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『流儀』の註の草稿

稲場 雅紀・山田 真・立岩 真也 2008/11  『流儀』 ,生活書院


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■山田真へのインタビューの部分の注

 *以下、本に掲載されているものと異なります→本の方よろしく。
  □リンク数:→138→149→179/116.6(0916)→190(1023)
  □〔〕34(1023)→48(20120101)→52(0421)→(20130504)→58(20130927)
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  □横田対談?
  □いちおうチェック ○:64(1211)→

 ■この部分の文献表
 ■山田インタビューの部分の注の余り
 ●49

★01○本田勝紀(ほんだ・かつのり)○一九四一年生まれ、内科医。本田と山田の二人は、一九六七年、卒業式前日に無期停学処分を受けている(山田[2005:85-89])。東大PRC(患者の権利検討会)で活動。多くの文章を雑誌『技術と人間』〔一九七二年創刊、当初はアグネ社から刊行、高橋昇が社長となって株式会社技術と人間を設立、二〇〇五年八・九月号をもって廃刊。当方のHPに創刊から一九九二年までの特集名を掲載。cf.http://arita.com/ar3/?p=788〕に書いている。『技術と人間』の特集が単行書化されたものとして東大PRC企画委員会編[1986]『脳死――脳死とは何か?何が問題か?』、[1988]『エイズと人権』がある。他に本田の共著書として本田・弘中[1990]『検証医療事故――医師と弁護士が追跡する』がある。(こうして以下に出てくる一人ひとりの著作をあげていくとそれだけで本ができてしまう。山田には四〇冊を超える著作があるのだという。それらの紹介はまたの機会にしよう〔→HP内の「山田真」〕。)
★02 脳死=A安楽死、終末期医療を考える公開シンポジウム、二〇〇七年十月七日 於:東京・南青山。その記録が出ている。可能であればHPに掲載する。〔立岩の報告(要旨)は「同じ問題であることについて」
★03○横田弘(よこた・ひろし) 一九三三年生まれ、詩人、脳性マヒ者。七〇年代から八〇年代にかけて五冊の本がある(HPで紹介)。今購入できる対談集に『否定される命からの問い』(横田[2004])があり、立岩との対談も収録されている。横田弘・立岩真也[2003]「二〇〇三年七月二八日の対談」は収録された対談の一つ前に行われたもの〔近く公刊する予定がある。●〕。立岩が、横田さんの過去を聞き出すことだけに熱心だったので本には収録されず、もう一度対談が行なわれことになり、それが収録された。この書籍未収録の第一回の対談で、七〇年代について横田は次のように語っている。
○「七〇年のあの当時で、あの時でなかったならば『青い芝』の運動は、こんなに社会の皆から受け入れられなかったと思います。七〇年の学生さんの社会を変えていこうよと、社会を変えなければ僕たちは生きていけないと考えた、あの大きな流れがあったから、僕たちの言うことも社会の人たちが、ある程度受け入れようという気持ちがあったわけですよ。」(横田・立岩[2003])
★04 それをどのように捉えるのか、使うかについては立岩[1997:10-11,21]等。米国における生命倫理学の登場とその意味について、立岩[2009]〔●〕で何冊か本をあげて、述べている。
★05○立岩[2007]「障害の位置――その歴史のために」より。〔●〕
○「その人たちや組織・運動に関わって研究者、というより、その他の人たちがいた。とくに学会といった組織にかかわらないところで、様々なきっかけから、実際に関わりながら、ものを書いてきた人たちがいる。知った上で言うのではないが、こうした人々も他の国々よりむしろ多いのかもしれない。
○関わった人は、研究者という肩書きであっても、なにか文章を書くことが、さらに研究をすることを主な仕事と考えていたわけでもなかった。小学校の教諭、会社員、労働組合の職員、地方公共団体職員、著作業、その他の人たちがいて、大学の教員はその一部だった。そしてその人たちにしても、大学にそうした「研究」の足場をもっているわけでもなかった。大学の教員をしていてものも書いた人たちとしては、山下恒男石毛えい子篠原睦治といった人たちがいた。最首悟も長く大学に居座ってはいた。医師では山田真石川憲彦がいたし、毛利子来も関わることがあった。特殊学級の教諭を長く勤めてきた北村小夜がいた。古川清治は出版社に勤務していた、など。
○それと違う集まり・動きも以前からあった。社会福祉の従事者や特殊教育領域の教員と、大学等でその養成にもたずさわっている人たちのつながりである。日本共産党といった政党のつながりで、学者たちと、障害をもつ本人たち、というよりは学校の教員や福祉施設の職員などとの関係はあり、そうした人たちの全国規模の組織として「全国障害者問題研究会(全障研)」があった。ただその集団とここに記している人たちは仲がわるかった。むしろその集団とその思想を批判することにずいぶんな労力が割かれたことがあった。それは「左翼」内部の対立を引き継ぐものでもあった。大学における学生運動に政党と政党嫌いとが関係していた時期、養護学校・学級でなく普通学校・学級に一人の子が行こうとするその運動を支援する運動が、大学の自治会の運動の大きな課題とされたりしたことはこうした事情にも関係している。一方の主張は、「全面発達」を言い、伸ばせるものは伸ばそう、そのためにはそれに適した教育環境があってよいとして特殊教育を肯定するのだが、他方は、それを隔離であるとし、できようとできまいとみながいっしょにいる場がよいのだ、その場が必要なのだと言うのである。その争いは消耗な争いでもあったのだが、同時に、主張・思想を――そのよしあしはさしあたり別として――「純化」していくことを促すものでもあった。後者の側は、「できなくてよい」と言い切ろうとするのである(その論点の一部について考えたものとして立岩[2001b][2002])。
○これらの人たちの中に学問として哲学・倫理学を専攻する人はあまり見当たらない。さらに、なにかの領域の学問の専門家として語るというのでもない。考えることも大切だと思った人もいるし、思いながらも、その人たちのある部分は支援者というより運動の前面にいなければならない人たちでもあったから、次から次に起こるできごとに対応するだけで時が経っていくという人もいる。ただ、このことは、そこで主張されたり疑問に付されたことが「学問」的な検討・考察の対象にならないということを意味しない。」(立岩[2007a:120-122])
 山田は「障害児を普通学校へ全国連絡会」に、その発足から関わっていて、現在も世話人を務めている。その活動に関わる本、冊子もたくさんある。いま役に立つ冊子はHPなどから注文すれば入手できる。また雑誌では『季刊福祉労働』が必ず毎年一号、学校・教育に関する特集を組んできた。これらをまとめて、その活動を記録しておくとよいのだが、やはり、なされていない。〔機関紙のコピーを入手した●〕
○どうして「学問」にならなかったのか。いろいろな答があるが、一つの答えは――このインタビューが示すことでもあるのだが――問題が「体制」の問題として捉えられたことである。そしてそれは、基本的には、よいことであると私(立岩)は考えている。
 〔その多くは●〕
★06 毛利子来(もうり・たねき) 一九二九年生まれ、小児科医。〔岡山医科大学(現・岡山大学医学部)卒〕。東京・原宿で開業――このことを山田に聞くと、かつて原宿の毛利の医院のあった辺りは今のようでなく、開業したころはスラムのようなところであったのだという。HP『たぬき先生のお部屋』http://www.tanuki.gr.jp/。「学術的」な、そして毛利の最初の著作に『現代日本小児保健史』(毛利[1972])があって、山田によると、毛利の著作で最もきちんとした本だという。アマゾンのマーケットプレース(中古品市場)を見ると、四万円を超える値がついている――その後、学者たちが書いた研究書があまりないということでもある〔●いくらか安くなっている。購入して、私たちの書庫に収蔵してある。〕すぐれた育児本として毛利[1987]『ひとりひとりのお産と育児の本』、新版が毛利[1990]、三訂版[1997]。毎日出版文化賞を受賞している。現在は品切れ、再販未定ということになっている。その事情はよくわからない。『育育児典』がその後継ということなのかもしれない。共著書に毛利子来・山田真・野辺明子編[1995]『障害をもつ子のいる暮らし』等。その他、著書非常に多数。毛利もまた(そして後で出てくる石川憲彦もまた)「障害児を普通学校へ全国連絡会」の活動に関わってきた。例えば『季刊福祉労働』掲載の二五年前の文章に[1983]「情報と運動を交流し、支え合うために――「障害児を普通学校へ・全国連絡会」の歩み」。このような文章がウェブで読めたらよいと思う。協力者を常時募集している。
★07 中井久夫(なかい・ひさお) 一九三四年生まれ、精神科医。[1982]『分裂病と人類』他、著書多数。最近の著作に[2007]『こんなとき私はどうしてきたか』。中井はなにか「政治的な活動」をした人ではない。ただ山田によれば、中井が書いたと思われる医療・教育体制についての文章を、山田は学生時代に読んだことがあるのだそうで、それは優れた文章であったという。詳しいことを聞ければまた別の機会に聞いてみたい。〔一九六三年に書かれたその「幻」のパンフレットを採録した本が2010年に刊行された(中井『日本の医者』[2010]○)。●〕
★08 小澤勲(おざわ・いさお) 一九三八年生まれ〔●〕、精神科医。「反精神医学」――と括られたりする――運動の時代の著書・編書として、[1974]『反精神医学への道標』、小澤編[1975]『呪縛と陥穽――精神科医の現認報告』。自閉症について――「幻の大著がその全貌を現す!本書の存在を抜きにして自閉症は語れない。」と、再刊された――[1984→2007]『自閉症とは何か』。さらにその後十数年が経って、[1998]『痴呆老人からみた世界――老年期痴呆の精神病理』、そして新書として[2003]『痴呆を生きるということ』が出され、広く読まれた。この本によって多くの人が小澤を知ることになった。その後、共著も含め何冊か。新書では[2005]『認知症とは何か』
 そして小澤編[2006]『ケアってなんだろう』。医学書院の編集者による宣伝の一部。「自閉症研究の先駆者、反精神医学の旗手、認知症を文学にした男……そんなさまざまな顔をもつ小澤氏に、”ケアの境界”にいる専門家、作家、若手研究者らが、「ケアってなんだ?」と迫り聴きます。/第T部は、田口ランディ(作家)、向谷地生良(べてるの家)、滝川一廣(精神科医)、瀬戸内寂聴(作家)という多様なバックグラウンドをもつ各氏との対談。第U部は、西川勝(看護/臨床哲学)、出口泰靖(社会学)、天田城介(社会学)という気鋭の学者三氏による踏み込んだインタビュー+熱烈な小澤論。さらに、小澤氏自身による講演録と、書き下ろしケア論も付いています。」  〔●〕
★09 最首悟(さいしゅ・さとる) 一九三六年福島県に生まれ、千葉県に育つ。東京大学理学部動物学科博士課程中退後、一九六七年同大学教養学部助手になる。一九九四年退職。恵泉女子大学を経て、二00三年より和光大学人間関係学部人間関係学科教授。現在、和光大学名誉教授、予備校講師。この間、一九六八年東京大学全学共闘会議助手共闘に参加。一九七七年第一次不知火海総合学術調査団に参加、一九八一年より第二次調査団団長。著書に[1984]『生あるものは皆この海に染まり』、[1988]『明日もまた今日のごとく』『星子が居る――言葉なく語りかける重複障害者の娘との20年』(最首[1998])他。編書に最首・丹波編[2007]『水俣五〇年――ひろがる「水俣」の思い』。より詳しくは丹波[2008-]「最首悟」(以前からあった資料を丹波が増補している)。
 『情況』という回顧的な(だけではないが)雑誌の二〇〇八年八月号の特集が「人間的環境と環境的人間」で(もう一つの特集は「新左翼とは何だったのか」)で、最首の特集号のようになっている。(最首自身は、前者の特集で鼎談を一つ、後者の特集で――前の号から連続対談を始めたということでその第二回ということなのだが――対談を一つ。)この号に、以前書いた文章を集めただけの立岩[2008]「再掲・引用――最首悟とその時代から貰えるものを貰う」。〔 ●〕
★10 宇井純(うい・じゅん) 一九三二年〜二〇〇六年、東京大学助手。その後沖縄大学。著書多数。〔●〕
★11 宇井編[1971]『公害原論』(全3巻)の合本版とその新装版が出ている(宇井[1988][2006])。また、宇井編[1991]『公害自主講座15年』が改題され『自主講座「公害原論」の15年』として再刊されている。以下「自主講座公害原論 開講のことば」の全文。〔●について〕
○「公害の被害者と語るときしばしば問われるものは、現在の科学技術に対する不信であり、憎悪である。衛生工学の研究者としてこの問いを受けるたびに、われわれが学んで来た科学技術が、企業の側からは生産と利潤のためのものであり、学生にとっては立身出世のためのものにすぎないことを痛感した。その結果として、自然を利益のために分断・利用する技術から必然的に公害が出て来た場合、われわれが用意できるものは同じように自然の分断・利用の一種でしかない対策技術しかなかった。しかもその適用は、公害という複雑な社会現象に対して、常に事後の対策としてしかなかった。それだけではない。個々の公害において、大学および大学卒業生はもとんど常に公害の激化を助ける側にまわった。その典型が東京大学である。かつて公害の原因と責任の究明に東京大学が何等かの寄与をなした例といえば足利鉱毒事件をのぞいて皆無であった。
○建物と費用を国家から与えられ、国家有用の人材を教育すべく設立された国立大学が、国家を支える民衆を抑圧・差別する道具となって来た典型が東京大学であるとすれば、その対極には、抵抗の拠点としてひそかにたえず建設されたワルシャワ大学がある。そこでは学ぶことは命がけの行為であり、何等特権をもたらすものではなかった。
○立身出世のためには役立たない学問、そして生きるために必要な学問の一つとして、公害原論が存在する。この学問を潜在的被害者であるわれわれが共有する一つの方法として、たまたま空いている教室を利用し、公開自主講座を開くこととした。この講座は、教師と学生の間に本質的な区別はない。修了による特権もない。あるものは、自由な相互批判と、学問の原型への模索のみである。この目標のもとに、多数の参加を呼びかける。」(週刊講義録『公害原論』創刊号(1970/10/12)→宇井編[1971→1998:2])
★12○『ちいさい・おおきい・よわい・つよい』。ジャパンマシニスト社発行の隔月刊育児誌。「こどものからだ・こころ・いのちを考えるはじめての健康BOOK」を謳い、編集委員に毛利子来、山田真、石川憲彦他、略称『ち・お』。姉妹誌に『おそい・はやい・ひくい・たかい』、略称『お・は』がある。〔●立岩〕
★13○発刊十年を記念して出されたからなる臨時増刊号、chio編集委員+読者〈延一五〇万人代表〉編集委員編[2004a][2004b]『子育て未来視点(さきのみとおし)BOOK』の下に立岩真也・山田真[2004]は収録された。  「日々の暮らしに追われていたら 子どもにつきない悩みをもったら 家族や友人に過ぎた期待をかけていたら その視線を少し遠くに向けてみる。それからぐるりとひと回り。大きな世界に目をうつす。目先のこと、身近なことにとらわれて息苦しくなったとき、この本は役に立つでしょう。本の中身に、ウソやごまかしはありません。そのため、いつにもまして濃密濃厚。免疫力、消化力の弱った人には毒にもなります。上・下巻各96ページ。少しずつ、ゆっくり、じっくり、読んでください。創刊10年。いわゆる組織もなく、広告スポンサーもなく見知らぬ読者たちに支えられてきました。記念号の本誌は、その読者の中から名乗りをあげてくださった19名の女性たちとともに作りました。」(『ちいさい・おおきい・よわい・つよい』編集部「『子育て未来視点(さきのみとおし)BOOK』上・下巻刊行に際して」)
★14○「これからは「天下国家」が、いまとはことなったように、論じられる、そういう時代だ、と言うことにしよう。
○[…]いま漠然と、しかしはっきりと感じられていることは、近代社会の構制の本体、内部の方に向かっていくこと、そしてそれをどうしようか、直截に考えていくという、社会科学の本道を行くしかないのではないかということだと思う。」(立岩「たぶんこれからおもしろくなる」、初出は『創文』二〇〇一年十一月号、[2006]『希望について』に収録→立岩[2006:17-19])
★15○生田明子(いくた・あきこ)。立命館大学大学院先端総合学術研究科。予防接種についての研究――作成している資料として生田[2007-]「予防接種」――のために山田に聞き取りを行なうことになり、山田真の著作などのリスト生田[2007-]「山田真」を作成。〔●〕
★16 正しくは鷲田が四九年生、上野が四八年生。ともに京都大学卒業。全共闘運動時代の上野のことを鷲田からすこし、(立岩は)聞いたことがある。〔●〕
★17○「「医学連」は「全国医学生連合」の略称で、それは全国の医学部学生の闘う組織≠ナした。組織の中心には「ブント」という新左翼の党派の人たちもいて、彼らが東大闘争についての実質的な指導をしていたのでしょう。
