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『死の海を泳いで――スーザン・ソンタグ最期の日々』

Rieff, David 2008 Swiming in a Sea of Death: A Son's Memoir, Simon & Schuster, Inc.
=20090324 上岡 伸雄 訳,岩波書店,178p.


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■Rieff, David 2008 Swiming in a Sea of Death: A Son's Memoir, Simon & Schuster, Inc.=20090324 上岡 伸雄 訳,『死の海を泳いで――スーザン・ソンタグ最期の日々』,岩波書店,178p. ISBN-10: 4000234625 ISBN-13: 978-4000234627 1800+ [amazon][kinokuniya] ※ d01.

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内容(「BOOK」データベースより)
2004年12月28日、スーザン・ソンタグ死去、享年71。「私は生活の質などに興味はない。自分の命を救うために、あるいは長引かせるために、打てる手はすべて打ってもらいたい―それがどんな大博打であっても」。亡くなるまでの9ヵ月間、この傑出した批評家・作家は、文字通り死の荒海を泳ぎ続ける。本書は、その短い期間、母に寄り添い、ともに「死の海」を泳ぎ続けた一人息子が記した渾身のルポルタージュ。そこから浮かび上がるのは、ソンタグの鮮烈な死にざまであり、生きざまである。死出の旅にある肉親に、いかに向き合うか…。誰もが避けて通ることのできない問い、そして誰も答えを見出すことのできない問いが、ここにある。

■著者・訳者

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
リーフ,デイヴィッド
1952年ボストン生まれ。プリンストン大学卒業。編集者を経て、ノンフィクション作家・政治アナリスト

上岡/伸雄
1958年生まれ。学習院大学文学部英語英米文化学科教授。現代アメリカ文学(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

■目次

T 残酷な告知
U 確率に打ち勝てる人
V リサーチ開始
W 診断後の揺らぎ
X 死の前向きな否定
Y 「生き残る」という物語
Z 愛は慰めにはならない
[ 最も孤独な死
\ 臨終
エピローグ――埋葬

■引用

T 残酷な告知

 「A医師の話は熱を帯びてきた。あらゆる点から見て、それに対する答えは、有効な治療法がまったくないということです。彼はそう言った。治療の可能性はもちろん、長期問の寛解をもたらすような治療法は何もない。もちみん、鎮痛剤はいろいろとあるし、患昔の「生活の質」を向上しさせる薬もある。この表現は――医学の決まり文句というか、碗曲語法というか、専門用語というか――医師や看護師たちが母の闘病生活の間じゅう繰り返すことになる言葉だった。」(Rieff[2008=2009:13])

 「先生がおっしやっているのは――母はついにロを開いた。その声には痛々しいほどの用心深さが込められていて、今思い出しても息を呑んでしまうほどだ。「実際のところ、できることは何もないということですね」。しばらく間を置いてから、母は繰り返した。「できることは何もない。」
 A医師はまともな返事を避けた。しかし彼の沈黙は――ありふれた表現だが――雄弁だった。その数分後、次の診察について告げられ、何をしたいかをそれまでに考えてきてほしいと言われた後、私たちは彼のオフイスをあとにした。私はこの「したい」という言葉が特にグロテスクだと思ったのを覚えている。車まで歩いて行くときの沈黙は、私の想像し得るもの、経験してきたものすべてを凌駕していた。ダウンタウンに向かう車の中で、母はずっと窓の外を見っめていた。そして五分かそこら経った時、窓から目を逸らし、私の方を向いた。
 「ワオ」と母は言った。「ワオ」

