼した。
 「被害者は、一九六二年年末までに広島・京都などでイソミンの販売と製造許可に対し法務局に人権侵害で訴えたが、翌五月一三日、法務省人権擁護局は「侵害の事実なし」と結論。一九六三年六月二八日に大日本製薬を被告として最初の損害賠償請求が名古屋地裁に提訴された。
 「一九七四年一〇月一三日、全国サリドマイド訴訟統一原告団と国及び大日本製薬との間で和解の確認書を調印、続いて二六日には東京地裁で和解が成立した。以後、一一月一二日までの間に、全国八地裁で順次和解が成立した。
(以上、宮本真左彦『サリドマイド禍の人々』巻末年表他を参照)
「サリドマイドの被害
(以下の資料は、(財)いしずえ発行資料から転載しました。)
 サリドマイド被害香は、サリドマイド製剤の睡眠薬や胃腸薬を服用した母親の胎内で、薬の影響を受け、四肢や耳に先天的な障害を受けて生まれました。
 「日本におけるサリドマイド被害者の出生年と男女別
生年 男 女 計
1959 6 6 12
1960 16 9 25
1961 34 24 58
1962 88 74 162
1963 24 23 47
1964 2 2 4
1969 1 0 1
計 171 138 309
 「サリドマイド製剤の販売は日本では一九六二年に停止されましたが、回収が徹底していなかったため、その後も被害者が生まれました。
 「日本におけるサリドマイド被害者の障害の種類と内訳
 サリドマイド製剤による障害は主に四肢の欠損症と耳の障害です。(()内は障害が重複する人数)
上肢が非常に不自由な人 30人(2人)
上肢が不自由な人 88人(6人)
前腕が不自由な人 72人(5人)
手指が不自由な人 56人(6人)
計  246人(19人)
耳が全く聞こえない人 46人(5人)
耳の聞こえが悪い人 36人(14人)
計 82人(19人)
 「サリドマイド事件の問題点
 サリドマイド事件では、諸外国に比べて日本の回収措置が約半年遅れており、増山によればサリドマイド被害児の約半数は回収措置が早ければ被害を受けなかった。回収の遅れが被害の拡大を招いたわけだが、製薬企業が製品の回収に至るまでには、次のような経過があった。
 「一九六一年一一月一八日 ハンブルク大学のW・レンツが小児科学会で「あざらし状奇形児(フォコメリア)」の原因がサリドマイド剤にあると発表、当時各地で誕生していた四肢奇形児とサリドマイド剤の関係が明確に指摘された。
 「レンツ氏、西ドイツの販売メーカーであるグリュネンタール社に警告したが拒否された。
一一月二六日、西独の「ヴェルト・アム・ゾンダーク」紙がグリュネンタール社のサリドマイド剤「コルテガン」を名指しで報道、同社は間もなく「コルテガン」を市場から回収し、ヨーロッパ各地のサリドマイド剤も次々に回収されていった。
一二月五日、グリュネンタール社の勧告が大日本製薬にとどき、翌日厚生省と大日本製薬がレンツ報告について協議、ところが「有用な薬品を回収すれば社会不安を起こす」として販売続行を決定。
 「一九六二年二月二一日、厚生省は亜細亜製薬のサリドマイド剤「パングル」に製造許可を付与。
二月二二日、「タイム」紙がサリドマイド被害の記事を掲載する。
三月および四月? 製造販売をやめない大日本製薬に対してグリュネンタール社が警告。
五月一八日、朝日新聞が西独についてのボン支局の報告を報道した。その後日本のジャーナリズムが一斉に動き出したため、「報道による混乱を防ぐため」として、サリドマイド剤を販売していた製薬各社が出荷停止を厚生省に申しいれた。既に出荷された在庫品はそのまま薬局で売られていた。
一九六二年九月一三日 製品が回収されたが、回収措置は十分でなく、その後も店頭で入手できた。(薬害資料館ネット版 http://www.mi-net.org/yakugai/index.html より)

