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『なぜ遠くの貧しい人への義務があるのか――世界的貧困と人権』

Pogge, Thomas W. 2008 World Poverty and Human Rights: Cosmopolitan Responsibilities and Reforms, second expanded edition, Cambridge, Polity Press.=201003 
立岩 真也 監訳/安部 彰池田 浩章石田 知恵岩間 優希齊藤 拓原 佑介的場 和子村上 慎司 訳,
423p ISBN-10: 4903690520 ISBN-13: 9784903690520 生活書院 3000 [amazon][kinokuniya]


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■注

序論

◆注 ──────────────────────────────────────
1 「世界人権宣言〔The Universal Declaration of Human Rights: UDHR〕」は決議217A(3)として、
1948 年12 月10 日に国連総会によって承認され、宣言された(www.unhchr.ch/udhr /index.htm)。
すべての略語と頭字語(UDHR やUN など)の正式名については索引を参照。〔「世界人権宣言」
の日本政府による公式な訳はh ttp://www.mofa.go.jp/mofaj/gaikou/udhr/1b_002.html を参照〕。
2 これらの数字の出典は以下の通りである。栄養不足については FAO, “1.02 Billion People
Hungry”、飲料水と衛生については WHO and UNICEF, Drinking Water and Sanitation, pp. 30 and
7、住居については UN-Habitat, Human Settlements 2003, p. vi、電気については UN-Habitat“, Urban
Energy”、必須薬については Fogarty Center“, Strategic Plan”、識字については UNESCO Institute
for Statistics“, Literacy Topic”、児童労働については ILO, End of Child Labor, p. 6.
3 貧困関連原因による早死についてのデータは、WHO, Global Burden of Deasease, 図A1, pp. 54-9
およびUNICEF, The State of the World’s Children 2005, inside front cover を見よ。この段落と次の
段落で使われたデータは世界銀行のもの(Chen and Ravallion,“ Developing World,”esp. tables 6-8,
pp. 42-46; and World Bank, World Development Indicators Online)で、4. 3 節により完全な形で提
示され出典が記されている。極度の貧困〔extreme poverty〕と深刻な貧困〔severe poverty〕を定
義する世界銀行のラインはしばしばそれぞれ1 日1.25 ドルと1 日2.5 ドルとされている。実際、世
銀は1985 年、1993 年、2005 年の3 つの基準線に基づく国際ドルで換算表示された4 つの異なる国
際貧困線(IPLs)を継続的に使用し、この立場を堅持している。また現在公的貧困線とされてい
る1.25 ドルは、最も困窮した15 ヶ国で用いられている公的貧困線の平均── 2005 年の購買力平価
(PPPs)を2005 年の国際ドルに変換したもの──として算入されている。その15 ヶ国は、マラ
ウィ、マリ、エチオピア、シエラレオネ、ナイジェリア、ウガンダ、ザンビア、ルワンダ、ギニア
ビサウ、タンザニア、タジキスタン、モザンビーク、チャド、ネパール、ガーナである。世銀の研
究員であるチェンとラヴァリオンはまた別の2 つの貧困線にかんする貴重なデータを提供してくれ
ている。それによれば、貧困線は1 日につき1 ドルまたは2 ドルである。しかし、これらのライン
はその名が示すよりも時価の購買力ではかなり高く、時価の市場為替レートではかなり低いという
意味で、誤解を導くものである。定義により、これらのラインは2005 年の米国で年 456.25 ドルと
912.50 ドルの購買力を意味することになる。インフレを計算に入れた場合(www.bls.gov/cpi)、こ
れは2009 年の米国で年約500 ドルあるいは1,000 ドルの購買力に相当すると考えられる(この計算
について詳しくは注23 を見よ)。極度または極端な貧困の中で暮らしていると見なされるためには、
米国の住人1 人あたりの2009 年の年間を通しての消費支出はそれぞれ500 ドルと1,000 ドル未満で
なければならないということである。米ドル立ての国際的貧困線を他国通貨に換算するさいには購
買力平価が使われるので、貧しい諸国──実質的にはそのような非常に貧しい人々のすべてがそこ
に住んでいる──での貧困から抜け出すためには典型的にはそれらのラインの5 分の2(年間消費
の為替レートの相当値がそれぞれ200 ドルおよび400 ドル)だけで充分と見なされている(注128)。
30 億8,500 万人の世界の貧困層は平均で過酷な貧困のラインより45%下で暮らしているため、彼ら
の年平均支出は約220 ドル(400 ドルの55%)である。13 億7,700 万人の極貧の人々は平均 30%極
貧線より低いレベルで生きているため、年1 人約100 ドル(200 ドルの70%)で暮らしている。
4 World Bank, World Development Indicators Online (November 14, 2009) and World Bank,
International Comparison Program 2005, Table 3. を見よ。
5 World Bank, World Development Indicators Online (July 8, 2009). Full calculations are on file with
the author. Unfortunately, this database excl を見よ。著者は完全な計算の結果を有しているが、あ
いにくこのデータベースは高収入諸国の人口を除外しており、世界人口の上半分についての同様な
詳しい計算はできない。Milanovic, Worlds Apart, p. 108 も見よ。
6 この序論において私は「我々」という語で、米国、欧州連合、カナダ、オーストラリア、ニュー
ジーランドの成人市民たち(少なくとも経済的安全と基本的な西洋的価値観を共有している者た
ち)を指している。しかし世界の貧困についての我々の責任に焦点を合わせることで、私は日本人
たちの責任が大きく異なるとか、そしてもちろん貧しい諸国の「エリート」たちにそのような責任
がないなどとは示唆していない。
7 このような見方は、慈善寄付のパターンにも反映されている。慈善寄付は米国で年間3,080 億ド
ルに上る(2008 年データ)が、この総額のうち4%(133 億ドル)だけが国際問題と関わっている
組織へのものである。この133 億ドルのうち幾らが海外での基本的必要を満たすために用いられた
かは記録されていない(www.philanthropy.iupui.edu/News/2009/docs/GivingReaches300billion_061
02009.pdf)。
8 とくにMarx,“ The German Ideology,” pp. 172-3, 192-3を見よ。Cohen, Karl Marx’s Theory of History
