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『〈住宅〉の歴史社会学――日常生活をめぐる啓蒙・動員・産業化』

祐成 保志 20081003 新曜社,334p.


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■祐成 保志 20081003 『〈住宅〉の歴史社会学――日常生活をめぐる啓蒙・動員・産業化』,新曜社,334p. ISBN-10:4788511274 ISBN-13:978-4788511279 \3600+税 [amazon][kinokuniya] o/shs

■内容紹介
私たちは、住居に何を問い、何を失ってきたのか。明治期以降の住宅言説を「商品=メディアとしての住宅」という視点から丹念に読み解き、住宅問題をとらえなおす新たな視座を提示する。

■内容(「BOOK」データベースより)
私たちは、住居に何を問い、何を失ってきたのか。明治期以降の住宅言説を「商品=メディアとしての住宅」という視点から丹念に読み解き、住宅問題をとらえなおす新たな視座を提示。

■著者紹介
祐成保志[スケナリヤスシ]
1974年大阪府生まれ。東京大学文学部卒業。同大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(社会学)。札幌学院大学社会情報学部助教授を経て、信州大学人文学部准教授。専攻は文化社会学(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

■目次
第1章 住居の社会学的把握(交渉過程としての住居;モノとヒト―マテリアルな交渉 ほか)
第2章 啓蒙(日常生活の焦点化;生活改良運動の展開 ほか)
第3章 動員(初期住宅調査の住居像;診断・治療・予防―都市空間のセキュリティと住居 ほか)
第4章 産業化(デザインをめぐる闘争と専門家集団;住宅手引書と体験記 ほか)
終章 日常生活批判に向けて(近代住居空間の支柱;危機の意識化と日常生活批判 ほか)

■引用

はじめに

「〈欠如〉とは、安心して住めるところがないことであり、〈過剰〉とは、住宅が、そこに住む人々が支えきれないほど重くなっていることである。ホームレス、DV、耐震偽装などは前者に関わり、ひきこもり、孤独死、リフォーム詐欺などは後者に関わると言える。重要なのは、ひとつのトラブルのなかにも両者が分かちがたく結びついていることであり、いずれの場合においても、住宅が私たちの「身の丈に合っていない」という感覚が共有されていることである。ここに、住宅の由来をひも解く意味がある」(A)

「本書の問題設定はすこしひねってある。ここで問おうとしているのは、どんな住宅が建てられてきたのか、というよりも、住宅について何が問われてきた(=問われてこなかった)か、である」(A)

「これまで提出されてきたさまざまな答えの良し悪しを、何らかの基準で評価することもできよう。しかしその前に、そもそも問いが妥当なものだったかを考える必要はないだろうか。問いこそが答えを左右する。問いが狭ければ、答えの幅まで狭まってしまう。だとすれば、歴史社会学がひらく「問いについての問い」は、問題をあらたな角度からとらえなおすための有力な手がかりとなるはずだ」(A)

第一章 住居の社会学的把握

「住居は、日本の社会学にとっては新しいテーマである。
 いつも見えているはずの住居が、はっきりとした焦点を結んでこなかったのはなぜか。それは本書の全体を通じて追求したい主題である。ここで結論を先取りしていえば、住居が社会学において伝統的に守られてきた個人(主体)/「集団」(組織)/地域(コミュニティ)といった枠組みに収まりきらない性質をもつことと深く関わっている。住居は生活する身体の根拠地であると同時に、家族と呼ばれてきた関係の容器としても、また社会関係の物質的な基盤としても重要な領域をかたちづくっている。にもかかわらず、というよりも、だからこそ、社会学の視線は住居を素通りしてきたのではないか」(2)

「必要なのは、社会学の埋もれた可能性を発掘する一方で、建築学の成果を摂取しつつ相対化するような、一筋縄ではいかない作業である。>2>
 本書は歴史社会学という方法を用いて、その端緒を開こうとする試みである。本書の具体的な課題は、近代日本における住宅の社会的形成過程を、「ことば」――図面や写真といったイメージも含む言説――の作用に焦点をあてて明らかにすることである」(2-3)