○「ぼくは「なんとしても革命を起こさなくては」とい<0163<うところまではまじめに考えず、「世の中の理不尽さがいくらかでも正されれば」程度の思いで活動していましたから、「党派の連中にはついていけない」というふうに思っていました。しかし[…]」(山田[2005:126])
 「全日本医学生連合」が正しい名称であるようだ。六〇年代前半からインターン問題他で闘争。青医連中央書記局編[1969]『青医連運動』に記録が収録されているが、もちろん絶版。山本崇記[2005-]「大学/学生運動」http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/d/studentpower.htmに目次他が紹介されている。なお「医学生自治会連絡会議」を通じ一九八四年に結成されたという「全日本医学生自治会連合」(医学連)は別系統の別組織。〔●石井〕
★18 竹内 芳郎(たけうち・よしろう) 一九二四年生。哲学者。著書多数。一九八九年から私塾「討論塾」を主宰。山田が大学四年生の頃の著作として[1965]『サルトルとマルクス主義』
★19 西村豁通(にしむら・ひろみち) 一九二四年生れ、社会政策学。この頃の共編著に『日本の医療問題』(額田・西村[1965])。医学連(前出)の一九六三年第九回ゼミナール総会では「国家独占資本主義の社会政策」という講演を行っており、その記録が青医連中央書記局編[1969]に収録されている。一九九〇年代に発表されたものも含め数多くの著書・編書がある。
★20 森永砒素ミルク中毒 この事件はいったん一九五六年に終結させられることになるが、一九六九年、丸山博(大阪大学医学部)の日本公衆衛生学会での報告を期に、運動が再開される。丸山の著作集が出ている(丸山[1989a][1989b][1990])。このうちこの事件に関する文章が収録されているのは第三巻『食生活の基本を問う』。この事件について何点かの書籍があるが、みな絶版になっている。森永砒素ミルク中毒事件文書資料館がある。(〒七〇〇-〇八一一 岡山市番町一-一〇-三〇пZ八六−二二四=0737)
○〔東日本大震災・原発事故の後、講演をもとにした山田の『小児科医が診た放射能と子どもたち』では次のように記されている。
○「森永のヒ素ミルク中毒の場合は、事件が起こってから一年後に、被害を受けたあかちゃんの健康診断を厚生省(当時)がいっせいに行いました。そして、全員治っている、後遺症もない、だから将来も大丈夫である、と、たった一年のフォローでそう言い切ってしまい、その後、何もしませんでした。
○ですから、そういうことをさせないようにしなければなりません。いまは大丈夫でも、将来も大丈夫という話には、まったくなりません。
○それから、外側からは何も変化がないように見えても、見えないところの細かい変化が何かあるかもしれないので、そのへんを丁寧に診てゆこうと思っています。
○わたしたちは低線量被ばく、内部被ばくについて、「いまこれだけわかっています」というものをまだ持ち得ていません。」(山田[2011:29])
○「たとえば、実際に森永のヒ素ミルク中毒事件から何十年かたって、いまも関わり続けている医者は全国でもうふたりくらいになっていると思います。東京ではわたしひとりです。一時期は仲間がいましたが、結局みんなやらなくなってしまいました。水俣病も、カネミ油症事件も、やっぱり広がりませんでした。
○本当は公衆衛生学者や疫学者がちゃんと調べるべきです。昔から、たとえば公害にしても、ちゃんと関わっているのは岡山大学の衛生学教室だけだと思います。岡山大学に青山英康さんという教授がいらっしゃったときに、たくさん次世代を育てられて、土呂久砒素公害もカネミ油症事件も水俣病も森永ヒ素中毒も、岡山大学の衛生学教室で調査をしました。
○青山さんが引退された後、津田敏秀教授がひとりでやっておられます。その津田さんも非常に孤立してやっておられて、ほかの衛生学者は一切関知していないので、調査を頼むとしたら津田さんです。もし津田さんが国の組織に入ってやるとなると、少数派で孤立するのではないでしょうか。恐らく潰されます。国の会議などでは、国側の研究者が10人いて、そのなかに津田さんがひとり入れられるというような構成にされるのです。とても動きにくいです。」(山田[2011:54]、津田については註31)〕
○「丸山教授らは、日本公衆衛生学会をはじめ、日本小児科学会、日本衛生学会にも働きかけ、各学会もそれを受けて後遺症の調査、対策を目的とした委員会を発足させた.」(東海林・菅井[1985]、第3章「砒素ミルク中毒事件」)
 (財)ひかり協会http://www.hikari-k.or.jp/の「ひ素ミルク中毒事件」http://www.hikari-k.or.jp/jiken/jiken-e1.htm→「事件史年表」http://www.hikari-k.or.jp/jiken/jiken-e2.htmによれば、日本小児科学会「ヒ素ミルク調査小委員会」設置決議がなされたのは一九七一年。
★21 島成郎(しま・しげお) 一九三一年〜二〇〇〇年、精神科医。六〇年安保闘争の時、共産主義者同盟(ブント)書記長。一九六四年、東京大学医学部卒業。一九六五年、東京大学医学部精神医学教室。一九六七年、国立武蔵野診療所勤務。一九七二年、宜野湾市・玉木病院に勤務、沖縄保健所嘱託医。著書に[1982]『精神医療のひとつの試み』、その増補新装版が[1997]『精神医療のひとつの試み 増補新装版』。ブントと島についての文献は多数あり、書籍になっているものはすぐに探せるので略。〔島が安保闘争の敗北、安保ブントの後、政治から「引いた」とされることがあるが、それは事実と異なっている。……●〕
○「六〇年安保闘争」で学生運動の主流を成していた共産主義者同盟(ブント)の元書記長で、沖縄で長く精神科医として活躍してきた島成郎さんが十七日午前七時半、胃がんのため北部地区医師会病院で死去した。六十九歳。[…]
○島さんは東京都出身。一九五〇年東大入学後、レッドパージ反対闘争で無期停学処分を受けたが、その後東大医学部に再入学しブントを結成。その思想や行動は大衆運動に大きな影響を与えた。
○六八年に厚生省の派遣医として来沖、七一年に再来沖し、宜野湾市の玉木病院に勤める傍ら、那覇保健所嘱託医として地域医療に努めてきた。その後沖縄を離れたが、九四年から名護市にメンタルクリニックやんばるを開いていた。
○八二年には著書「精神医療のひとつの試み」で沖縄タイムス出版文化賞を受賞している。そのほか「精神医療―沖縄十五年」「ブント私史」などがある。
○今年七月初めに、名護市内の病院で胃がんの手術を受け、療養中だった。
○山里八重子県精神障害者福祉会連合会会長の話
○島成郎さんは県内では精神科における地域医療の草分け的存在だった。とくに久米島をモデルとして県内で最初の家族会を立ち上げた意義は大きい。それが、今年の全国大会や国際シンポジウム開催につながる大きな成果だっただけにとても残念。私たちの活動にも高い評価をくださり、これからも当事者と地域が一緒に暮らせる状況づくりをやっていきたかった。先生の足跡を引き継いで地域福祉の拡充に努めたい。(『沖縄タイムス』2000/10/17夕刊)
★22 ウェレサーエフ、袋一平 訳、『医者の告白』三一書房[1955](原著は一九〇〇年、一九二七年に同じ訳者による翻訳が一度出ている)〔●〕
★23○中川 米造(なかがわ・よねぞう) 一九二六年〜一九九七年。医学史、医学哲学。大阪大学医学部に勤めた。その著作について、ウェブ上の資料として池田[2007]「中川米造」。以下はその、中川の弟子の一人である医療人類学者の池田光穂の講演から。
○「彼は一九四五年つまり昭和二〇年の四月に京都帝国大学医学部に入学します。彼をパニックに陥れたのは、七三一部隊に関与する医学を専攻した武官が言う、「医学とは人の病気を直すものではない。今時の戦争を遂行するためのものである」とか。「お前たち医学生は、誤って静脈注射に空気を入れることがいけないと思っているが、そのような科学的根拠を知らないだろう。だが我々は知っているのだ」と言いながら、恐らく大陸で撮影された人体実験の一六ミリフィルムを上映し、数ミリリットルの空気の静脈注射では死なず、何百ミリリットルの空気を入れた被験者が死んでゆく様子を通して教育したといいます。あるいは次のようなエピソードもあります。「お前たちは、人間の首を切ったら、どの角度で血が飛ぶか知っているか?」というわけで実証主義ならぬ実写が上映されたということです。血も凍るこのような情景をその教官たちは、医学生たちに見せて「教育」していたのです。もちろん、それから四カ月後にくる日本の敗戦でこのような「教育手法」は終わりをつげました。」(池田[2003])
○〔中川自身の文章では次のような記述がある。
 「昭和二〇年に医学校に入ったのですが、戦争中でたまたま私の大学が例の七三一部隊*1の基地だった。大学に入学するなり医学とは人の病気を治したり、けがを治療するところではない、と先輩の軍医に言われました。今は世界を相手に戦っているのだから、医学も戦う武器をつくる、と。こっちは仰天しました。医学というのは人殺しだというのですかたらね。
 それがその年の夏に敗戦。今度はそんな連中は雲散霧消して、再び医学は人のためにあると言われるようになる。そこでまた、世界観がひっくりかえされる。」(中川[1997:128])
 「*1 七三一部隊 「私の入った京都大学というのは、あの関東軍防疫作戦部隊、細菌戦開発部隊のメッカだった。それで、医学校に入って、五月だったか、軍医の立派な方が来られて、<意外というのは、傷を治したり、病気を治したり、そんなもんじゃない。今は戦争である。兵器のための医学を開発しなけりゃならん>と言われて、万週のいろんな人体実験の映画やらスライドやらを見せられた。」(『「医の知」の対話』より)」(中川[1997:129])〕
★24 クレー(Klee[1993=1999])●。以下、立岩[2009]〔●〕に再録されるこの本の紹介の一部。  「読みたくなくても、八五〇〇円もしても、買わなくてはならない書物がたまにはあり、これはそういう本だ。/著者は一九四二年生まれで、神学と社会教育学を専攻したとある。いくつかの場で教えてもいるが、大学で研究を行ういわゆる学者ではない。」「読んで楽しい本ではまったくない。私たちは楽しくない本を「ためになる」から読んだりするのだが、しかし、いったいこのような本、というよりこの出来事から、どのような「教訓」を得ればよいというのだろう。」
★25 この事件に関する本として、東野利夫『汚名――「九大生体解剖事件」の真相』(東野[1979])、上坂冬子[1979]『生体解剖――九州大学医学部事件』、その新版として『「生体解剖」事件――B29飛行士、医学実験の真相』(上坂[2005]、新たに加えられたのは全ニ頁の「『新版「生体解剖」事件』によせて」)。
★26○山本俊一『東京大学医学部紛争私観』(山本[2003])に以下の記述、引用があり、続いてこの行動に反対する側の決議も紹介されている。
○「四月一一日午後二時頃、共闘系学生達が、突如、脳神経外科を封鎖し医局内に座り込み、次のようなビラを配った。「われわれ医共闘・青医連は、なぜに脳外科の医局・外来を占拠したのか。それは、あの四月四日の高圧タンクの爆発が、単に偶発的なものであったのではなく、現在の学会至上主義、売名至上主義に走り、自己の利益増大のために、患者をモルモット代りにする、医局社会の腐敗と病院の営利化・合理化に根源を持つ人的・物的な安全保障の欠落によるものであることを、実践をもって万人の前に明らかにし、ブルジュア新聞と結託して四人の死因を闇から闇に葬り去ろうとしていく売名主義者差の(脳神経外科主任、教授)と医学部当局を、徹底的に糾弾するものとして、遂行するものである[…]」(山本[2003:203])
○「昭和四四年四月四日午前一二時四〇分、文京区本郷七−三−一の東大医学部付属病院中央診療部東側一階の救急入口脇の高圧酸素治療室で、高圧酸素タンクが爆発、中にいた患者女性二人(65、56)と脳神経外科の男性助手(32)、男性医局員の合わせて四人が死去。高圧酸素タンクは一〇〇%の酸素を二、三気圧に加圧、患者に吸わせて、血液中の酸素濃度を高めて脳循環を促進するもので、全長四メートルだった。タンクの中から助手が電源を切るように覗き窓ごしに指示していて、切ったが爆発したという。助手が眼底カメラを中に持ち込んでおり、電流がスパークして引火爆発したらしい。」(「東大病院で酸素タンク爆発」http://www.geocities.jp/showahistory/history05/topics44a.html
○「四月四日 東大病院高圧酸素治療室で爆発がおこり治療中の患者二人と医師二人が焼死した。原因は治療用電流の流しすぎらしい。」(http://autofocus.sakura.ne.jp/data850/1960nendai.html
○この事件と山本の著書についての山田の記述は以下。
○「このことについて山本俊一氏は著書のなかでこう書いています。
○「U内科事件は研修生、学生と医局員との間の争いで、教授会は中立の裁判の立場にあった。『喧嘩両成敗』の原則に立って、双方に対して、軽く譴責処分をして置けばこれが東大処分にまでエスカレートすることもなかったであろう。でも、教授会は研修生・学生だけを処分する片手落ち(原文ママ)の方向に動いたのである。」
○この文章は『東京大学医学部紛争私観』(本の泉社)という本からの引用ですが、この本の著者である山本俊一さんは、当時、東京大学医学部公衆衛生学の教授をしておられました。ご自身が学生だった頃に学生運動をなさっていたというような噂を聞いたこともあり、教授という立場にあってもぼくたちの運動を理解しておられたことが、この著書を読むとわかります。ぼくが処分を受けたときも、また今回の事件に対する処分会議≠フ席上でも処分には反対と発言しておられたのです。
○しかし、当時ぼくたちはそのようなことかわからず、「温厚そうな顔をした山本教授にだまされてはいけない」というふうに思っていました。そんな誤解をいま、山本さんにおわびしなければなりません。
○さて、山本さんの著書では、その後の大学側の対応もくわしく書かれています。」
(山田[2005:118-119])
○その山本の著書『浮浪者収容所記――ある医学徒の昭和二十一年』(山本[1982])での一九四〇年代についての記述は以下。既にこの時、六〇年代に問題にされたことが問題にされていたことがわかる。
 「おそらく私たちは[…]九月末日に卒業することになっていたのらしいのであるが、八月十五日に突如として終戦が来た。これが私たちにもたらしたものは、眼の前に来ていた卒業が、無条件に延期されたということであった。さらに工合の悪いことには、その後しばらくして占領軍の命により、卒後研修すなわちインターン制度の実施が追い討ちをかけるように私たちに課せられることになった。
○これに対しては、その後私たちはほとんど全員で反対運動をすることになるのであるが、結局は占領軍命令として実施されることになってしまった。ただし特例として、その期間は今回に限り一年のところを、半年に短縮するということであった。
 いずれにしても、この一連の措置によって、私たちはいわば、大学からは閉め出され、社会からは受け入れてもらえない、中途半端な状態になり、全く途方にくれることとなった。というのは、すでに卒業試験は終わっているので、当然のこととして、大学側は私たちのために授業をやってはくれない。しかも、卒業は認めてもらえないので、それまでの一年余は、それぞれ適当に自活して、時期の来るのを待っていなければならない。終戦直後の最も社会が混乱したこの時代にあっても、学生という身分はこの上なく不安定であり、一方的に卒業時期の変更を申し渡されただけでなく、さらに医師の資格を獲得するために、インターン研修と国家試験という新たな条件を課せられた私たちの不安は、非常に大きいものであった。」(山本[1982:6-7])
○この年鴨居引揚者収容所でアルバイト。それもきっかけとなり「在外父兄救出学生同盟」で活動。厚生省が管理していた軍病院の薬品の提供を求めて厚生省の薬務課と交渉。課長に提供の約束をとりつける。
○「それから二十余年を過ぎた昭和四十三年に、東大医学部に大きなストライキが起こり、学生たちが教授団に対して大声を張り上げて私たちを難詰する学生を見ながら、私が薬務課長を追及した当時の光景を思い出していた。立場が全く逆になってしまったが、その間の時間の流れは長かったようでもあり、また、短かったようでもあった。」(山本[1982:29])
○在外父兄救出学生同盟は一九四七年には消滅。山本は浅草東寺本学時更生会で活動。一九四七年医師国家試験合格、同年東京帝国大学衛生学教室助手、一九六五年東京大学疫学教室教授。一九八三年定年退職。その後聖路加看護大学副学長などを努める。また、日野原重明アルフォンス・デーケンらと「死生学」に関わる〔cf.〕。『死生学のすすめ』(山本[1992])、日野原重明・山本俊一編『死生学・Thanatology 第1集』(日野原・山本編[1988])等。
○山本[1998]『わが罪 農薬汚染食品の輸入認可――厚生省食品衛生調査会元委員長の告白』より。
○「私は短い人生の中で大事件に遭遇したことが三度ある。
 第一回目はホームレスの人たちの病気を治すために、東京浅草の浮浪者収容所に住み込んだ。この記録は単行本として残した(『浮浪者収容所』中公新書)
 第二回目は東大紛争である。この記録は医学雑誌に掲載した。