も参照せよ。
9 Hirschman, The Rhetoric of Reaction.
10 2007 年の1,034.9 億ドルの全ODA のうち、「基本的社会サービス」のためのODA は122.6 億ド
ルだったと報告されている(mdgs.un.org/unsd/mdg[November 14, 2009])。それらのうち10 分
の1 は後にイラクとアフガニスタンにまわされた(OECD, OWIDS [November 14, 2009])。援助に
ついてのさらに詳しい統計については、www.globalissues.org/TradeRelated/Debt /USAid.asp#
ForeignAidNumbersinChartsandGraphs も参照せよ。
11 Rorty“, Who are We?,” pp. 14-15 and 10.
12 私はここで「世界の貧困層の収入を5,000 億ドル増加させる改革は不可避的に我々にその額以上
のコストをもたらす」という予測可能な異論と取り組む必要はない。そのような主張〔の真偽〕は
世界の貧困問題を研究することなしには到底知りえないものであり、したがってこの問題を無視す
る理由を提供しえない。
13 この考え方は少なくともマルサス〔Thomas Robert Malthus〕(Malthus, An Essay on the
Principle of Population)まで遡り、1970 年代にハーディンのしばしば引用される“Living on a
Lifeboat”によって再び脚光を浴びるようになった。 Hardin, Living Within Limits および“Lifeboat
Ethics The Case Against Helping the Poor”も比較参照のこと。
14 例として、Sen“, Population: Delusion and Reality”を比較参照のこと。
15 Rome Declaration on World Food Security.
16 Ibid., Annex II to the Final Report of the World Food Summit. 米国はまた、FAO が先進諸国から
必要な貢献について大いに誇張していると主張した。「U.S. Action Plan on Food Security の一部とし
て、USAID は世界食糧サミットの目標を満たすための予想されるコストとこの目標に到達するため
の戦略についての別個の研究を依頼した。1998 年半ばに完成したこの研究は、ODA 投資の可能な
枠組みに焦点を当て、(FAO の年60 億ドルという推定に対して)世界のODA が年 2.6 億ドル追加さ
れることで目標が到達できると推定した」(USDA, U.S. Action Plan on Food Security, Appendix A)。
17 UN Millennium Declaration は「2015 年までに、世界の人々のうちその所得が1 日1 ドル未満の
人々の割合と飢餓に苦しむ人々の割合を半減させる」ことを約束した(www.un.org/millennium/
declaration/ares552e.htm)。
18 (a)列の数値はChen and Ravallion, “Developing World,” Table 7 からで、2000 年のデータは
1999 年と2002 年のものによって補間した。UN Population Division, World Population Prospects,
with year 1996 data interpolated from 1995 and 2000(November 14, 2009). MDG-1 についてのより
詳しい論考は、Pogge, “The First UN Millennium Development Goal”を見よ。私は北米と欧州の
マスメディアにこの改訂に対して興味を持たせようと努力した。唯一の成功例はドイツの日刊紙
Frankfurter Rundschau が2004 年2 月に800 語の論説の場を与えてくれたことである。
19 UNDP, Report 1996, p. 20, and UNDP, Report 2006, p. 174, FAO,“1.02 Billion People Hungry.”
20 この批判はSinger,“ Famine, Affluence, and Morality”とUnger, Living High and Letting Dieに
よって代表される。
21 例えば、世界の貧困層は、先進諸国が何十年もの間生み出して来た環境汚染によって苦しめられ、
同時にその便益を得る機会からは(我々と異なり)排除されている。また、我々の温室効果ガスの
排出によって引き起こされている地球温暖化の作用や、米国やヨーロッパでの不法薬物に対する莫
大な需要によって焚きつけられている麻薬貿易の影響、米国およびヨーロッパの諸政府による不法
薬物に対する戦いの影響にも苦しめられている。さらには富裕諸国が消費を穏やかにしていた場合
よりも稀少で高価になってしまっている自然資源の枯渇による被害を受けているし、富裕なセック
ス・ツーリストたちによって助長されているエイズの流行や、効果のある薬を貧しい諸国の大部分
の患者たちには手の届かないものにしてしまう特許諸規則(それは特許が最終的に失効するまでだ
けではあるが、しかし多くの場合それまでには、その薬の使用そのものが当該疾病の抵抗性を進化
させてしまい、薬品からその効能の多くを奪ってしまうのである)によってしばしば悪化させられ
ているその他多くの病気によっても苦しめられている。
22 この段落のすべてのデータに関してはChen and Ravallion, “Developing World,”pp. 44-5 を見よ。
私は「深刻な貧困」および「極度の貧困」という表現をそれぞれ「日2.50 ドル」および「日1.25
ドル」(共に200 年PPP)以下の生活水準を意味するものとして使用する。
23 その理由は、世銀の通貨換算は、それぞれの商品をその国際的な消費支出のシェアに比例させて
加重する一般消費PPP を使うからである。世界の貧困層の消費パターンは世界人口一般とは非常
に異なるので、このようなPPP は貧困測定には適さない。貧しい諸国ではサービスがとりわけ安
価だという事実によって、それらの国々の通貨の米ドルに対する査定価値はつり上がる。しかし貧
困層はサービスを消費しないしその余裕もないのだから、この事実は貧困層の基本的必要を満たす
能力とは無関係である。彼らが消費を集中しなければならない基本的食料は実際米国より貧しい諸
国での方が(市場交換レートでは)安いが、一般消費PPP が示唆するほどではない。詳しい論考
とスペースを割いた参考資料はReddy and Pogge“, How Not to Count the Poor”を見よ。我々はそ
こでさらなる方法論的問題も提起している。その1 つは、世銀の方法はどの年が基準に使われるか
に過敏に反応するということだ。国、地域そして世界的な貧困の傾向だけでなく世界の貧困の分布
は、すべての通貨のお互いに対する価値を決めるためにどの年を使うかというまったく恣意的な選
択によって強く影響されてしまうのだ。市場為替価格レートで見た貧困国の実質所得にたいする販
売力平価の比率は、平均しておおよそ2.5 である。注128 を見よ。
24 例えばThe Economist, 11 December 1999 のぼろをまとったインドの子供の写真が“The Real
Losers of Seattle”〔「シアトルの真の敗者たち」〕と題された表紙を見よ。また同じ号の論説(ibid., p.
