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『責任という虚構』

小坂井 敏晶 20080730 東京大学出版会,286p.


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■小坂井 敏晶 20080730 『責任という虚構』,東京大学出版会,286p. ISBN-10:4130101080 ISBN-13:978-4130101080 \3500+税 [amazon][kinokuniya] ※ h06, c0134, c0101

■出版社/著者からの内容紹介
責任とは何か。個人が負う責任、集団が負う責任、企業責任、歴史的責任。共通する責任とは何なのか。自由と責任は本当に関連があるのか。本書は、責任と呼ばれる社会現象が何を意味するのか、歴史的な集団殺戮や死刑制度、冤罪などをテーマに考察する。

■内容(「MARC」データベースより)
責任という現象の構造・意味は何か-。自由意志によって行為がなされるという常識を斥け、この知見を背景にホロコースト、死刑制度、冤罪を考察。道徳や社会秩序の根拠がどのように生成されるかを検討する。

■著者紹介
小坂井敏晶[コザカイトシアキ]
1956年愛知県生まれ。1994年フランス国立社会科学高等研究院修了。現在、パリ第八大学心理学部准教授(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

■目次

はじめに
序章 主体という物語
 ハンナ・アーレントによるホロコースト分析/アイヒマン実験/服従の原因/問題の所在/意識と行動の乖離/原因と理由/私と呼ばれる同一化現象/意志を生むからくり/集団が支える自己
第1章 ホロコースト再考
 普通の人間/責任転嫁の仕組み/心理的距離/正当化の心理/反ユダヤ主義の機能/ホロコーストの近代性/医師の役割/ダニエル・ゴールドハーゲンの反論/袋小路
第2章 死刑と責任転嫁
 日本の死刑制度/死刑執行の抽象化/死刑を支える分業体制
第3章 冤罪の必然性
 非合法な捜査/悪を憎む心/司法取引の罠/虚偽自白の心理/目撃証言神話/分業と解釈/裁判官という解釈装置/自動運動する秩序維持機構
第4章 責任という虚構
 矛盾をどう解くか/因果関係再考/自由の意味/刑罰の根拠/正しさの源泉
第5章 責任の正体
 集団責任の認知構造/集団的道徳責任/同一化と道徳的汚染/責任概念の歴史変遷/責任の正体/精神鑑定の役割/犯罪者の成立/死刑の真相
第6章 社会秩序と〈外部〉
 近代政治哲学の〈外部〉/貨幣と贈与の媒介項/部分と全体の弁証法/〈外部〉の成立過程/信頼の構造/近代の陥穽/人はパンのみにて生きるにあらず/正義という地獄
結論に代えて
あとがき
参考文献
索引

■引用

「ところで行為を起こす内的要因としての自由意志とは何なのか。責任概念の根拠をなす主体性は本当に存在するのか。単に私の腕が上がるのではなく、私は腕を上げると言う時、腕を上げる意思決定を私がするという了解がある>11>が、その意志とは何なのか。意志決定をする私とは一体何なのか。意思決定の後に行為が遂行されると我々はふつう思うが本当にそうだろうか」(pp.11-12)

「心理負担だけから言えば、原爆を投下して何十万の人々を殺す方が、人間一人を包丁やバットで殺傷するより容易である。多くの人命を奪った行為を後悔するかもしれない。しかし行為の瞬間においては、泣き叫び哀願する老婆や子供一人の生命を血まみれになって奪う状況に比べて、レーダーや計器の数値を見ながら単に爆弾投下のボタンを押す方がはるかに楽だ。湾岸戦争の映像がテレビで流された時、さながらビデオゲームでも見るような観があったが、兵士が心理負担を感じないで能率よく殺戮できるように人間工学的にも近代兵器は技術向上をとげている(脚注40)。犠牲者との心理的距離が保たれ、具体的な人間性に触れないと、殺傷に対する強い抵抗が起こらない。しかし殺す相手が自分と同じ人間だと認識するやいなや、殺人の意味は変容する。
(脚注40)Ibid(引用者注:Milgram, Obedience to Authority)., p.158-159; Bauman(引用者注:Modernity and Holocaust=『近代とホロコースト』), op. cit., tr. fr., p.59; D. Grossman, On Killing: The Psychological Cost of Learning to Kill in War and Society. New York, Back Bay Books/Little, Brown and Company, 1996.(引用者注:=『戦争における「人殺し」の心理学』)」(p47)