 第三回目は食品衛生調査会の委員長になったことである。私は昭和五三年当時の厚生大臣に農薬汚染輸入食品を認めるよう進言した諮問委員長を務めた責任がある。
 最近HIVウイルス汚染血液製剤の輸入を認めるよう大臣に進言した委員長が叩かれたので恐れをなしたわけではないが、良心が咎めるので自ら告白しようと思った次第である。
 この本の表題は、もともとは『価値の狭間で』と名づけるつもりであった。「経済的価値と健康的価値の狭間で」という意味である。人間にとって経済も健康もどちらも高い価値を持っているが、世の中の人は目先の経済を優先する。
○私の専門は「衛生学」である。「生を衛る学問」と書く。特に最近の経済優先の世相を苦々しく思っている一人であり、そのために本書を書いたといってよい。」(山本[1998:2])
★27 大熊一夫(おおくま・かずお)は 一九三七年生。著書多数。以下、立岩[2009]に再録される〔●〕この本の紹介の一部。
○「一九七〇年代に生きていた人の中には『ルポ・精神病棟』という本を覚えている人がいると思う。この本の著者、大熊一夫は、一九六三年から朝日新聞社で新聞記者、『週刊朝日』『AERA』に関わった後、一九九〇年退社、フリージャナリストとなる。一九九八年から三年間大阪大学(人間科学部・大学院人間科学研究科)の教員(ソーシャルサービス論)も務めた後退職。今はまたフリージャーナリスト。
○この本の経緯は大阪大学のホームページ掲載のインタビューでも語られている(www.hus.osaka-u.ac.jp/interview/interview05.html)。[…]
○そこで「世の中ほんとめちゃくちゃなことがあるもんだな、僕の知らないことがいっぱいあるもんだな、と思ったよね」と大熊は語るのだが、私はこの本をたしか中学生のときにどうしたわけだか読んだ。旧ソ連での強制収容所のことを書いたソルジェニーツィンの小説が話題になっていたりした時期でもあった。とにかく、げっ、という感じだった。私がいまの仕事をしていることになにがしかの影響を与えたようにも思う。」(立岩[2001(9)→2009]
 『ルポ・精神病棟』は『朝日新聞』の連載がもとになっている。その経緯について。
 「キッカケは日本精神神経学会が学会誌に掲載した、精神病院の実態調査報告でした。精神病院でここ一年、看護人が患者をなぐり殺す、リンチするなどの事件が少なくとも十余件あると発表され、これが新聞報道されたのです。精神科医の絶対数が少なく、他の診療科からやってきた「にわか精神科医」が、知識のないまま治療を行っている現状も報告されました。
 これを受けて、朝日新聞では三月五日付け夕刊から連載記事「ルポ精神病棟」 を開始します。留置場以下の悪臭と寒気に包まれた劣悪な保護室(要するに監禁室)の模様をつづった「檻」。通称・電パチとして恐れられている電気ショック療法がリンチに使われている現状をつづった「私刑」、ただの牢番と化している精神科医を告発した「絶対者」、特定政党の選挙応援を患者に強要する病院を非難した「選挙異聞」などなど……。いずれの回も、センセーショナルな現実が語られました。
○連載が始まった途端、この記事は大きな反響を呼びます。新聞社にはひっきりなしの電話や投書が相次いだそうで、国会審議では野党側が事実関係を追及、日本精神病院協会は異例の理事会を開催して精神病院の経営者全員に自戒を呼びかける慌てぶりでした。新聞紙面を一面まるまる使って「精神病院の選び方一八章」といった特集が組まれたこともあり、これも異例といえるでしょう。初めて白日のもとにさらけ出された赤裸々な事実に、一般読者は戦慄を覚えました。」(建野[2001])
 以下その『ルポ・精神病棟』(大熊[1973→1981])より。
 「精神医療の世界には「くすり漬け」という恐ろしい言葉がある。医学の美名にかくれて、患者に向精神薬(主として興奮を鎮めるくすり)を必要以上にじゃんじゃん飲ませることである。
 患者はボケて、動作も鈍る。だから病院は管理に手がかからない。人件費も浮く。投薬量がふえるほどに儲けも伸びる。しかも密室の中で行われるから、外部から疑問をさしはさまれる心配も少ない。
 精神障害者への数々の虐待の中でも、最も陰湿なのが、この「くすり漬け」だと私は思う。そして、この「くすり漬け」の背景をさぐってみると、われわれを取りまく医療環境は、もう、救いがたいほど堕落しているのがわかる。」(大熊[1973:120])
 「電パチぼけ
性格的に角がとれた、といえば聞こえはいい。しかし、その代償として人間らしい生気も失せてしまった。六十回を超える電気ショックによって、記憶力は極端に落ちた。彼の頭脳は、彼の意思には関係なく、医師の手で変造されて、「彼は」「以前の彼」ではなくなったのだ。」(大熊[1973:209)
 「電気ショック療法はすたれたとはいえ、いまでも保険医療に残っており、自殺しそうな患者には捨てがたい効果がある、という医師も少なくない。しかし、連日、アル中を魚市場のマグロのように並べて、電気をやりまくるのが医学的かどうか。」(p211)
 「もっと変なことがある。「分裂病的なアル中」「躁鬱病的アル中」にE・Sが効くというが、分裂病への電気ショック療法も治療法として確かな地位を獲得していない。というよりも、ひと昔前には全盛を誇った電気ショックも、いまでは一部の医師がごく限られた症例におこなっているだけ。根本的な治療になり得ないことから、いまでは過去のものになりつつあるのだ。」(大熊[1973:212)
○「西瓜割り
 「アル中を電気ショック療法でなおす」などという精神医学の教科書にもないようなことが、精神科医の手でジャンジャン行われる――「ここが問題だ」と多くの人たちは思うに違いない。ところが、精神医療の世界では、脳みそに電流を通して、人間を変造することは、大した問題にはならない。電パチよりはるかに物騒なことが、十五年ほど前には日常の治療法としてまかり通っていたのだ。そして今日でも、少数ではあるがまだ続いている。それは脳にメスを入れる手術である。代表的なものに、ロボトミーがある。電気ショックもロボトミーも、程度の差こそあれ、人間をボケさせ、おとなしくする、という点で似かよっている。どちらも療法としてすたれてきたものの、とくに自殺企図者に効果あり、とされて、いまだに使われている点も共通している。」(大熊[1973:214-215)
 「ロボトミー手術そのものも安全ではない。絶命もあるし、癇癪の後遺症に悩まされることもある。手術で廃人にされたために、決定的に退院できなくなって、鉄格子の中で余生を送っている人を捜すのにそれほど骨は折れない。
精神医学は、脳の働きについて、まだほんの一部しか知らない。なのに、その脳を対象とした手術方法のみ実施される。」(大熊[1973:216)
 「「死んじまえば病苦なし」という諺がある。なぜ、こんな残酷な手術が、今日まで続いているのか。考えてみれば不思議なことだ。[…]
 しかし、ロボトミーという「治療」と切りはなせぬ“心の殺害”は、はじめから、少なくとも日本で行われ始めたころからは、知ろうと思えば知ることができたのだ。ロボトミーの結果は術後にすぐ出る。きのうまで手がつけられなかった者が、すぐに手に負えるようになる、という具合に。しろうと考えにも、ぞっとする話である。それが“西瓜を割る”ごとく行われたのである。」(大熊[1973:217])
 ●〔ロボトミーについて〕
 〔「さて、こうして書きつづけている私の頭の中には、病院での日常的な作業のなかで起きるさまざまなできごとがあるのだが、もうひとつ「ルポ・精神病棟」をめぐっておきた議論がひっかかっている。岡田靖雄はこう書いている。

 『朝日』の精神病院キャンぺインののち、一部の精神科医集団のなかでは一時、日本精神神経学会理事会および『朝日新聞』に抗議しようという声が大勢をしめたそうですが、このことをわたしはある意味で無理からぬ被害者反応としてうけとったのです。わたしが心の底からおこりたくなった、というよりおどろいてしまったのは、べつの反応です。「悪徳病院が摘発されるのは小気味よいから、もっとやってほしい」とうそぷくその人は、、みずから医療・教育の主要な地位をしめていたのに、真白な手をもった人であるかのように、なぐりころされ、搾取され、うえさせられている患者さんたちの苦しみを自分の胸に感じることなく、虚構の権威のうえにアグラをかいています。

 岡田の言わんとしたことは、権威ある立場にすわって来た者の無責任のことであろうし、その無<0169<自覚についてである。たしかに、精神医療の全体状況のなかで明瞭となって来ていることは、精神医学と医療の歴史が、本当に精神障害者に対する人権無視の潮流と闘って来たかということである。」(藤澤)〕
★28 市野川容孝との対談「障害者運動に賭けられたもの」〔●〕より
 「立岩 […]市野川さんはドイツのことと、日本の優生保護法下の強制断種のこと、両方ご存知なんだけども、七〇年ころ、そう詳しくではないんだけれども、ナチはどうも障害者を殺した、たくさん、何万人も殺したっていう話が、あることはあった。大熊一夫が「ルポ・精神病棟」っていう連載を『朝日新聞』で一九七〇年からやってるんですね。これは七三年に単行本で出ていま文庫版になってますけど(大熊[1973→1981])、その終りのところでナチが精神障害者を抹殺したっていう話が出てくる。僕は見たことがないんだけど、クリスチャン・ベルナダクっていう人の『呪われた医師たち』って本が早川書房から出てたらしくて、大熊さんはそれを引いています。だから問題になったとすれば、まずはその頃なのかなと。それで今またというか九〇年代になって、やっぱりナチは障害者を安楽死ということで抹殺したんだという本が――米本昌平さんがずっとやってきたことがあった上だけど――何冊か出てきた。まずひとつはナチだったらナチが何をやったかっていうことの捉え直しみたいなものが、どういうことでいつごろ出てきたのかっていうのを教えてもらいたいのですが。
市野川 まずドイツの方から話しますと[…]」(市野川・立岩[1998]→立岩[2000:129-130])  その後、その本を入手した。『呪われた医師たち――ナチ強制収容所における生体実験』(Bernadac1967=1968→1979])。立岩[2008]〔●〕で紹介する。「数」については、「国際軍事裁判の判決」として「ヒトラーは、ドイツ全土にわたって安楽死を中止するように命じた。二七万五〇〇〇人がすでに《謀殺されて》いた」(Bernadac[1968→1979:243])といった記述がある。
★29○[1966]「生命と刑法――とくに安楽死について」。ビンディングとホッヘの論文を紹介。ブラントに命令して「精神病者や不具者など約二七万五〇〇〇人が殺されたといわれている。」(平野[1966→1997:50])平野 龍一(ひらの・りゅういち)は形法学者。一九二〇年〜二〇〇四年。
 戦前のビンディングとホッヘの論文のことは早くから学者の間では知られていた。そしてニュルンベルク裁判の判決文に書かれたことも知られていた。それがどの範囲で、どのように語られていたかである。以下言及があることを確認した文献を列挙する。各々に何が書かれているかについては、立岩[2009]〔●〕で紹介する。
 高杉晋吾「安楽死と強制収容所」(高杉[1971→1972:112-125])、朝日新聞社編『高齢社会がやってくる』(朝日新聞社編[1972:104-107])、しののめ編集部編[1973]収録の花田春兆[1973]「歴史の流れの中で」(ヒトラーに届いたという手紙のこと、カール・ブラントに命じたことに言及)、中川米造[1973]「医学とは」(生体実験のこと、邦訳のあるものとして唯一のものとベルナダクの本に言及)、小澤勲[1974]『反精神医学への道標』中の「優生保護法改正問題をめぐって」(小澤[1974:295])、山名正太郎[1974]『世界自殺考』(滝川幸辰の安楽氏肯定論を紹介し、ビンディングの論文等に言及)、島成郎「「保安処分」に思う」(島[1980]、後に島[1982→1997]『精神医療のひとつの試み』に収録)。
 ニュルンベルク裁判で明らかにされたことが米国の医療界・社会にたいした影響を与えなかったことについてはロスマン(Rothman)[1991=2000:90-91]等にも記されている。同時に、安楽死すなわちナチスの所業とされ、「特に第二次大戦後、安楽死の主張は、端的に悪とみなされてきた」とも言われる(香川[2006:163])。どちらも正しいのだろう。そのことをどう考えるかである。これらの本も立岩[2009]〔●〕で紹介する。
★30○最首・丹波編[2007]。最首による序章から引用。
 「朝日新聞社が情報公開法に基づいて請求した環境庁(当時)召集の医学者たちの議事録があります。冒頭の環境庁の挨拶、先生方に医学基準じゃないんだけれども、医学基準としてお願いし、それを引き受けていただいたと言っている。医学者たちが真面目であることを前提にして、どうして引き受けるか、一つには国を憂える。一つには人々を信じられないことがあります。東大医学部から新潟大に行った椿忠雄は、新潟水俣病の発見者でクリスチャンですが、あるとき態度が変わる。水俣病診断基準を厳しくする当事者になり、以後水俣病認定が激減する。それを踏襲してその後権威になるのが、東大医学部から鹿児島大学に行った井形昭弘で、今は尊厳死法の立役者です。」(最首[2007:18])
○例えばこんなことについて調べて考えてみてもよい。椿忠雄〔都立神経病院院長の後、新潟大学神経内科教授〕はALSの人たちへの貢献によって讃えられる人でもあるが、いま最首は批判した(もう一人批判している井形――日本尊厳死協会の理事長でもある――は、立岩[2008][2008]に幾度か登場する)。また宇井も椿のことを批判していて、そのことは立岩[2004]『ALS』でもふれている。
 「これまでにもその文章をいくつか引用してきたが、今井尚志、近藤清彦、佐藤猛、林秀明、吉野英といった医師たちがいて、熱心に支援に関わってきた。また既に一九七〇年代から川村佐和子、木下安子といった保健・看護職の人たちがALSの人に深く関わり、ALS協会等にも協力してきた。そして、スモン病、新潟水俣病の原因を特定した人である椿忠雄(都立神経病院院長の後、新潟大学神経内科教授)がALS協会の創設などにも協力した恩人として記憶されている([…]椿の新潟水俣病への対応に批判的に言及しているものとして宇井[1999][…])。こうした人々の業績、言説を跡付ける必要もあるが、本書ではその作業はまったくできていない。一九七〇年代から一九八〇年代のALSの人たちやその関係者、ALS協会の足取りは、今後の研究によって明らかになるだろう。」(立岩[2004:321])
 この本では引用しなかったが、その宇井の文章には以下のように記されている。
 「病気に対する謙虚な姿勢は長くはつづかず、のちに椿は新潟水俣病の第二次訴訟で、昭和電工側から最重要証人と期待されるほど、水俣病に対して限定的な立場をとり、水俣病の認定制度を維持しようとする環境庁の理論的支柱となった。この変貌の理由について椿はほとんど語っていないが、私にはほぼ推察がつく。
 椿はこのあとスモン病の原因研究に参加しその原因がキノホルムであることを発見する。一般に医師が新しい病気を発見するのは、一万人のうちで一人に一生一度に起こるぐらい幸運なことだといわれる。椿は新潟水俣病とスモンの二つの病気の原因を発見した、いわば日本の医師として最高の名誉を得るに値する功績をあげたことになる。この功績が椿に専門性を強調する傲慢への道を開いたといえよう。二つの発見はいずれも問題がかなりの程度まで煮詰まって来て、誰が発見者になるかは時間の問題であり、しかも発見したことを発表するには決断が必要であって、決断のための勇気を迫られるのは事実だから、椿が自信満々になることも無理はないが、患者の運動を「このままでは国益にかかわる」などと、日本国を背負ったつもりで考えるのは、やはり椿が国家鎮護の大学である東大出身だからであろうか。」(宇井[1999])
 この解釈がどうだというのではない。きつく(あるいはきちんと)認定してしまおうとすることについて、どう考えたらよいのか。それは考えてもよいことだと思う。次のように考える。
 「まず、しかじかの要因によってある人の今の身体の(苦しい、不安な)状態が引き起こされた「可能性」があるというだけで、その要因を生じさせた、そして/あるいは除去しなかった人・組織には非があり、苦しませた人に詫びなければならないと言える。その人はたとえば肝炎になった。そして肝炎を誘発するしかじかの要因が人為的にもたらされた、あるいは人為的に除去可能であるにもかかわらず除去されなかった。その人が今肝炎であることについて、その要因が関わったかどうか、確証はできないとしよう。しかしその可能性はある。その人は、そんなことで自分が今こうなっているのかもしれないと思わなければならないだけで、すでに十分被害を蒙っている。誰もが病にかかる可能性はあるだろうが、それは仕方がない。しかし生じさせないことができたことを人・組織が生じさせた、あるいは除去することができたものを除去しなかった。このことがその人の苦痛や死に関わっているかもしれない。そのことによってその人・組織は咎められる。
 次に、次項に述べること、理由のいかんにかかわらず、身体の不具合に関わって必要な費用は社会的に賄われるべきであるという原則から考えても、そのようになっていない現行の制度・法は不備である。本来は、別途の医療・福祉制度からの対応がなされねばならないのだが、なされておらず、それが当面変更できないのであれば、仕方なく、補償として受け取らざるをえないことになる。そうして例えば国家から受け取れたとして、それは、すくなくともその大部分は、本来は他の制度から受け取ることができたよかったはずのものである。