15)、同誌の信じがたい“The case for globalization”(The Economist, 23 September 2000, pp. 19-20 and
85-7)、そして注目すべき筆頭論説“A question of justice?”( The Economist, 13 March 2004)も参照。
25 White Man’s Shame. The Economist, September 25, 1999, p. 89.3 つの引用された研究(Hertel
and Martin, UNCTAD, Finger and Schuler)は参考文献に記載。
26 これらの点は主流派経済学者と国際金融制度の上層部によって広く知られていた。例えば、世界
銀行前主任経済学者のニック・スターンの講演「ダイナミックな開発」を見よ。彼の主張は以下の
とおりである。2002 年に富裕国は農産物輸出補助金だけで約3 兆ドルを支出した。大雑把に言って、
この数字は途上国援助総額の6 倍である。日本の牧畜業者は年間約2,700 ドルの補助金、ヨーロッ
パの牧畜業者は約900 ドルの補助金を受け取っている。それらは大部分の人間の年間所得を上回る。
また、保護主義者の反ダンピング活動、安全・衛生基準の官僚的適用、貧困国への輸出の障壁とな
っている繊維製品関税及び割当、つまり、「工業国での全繊維業の業務は低所得国繊維業での約35
の業務に関する障壁コストによって、保護されている」。スターンはとりわけ以下のように上昇す
る関税率への批判的である。つまり、それは非加工原材料が最も低く、加工し付加価値を持つ各段
階を経て急上昇する義務を課すものである。このことは貧しい国での産業と雇用を掘り崩している。
例えば、ガーナとコートジボワールでのカカオ豆原料の輸出、ウガンダとケニアでのコーヒー豆原
料、マリとブルキナファソでの綿花原料のような制限がある。彼は富裕国での農業保護と製品補助
金の完全な除去によって低中所得国の24%相当の農産物・食料輸出、年間農業総所得の約600 億
ドルが増大する(そのような農業地域にグローバル貧困層の4 分の3 が住んでいる)。
27 Risse“, Do We Owe the Global Poor,” p. 10.
28 Patten“, Should We Stop Thinking,” pp. 26-7.
29 物事がうまく行かなかったときには欺瞞的に予見不可能性の主張が持ち出される(IMF で繰り
返されるパターン)が、そのような主張が時として正しいこともある。そのようなケースにおいて
は、とくに極貧の人々がはるかに富裕な行為者たちによって不利な影響を及ぼされている場合、故
意によらない害について語られたり原状回復や補償が求められたりする。私はこの考え方に共感す
るが、しかし我々の現在のふるまいや実践に対するさらに焦点を絞った広く共有しうる批判を可能
にするために、そして(予見可能性が要求される)制度的改革という重要な任務にできるだけ集中
するために、これらのケースは脇に置く。
30 米国政府がこのキャンペーンを展開したのは、予見可能な未来に年1,000 億ドル以上の財政黒
字(その後イラクで費やされた)が見込まれているときだった。何年もにわたる多大な圧力と10
桁の滞納の後、米国はその世界社会生産中の割合が31%であった(World Bank, Report 2002, p.
233)にもかかわらず、ついに(2000 年クリスマス)国連総予算分担金の25%から22%への削減と
平和維持予算分担金の30.6%から26.5%への削減を勝ち取った。またこの譲歩を他の国々から勝ち
取ったのだから米国は分担金を期限までに払うようになるだろうという希望も裏切られた。2009 年
7 月 1 日時点で、米国は国連に15 億6,900 万ドルの借金(平和維持活動に関する6 億4,700 万ドル
と国連一般予算のための8 億5,700 万ドルを含む)を負っており、これはすべての国々の滞納額合
計の63%にあたる(www.globalpolicy.org/component/content/article/133-tables-and-charts/48335-
us-vs-total-debt-to-the-un-2009.html)。
31 www.globalpolicy.org/finance/info/index.htm を見よ。
32 事実、これらの政府はUNAMIR 平和維持軍を削減することを決定した。以下を参照せよ。
OAU, Rwanda: The Preventable Genocide; United Nations, Report of the Independent Inquiry.
Gourevitch, We Wish to Inform You, and Pogge“, Moralizing Humanitarian Intervention”も見よ。
33 Baker, Capitalism’s Achilles Heel を参照せよ。

◇訳注 ─────────────────────────────────────
1 政治的・社会的理念としてのjustice は日本語では一般的に「正義」と「公正」という2 種類の
訳が可能で、ロールズ〔John Rawls〕の日本訳では「正義」が使われてきた。しかし記録として残
っている限りでは荀子によって紀元前三世紀に初めて使われた「正義」は、もともと前近代的・階
層的人間関係を理想化する儒教的理念であり、元来「平等」とは正反対の意味を持つ。またロール
ズやポッゲのjustice はあくまで公共の場で討議され構築されるものであり、異論を許容せず圧殺
するある種の宗教におけるような「正義」を意味するものではない(既にA Theory of Justice で
限定的な理念としてのjustice はより包括的なrightness と対比されているが、その後のロールズは
自らの言うjustice が特定の包括的な道徳的または宗教的教義a particular comprehensive moral or
religious doctrine の一部を成すものではないことをさらにはっきり強調するようになる)。日本で
は明治以来プラトンなどの dikaiosyne=justice の訳として使われてきたが、より大いなる「平等」
を志向し富の再分配を要求するロールズやポッゲのjustice の訳としては「公正」の方がまだしも
適訳に近いのではないかと思われる。一方同じくロールズで「公正」と訳されている fairness にし
ても、日本語の「公正な」と違ってごく日常的に頻繁に使われる言葉である英語のfair には「公平
な、平等な」「規則に則っている、公正な」「程々に良い」「美しい」などの意味があるが、ロール
ズのjustice as fairness という思想におけるfairness が意味するのはあくまで、もしこの語の持つ多
義的・重層的な曖昧さがあえて肯定的に活用されているとしても少なくとも主導的・支配的な意味
として意図されているのは明らかに、「公平、平等」であり、訳は「公平」がふさわしいのではな
いだろうか。ここに意見を提起しておく。

第1章

◆注 ──────────────────────────────────────
34 こうした多様性は、ここ20 年の分析哲学内での議論がまさにこの主題に及ぼした多大な影響と
貢献を想起することによって感得することができるだろう。とりわけ、以下の著作において明示さ
れた諸々の回答を想起することによって。Annas, The Morality of Happiness; Elster, Sour Grapes;
Frankfurt, The Importance of What We Care About; Galston, Justice and the Human Good; Gibbard,
Wise Choices, Apt Feelings; Griffin, Well-Being; MacIntyre, After Virtue; Nagel, Moral Questions;
Nozick, The Examined Life; Nussbaum, The Fragility of Goodness; Parfit, Reasons and Persons;
Raz, The Morality of Freedom, Rorty, Contingency, Irony and Solidarity; Scanlon, What We Owe
to Each Other; Slote, Goods and Virtues and From Morality to Virtue; Taylor, Sources of Self;
Tugendhat, Vorlesungen uber Ethik; Williams, Moral Luck, Ethics and the Limits of Philosophy,
Shame and Necessity, and Making Sense of Humanity; and Wollheim, The Tread of Life.
