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『都宮病院事件・廣瀬裁判資料集』

宇都宮病院事件・廣瀬裁判資料集編集委員会 編 20081031
発行:宇都宮病院事件・廣瀬裁判資料集編集委員会,197p

last update:20110406

■宇都宮病院事件・廣瀬裁判資料集編集委員会 編 20081031 『都宮病院事件・廣瀬裁判資料集』、発行:宇都宮病院事件・廣瀬裁判資料集編集委員会,197p. 1000 連絡先:東京都東久留米市東本町14-7 滝ビル1F グッドライフ気付 荻久保 ※ m.

■引用

 「Sさんと赤レンガの廣瀬さんの主治医佐々木ドクターの個人的な援助で、一九八八年七月に本人訴訟のかたちで提訴、八月にはSさん、広瀬さんの地元練馬での人脈を中心に「宇都宮病院事件・広瀬裁判を冷えんする会(後に「ひさしの会」と改称、Yさん、Dさんの要請により辻も活動に加わった。担当弁護士の赤松弁護士は、Dさんが探し出してきた。
 私を通して全国障害者解放運動連絡会議などの障害者解放運動、さらに重要なこととして全国「精神病」者集団らの精神障害者解放運動との結びつきが実現し、森さん、山本さん、医学生中島直さんらの会への参加へと結実した。また、すでに広瀬さんと付き合いのあった山谷争議団、赤レンガの患者の「病者」、東大学生らの支援の輪も、広瀬さんおよび会のメンバーの尽力によって作られた。ビラが定期的に刊行され、情宣活動も活発になった。
 支援運動の広がりは、広瀬さんの生活支援にも拡大し、多くのメンバーが彼の介護にかかわるようになった。」(宇都宮病院事件・廣瀬裁判資料集編集委員会編[2008:87]、この部分の執筆は辻雄作)

 「石川文之進は内科医から精神科医に「転身」していく際に、東京大学精神医学教室の秋元波留夫教授(当時)に近づき、同教室の武中信義医師から精神科医としての指導を受けた。宇都宮病院と東大との関係はこのときに始まる。
 宇都宮病院と東大との関係はキブ・アンド・テイクと言える。宇都宮病院側からすると、東大の医師の名を借りることによって病院の権威付けをすることができる。東大の医師の側からすると、短期間のディスカッション(通常の病院では複数の医師らが患者の診断や治療について一定の方針を出すもの。宇都宮病院ではこれと異なり、ビールを飲みながら不真面目に患者さんの人格への誹謗を繰り返すだけのもの)に関わるだけで多額の謝礼を受け取れる。入院患者を「研究材料」として提供されたり、宇都宮病院を実験の場として事実上の人体実験を行った者もあった。宇都宮病院では無届けの解剖が多数行われており、それによって得られた脳を送られていた者もいる。
 宇都宮病院に関係した東大の医師は多数にのほるが、反省の弁を述べている者はごくわずかである。その中には大学の教授になっている者も多い。今なお宇都宮病院と共同で研究している人もいる。上記の武村は事件発覚時は東大脳研究所の助教授であったが、東大の中で追及の声があがったため、宇都宮病院に逃げ込み、長く常勤医として宇都宮病院に勤めた。」(宇都宮病院事件・廣瀬裁判資料集編集委員会編[2008:7])

 「Sさんと赤レンガの廣瀬さんの主治医佐々木ドクターの個人的な援助で、一九八八年七月に本人訴訟のかたちで提訴、八月にはSさん、広瀬さんの地元練馬での人脈を中心に「宇都宮病院事件・広瀬裁判を支援する会(後に「ひさしの会」と改称、Yさん、Dさんの要請により辻も活動に加わった。担当弁護士の赤松弁護士は、Dさんが探し出してきた。
 私を通して全国障害者解放運動連絡会議などの障害者解放運動、さらに重要なこととして全国「精神病」者集団らの精神障害者解放運動との結びつきが実現し、森さん、山本さん、医学生中島直さんらの会への参加へと結実した。また、すでに広瀬さんと付き合いのあった山谷争議団、赤レンガの患者の「病者」、東大学生らの支援の輪も、広瀬さんおよび会のメンバーの尽力によって作られた。ビラが定期的に刊行され、情宣活動も活発になった。
 支援運動の広がりは、広瀬さんの生活支援にも拡大し、多くのメンバーが彼の介護にかかわるようになった。」(宇都宮病院事件・廣瀬裁判資料集編集委員会編[2008:87]、この部分の執筆は辻雄作)