★ 未熟児網膜症 高濃度の酸素投与によって生じたことで、全国で裁判になった。一九七四年、岐阜地裁で最初の患者勝訴判決。
 「未熟児網膜症は一九四二年にTerry によって初めて報告されました。この頃は、未熟児の管理に高濃度の酸素が用いられていましたが、一九五二年にはPatz が、過剰な酸素投与が未熟児網膜症の原因であると報告しました。この一九四三年から五三年の一〇年間に全世界で一万人(そのうち米国では七〇〇〇人)の未熟児網膜症による失明患者が発生しました。これを教訓として、一九五五年からは酸素投与は制限され、一九五六年にはAmerican Academy of Pediatrics が吸入酸素濃度を四〇%以下で投与する方針を出しました。このAAP の酸素投与量がスタンダードと見られたこの期間に、未熟児網膜症に関する非常に多くの医療過誤訴訟が起こされました。米国の未熟児網膜症に関する最初の訴訟は一九四九年で、以降、米国の裁判で問題となったのは、「酸素投与量や期間が過剰であった」というもので、四〇%以上の酸素を使用した症例は過失と判断され、ほかに「眼底検査が行われていなかった」「眼底検査の遅れのために冷凍凝固法による治癒の機会を逸した」というものが中心で、医師は一〇万ドルから一〇〇万ドルの高額の賠償金を支払わされました。
 一方、我が国ではTerryの報告から八年遅れて未熟児網膜症の第一例の報告がありました。我が国に閉鎖型保育器が普及したのは、酸素制限時代になってからです。米国のように未熟児網膜症の多発時代を経験しなかったために、この疾患への日本の医師の関心は薄かったものと思われます。
 一九七四年(昭和四九年)の岐阜地裁の、未熟児網膜症の最初の患者勝訴判決は、全国紙に大々的に報道され、医学界、法学界、社会に衝撃を与えました。
この裁判の争点は、全身管理から酸素投与量・期間・眼底検査と光凝固療法、さらに転医の遅滞という広範なものでしたが、争点であった酸素投与量に関する過失は否定されましたが、眼底検査にかかる過失が認められました。
 これが、未熟児網膜症最初の患者側勝訴の岐阜地裁判決の一九七四年三月二五日の報道です。
 この判決の報道を契機に、未熟児網膜症に関する医療過誤訴訟が全国各地で起こされました。ここに示す裁判以外にも、未熟児網膜症の子どもを守る会によりますと、昭和五四年の時点で一四七件の訴訟が報告されております。文字がグレーのものは患者側の訴えが認められたものであります。星印は集団訴訟であり、星印がうすいグレーのものはマンモス訴訟で、東京四三家族、京都一四家族、静岡四家族の集団訴訟でした。
 昭和四九年の判決報道を契機に、膨大な数の和文論文が出されました。また、直後に厚生省の研究班も組織され、多くの診療科にまたがる包括的研究が行われるようになりました。一九七〇年代の終わりからパルスオキシメーターが登場し、未熟児についても、酸素飽和度が継続的に、安全に測定可能になり、その結果、本症の発生率が減少しました。
 結論ですが、未熟児網膜症判決における医療側敗訴の報道は、同種の医療過誤訴訟の多発につながりました。
 一方医療界においても、医師が個別に経験していた低体重児の管理の難しさを顕在化させ、医学的知見の普及を従来に比べ加速させ、それが当該疾患の発生率の減少に寄与しました。」(鹿内[1999:11-13])
鹿内清三「医療過誤訴訟の報道が医療に与える影響に関する研究」第6回ヘルスリサーチフォーラム講演録:8-17、ファイザーヘルスリサーチ振興財団、1999

 「「だが電力は絶対必要なのだから」という大前提で、公害を冤罪しようとする。国民すべての文化生活を支える電力需要であるから、一部地域住民の多少の被害は忍んでもらわねばならぬという恐るべき論理が出てくる。本当はこういわねばならぬのに――誰かの健康を害してしか成り立たぬような文化生活であるのならば、その文化生活をこそ問い直さねばならぬと。じゃあチョンマゲ時代に帰れというのかと反論が出る。必ず出る短絡的反論である。[…]「いったい、物をそげえ造っちから、どげえすんのか」という素朴な疑問は、開発を拒否する風成で、志布志で、佐賀関で漁民や住民の発する声なのだ。反開発の健康な出発点であり、そしてこれを突きつめれば「暗闇の思想」にも行き着くはずなのだ。」(松下[1974→1985→1999:140-141])