 以上いずれの理由からも、被害を示すものとして求められる因果関係は緩いものでかまわない。実際にそうでないとすれば、その基準の方が間違っている。それを今は動かせないのであれば、その基準の運用において、緩くとることの方が義に適っている。他にもあげられる幾つかの理由によって、多く――すべてではない――被害を訴えざるをえない側の不利はあり、かなりうまく制度・仕組みを作っても残る。とりわけこの社会の制度、現行の法・司法においては、今使われている言葉の意味で事実関係・因果関係が明確でない場合にも、そちらの側の肩を持ってよい合理的な理由がある。」(立岩[200809:○])<〔この連載は●〕br> ★31 原田 正純(はらだ・まさずみ) 一九三四年生れ、医師。水俣病をめぐる複雑な政治的情勢下、一貫して患者の側に立って発言。熊本大学医学部では、退官するまで助教授のままだった。その後熊本学園大学教授、水俣学研究センター長。
○水俣学研究センターHPhttp://www3.kumagaku.ac.jp/minamata/index.htmlの「水俣学とは」より
○「・失敗の教訓を将来に生かす学問です。
○・専門の枠組みを超えた学際的な学問です。
○・「素人」と「専門家」の枠組みを越え、すべての生活者に開かれた学問です。
○・豊富な事実のある現場に根ざした学問です。
○・一人ひとりの生き方を問い直す学問です。
○・すべての成果を地元に還元し、世界に発信する学問です。」
 異議はすこしもない。ただ、この旗印で実際になにかを作っていくのは難しいだろうなと(立岩は)思ってきたし、今も思っている。ちなみに、原田は「安楽死・尊厳死法制化を阻止する会」の代表にもさせられていて(二〇〇五年六月)、そのために、またそのことと直接の関係はなく、立岩[2008b]『良い死』[2008d]『唯の生』」に幾度か登場する。
○二〇〇五年「五月に熊本で日本保健医療社会学会の大会があった。一日目にはシンポジウム「水俣病問題からの問い」があった。そこではじめて原田正純さん[…]の実物を見た。そして質疑の時だったと思うが、井形さんの名前が出て、「おお」、と思い、終わってから会場にいた熊本学園大学の花田昌宣さんに、何を読んだらよいのかとうかがったら、津田敏秀『医学者は公害事件で何をしてきたのか』(津田[2004])に書いてあるという。この本はもっていて、いくらか読んでいたはずなのだが、この固有名詞が頭に入っていなかったのだ。あらためて読んでみると、たしかにこの人が厳しく批判されている●。
○誰が理事長をしているといったことにそう大きな意味があるとは思わない。ただ、いくらか象徴的ではある。まず、この運動がまったく主流派のものになったということだ。[…]この組織を始めたのは太田典礼という「反骨の医師」だったが、いまの理事長は、国のさまざまな審議会の長であるとか、大学の学長であるとか、学会の会長であるとかを歴任されてきた方で、そのような意味において、申し分のない方である。熊本学園大学教員〔現在は立命館大学教員〕の天田城介さんからファイルを送っていただいて、自分でもわずかを足して、「井形昭弘」というファイルを〔HPに〕作ったからそれをご覧いただいたらよい〔天田[2005-]〕。
○それとともに、医学の出であるのは二人とも同じで、井形さんは水俣病に関わった人物であり、ある人たちは彼を厳しく批判している。ここではその批判がどこまで当たっているのかについては判断しないとしよう。ただ私は、いつものように、尊厳死を推進する動きに存在する無神経さというのか、あるいは大らかさというのか、懐の深さというのか、そのようなものをここでも感じる。その人たちは、一部から批判が出ているらしいが、そんなことはあまり気にしなくてもよいと思っているようなのだ。もちろんたんに知らないということもあろう。しかしそれは知ろうと思えば簡単に知ることのできることでもある。知る必要のないことだと思っているらしいということだ。」(立岩[2008d])
★32○高橋 晄正(たかはし・こうせい) 一九一八年〜二〇〇四年、計量診断学。東大では講師のまま一九七四年定年。この頃の著書に[1969]『社会のなかの医学』、[1970]『現代医学――医療革命への指針』他。六七年から七四年の間に公刊されたことを確認できた著書が十ニ冊ある。そしてその主張は、さらに早くからものである。
 「新薬については、まず第一に、その有効性と安全性を対象として、製薬会社のヒモのつかない自由な立場で、合理的な判定のできるような設計の下で研究が行われるべきでしょう。そのようにして得られた成績を基に、慎重に、「科学的に」審議されたあとで、政府の責任において発売許可になったとします。
 しかし、それだけで安心しきっていていいでしょうか。使用責任者の団体である医師会が中心となって、有効性と安全性の調査を何回か反復して行なうべきであると考えます。」(高橋[1964→1994:213-214])
 〔●松波〕
★33○一九六九年二月一九日、 東大病院で春見健一医局長ら医局員数人と、医学部学生が小競り合い。三月一一日、東大当局が事件をめぐって退学四名を含む一七人の医学部学生の処分を発表したが、「事件」現場にいなかった学生も処分対象となったことから、闘争が更に激化することとなった。
○「その頃、事件の真相はわたくしたち医局員にもよくわからなかった。しかし、事件の当日、九州でオルグ活動をしていたという医学部三年生の粒良君が、事件の直接参加者として処分を受けているという噂、それに続く同君のアリバイ発表と不当処分にたいする抗議の集会は、わたくしに強い衝撃を与えた。
○わたくしには、当然のこととして大学当局が調査活動にのり出すべきもののように思われた。しかし[…]」(高橋[1969:285])
○「処分された学生のなかに、その日は久留米大学にオルグに行っていたという者が出てきた。それは医学部三年生の粒良君だった。私たち古い医局員たちは迷った。いったいどちらが真実なのか、と。私は旧革新的教授グループが現地調査を医共闘に申入れる橋渡しをし、彼らがそれを受入れたあとでその教授グループが不当にも調査を断ったところで、おせっかいにも精神科の原田講師(現・信州大学教授)をさそって久留米へ出掛けた、ということなのである。
○結局は、奇跡でも起らないかぎり、粒良君の主張を反論することは不可能であった。それは、「高橋・原田レポート」に詳細に書いてあるとおりである。」(高橋[1973:217])
○「ふたりの医学部の教官がわざわざ九州へ出向き、T君が「H医師糾弾」の当日、まちがいなく九州にいたことを確認しました。
○この教官のうちのひとりが、当時人気のあったアリナミンやグロンサンを効かない薬≠ニ告発しはじめていた高橋晄正さんという研究者だったのです。高橋さんは、T君処分の一件にも科学的精神を発揮して調査に乗りだしたわけでした。高橋さんたちも「T君はたしかに九州に行っていた」と証言してくださったので、大学側は誤認処分をしてしまったことを認めないわけにはいかなくなりました。」(山田[2005:123-124])
★34 高橋[1970]『9000万人は何を飲んだか――疑惑の保健薬=0とマイナス』(章立ては「グロンサンの燃えかす」「チオクタンの疑惑」「虚名のみ高いアリナミン」「サリドマイド奇形の真相」「死にいたる薬」「珍薬は大手を振って」「国民は黙っていない」)より
 「一九六〇年の消化器学会は信州大学で行われた。[…]その晩、松本で開かれるグロンサン研究会に大下教授の代理で出席するように言われていたのである。
 私はその頃、まだ助手だった。グロンサン研究会といえば肝臓病の大家たちの顔がズラリと並ぶことで知られている。世に時めくグロンサンや、それをつくっている製薬会社の威勢を象徴するような会合だった。松本での学会の二日目の夜が、それにあてられていた。」(高橋[1970:20-21])
 高橋[1969]『社会のなかの医学』より。
 「はからずも、東大闘争のなかで一人の若い生物学者がおこなった厳しい解析のなかに、わたしたちは医療矛盾の鋭い集約をみる。
 「医者は患者を待ちかまえているだけでよいのか。患者は公害とか労災とかでむしばまれるかも知れない。その患者を治療して、再び労働力を搾取しようとする元の社会に帰さざるを得ないのであれば、医者という存在は、全く資本主義の矛盾を隠蔽し、ゆがみの部分を担って本質をかくす役割をになっているだけではないか」(最首悟氏)
 この問いにたいして、わたくしたちはいま、誠実に答えなければならない。
 目を広く社会に向けて見ひらくとき、わが国はほんとうに国民の生命を守ることのできるような近代的な医療制度を持っていないことに気づかなければならない。医療が自由業であり、営利業である状況のもとでは、国民はサイエンティフィック・ミニマムの医療さえ保障されえないのだ。医療の倫理性も、それに科学性さえも、医療の営利性の前には影をひそめざるをえないのである。
 いま、医学生や青年医師たちは、わが国の医療矛盾の実態を厳しく見つめ、その本質を鋭く突きはじめている。それらを医療技術の問題に解消することは、もはや許されないだろう。それらは、わが国の社会の体質そのものの反映として、捉えられなければならないものであるのだ。」(高橋[1969:ii-iii])
★35 サリドマイド 『薬害資料館ネット版』 http://www.mi-net.org/yakugai/index.htmlより。
 「事件の概要
 サリドマイドは「安全な」睡眠薬として開発・販売されたが、妊娠初期の妊婦が用いた場合に催奇形性があり、四肢の全部あるいは一部が短いなどの独特の奇形をもつ新生児が多数生じた。日本においては、諸外国が回収した後も販売が続けられ、この約半年の遅れの間に被害児の半分が出生したと推定されている。大日本製薬と厚生省は、西ドイツでの警告や回収措置を無視してこの危険な薬を漫然と売り続けた。米国のFDAが認可せず、治験段階の約一〇人の被害者に留めたこととは対照的な結果となった。
 戦後の薬害の原点となる事件である。」
 五八年に販売開始。提訴は六三年から。和解は一九七四年。
★36 大腿四頭筋短縮症 注射による筋短縮症から子供を守る全国協議会編[1977]『筋短縮症――つくられた障害児たち』より。
 「外傷や、筋炎等の病歴のない本症の原因が、注射によるものであることが、当時専門学会では、ほぽ定説化されていた[…]。
 ところが、原因が明らかとなりはじめると、医療過誤の問題に発展する可能性を恐れたのか整形外科医のあいだでは、「小児科医が介在しており、整形外科医の発言は医療過誤の問題とも関連するので慎重でなければならない」(第三七回中部日本整形外科災害外科学会、昭和四六年二月)という風潮が強くなりはじめた。注射を繁用していた小児科、産科、内科医などへの配慮が、原因公表を控えることとなり、さらに多くの不幸な被害児を作り、また多くの医師を加害者に仕立ててしまったのである。医療の極致である予防対策が十分講じられえたにもかかわらず、これをあえて行なわず、小児科医が作り、整形外科医は切ればよい≠ニいう、結果的に見れば、手術の研究材料を他の医師に産生させていたというような、医療対象の人権無視が行なわれてきたのである。また、原因公表をおさえた結果、各地で集団被害が続発し、さらに整形外科医のあいだでも注射原因に対する認識が欠如し、整形外科医の注射で筋短縮症が作られた症例も続出している。
 以上述べた事実は、いったい「医療はだれのために、また学会とは国民にとって何であるのか」という医療、医学の存立にかかわる根本問題を提起しているのである。」
 〔他に●〕
★37 未熟児網膜症 高濃度の酸素投与によって生じたことで、全国で裁判になった。一九七四年、岐阜地裁で最初の患者勝訴判決。一九七九年時点で一四七件の訴訟。〔●〕
★38 高橋晄正[1973]「こんな教育がつくるこんな医師」
 「全国の新革新派学生は全共闘の占拠した安田行動に結集し、東大闘争は全国大学闘争の中核部分となったかにみえた。しかし、大学闘争には、日大闘争にみられるように別な中心もあったことからもわかるように、東大闘争の発火点となった医学部問題もまた、日本の社会がかかえている社会矛盾にたいするラジカルな追及の一つの現れであって、それらが全共闘的エネルギーのもとに一気に噴出したのが大学闘争であったのだ。
 だから、医学部内部においても、やがて医局内部の教授を頂点とする封建的体制、学位論文目あてであって社会とあまりかかわりのない研究の空虚さ、講座制にみられる学問体系の硬直性のもつ矛盾、講座制の延長上にある学閥の弊害などが、容易に動こうとしない古い医局員たちに鋭いメスとなって突きつけられた。だが、医局内部は小児科や精神科という少数の領域を除いてほとんど動かなかった。」(高橋[1973:218])
★39 「「森永ミルク中毒事件」と初めて出会った日のことは、いまでもよく覚えています。その日、ぼくたちが学会改革のスローガンを掲げて闘っていた小児学会の席上へ、森永ミルク中毒の被害者がやってきました。それは、ぼくにとって驚異的なできごとでした。
 被害者の代表としてやってきた石川雅夫さんは、当時まだ高校生でしたが、「昭和三〇年当時、赤ん坊だったミルク中毒の被害者を健診して、異常なし∞後遺症なし≠ニいいきったのは小児科学会に属する学者たちだった。その後、被害者は亡くなったり後遺症に苦しんできたりしたが、検診の結果、被害なしということになったものだからずっと偽患者のようにいわれ、世間から忘れられた。この責任はあなた方、小児科学会の全員が負うべきではないのか」と明快な言葉でぼくたちを告発したのです。
○会場からは「帰れ、帰れ」のやじが起こりました。それはこうした告発になんの心の痛みも感じない医者たちの冷ややかな応答でもありました。ぼくは怒りと悲しみの思いに包まれ、なんとかしなければと思いました。」(山田[2005:149-150])
 石川の文章として、石川[1973]「被害者・障害者の人権解放へ――ヒ素ミルクの十字架を負って」、梅崎・一番ヶ瀬・石川[1973]。
 「昭和四七年八月二〇日、私たちは一八年にわたる差別と抑圧に終止符をうち、苦しみを試練とし、解放をめざして立ちあがろうと決意した。それは、まず、仲間がつぎつぎと殺されていったこと、多くの親は結局先に死ぬ以上、今後私たちが生き抜いていくにはみずからの力で闘っていかねばならないこと、仲間で団結し私たち自身で立ちあがらなければ森永との闘いに勝利はありえないし、解放もない、という認識にみんながたったからであった。
 私たちはその日、@森永ヒソミルク中毒による後遺症の恒久的治療と、たとえ「障害」があろうとなかろうとそんなことに関係なく人間として生き抜いていけるための恒久的保障を勝ちとる、Aヒ素中毒による「障害」「病気」をもつ私たちに対する差別をなくす、B一致団結して闘い抜く、という三つの願いをこめて、「私たちのからだを返せ」というスローガンを決定した。」(石川[1973:113])
★40 日比逸郎[1973]「ヒ素ミルク事件と小児科学会」より。
○「問いかけにこたえられぬ学会
○昭和四三年の東大医学部紛争に端を発した医局講座制粉砕の医学生・青年医師の闘いは、各大学医学部・大学病院医局をゆさぶった。その余波は医局講座制の一支柱と化していた学会にも、学会紛争として波及した。小児科学会でも青年医師を中心とした学会改革運動が開業医会員をまきこんで、昭和四五年秋にはすでに一定の成果をあげていた。
○医学部紛争やこれらの学会紛争の過程で、大学教授のかつての絶対的権力と権威はかなりの傷をうけていた。かつて大学教授によってその理事を独占されていた小児学会も、理事の中に少数ながら開業医や病院勤務医が選出されるような状態にはなっていた。
 このような情勢をみて、守る会はまず全国の青年小児科医に、アピールを郵送した。それは、彼らに森永ヒ素ミルク中毒事件のいきさつを教え、彼らに「小児科学」が被害者を救いえなかったことを教えた。これは「学問のあり方」に対しての深い疑念から学会改革運動にとりくんでいた彼らの心をつよくゆさぶった。彼らはただちに守る会と接触し、被害者やその家族のナマの訴えを聞いた。
 四六年二月、守る会は学会の理事会に対して、森永ヒ素ミルク中毒の被害者の追跡調査と救済について、「学会の見解」を公開するように申入れた。それとともに、一六年間の空白をもたらした、かつての小児科学会の権威者たちの「小児科学」をどう考えるかと学会に問うた。すなわち、西沢六人委員会の作成した診断基準、治癒判定基準や、五人委員会の後遺症なしの結論、あるいは三一年のいわゆる精密検診、森永奉仕会と学会との関係などについて「学会の見解」を明らかにするようにとの申入れであった。
 患者が専門家集団としての学会にむかって、きわめて具体的にかつ学問的に医学のあり方について問いかけたのである。この問いかけに学会は答えるすべをもたなかった。
 一六年前に、西日本全体の小児科関係者のほとんどをまきこみ、当時、一九六編の医学論文や多数の学会報告を生みだしたこの事件について、「資料や情報の収集に努めているが、未だ見解を述べる段階に達していない」ので、理事会は小委員会を発足させて患者の問いかけに答えるべく資料・情報の収集にあたらせることを公約した。
 守る会はさらに追打ちをかけた。四月の学会総会に参加して、多数の小児科医に被害者として直接、語りたいと理事会に申入れたのである。理事会は困惑し、この申入れを拒否したが、改革派会員の働きかけに押されて、「休憩時間を利用して発言の機会を与える」ことを渋々みとめた。
 その日、守る会の岡崎事務局長は、被害者家族を代表して、小児科医に直接語りかけた。
