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『所有と分配の人類学――エチオピア農村社会の土地と富をめぐる力学』

松村 圭一郎,20080229,世界思想社,324p. 


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■松村 圭一郎,20080229,所有と分配の人類学――エチオピア農村社会の土地と富をめぐる力学』世界思想社,324p. ISBN-10:479071294X \4830 [amazon][kinokuniya] ※ d08. p08.

■目次

序論
 第1章 所有と分配の人類学
 第2章 多民族化する農村社会

第一部
 第3章 土地から生み出される富のゆくえ
 第4章 富を動かす「おそれ」の力
 第5章 分配の相互行為
 第6章 所有と分配の力学

第二部
 第7章 土地の「利用」が「所有」をつくる
 第8章 選ばれる分配関係
 第9章 せめぎあう所有と分配

第三部
 第10章 国家の所有と対峙する
 第11章 国家の記憶と空間の再構築
 第12章 歴史の力

結論
 第13章 所有を支える力学

■引用

 「土地」は、植民地支配や国家建設の基盤となるきわめて政治的な富であった。一方、狩猟採集民がバンド内で分配するような富は、国家など外部世界にとっては、とるに足らないものでしかない。現在の土地所有をめぐる議論が、国家の政策や開発援助といった不確実性に満ちたマクロな影響を考慮に入れなければならないのに対し、狩猟採集民における富の所有や分配の問題は、閉じた社会的条件のなかで議論が進められてきた。そのため、分配方法を規定する「権利」や「規則」という静態的な「法」の枠組みが優勢になっている。 12

 「権利」という言葉を使うためには、それを認証する権威の所在がどこなのか、その拘束力が有効に作用する枠組みが何なのかを問わなければならない。「権利」という、土地や富の所有に関する研究のなかで無批判に使われてきた言葉には、慎重でなければならない。」 24

 ひとつは、欲しいといって人から乞われると、サトウキビのように「商品」になりうる作物であっても、分け与えざるをえなくなるということ。…ふたつめは、この事例において現金が「分配」の領域の外に位置していたということ。前もって他者に売却してしまうことで、サトウキビという富を現金にかえ、「分配」の領域からはずすことができた。サトウキビを売って現金にかえても、かえなくても、それがある土地から生み出された富であることに変わりはない。もし何であれ所有している「富」を分け与えなければならないのであれば、作物を売却して得た現金も、人から乞われて分配する対象になってしまう。しかし、そうはなっていない。いったん現金へと置き換わってしまったとみに対しては、誰もすぐ「よこせ」とは言えなくなる。そこには、何らかのかたちで区別される二つの経済領域、「分配される富」と「独占される富」がある。95

この事例からは、「オレンジ」という一つの作物が商品として売却されたり、自由に家族の者が食べられる分配の状態におかれるかは、決して固定的なものではなく、流動的なものであることが分かる。98

トウモロコシが常に「分け与える」対象になっているのに対し、コーヒーが分配の対象として与えられることは、ほとんどない。100

それぞれの作物の位置づけは固定的なものではなく、つねに流動している。コーヒーの事例にもあるように、あるモノ自体は「分配」の対象にも「商品」にもなりうる存在であって、かならずしもどちらかのラベルをつけることはできない。あるモノの価値や意味づけが最初からあり、それが集合して、ひとつの経済領域を構成しているのではなく、二つの経済領域を区別する形式があって、モノがコンテクストに応じて、あるいは相互行為のなかで、その領域のどちらかに位置づけられるのである。人びとは、相互に行為を重ねながら、それぞれのモノをどちらかの形式に属するものとして位置付けあい、そして今度は位置づけられたモノによってその行動のあり方を拘束されている。109

 まず、アムハラであれ、オロモであれ、国営農園の職員など固定給のある者、結婚や仕事などでほかの土地に出ていった者に対しては、ほとんどの場合、土地が相続されることはない。また、いずれの民族の場合も、トウモロコシの土地がほとんど男子だけに相続されるのに対して、コーヒーの土地は女性にも分割相続されていることが分かった。 133