「犠牲者が苦しむ具体的姿に接しない者は心理的軋轢を逃れ、残虐な命令を平気で発しやすい。ところでこの傾向はホロコーストのような犯罪行為に限らず、裁判や死刑のようにその必要が承認された社会制度にも共通する。死刑を執行する者の心理負担を軽減するメカニズムがうまく働かないと、これらの制度は機能しない。
 死刑制度を廃止するべきかどうかという問いの検討は本書の目的ではない。死刑制度の維持が社会の総意に従うなら、それを可能にする具体的措置を取る必要がある。ヒトラーたち指導者の決定があっても、実際に手を汚す役人や警察官がいなければユダヤ人は一人も死ななかった。同様に裁判所が死刑判決を下しても、実際に死刑を執行する者がいなければ受刑者は死なない」(p75)

「このような残酷な場面(引用者注:死刑執行の現場)を正視するのは大変な心理負担なので、現在では立会人席と刑壇上とを強化ガラスで完全に遮断するなどして、立会人の負担軽減が図られている。執行時になされる読経の声も加わって刑壇場の音は立会人席にまったく聞こえず、まるでパントマイムを見るように現実感に乏しいという(脚注2)。あるいは細長い窓を通して、苦しむ受刑者の胸元あたりだけが立会人に見える刑場もある(脚注3)。関係者の残虐感や罪責感を少しでも減らす様々な工夫のおかげで死刑制度は維持されている。
(脚注2)同(引用者注:村野薫『死刑はこうして執行される』(講談社文庫、二〇〇六年)、二五二-二六一頁
(脚注3)合田士郎『そして、死刑は執行された』(恒友出版、一九八七年)、九頁」(p76)

「自らは執行に携わらなくとも、死刑執行命令書が届くと、拘置所長は命令を部下に伝達しなければならない。それが辛くて、その夜から睡眠薬の助けを借りずには寝られなくなるという(脚注6)。
 しかし実際に現場で執行に携わる刑務官らの苦悩とは比べものにならない。死刑制度を維持する限り、執行担当者の心理に配慮し、彼らの精神的苦痛に留意する必要がある。そうでなければ制度は機能しない。
(脚注6)大塚公子『死刑執行人の苦悩』(角川文庫、一九九三年)、一三頁」

「裁判官が判断し、役人による様々な確認作業を経て最終的に法務大臣が死刑執行命令を下す。拘置所の刑務官はその命令を執行するにすぎない。しかし単なる書類の整備と、生身の人間を実際に絞殺するのとではまったく意味が異なる。ホロコーストにおいてユダヤ人虐殺の罪悪感を薄めるために導入された分業体制と同じように、裁判・死刑制度においても法務省の役人・刑務官・拘置所所長など多くの関係者が介在し、死刑の心理的負担が執行官だけに集中しない体制ができている。しかしそれでもストレスが原因で二年間の任期を満了できずに配置換えされる刑務官は少なくない(脚注9)。
(脚注9)同(引用者注:合田士郎『そして、死刑は執行された』)二五八-二六二頁」(p80)

「彼らの苦悩は死刑執行のおぞましさだけによるのではない。毎日顔を合わせ、時には友人関係を築くまでになった人間を殺す罪悪感が辛い」(p81)

「しかし死刑道具が変遷した理由は受刑者の苦痛軽減だけではない。より重要なのは死刑を執行する側の心理負担を少なくする必要だった。言うまでもなく石打・火炙り・斬首は執行者に大変な負担がかかる。モルモン教徒の多いユタ州では宗教背景から贖罪に罪人の流血が必要とされ、絞首刑ではなく銃殺刑が今日でも採用されている。三九人の死刑囚が息絶えるまでの時間を調べた報告書によると一五秒から二七分かかっている。ほぼ即死の時もあるのに、三〇分近くも苦痛を堪え忍ぶ場合があるのは何故か。銃殺にあたっては死刑囚をイスに縛り付け、心臓の位置につけられた目印を狙撃手が狙う。しかし心理的負担のために感情が高ぶり、狙撃の専門家でもしばしば急所を外してしまうからだ。
 第二次世界大戦中、敵兵士の腹や胸に正面から銃剣を突き刺した兵士は稀で、逃げる敵の後ろから突き刺す場合がほとんどだった。相手の顔を見ながら殺すのは負担が大きい。絞首・銃殺・電気イス・毒ガスなどの方法で処刑する際、受刑者に目隠しをして死刑執行者の顔が見えないようにする。延命を懇願する者あるいは怨み死んでいく者の眼を見つめながら殺すのは辛いからだ(脚注24)。
(脚注24:D. Grossman, On Killing: The Psychological Cost of Learning to Kill in War and Society. New York, Back Bay Books/Little, Brown and Company, 1996, p.121-129.)(引用者注:=『戦争における「人殺し」の心理学』)」(p87)

