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寺出 道雄 20080120 日本経済評論社,226p. ■寺出 道雄 20080120 『山田盛太郎――マルクス主義者の知られざる世界』,日本経済評論社,226p. ISBN-10: 4818819824 ISBN-13: 978-4818819825 \2,625 [amazon] ※ ■目次/引用 はしがき 第1章 山田の講演を聴く 1 講演「農地改革の意義」 2 講演の概要 3 日本認識の基本像 「列強の一員であることによって、植民地・半植民地である後進国との対比では、先進国である/日本。しかし、その先進国である列強諸国の中では、欧米の先発国とは画然として格差を有する後発国としての日本。山田の日本資本主義論は、欧米に対する後発国性と、中国をはじめとしたアジア諸国に対する先進国性という、二重の視点によって規定されるものであった。」(pp.22-23) 「半封建的土地所有・半隷農的零細耕作を基礎においた軍事的半封建的資本主義としての日本資本主義、という彼の把握が、その「型」の認識の内容であった。」(p.23) 「『分析』以前の山田の著作は、すべて『分析』の準備作であるといえる。また、『分析』以降の彼の著作は、すべて『分析』の繰り返しか敷衍であるといえる。」(p.25) 第2章 「共産党シンパ事件」まで 1 マルクスとの出会い 2 大学生時代から助教授時代 「1925(大正14)年秋、山田は、鈴木茂三郎の主宰する「政治研究会」に加わっている。「政/治研究会」とは、研究会とはいうものの、無産政党のあり方を考える会という趣旨のものであった。また、翌26(大正15)年には、彼は、マルクス主義雑誌『大衆』に編集同人として加わっている。「政治研究会」や『大衆』への関与は、いずれも、山田に一年先立って経済学部助教授となっていたマルクス主義者、大森義太郎の勧誘によるものである。行動の人であった大森の勧誘によるものとはいえ、行動の人ではなく書斎の人であった山田の大学外の活動への参加は、若い日の出来事としてふさわしい。(pp.34-35) 3 「共産党シンパ事件」 「したがって、もし山田が『講座』の刊行された1932(昭和7)〜33年まで、無事に東京帝大で学究生活を送っていたなら、彼は、先に述べたように、『資本論』の祖述者としての生涯を送ったかもしれない。山田が、『分析』の著者として、日本の――経済学というよりは――社会科学の歴史の中で特異な位置を占めることになったのは、彼の生涯が「共産党シンパ事件」という偶然に翻弄されたからであった。アカデミズムからの排除は、第6・7章で見るように、『分析』における山田の思考や表現を、アカデミズムの枠から解き放たれた自由なものともしていったのである。」(p.46) 第3章 『日本資本主義発達史講座』 1 『講座』の企画まで 2 講座派マルクス主義の形成 「しかも、それのみではない。小作農民に対して経済外的強制をもって臨んでいる存在は何より/も中央集権化された国家そのものである。小作農民を中心とした農民は、その国家の半封建的隷属している。そうした最高の地主である国家への農民の従属にこそ、日本における「絶対的専制支配の半封建的専制国家形態」の根強い残存の基礎を見いだすことができる。」(pp.64-65) 3 『講座』の刊行と『分析』の形成 第4章 『日本資本主義分析』 1 『分析』の基本視点 「山田にとって、旧ロシアの資本主義は、「軍事的農奴制的資本主義」であり、日本の資本主義は、「軍事的半農制度的資本主義」であった。」(p.78) 2 基柢 3 生産旋回 4 旋回基軸 5 旋回または革命 第5章 『分析』の特徴とその反響 1 『分析』の特徴 「山田の、小作農民の「二層の従属規定」をもって、封建的な経済外的強制の存在とする議論は、強大な権力を有する政府を半封建的な存在と規定し、その存立の根拠を農村における社会関係から直接に説明するための、論理的要請にもとづくものに他ならなかったといえる。」(p.116) 2 『分析』の反響 3 モダン文化とマルクス主義 「しかし、そうしていったんは講座派マルクス主義の日本論が広く受容されていったことは、逆に、その形成時における講座派マルクス主義のラディカリズムを見えないものとしていった。それは、当時の日本の知識層の人々にとっての当然の像であった、「進んだ」日本の像に、強烈な/転換をもたらそうとする試みであった。」(pp.132-133) 第6章 構成主義と『分析』 1 建築としての『分析』 2 コンストラクション 3 時代と模型 4 隠された立体模型 「ソヴィエトの共産党や政府の学問や芸術についての「公式見解」が、各国のマルクス主義者の思考を強く制約していったもとで、『分析』はその転換に危うく先立つ試みであった。しかし、『分析』のアヴァンギャルド芸術的な性格は、第二次大戦前はもとより、その後においても、山田自身によって封印され続けた。『分析』は、立体模型などという胡散臭いものから切り離された。」(p.155) 第7章 未来主義と『分析』 1 『分析』と自由語 「『分析』執筆時における日本の未来主義の位置をも考えれば、山田の文体は、より説得的な他の説明が提示されない限り、未来主義の「自由語」の基本的な要素の、日本語における散文への導入の実験例であったと判断せざるをえない。」(p.165) 2 「機械論」の時代 「村山は、その後のマルクス主義演劇・文学運動の中心人物となっていく。神原も1930年代の初頭には、一時、明確に左傾する。この日本における構成主義と未来主義の代表的な芸術家の左傾は、マルクス主義芸術運動とアヴァンギャルド芸術運動との密接な関連を象徴的に示している。」(p.167) 3 時代と文体 第8章 『分析』の後 1 「コム・アカデミー事件」 2 戦後の生涯 第9章 山田盛太郎の位置 1 モダニズムと近代主義 2 マルクス主義 「マルクス主義の特質は、社会の解放によって初めてすべての個の解放は可能になる、そして、その社会の解放である革命に向けて、自らの個を抑圧して献身しなければならない、とした点にある。」(p.197) 3 マルクス主義と近代主義 4 思想史の中の山田 「『分析』が秘めていたアヴァンギャルド芸術作品としての強い吸引力を無視して、それが過去において実際に及ぼし得た大きな説明できない。その全体論的な模型は、構成主義的な建築の原理によって築かれていた。また、その全体論的な模型を提示した『分析』の文体は、未来主義の影響を強く受けていた。」(p.216) 山田盛太郎年譜 文献目録 人名索引 ■内容 ■書評・紹介 ■言及 *作成:山本 崇記 UP:20080818 ◇BOOK |