「住宅の歴史社会学は、建築学の一分野としての住宅史とどう違うのか。
 住宅史が対象とするのはあくまで建造物である。その材質・工法・様式、すなわち住宅の物理的な構成要素の変遷をあつかう。これに対して歴史社会学は、住居の社会的な構成要素――社会的な材質・工法・様式――の変遷をあつかう」(3)

「住宅は、建造物や宅地のように、物理的な実在として他との境界が明確に設定されている。これに対して住居は、ヒトやモノが配置されている状態や、身体によって意味づけられた場のことを指している」(3)

「核家族のための専用住宅を、純化された住居として理解するのが近代の常識である。つまり建築学の概念としての「最小限住居」とは、最小限の専用住宅のことである。ここで注意しなければならないのは、それが、住居の純化の仕方のうちのひとつにすぎない――わたしたちの社会において圧倒的な力をもつものではあるものの――ということだ」(5)
「最小限住居と位牌、それらは「住居の本質とは何か」という問いの対する答えのうち、おそらく両極に位置するものであろう。歴史社会学の視点からは、そのどちらかを誤りとして片づけることはできない。そもそも、住居の普遍的な定義は、家族や国家の普遍的定義がそうであるように困難である。しかし私たちは、ふだんその困難を感じない。それは、住居と住宅とを同一視し、住宅を近代住宅と同一視するという常識の効果に他ならない」(6)

「歴史社会学とは、アカデミックな認識、制度の編成、日常的な実践にまたがる、この自明性の基盤を掘りおこす作業である」(6)

「本書の立場からとくに指摘したいのは、英文学者や文化人類学者を中心とするポストコロニアリズム批判としての展開と、内容分析やメディア産業論を中心とするマス・コミュニケーションへの吸収という方向のなかで、日常的なマテリアル・カルチャーへの視点が後景にしりぞいた点である」(8)

「私たちの多くが経験するような、いつもの布団で、毎朝決まった時間に起き、決まった位置でご飯を食べ、いつもの時間に出かけ、同じ時間に帰ってきて、いつもの部屋でお気に入りのテレビ番組を見る、といった日常は、その一つ一つが、まさに現代の「家」(home)を形づくる実践としてとらえられるべきである。
 こうした視点を明確に打ちだしたのは、ロジャー・シルバーストーンをはじめとするメディア研究者であった。(中略)
 たとえば、そのテレビ論はテレビ〈の〉研究ではなく、テレビ〈を通じて〉現代的な社会と文化の形態を明らかにする試みである。(中略)そのなかでとくに注目したいのが「ドメスティケーション」(domestication)の概念である。彼は次のように述べている。「ドメスティケーショという言葉で示したいのは、野生動物の家畜化(domestication)にも似たなにものかである。……テクノロジーの歴史は、ある面でドメスティケーションの歴史である」」(9)

「それ(担当者注:ドメスティケーション)は、第一義的には、あるモノを住居の内に移行させ、そのことを通じて家庭という場を形成するという意味をもっている。他方で、「飼いならす」とか「家畜化」といった意味もある。それは、飼いならす側からの働きかけだけでなく、飼いならされる側からの反作用をかならず含んでいる。つまり、一方向的な制御=コントロールではなく、交渉=コミュニケーションのプロセスである」(10)

「私たちは野生の動植物を馴化し、家畜や栽培植物を開発したように、自然んや人工物や自らの身体を飼いならすことで、住むための空間を構築している。シルバーストーンとハーシュによる『テクノロジーを消費すること』(Silverstone and Hirsch ed.[1992])は、このような視点を現代的なメディアやテクノロジーの受容過程に応用したものである。家電製品や情報技術は人間がつくりだした「商品」ではあるが、生活する身体の側からすれば、トメスティケーションを必要とする「他者」なのである」(15)

