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『沖縄基地問題の歴史――非武の島、戦の島』

明田川融 20080421 みすず書房,382p.

last update:20140116

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■明田川融 20080421 『沖縄基地問題の歴史――非武の島、戦の島』,みすず書房,382p.

ISBN-10: 4622073749 ISBN-13: 978-4622073741 \4200 [amazon][kinokuniya]

■内容
沖縄戦以前から今日まで。基地問題を中心に、「復帰の主人公」が作りだす物語と日米両国政府の作りだすヴィジョンを対位法的に描き、核心に迫った開かれた書。(「BOOK」データベースより)

■目次


まえがき
第一章 沖縄戦への道
第二章 沖縄戦
第三章 沖縄と日米安保体制の形成
第四章 沖縄と日米安保体制の展開(一)――沖縄と60年安保改定
第五章 沖縄と日米安保体制の展開(二)――沖縄「返還」とベトナム戦争の影
第六章 未完の復帰と沖縄基地問題

あとがき


■引用


本書は[…]現実に存在する基地問題に読者の関心を誘い、問題の核心を見きわめる一助となるような、開かれた問題提起を意図している。[…]そうした「復帰の主人公」が掲げた復帰の大義へ向ける眼ざしが本書の視点の一つとすれば、もう一つの視点は、沖縄に対する唯一の「施政権者」や「潜在主権」の保有者を称する日米両国の政府が、その大義と向きあって、どのように応じたのか、あるいは応じなかったのか、ということになろう。[…]本書は、この二つの視点を用い、近年あきらかにされた資料や研究成果をも織りこみ、「復帰の主人公」が作りだす物語と「施政権者」や「潜在主権」保有者の作りだす物語りを、ときに交錯させ、ときに対位法的に描きながら展開する。(まえがき)

1960年の安保改定交渉は、日米安保体制と沖縄の米軍直接統治政策とが密接にかかわりあいながら、安保条約の適用範囲から沖縄を除外することによって、安保条約の表面的な片務性や不平等性を改定し(事前協議の制度化、米国による日本防衛の役割の確認、極東条項)、一方で、米国の冷戦戦略を保障するために、平和憲法との矛盾をきたす沖縄を安保条約から排除しつつ、米軍基地の自由使用(核兵器の貯蔵や使用を含む)を継続させた。


それにしても、「平和」憲法がが、一面で【ルビ:一面でに強調】「今や世界を動かしつつある崇高な理想」を前提とし、他方では、世界を破壊の淵に立たせかねない”空爆”ならびに”核兵器”を本質とする軍事戦略と、それに基づいた沖縄の要塞化構想をもう片面【ルビ:もう片面に強調】の前提として成立したことは、いくら強調してもし過ぎることはないだろう。(114)

沖縄に対する主権の所在を浮きあがらせず、形式的にはあくまで日本に残存させたうえでの貸与ということにし、実態は米軍による占領という政治・外交上の擬制を採用する狡知である。そこには、米国は「大西洋憲章」の領土不拡大方針を自ら反故にしているという国際的な批難を防ぎ、そして、沖縄を日本から永久に切り離してその領土にするつもりなのだという声が日本国民の間から起こることを防ぎ、さらに、ソ連が北方領土に対して、また中国が沖縄等に対して領土権を主張するのを抑えるための法的根拠を築くという”一石三鳥”の機能が期待されたものと考えられる。(122)

 大韓民国および朝鮮民主主義人民共和国の成立(一九四八年八月および同九月)による朝鮮半島分断の恒久制度化、ソ連の原爆保有(四九年九月)、中華人民共和国という巨大な潜在力を包蔵する社会主義国の現出(同十月)、そのソ連と中国による友好同盟援助条約の締結(五〇年二月)と、冷戦はアジアにおいても確実に亢進し、ついに一九五〇年六月二十五日には朝鮮半島で”熱戦”が勃発するにいたる。
 この時期、米統合参謀本部は、アジアにおける冷戦の昂まりに際して、日本の有する地政学的・戦略的価値が著しく増大したと見、”基地日本”を自由に使用できる状態にしておくべきであるとし、そのために占領継続=対日講和尚早論を唱導していた。(125)