 あなたの人生で最悪な事態は、必ずあなたが最も予期していない時に――起こる。これは統計的には真実と言えないだろう。しかし、ひどいことが起きた時には、いつでもそうつ感じるものでは<0015<ないか。おそらく、それでよいのだ。結局のところ、最悪な事態を予期しないで生きることに代わる生き方は、ほとんど耐えられないものだからである。エリアス・カネッテイにこんな戯曲がある。登場人物たちはみな首からロケットをぶら下げて日常生活を営んでいるのだが、そのロケットには彼らが死ぬ年が書かれている。この前提自体が戯曲の要点だ。このようなことを知った上で生きていくとしたら、人生の経験は処刑場への控えの間で過ごすようなものになってしまうのである。
 カネッテイが私の心に浮かんだのは、ひとつには母が彼の作品を愛し、彼についての評論を書いたことがあるためだろう。私はこのエッセイを、ひとりの書き手が別の書き手を論じているというだけでなく、評論を装った自伝のように捉えていた。しかし、カネッティを思い出した理由は、それだけでない。母が彼の作品に関して最も興味を惹かれたこと、カネッテイという男について書く以上に惹かれていたことは、彼の死への恐怖である。もっと正確に言うと、カネッテイは若い時であれ、年老いてからであれ、自分が死ぬという事実をまったく受け入れられずにいた。その点がまさに母と共通するのだ。「私は死を呪う」と彼は書いている。「呪わずにいられないのだ」。カネッテイの言っていることは、母の言っていることと同様、「創世記」にもさかのぼるものだと言ってよい。母の若い頃の日記には次のような記述がある――母が一六歳で、シカゴ大学の学生だった時のものだ。「私には自分がもはや生きていない日が来るなど想像もつかない」。カネッティと同様、母はこの感情を抱えていた。若者にとっくは、陳腐と言えるほど普通の感情だ<0016<ろうが、これをスローン・ケタリング記念癌センターで死ぬ日までもち続けたのである。それは七二歳の誕生日の三週間ほど前だった。
 私が伝えようとしているのは、母が生きてきたように死んだということだ。っまり、死を受け入れようとしなかったということ。あれほどの痛みに苦しむようになってからも、そうだった――そして、母の苦しんだ痛みときたら! こうしたことがあっても、母はカネッティと同じ立場を取り続けた。また、詩人のフィリップ・ラーキンと同じ立場を。その偉大な詩「「後朝〔きぬぎぬ〕の歌」で、ラーキンは死ぬことへの恐怖を歌い上げている。それから宗教的な慰めへの軽侮、あるいは他の心理的なごまかしへの軽侮を。

 また、剥製のような哲学は、理性ある存在ならば
 体感できぬものを怖れる必要は無い、などと論じている。
 分っていないのだ、これが怖くないのか――見えない、音がしない、
 触れてもなにもない、味がなく臭いもなく、
 同志にも恋人にも、知人同窓にも会えない、
 醒めて戻ってきた人がいない、いっまでもかかりっぱなしの麻酔なのだ。
 (訳注 櫻井正一郎『イギリスに捧げた歌――フィリップ・ラーキンを読む』臨川書店より)」(Rieff[2008=2009:15-17])