「現代社会において住宅は商品である。それは、居住者が、住宅の消費者として現れることを意味する。「消費の人類学」というべき領域を切りひらきつつあるマテリアル・カルチャー研究は、住居の社会学に対して大きな示唆を与える」(16)

「マテリアル・カルチャーの視点から見るとき、住居は、モノと身体のコミュニケーションの過程として把握される」(20)

「住居を複数の身体の間の交渉過程としてとらえるとき、バシュラールの「幸福な空間」についての現象学が、重要な示唆を含みながらも決定的に欠落させている問題意識を指摘することができる。それは、身体間の力の不均衡である」(20)

「家族社会学は、住居に一定の関心を寄せてきた分野である。ただし家族との関係において住居が論じられるとき、しばしば住宅という空間へと実体化され、規範化される傾向が強かった。それは、家族と呼ばれる関係の実体化、規範化と結びついている」(27)

「たしかに、住宅と内面がどのように相関しているのか、という問いは重要に見える。ただ、ここで考えてみたいのは、それとは異なる問いである。すなわち、そうした住宅と内面の相関への認識が、近代における住宅の形成にどのような作用を及ぼしてきたのか、という論点である」(28)

「日本でも、住居に関する議論のなかで、建築の「形成力」や「感化力」に対する信念が共有されてきた。その中心に位置するのは、「よい家族関>29>係はよい住宅から生まれる」「よい住宅はよい家族関係から生まれる」という家族と住宅の相関関係についての認識である」(28-29)

「相関を論じる言説は、カテゴリーを実体化する。社会学の実践もまた、カテゴリーの発見と実体化であると言ってよい。ただし、社会学の特質は、カテゴリーの存立自体を問う構えを含んでいる点にある」(29)

「住宅が家族という集団が活動する「舞台」として固定されるとき、住居は焦点化されない。それは家族社会学だけでなく、都市社会学においても見られる傾向である。言いかえれば、身体とモノの動き、そしてそれらの間で織り成される交渉過程に着目するとき、住居は対象として浮かびあがってくるのである」(31)

「住居は、その内側における身体間の関係だけでなく、外部からの社会的な力によって形成される。空間が社会的に再編成されるなかで、住居もまた形を変える」(31)

「近代家族論の視点から近代日本における住宅史を読みなおした西川祐子[1990][1995a][1998]は、中廊下形住宅(西川はそれを「茶の間のある家」と呼ぶ)の成立と普及が、国民国家の構成単位としての近代家族というイデオロギーと密接な関係をもっていたと指摘する。家族研究において物質文化が重要視されていない現状にお>32>いて、依然として斬新かつ貴重な試みである」(32-33)

「国民国家は構成員を平準化するとともに、その住居を規格化する」(33)

「「住宅作家」と呼ばれる人々が登場するのは昭和初期である。それは、住宅が個性を帯びた「作品」になることを意味している。同時にそれらは消費者に向けた「商品」でもあった」(34)

「西川祐子による近代住宅史は、一つの歴史社会学の試みであった。もっとも、そこでは国民国家の形成と衰退が単線的なルートとして提示されている。実際には、国家の内部にはさまざまな分断線が引かれているのではな>34>いか。歴史社会学は、変動を巨視的に把握するとともに、社会が必然的にはらむ不均衡に対しても敏感であるべきだろう」(34-35)

「住むことは、確かに基底的な経験である。しかしそれは同時にマージナルなものでもある。すなわちその底はさまざまな方向に開かれてしまっているのであり、ただ平板に経験を根拠とすることはできない。問われるべきは、住むことがいかにして社会的に生産されるのかという点である」(37)

「「科学する母親」(Ehrenreich and English[1978]参照)が運営するキッチンをコアとするオープンプランの住宅(公共住宅で主流となる様式)や、男女の分断が巧妙に仕組まれた都市やニュータウンの地理は、女性をドメスティケートする装置に他ならない。これと密接に関わってきたのが、男性の仕事としての建築学、女性の領域としての家政学・住居学という知の分業体制である。
 住居をめぐって交渉するのは西川が指摘した国家と家族だけではない。階層と階層、資本と消費者、男性と女>42>性といったさまざまな集団や身体の関係が、ときには闘争や妥協、あるいは統制や支配といったかたちをとりながら展開する。住居とは、そうした目に見えない闘争の現場でもある」(42-43)