35 Plato, The Republic, 357a-358d を見よ。
36 実際プラトンの議論が示そうと努めたのは、正しくあることが二重の意味で善くあることだとい
うことである(Republic, 357c-358a)。すなわち、〔正しくあることは〕一方でそれ自体が構成要素
であり(Republic, Books 2-7, とりわけ444d-e)、他方で福祉や快楽、価値といったその他の構成要
素の手段でもあるということである(Republic, Books 8-10,とりわけ587e-588a,612d-614b)。
37 カント〔Immanuel Kant〕はCritique of Practical Reason〔『実践理性批判』〕で、この例を挙げ
ている。Kant, Kants gesammelte Schriften, vol.5, p60 を見よ。
38 達成は様々な時間的枠組みのなかで理解される。すなわち、より狭くは、ある個人の行い
〔deeds〕の倫理的な質という観点で理解される。そして/あるいは、より広くは、その個人の生
が世界に及ぼす歴史的な影響の倫理的意義という観点で理解される。
39 こうした現象の極端な例の1 つは、行為.功利主義の理説に認められる。その理説によれば、人
間の生の個人的な価値はそれが内包する幸福の量によって測られるのに対して、倫理的な価値はそ
の生が一般的な幸福へ及ぼす影響によって測られる。功利主義者が人間の生の価値を内部から省み
るなら、その倫理的な価値が優越することになろう。つまり、重要なのは、ある個人の生が一般的
な幸福に対してあたうかぎり最大の積極的影響を持つべきことなのだ。人が自分自身の幸福をどの
程度追求すべきなのかは、経験的かつ道具的な問題である。それが一般的な幸福を高める最良の方
法であるならいかなる場合でも、個人は独自の幸福を追求すべきである──そうでない場合は、た
とえ自らの幸福を犠牲にしてでも、一般的な幸福を高めるべきだ。〔それに対して〕功利主義者が
人間の生の価値を外部から省みるなら、人間生活の個人的な価値が優位することになるだろう。つ
まり、重要なのは他の人々が可能なかぎり幸福であることなのだ。〔この場合も〕ある個人が他の
人々もまた幸福を高める存在であることをどの程度望むべきかは、経験的かつ道具的な問題である。
それが人間生活の個人的な価値を高める最良の方法であるならいかなる場合でも、ある個人は人間
生活の倫理的な価値を促進すべきである──そうでない場合、その個人は、たとえ倫理的な価値を
犠牲にしてでも、私的な価値を高めるべきなのだ。
40 「社会秩序 」、「制度的枠組み 」、「体制 」なども用いられている。
41 このように社会制度の道徳的評価は正義の基準以上のものを含む可能性がある。というのも、例
えば、その制度がいかに他の種に影響を与えるか、その制度は神の御意志とどれほどよく合致して
いるかといったことを考慮に入れたいとする考えもありうるからだ。私の定義は、これらの問題を
正義についての言説の外部に位置づけるものであり、ゆえに社会制度に対する道徳的評価の基本的
構成要素の1 つにしか寄与しない。
42 Aristotle, Nicomachean Ethics, 1100a10-31(book 1, ch.10)を見よ。
43 この論点に関するさらなる議論としては、Meyer“, More Than They Have a Right To”を見よ。
44 この指摘は、我々がある生産工程を最適化しようとする場合に提起される指摘と類比的である。
他の諸部分の設計のされ方を所与とした場合、その工程のそれぞれの部分が可能な限り最良に設計
されているとしても、その全体工程を大幅に改善することはなおもありうるのだ。〔すなわち〕す
べての部分をまとめて再設計したり、より重要なことには、全体工程の構造そのものを変更したり
する(全体工程を部分へ分割することを含む)余地は、なおもある。
45 普遍的な正義基準への自由で文化横断的な同意という目標は、けれども次のような希望を含み持
っている。すなわち、大半の文化が正義の諸問題に関して、その伝統が持つ限界を超出し、他の文
化において優勢な見解にも配慮した反省と議論を継続できるという希望である。本書1.3 節および
1.5 節では、いかにすれば諸々の文化が、私が本文で拒絶したような要求を満たさなくとも、その
希望を満たすことができるのかを示す。
46 ここでは、ある人が最も選好する結果には1 が、最も選好しない結果には0 が、それぞれ割り当
てられる。それ以外のあらゆる結果の値Qはそのときn(0 ≦n≦ 1)であり、これについては以
下が真となる。すなわち一方において、この個人は〔諸々の〕Qの間では確信を持って無差別であ
り、他方において、それに従うくじ引きでは、彼女の最も選好する結果は確率nで発生し、彼女の
最も選好しない結果は確率(1 .n)で発生する。
47 成就対充足というこの論点は、人間的豊かさに関するあらゆる評価の前に立ちはだかるものであ
り、それゆえ私が、制度的枠組みを道徳的に評価するためのグローバルに共有可能な正義基準を発
展させるという文脈に人間的豊かさの評価を限定させているとしても、この論点は相変わらず立ち
はだかるのだ。
48 このように愛されたいというあなたの切望はあなたが現に愛されているかぎりにおいて成就され
るのであり、愛されているという幸福な自覚のうちにあなたが生きているかぎりにおいて充足され
る。それゆえ、切望が充足されることなしに成就されること、また成就されることなしに充足され
ることは明らかである。あなたが自分では愛されていないと信じていても実際には愛されている場
合もあるし、愛されていると誤って信じている場合もあるからである。切望の成就は、この世界に
おけるその実現度が大きかったり小さかったりする以上、程度問題である。またこのとき、切望の
充足の方は、その倍以上に程度問題でありうる。というのも、それは確信の程度にも依存するから
である。個人は問題となっている切望に対して、成就度とともにこの確信度をも割り当てるのであ
る。
49 一階の欲求〔first-order desires〕とは、その人自身の欲求に関するのではない欲求のことである。
我々の抱く欲求の多くはこのカテゴリーに属している。だが例えば、当人が現下の欲求の1 つを打
ち捨てたい、それを強化ないし弱化したい、それに耽溺したりそれを打ち負かしたい、それに注目
あるいは無視したいと望む場合、あるいは新たな欲求を持つことを望む場合のように、この一階の