「死刑囚と執行者双方の苦痛を減らす傾向は、最も新しい注射刑の採用によってさらに加速度がかかった。現在ほとんどの州がこの方法を用い、一九九九年に処刑された九八人のうち、電気イスで執行された三人と毒ガスで殺された一人を除くすべてが注射刑だった。この移行は死刑の意味に質的変化をもたらした。受刑者は眠るように死んでいく。もちろん普通の睡眠や麻酔とは違い、再び意識を取り戻すことはない。ナチスは精神病者や精神薄弱者の毒ガスによる殺害を「安楽死」と呼んだ。「アーリア人種」を純化・保護するために近代医学を動因し、できるだけ「人道的」にユダヤ問題を解決しようとしたナチスと同じ方向にアメリカ社会は進んでいるとロバート・リフトンは危惧する(脚注26)。医学の衣を死刑に着せ、それまで死刑執行人が耐えてきた心理負担を減らし、より能率的に処刑する。病院で施される普通の手術と同じように麻酔をかけて死刑囚を「処置」するだけだ。毒ガス室・電気イス・ギロチンの考案・改良には医者が協力してきたが、命を救うはずの医学が死刑執行を主宰するグロテスクな構図が注射刑採用によって完成する。
(脚注26)Lifton & Mitchell(引用者注:R. J. Lifton & G. Mitchell, Who Owns Death? Capital Punishment, the American Conscience, and the End of Executions. New York, Harper Collins Publishers, 2002), op. cit., p.62-63.」(p88)

「「私が決めたことじゃない。私は命令を実行しただけだ」と死刑執行のボタンを押した人間はできれば言いたいだろう。「私は書類に不備がないかどうかを確認しただけだ」と官僚の一人は口を拭う。「警察の捜査結果にしたがって起訴しただけだ」と答える検察官、「原告と被告の双方が提出した証拠を判断し、法の定める通りに、また過去の判例を考慮して死刑判決を下した」裁判官、「判決書類を吟味して執行命令書に署名しただけ」の法務大臣。そして「国民の大半は死刑制度の維持を望んでいる」と死刑を正当化する法務省と首相。結局、執行に至る決定的判断をした責任者はどこにもいない。無責任体制のおかげで死刑制度が可能になる」(p91)

「この章(引用者注:2章)の目的は死刑が妥当かどうかの検討ではない。しかし死刑を社会が認める以上、ここに素描した惨い現実は否応なしに生ずる。殺人を担当する関係者に対して何らかの心理的措置が取られなければ制度は機能しない。ナチス・ドイツによる虐殺と死刑執行とでは殺害の意図・意義がむろん異なる。しかし技術面からだけ考えれば両者は多くの共通点を持つ。
 死刑執行の場面を国民成人すべてに見せたらどうなるだろう。大半の人々にとっては耐えられない経験であり、死刑廃止論が今以上に強く巻き起こるにちがいない。死刑を承認するからには惨い現実に自分自身が直面する義務があるとか、見る勇気がないなら死刑を廃止せよと主張するのではない。「死刑は必要だ」と理性が言い続ける傍らで、「もう耐えられない。とにかくやめてくれ」と感情が拒否をする。その時、我々は理性の覚めた命令に従えるだろうか。『死刑』を著した森達也はこう結ぶ。

 二〇〇六年一二月二五日に処刑された七五歳の藤波芳夫は、高齢と長年の独房暮らしで脚が弱り、車椅子の生活だった。あなたに想像してほしい。ひとりでは歩けない老人を絞首台まで連行し、車椅子から降ろしてロープに吊るすその光景を。
 車椅子だろうが老人だろうが、死刑が必要ならするべきだ。僕は死刑が必要な理由がどうしてもわからないけれど、でもあなたがどうしても必要なのだと思うのなら、それはそれで否定しない。それはきっとあなたの>93>理念であり思想なのだから。
 でもせめて、車椅子の藤波を吊るすその情景を、想像することくらいはしてほしい。だってそれは現実に起きたことであり、僕たちが承認したこの国のシステム下で行われたことなのだから(脚注38)。

 重罪犯を死刑に処すという抽象的決断と、生身の人間が血を流し、糞尿を垂らしながら殺されるという具体的現実との間に横たわる溝が問題なのだ。死刑を維持するためには、執行官を始めとする関係者の罪悪感を薄める分業体制が不可欠だ。しかしそれは逆に見れば、心理負担を減らす手段を採り入れれば誰でもナチスの犯罪に加担する危険性を同時に意味するのではないか。
(脚注38)森、前掲書(引用者注:『死刑』)三一五頁」(p94)