「住居の材質は単なるコンクリートやガラスではない。それを作り出すのは「住む」という人間の実践であり、目に見えない制度や規範である。そして、住むことは身体的な実践であるばかりでなく、言説的な実践でもある。生活には、マテリアルな側面だけでなく、ことばを通じて構成される意味的な側面があり、両者を切り離すことはできない。そこで本書は、歴史を記述するための素材として、住居に関わる言説(=住居言説)に着目する」(43)

「重要なのは、近代において住むことと読むことが深く結びつくことである」(44)

「本書は、言説か/現実か、の二分法には与しない。住居言説によって現実の住居を間接的に観察しようとしているわけではない。言説が生みだされ、流通し、読みとかれ、引用され、模倣されるなかで、社会的現実そのものが形づくられる。近代における住居は、つねに言説とともにあった。「ことば」こそが、住居を形成するさまざまな主体を駆動する」(44)

「抽象としての概念あるいはカテゴリーは、くり返し用いられ、制度に裏づけられ、身体的に経験されることによって、マテリアルな力をもつにいたる。そのように考えるとき、言説と現実を区分することに積極的な意味はない」(45)

「第2章から第4章までは、この時期の住居言説を素材としたモノグラフである。
 これら三つの章は、言説の生産・流通・消費が展開される〈場〉に対応している。本章で提示した理論的枠組の自己展開としてではなく、資料をいかに読み、配置すべきかを考慮したうえで構成されている。すなわち、第>46>2章では改良すべき対象として日常生活をとらえた生活改良(改善)運動を中心とする「啓蒙」(知・教育)の過程、第3章では身体の把握と涵養という角度から都市の制御を試みた「動員」(調査・計画)の過程、そして第4章では住宅をアイデンティティと深く関わる特異な商品として仕立てあげていった「産業化」(流通・消費)の過程に焦点をあてる」(46-47)

「本書の特色は、資料レベルでの網羅性や希少性にあるのではなく記述方法にある。それは次の三点に集約される。まず、言語生産の場と対応しながらも別々に論じられてきた言説を比較可能な形で一望できるように配置する。そして、それぞれの場の内側での言説の変遷だけでなく、相互の関連を論じる。さらに、この変動の社会的な要因や帰結について考察し、「日常生活批判」という現代的な課題につなげることを試みる」(47)

「第2章では、1920年代に、文部省や内務省の主導で都市において開始され、1930年代には農村でも一定の展開が見られた生活改善運動を取りあげる」(47)

「第3章では、戦時期から戦後に至る都市住宅調査、住宅政策を主導した論理と方法に着目する」(48)

「第3章において、まず注目するのは、初期の住宅調査者(賀川豊彦や宇野利右衛門ら)の言説にみられた「感化」の思想、すなわち、住宅をはじめとする不良な環境が不良な人間を生み、そして住宅の改良を媒介として人間の改良が可能であるとの認識である」(49)

「第4章では、住居に関わる産業の展開を追いながら、住宅の生産様式が変容し、市場が開拓され、それを受け止める主体としての消費者が登場する過程について考察する。装置としての産業(industry)の成立を可能にする条件は、勤勉な(industrious)消費者である」(50)

「「啓蒙」「動員」「産業化」は住宅の開発に向かう社会的な力である」(52)

「住居に対する不満や住居にまつわる不幸は、「ここではないどこか」への脱出を誘発する。それが、近代住宅の普遍化によって実現されると信じられるようになるとき、「近代住居空間」と呼びうるような、政治・経済・アイデンティティにまたがるシステムが成立する」(52)

「現代において日常生活批判を実質化するにはどうすればいいのか。終章では、この問いを中心に、住居空間を再編成するための条件について考察する」(53)

