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『言魂』
石牟礼 道子・多田 富雄 20080630 『言魂』,藤原書店,216p.
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石牟礼 道子
・
多田 富雄
20080630 『言魂』,藤原書店,216p. ISBN-10: 489434632X ISBN-13: 978-4894346321 2310
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内容(「BOOK」データベースより)
免疫学の世界的権威として、生命の本質に迫る仕事の最前線にいた最中、脳梗塞に倒れ、右半身麻痺と構音障害・嚥下障害を背負った多田富雄。水俣の地にとどまりつつ執筆を続け、この世の根源にある苦しみの彼方にほのかな明かりを見つめる石牟礼道子。生命、魂、芸術をめぐって、二人が初めて交わした往復書簡。
■著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
石牟礼 道子
1927年、熊本県天草郡に生まれる。作家。『苦海浄土―わが水俣病』は、文明の病としての水俣病を鎮魂の文学として描き出した作品として絶賛された。第一回大宅壮一賞を与えられたが受賞辞退。1973年マグサイサイ賞受賞。1986年西日本文化賞受賞。1993年『十六夜橋』で紫式部文学賞受賞。2001年度朝日賞受賞。『はにかみの国 石牟礼道子全詩集』で二〇〇二年度芸術選奨文部科学大臣賞受賞
多田 富雄
1934年、茨城県結城市生まれ。東京大学名誉教授。専攻・免疫学。元・国際免疫学会連合会長。1959年千葉大学医学部卒業。同大学医学部教授、東京大学医学部教授を歴任。71年、免疫応答を調整するサプレッサー(抑制)T細訪を発見、野口英世記念医学賞、エミール・フォン・ベーリング賞、朝日賞など多数受賞。84年文化功労者。能に造詣が深く、舞台で小鼓を自ら打ち、また『無明の井』『望恨歌』『一石仙人』などの新作能を手がけている。2001年5月2日、出張先の金沢で脳梗塞に倒れ、右半身麻痺と仮性球麻痺の後遺症で構音障害、嚥下障害となる。著書に『免疫の意味論』(大佛次郎賞)『独酌余滴』(日本エッセイストクラブ賞)など多数(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
■目次
第1信 受苦ということ
『環』
25
第2信 なふ、われは生き人か、死に人か
『環』
26
第3信 老人が生き延びる覚悟
『環』
27
第4信 いまわのきわの祈り
『環』
28
第5信 ユタの目と第三の目
『環』
29
第6信 いのちのあかり
『環』
30
第7信 自分を見つめる力・能の歌と舞の表現
『環』
31
第8信 花はいずこ
『環』
32
第9信 また来ん春
第10信 ゆたかな沈黙
あとがき
■引用
◆
多田 富雄
第三信「老人が生き延びる覚悟」 42-58
200611
『環』
27
「[…]鶴見和子さんの訃報が届きました。往復書簡集『邂逅』で、一年余りテープでの謦咳に接してきました。私は声を忍ん<0043<で泣きました。心の心棒が一本外れてしまったような気がしたからです。
その鶴見さんの死が、何と私がいま戦っているリハビリテーション(リハビリ)の日数制限の、最初の犠牲者であったことが、私の胸に突き刺さりました。
鶴見さんは、十一年前に脳出血で左半身麻痺となったのですが、精力的にはリハビリ治療をうけながら、著作活動を続けました。往復書簡でも、毎回私に新しい観点を教えてくれました。私には、日本のエコロジーの精霊「山姥」の化身に見えました。十年以上も苦しいリハビリの訓練に耐え、力強く私たちを叱咤してくれていました。しかし今年になって、理学療法士を派遣していた整形外科病院から、いままで月二回受けていたリハビリを、まず一回だけに制限され、その後は、打ち切りになると宣言されたそうです。医師からは、この措置は小泉さんの政策ですと告げられました。
その後、間もなくベッドから起き上がれなくなってしまい、二カ月ばか<0044<りのうちに、前からあった大腸癌が悪化して、去る七月三十一日に他界されたのです。直接の死因は癌であっても、リハビリの制限が、死を早めたことは間違いありません。
藤原書店刊の本誌
『環』
(二六号)に掲載された短歌にも[…]」(多田、石牟礼・多田[2008:44-45])
「この問題の発端は今年の三月の末の出来事でした。私にとっては驚天動地の通告があったのです。リハビリに通っていた病院の医師から、「あなたは四月一日からリハビリができません」といわれたのです。やっと三十メートルぐらい歩けるように回復したのですが、ここで止められたらまたじきに歩けなくなる。それどころか、リハビリを休めば立ち上がることもできなくなってしまうのは、すでに経験済みです。