欲求というカテゴリーに属さないものも多くある。
50 後者の要請は、社会制度は、ぴったり合致した価値.選択肢のペアを生じさせるべきだ──諸個
人は彼らが価値があると考える選択肢を持ち、彼らの持つ選択肢を価値があるものとするようなか
たちで機能すべきだ──というものである。
51 とはいえ、ある社会が別の社会の制度を判断するにあたって、前者独自のより理想主義的な正義
基準ではなく、普遍的基準の方に従って判断する場合であっても、前者が後者に対してどのように
制裁を加えてよいかに関しては、厳しい制約が設けられねばならない。普遍的基準に対する合意は、
諸々の国家体制がその普遍的基準を満たしているにもかかわらず、外圧による強制的な変革から守
られないのだとしたら、その意義の大部分を失ってしまうだろう。
52 ここでは、一部の社会やその他の集団が、普遍的基準は正義が要求することを網羅していると考え
る可能性を排除するつもりはない。この基準は──網羅的であると解釈されるべきではないが──
網羅的でないと〔 も〕解釈されるべきではない。これらの解釈はいずれも、その基準が広範に受容
されること、つまりはそれが普遍性を持つという主張の妥当性を不用意に脅かすことになる。
53 本書1. 2 節の第2 段落を見よ。
54 範例的な答えとしては、ロールズの広範にわたるリストが挙げられよう。そこには、基本的
自由のみならず、所得および富、権力や公職の特権、自尊の社会的基盤が含まれている。Rawls,
A Theory of Justice、とりわけ15 節、および“Social Unity and Primary Goods”を見よ。 また
Dworkin“, What is Equality? Part U” およびScanlon“, Preference and Urgency” も参照せよ。
55 ケイパビリティ〔Capabilities〕は、個人が何をなしえ、いかにあることができるかという観点
で定義される。ロールズ主義者による回答とは対照的に、基本財をこのように捉えることによっ
て、各人の具体的な必要や賦与 〔endowments〕における差異に鋭敏な尺度が可能になる。こうし
て、例えばセンは、所得そのものにではなく、各人に固有の栄養やその他のニーズに応じた所得に
目を向けるよう我々に促す。Sen, Commodities and Capabilities を見よ。またNussbaum and Sen
(eds.), The Quality of Life, とりわけ同書所収の次の有益な論考 Cohen,“ Equality of What?”を見
よ。
56 1 つないしそれ以上の基本財において最低ラインを下回っている個人であっても、その他の基本
財に関して最低ラインを十分に上回ってさえいれば生存水準1 を割りあてられるべきであると無理
なく言えるのであれば、この定式は考えなおす必要があろう。
57 算術平均とは、様々な影響をこうむる諸個人それぞれについての測定値〔measurements〕の合
計を個人の人数Nで割ったものである。また幾何平均とは、諸個人の測定値をすべて掛け合わせ
た積のN乗根である。単純総和〔sum-ranking〕は、単純に、すべての測定値の合計を用いる。マ
キシミンは最も低い測定値を参照値〔representative〕と見なす。不平等は様々に異なる方法で特
定される。その1 つのわかりやすい基準が5 分位不平等比率〔the quintile inequality ratio〕であり、
当該人口中の上位5 分の1 の取り分を下位5 分の1 の取り分で割ったものである。また別のよくあ
る基準はジニ係数である。ジニ係数は、当該人口の下位1%、2%……(x 軸)によって保有される
総所得のパーセンテージ(y 軸)を表す累積所得曲線のグラフを構築することによって算出される。
この曲線は右へ行くほど急激に上昇する。グラフの始点と終点(0 および100%)を直線で結ぶと
しよう。ジニ係数とは、この直線と累積所得曲線との間の領域を、直線より下の三角形全体の領域
で割ったものであり、パーセンテージで表されることが多い。
58 1 人1 人の住民は毎年それぞれが平均で0.0033%(=10,000 / 303,000,000)のリスクに直面するこ
とになる。平均して78 年以上は生きるとしたとき、各住民にとっての全体的なリスクは0.26%に
なるだろう。
59 National Safety Council( www.nsc.org).
60 年ごとのリスクはおよそ0.014%(=43,000 / 303,000,000)。だが生涯を通じてはおよそ1.1%とな
る。
61 National Safety Council( www.nsc.org/library/facts/drunkdriv.htm).
62 ここでの議論は、Pogge,“ Three Problems.”の§X.C にて、より十全に展開している。そこで
も述べたように、正確な計算を行うためには、回避された交通事故死者数(その論考では毎年860
人)から、死刑によって早すぎる死を迎えるだろう人の数(70 人)だけでなく、捕縛を逃れよう
とした飲酒運転者が起こした二次的な事故によって殺された人の数も差し引く必要がある。また改
革は、早すぎる死者の数に対して別の肯定的な影響も否定的な影響も与えていた可能性がある。同
じ論考の§ X .A とX .B では、いかに類似の推論が厳格な負担を課す法令の増加、容疑者の逮捕
と処遇の粗雑化、証拠の水準の低下といった刑法領域における道徳的に疑わしい改革を支持してし
まう可能性があるかについて論じた。
63 この点に関しては、医療ケアの制度的な割りあてにとりわけ注意を払いつつ、より詳細に論じた
ことがある。Pogge“, Relational Conceptions of Justice”
64 社会的諸制度が持つこの暗黙の態度は、それらの諸制度を作り支持する人々の態度や意図とは無
関係である。前者のみが、その制度がいかに正義にかなっているかに関して相違を生みだす。後者
によって変わってくるのは、諸個人はそれら諸制度の押しつけに加担することでどれほどの非難に
値するのかという点だけである。
65 私的なエージェント(たばこ会社)が人々をニコチン中毒にしようとすることが法的に許されて
いるかぎり、喫煙のケースはシナリオ2 とシナリオ6 の間での流動的遷移の例示となる可能性があ
る。