第2章 啓蒙

「住宅改良に関わる言説を検討するにあたって、まず、独特の意味の広がりをもった「趣味」ということばに注目したい」(59)

「趣味を、表現/読解の双方において共有されるべき「コード」と言いかえてみれば、@(担当者注:@感興をさそう状態。おもむき。あじわい)とA(担当者注:ものごとのあじわいを感じとる力。美的な感覚のもち方。好み)が通定していることは理解されやすい」(60)

「趣味の混沌は、西洋からの文物の流入と、旧来の規範の解体によって生じる。身分や地域に応じて定まっていた様式が崩れること、そしてそれが危機として認識されることこそが、「趣味」が問題化されるきっかけになる。そこで、知識人が指導的な役割を果たしながら新たな趣味を確立することが課題とされた。それは、単なる身分制度の復活としてではなく、独立した人格をもった個人によって習得されるべき規範という形式をもって登場する」(62)

「啓蒙運動としての住宅改良会は、モノの改良と感覚の改良という二つの方向性をもっていた。変化の歩を速める社会のなかで、モノを飼いならすこと、それと同時に身体を飼いならすこ。住宅改良は、この二つの意味のドメスティケーションを展開させるための要となる」(64)

「明治末の趣味運動は、「階層的位置づけ」(マクロな空間)と「住居・家庭の形成」(ミクロな空間)という二つの照準点をもっていた。両者は、ミクロな空間への資源の投入を通じて、マクロな空間に位置を得るという戦略において結びつく」(66)

「公刊された論文中の記述であり、確認が容易でありながら、それらが見すごされるとすれば、単なる不注意ではない構造的な錯視の存在を疑わなければならない」(91)

「今和次郎の生活論が戦後に形成されたという見方は一般的であり、根づよい力を持っている。(中略)
 彼が「家政学の貧困」に出会ったのは戦後ではない。家政学批判と生活学の構想には、戦時の経験もまた、きわめて重要な役割を果たしたと考えるべきであろう。(中略)
 ここでの目的は、単なる考証とは異なったところにある。こうした細部にこだわるのは、「生活学」の出自を戦後に設定すること自体に、今和次郎について論じること、さらには「生活」について論じる言説空間の特質(錯視を生み、再生産する構造)が徴候的に現れていると考えるからである。(中略)
 >94>注意しなければならないのは、今和次郎の生活論は、それら雇用労働中心の社会政策論的生活研究に対し、娯楽や教養などの側から生活を把握する独自の立場として、いわば遅れて登場するとされることである(川添[1982];寺出[1994]等)。つまり、生産優先の戦時的な生活研究と、消費と余暇を重視する戦後的な生活研究が対比される文脈において、今の生活研究は後者の立場を代表するものであるとの判断が定着してきた。
 だが、今和次郎にとって戦時期はけっして空白期間ではない。(中略)
 『今和次郎集』で戦時期の活動が空白のままにされたこと自体は、単なる偶然なのかもしれない。しかし、それがこれまで問題とされてこなかったことは、戦前/戦後の二分法が今和次郎のへの理解にもたらした死角を示唆している。このことと関連しつつ、今和次郎が生産を通じて精力的に行なった実践活動と、著作などから読みとられる思想の連関が充分に検討されてこなかった点についても、再考の余地がある」(94-95)

「本節のねらいは、あらかじめ戦前/戦後、生産/消費、実践/思想、通俗/超俗といった二分法を導入することなく、戦時期の社会的状況に今和次郎を位置づけなおすところにある」(96)

「生活改良普及事業に関する研究(市田[1995a][1995b];辻[1998];天野[2001]等)では、かならずと言っていいほど戦前と戦後の断絶が強調されているのだが、戦時期になされた今和次郎の提案はこれら戦後の施策を先取りするものであった」(106)

「西山がマクロなシステムを設計・運営する視点からとらえようとしたとするなら、敗戦直後に執筆された『住生活』のなかで、「人間と住居空間との交渉から住生活が生誕する」(今[1945:24])と述べているように、今はミクロな身体的実践から生活をとらえようとした。この、モノと人間の「交渉」という視点には、今和次郎の思考の特質がよく現れている」(110)