 「事件発生後わずか三カ月で後遺症なしと判定した西沢説の非科学性は、被害者とその家族に一六年間の暗黒をもたらした。この悲劇はすべて医学の名において被害児に押しつけられたもので、この問題を避けて小児科医が医学や医師の倫理を語るほど罪深いことはない」
 この年はちょうど四年に一度の日本医学会総会開催の年にあたっていて、小児科学会も参加していた。主要テーマは「医の倫理」であった。
 岡崎氏は最後に、@森永乳業に働きかけて、同社のもっている被害児の名簿などの資料を学会に提出させてほしい、A被害児の救済に学会をあげて緊急にとりくんでほしい、という二点を学会の総意として議決してほしいと訴えた。
  森永事件は政治の問題
 守る会の一連の働きかけは、決して陳情ではなく、明らかに「小児科学」の本質とあり方についての問題提起であった。この問いかけては学会内部にさまざまな波紋を生んだ。もっともうろたえたのは、かつての西沢委員会のメンバーであり、岡山県で守る会の反対をおしてふたたび「官製検診」を強行しつつあった、いわゆる官製委員会のメンバーたちであった。
 彼らは理事会に対して、学会が森永問題をとりあげぬよう圧力をかけた。官製委員会のメンバーたちは岡崎発言の直前の評議員会や総会で、異様なまでのハッスルぶりで、学会が森永問題をとりあげることと被害者代表に発言の機会を与えることに反対して猛烈なキャンペーンをはった。彼らのやり口は「森永事件は政治の問題である。守る会は政治的偏向のある団体である。守る会は被害者のごく一部の組織で被害者の代表たりえない」といった、学会員の政治アレルギーを利用した偏向助長のアジであった。
 一六年前の事情を知る会員には「古傷にさわられたくない」という気分をひきおこさせ、事件のいきさつを知らぬ会員には「森永問題はどうもタブーのようだ」というタブー意識をもたせることに成功した。しかしそれと同時に、改革派の会員には、森永問題こそ学会改革の上で避けて通れぬ重要な試金石となることを本能的に察知させてしまった。
 守る会の問いかけは、会員間の医学のあり方についての意見の分裂を鮮明に浮き出させたのである。学会は右に左に大きくゆれ動いた。
○「被害者どうせ一六年お待ちになったのだから、ついでにもう少し待っていただいて、学会での発言などご遠慮いただこうではないか」という官製委員会メンバーの提案はさすがにとおらなかったが、「患者の訴えを真正面から聞くところから医学は始る。被害者代表を正式に学会に招待して十分にその訴えをきこう」という改革派委員の意見もとおらなかった。妥協の産物が、「休憩時間を利用して、非公式に一五分間だけ発言することを許してあげます」という結論であった。
 岡崎発言のあと、会員間の医学に対する意識の分裂はさらに鮮明となった。岡崎発言にひきつづいて森永問題を最重要議題として十分討論しようという改革派の声は、圧倒的多数の保守派によって葬りさられた。しかし、森永と学会の癒着を徹底的に追及した改革は医師の努力は、岡崎発言の重みとあいまって、「被害者救済を第一義とする」森永砒素ミルク中毒調査小委員会を総会の総意として発足させることに成功した。
 長時間にわたる議論にわく会議場や廊下を、心配顔の森永の社員が自由に出入りしていた。患者を会場に入れることには神経質な学会員も、森永という一企業の社員が会場に入ることにはなんの疑問も示さなかった。」(日比[1973:133-137])
★41 松下竜一(まつした・りゅういち) 一九三七年〜二〇〇四年、作家、市民運動家。全集に『松下竜一その仕事』全三〇巻 +別巻(松下[1998-2002])。豊前火力発電所建設反対運動で「環境権訴訟」を展開。「環境権訴訟をすすめる会」の機関紙『草の根通信』は、一九七三年創刊、松下没後の二〇〇四年七月第三八〇号で終刊するまで、一号も休むことなく発行された。
 この『草の根通信』の連載から生まれた本に山口平明 著・山口ヒロミ 銅版画[2000]『不思議の天音(AMANE)――イノチの際で共に棲まう私たちの日々』がある。『ちいさい・おおきい・よわい・つよい』を出版しているジャパンマシニスト社から刊行されている。
 「私たちのたった一人の子ども・天音は、生まれてから今日まで一九年間、誰にも理解されないままで暮らしてきた。ずっと家庭で暮らしをともにしてきた親ばかりでなく、その道の専門家であるお医者さんも「わからんねえ」とおっしゃる。言葉は通じない。天音の望を受けとめようとすると、ともに同じ家に住みともに時を過ごしていること、すなわち共棲/「在宅」だけがかすかな理解への入口になるはず。
 天音という存在は、一個の大きな謎である。だいいちおしゃべりできなくとも、歩けなくても親をはじめ周りの人間の扶けによってしっかりと生きている。生きにくくて重い重い「障害」をもっているのに。天音がくりだすなぞなぞは、解らないままで棲み暮らす、人間という生き物の「あいまいさといいかげんさ」をさとらせる。相互扶助ないし相互共棲とでもいおうか。『不思議の天音』たる由縁である。
 この本の文章は、大分県中津市で作家・松下竜一さんによって発行されている月刊「草の根通信」に、一九七七年三月号から九九年六月号にわたり連載執筆させてもらったもの。ここから編集者によって一九篇が選ばれ編まれた。妻・ヒロミの銅版画も連載時の順番をいれかえて収載できた。ここにきて、もしかして画だけが見られて文は読まれないのじゃないかと危ぶんでいる。」(山口・山口[2006:○]
★42 後藤孝典(ごとう・たかのり) 一九三八年生れ、弁護士。著書に『沈黙と爆発――ドキュメント「水俣病事件」1873〜1995』(後藤[1995])。他に後藤孝典編『クスリの犯罪――隠されたクロロキン情報』(後藤編[1988])。虎ノ門国際法律事務所のHP http://www.toranomon.com/annai/index.html
 水俣病裁判について。一九七三年当時。
 「判決が言渡される期日が近づくにつれ、事態の流れは勢いを強めて渦まきはじめた。
 三月八日、訴訟派と自主交渉派の患者が弁護団と、判決後の行動について打合わせをすることになった。ところがその会合で激論となり、患者たちと弁護団の関係に修復不能なまでの亀裂が入った。
 理由は二つあった。一つは、弁護団が判決後のチッソとの交渉を弁護団と国会議員が中心となって行うことを主張した点にあった。
 患者たちにとって、チッソとの直接交渉は、ボス交渉の場所ではなかった。魂の救済にかかわる空間であり、余人を容れようもない場であった。
 もう一つは、弁護団が一月二〇日に第二次訴訟を起こしていることであった。その原告のうち一〇人は環境庁裁決後に認定された人々であったから、この訴訟は川本たちの自主交渉を否定し、新認定患者のなかに別のグループをつくる意味を帯びていた。
 患者自身による直接交渉を否定して弁護団中心の交渉を主張し、自主交渉を否定して裁判を主張するということは、何もかも弁護団が中心になることであり、患者は単にそのための道具にしかすぎないことになるではないか。患者たちにとって、判決が出ようとするこの時期に、チッソとの直接交渉を妨げるものは、弁護団といえども許せなかった。
○判決五日前、訴訟派患者総会が開かれ、東京交渉を患者中心でやり抜くことが承認された。判決直前に、原告たちと弁護団との縁が切れるときいう不思議が起きた。
 告発する会も訴訟支援の県民会議を脱退し、弁護団に絶縁状を叩き付けた。告発する会にとっては、訴訟の理論立てと立証準備を担ったのは水俣病研究会であるという自負があった(水俣病研究会は告発する会の主要メンバーと重なり合っていた)。弁護団は、水俣病研究会が出版しようとしていた「水俣病にたいする企業の責任――チッソの不法行為」の原稿を丸写しし、第四準備書面として裁判所に提出してしまう不信を犯してもいた(後に撤回された)。訴訟でプロでさえなかった弁護団が訴訟外の交渉の場で指導者づらすることは許せないという理由であった。
 この一連の軋轢は、訴訟派と自主交渉派の、相互接近を触媒することとなった。訴訟派としては、判決後のチッソとの交渉を弁護団ぬきでする以上、自主交渉派と別個の組織を維持する理由はもうない。自主交渉派としては、判決を利用しない手はない。
○判決当日、訴訟派と自主交渉派は合体した。
○「水俣病患者東京本社交渉団」が結成された。」(後藤[1995:224-226])
★43○訴訟団が高裁で和解した後も高裁・最高裁で争う。本人がスモンでない可能性があるとして敗訴。二〇〇三年死去。その文章、インタビューの記録として古賀[1986][1999][2000]。
○「被害者のなかで、ぼくたち「支援する医者」にも鋭く批判をするのは古賀照男さんくらいでした。古賀さんはスモンの患者さんでしたが、病気になる前は労働者で、病気になった後で加害者である「田辺製薬」を追求(ママ)するときも作業衣のままだったりしました。二〇〇三年に亡くなられましたが、最後まで製薬会社の追求(ママ)をやめず、その姿勢にぼくは深く感動し、また多くのものを教えられたと思っています。[…]
 古賀さんの闘いでは古賀さんが主役で、医者も黒衣(ルビくろこ)にすぎませんでしたから、スッキリした気持ちでかかわることができましたし、古賀さんの言葉からあらためて日本の医療の問題点を見直すことにもなったりしました。
 しかし、被害者の人たちと医者とがこんな関係になれるのはめずらしいことで、医者が医療被害者運動の先頭に立ってしまうこともしばしばあったのです。」(山田[2005:242-243])
 〔●〕
 次に、田中百合子[2005]『この命、つむぎつづけて』より。〔田中は一九四七年生。七二年三月、薬害スモンのため、東京都を退職。七六年、スモン訴訟東京地裁原告団事務局長代理。七七年、スモン訴訟東京地裁原告団事務局長 〕
 「もうひとり、忘れられない人がいる。古賀照男さんである。
○彼は、神奈川県のスモンの会会員だった。いつも茶色のビニールの長靴を履いて、クラッチという肘まである松葉杖をカチャンカチャンと鳴らして歩いていた。
○胸と背中には「薬害根絶」という文字があった。汚れた布にいつ書かれたか分からないような手書きの字だった。いつも同じようなジャンパー姿だった。「それでよー、おまえよー、何考えてるんだ、しっかりしろ」というような、言葉使いは乱暴だったが優しい心根をもった人だった。
○東京地裁の裁判が和解に向けて怒涛のように動いていったとき[…]いつもわたしと行動をともにしてくれた。
○自分たちの弁護団のところへ何度も話し合いに行った。話し合ってもちらがあかないため、新しい弁護団をつくることができるかどうかを模索するため、二人で歩き回った。あちらの弁護士、こちらの弁護士、ほんのちょっとの知り合いにも紹介してもらって、とにかく歩いた。[…]しかし前にも述べたように、社会的な地位のある弁護団を解任して新しい弁護団をつくることは、もうここに至ってはできなかった。しかし、たった一人の弁護士だけが、第一次判決のときにわたしたちを助けてくれた。
○その後しばらくして、わたしたちの原告団は頑張ってはみたが判決を求めていくことができず、和解へと追い込まれていったのは、先述したとおりである。
○ところがこのとき、古賀さんともう一人の原告だけは絶対に和解しないと言った。わたしたち判決派の原告団では、決して和解を強要することはしまいと申し合わせていたので、古賀さんにはできるだけ協力することにした。
○とは言っても体力、気力の限界まで頑張った後に和解したわれわれだったので、古賀さんの闘いにおいて、わたしたちにできることは限られていた。[…]
○わたしたちスモンの原告団は、古賀さんの仲間だったはずであったが、時々のカンパを別にすれば、古賀さんと行動をともにできた者は結局いなかった。
○古賀さんは、強烈な個性の持ち主であった。彼は、自分だけを残して和解してしまったわたしたち原告団に対して、表面上はともかく、心の中に怒りを秘めていた。裁判にも負け、奥さんを失い、古賀さんの心で燃えるのは怒りのともしびだけだったかもしれない。古賀さんは、私たち昔の仲間に電話をかけては、怒りをぶつけた。
○わたしたちは、古賀さんに愛情をもっている仲間であり、古賀さんの気持ちは十分理解できると思ってはいたのだが、古賀さんに鋭く批判され、怒りをぶつけられたとき、体の具合が悪いわたしたちは、寛容の心をもってそれを聞き、ともに闘うということができなかった。
○私も電話をもらい、あまりに理不尽なことを言われて大げんかをしたことがある。同じ病で死ぬか生きるかのときちる、こちらも古賀さんのわがままをわがままとして受け止め続けることができなった。
○古賀さんは私たちを見放した。古賀さんは、自分の怒りを受け止めてともに闘ってくれる仲間と田辺に対する抗議行動を続けた。」(田中[2005:94-96])
★44 C型肝炎特別措置法について、北村健太郎[2008a]「C型肝炎特別措置法の功罪」、[2008b]「C型肝炎特別措置法に引き裂かれる人たち」。●
★45 一九八八年「当時から医師会の弁護士らによる講習では「決して謝罪しないように」という指導がなされていたが、これこそが賠償保険というカネに歪められた本末転倒の姿勢であった。この指導は現在でもいたるところで行われており、年を経ても何ら改善されていないことが明らかである。」(森[2002:8])
 この文章の著者(一九四〇年生まれ、大阪市立大学医学部卒、医療事故調査会代表世話人)――医療事故への対応策として「診療工程設定管理」他を提唱――による医学部闘争についての評価は以下。
 「一九六八年に始まった医学部闘争は、当初は自治会による医学部の機構改善闘争であり、人事、教育、講座制度の実質などを改革する「医学部民主化基本綱領」としてまとめられ、教授会決定までなされた。しかし、その内容が当時としては画期的すぎたのであろう。すぐに行政からの指導があったのか、その決定は反古にされ、以後は不毛とも言うべき全共闘方式の闘争に入っていった。日本医師会は当時も保険医総辞退を武器として給付率アップを求めることに終始しており、学生や若手医師の提言に何ら応えることはなかった。
 医学部闘争が収束した後、その提言は一切否定され、医学部は倍増されても教育内容は総体的に質的低下を続けることになる。遠くの活動した医師は巷間に散り、一部は小生のように国外に研修の場を求めた。当時闘争を担った医師群で現在は政治の場に立っている人たちもいるが、その多くは既に医学教育や医師および医療者の信任制度などの改革意欲を失っていると言わざるを得ない。」(森[2002:78])
 同じ本――共著者である和田努の著作については立岩[2008]の何箇所かで言及――に収録されている対談に以下の発言。
 「あのケースを担当している教授は、仙台のほうの自分が派遣されている病院に行って「じつは間違いをしているけど、それを認めてしまうと、日本医大に傷がつく。わたしにも傷がつく。だから裁判に持っていって風化させる」と言っている。裁判に持ちこんだら終わりですからね。もうオープンにはならない。」(森・和田[2002:175]、森の発言)
★46 例えば和田仁孝・前田正一『医療紛争――メディカル・コンフリクト・マネジメントの提案』(和田・前田[2001])。
★47 松田道雄 一九〇八年〜一九九八年、小児科医。著書に『私は赤ちゃん』(松田[1960])、『育児の百科』(松田[1967])などたいへん多数。『育児の百科』は毎年改訂された。現在は岩波文庫に収められている。松田を論じたものに山本崇記[2005]「松田道雄小論――戦後革新政治におけるその位置」、大谷いづみ[2006]「「市民的自由」としての死の選択――松田道雄の「死の自己決定」論」。立岩にも松田の安楽死についての態度に関して書いた短文〔「死の決定について・4――松田道雄のこと」〕があり、立岩[2009]〔●〕に収録される。
★48 横塚晃一『母よ!殺すな』([1975]、増補版が[1981])に様々を加えた新版(横塚[2007])の「解説」に次のように記した。
 「すくなくとも障害者差別に関しては「経済」が絡んでいること、これは明らかである。雇ってもらえない、賃金がろくに払われないことがある。この経済のもとで損をしているという現実は確かだ。資本主義の経済のもとではそうなってしまうとも言える。しかし、資本家が儲けようとしなければ違うかもしれない。消費者がものを安く買おうとしなければ違ってくるかもしれない。労働者が働けない人をおおめに見れば違ってくるかもしれない。すると基本は同じだと、つまり、それは「資本主義」の問題でもあり、また人間の「業」の問題でもある、と言える。だから横塚が言っていることは、折衷的でもないし、どっちつかずでもない。
 このように考えてみるなら、むしろ二つを違ったものとして考える方が間違っているということになる。どのように間違ってきたのか。一つには労働者の捉え方だろう。「資本制」を言う人たちは多く、労働者を被害者として、体制に対抗する勢力として捉えてきた。しかしそうだろうか。格別の悪意をもっていなくても、足手まといであるなら遠ざけようとするのではないか。すると、むろん、経営の合理化を進めているのは経営者であり、そのためにやむをえず、という言い方はあるだろう。それは当たっているだろう。しかしそれだけでもないだろう。消費者はどうか。施設の労働者は施設でどのように振舞うか(四四頁等)。だから、横塚たちの言い分は基本的には正しい。
 そしてこのことは「優生思想」についても同様だ。それで益を得るのは、「資本家」「国家権力」だけではない。「内なる優生思想」という言葉は以後よく使われるのだが、それは障害者自身にも、その思想・意識があることを言うのでもあるが、より基本的には、それ以前に、誰にでもあるものだという認識を示している。