 「私自身素人の健常者の介護者ということで、医療再度−赤レンガと患者廣瀬さんの間にあって、とまどい翻弄されたような思いもある。病者の支援者からは「医者は何でも患者の要求をきくべき、本人が入院したいといったらいつでも入院させるべき」という主張をなんどもされ、主治医Hドクターからは「入院がクセになるくと本人の自立生活の意欲」を失わせる」旨の意見も聞かされてきた。たしかに「社会的入院」は問題である。
 どちらもある部分では「正論」なのだろうか。それともどちらかが間違っているのだろうか。[…]
 結果的には彼は、自立生活、少なくともあのような形でのものは彼には無理があり、その結果が悲劇的な死につながったとしたなら、やはり、どこかに落ち度があったと考えるべきなのだろうか。それは医療サイド、主治医の判断ミスだったのか、介護者の行動が不十分だったのか、双方の連携や行動に問題があったのか。
 また、決して彼の”家族”ではない介護者たちは、医療側と越えられぬ大きな壁があり、本人を交えたとしても十分にコミュニケーションをできる状態が確保されるとは言えなかった。
 当たり前のことだが、レンガの職員会議等で、彼に対してどのような治療方針が出されたのか私たちは「守秘義務」その他によって知ることもできない。
 こちらからの情報は、広瀬さん本人に依頼される形で、時折、主治医、看護婦などに伝達したが一方通行だったのかもしれない。」(宇都宮病院事件・廣瀬裁判資料集編集委員会編[2008:99]、筆者は辻雄作)

■言及

◆立岩 真也 2011/05/01 「社会派の行き先・7――連載 66」,『現代思想』39-7(2011-5):8-20 資料
 *連載時の文章の以下の部分には誤字がいくつかあります。以下では訂正されています。

「□広瀬裁判の報告集のこと

 森山の他の著作でもそんな具合であるように、このように〔東大病院の所謂「赤レンガ病棟」の「占拠」を〕まとめようと思えればまとめることもできるだろう。ただ、そこでは、結局はうまくいかなかったことも多くありながら、たしかに格別明るいことも起こらなかったにしても、そこを一つの場として、起こりなされ続けられたことがあった。
 私たちは一九八〇年代の前半にここにいくらか関係することにはなった。この首謀者たちの(たぶん比較的若かった人たちの)演説・挨拶の類も聞いことがあるはずだ。ただ、病棟の中に入ったのはたまにビラを印刷するために使わせてもらうといった時ぐらいのことだった。その頃あった幾つかの「闘争課題」について人々が出入りしている場所でもあったのだ。開放病棟であったから、入院している人は辺りを歩いたりしており、他の人もとくに誰に断わることなく建物には入れたのだと思う。言われているように、その建物はけっして明るい感じのところではなかったが窮屈な感じはしなかった。
 「赤レンガ」は(たいしたことない)普通の精神病院だったと言われる。薬だってずいぶん使っていたではないかと言われる。たぶんそうだったのだろうと思う。もっときれいな建物であったらよかったと思うが、それはその状況下ではありえないことでもあったのだろう。ただ、ここに関係した人たちが、けっして幸福な結末を迎えたりしなかったできごとに関わったことは様々にあった。あの悪名高い「宇都宮病院事件」――といってもどれだけの人たちがどれだけのことを覚えているのか――について書かれたものが幾つかあるが、そのなかでも知られることが少ないだろう『宇都宮病院事件・廣瀬裁判資料集』(宇都宮病院事件・廣瀬裁判資料集編集委員会[2008])という冊子が出されている。
 まず石川文之進という人(一九二五〜)――著書に『アルコール症――病院精神医学の40年』(石川[2003])と―『精紳医学と俳句』(石川[2008])がある――および東京大学の関係死者たちはこの報告書では次のように記される。