◆松田
 「日本の一般の人が、死にぎわのすさまじい情景をみて、もっと静かに私事として(病院の行事としてでなく)死にたいと思うことが多くなると、それを一部の新聞がとりあげて「安楽死」や終末の医療について、かきたてるようになりました。一般の人が「安楽死」を考えるのも、そういう記事をもとにしてです。
 だが私は、そういう記事が不正確なのに腹をたてています。私たちが問題にしているのは年をとって、絶望的な状態になった時の延命です。その時の気持は年をとって弱ってきた人間でないとわかりません。ところが新聞に記事を書いている人は、大抵三十歳代の健康な人で、年をとった親の死病を介抱したことのない人です。
 医者に同調して延命至上主義の立場に立ちます。」(松田[1997:17])

★ 市野川 容孝(いちのかわ・やすたか) 一九六四年生れ、社会学。著書に、『身体/生命』(市野川[2000])、『社会』(市野川[2006])他

★ 「自分の体内に宿した胎児の染色体に異常があると告げられた親は、そうした世の中の固定観念の中で将来を思いえがくのだ。そこでは「障害児と共に歩む不幸な人生、周囲から迷惑がられ邪魔にされながら生きてゆく人生」といった悲しい未来像しか見えてこないだろう。そして目の前にいる医者は、たとえはっきり口に出しては言わなくとも、やはり同様の考え方を持ち、「このような不幸な子どもは生れてくるべきではない」と無言のうちに語りかけている。そのような状況にあって多くの親は結局胎児の生を絶つことを選ぶだろう。それはとりもなおさず「障害を持った胎児は殺せ」という、社会の要請にこたえていることになるのだが。
 親たちがそのような選択をする時、優生思想は貫徹されるのであり、胎児診断に当った医師たちも「社会にとってお荷物になる人間」が一人増えることを阻止できたという点において国手≠ニしての任務を全うしたことになるのだ。」(山田[1988:161-162]○)

 『水俣病にまなぶ旅――水俣病の前に水俣病はなかった』 原田 正純
 「水俣病については、すでに多くのすぐれた研究発表や著者や写真集などが公表されている。すでに、出すぎたという感じがしないでもない。口の悪い連中は”出版公害”などと冷かすこともあるほどだ。しかし[…]『苦海浄土』(石牟礼道子著)はその美しい筆致で水俣におこった地獄と失われゆく故郷〔ふるさと〕を描いた。人人が高度成長、所得倍増にうかれて、水俣の存在を過去のものとして忘れ去ろうとしていたとき、水俣を通してこの世のありようを鋭く問い直したものであった。同様な意味では写真家の桑原史成、東大工学部の宇井純の仕事も重要な役割を果たした。多くの人たちが、石牟礼さんらの文章を通じ、あるいは写真を通じて覚醒させられたのである。そして水俣病事件の歴史で、支援に立ちあがり、重要な役割を果たした人たちの中に、これらの名著、名写真の強い影響を受けた人たちがいた。
 まさに、これらは高度成長後のわが国の未来に対する一つの啓示であった。患者が立ちあがり、市民・学生が立ちあがり、学者・弁護士をまき込んで、第一次水俣病裁判ははじまった。その間、ユージン・スミスの写真集は、水俣の現実を世界中に拡げる大きな役割を果たしたのである。」(原田[1985:307-308])