U 確率に打ち勝てる人

 「振り返ると、母は苦痛を通してある文化の特性を獲得していたのだ。特権であると同時に重荷でもあるような文化の特性、後に評論「隠愉としての病い」で「病者の世界への新しい市民権」と呼んだ文化の特性を。月日が経つにっれ、母は化学療法の薬物とすさまじい心理的な重圧を凌げるようになってきたようだ。自分の新しい「切り刻まれた」肉体――あるいは、もっと露骨に言うと、母の性生活が受けたダメージ(完全には回復できなかったと思うが)――に心理的に順応すること。それができるようになってきて、母は初めて真剣に生き延びることを望むようになっただけでなく、自分に起きたことを心の中で根本的に練り直したいと望むようになったのである。母は次のように書いている。闘病生活の最初の頃は、心理学者ヴィルへルム・ライヒの主張を知的には拒否したかもしれないが、感情的には受け入れていた、と。この主張とは、ノーマン・メイラーが妻を刺した後、「これで癌を取り除いたんだ」とうそぶくことになった根拠、つまり癌は主に性的抑圧の産物だというものだ。「自分の病いの原因は肉体だけでなく、精神にもあったと感じる」と母は書いている。「というのも、私はどこかでライヒの主張を信じているからだ。<0037<癌の責任は自分自身にある、と。私は臆病に生きてきた、欲望を掛圧し、怒りを抑圧して」
 しかし、処置が終わる頃になると、このように自分に鞭打つ判断は重みをもたなくなったように見える(もちろん私には、人が最も弱気になる伎明け前の時間に母が何を思い、感じていたかまではわからないが)。この時期になると、母は自分が本当に生き残れると信じるようになっただけでなく、新しい領域で生きることは――母はその領域を「病者の王国」と呼んだが――書き手としても人問としても飛躍するための舞台となると信じるようになった。言い換えると、死を出し抜いただけでなく、さらなる達成感をも掴めると感じ始めていたのである。母の「初期設定」は、常に超絶的であった――あるいは、もっと正確には、人間としても模範的であろうとする模範学生のものであった。見下したような笑みを浮かべないでいただきたい、もっと下品な野心だってあるのだから。振り返ると、母は化学療法から回復し始めた頃、最も落ち着きを取り戻し、物事を管理下に置いていると感じるようになった。この「管理」という幻想でさえ、それが大学でレポートを書く時のように情報収集のみで成り立っているとしても、あのような状況下では最も重要なことだったのだ。すべてが語られ、試みられてしまい、母の管理を超えた状況下では。
 「私たちは生きるために、自分自身に物語を語り聞かせる」。これはジョーン・ディディオンの称賛に値する文章だ。母の闘病生活を振り返りながら、私の心にしばししばこの文章が浮かんでいる。七〇年代の乳癌、九〇年代の子宮肉腫、そしてもちろん、死の原因となったMDS。年月<038<が経過するにつれ、母は次第に自分の生存を一種の奇跡として捉えるのではなく――というのも、母の思考様式の中に奇跡というものは存在していなかったから――あるいは、運命や遺伝の偶然としても、考えなくなってきた。まして、統計的な異常などでは毛頭ない。母は、それを医学の進歩の結果であり、また、自分自身が最も根治的で、体を切り刻むような処置を受けようとした結果と考えるようになっていた。」(Rieff[2008=2009:37-39])
 「私はこう考えずにいられない。母にとって、こうした具体的な統計を知ってしまうこと――癌の謎の解明や新たな治療法開発において、実際にどのような科学的かつ臨床的な進歩があるのか<0041<(あるいは、進歩がないのか)といった、癌研究の現実をすべて吸収してしまうこと――それは、想像力という悪魔をすべて解き放ってしまう危険を孕んでいたのだ。だからある意味で、母が心の平和と正気を保つことを優先して考えれば、私は母がそれほど癌研究の現状について深く探求しなかったことを喜んでいる。ニュースは実にひどいものだった。今でもひどいものだ。それに私は気づくことになるし、母も気づくことになる。母にとって現実は、頭上につるされたダモクレスの剣というより、剣が喉に突きつけられた状態だったのだ。現実があまりに重すぎたのである。」(Rieff[2008=2009:41-42])

[ 最も孤独な死

 「もしかしたら「希望の再構成」とは、死に瀕した者たちのためよりも、彼らを手当てしている医師たちのために作られた言葉なのではないだろうか。私の中の皮肉屋はそんな疑いを抱いてしまう。おそらく私の懐疑は、科学的な世界観と非科学的な世界観とのギャップのもうひとつの象徴なのだろう。結局のところ、ハッチの医師たちにとって、死は日常茶飯事である――彼らはそうでないことを望み、癌治療の現状を改善することに日々努力しているわけだが。かなり後になって、ひとりの医師が私にこう書いてきた。彼の経験の中では、「お母様の”光の死にゆくことへの怒り”(訳注 ディラン・トマスの詩「あの良き夜のなかへ」より)は典型からかけ離れていました――物事の〔実際の〕状態を孝え、お母様がこれまで経験してきたことや、明々白々な治療後を考えれば。こういう状況に追い込まれた人たちの大多数は、闘うのを諦め、避けられないことを受け入れるようになります。それは疲労のためであったり、恐怖のためであったり、そして/または最後の限られた時問を、後に残る人たちにとって思い出深いものにしたいと思うからです」
 言うまでもなく、人生の終わりを迎える態度としてどれが典型的であり、どれがそうでないか、私に判断する資格はない。しかし、母が特に例外であったとは思わない。この回想録を書くに当<0142<たって、私は他の物書きが死について語っていることを読んできたのだが、母ょりも進んで死を受け入れた例はほとんどなかったように思える。物書きというのは、あらゆる点で典型から外れているものだが、そこまで皆がそろって例外ではないはずだ! 一九八七年、スローン・ケタリング記念癌センターで臨終を迎えていたイスラエルの偉大な詩人、アバ・コヴナーは、次のように書いているが、これは詩人のことだけを言っているわけではない。