なぜリハビリが出来ないかと問いただしたら、四月から診療報酬が改定されて、一部の疾患を除いて、リハビリ医療に上限日数が設けられたからだと聞かされました。疾患によって違うが、私のような脳卒中では、発症から起算して、最大一八〇日(六カ月)で打ち切られるというのです。私<0048<はもう発症してから五年もたっていますから、真っ先に打ち切りです。小泉政権の医療改革の一環で、医療費削減のためだと説明されました。
はじめはそんな乱暴なことは冗談だろうと思いました。リハビリはそんなに費用のかかっている医療ではないし、中止したら寝たきりになる人が多数いるからです。それに急に言われてもどうしようもない。しかも私たちは、力の弱い障害者です。いくらなんでも福祉国家を自称しているのに、そんなことをするわけがないと思いました。
でもそれは本当だったのです。患者の七〇%が打ち切られた都立病院もありましたし、泣く泣く治療を諦めたものも続出しました。そんな患者には、鶴見さんのように中止したら寝たきりになり命を落とす人が大勢いました。
私はあまりのことに驚いて、『朝日新聞』の「私の視点」に投書しました。四月八日に掲載されたこの投書には、「身体機能の維持は、寝たきり老人<0049<を防ぎ、医療費を抑制する予防医学にもなっている。医療費の抑制を目的とするなら、逆行した措置である」「今回の改定は、『障害が一八〇日で回復しなかったら死ね」というのも同じことである」「それとも、障害者の権利を削って医療費を稼ぐというなら、障害者のためのスペースを商業施設に流用した東横インよりも悪質である」と書いたのです。この投書は幅広い反響を呼び、私の予想しなかった国民的署名運動に発展しました。
兵庫県の医師や患者会が行ったこの運動には、たったの四十日あまりで四四万四千の署名が集まりました。これは国民二九〇人に一人が署名したことになります。このときほど言葉の力を感じたことはありません。市民運動がもとになって、フランス革命も独立戦争も、きっと水俣訴訟も、こうして始まったに相違ありません。
私は患者の皆さんと一緒に、六月三十日に厚労省を訪ね、担当者に車二台分の署名簿を手渡し、声明文を電子音声で読み上げました。そのとき泣<0050<く泣く苦しみを訴えていたポリオの後遺症の女性は、まもなく動けなくなり、入院してしまいました。鶴見さんのように命を落とした人もいます。
しかし狡猾な厚労省は、机上の空論を並べるだけで、何も対策を講じようとはしません。その間に、二十紙を超える新聞が反対の社説を掲げました。テレビなど、マスコミの取材にも、政府は見直しをするつもりがないといっています。
そこで私のような老人は智恵を出し合って、次々に新しい手を繰り出し糾弾しなければなりません。いまは一方の当事者でありながら沈黙を守っているリハビリ医学会を攻撃しています。本来なら真っ先に反対しなければならないのに、声を上げようとしない。それは間接的に、打ち切りを支持していると思われても仕方ありません。一部の幹部が厚労省の顔色をうかがっているからです。それを糾弾するために『世界』、『現代思想』などに論文を書き続けています。」(多田、石牟礼・多田[2008:48-51])
「妻が初めて同窓会のため、三日ほど家を空けるというので、私は妹がやっている老人ホームに体験入所しました。そのことをちょっと書いて終わりたいと思います。
老人ホームは、都市化の進んだ茨城のつくば市にあります。でも田園風景に囲まれたのどかなところです。妻は糖尿病で、万一のときはここへ私<0055<を託さざるを得ないというので、まず体験しておこうとしたのです。生き延びるための緊急避難所を見ておくためです。」(多田、石牟礼・多田[2008:55-56])
「老人ホームはさまざまな人生が詰まっています。これを見ると、障害者である私は、できるなら楽に苦しまずに死にたいなどというずるい考えは捨てて、「老い」というものに必然的に伴う「苦しみ」を引き受ける覚悟を持たなければならないと思いました。
それが「生老病死」の必然的ルールなのだと悟ったのです。楽にぽっくりと死ぬというのはずるい考えです。老人ホームの無気力な「お年寄り」に学ぶ必要があります。そう思うと、私の「受苦」に、もっと広がりが出ると勇気が湧いてきたのです。なにぶん、あの生死の境をさまよった経験のある自分です。苦しみといっても、何ほどのことがあると、昂然として体験入所を終えて帰宅したところです。」(多田、石牟礼・多田[2008:57])
◆
多田 富雄
第五信「ユタの目と第三の目」 95-114