 最終的に締結された日米安保条約は、日米間の集団的自衛関係とはおおよそ関係のない、もはや文言の上では米軍行動範囲の限定すらない(「極東」は在日米軍の行動が寄与する”目的の範囲”を規定する)、たんなる駐軍条約の性格がきわめて濃厚な条約として締結されることとなった。[…]「極東条項」の挿入によって、条約上は米国がその軍隊を日本国内およびその附近に配備する(=基地を使用する)権利は明記されているのに、米軍の日本防衛義務は曖昧である、という条約上の片務性――六〇年安保改定の淵源となる安保条約の内在的要因ーーが生ずることとなった。(150−151)
●日米安保条約の駐軍条約的性格(日本防衛義務は曖昧、極東条項)

1951年9月5日、対日講和会議でのダレスによる潜在主権residual sovereignty発言

ダレスが「潜在主権」residual sovereigntyという擁護、方式、その方式による領土処理を公にしたのはこれが最初といわれている。(151)

第三条は、対象とする地域(以下、第三条地域と略記)を日本が放棄する内容や、米国の信託統治の受託といった内容を規定していないことが、同地域に対する日本の「潜在主権」の保持を規定していると解されている。加えて、さきのダレス演説のなかで、第三条地域に対する日本の「潜在主権」保有が言明されていることが、もう一つの論拠と解釈される。(152)

五〇年代半ばから六〇年代半ばまで、米国政府による対沖縄政策の基本的立場は、①日本の潜在主権を確認するとともに、②「極東」における脅威と緊張が存続する」あいだ、あるいは「極東の安全保障にとって重要である」あいだは沖縄を保持すること、の二点であった。(154)

岡崎が考案しようとしていたのは、「連合国に基地を置く権利を与える(もしくは土地を貸与する)」いっぽうで、「日本が主権と行政権を維持する」ことをねらった便法であり、さらに突き詰めれば、「基地権」と「行政権」を分離しようという便法だったのである。[…]この「便法」はまた、占領期の政治・外交に限られたわけではないということも留意されるべきであろう。五〇年代半ばから後半にかけての時期は、講和・独立の回復から数年が経ち、日本国内でナショナリズムの台頭をみる一方で、米国の軍事的存在に起因する事件・問題が相次いだ時期であった。そのような事態を受けて、[…]外務省は、「日米協力関係を強化発展させるためにとるべき政策」(五七年三月)を検討している。そこで示されている諸政策のち、沖縄については、まず「軍用と地の接収並びに補償などの行政事務及び教育行政について、米国政府は日本政府の意見を求めるものとし、これがため日本政府は所用の政府職員を現地に派遣駐在せしめる」、ついで「前記措置を他の行政事務に対しても拡大適用」した後、第三段階として、「日本政府は、沖縄における米国の軍事上の用件を満足に充足せしめるとの条件の下に、米国政府は施政権を全面的に日本に返還する。右目的を達成するため日本政府は、軍事上必要なる土地、建物などの接収について特別の立法措置をとるものとする」ことが提示されている。(156)

このように、戦後の沖縄の命運にとって画期となる諸政権が、沖縄に対する日本の施政権ないしは主権と、外国軍隊の基地権を分離し、前者を主張する「便法」を用いてきたのである。(157)

●基地の提供と行政権の(将来的な)確保とを無理矢理に共存させるための論理としての「潜在主権」論
●施政権の返還のかわりに、軍事上必要な基地の維持は保証するという論理

米軍による沖縄統治の基本方針においては、自治的行政機構の樹立、裁判所の設立、基本的自由の保障などがある程度までは盛り込まれていたが、それはあくまで米国の軍事上の必要性に従属するものであり、肝腎なところは民政府や現地占領軍のトップである民生副長官が押さえる仕組みになっていたのである。(162)

1953年4月3日 土地収用令(布令一〇九号)公布

米軍は、これら布令一〇九号(改正を含む)および布告二六号(同)を法的根拠として、五〇年代中葉まで軍用地接収を強行していった。沖縄本島に限っていえば、五六年三月末までに、総面積の一二・一パーセント(五千万六七三二・五坪)が軍用地として接収された。伊江島も六七・八パーセントが米軍用地で占められた。(165)

●反基地運動のなかの「沖縄」→砂川闘争
●米国への防衛分担金Yen Contributionの減額交渉の結果、米側は178億円の減額を応じたものの、防衛関連予算増額と六基地(伊丹、小牧、新潟、木更津、立川、横田)の滑走路拡張計画を実行することを条件とした。