 「石川[…]例えば、ある年齢ぐらいまでの子どもは大人だったら戻らない発語機能が戻るのは左側が壊れると右側が利用可能だからということはよく知られてきた。かつて医学はこのような器質的異常論からスタートしたわけです。ところがいつの間にかこれが機能的異常という言葉を生み出すようになると――これは脳死臓器移植まで行ってしまいますが――逆に機能の問題を脳の異常として追求し出し、本来の医学的な傷が見つけられなくても、脳の中の活用方法の異常という仮説を持ち出して、ついには病気を量産しようとしている。ここに今の精神医学の中で一番のトピックス[ママ]になっていっていると思うのです。
 だから「心の理論」は、因果関係が問題にならない。そこから出てきている理論の怖さは、最適理論です。脳は活用方法を一定の方向に決めたのですから、そこは個性で変えられない。しかし、個性的なありように負担を与え過ぎず、しかも個性を生かすためにどうやって最適の刺激を調節して与えるかが問題だという理論です。それはある意味では当たり前のことで、使い過ぎは疲れるし、使わなくては機能は低くなる、というようなことにすぎないのに、あたかも「自閉症」の子どもには最適があるように言い繕う。脳の動きにまで最適基準として特殊化されて導入されることになったら、これはもう薬づけの世界に突入するしかない。」(石川・高岡[2006:40-41])
 「石川 私も、医者の立場から親の育て方に対するアンチテーゼとして自閉症脳障害説を認めたというところでは、そこは半分そうだと思う。でも、それを医者が言ってはおしまいだとも思う。高岡さんがよく言われるうつ病の話と同じだと思います。「うつ」は日本では根性のせいとか、甘え、だらけというふうに批判的にみられてきた。それに関するアンチテーゼとして「うつ」は病気です、というのはいいように見えるけれども、気がついてみたらその結果アメリカでは女性の四分の一は「うつ」で一〇%位の人が薬を飲んでいるという話にまでなってしまった。
 そこまでいったときに、専門家が病気だと宣伝していく裏に進行する社会的無意識の動向みたいなものを相当注意していないとヤバイと感じる。「自閉症」もどんどんインフレのようにふえていく。スペクトラムという言葉自体がどういう広がりと可能性を誰にでも導いていきかねない。しかし誰にでも可能性があるなら特別視を止めてチャラにすればいいじゃない、という社会の方向はなかなか生まれない。」(石川・高岡[2006:42])
 「石川 […]ライフサイズで考えてみると、セルフエスティームが滅茶苦茶になってしまって打ち砕かれた子が沢山いるのは事実です。しかし、彼らはそこからしかスタートできないし、それが大切な力になのではないかと私はいつも思っています。大人は子どもの自信を奪ってしまってはいけない。つまり自分より弱い者を圧迫してはいけない。しかしそれはエスティームによるのではなく、リスペクトによって回復されるのです。人間はどんな子どもであろうが赤ちゃんであろうが大事な人間としてリスペクトされることで、外部が失わせた評価によって生まれる無理を克服していくのだと思う。
 それなら一遍打ち壊れされてもお互いにリスペクトし合う関係を構築すればいいと思うのです。AD/HDの子どもで一度しんどくなったけど、青年期以後徐々に変わっていった子どもを沢山見ています。それがセルフエスティーム論に対する問題提起です。」(石川・高岡[2006:56-57])
 「石川 私もリタリンの使用はゼロではないです。ただその殆どは既に余所の病院やクリニックで使用が始まっていた例です。この薬剤は子どもに依存が起こらないというのは嘘で、親に「覚せい剤を子どもに飲ませているのと同じです」ときつい言い方をすると、「いや、子どもの方がこの薬は納得して喜んで飲むのです」と言う。納得して喜んで飲むというのは、既に覚せい剤依存の始まりなのですね。つまり、イヤだなと言いつつ飲むのが薬で、納得して喜んで飲むというのは凄く危険な話です。
 薬を私が使わない理由は、先ほど高岡さんが言われたAD/HDの診断のところでの、病状が二つ以上の場面であるという点とからみます(ママ)。場とは子どもにとっては大体学校か非学校的な家庭かです。私がリタリンを使う理由は限られています。家庭で困るなら使うのです。例えば旅行。最近は減りましたが夜汽車で行くというときに心配ですね。汽車から飛び出して迷子になったりしたらとか、親も気が気じゃないことがある。そんな時にリタリンを飲んで安心してみんなで楽しく旅行できるくらいならそう悪いことじゃないと思っています。
 つまり多動行動が病的で本当に困るというのは、診断基準にあるように多様な場所で困ることです。そういう場合使用もしょうがないと思います。日本で多いのは、隣の家との住居環境が悪いので薄い壁一枚で隣の家から怒鳴り込まれるといったこと。それでは一家の生活が成り立たない。そうなると親は、子どもはやはり静かにしてくれ、というふうになってしまうことは現実に少なくないですし致し方ないと思います。ですけど、リタリンを飲んでいる子どもの九〇数%までは家では飲まないのです。学校での限定的使用という綺麗な言葉で正当化されますが、私にはそこにもの凄い嘘っぽさを感じます。
 高岡 夏休みは飲まないとか。