66 中核的な不正義〔a core injustice〕とは、中核的な基準によって同定される不正義であり、それ
ゆえこの中核的な基準を重複部分として持つもっと要求度の高い諸々の正義構想のすべてによって
不正義であると認定される。この概念については、本書第8 章でいくぶん異なる視度から検討する。
67 わかりやすく例示しよう。社会の諸制度が、困窮した諸個人に対して、特定の肺疾患のための治
療を受けさせないことが不正義であるか否か。そうであるとして、それがどの程度不正義であるの
かは、この肺疾患に罹ったのが別の誰かによる法的に承認された大気汚染によるのか、それともそ
のリスクを完全に自覚した自己原因的な持続的喫煙によるのかによって変わってくるのは、もっと
もなことだろう。
68 たしかに、匿名性条件があったとしても、ある正義の基準が2 つの異なる種類の苦難が相互に関
係しているかどうかについて敏感でいること(例えば、高等教育からも排除されている集団と政治
参加から排除されている集団とが重複しているケースを、そうでないケースより重大な不正義であ
ると見なすこと)は可能だろう。だが、黒人であること・女性であること・ユダヤ人であることは、
それ自体としては苦難ではない。性別・肌の色・宗教は、まさしく匿名性条件が選別して排除しよ
うとしてきた要素にほかならない。
69 女性が家事労働の大半を法的に要請されたり、教育を受ける機会の多くを法的に禁止されたりす
れば、不正義はさらに大きくなるだろう。だがこれは、本書1.4 節の冒頭で詳細に論じた、これま
で見逃されてきた考慮すべき次元の第一のもの〔つまり、社会的諸制度が個人の人間的豊かさとど
のように連関しているか〕に関する(シナリオ1 対シナリオ3 の)問題である。
70 同様のことは、U原理 〔Principle U〕を通じてハーバマス〔Jurgen Habermas〕が提唱した、か
なり曖昧なアプローチについても言える◇3。とくにHabermas, Moralbewusstsein, pp.75-6 および
Erlauterungen, pp.130-76. を見よ。
71 詳細についてはPogge“, Three Problems” および“ Equal liberty for All?”を見よ。
72 例えばハーバマスである。「人権という概念は道徳的な起源を持つ概念ではなく、……本質的に
〔by nature〕実定法的〔juridical〕〔な起源を持つ概念〕である」。人権は「その構造を通じて、裁
定可能な〔justiciable〕個々の権利主張を支持する実定的で強制力を持つ法の体系に帰属している。
それゆえ、それ〔人権という概念〕には、それ自体で憲法上の権利の地位を要求するという意味
での人権がふさわしい」(Habermas, “Kants Idee des ewigen Friedens.”)。引用はp310 とp312 よ
り。強調は原文、翻訳はPogge。アレクシーは人権が道徳的権利であるとはっきり述べているけれ
ど、それ以外の点ではハーバマスと似たような立場をとっており、人権の制度化とは実定法への
転換であるとしている。Alexy, “Die Institutionalisierung der Menschenrechte im domokratischen
Verfassungsstaat”を見よ。
73 この提案は、本書第2章とPogge,“ Human Rights and Human Responsibility”にて、より詳細に
述べられている。
74 こうした批判は、例えば、シンガポールの元老〔patriarch〕リー・クアン・ユーとメアリー・ア
ン・グレンドンが著書Right Talk において表明している。
75 Grundgesetz, Article 2.2, in Press and Information Office of the Federal Government, The Basic
Law, p. 14.
76 本書、とりわけ4. 8 節、4. 9 節、5. 3 節、5. 2 節を見よ。
77 本書第6.8章とPogge“, Human Rights and Human Responsibilit”を見よ。
78 本書注246とPogge“, Severe Poverty as a Violation of Negative Duties.”を参照せよ。
79 これらの国内的基準は、やはり社会的諸制度を選定するという文脈で機能するだろう。それゆえ、
おそらくは確率論的(事前的)な性質のものとなるだろうし、量的にも質的にも適切な特定財の取
り分への公的に確認可能なアクセスに焦点を当てるものでもある。その点において、これらの基準
は、我々が小規模な 〔small-scale〕文脈で採用する人間的豊かさの基準とは異なる。その小規模な
文脈では、我々が、例えば、友人の生や自らの生を豊かにすることに関心を向けることは許される
のである。
◇訳注 ─────────────────────────────────────
1 本訳書では、human flourishing を「人間的豊かさ」と訳出した。原文でflourishing が単体で登場
する場合はそれに応じて「豊かさ」としたが、それはすべて「人間的豊かさ」を指していることに
注意されたい。管見では、flourishing の訳語としては「開花繁栄」「繁栄」が定訳のようであるが、
本訳書では採用しなかった。そのようななるべく平易な訳語を当てた理由は偏に──この訳語に限
ったことではないが──、本書がひろく多くの人々に読まれることを想定してのことである。のみ
ならず訳者は「豊かさ」が本書におけるポッゲの定義にもかなうとも考えているが、とはいえ「豊
かさ」が必ずしも最適であると考える者ではない。あくまで一石を投じる試みと了解していただけ
れば幸いである。
2 「世界人権宣言」第5 条:「何人も、拷問または残虐な、非人道的もしくは屈辱的な取扱いや刑罰
を受けることはない」。
3 U 原理のU はUinversalisierung、つまり普遍化を指し、その内容は「規範が妥当ならば、各人
の利害関心のために、その規範を一般的に遵守することから生まれてくると思われる成果や副次
的効果は、すべての人に強制なく受け容れられなければならない」という命題であらわされる
(Erlauterungen zur Diskursethik. Frankfurt: Suhrkamp, 1991.(= 2005,清水多吉・朝倉輝一訳
『討議倫理』法政大学出版局、pp.7-8.)