防衛分担金は削減しても、防衛力整備や基地の増強を含めた日本側のトータルな”貢献”は減らされないという「安保条約の論理」が作動していた。(167)

●1955年6月 全国軍事基地反対連絡会議結成。創設大会には沖縄からの出席者も。
「基地は全国民の問題」であるから、特定の労組や政党といわず「あらゆる団体を入れて全億連絡組織をつくる」必要性が認識されるにたり、反対闘争の交流や情報交換をはかる全国組織として「全国軍事基地反対連絡会議」[…]が結成される。(168)
→沖縄: 1954年3月の第五福竜丸事件を契機として、核戦争と沖縄の核基地化への懸念が表明されて、原水爆禁止運動との連携が提案されていた。また、反基地運動において本土側の運動との連携も提案されていた。

沖縄+本土の核攻撃基地化、それを阻止するための安保体制の解消という考え方は、沖縄は日本領土であり沖縄住民は日本国民であるという主張とともに、本土の反基地運動と沖縄の運動を繋ぐ環の一つとして重要な役割を果たす。(171)
●反核・反原水爆の運動・思想と安保体制の解消を求める思想が、沖縄と日本本土とをつなぐ思想としてあった。

●1956年7月4日 全国軍事基地反対連絡会議 沖縄問題総決起大会(日比谷音楽堂、1万人)→4原則と沖縄復帰の要求

プライス勧告に反対することは、日本民族の独立と同時に、世界平和への路線につながり、その事は砂川を中心にした基地拡張反対運動と密接不可分の関係にあるのである。[…]土地とりあげに際しても警棒と、銃剣による強制におよんでは、八千万国民が怒りにもえる事は当然であり、この事は、日本内地における軍事基地拡張反対運動と本質的に何ら異なるところはない。(173)※全国軍事基地反対連絡会議『基地情報』第22号(1956年7月5日)からの引用→中野『戦後資料 沖縄』
●本土での反基地運動と沖縄での土地闘争とは「何ら異なるところはない」問題として感じられる状況

だが、反基地運動における本土と沖縄の”共振”は、このあたりが最大であったと言わざるを得ない。”共振”は、それが相互作用であるだけに、うまく同調すれば大きな力を発揮するが、どちらか一方が運動を止めれば、もう一方の運動をも収束させようと働く脆さを併せもつ。このとき砂川闘争は、全学連が運動に加わり、社会党および同党系団体中心の共闘組織から、共産党系組織などをも含んだ運動へと展開し、「砂川支援団体連絡会議」の結成(九月二十六日)へ向かう過程にあり、沖縄でもプライス勧告に対する反対運動が連日のように行われていた。しかし、東京都下の砂川で起き、支援政党・団体の指導者も頻繁に訪れ、「安保条約の論理」「冷戦の論理」というものが可視化されやすい闘いであった砂川闘争は、五六年十月十三日の強制測量で警官二千人とデモ隊六千人が衝突し、双方あわせて一千人の負傷者を出す流血の惨事となった翌日、政府が測量うち切りを宣言したことにより収束へと向かう。[…]砂川闘争が一定の”勝利”を収めたことにより、反基地運動の連携は弱まり、個別化していった。(174)
●砂川の勝利=沖縄との連携の弱まり=運動の個別化。分かりやすいが、論拠に乏しい。可視化された連携が少なくなったとしても、個人やグループのなかでどのように継続されたのか、中断されたのか。東京中心の歴史ともいえないか。
●1960年代後半の連携の再起動ともいえる状態が描かれないことも不思議である。

●島ぐるみ闘争への本土側反応: 主権侵害
本土では、ことは軍用地問題に留まらず「異民族による統治」、沖縄の「施政権、すくなくとも教育権の返還」、「沖縄の日本復帰」が争点化しつつあった。なかでも、社会党は「土地の無期限使用に等しい地代支払方法〔一括払い〕の採用は、講和条約に定められた日本の主権に影響するものとして看過できない」と主張し、共産党もまた「今回の米軍の措置はあきらかにわが国の国家主権とくに領土権の侵害であり、いわゆる「潜在主権」をもうばいとろうとするもの」と断じていた。(179)