 じきに
 じきに私たちは悟ることになる
 自分が死んだからといって星が消えるわけではないということ
 この事実を私たちが受け入れられるようになったのかどうか

 母の死後ほぽ二年経ってから、私は国立癌研究所の主任になったばかりのジョン・ニーダーヒューバー博士に会いに行った。我々が話したことは、だいたいにおいて国立癌研究所が何をしているか、癌研究の将来はどうなるか(何よりもどうやって資金を賄うか)であった。しかし、ある時点でニーダーヒューバーは、乳癌の再発によって死んだ妻のことを話し始めた。彼女もまた、長いこと癌の再発から免れていた。ニ〇年間、血球数は平常値を続け、スキヤンでも再発の兆候は見られなかったのに、突然病気が再発した。ニーダーヒューバーは静かに、飾ることなく、し<0143<かし感情を込めて話していた。妻の最後の日の様子を、彼は次のように語っている。「妻は骨と皮ばかりになって、横たわっていました。それでも妻が私に語ったことは、もっと元気になって、次の実験的な処置を受ける時には、それに耐えられるようにしたいということでした」
 心理学用語での「否認」というべきか? おそらくこれは、患者の最期を看取る医師たちの言葉だろう。しかし私にとって、この言葉はほとんど何も意味しないし、重要性もない。オックスブリッジのジヨークにあるように、「真実は明らかなもののことであり、明らかでないものは真実ではない」。母にとっては、ニーダーヒューバーの妻と同じように、死は想像できないものだった。次のステップに基づいてしか考えることができなかったのだ。これは最後まで変わらなかった。」(Rieff[2008=2009:142-144])

 「おそらく良き仏教徒なら、人間が取るに足らない存在であるという現実をフルに受け入れ、それでも同情心をもち続けるだろ、つ。しかし、私がニ〇代の頃に知っていたアメリカの仏教徒たちを代表と見なしてよいなら、この信条はしばしば言葉の本来の意味での自己犠牲よりも、存在の利己主義を正当化するものとなっている。少なくとも、この信条を真に身につけた人というのは実に稀であろう。そして母がやろうと足掻いていたこと、創作家なら誰でもやろうと足掻いてい<0145<ることは(ほかの職業でも同じことは言えると思うが、ここでは自分の親しんできた世界、我が家のオリーヴオイル業と若い頃よく考えていた職種に話を限定させてもらう)、自分自身を、自分の考えや洞察や知識を提示すること――それを精錬し、世界に送り出すことである。それをいかに成し遂げ、同時に自分の取るに足りなさをフルに受け入れるのか? 母には明らかにそれができなかった。しかし、母のキヤラクターの特異さを認めながらも、私にはそれができる人などいるのだろ、つかと思わずにいられないのである。」(Rieff[2008=2009:145-146])