 屋敷地の土地と作物をめぐる家族のあいだの所有と利用は、つねに流動性が付きまとっている。……たとえいったん誰かのものとされた作物であっても、最後に誰が消費するかは不確定なままになっている場合も多い。そこで育てられる作物に対して、複数の異なる所有の主張が重なりあい、潜在的な競合関係が継続している。145

従来の土地所有研究は、それがどのような土地であれ、あくまで「土地」そのものが一定の価値をもつ「財産」として所有対象になることを前提としてきた。しかし、農村内部の土地利用には多様性があり、農耕サイクルなどにしたがって土地の利用価値に変化が生じたり、その排他性の度合いに違いがあらわれたりしている。同じ土地であっても、農民と土地の関わり方には、さまざまな違いや変化がみられる。つまり、農民たちによる土地の「利用」という行為によって、その所有のあり方がつくられているのである。 146

序論でも紹介したように、ヴェーバーは、規則性のある社会的行為について、とくに意識することなく(あるいは利害や便利さから)、「そうするものだ」とくり返している行為と、「そうすべきだ」という理想や義務感から「正当な秩序」をつくりだそうとしている行為とを区別していた。183

現代のエチオピアは法治国家であり、農村部であっても、その「法」が何らかの強制力をもっていることは間違いない。しかし、これまでみてきたように現実の資源の所有をめぐる争いは、「法」という枠組みのなかだけで解決されているわけではない。むしろ、法が持ち出される以前に、多くの事例において、個人間の交渉や力の行使によって何らかの「解決」が図られている。本書が注目してきたのは、まさにこうした日常のなかで人々の力をともなった「行為」によってかたちづくられる「所有」のあり方なのである。 187

 本書では、序論における「土地の父」という概念の検討にはじまり、一貫して「概念としての所有」という立場への反論を重ねてきた。特に土地という財産の所有形態のなかには、土地の利用形態によって大きな違いがあり、作物の所有や分配のあり方も、その種類によって明白な差異が存在していた。つまり、ひとつの社会が何らかの固有の概念に覆われていて、その概念にもとづく独特な「所有」がみられるという議論は、あまりに雑駁すぎることになる。労働によって獲得されたすべての財産の所有概念が、その社会の身体を含む「所有観」に根ざしているとしたら、なぜこれほど土地や富の所有形態が多様なのか、説明することはできない。「概念としての所有」という捉え方には、大きな限界がある。258

土地を利用するという人々の具体的な行為によって、その領域を保護する経済性が規則的に推移し、それが土地所有の排他性にある一定の変化をもたらす条件として作用している。それは、そのまま土地所有の規則性をかたちづくる土台でもあった。ところが、土地をめぐって築かれている受益者間の複合的な関係は、つねにそこから得られる利益配分をめぐって利害対立と不確定な交渉を誘発し、土地所有のあり方を不規則なものにしていた。263

 「社会関係」が富の所有や分配という経済行動を考える際に、重要になるケースが多かった。しかし、それは他の要素との相対的な関係にあり、作物などの富の扱われ方は、むしろ「モノ」・「人」・「場」とそれらの関係(「モノ」−「人」―「場」)によって異なる様相を呈すると考えられる。 267

 つまり、「モノ」・「人」・「場」でつくられるコンテクストとそこに結びつけられた行為形式との「配置」は、かならずしも固定的ではなく、何らかの行為の積み重ねのなかで操作されたり転換されたりしている。その意味では、人びとの行為、ある特定のコンテクストによって一方的に導かれるのではなく、行為そのものがまた別のコンテクストとして、あらたな別の方向へと連鎖していくといえる。
 こうしたさまざまな所有をめぐる行為の配置と再配置のプロセスをみていくと、ある者に所有されたり、分配されたりする富のあり方には、そのじっさいの行為に先立つかたちで、「分配が期待される形式」と「独占して蓄積することが許容される形式」というふたつの異なる形式が並存していることが見えてくる。
 重要なのは、これらの形式が、あらかじめ商品作物や自給作物、あるいは親族と非親族といった属性を帯びた実体によって構成されているわけではない、ということである。むしろ、そうしたモノや関係の属性に先立つ差異の形式として存在している。 270



*作成:作成者:近藤 宏 
UP:20090115 REV:20120508
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