●1956年11月 那覇市長選挙 瀬長亀次郎当選
●1957年1月末 群馬県 相馬ヶ原米軍演習場での米兵による農婦射殺事件 裁判権行使をめぐって問題化
●1958年1月 那覇市長選挙 前社会大衆党那覇支部長 民主主義擁護連絡協議会(民連)支持の兼次佐一当選

日本政府は独立国としての一定の規制を課すことを意味する「事前協議制」導入を提起する。他方、岸信介首相は、防衛区域に沖縄をはじめとする第三条地域を含めることを要望する。沖縄を防衛区域に含めることで、米軍による基地使用条件に対する一定の規制を意味する事前協議制[…]が沖縄にも適用され、日本の沖縄返還要求にハズミをつけることを懸念する米軍部の激しい抵抗を惹起するのである。(194)
●日米安保改定交渉: 事前協議制と沖縄の適用範囲化の方針

民連 含めることに反対だ。……理由は東南アジア条約機構完成の狙いがある。この狙いは米韓、米華条約の中に沖縄が入っている。そこに日本を含めるとなると沖縄は扇の要になる。(197)
社会党 人民党と同じである。含める含めないより安保条約そのものを廃棄しなければならない。できるだけ最大公約数で統一、祖国復帰運動として国民運動にもっていくべきだ。(198)

東京でも同区域から沖縄を外そうという動きが活発化していた。講和条約第三条地域を新安保条約の防衛区域に含めるという岸構想に対し、社会党は、同条約が「米台相互防衛条約」(防衛区域は「西太平洋」)や「米韓相互防衛条約」(同「太平洋」)とリンクし、沖縄と日本本土が戦争に巻き込まれる可能性が高まるとして、沖縄を防衛区域に含めることには反対の立場をとっていた。(200)

 米国の極東戦略、ひいては世界戦略遂行のための在日基地使用という、旧安保条約の根幹が安保改定においても再確認されたことを意味した。
 こうして一九六〇年一月、実質的に日本本土を共同防衛区域とし(第五条)、日本が引き続き米国へ基地提供を行う(第六条)ことを根幹とする「相互協力および安全保障条約」(新安保条約)、基地使用に関する事前協議制を定めた交換公文、基地提供や在日米軍に対する裁判権等を定めた日米地位協定、さらにはこれらの実施・運用等に関する数多くの取り決め[…]が日米間に取り交わされ、安保改定交渉は幕を下ろしたのである。(201)
●米国の正解戦略遂行のための在日米軍基地使用の再確認

性急で露骨な対日再軍備圧力は、むしろ日本の経済疲弊と政治・社会混乱を招き社会主義を助長するとの観点から影を潜めた。日本の政治的安定と経済的繁栄に見合って、日本が負担してきた「円による貢献」(=防衛分担金)の削減分を防衛力増強関係経費に充当するといったような方法で、日米の安全保障関係における、モノ(基地)・カネ(経費)・ヒト(防衛力)の要素を総合的に見た場合の日本の負担は引き続き維持ないし拡大するアプローチがとられたのである。沖縄との関連でいえば、五〇年代半ばから後半にかけて、日本の防衛力増強を睨みながら日本本土から段階的に削減されることになる米軍のすべてが”国外移駐”したのではなく、その一部は沖縄へ移駐することとなる。(203)

しかし、安保改定によって本土基地の使用は単純に再確保されたのではなかった。事前協議制の導入によって、本土基地の使用には核兵器の扱い、ならびに本土基地からの出撃行動などについて、それまで存在しなかった制約の課される可能性が生じていた。そのことは、”基地沖縄”の重要性に対する認識に直接的な影響を及ぼさずにはおかなかった。(204)
米議会筋には、①岸退陣後は、より左寄りの政権が誕生するかも知れず、②その場合、日本政府は事前協議を盾に米軍の行動を制限し、③左翼分子が基地を妨害し、政府もそれを押さえきれない、等の理由から本土基地の価値に疑問を抱く声もあがり始めていた。となれば、米軍の戦略にとっては、[…]適用範囲から除外した沖縄がいよいよ”頼みの綱”ということになってくる(205−206)
新安保条約調印直後の対日政策策定過程において、核兵器と出撃行動と事前協議をめぐって在沖縄基地と本土基地との間に働く相互連関が検討され、その結果、米国にとっては沖縄の戦略的重要性が相対的に高まったと認識され、以降も米国が沖縄を長期占領する要因となる。[…]軍部のように、さらに沖縄の長期支配に固執し、沖縄と本土の関係緊密化を封じようとする(あるいはそのような解釈を生む)態度をその後も取り続けることは、むしろ沖縄と本土における復帰感情の拡大を招く可能性を孕んでいた。
●米軍基地撤退→日本の防衛力増強+沖縄への移駐
●安保改定による事前協議制の導入と60年安保闘争の影響によって、自由使用が認められる沖縄の米軍基地の重要性が増した。
●沖縄と本土との関係の緊密化を封じようとする軍部の政策、それへの反発→60年代後半の破綻。60年代後半の民衆闘争の圧力、そしてベトナム戦争の敗退が米国政府の政策を転換させ、日本への施政権返還と追い込んでいったが、しかし、一方で米国は日本政府による軍事的・財政的なコミットメントを引き出しながら、東アジアにおける米国および米軍のプレゼンスを維持することにも成功したといえる。