 「石川文之進は内科医から精神科医に「転身」していく際に、東京大学精神医学教室の秋元波留夫教授(当時)に近づき、同教室の武中信義医師から精神科医としての指導を受けた。宇都宮病院と東大との関係はこのときに始まる。
 宇都宮病院と東大との関係はキブ・アンド・テイクと言える。宇都宮病院側からすると、東大の医師の名を借りることによって病院の権威付けをすることができる。東大の医師の側からすると、短期間のディスカッション(通常の病院では複数の医師らが患者の診断や治療について一定の方針を出すもの。宇都宮病院ではこれと異なり、ビールを飲みながら不真面目に患者さんの人格への誹謗を繰り返すだけのもの)に関わるだけで多額の謝礼を受け取れる。入院患者を「研究材料」として提供されたり、宇都宮病院を実験の場として事実上の人体実験を行った者もあった。宇都宮病院では無届けの解剖が多数行われており、それによって得られた脳を送られていた者もいる。
 宇都宮病院に関係した東大の医師は多数にのほるが、反省の弁を述べている者はごくわずかである。その中には大学の教授になっている者も多い。今なお宇都宮病院と共同で研究している人もいる。上記の武村は事件発覚時は東大脳研究所の助教授であったが、東大の中で追及の声があがったため、宇都宮病院に逃げ込み、長く常勤医として宇都宮病院に勤めた。」(宇都宮病院事件・廣瀬裁判資料集編集委員会編[2008:7])

 広瀬章(一九四七〜一九九〇)は一九七八年に宇都宮病院に入院、頻回に暴行を受け、一九七九に二度脱走するが職員に連れ戻され、保護室で暴行を受ける。八一年に三度目の脱走。自宅に戻れば連れ戻されるため、山谷で野宿生活を送るが、警官の職務審問で身元が発覚したのを契機に退院。八四年宇都宮病院での患者のリンチ死事件発覚を契機に、糾弾闘争に加わる。

 「Sさんと赤レンガの廣瀬さんの主治医佐々木ドクターの個人的な援助で、一九八八年七月に本人訴訟のかたちで提訴、八月にはSさん、広瀬さんの地元練馬での人脈を中心に「宇都宮病院事件・広瀬裁判を冷えんする会(後に「ひさしの会」と改称、Yさん、Dさんの要請により辻も活動に加わった。担当弁護士の赤松弁護士は、Dさんが探し出してきた。
 私を通して全国障害者解放運動連絡会議などの障害者解放運動、さらに重要なこととして全国「精神病」者集団らの精神障害者解放運動との結びつきが実現し、森さん、山本さん、医学生中島直さんらの会への参加へと結実した。また、すでに広瀬さんと付き合いのあった山谷争議団、赤レンガの患者の「病者」、東大学生らの支援の輪も、広瀬さんおよび会のメンバーの尽力によって作られた。ビラが定期的に刊行され、情宣活動も活発になった。
 支援運動の広がりは、広瀬さんの生活支援にも拡大し、多くのメンバーが彼の介護にかかわるようになった。」(宇都宮病院事件・廣瀬裁判資料集編集委員会編[2008:87]、この部分の執筆は辻雄作)