「介護と医療は、目的も手段も違います。私たちは医療を求める患者です。<0108<患者が医療を求めるのは、当然の権利、療養権です。そういう患者を診て、医療を施すかどうかは医師の裁量権の問題です。拒否すれば、医師法違反になります。
こんな事態になっても、日本医師会はずっと押し黙ったままです。腰抜けといわれても仕方ありません。リハビリテーション医学会の学者も、初めは知らんふりでした。私たちが騒ぎ立ててから、やっと昨年の末になって、気のぬけた声明を出しただけです。職責者として、また専門家として、恥ずかしくないのでしょうか。
何よりも、厚労省にリハビリ打ち切りの口実を与えたといわれる、「高齢者リハビリテーション研究会」と称する医学者の責任を問わなければなりません。自分がいってもいないことを根拠にされて、こんな制度が作られたのに、黙ったままなのです。私は実名をあげて告発しようと思います。
科学者には、自分が関与したことには、責任を持たなければならない倫<0108<理があります。後で、そんなつもりはなかったといっても、結果の責任は免れません。利用されたことに気がついたとき、どうして抗弁しなかったのでしょうか。厚労省の役人が怖いのか、黙ったままです。
ハンセン病裁判のときも、AIDS薬害のときも、私を含めて医学者は一言も発言しなかった。そのことは、苦い経験として私を打ちのめします。
水俣病のときも、わかっていながら体制側にくっついて、患者を苦しめた医学者がいたことを、私は知っています。直接手を汚さなかったにしても、無関心を装った加害者は多かったでしょう。これが日本の医師、科学者の実情なのですね。
もう黙って見過ごすことは出来ません。何とか言葉の力を信じて、発信し告発し続けます。リハビリ問題が、一般の人にはたとえ小さな問題であっても、これは基本的人権の問題です。
三月十日には、全日本保険医団体連合会の主催でこれからのリハビリ<0110<を考える会」という市民集会が開かれ、私も車椅子で参加し、挨拶しました。三百七十人に及ぶ患者の悲痛な声は、私の「忿怒佛」を燃え立たせました。
みな障害をもった人たちです。無常なリハビリ打ち切りで、どんな被害を蒙ったかを、泣きながら訴えていました。出席もしない厚労省からの、挑発的なメッセージが読み上げられたときは、会場全体がどよめきました。
突然こんなところで言うのは大げさかもしれませんが、科学者の行動の規範となる良心とは何だろうかと、私は悩みます。どうすればいいのか、私たちに突きつけられた問題です。各論的に対応するほかないのでしょうか。
戦争の始まったとき、日本の歴史学者も同じような悩みを持ったでしょう。歴史の専門家が、歴史をよじ曲げるのを座視してしまったのですから。<0111<
私は、周りの科学者や知識人と「自然科学とリベラルアーツを統合する会」というのを旗揚げすることにしました。専門の科学者が、科学の発展によって生じた問題を解くことが出来ない。環境問題も核問題も科学の産物ですが、科学者には解決の道すら見えてこない。
一方、人文学者も、社会の問題は彼ら専門家の目線だけでは解決できない。こちらは科学の解析が不可欠です。
それらを解決できるものがあるとしたら、科学の知と人文の知を統合した知なのではないか。そんな漠然とした議論を、もっとも真摯に聞いてくれた、建築家や生物学者の友人と諮って、この会ができました。
まだ具体的な行動の予定は、少ないのですが、藤原書店のバックアップでホームページを立ち上げるところまで来ました。」(多田、石牟礼・多田[2008:109-112])
◆
多田 富雄
あとがき 201-207
「石牟礼道子さん往復書簡をやってみないかと藤原書店の藤原良雄さんからお勧めを受けたのは二〇〇五年の春であった。石牟礼さんは私はひそかに崇拝する女性の一人だったので、一も二もなくお引き受けした。
私はそのころ、かなり進行した前立腺癌が発見されていた。手術や合併症の治療に忙殺されてて、私がお手紙を差し上げられる状態になったのは二〇〇六年に入ってからであった。はじめから完成が危ぶまれた。」(多田、石牟礼・多田[2008:201])<
■言及
◆立岩 真也 20100701 「留保し引き継ぐ――多田富雄の二〇〇六年から」,『現代思想』38-9(2010-7):
資料
UP:20100605 REV:20100612, 13, 15
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石牟礼 道子
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多田 富雄
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リハビリテーション
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