●1960年 復帰協結成
結成直後の課題として、復帰協はまず、フィリピンー沖縄ー日本ー韓国と歴訪(212)

初期復帰論のヤマ場が、立法院による「二・一決議」の採択(六二年二月一日)であった。同決議は、六〇年十二月十四日に国連で採択された「植民地諸国、諸人民に対する独立許容に関する宣言」(いわゆる植民地解放宣言)に拠りながら、国連加盟諸国に対して、「日本領土内で住民の意志に反して不当な支配がなされていること」への注意を喚起し、「沖縄に対する日本の主権が速やかに完全に回復される」よう尽力することを訴えるものであった。(213)
●1960年植民地解放宣言に拠る2・1決議の採択。植民地状態からの解放を日本の主権の回復(=復帰)によって達成するというねじれ。

復帰論は、民族主義的射程を超克する一つ目の突破口として、反植民地主義という指導理念を獲得した。(215)
●民族主義(=復帰論?)と反植民地主義は相反するものではなく(=超克の対象ではなく)、矛盾せずに同居するものであったのではないか?そのなかの緊張関係が、復帰の実態が明らかになり、また日本政府の政策が明確となるなかで、望んだ復帰でないという考え方や、そもそも復帰は脱植民地化の方法として選ぶべきではなかったという考え方などが吹き出すこととなったはずである。

「二・一決議」以降の復帰運動は、六二年四月二十八日の祖国復帰県民総決起大会、復帰協代表と本土の復帰運動推進者とが手をとりあった六三年四月の「海上集会」あたりをピークとして、その後は反核運動をめぐる本土で繰り広げられた社会党と共産党の対立が沖縄へも波及したために、分裂期を迎える。(216)
●分裂とピークの関係がよくわからない。

復帰協結成から六〇年代半ばまでに、復帰論は民族主義的射程を超克して、反植民地主義、そして基本的人権という、「万国に通ずる普遍性のルール」を獲得していった。(218−219)
●反植民地主義と基本的人権が復帰運動の基本理念であったことは確かであろうが、一方での復帰運動を支えていた民族主義的な日本本土への同一化の論理や情念はずっと根深く存在していた。これらが混在しえていた1960年代半ばから、その矛盾や限界を指摘する声が復帰運動の内外からつきつけられるなかで、1960年代末以降、諸潮流へと分岐していったと考えられる。

沖縄における人権制限が「軍事的必要性」によるものであったにもかかわらず、復帰論における在沖基地問題に対する取り組みはきわめて”控え目”であった。その要因としては、①復帰運動のセンターたる復帰協が、基本的には異なる広範な主張を有する加盟団体からなる「協議」機関であり、②したがって、条件つき基地容認派や基地労働者、あるいは基地経済に構造的に依存して業を営んでいる者などは、基地撤去などの方針を提示すれば脱退の可能性も考えられ、そして、③平和運動は原水協を中心に取り組まれ「復帰運動とは暗黙のうちに不文律のような形で区分され」て進められた経緯がある、等の点が挙げられる。[…]ようやく復帰協の「統一と団結」を保ち得る線として掲げられたのが、「核【ルビ:核に強調点】基地撤去」あるいは「原水爆【ルビ:原水爆に強調点】基地撤去」であった。(219)
●復帰協の超党派による運営ゆえに、基地撤去方針は表面化していなかった。