 石川 そうです。つまり学校や社会のために飲まされているのです。」(石川・高岡[2006:71])
 「石川 偶然の要素というものを誰がつくるかという問題ですね。治療がよかったという言い方を私は信じません。治療的根拠がないから信じないというだけでなく、治療者もそういう偶然の要素を呼び込み得るような存在であることもあり得るという非可視的な事実をどう評価するかだと思います。私はその根拠というのは比較的簡単ではないかと思います。虐待の連鎖のなかで先祖まで遡っていくと、西洋の世界ではアダムとイブまで行くわけですね。[…]
 […]誰もが永遠に苦労を背負って生きなければいけないと楽園から追い出されるわけです。しかし神はアダムとイブを消滅させなかったというストーリーこそ、メソポタミアの創造神話です。そのアダムとイブの子ども同士に虐待とも言える差別を与えて兄貴殺しを神がさせるわけです。兄を殺した弟はあらゆる人間から人殺しだと責め立てられる可能性を予測し、自分は生きていく自信がないと嘆く。しかしそのとき、神は弟に向かって、そうはさせない、お前に手を加えたら手を加えた者に何十倍もの責めが帰るのだ、と勇気づける。私は、ここは凄くおもしろいところでと思います。
 小さいころ虐待を受けた人。凄まじい思いを生きて、「うつ」になったり、PTSDになったり、人格障害と診断されたり、命を絶とうとしたり、そんな若い人との付き合いは、いつもこの神話に帰着します。自分が人間として生きていくときに、その人が最終的に求めているものは「自信」よりもっと根底的な、「生きることとの和解」です。自らに襲いかかってくるものに対してなお自分でいつづけられるような「ゆとり」の回復ですね。そうしたものを生み出すのは診療室の治療というより、社会的な「和解」のストーリーの実現だと思います。原因を親に遡るなら、人類の最初の先祖まで遡って考えて生きていくしかない。そのために一番いやな人間と生きていくことを支え合うしかないし、どんなことをしても死んではいけないし、殺してはいけない。そうした和解が恨みや憎しみの中から親子や家族の間で生まれてきたときに、何となく楽になってくるというのが三〇年ぐらい付き合ってきた人から読み取れるストーリーなのです。」(石川・高岡[2006:82-83])
 「石川[…]リストカッティングを、必ずしも新しい現象だと思っていない。遡れば日本社会では指を詰めたりしたわけですね。あれはヤクザの世界、義理人情の世界の特殊事情ということになるけれども、私は、自罰性というのはそもそも修行者の世界に端を発する普遍的行動だと思う。断食の行にしても――摂食障害とも通底するかもしれませんが――食を断つという形で自らの身体を傷めるわけですね。リストカットする子も、ある意味では身体を傷めリセットするわけです。世界的にも宗教行事に伴って、さまざまな身体罰を伴った自虐性、自罰性というのは一つの意味がある行為とされている。私は、その自罰性の意味合いが変化したところにリストカットを見ているところがあるのですね。これは、宗教性の変化と言ってもいいのです。摂食障害の子どもと初めて出会った時に、私は食べないっていうことにもの凄い聖なるものすら感じました。自分のしている行為を確実に何らかの形で認識できる絶対性の中で確認するというのは、悟り以前の修行の特徴です。体重計は自らが食べないということで自分を罰するという行為を確実に測定して評価してくれる。しかしそれ以外の世の中の評価というのは、努力しようがしまいが、その努力をきちんとした形で想定して正しい評価を返してこないわけです。
 つい最近まで宗教性というのは、世俗的価値に対する対極的な意味として主観的絶対的価値を的確に反映していく方法として存在した。自傷というのは、世俗性に対決する明確な宗教性がなくなったために起ってきた。リストカットする子を見ていると、見せたくないリストカットと、誰かに見てほしい、家族に見てほしいリストカットと、家族には見せないかわりに友たちだけには見てほしいリストカットなどがあります。それぞれのメッセージ性は宗教的なレベルで全然違うのではないかと思います。」(石川・高岡[2006:104-105])
 「石川 […] 私はすべての患者さんにそのように対処できるとは思いませんが、ある医者のところで滅茶苦茶な投薬量の薬を飲んでいた人たちが、一剤か二剤まで投薬量を減少すると調子がよくなることがほとんどです。なぜかと言いますと、確かに病気だったかもしれないし、薬剤の力を借りなければ乗り越えられないこともあったかもしれませんが、薬剤は対症療法です。歯を抜く時に傷み止めが要るように、薬を使わなくても歯は抜けるのです。しんどいところも抱えつつ、そこを乗り切っていく姿に人間は凄いなと感動したりしながら治療関係をつくっていく時と、大量投薬の時とでは全然違った症状になるわけです。特にそうしたことを強く感じるのは、今流行りのボーダーラインという診断名をつけられて薬が出されている場合です。ボーダーラインという診断名をつけたら、薬を使ってはいけないと思う位です。私は、ボーダーラインの場合、単一の症状に限局して薬を使うことはあるけれども、それ以外はしんどいけれども耐えていけるなら耐えていこうという形で投薬を抑制すべきだと思います。」(石川・高岡[2006:115])