\ 臨終

 「自分たちの番が来たときに、折り合いをつけられる者がいるのだろうか? マルグリット・デュラスは、死を目前にした時期の凄まじい日記の中で、次のように率直に語っている。「私は無になるという事実と折り合いがつけられない」。これは母が書いてもおかしくない文であろう――あのように生きていることを愛した母。日記の中で、母はこのことに正面から向き合っている。「死は”自己”から脱却しない限り耐え難いものである」と母は書いている。しかし、人生であのようにたくさんのことを成し遂げてきた母が、それだけはどうしてもできなかった。
 明らかに、こうした才能をもっている人もいる。あるいは、もっと正確に言えば、こうしたことへの道を見出せる人が。べルトルト・ブレヒトはべルリンの慈善病院で死の床に臥していた時一連の並外れた詩を書いた。その最後の詩で、彼は近くの木にいる鳥を窓から眺め、その啼き声<0155<を美しいと感じている。そして、自分が死んだ後もあの鳥はあの木の上で生き続け、美しい声でさえずっているのだ、と考えている。この詩の叡智は、芸術家がその事実と折り合いをつけている姿にあるのだ。世界の美しさをいとおしみ、自分自身がつかの間の夢い存在であることを受け入れていく。「私自身が無であるとしても、私には何も問題はないのだから」と彼は書いている。「私は自分の死後にさえずるすべてのツグミの歌を楽しむことができるようになった」
 しかし心の底では、母が自分のいない世界を愛せたとは私には思えない――モラリストとしての母はそんな自分を軽蔑したであろうが。母は人生への希望、世界への希望から解放されることはなかった。断続的に塞ぎ込むことはあっても、母は何よりもまず希望を体現した人だったと私はいつも思っていた。したがって、母は死への激しい恐怖、存在しないことへの恐怖からも本当の意味で解放されるチヤンスなどなかったのだ。」(Rieff[2008=2009:155-156])

エピローグ――埋葬

 「『悦ばしき知識』の中でニーチェは、ある種の人々を見て「陰修な幸福」を感じたと語っている。それは、死をうことを拒絶し、生を愛する人々だ。ニーチェは、彼らがみな(やがてというより)じきに死んでしまうのに勇敢に生きているから、彼らを愛しているようなのである。ニーチェの言葉に私はなぜか慰められるのだが、それをどう説明したらよいのか、どう正当化したらよいのかはわからない。ただ、母の日記の中で、こんなものがある。母がスローン・ケタリング記念癌センターで乳癌の化学療法を受けている時、母は自分自身に「明るく振る舞おう、ストイックになろう、冷静になろう」と呼びかけているのだ。それから母はこうつ付け加えている。「悲しみの谷では、翼を広げよう」
 母はこの時に死んだわけではない。しかし、最終的に私は母が言ったことが――母がそれを全面的に信じていようがいまいが、我々がそれを全面的に信じられるようになろうがなるまいが――死に向き合った時に言える最善のことではないかと思う。
 悲しみの谷では、翼を広げよう。」(Rieff[2008=2009:145-146]、本書末尾)

■言及

◆立岩 真也 2013 『私的所有論 第2版』,生活書院・文庫版

・補章1より
☆13 イスラエルの詩人、アバ・コヴナー(Aba Kowner、1918〜1987)の詩に次のようなものがあるという。
 「じきに/じきに私たちは悟ることになる/自分が死んだからといって星が消えるわけではないということ/この事実を私たちが受け入れられるようになったのかどうか」(注14で紹介するRieff[2008=2009:143]に引用されている)
☆14 「[…]そうした中で、スーザン・ソンタグの『他者の苦痛へのまなざし』(Sontag[2003=2003])がある。やはりそこでも苦痛についてではなく、苦痛を見ることや描くことが語られているのではあるが(『良い死』第2章・注25([2008:●])他に、水俣病者の表象を巡ってあった、関連するできごとについての記述がある)。その人は病に意味が付与されることを拒絶した(Sontag[1978=1982])。その時もがんに罹ったのだがそれはなおって、そしてまた罹って――「死生学」的には「往生際」のわるい死に方をした。その最期についてその人の息子であった人が書いた本(Rieff[2008=2009])がある。」


UP:20130128 REV:20130218, 0329
Sontag, Susan  ◇身体×世界:関連書籍  ◇BOOK
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