 ただ、その上で、まるで同じなのかと考えていく、その道筋があるはずだ。すると、まったく同じではない、すべてをいっしょくたにしない方がよいようにも思える。そしてそのことも、じつは示されている。二つが並行して示されているからである。ではどのようにつながり、どのように分かれているのか。「合理」性の求められ方は経済のあり方によって違ってくる。そしてこの社会の仕組みから皆が同じように利益を得ているわけではない。ようするに、能力/非能力(障害)に関わって損得が違ってくるということであれば、それはすべての人に関わることであるともに、損得の分布は一様でないのである。
 こうして同じであるとともに、違うところがある。同じ欲望を有していても、それが大きく現れることと、そうでないことがある。だからやはり、社会の仕組み・仕掛けのことを、それはそれとして考えねばならない。これはそれなりに細々と考えねばならないことだから、学者の分析対象であるはずだ。しかしそう分析されていると思えない。それが課題として残される。しかし、そのようにして分析されるべきことが、この本において言われている。」(立岩[2007b:396-400]〔、この文章はHPで全文を読むことができる。〕)。
 同じ箇所を立岩[2008b]の注でも引き、そしてこの山田真へのインタビューにも言及している。
★49 松枝亜希子。学会報告に[2007]「薬を使用する際の葛藤・逡巡――病を巡る負担における力学について」、論文に[2008]「向精神薬への評価――1960年代から80年代の国内外における肯定的評価と批判」。〔●〕作成している資料として[2008-]「薬について(とくに精神医療で薬の使うことを巡る言説)」
★50 「そんなときたまたま、全障連という団体の全国大会が東京でおこなわれることを知りました。これに参加することで、共同戦線が作れるだろうと考え、森永ミルク中毒の被害者のひとりと、その大会にのりこんだのです。しかし、そこで待ち受けていたのは予想外な反応でした。[…]
 森永ミルク中毒の被害者は、この全障連大会の席で「自分たちは森永に対して、『からだを元に戻せ』というスローガンをつきつけながら闘っている」と発言したのです。ところが、大会に参加していた障害者の人たちから、このスローガンがさんざんに批判されることになりました。
 全障連大会に参加していた人の多くは脳性麻痺の障害をもつ成人でした。[…]彼らの運動の中心的な課題は、障害者に対する差別と闘うことでした。[…]
 そんな彼らの前に森永ミルク中毒の被害者が現れ、「からだを元に戻せと森永乳業につきつけている」と発言したのです。そこで、障害者の人たちから「あなたは自分のからだをよくないからだと思っているのか。自分たちはこんなからだにされた≠ニいうとき、こんなからだ≠ニいういい方にこめられたものはなんなのだ。元のからだに戻せということは、いまのからだを否定することで、それは障害のあるからだを差別する考え方ではないのか」といわれたのです。ぼくたちはこの厳しい問いに答えることができず、立ち往生してしまいました。
 さらに彼らは「自分たちは医者というものをまったく信用していない。医者たちが障害者に対してこれまでどんなひどいことをしてきたか、知っているのか」とぼくに問うたのです。そして、その日一日は、障害者の人たちのきびしい問いかけと糾弾を受ける一日になりました。
 ぼくは大きなショックを受け、その後しばらく障害者の運動から離れることになったのですが、結局、またその運動と出会うことになりました。
 […]それは一九八三年に生まれた娘が、障害をもつことになったからです。」(山田[2005:246-249])
 この時(一九七七年八月)の代表幹事は横塚晃一だが、病気入院中で大会には参加していない――七八年七月に死去。この組織の結成は一九七六年。編書として全国障害者解放運動連絡会議編[1982]『障害者解放運動の現在――自立と共生の新たな世界』。他に関西ブロックから出された「一問一答」というシリーズがある。ウェブ上に廣野俊輔が作成を継承している資料がある(広瀬[2008-])。
 ここでは、ヒ素ミルク中毒被害者の運動と脳性麻痺等の障害者の違いが言われているのたが、そうでない記述もある。さきに山田が言及した石川雅夫(森永ヒ素ミルク中毒被害者の会)の文章(石川[1973])、横塚晃一の文章(横塚[1973]――文章自体は後に著書に収録される機関紙掲載の文章)を並べている本(朝日新聞社編[1973])があり、そのコメント(大熊由紀子が書いたという)ではこの二つの会の共通性が指摘されている。
 「ここに紹介した二つの会には、いくつかの共通点がある。
 一つは守られる立場、保護される立場を抜け出し、自ら考え、発言し、実践しようとしている点である。さらに、「あわれな存在」としてつつましく助けを求めるという、多くの人びとに好感をもって迎えられる道より、はっきり自己を主張しようとしている点である。
 第二の共通点は、施設やコロニーを拒絶し、小規模な共同体を提案していることだ。[…]「街が拒否するから」「人が差別するから」「コロニーへ、施設へ逃げこみたい」というのが一〇年前の青い芝の会であった。街をかえ、人びとを変えよう。そのために街へ出ていくことから始めなければならない、と現在の「青い芝の会」は考える。
 このような思想の変化は”守る会”的な運動にも芽ばえつつある。たとえば染色体が一本多いために重い知恵おくれになるダウン症の親たちの会「こやぎの会」の人たちはいう。いままでの特殊教育の目的は「こどもたちを社会に」あわせることだった。しかし、それだけではだめだ、「社会をこの子たちに」あわせる運動をしよう、と。
○次章の精神神経学会の改革の底流にも、このような思想の変革があるように思われる。
○二つの会のもう一つの共通点は、自分たちを苦しめているこの「差別」の問題に執拗にかかわりあっていこうとしていることだ。」(朝日新聞社編[1973:126])
 ここで次章とあるのは福井東一「混乱の中から生れたもの――精神神経学会」。〔日本精神神経学会他の「改革」については『現代思想』●、阿部〕
★51 立岩[2002]「ないにこしたことはない、か・1」。
 「障害の肯定・障害者の否定が問題になった具体的な文脈がいくつかある。一つは優生保護法の「改悪」だった。障害者の存在を否定することではないかという批判があった。また「早期発見・早期治療」に対する疑問が示された。そして、一九七〇年代以降、社会運動のもっとも大きく重要なものは反公害運動だったのだが、そのある部分は障害者運動とかけもっていた。あるいはつながっていた。それは公害に反対し、加害責任を追及する運動であり、「健康破壊」として公害を糾弾してきたのだが、その主張に障害者運動の立場と矛盾するところはないか。一九八〇年代の後半、実際チェルノブイリで事故があったりもして、原子力発電所の建設・運転に対する反対運動が、そう長い期間ではなかったが、盛り上がった。そしてその中で、放射能によって障害児が生まれるおそろしさが語られ、そしてそのように語られることのおそろしさが感じられた。」([2002:48-49])
 その文章では、ではそのことをどう考えたよいのか、考えたことを書いた。そしてもう一度、『良い死』でこのことに触れている。
 「例えば水俣病の悲惨があったし、現在もある。また悲惨があったから、社会の多くの人たちに関心ももたれた。そのように感じ、そのことを言うこと、言い続けること、それは当然のことだとと思う。次に、原田が講演でも話したことだが、新潟水俣病のときには胎児性の患者は出なかった。つまり産まなかった。そういうことでよかったのか。[…]
 「だから自分の中で、優生思想のさ、はっきりしてないわけ。[…]障害っていうのが問題じゃないんだ、それを差別する社会なり、環境が悪いんだと。だから、健全者が変わりね、まちが変わり、変わるんだというのとさ、水俣みたいな[…]このからだを返せというさ、そういう思想、考えかたの、そのなんていうかな、つきあげというかさ、その絡みがいまいちはっきりしないのね。それの中で今ちょっと今、いろいろ調べようと思っているんだけどね。それを頭の中で整理しない限りは、自分でもね、どこまで医療がいいのかっていうのはあるわけよ。」
 このように言ったのは、一九四八年に新潟県に生まれ、学校には行かず(行けず)、やがて東京都立川市を拠点に障害者の運動・活動を率い、また裏方で支え、一九九九年に突然に亡くなった高橋修という人だ。私は彼から幾度か話を聞いたことがある。このインタビューは一九八六年。その記録や他の人によるインタビュー記録をもとに、彼が言ったこと行なったことを「高橋修――引けないな。引いたら、自分は何のために、一九八一年から」([20010501])に書いた。彼はこの後、ますます忙しくなって、このことについて何か書いたりすることはなかった。というか、彼はほとんど文章を残さない人だった。障害者の介助や移動の権利の獲得のための運動の前面にいたことを知る人は多い――それでも少ない――が、こんなことも考えていた。そのこんなことをどう考え継ぐか、そしてそれと「尊厳ある死」というものがどう関わるかである。」(立岩[2008b:170-172])
[…]と略した部分に、さきの「ないにこしたことはないか?・1」からの引用を置いた。そして、つるたまさひで[2000]「水俣病は終わっていない」にも以下。  「「障害者にされてしまった」障害者という問題
 水俣病運動には「こんな障害者にされてしまった」という感覚や思いが、いつもつきまとっているように感じる。露骨にこういう表現が出てくるわけではないが、「こんな身体にされてしまった」とか「この子は水俣病のせいで何にもわからんようになって」という表現はある。このことは、水俣病を原因としない障害者の友人・知り合いを多く持つぼくに複雑な感情を抱かせる。
 水俣病運動の世界では、障害のある身体の写真が告発のために多用される。ベトナムにおける枯葉材の運動もそうだ。そこからは、その障害を引き受けて、ポジティブに生きていくというイメージは絶対に生まれない。それは明確なマイナスイメージのシンボルとして多用される。確かに「されてしまった」というのは書いてきた通りだ。マイナスイメージを刻印された人たちが、障害のある存在として、その生を積極的に生きていくための言説が存在しなければならない。しかし、ぼくが知る限りでは存在しない。その言説の端緒を障害学に探すことができるのではないかと考えている。そして、この『証言 水俣病』の視点はそれにつながることが出来る広さと深さを持っていると思う。」(つるた[2000]、『証言 水俣病』は栗原編[2000])
 以上を受けて以下。
 「その人たちは、人が生きることができないことがあったり苦痛のもとに置かれていることを指弾してきた。その状態がよいと思ったのではまったくない。行動は悲惨から始まった。だが、その後起こったこと、起こらざるをえなかったことは、その人たちと暮らしていったりすることだった。暮らしはしないとしても、支援やらなにやらの関係で、その人に面することになった。その人が亡くなっていく過程につきあったり、あるいは生きていく過程につきあってきた。すると、いくらかは異なってもくる。その人たちを苦しめたことについて、その人たちの暮らしを困難にしたことについて、そのことを責めてはいると同時に、その人を肯定はしている。その批判・指弾は、その人が生きることを否定しない。すると、その悲惨をそのままに使うのは間違っていると思うことになる。
 これは矛盾ではない。死や苦痛や不便をもたらした者たちは、それだけで十分に糾弾されるに値する。その者たちを追及するのはよい。ただ、第一に、そのことを言うために、その不幸をつりあげる必要が出てくることがあるとしたら、それはなにかその人たちに対して失礼なことであるように思えるということだ。だから、それはしない方がよいと思うようになったということだ。その状態をよいものとして肯定しているわけではない。しかしそれは死を肯定することではない。その存在を肯定するから、それに死をもたらすものを責めることになる。」(立岩[2008b:176-177]
 「間違っていると思うことになる」に註があって、そこでは、ユージン・スミスの写真と、その「封印」について書かれたいくつかの文章からの引用を置いた。その中の原田の文章を二つ。  「水俣病事件の歴史で、支援に立ちあがり、重要な役割を果たした人たちの中に、これらの名著、名写真の強い影響を受けた人たちがいた。
 まさに、これらは高度成長後のわが国の未来に対する一つの啓示であった。患者が立ちあがり、市民・学生が立ちあがり、学者・弁護士をまき込んで、第一次水俣病裁判ははじまった。その間、ユージン・スミスの写真集は、水俣の現実を世界中に拡げる大きな役割を果たしたのである。」(原田[1985:307-308])
 「水俣高校で社会科の先生がユージンの智子の写真を見せて「環境を汚染するとこのような子どもが生まれる」と解説した。在校していた妹は手を挙げて「それは姉です。姉をそんな風に言わないでください」と涙ながらに抗議した。この教諭はその後、教育について深く考えさせられ、反省し真剣に障害と差別や人権と取り組むようになったと告白している。
 また、過剰なマスコミの取材の中、母親は東京交渉から帰ってきて智子を抱きしめながら「この子を見た多くの日本の人たちが、ああ、やっぱり、環境は汚してならない。怖いことが起こると、思ってくれたと思う。それで日本の環境が少しでもよくなって、会社や工場や政府の偉か人が、今から気をつけてくれるようになるなら、このような子ですけど、少しは世の中のお役にたったことになります。東京に行ってよかったと思います。やはり、この子は宝子ですたい」といかにもさらっと言った。いのちに”生きるべきいのち”と”生きる価値のないいのち”などあろうはずがない。
 この母親の言葉はとくに医療、福祉、教育の原点、いのちの価値を考えさせられるものでこれこそ、水俣からのメッセージである。」(原田[2007b:350])
 そしてその注の終わりは以下のようになっている。
 「普通に読んでいくと、原田のこの記述には辻褄のあっていないところがあるように思える。ではどう考えたらよいのか。あるいは言葉を足したらよいのか。そんなことを考えていくことが一つあるのかもしれない。」(立岩[2008b:230])
 それで考えたことが、さきに引用した本文ということになる。体系をもたないように見えるもの、「学問」の言葉で語られていないように見えるもの、言葉にしたらひどく短くなってしまいそうに思えるものがあるとさきに述べた。
 「それはこの国における「環境思想」をどのように捉えるのかにも関わっている。宇井純にしても原田正純にしても、その人たちが言ったことを煎じ詰めると、極めて単純な筋の話になる。つまり、差別のあるところに公害がある、「社会的弱者」が被害者になる。それだけといえばそれだけの話だ。
 「最初、水俣病患者の家を訪ねた時、患者たちの病気のひどさもさることながら、その貧困と差別の苛烈にショックを受けた。そして、この貧困と差別は水俣病が起こったために生じたと考えた。しかしその後、いくつかの国内外の公害現場を訪ねた結果、私は差別のあるところに公害が起こることを確信するに至った。」(原田[2007a:123])
 むろんその様々な出現の形態は様々であり、それに対する対し方にしてもまた様々ではあって、そうした部分ではいくらでも調べたりすることがある。実際、その人たちは、長い間そうした仕事を行なってきた。ただ、その「思想」は、縮めればずいぶんと短くなってしまう。もちろんそれでいっこうにかまわないのではある。なにか長々と、いつまでも論じることがよいなどということはないのだ。ただそうではあっても、わかりやすく見える言葉の上を私たちが滑っていってしまうことがしばしばあるなら、そしてそこでなされたこと、言われたことが大切だと思うなら、言葉をどのように足していったらよいのか、これは考えどころなのかもしれない。」(立岩[2008b:224-225])
 〔●「社会モデルについて」〕
★52 一九九八年六月一四日の京都での講演(山田[1998]「楽しくなる子育ての話」)の冒頭の部分。松田はこの月の一日に亡くなった。
 「先々週の水曜日でしたか、松田道雄さんが亡くなられまして、新聞社からいっせいにコメントや原稿の依頼がその日のうちに来ました。こういう時には新聞社がコメントを依頼するのに順番がありまして、一番が毛利さんで、次が私で、その時に毛利さんは海外旅行中だったので私の所へ集中して電話があったようです。京都新聞からも原稿の依頼が来まして、京都新聞から話があるのはめったにないことです。あらためて思ったのは、松田さんがお書きになった「育児の百科」というのは多くの読者に読まれたと思うのですが、それぞれのお母さん達の中には膨大な数の松田さんがいるだろうし、松田さんのようにたくさんのお母さん達と対話をなさった小児科医はないだろうということです。つい2〜3年前に大阪のお母さんから私の所に電話がありまして、「私は子どもの時にずっと松田さんに診てもらっていて、大人になって母親になっても何かあると松田さんの所に電話をして教えてもらっていたのだけれど、今回電話をしたら、自分も医者をやめて長いし、新しい事もわからなくなったので、山田さんにでも聞いてみたら…」と言われたのでこちらへ電話をしたという話でした。本当に亡くなられるまで、ずっとお父さん達やお母さん達に電話や手紙で相談をしてらしたと思います。