第2章

◆注 ──────────────────────────────────────
80 歴史的な詳細についてもっと知りたければ、とくにTuck, Natural Rights Theories、および
Tuck,“The‘ Modern’ Theory of Natural Law”を見よ。
81 Hobbes, Leviathan, p. 190. Tuck が後の論稿において強調するように、このような用法はグロテ
ィウス〔Hugo Grotous〕からカントに至る時代においてはあまりにもありふれたものだった。
82 この条件をいくらか強めることはありうる。例えば、ある道徳的要請が無限定であるのは、それ
に対するある所与の侵害がどの程度悪いかが侵害者にとっての時代・文化・宗教・道徳的伝統・哲
学に依存しない場合のみである。それに対する同等の侵害は同等に悪いのであり、例えば、侵害者
が20 世紀の先進社会における教育ある市民であるか、それとも、はるかに原始的な13 世紀の成員
であるかには依存しないのである。〔とはいえ〕同等に悪いといっても、同等な非難に値するわけ
ではないという点はつけ加えておかねばならない。ナチス統制下における典型的なドイツ人兵士に
よる虐殺という悪行は、チンギスハンのもとでの典型的なモンゴル兵士による、その他の点では同
じような虐殺の悪行よりも、間違いなくより大きな非難に値するし弁解の余地もいっそう小さい。
83 これら5 つの用語がどの程度広く拡張されて理解されるべきかは、我々の知っている世界の大き
さと多様性とに依存する。今日では、かなり拡張的な理解が必要とされている。ルネサンスから
フランスおよびアメリカ革命までの時間は1 つの時代と見なしうるが、30 年戦争はそうではない。
欧州は1 つの文化と見なされうるが、ベルギーはそうではない。キリスト教、そして無神論も宗教
と見なせるが、英国国教会〔Anglicanism〕はそうではない。道徳的伝統とは、功利主義、社会契
約説、卓越主義、存在論哲学などでありうるが、カントやシジウィック〔Henry Sidgwick〕の特定
の道徳的構想ではない。最後に、哲学とは、合理主義、経験主義、観念論、道徳的実在論、直覚主
義を含むかもしれないが、それらの中の特定のヴァリアントを含むことはない。こういった拡張的
な理解をしなければ、共有可能性は今日の世界においてあまり大きくならないだろう。ある道徳的
要請は、真に広範にアクセス可能でなくても、5 つの次元すべてにおいて共有可能性を持つと見な
されることがありうるのだ。
84 マッキー〔J・L・Mackie〕は、この最も重要な優先性の感覚〔自己よりも他者の利益を優先さ
せる感覚〕を抉出することを企図して「.にハンデを与えるもの〔what gives point to〕」という表
現を使っている。Mackie,“ Can There Be a Right-Based Moral Theory?”, Postscriptを見よ。この
道徳的ないし原理主義的な優先性は、概念的ないし定義上の優先性とは区別されねばならない。後
者は正反対の方向性を持つ可能性がある。マッキーが示唆するように、ある義務の概念の方がある
権利の概念よりもおそらく明確であり、そうであるからには、権利を義務の観点で定義することは
理に適うだろう。ラズ〔Joseph Raz〕はそのような定義を提案する。「『x が権利を持っている』の
は、x が権利を持つことができ、かつ他の事情が同じであるならば、x の福祉〔well-being〕の一側
面(彼の利益)が他の(諸)個人をこの義務のもとに従わせておくことの十分な根拠となる場合で
あり、その場合のみである」。Raz“, On the Nature of Rights”, p. 194を見よ。
85 この連関はFeinberg,“The Nature and Value of Rights”において詳述され、擁護されている。
86 この立場そしてそのコロラリーである、赤ん坊に権利はまったくないという立場については
Hart“, Are There Any Natural Rights?”を見よ。
87 これについて、またこれに関連する点は、Gewirth, “The Basis and Content of Human Rights”
においてより精緻に述べられ擁護されている。
88 権利イディオムがもたらす限定に関するより詳細な議論については、Pogge, “O’Neill on Rights
and Duties”を見よ。
89 Rawls“, Justice as Fairness: Political not Metaphysical.”
90 この第2 の要素は、諸主体が他者の人権に与えるべきウェイトは諸主体と彼らとの関係に応じて
変わってくる──例えば、諸主体は人権を保障する道徳的理由を国外よりも国内においてより強く
持つ──という見解と矛盾しない。ただし、それら〔国内の人間と国外の人間の〕諸権利の道徳的
重要性における格差に因るのではない──と没人格的に考える──限りにおいて、である(すべて
の子供たちの繁栄が同等に重要であること、私は自分の子供の繁栄に対して他人の子供のそれに対
するよりも強い関心を示すべきであること、この両者を整合的に信じることは可能なのである)。
91 イディオムにおける「利益〔interests〕」から「ニーズ」への転換は、たんに、人間存在の最も
重要な利益は人権を発生させるものと見なされるべきである、という考えを象徴しているだけであ
る。この転換によって、人権とはどのように特定されるべきかに関する実体的問題についてすでに
何らかの判断がされているわけではない。ベーシック・ニーズはなおも、〔ベーシック〕利益とま
ったく同じように、個人間で相対的に(それゆえ、ある個人のベーシック・ニーズが何であるかは、
部分的には、ジェンダーやハンディキャップといったその人の個人的特徴の一部に依存する、と)
考えられるし、主観的観点で(それゆえ、ある個人のベーシック・ニーズが何であるかは、部分的
には、その人の目標ないし欲求、選好に依存すると)考えることさえ、可能である。
92 ここでは、あらゆる実体的論点についての予断を排除するために、「目的」という語を広い意味
で使う。ある権利の目的とは、ある権利が対象とするあらゆるものである。そのような目的は、.