★ 遷延性脳障害=遷延性意識障害
 「「全国遷延性意識障害者・家族の会」が一一月六日、結成一年の総会を大阪で開く。
 長い間、全国組織がなかった。二四時間態勢で続く介護に追われ、家族の社会活動に大きな制約があった。病院から見放され「医療と福祉の谷間」にいた人々であり、全国規模の実態調査さえなかった。
 呼び掛けても反応がなく微動も自発呼吸もできない人を含む最重度の障害。会は「植物状態」という言葉に大きな抵抗感があるとし、遷延性意識障害と呼ぶよう求めている。
 この家族の抵抗感には、深い怒りが込められているように思う。
 厚生労働省のある検討会であたかも「終末期」のように扱われている人たちでもあり、医療保険や障害者福祉制度にきちんと位置づけられていない。いくつかの「安楽死・尊厳死」事件では長く意識障害の人が亡くなった。救急救命段階で、医師から「手術をすれば助かるが、ご家族が大変ですよ」と言われた家族もいる。「尊厳ある生なのに、無駄な生と軽視されてきた」とある母はいう。
 遷延性意識障害は▽自力移動ができない▽眼はかろうじて物を追うこともあるが認識できない▽意味ある発語ができない−などの状態が三カ月以上長期化した障害をいう。
 目の輝きのわずかな変化から家族は患者の感情を読み取り、きずなを感じ取る。音楽や味覚の刺激、根気強い声掛け、リハビリを通じて、一〇年を越すような意識障害から回復した例がいくつもある。
 交通事故で頭部外傷を負い、また医療過誤や犯罪被害者など原因は多様だ。脳卒中などの病気でも生じる。人生の中途でだれにでも起こりうる。患者は全国一万五〇〇〇人以上と推計される。
 三カ月ほどで病院から「治療は終わった」と退院を迫られ、病院を転々とする。まだ医療で改善する余地があるのに、在宅介護を余儀なくされる。数時間おきのたん吸引は「医療行為」とされ、ヘルパーには認められていなかった。夜に何度も家族が起きざるを得ず「ヘルパーさんが来ている間に、せめて仮眠がしたい」との願いは切実だ。
   法の趣旨から転倒
 たんの吸引やチューブによる栄養補給、人工呼吸器の管理など「医療行為」の壁により、福祉施設が受け入れを断る。素人である家族が学んだ介護技術やリハビリによって、在宅介護が支えられている現状は危うく、法の趣旨から転倒している。
 遷延性意識障害者の会の代表桑山雄次さん。次男の敦至さん(18)の事故から一〇年。敦至さんは小学二年の時、車にはねられ頭部に重傷を負った。重度の意識障害で、何度も生死を乗り越えた。
 最近ほほ笑んでくれないとこぼす桑山さんに、眠る敦至さんの横から妻の晶子さんが「お父さんが家にいない時は、わたしによく笑うよ」と返す。「ヨーグルトの食べっぷりはすごい。味の好みははっきりしているんです」。表情は豊かになった。次は手を握り返してほしい。口から食事できるまでのリハビリの道も試行錯誤を繰り返し、ゆっくりゆっくりだけど、敦至さんの歩みは家族の大切な存在であり、希望だ。
 結成から一年、家族会の要望を受けて本年度から全国で実態調査が始まり、ヘルパーのたん吸引も容認された。だが実現する仕組みがない。「容認されただけで、実質はなんら変わっていない」と会は訴える。」(京都新聞社会報道部・岡本晃明[20051104])