 そういう人なのですが、小児科医の中では評判が悪いのです。毛利さんも評判が悪いし、私も評判が悪いと思います。東京であるお母さんが子どものかかりつけのお医者さんの所へ行って、その医師の言う事が納得いかなかったので「毛利さんの本にこんな事が書いてあります」と言ったら、「あんな頭のおかしいやつの意見を信じるような親はもう診ない」と怒られたという話です。頭のおかしい医者ということになっているようです。だから小児科医などは松田さんの本を読んでいないと思いますし、松田さんの言った事は小児科医の中には広がっていないというのは非常に残念なことだと思います。
 松田さんのされた仕事を毛利さんが継いで、私なんかがバトンタッチして、みなさんにお伝えしていこうと思っているのですが、松田さんはいつもお母さんの味方でした。日本では多くの小児科医はお母さんやお父さんの味方ではなく子どもの味方だというのです。小児科なのだから子どもの味方でいいのでしょうが、実際は子どもが育っていく上で、幼児期は子ども自身はそんなに悩んだりしていませから、もっぱらお母さんやお父さんが悩んでいるのですから、お母さんやお父さんを励ましてあげた方がいいのですよ。ところが小児科医は子どもの味方だって言います。実際は子どもの味方にもなっていないのですけれど。本当に子どもの味方だったら、水イボのようなくだらないものをむしり取るようなおそろしい事をするはずがないです。」(山田[1998])
 「なぜ小児科かっていうと、これも幼いときから母に刷り込まれていたようなのです。母はこどものぼくに「東京と京都には偉い小児科医がふたりいる。東京には内藤寿七郎先生、京都には松田道雄先生。こういうお医者さんにあんたがなってくれたらうれしい」とよくいっていたものでした(松田さんは『育児の百科』で有名ですね。内藤さんは愛育病院の院長を務められた方です)。そんなことを聞かされているうちに、「松田さんのようなやさしい町医者になりたい」という思いがだんだんふくらんできたのです。それで「まず小児科医になり、それから松田さんの家に置いてもらって町医者修行をしよう」なんて考えたのでした。」(山田[2005:96])
★53 近代医療・代替医療に対して、脱医療が、しかしなにもなしというわけにもいかないから代替医療が示される。それは当初勇ましく主張されるのだが、やがて、近代医療とひ近代医療双方のよいところを取って合わせればよい、双方について効果を実証しながら使い分け組み合わせればよいということになる。おおむねそんな流れだったのだと思うし、帰着点もそれでかまわないと思うのだが、それにしても、実際にはもうすこし複雑なことがあったはずだから、見ておいてよいと思う。
 例えば高橋晄正は[1969]『漢方の認識』、[1972□]『漢方の認識 増補』●、[1972□]『中国の医学』●といった著作を出しながら、次のように言う。
 高橋「中国医療に関連して大きな誤解が親中国派のなかにもある。ハリ・キュウや漢方は、中国人民が二〇〇〇年来親しんできた「土法」ではあるが、近代科学としての検証をうけたものではない。しかし、病気の初期や軽いときはあれで十分彼らは健康を守ってきた。腕の接合術にみるような高度の上部構造の医療の、底辺を支える初期治療、軽症治療の基盤として、かりにその大部分がプラシーボ的なものであるとしても、有害度の強い西洋薬の不必要な浸入を遮断する役割を果たしている。
 その中国社会主義社会での巧妙な位置づけを見おとして、技術だけを盲従的に日本に導入しようとする誤った親中国派が、学生層のなかにまである。だが、新しい科学的社会主義社会の建設を目標とする新中国に、超科学的神秘性をもった技術を期待することほど矛盾していることはないですね。ハリ麻酔剤を別として、ハリ・キュウ・漢方はすべて、”伝承仮説”として私たちは科学的にとらえなおさないといけないのです。」(高橋・中川・大熊[1973:173-174])
 そして一九九〇年代には「漢方薬は効かない」といった本を何冊も出している。
 次に山田の一九七一年頃。
 「医者は、鍼灸師の免許をもっていなくても鍼をうつことができるという”特権”をもっています。しかし、鍼をうって収入を得ることはできません。つまり、サービスとしてなら医者は鍼を打つことができるわけです。
 実際に鍼をやってみると、肩凝りや腰痛に対して目を見張るような効果があります。ぼくの医療のなかに鍼はきっちりと位置を占めるようになりました。
 そして、鍼の魅力にとりつかれつつあったときに三里塚に行くことになったのです。
  ぼくは肩凝りや腰痛に悩まされている人たちの家を訪れて鍼治療をしました。鍼治療は人気があり、ぼくはひっぱりだことになりました。医療団のなかには先輩の整形外科医もいましたが、ぜんぜんお呼びがかからないという話を人づてに聞いたことがありました。彼は「近代医学が鍼なんかに負けるなんて世の中まちがっいてる」と嘆いているとの話でした。しかし、肩凝りなどの治療なら近代医学的な方法より鍼のほうが勝っているのは明らかなことです。」(山田[2005:190-191])
★54 熊木徹夫[2007]『精神科のくすりを語ろう――患者からみた官能的評価ハンドブック』、神田橋・兼本・熊木編[2007]『精神科薬物治療を語ろう――精神科医からみた官能的評価』
  「これは私が提唱したものですが、具体的には「処方あるいは服用した薬物について、患者さんあるいは精神科医の五感を総動員して浮かび上がらせたもの(薬物の”色・味わい”といったもの)や、実際に使用してみた感触(薬効)、治療戦略における布置(他薬物との使い分け)といったもの」を指して、官能的評価と言います。」(熊木[2007:14])
 神田橋條治(かんだばし・じょうじ)は一九三七年生れ、精神科医。
 〔●齊尾〕
★55 青年医師連合 一九六七年、東大メンバーの呼びかけで全国的に組織化され、医局講座制などを告発。山田は四二青医連(昭和四二年度卒による青医連の意)委員長。●〔註17〕
★56 山本 真理(やまもと・まり) 一九五三年生れ、一四歳で「発病」、一九八一年から全国「精神病」者集団会員、ペンネーム長野英子(ながの・えいこ)。著書に[1990]『精神医療』、その増補改訂版(末尾に収録する法律を「精神保健法」から「精神保健及び精神障害者福祉に関する法律」に変更)に[1997]。訳書にメアリー・オーヘーガン『精神医療ユーザーのめざすもの――欧米のセルフヘルプ活動』(O'Hagan[1991=1999])。
 『精神医療』の終わりは「私達「精神病」者の求めるものは?」となっていて、そこに五つが列挙されている。@食べさせてください、A休養させてください、B情報を与えてください、C防衛して下さい、D政治活動へのオルグをしないでください。Dの説明の一部。
 「私たち「精神病」者が自らの人権を取り戻すために政治闘争も含めて闘うことは当然の権利だが、その前提は生活と病状の安定である。そのために周囲の「健常」者はまずいままで述べてきたことを第一の任務とすべきである。共に闘うということは、集会やデモに同席することをいうのではない。むしろ「精神病」者の生き延びる闘いに学ぶことこそが、共に闘うことではないだろうか? そして「精神病」者とのそうした関係こそが、「健常」者をも含めた人間の解放のイメージをより豊かにするのではないだろうか?」(長野[1990:152])
 長野(山本)は、政治活動をメーリング・リスト上でしてはならないといったクレームを、「セルフ・ヘルプ・グループ」のメーリング・リストで受けてしまうという、政治的な人なのだが(人でもあるのだが)、しかしある種の政治活動はやはり迷惑なのだ。〔二〇一一年十月に、●〕
★57 そこで働いてきた医師が記した著作として富田三樹生[2000]『東大病院精神科病棟の三〇年――宇都宮病院事件・精神衛生法改正・処遇困難者専門病棟問題』。〔●〕
★58 さきにも紹介した小澤編[2006]の紹介をしたことがあるのだが〔●〕、そこに以下のように記した(立岩[2009]●に収録される)。たしかに経験を積み優れた医者(援助者)が、かつての「政治主義」の反省も経た上で、書くものについて。
 「この本全体の中で若干浮いている感を与えているのが、天田城介の文章なのだが、ここでは対談のところを。司会とともにしつこく突っ込み、小澤が同じように返す。これが反復される。
 天田「療法の否定と、療法がときとして意味をもつということ。そのへんをどうやって言うかがテーマですよね。」→小澤「目の前に困った人がいれば、やっぱり助けるために動く。だけど、それが場合によってはその人を傷つけているかもしれないということはつねに念頭においておく。」(p.197)
 司会「いろいろな軸が同時に立っている。」→小澤「それはそうかもしれない。いい加減なんや。」
 司会「そのいい加減さを聞きたいのです(笑)」→小澤「臨床家というのはだいたいそんなもんやね。折衷というか、使えるものは何でも使ってみようとするのです。」(p.200)
 天田「一見矛盾するこの二つの事柄が並列的に接続している。それは単に臨床家としてプラグマティックにやってきたからというだけでもないのではないかと思っているのですが。」→小澤「それはわからないなぁ……。」(p.201)
 天田「規範の内部で起こるあれこれに対してはひじょうにクールなまなざしをされていますよね。であるにもかかわらず、規範に呪縛されざるを得ない人たちへは「寛容」であり、多元的な価値を許容することろがありますね。それは何なのだろうかというのが読んでいてもよくわからなかった。」→小澤「何なんだろうな。ぼくもようわからん。ただ、そうも言っていられないことがあってね。[…]うつ病の人もたくさん来るんですよ。そうすると嫌いやとか、なんだこいつらはと言うわけにもいかないのですね。」(p.202)
 天田「ただ先生、いくつかの価値が同居しつづけるためにはそれなりの足場があるのかなと思うんです。」→小澤「足場ねえ。わからないけど、やはり生涯、ずっと現場に居つづけたということでしょうかね。」(p.203)
 そして対談の最後も、小澤「そうかもしれないけど、うーん。やっぱり自分ではわからないな(笑)」(p.204)と終わる。
 人は多く、相手に「わからない」と答えられると次の話題に移っていくのだが、ここでは同じパターンが続く。何が起こっているのか。
 この世には様々にあれかこれかという軸があるのだが、いずれでもないとかどちらも大切だということもある。なるほど。ただこのようなこと自体はとくに「ケア」が語られる時にはよく語られる。そしてそれはたぶん間違っておらず、だからこそ語られる。しかしここで執拗に問われているのは、二つをどう両立させるのか、あるいはどう混合し配合するのか、その根拠は何かだ。
○それに対して小澤は、一つにはわからないと言い、一つは臨床をずっとやっていてそうなったのだと言う。そしてそれは、以前の「偏向」の反省という文脈でも語られる。小澤が一九七〇年から勤めた京都の洛南病院と言えば、当時の精神医療を巡る社会運動を知っている人は知っている病院だ。その頃のことを小澤は同業者である滝川一廣との対談で語っている。
 「むかし「反自閉症論」ともいえる本●を私が書いたときに――かなり政治的な背景があって書いた本だったのですが――、滝川先生に「こんなことを考えても、臨床的に何の役に立つんだ?」と批判されたのです。それが私にはだいぶこたえてね。以来、自分の臨床体験にもとづかない文章は書くまいと思ったんです。」(p.68)
 「やはり運動に巻き込まれていると「社会が変われば人間も変わる」というような感じが強かったのかもしれませんね。[…]もう一度臨床に沈潜して、基本的なものごとから考え直さないと、「とうていこのままではやっていけないな」と、どこかで感じていたんですね。」(p.79)
 「精神医学に対して「こんなことを考えていたら、患者さんのこころからどんどん離れていくじゃないか」と思っていたんですが、中井[久夫]先生の本を読んで「こういうふうにていねいに見て、それを言葉にすることが本人へのやさしさに結びつくんやなあ」と思ったんです。/ぼくが洛南病院にいたときに、週一回、みんなで集まって読書会をしていたんですよ。最初は『反精神医学』だとかクーパーだとかを読んでいたんですが、あるとき中井先生の本を読んで、そのあたりからだいぶ気持ちが楽になりましたね。」(p.93)
 そしてその上で、医療者・専門家という立ち位置に自覚的であることの大切さを語る。どんな立場で何をしているのかをわかりながらやれということである。
 むろんそれはとても大切だ、言われたことはわかる。しかしそれだけではないだろう。そう天田は食い下がっているのだ。それももっともではある。長く現場を続けてきた人たちはたくさんいる。そんな人たちの中には「臨床」や「現場」という言葉を、私のように机上の空論を組み立てている輩への「殺し文句」のつもりで使う人たちもいて、そういう人たちは自己を省察することが少ないだろうが、もっとまともで自らの立場を自覚し相対化できる人もまた多いだろう。ならば皆が同じ考えに至るだろうか。そうも考えにくい。ならば小澤については何があったのか。これは気になる。
 本人の言葉としては経験を重ねてきただけというのはありだろう。しかし、このことは三井さよの『ケアの社会学』(2004、勁草書房)の書評でも述べたのだが、他人はそれで終わらせられない。また、実践の方向としても、つねに以心伝心、実際に見て覚えよとは行かないなら、どうしようということになる。ではきまりを決めるか、マニュアルを作るか。しかし、それ(だけ)ではまずいだろうところから話は始まってもいたのだ。小澤も、自らが「棒の如きもの」に貫かれてやってきたと言う(p.188)。それは何か。言葉にできるようなものであるのか。(続く)」(立岩[2001-(61)→[2009]●)
 連載のもう一回を使ってこの本の紹介を行った。そこに何か結論めいたことを書いたわけではない。ただ私は、書けないこと、決められないことが多々あることを重々承知した上で、しかし、「分析」できること、書けるがあると思うから、書いている。
★59 石川憲彦(いしかわ・のりひこ) 一九四六年生まれ。れ。精神科医。東京大学医学部卒。一九八七年まで東大病院を中心とした小児科臨床、とりわけ障害児医療に携わり、共生・共学の運動に関与。患児らが成人に達し、東大病院精神神経科に移る。一九九四年、マルタ大学で社会医学的調査を開始し、一九九六から静岡大学保健管理センターで大学生の精神保健を担当。同所長を経て、現在は林試の森クリニック院長(石川・高岡[2006]より)。医療と教育を考える会は、東京大学付属病院内に事務所がおかれ石川憲彦らを中心に運営された。
 [1988]『治療という幻想――障害の治療からみえること』に、いろいろと考えることがある。
 「「『障害』は病気ではない。だから直す対象として『障害』をとらえることが誤っている」という障害者からの指摘は正しいと思う。しかし、病気と「障害」との差異を強調することだけでは不十分である。それは、たちまち「障害」だけを孤立させることになる」(石川[1988:35-36])
 「戦後四十年。脳性麻痺の治療学は、古典的医学の治療という発想の下では、まったく進歩がなかったといってよい。なぜなら「一度破壊された脳細胞は再生しない」という、医学の命題はまだ解決されていないからである。
 にもかかわらず、映画「さようならCP」●がその内容をよそに表題のみが社会的に利用されたように、相次いで日本に上陸した早期療法(2)の宣伝によって、一九七〇年代は「脳性麻痺は直る」「紀元二千年に脳性マヒ故に歩けない人は存在しなくなるであろう」といった宣伝が公然と登場してきた。これは[…]”戦後の人権意識”に強く支えられた”療育”の立場から語られ始めた。筆者もボイタ法の講習会に参加して、何カ月かこの熱狂的叫びにとらわれ、心揺さぶられた体験がある。
 しかし、この数年、次第にその熱気は冷めつつある。日本脳性麻痺研究会のこの二年の記録は、それを物語っている。同記録『脳性麻痺研究』のNo.3(一九八三年)及びNo.4(一九八四年)は各々、「早期療育」「脳性麻痺は減ったか」のテーマにおいて、リハビリテーションへの基本的な疑問を投げかけている。一言でいえば、「脳性麻痺は減ったが、その主役は胎児新生児病学における治療技術の進歩であり、療育によって減ったといえるのだろうか」という内容の疑問である。」(石川[1988:139-141])
 どんなことが起こってきたのか。立岩自身は調べることができず、その方に勧誘する文章を書くぐらいのことしかできない。古井透に[2003]「リハビリテーションの誤算」を書いてもらった。立岩の勧誘文――[2003]「現代史へ――勧誘のための試論」――も載っている『現代思想』の特集号に掲載されている。〔脳性マヒ●〕
 〔『治療という幻想』について最首悟は次のように述べている。
 「石川憲彦は、東大病院小児科、精神科勤務を経て、静岡大学教授になり、いまでは「林試の森クリニック」を開いています。彼の書いた『治療という幻想――障害の医療からみえること』(現代書館、一九八八年)はお薦めの本ですここで、石川憲彦が「直り」という言葉を復活させた意義は大きいと思います。

 直るということばの響きは、あくまでも能動的である。この能動性は、直ってゆく主体の広がりをいくらでもふくらませてゆける。私が直ったり、私とあなたとの関係が直ったり、社会が直ったりと、一つの直りは主体を白由に開いてゆく。また、直りの質も、多様に広がりをもっている。「病気は直らなかったが、希望に満ちあふれている」という居直りともいえる質の直りすらが、直ることの質を広がらせる。〔同書、三六頁〕

 私は水俣に調査に行ったときに、旅館で「先生、お荷物を直しておきました」と言われて、すぐには意味がわかりませんでしたが、「元の場所に戻しておく」と「秩序ある状態に整理する」の二つの意味が込められた日常の言い同しだったのです。そのような「直り」として「治り」を捉え返すことで、医療現場が病院という特殊な場だけでなぐ社会全体に広がっていき、また「治癒」のイメージも変わっていきます。