●1964年10月16日 中国による最初の原爆実験

●転換点としての1967年
第二次佐藤・ジョンソン会談→沖縄の返還時期を両三年以内に決定することを確認
1月佐藤首相 施政権一括返還が望ましいと発言(大津発言)
2月下田外務事務次官 核付き・自由使用を条件と発言(下田発言)

下田は[…]沖縄および日本本土で返還要求の圧力が高まり、もしそれが抑えきれなくなれば、日米関係の悪化を招来して基地の存続・運営も難しくなり、当初の目標達成など覚束なくなってしまうので、沖縄返還問題を早急に討議しなければならないと述べたのであった。(232)

国防総省の高位の文官が重視したのは、返還によって得られるであろう政治上また外交上の利得であった。メモは、琉球諸島の現状を維持する努力は受け容れ難いばかりでなく「不必要な危険要素を孕む」と断じ、「日本が米国にとって不可欠の要求を満たし、ベトナム戦争支援を目的とする米国の行動の自由を決して損なわないとの条件で、琉球諸島の返還に入ることが時宜にかなった得策である」と結論づけている。メモの作成者にとってタイミングが決定的な意味を持っていたのは、復帰論の圧力は今までのところ耐え得るもので沸点に達していないが、その圧力は沖縄と本土の双方で高まりつつあり、交渉を先延ばしにすればするほど「一触即発の危機的状況」が昂じてくると考えられたからである。(236)
●米国政府により、復帰要求の高まりが危険要素として認識され、沸点に達する前に、返還交渉を進めることが求められた。明田川によれば、その際念頭におかれていたとされるのは、68年の琉球政府主席選挙、遅くとも71年1月までには行われる総選挙、そしてソ連による北方領土返還の申し出による日米関係への緊張の持ち込みの可能性であった。

・1967年11月 日米首脳会談
「要点」とは、第一に、ベトナムで米国の払っている努力と自由アジアの招来に関する佐藤首相の意見を聞かせてほしいこと、次いで、南ベトナムを含む東南アジア諸国への日本の経済援助を拡大すること、第三に、核兵器のもつ現実的意義を直視し、沖縄返還問題に伴う日本の責任を明確にすることであった。(239)
第一回目の佐藤=ジョンソン会談の前日となる十一月十三日には、ロストウから若泉に、①総理が「可能最大限にジョンソン大統領のベトナム政策とアメリカのアジア政策に理解と支持を与える」こと、②アメリカの国際収支の改善とドル防衛への協力を約束すること、③アジア開発銀行特別基金への二億ドル拠出、インドネシアのスハルト政権への援助、および南ベトナムへの積極的経済協力等を含むアジア地域への経済援助促進、の三点からなる「購入品リスト」が伝えられた。(240)
●沖縄返還の交渉は、米国側が自国が負っている負担を日本政府によって代替させることとともにあった。それは、ベトナム戦争の政策への承認、日本の東南アジア諸国への経済援助の拡大、沖縄返還後の日本の責任の明確化であった。

大統領 […]われわれは、日本からin that part of the worldの防衛責任を引き受けるとのofferがあれば歓迎する。われわれは欧州で疲れている。朝鮮、ヴェトナムでも闘った。米国民はその責任からget outするのを歓迎するであろう。他国も強くなってきており、防衛責任を引きうけるのを歓迎する。議会方面では、欧州、アジアからpull backせよとの気持ちが強い。日本、ドイツが責任を分担せよとの気持ちも強い。われわれはこの問題を真剣に考慮するであろう。(242) 
大統領[…] 米国の防衛責任の一部をgive upすることを歓迎する。米国民の一部は幻滅を感じつつある。彼らは、米国が自分以外の全ての者を防衛しているのではないかと言っている。具体的にtimingやdateはわれわれにとって問題であろう。しかし、日本が経済その他でthat part of the worldにおける責任を引き受けられるならば、we can work on that。(243)
ここにいう財政問題での支援とは「日米双方にとって最良の投資」である、アジア開銀特別基金への五億ドル拠出、ならびに対ベトナム経済援助であった。この間、大統領は、オーストラリア、タイ、フィリピンはベトナム派兵というかたちで「貢献」し、米国はそれらの国々による派兵の費用まで払って東南アジア地域の安定に「貢献」していることを指摘した。最後に大統領は、この問題に関する”殺し文句”を口にする。「特別に日本は派兵できないのだから、あらゆる所から、できるだけ多くの金をかき集めるべきだ」。(249)
●疲れている帝国・アメリカ――第一に朝鮮戦争とヴェトナム戦争であり、第二に米国内での反戦・反体制運動のもりあがりに直面していた。つまり、新左翼運動が見事に指摘していたように、米帝国主義は、その国内においても、国外においても、包囲され、疲弊し、そのままでは体制を維持できない状態になっていたのである。米国は日本に助けろ、代われと求めていたのである。
●平和憲法の存在→お金での米国への「貢献」を求める。