第3章 動員

「1920年代より、集合する人間の性質から規定される「貧民窟」「細民地区」にかわって、装置的条件からの規定である「不良住宅地区」という行政用語が流通するという現象は、このことと関わっている。そもそも良と不良は、二つ以上の「同種の物」を比較することによって確定される。劣悪な住居は、よい住居との対照のうえで観察の対象となり、改善の対象に据えられる。さらに、「不良住宅地区」に冠せられる「都市の癌」という決まり文句は、関や池田などの都市計画的理性によって共有されていた、「経営体=有機体としての都市」という視点とつりあっている。
 この用語には、もう一つ、住宅が居住者に大きな影響を与えるという視点が内包されている。「先ず住み心地よき居宅を与えて、順次必要なる物資の供給を図るのが、スラム改善の急務である」(友松[1933:40])。いわば「不良な住宅が不良な人間を生む」という視点は、住宅の改良を通じて人間の改良が可能であるとの認識と表裏一体になっている」(149)

「戦後の西山は、構想が実現されなかったという点において、自己を戦時体制への批判者として位置づけている。しかし、国家が、生産力の源泉としての居住者(「国民」)を、「全体のなかに適正に配置するという構想それ自体が、「総力配分者としての国家」(大熊信行)という思想と、深いつながりを持っている」(173)

「国家が生産力の源泉としての居住者を、全体のなかに適正に配置するという方法は、住宅という概念によって大邸宅からスラムまでを機能に還元すること、すなわち住むという営みを労働力おの再生産過程としてとらえたうえで、「食べる」「寝る」という要素に分解しつつ空間を分節し、それらを相互に置きかえ可能で均質な「単位」として設定することによって、はじめて可能となる。西山は、身体に宿る「居住習俗」、「住居(居住)慣習」あるいは「住居観念」を見いだしたが、それらは基本的に均質化しうるものと仮定された。そして、身体が移動・定着する単位空間としての住居は、国土と対応する想像的空間のなかに位置づけられる」(174)

第4章 産業化

「これまで、住宅改良に関わる言説のなかの「趣味」(taste)という語の用いられ方にこだわってきたのは、それが構造的な多義性を含みながらも、「表現としての住居」と「住居への感覚」という領域を問題化するために用いられているからである。言いかえると、「趣味」ということばを通じて、この領域が明確に対象化されたからである。そこでは、「どのような住宅に住むか」、さらには「どのように住むか」ということが、住む者の内面あるいは感覚と結びつけられる。人とモノが「趣味」を介して円環を描く。この枠組みは、やがて日常的な思考と会話のなかに持ちこまれ、人々が自らの生活を再編成する原理となっていたのではないか」(186)

「第2章では一九二一年までの『住宅』の議論を検討した。そのように時期を限定した根拠は、一九二二年に>186>「文化村」「住宅改造博覧会」が開催されたことによって雑誌自体の位置づけが変わり、部数も伸びたこと、さらに、この時期には、議論のアリーナが「部分」(室や設備)から「全体」(間取り)へと移行し、『住宅改善の方針』(一九二〇年)にみたような、「家族本位と「能率化」という基準が出そろっていたことを考慮したためである」(186-187)

「住宅は消費者にとっても、専門家にとっても、また国民国家にとっても象徴闘争の焦点となる。一九二〇〜四〇年を中心とする時期の住居言説から浮かびあがってきたのは、こうした政治・経済・アイデンティティが重層的にからんだシステムが確立しつつあった状況である。このシステムのことを「近代住居空間」と呼ぶことにしよう。
 なぜ居住空間や家庭空間ではなく「住居空間」なのか。「居住」は動詞の語幹として広く使われ、居住空間は「居住するための空間」という形で、意味がほぼ固定している。この安定感によって、概念としてのあつかいやすさがもたらされる。ただし、そのことは、「住宅」が物理的実在として、自己完結性を帯びた空間の側面に重点が置かれるのと同じ意味しかもたらさない。そして「家庭」は、近代の家族規範と結びつけられてきたことばであり、住宅よりさらに強く歴史に規定された概念である」(242)