★ 神田橋 著書に『精神療法面接のコツ』神田橋[1990]他

★ 高岡 健(たかおか・けん) 一九五三年生れ、精神科医。著書に『人格障害論の虚像―-ラベルを貼ること剥がすこと』(高岡[2003])、『自閉症論の原点―-定型発達者との分断線を超える』(高岡[2007])他

★ 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』(安積・尾中・岡原・立岩[1990○→増補改訂版1995]○) 

★ 岡原 正幸(おかはら・まさゆき) 一九五七年生れ、社会学。著書に〕『ホモ・アフェクトス―感情社会学的に自己表現する』(岡原[1998])、『感情の社会学―エモーション・コンシャスな時代』(岡原[1997])他

★ 小松 秀樹(こまつ・ひでき) 一九四九年生れ、泌尿器科医。著書に『医療崩壊――「立ち去り型サボタージュ」とは何か』(小松[2006])、『医療の限界』(小松[2007])他

★ このことについては立岩[2004:○]にも記述がある。

★ 武見 太郎(たけみ・たろう) 一九〇四年〜一九八三年、医師。一九五七年から連続一三選日本医師会会長、一九七五年世界医師会会長。著書に『寸鉄医言』(武見[1972])、『医心伝真』(武見[1976])他、評伝に『誰も書かなかった日本医師会』(水野[2003]○)他

★ 横塚

★ 武見 太郎(たけみ・たろう) 一九〇四年〜一九八三年、医師。一九五七年から連続一三選日本医師会会長、一九七五年世界医師会会長。評伝に水野[2003]『誰も書かなかった日本医師会』○、
 「武見太郎は昭和十四年(一九三九年)以来、死ぬまで銀座で診療所を開設していたが、健康保険は終生扱わなかった。全額自費診療だった。かつての武見診療所には、入口に「次の人はすぐ診察します」と書いてあった。
  一、特に苦しい方
  一、現職国務大臣
  一、八〇歳以上の高齢な方
  一、戦時職務にある軍人
 おそらく戦時中に書いたものを、そのままにしていたのだろう。よく話に出るのは、それで武見の診察料はいくらだったかという話である。武見の患者は偉い人が多く、高額の金を払っていたにちがいない。料金表はない。いくらでも置いていってくださいという姿勢である。政治家で武見の患者だったある人に、「いくら払うんですか」とズバリ聞いたら、「いくらでもいいと言われると、少額というわけにはいかない。ちょっと診てもらったら一〇万円ですよ」と言っていた。昭和五十年代の終わりごろの話である。」(水野[2003:51‐52])
 「武見自身が終生描いていた医師像は「名誉ある自由人」といわれるもので、「自分の努力によって研鑽を一生続け、他から指揮を受けず、自己のおもむく方向に行く」というものである。武見の時代のドクターは、教育の中でこういうことを植えつけられた人が多い。」(水野[2003:96]○)
 「岡本 日本に医療問題を論ずる人はたくさんいる。しかし、武見さんがテレビなどで相手にするのは、水野肇さん一人。医療経済の学者もたくさんいるが、そのなかで武見さんのレクチャーの相手をつとめるのは一橋大学教授の江見康一さんだけだ。この二人なら、武見さんの急所をつくような発言はしないからです。これは非常に露骨なんですよ。しかし、テレビをみている人はそんなことは知らない。この二人がいちばん立派な医事評論家であり、医療経済学者であると思っている。」(岡本・高橋・毛利・大熊[1973:182]○)


UP:20080901 REV:
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