総理 […]沖縄、小笠原返還までに、軍事基地、その他の問題で何ができるか国民を教育することを考えている。(243)
●国民を教育する。それに対して、別のビジョンや現実を提示していくのが社会運動であっただろう。よって、沖縄の返還・復帰とはいかなる事態なのか、なぜ必要なのか、獲得される世界とは何なのかをめぐるせめぎ合いの時代といえるだろう。

会談直前、一〇年ぶりの”島ぐるみ”総決起大会と位置づけられた復帰協主催の「即時無条件返還要求県民総決起大会」が開かれ、核つき返還・基地自由使用反対、即時無条件返還が決議された。(252)

・1969年2月4日 2・4ゼネストの挫折
全軍労自身が「[…]二・四ゼネストを成功させるために、積極的に取っ【ルビ:っにママ】組んできた[全軍労]組合員に、スト回避によって挫折感を与え、執行部に対する不信をまねいた」と自己反省するような、組織の上部–下部関係の深く広い溝をつくることとなり、それが復帰協を急進化させる一因にもなった。(260)

「二・四ゼネスト」中止からおよそ一ヵ月半後の三月二十二日、復帰協は第一四回定期大会において、それまでの「原水爆基地撤去、軍事基地反対」に代わる「基地撤去」の方針を打ち出した。(261)
一九六九年春、復帰協は復帰問題ならびに基地問題に対する最終的な態度を決定した。ここに(一)民族独立【ルビ:民族独立に強調】と主権回復【ルビ:主権回復に強調】の闘い(→対日講和条約第三条撤廃)、(二)反戦平和【ルビ:反戦平和に強調】の闘い(→基地撤去)、(三)人権回復【ルビ:人権回復に強調】の闘い(→日本国憲法の全面適用)という復帰運動の最終目標と復帰後に生活の拠りどころとすべき価値が定立されたのである。(261)
●復帰運動の最終目標と価値: 民族独立と主権回復、反戦平和、人権回復

●返還交渉の論点: (1)基地の自由使用と事前協議制、(2)核の貯蔵・通過の権利と核ぬき返還
事前協議制の骨抜きによって、沖縄・日本の米軍基地からの出撃を容認するという態度表明
米軍の核の傘への依存を表明することによって、非核三原則ではなく、非核二原則化と密約の存在(緊急事態には核を持ちこむことを容認。既存の核貯蔵場所をすぐに使えるようにする)

返還関連取り決めの一つである久保=カーティス覚書によって、沖縄の防衛を分担するため自衛隊が沖縄に配備されることとなった。(272)
●久保=カーティス覚書による自衛隊配備

1971年6月17日 沖縄返還協定署名
1971年10月16日 沖縄国会召集
11月17日 衆議院沖縄返還協定特別委員会 強行採決
11月18日 琉球政府「復帰措置に関する建議書」とりまとめ
11月24日 衆議院本会議開会、協定可決→12月22日参議院本会議可決、72年2月1日公布
12月29日 沖縄公用地等暫定使用法 参議院本会議で可決
12月30日 同上 衆院本会議での可決→31日公布

1972年5月15日: 政府主催記念式典(日本武道館と那覇市民会館)
社会・共産両党はボイコットし、総評との三者共催「5・15中央集会」明治公園。
復帰協は「5・15県民総決起大会」開催


■書評・紹介

沖縄基地問題の歴史(琉球新報2008年9月14日・我部政男・早稲田大学客員教授)http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-136202-storytopic-6.html


■言及



*作成:大野 光明
UP: 20140116 
沖縄 社会運動/社会運動史  「マイノリティ関連文献・資料」(主に関西) BOOK
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