(強調は、著者による)
「結局、自由とは因果律に縛られない状態ではなく、自分の望む通りに行動できるという感覚であり、強制力を感じないという意味に他ならない。強制されていると主観的に感じるか否かが自由と不自由を分つ基準であり、他の要因によって行為が決定されるかどうかという客観的事実は、自由かどうかの判断とは別の問題だ(脚注36)。我々は常に外界から影響を受けながら判断し行動する。しかし条件の違いによって、自分で決めたと感じる場合もあれば、強制されたと感じる場合もある。主観的感覚が自由という言葉の内容なのである。
 責任の正体に迫るためには、自由に関する我々の常識をまず改めなければならない。近代的道徳観や刑法理念においては、自由意志の下になされた行為だから、それに対して責任を負うと考えられているが、この出発点にすでに大>156>きな誤りがある。実は自由と責任の関係に関して論理が逆立ちしている。自由だから責任が発生するのではない。逆に我々は責任者を見つけなければならないから、つまり事件のけじめをつける必要があるから行為者を自由だと社会が宣言するのである。言い換えるならば自由は責任のための必要条件ではなく逆に、因果論的な発想で責任概念を定立する結果、論理的に要請される社会的虚構に他ならない。
(脚注36)P. Fauconnet, La Responsabilité. Étude de sociologie. Paris, Alcan, 1928(première édition: 1920), p.191. すでに参照した黒田やSchlick, op. cit.も同様の立場を支持する。またより時代を遡ればホッブズも「強制からの自由」と「必然性からの自由」を区別し、人間について語りうるのは強制からの自由であり、必然性から自由になることはできないとした。T. Hobbes, "Of Liberty and Necessity" & "The Questions concerning Liberty, Necessity and Chance", in Vere Chappel(Ed.), Hobbes and Bramhall on Liberty and Necessity. Cambridge, Cambridge University Press, 1999.」(pp.156-157)

「外部の存在が同一性を生み出すと主張した前著『民族という虚構』と同様に、本書の底に流れるテーマも他社性である。むろん、他者とは何かという巨大な問いに立ち向かったわけではない。集団とは何か、赦しとは何か、意味とは何かといった、それ自体難しい問題群をさらに検討する必要がある」(p255)

「死刑制度を可能にする無責任体制に眼を向けたのは、死刑制度を批判したり、廃止を呼びかけるためではない。ホロコーストや戦争犯罪のような悪だけでなく、我々が必要と認める制度も実は同じメカニズムに支えられている。善と悪の境界は想像以上に曖昧だ。地獄への道は善意で敷き詰められている。この警句の意味を我々はもう一度よく考えるべきだろう」(p256)

「人間は身体を持つ。生き物としての人間、生身の身体が世界秩序を作る。犯罪に対して我々は単に論理だけで反応するのではなく、怒りや悲しみを必ず覚える。感情や認知バイアスという濾過装置を通さなければ判断できない人間存在の行動が、哲学者や科学者の覚めた論理だけで理解できるはずがない。心の論理と社会の論理にしたがって我々は日々判断・行動し生きている。歴史条件や文化背景から超越的に練り上げられる規範的考察では責任現象を把握できない。責任はまさしく社会・心理現象であり、それとは別に論理的に定立される責任はない。
 責任という虚構。大切なのは根拠の欠如を暴くことではなく、無根拠の世界に意味が出現する不思議を解明することだ。どうせ社会秩序は虚構に支えられざるをえないから、より良い虚構を作るよう努力すべきだという意見もある。しかしそんなに簡単に世界の虚構性を認めてよいのか。逆説的に聞こえるかもしれないが、根拠に一番こだわっているのは私の方なのだ。道徳や真理に根拠はない。虚構として根拠が生成されるとともに、その恣意性、虚構性が隠蔽される。人間が作り出した規則にすぎなにのに、その経緯が人間自身に隠される。物理的法則のように客観的に根拠づけられる存在として法や道徳が人間の目に映るのは何故か。これが本書の自らに課した問いだった」(p257)

■書評・紹介

■言及



*作成:櫻井 悟史 
UP:20080916 REV:
ホロコースト  ◇「死刑執行人」  ◇犯罪/刑罰・文献 責任・…  ◇身体×世界:関連書籍 2005-  ◇BOOK
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