終章 日常生活批判にむけて

「住居が固定された物質ではなく社会的な過程であるならば、その再編成もまた、社会的なものとして構想されねばならない。性急な解決を求める前に必要なのは、近代住居空間の社会的な構成を読みとき、分析することだ。歴史社会学は、そのための距離と自由を確保する方法に他ならない」(262)

「メディアは人と人を接続すると同時に、切断するはたらきをもつ。近代住居空間とは、幾重にも織りこまれたメディアの作用がつくりだす社会的な地形である。
 住むことが、さまざまな資源をつなぎ合わせ、空間への意味づけを通じてアイデンティティを保障する場所を獲得する過程であるとすれば、それは住宅を使うことや私有することとイコールではない。近代住居空間は、「住むこと」「住宅を使うこと」「住宅を私有すること」という、本来独立であるべき実践が排他的に結びつくことによって成立している。
 啓蒙・動員・産業化という場においては、住宅の欠如、改良、そして供給が主題となった。住むために欠かすことのできない条件として、あらためて住宅が焦点化され、それを整備するための制度がはりめぐらされた。近代における住宅は、エネルギーや交通の面で都市への依存を深めつつ、その自足性を高めている。それを住宅の「重装備化」と呼ぶこともできよう。耐震や耐火といった構造面だけではない。機器や設備の充実によって、居ながらにしてできることの範囲が格段に広がった。
 住居の質について考えるとき、私たちはごく自然なこととして、装置としての住宅の性能(面積、間取り、設備など)を問題にする。このことは、政策における「居住水準」という概念にも現われている。しかし、性能を測るための基準は、住むという多面的な実践のうちの何を重視するかによってゆれ動く。「住むこと=住宅の使用・私用」という信念だけを頼りに性能の向上や私有の拡大を図ることは、かえって住宅以外のよりどころを見失わせる効果をもっている。日常生活批判とは、そのことを自覚したうえで、個々の住宅をこえて住まい方を構想することに他ならない」(270)

「住居空間はモノによって構成される空間であると同時に、身ぶりや制度の布置がつくりだす空間でもある。本>270>書が言説を資料としたのは、書物と住宅というモノの関係、そして住むことと読むことの重なりに着目したからであった。住むことが読むことでもあるとするならば、そして読むことこそが住むことの内実であるならば、いかにして住居空間を組みかえうるかという問いは、私たち自身がこのテクストを読み解き、意味の糸を結びなおすリテラシーをいかにして獲得しうるか、という課題でもある。
 もっとも、それはまったくの白紙の状態から展望されるべきではない。第1章で考察したように、ドメスティケーションという視点は、住むことをとらえなおす有力な手がかりとなりうる。第2章の末尾で注目した今和次郎の軌跡には、住居をめぐる知の可能性が現れている。また、第3章で詳述した西山夘三の住み方調査は、住宅をささえる観念と慣習の解明のための応用に開かれている。第4章で発掘した、住居の形成に向けた模索と修練の物語は、あらたな生活を構築する力を示している。日常生活を批判し、再編成するための視覚と方法は、すでに私たちが手にしている言説地図の内側から見つけだすことができる」(270-271)

あとがき
「住宅は、社会学のテーマとしてはやや異色である。「なぜ住宅などというものをテーマにするのか」とたずねられたことは一度や二度ではない。しかも私は、都市社会学や家族社会学といった伝統的な領域から外れたところで、あえて言えばメディア論の問題として住宅について考えている。そして、確立した理論を対象に適用するというよりは、範囲の定かでないさまざまな言説をあつめ、事後的に読解のための枠組みを構成するという手順で研究を進めた」(305)

■書評・紹介

■言及



*作成:櫻井 悟史 
UP:20090629 REV:
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