 石川憲彦は、「直り」からさらに一歩踏み込んで「居直り」とも言っていますが、私は最近、「居座る(sit-in)」ことを提言しています。[…]  そのように「居直り」の境地に達した石川憲彦から見ると、古典医学は「ごまかし」であり、予防医学は「まっさつ」であり、リハビリテーションは「ぺてん」であり、教育は「せんのう」であるということになります。『治療という幻想』の第二章は「てんかん――古典医学(ごまかし)的治療」、第三章は「先天異常――予防医学(まっさつ)的治療 」、第四章は「脳性麻痩――リハビリテーション(べてん)的治療」、第五章は、「言語――教育(せんのう)的治療」ルいうタイトルがつけられています。」(最首[2013:276-277])
★60 『季刊福祉労働』 障害者・保育・教育の総合誌。季刊福祉労働編集委員会編、現代書館発行、一九七八年創刊、第一号の特集は「義務化される養護学校とは」。最新一一八号は特集「学テと特別支援教育が同時に始まった」。各号の特集テーマ、また初期のものについては、収録されているすべての文章の書誌情報をHPに掲載している。
★61 以下は教えられる場所というより、考えてしまう箇所。
 「高岡 自閉症脳障害説に関しては、例えば自閉症協会でもそういうふうに言っていますし、これまでの親の育て方が悪かったという誤解に対するアンチテーゼとしてはそういう言い方で私は十分いいと思うのです。しかし、この説で何が証明されるかというと、私は永遠に証明されないだろうと思っています。自閉症というのは、胃がんや骨折とは、全く違う領域の話ではないかと思うからです。」(石川・高岡[2006:41])
 「石川 私も、医者の立場から親の育て方に対するアンチテーゼとして自閉症脳障害説を認めたというところでは、そこは半分そうだと思う。でも、それを医者が言ってはおしまいだとも思う。高岡さんがよく言われるうつ病の話と同じだと思います。「うつ」は日本では根性のせいとか、甘え、だらけというふうに批判的にみられてきた。それに関するアンチテーゼとして「うつ」は病気です、というのはいいように見えるけれども、気がついてみたらその結果アメリカでは女性の四分の一は「うつ」で一〇%位の人が薬を飲んでいるという話にまでなってしまった。」(石川・高岡[2006:42])
 「それを言ってはおしまい」はわかる気がするのだが、ではどう考えたらよいか。『みすず』での連載(立岩[2008-]●)で考えてみようと思う。
★62 「春以来寝たきりだった義父が、一〇月に他界しました。義父の看病を通じて、老化と障害について再び考えはじめていた矢先、金井康治さん、熊谷あいさんと相次ぐ突然の悲報がまいこみました。金井さんは二〇年前から、熊谷さんは現在、障害児が普通学級で学ぶ道を、きりひらき、共生への歩みを求めつづけてきた障害児者でした。
 そして、義父の葬儀に追われてほんの数日留守にした間に、追いうちをかけるように母が入院。あれよあれよというまもなく、寝たきりになってしまいました。
 一〇年前、父が九〇歳で死んでから、母は希死願望をもつようになりました。「何もできなくなった。生きていてもしかたない」というのです。とりわけ身体の衰えが目立ちはじめた八〇代後半からは、私の顔を見ると「なんか、医者やろ、楽に死ねる方法、教えて」と訴え、ついには「殺して」があいさつになります。
 職業柄「死にたい」と訴える人とのおつきあいは少なくありません。しかし、親子となると、つい口論になります。
 […]「自分より弱い人のことを、自分以上に大切にしなさい」が口ぐせで、私は小さい頃から毎日念仏のように聞かされて育ちました。私が医者になったのはこの口ぐせの影響が大です。
 その母から、「殺して」と頼まれると、むなしくて、つい本気で怒りをぶつけてしまいます。[…]
 「気持ちがわからないのではありません。その生いたちから気位だけで人生を支えてきた母のこと。人にしてあげることは大好きでも、されることにはがまんできない。それが、自分がどんどん無力になって、一方的にされる立場になっていく。金井さんをはじめ、障害者とのつきあいがなかったら、きっと私も、母の気持ちに深く同調し、尊厳死を願っていたことでしょう。
 「できなくなったら終わり」「人のお世話になりたくない」。この潔癖すぎる個人主義は、人間と人間の本来の関係を否定します。できないままの自分を素直に生き、おたがいに迷惑をかけあうところから、初めて本当の人間関係が始まる。障害者の主張を、そんなふうに聞けるようになり、すべてを一人で背負いこむ自己完結型の自立を幻想であると理解できるまでには、ずいぶん時間がかかりました。」(石川[2005:136-137]、初出は『ちいさい・おおきい・よわい・つよい』2000冬
 安楽死・尊厳死について考えた[2008b]『良い死』でまったく同じ箇所を引いている。文中に金井康治のことが出てくる。立岩も、『そよ風のように街に出よう』――ある人たちにとっては(と限らなくとも)『季刊福祉労働』と同じく重要な雑誌であってきた――に書いた原稿でこのことに少しふれている〔これもまた連載のようなことになってしまっていて●〕。
 「学校や教育に関係するところでは、七九年の養護学校義務化実施の前後、とくに東京周辺では、金井康治さん(一九九九年に三〇歳で死去)の普通学校就学運動が具体的かつ象徴的なものとしてあった。[…]七七年に東京城北養護学校から<0034<足立区立花畑東小学校への転校を希望するが拒否される。七八年に自主登校が始まり、七九年に運動は全国に広がる。八一年――つまり国際障害者年――三月、当時の鈴木首相が「学校選択には親の意見尊重」と国会答弁、といった記述もある。そして一九八三年三月、「金井君就学闘争 区教委が校区校の花畑北中への入学を認め、二〇〇〇日余りの闘争に決着」などと出てくる。
 私は一九七九年に大学に入って四年いたから、かなりかぶっている。だが、その時々には聞いて知っていたはずだが、例えばいったんの決着を見たのが、大学を出たのと同じ八三年三月だったというのは、年表を見て、へー、と思ったというぐらいだ。直接に関係したのではないということもあるかもしれない。前回名前を出した高橋秀年という男はそこにかなり真面目に関わっていた。また、ずいぶん後で知り合うことになって、いまはアフリカのことで私たちの――グローバルCOE「生存学創成拠点」というものの――企画に協力してくれている斉藤龍一郎(東京大学教育学部卒業後、解放書店勤務、現在アフリカ日本協議会事務局長)もこの一件に関わっていたという。だが私は、この件で集会だとかデモだとかに参加したことはなかった。
 ただ、このことについて普通学校への就学を支持する自治会の決議やらにすこし関わった(賛成した)ことはあった。前回にも書いたけれど、この主題は、「左派」ということになる人たちの間の争点の一つだった。こんなことも説明しないとならないようになりつつあるのだろうと思うのだが、共産党系の人たちとそうでない人たちが、他の人たちから見ればどうでもいいような争いをしていた。つまり、「そうでない人たち」(のある部分)が養護学校の義務化に反対して、金井さんはじめいくつかの就学運動を支持した。そして本誌『そよ風のように街に出よう』にしても、『季刊福祉労働』(現代書館)にしても、そうでない系の人たちが始めたメディアであったのだ。そして、東京大学であれば、一・二年生の全学生が属する教養学部、そして法学部、経済学部といった学部の自治会の多数派は、共産党系の人たちだったが、その頃の文学部の学生自治会である文学部学友会はそうでない人たちが多数派をとっていた。哲学、東洋史、社会学といったあたりにそういう傾向の人たちが一定いた記憶がある。私は社会学科にいてそんな傾向だった。それで毎度の学生大会で金井就学闘争への支持を議決したりしていたのである。[…](ちなみに、本誌で言ってそう意味があるのかわからないが、私は、以前そうして対立した人たちと、べつに喧嘩をしたいわけではなく、とくにこれから、いっしょにやっていける部分がある部分については、いっしょがよいと思っている。)
 […]この運動・事件については異議なしだったし、今でも異議ない。基本はそれでよい思っている。ただ、様々考えていくとこれはなかなかやっかいな問題だろうなとは、その当時から思っていた。私たちはこのあと十年ほどして、『生の技法』という本を出してもらうことになるのだが(安積他[1990][1995])、そこにも、教育の話と労働の話は難しいからこの本ではしないと書いたのだった。
 入学時の選抜について、身体障害は論外として、知的障害となるとどうなのだろうと思ってしまう。あるいは、小学校中学校はよしとして、高校もよしとして、大学となるとどうなのだろう。入試全般をやめてしまうというのはなかなかよい気がしたが、すこし現実的に考えてしまうと、どうなんだろうと思って、どう考えたらよいかよくわからなかった。
 わからないところを残しながら、おおむね、金井さんを支持している人たちがよいと思った。よいと思ったが、わからないところも残った。」
 この闘争について『季刊福祉労働』に康治の母親である律子が書いた文章が多く掲載されている。そして金井闘争記録編集委員会編[1987]がある。[1989]『ぼく高校へ行くんだ――「0点」でも高校へ』の著者である佐野さよ子による書評もやはりその雑誌に載っている。〔●堀の著者があるが、〕
★63 「「障老病異」と暮らす社会を目指して」『京都新聞』二〇〇八年一月七日。以下全文。
「▽「生存学」という看板で何をするんですか。
△いろいろ、なんでも、です。ただ一つの目のつけどころは「障老病異」です。人は病気になるし障害があるし年をとる。人は違うし、変化する。治らない病気もあるし様々な失敗・加害もある。しかし医療にしても福祉にしてもそういう面はあまり見ない。医学部の図書館に病気の本はあるが病人の本はない。これまで何があったのか、人々は身体について何を考え、社会に対して何を言ってきたのか。本を集めたり、人に話を聞いてまわるのも一つの仕事だと思ってます。資料室を今整備しているところです。
▽すると生や死のとらえ方はどう見えますか
△現代人は死を忘れているとかよく言われますけど、実際にはもう長いこと「よい死」のインフレという感じです。
 本を集めていくと「自分らしい死」「良い死の作法」みたいな本が山ほどあります。けっこうなことかもしれません。しかし悲しくもある。最期まで自分の物語を作り語って、きれいに、迷惑かけずにこの世を去ろうというわけです。しかし現実はそんなに調子よくはいかない。しかしその現実を拒否する。設定された「よい死」に向かうコースから外れることを恐れ、早めに死んでしまおうみたいなことになる。
▽「過剰な医療」を拒否しようといった主張とつながっているんですか
△たしかに薬出せば出すほど利益になるといった仕組みのもとでは余計なことが行われることはあります。それに対する批判は必要だし有効です。
 けれどもすでにそこも変わっていて、金が入らない部分からは医療は撤退している。撤退せざるをえない。かつては体制の批判としてあった「過剰な医療」という主張が今は体制に迎合する主張になっているわけです。そんな部分も押さえておく必要があります。
▽すると「自分で決める」というスローガンは
△これも、今や、早め早めに人生終わらせようという流れに組み入れられていると思います。もともとは、人の言いなりでは生き難いから自分の暮らしのことは自分で決めるという主張なのですが。
 医師たちに聞くと、かつて使命だ仕事だとやってきたことをしなくてよくなっていると言う。医療者は情報と技術を提供するがそれ以上はしないと。死にたいと言えばどうぞということになる。
 それでよいのか、と当の医療者たちも思っていながら、これが世の流れだとなると、そういうものなのかなと思う。手がかかる人に手をかけない方が、楽は楽だしね。
 こんな具合に寿命が切り詰められることになっています。必要なことをしない医療を「過剰」と言い、必要なことをしないのも許容してしまう。自分が決めることだとされるけれど、その当人は、見栄を気にし、周囲の人に気兼ねし、金を心配し、といった人たちですから、死ぬ方に傾く。そしてまわりはそれを、中立を保つとか言って許容する。むしろ歓迎する。
▽その背景にあるのは
△すごく大きく言えば、この長々と続いている近代という時代がそんな時代だということです。能力、特に制御能力、知的能力への信仰があるから、人はそんな人間像から必ずはみ出すという現実を否定してしまいます。
 そしてもちろん具体的には、今や小学生でも知っている「少子高齢化」というお話があります。
 高齢者の割合の増加は事実です。けれどこの話は、心配しなくてよいことを心配させ、人々をむだに暗くさせてもいる。そんな話がなぜどのように浸透してしまったのか、そしてこの話のどこが怪しいのか検証する必要があります。ただ結論だけ言えば、暗い話を真に受けてはならない。
▽命を大切にという教育はなされていますが、凄惨な事件は後を絶たない。命の何が見えなくなっているのでしょうか
△校長先生が「命を大切に」とか言うだけなら金はかかりません。簡単です。だが空疎です。命を大切にするための金をかけてない人たちが「命を大切に」というのは、自らがその言葉を裏切っているのだから、その言葉自体が信じられなくもなってしまうわけですよ。ならかえって言わない方がいい。それを言うなら、そのためのことを実際にやれということです。簡単なことです。
 そして、誰もがとんでもないと思う事件がこの社会を映しているのではないということです。もっと普通に、財源の限界とかもっともらしい理屈をつけて、人が生きるためのこと、人の世話、生命の維持がなされていないことが、人を苦しませる。すべきことをせず、世を憂いても、お説教を垂れても、仕方がない。」
★64 「一つ、誰が何を言おうが、誰に何を言われようが、よいものはよいと横塚は言った。次に一つ、それはじつは人がわかるはずのことなのだと、わかっているはずのことなのだと言った。しかし、いずれももっともであるとしても、そのことが結局は伝わるはずのことであるとしても、実際には対立がある。実現されねばならないものがある。生きるための手段が必要で、それを得るためには「現実的」に対するしかないではないか。具体的にどうやって世間に対していくのか。これが三つめである。
 青い芝の会の人たちは様々に反対した。しかたのないところもある。先方がいろいろと新しくよけいなものを作るというので、反対せざるをえない。それで反対したり阻止したり、そんなことばかりしなければならないことになる。そして反対したり阻止したりすることだけしていてかまわない。とくに他の組織が他のことをやるのであれば、それでよい。反対しかしない組織があってわるいわけではない。
 だがそれがうまくいったとして、現状が維持されるだけで、多くの場合は反対しても結局は通ってしまう。疲労感と敗北感だけが残るといったことになる。それでも運動を続けるのはそういう変な人たち、疲れたり負けたりすることに快を感じたりする人たちだということになる。このようにまとめてしまうその括り方に悪意を感じつつ、全面的に否定しようとは思わない。そんな部分はあるとしよう。ただ、横塚自身の姿勢・戦術は、もっと実際的であリ「建設的」なものだった。そしてその手前で、というかそのために、原則的だった。
 「我々が[…]問題提起をした場合、まだ討議もされないうちに『じゃあどうすればいいのか』という言葉が返ってきます。この場合私は、そんなに簡単に『じゃあどうすればいいのか』などと言うな、と撥ね付けます。」(三一頁)
 この文章は、横田弘が書いた「われらかく行動する」が載ったのと同じ号の機関誌『あゆみ』に掲載された。その横田の文章はやがて青い芝の会の「行動綱領」になったのだが、そこに「われらは、問題解決の路を選ばない」とある(市野川・立岩[1998]で立岩が言及)。これは「非建設的」なことだと思える。実際、その後の推移をみれば、仕掛けを作っていくことにこの人たちはあまり力を注がなかった。
 しかし、この本のその後に書いてあることを読んでみよう。すると、横塚はどうすればよいかという問いを回避していない。むしろまったく正面からこの問題を扱っている。そして「解」を示している。
 「「施設は必要と考えるか否か」という問いが出されました。その時私は「そういう設問の仕方はまちがっている。[…]設問のように必要かどうかということで必要という答が出た場合には、施設そのものが正義とされ、正義の名において人権蹂躙が行なわれる危険性が生まれてくる」と答えました。」(三二頁)
 基本的な立場は明確である。既にある選択肢のどちらにするのだと問われて、いずれでもない、どちらもとらないと言うべきだということだ。施設は――ある形態の施設は、と言うべきだろうが(一二四−一二七頁)――ない方がよい。であるにもかかわらず、ない方がよいようなものであっても必要とさせてしまっている状況を問うことなしに、代わりに行く場もないままなくしてもよいのか、それともあきらめてそこに暮らすのかと迫るのはまちがっているということだ。だから、まともな問題解決の道を行こうということである。姑息にことを納めてしまうなと、もっと普通に、基本的なところから考えろというのである。」(立岩[2007b:410-413])
 立岩の、ここで話題になっている主題についての「基本的な立場」については、『良い死』([2008b])。


UP:20080902 REV:0919,29, 1101, 20110909, 16, 1023
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