 これは精神障害の本人が起こした裁判としては初めてのものだったという。練馬の人たちの中には、日本の障害者運動では(小さいが)古くからある「練馬在障会」の人たちもいたようだ。佐々木由紀子医師は広瀬を2年間担当した(編集委員会編[2008:23]、以下佐々木の陳述の要約部分)。てんかんの発作がときにあり、薬物(シンナー)依存がありそれをやめたいということで最初の入院、入院は計四回。一九九〇年、ひとりぐらし――無償で(当時精神障害者についてホームヘルプの制度はなかった)介助者が入っていた――のアパートで自らの失火により焼死。裁判は支援者たちに受け継がれ、一九九三年十二月勝利的和解。和解金は三五〇万円「被告、医療法人報会は本件和解にあたり、患者の人権を尊重し先進医療の向上に努力すると共に、広瀬章氏の死亡について哀悼の意を表する。」(編集委員会編[2008:33])
 広瀬を支援する会は資料集の編集に着手。その一人だったのが森泰一郎だった。この報告書には「学生時代から障害者・精神障害者解放運動に関わっており、精神病を発病した後も精力的な活動を続けていた。最近でも、心身喪失者医療観察法の反対運動、全国障害者解放運動連絡会議関東ブロック、地域患者会等で中心的な役割を果たす。二〇〇八年三月急死。」(編集委員会編[2008:120])と紹介され、森への追悼文がある。加えれば森は、東京大学の駒場寮の拝領反対運動も担った。その頃についてはまったく面識はないが、何度か、最後は有楽町のガード下の焼き鳥屋だったかで話をしたことがある。「全国「精神病」者集団」にも一時期参加するが、運営のあり方等を巡って離脱、その時の文章として森[2005]がある。この報告書は森の没後、「病」者集団のメンバーとして批判を受ける立場でもあった山本真理(長野英子)が最終的な編集・刊行作業にも関わってできたものでもある。
 最後まで残ってこの報告集を作った人たちにおいても思うことは一様ではない。そこでは薬物の使用また「依存」について、また「自死」について、各人の違う思いが記されている。介助者の一人は次のように言う。

 「私自身素人の健常者の介護者ということで、医療再度−赤レンガと患者廣瀬さんの間にあって、とまどい翻弄されたような思いもある。病者の支援者からは「患者は何でも患者の要求をきくべき、本人が入院したいといったらいつでも入院されるべき」という主張をなんどもされ、主治医Hドクターからは「入院がクセになるくと本人の自立生活の意欲」を失わせる」旨の意見も聞かされたきた。たしかに「社会的入院」は問題である。
 どちらもある部分では「正論」なのだろうか。それともどちらかが間違っているのだろうか。[…]
 結果的には彼は、自立生活、少なくともあのような形でのものは彼には無理があり、その結果が悲劇的な死につながったとしたなら、やはり、どこかに落ち度があったと考えるべきなのだろうか。それは医療サイド、主治医の判断ミスだったのか、介護者の行動が不十分だったのか、双方の連携や行動に問題があったのか。
 また、決して彼の”家族”ではない介護者たちは、医療側と越えられぬ大きな壁があり、本人を交えたとしても十分にコミュニケーションをできる状態が確保されるとは言えなかった。
 当たり前のことだが、レンガの職員会議等で、彼に対してどのような治療方針が出されたのか私たちは「守秘義務」その他によって知ることもできない。
 こちらからの情報は、広瀬さん本人に依頼される形で、時折、主治医、看護婦などに伝達したが一方通行だったのかもしれない。」(宇都宮病院事件・廣瀬裁判資料集編集委員会編[2008:99]、筆者は辻雄作)

 また森は、その「対策会議」が広瀬本人を外したものであったことについて原則的な批判を展開している。そしてさらに、うつによるものであるにせよ自殺の権利は基本的には認められるべきであると主張する(宇都宮病院事件・廣瀬裁判資料集編集委員会編[2008:106])。そんなことを言い残し、書き残して亡くなっている。私の立場は彼の立場と異なるが、議論はそんな辺りを巡っている。私は、こうして右往左往してきた人達が、「原理的」にまっとうなのだと、そのことをあと数回かかっても言いたいと思っているのだと思う。」


UP: 20110504 REV:
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