からの自由でも、.への自由でもありうるし、身体的安全でも、適切な食糧供給でもありうる。
93 以後、この説明的な挿入は省略する。だが、注100 を見よ。
94 おそらく、この点は米州人権裁判所〔the Inter-American Court of Human Rights〕によって承認
されたことがある。それは、当該裁判所が、ホンジュラス政府の役人が関与していると事実認定す
ることなく、ホンジュラスを「失踪中の」諸個人の犯罪に対して責任ありと判断した──政府がそ
れら犯罪を防止する、ないしそれら犯罪に対処する、然るべき努力をしなかったという理由で、当
該政府にそれらの犯罪〔の責任〕を押しつけた──ときである(Velasquez; July 29, 1988; series C,
number 4)。
95 いくつかの人権のケースでは、万人がその権利の目的に対する保障されたアクセスを持つように
ある社会を(再)編成するには、そのような内容を持った実定法上の権利が存在することが必要だ
ろう。近代的諸条件の下では、そこに実定法上の権利がまったく存在しないにもかかわらず、その
成員たちが彼らの所有権を保障されている、または、表現の自由への保障されたアクセスを有して
いる、そんな社会を想像することはほとんどできない。他のケースでは、対応する内容を持つ実定
法上の個々の権利は必要ないかもしれない。例えば、そこに実定法上の権利が存在しないとしても、
万人が最低限必要な栄養に対する保障されたアクセスを有している社会を考えることはできる。対
応する実定法上の権利は、あるケースでは必要であるかもしれず、他のケースでは不要であるかも
しれない。だが、いずれにせよ、そういった実定法上の権利では、それと対応関係にある人権の目
的への保障されたアクセスを維持するためには実効的でないかもしれないし、不十分であるかもし
れないのだ。(私の想定では、その唯一の目的が何らかの実定法上の権利が紙の上〔だけ〕に存在
することであるような人権は存在しない。)
96 本章で文化的権利〔cultural rights〕については扱わない。この論点に関するいくつかの考察とし
て、Pogge“, Group Rights and Ethnicity”を見よ。
97 これは、Hohfeld, Fundamental Legal Conceptions. において提示された一般的見解である。この
見解は、Wellman,“ A New Conception of Human Rights”において、人権の概念を説明するために
用いられている。Wellman, A Theory of Rights も見よ。
98 Luban,“ Just War and Human Rights,” p. 209.包括的な最大限の解釈は、Shue, Basic Rightsにお
いて展開されている──そう私は思っていた。だがシュー〔Henry Shue〕は、新版のあとがきで、
自らの立場が完全な最大限解釈よりも限定的である点に注意を促している。彼が言うには、我々に
要求されているのは、その権利を侵害されたあらゆる諸個人を援助することである──しかし、そ
の権利が、例えば、自然の原因によって満たされていない人々を援助することまでは含まれない
(ibid.、 p. 159)。なぜ諸々の積極的自由の間でのこの区別が道徳的に重要であると信じるのかを彼
は説明していない。
99 公式の否認ないし剥奪が他の面では同じ私的なそれらよりも重大であると見なすことで、私
はかつて自らが(Realizing Rawls において)擁護した立場──社会的諸制度は、(ロールズの原
初状態のような)広い意味で帰結主義的な先望的参加者〔a broadly consequentialist prospectiveparticipant
〕のパースペクティブから評価されるべきとする立場──を放棄しているのだ。先望的
参加者たちは、人権の目的が政府によって脅やかされるのか、それとも私的な主体によって脅やか
されるのかには無頓着である。それゆえ彼らは、他の事情が同じであれば、社会的諸制度に関する
道徳的評価に対してこれら2 種類のリスクが与えるインパクトは同じであるとしてしまう。私がこ
こで主張しているのは、他の事情が同じであるとして、人権の目的へのアクセス不全が、公的に
X を拒絶されるないしX を剥奪されるリスクに起因する──すなわち人権侵害のリスクに起因す
る──場合には、ある社会の不正義性は非常に強くなるという点だ。私にとっては、自らの政治的
信条を表明したことによって告発される重大なリスクが、同じ理由によって暗殺者に殺されるそれ
と同程度のリスクより悪いということは〔私個人にとっては〕ないとしても、ここで問題としてい
る社会的秩序の文脈では、前者の方がより重大な不正義となるのであり、当該社会にとってはより
悪い人権レコードとなる。かつて私が採った仮想的契約の思考法を撤回した点についての詳細は、
Pogge,“ Three Problems”および”Equal Liberty for All?”にある。本書1. 4節および2. 3節の第
2 段落を参照せよ。
100 たとえ平時であっても我々は国外での人権充足に責任を持つという可能性の余地が、制度的な
解釈にはなおも残されている(そのような責任は最大限の相互行為的解釈を採る者にとっては1 つ
の与件であり、最小限の相互行為的解釈を採る者にとってはありえないことである)。我々がその
ような責任を有するのは、一部の諸個人が人権の諸目的に対する保障されたアクセスを、定期的
に・予見可能なかたちで・回避可能であるのに、拒絶されているような、そんな超国家的社会制度
スキームにおいて影響力ある特権的参加者である場合だ。私の考えでは、この経験的な条件は満た
されているし、ゆえに戦争および深刻な貧困──これらはいずれも、人権の侵害とアクセス不全を
大規模に生み出す傾向がある──の発生を縮小ないし根絶するようなグローバルな制度的秩序改革
に向けて努力する、人権に基づいた義務を我々は有している。Pogge, “Human Rights and Human
Responsibilities”および“An Egalitarian Law of Peoples”を参照せよ。
101 「権利功利主義」という表現は、批判的な含みを持って、Nozick, Anarchy, State, and Utopia, p.
28 において造語されたものである。そのような見解は、ルーバンから引用した文に示唆されるよ
うに(注98)、権利充足の最大化という目標と諸個人とを直接結びつけてくる。それは倫理学にお
いては帰結主義的アプローチを採り、であるがゆえに、具体化においてはお馴染みの諸々のオルタ
ナティブの余地がある。例えば、ある権利功利主義は、理念的〔ideal〕でも現実的〔real〕でもあ
りうるし、行為・ルール・動機のいずれに関するものでもありうる。別のタイプの帰結主義もある。
ベンサム〔Jeremy Bentham〕の功利主義のようなものであり、これは(社会の刑罰システムのよ
うな)社会的諸制度に適用される。それゆえ、制度的なタイプの権利功利主義もありうるのだ。そ
のような立場が私がここで擁護しているものとどのように異なるのか、その1 つのあり方を注99
で明確にしておいた。
102 不正義に対するある個人の責任の度合いは、彼女の支配している資力に依存するし、おそらく
は、問題となっている社会的秩序の中で彼女がどの程度恵まれているかにも依存するだろう。ある
個人がどの程度非難に値するかは、彼女の教育、経験、境遇など、さらにいくつかの要因に依存す
るだろう。
103 Gould“, The Moral State of Tahiti,” p. 19より引用。
104 O’Neill, Faces of Hunger, p. 101と比較せよ。マニフェスト権利に関するトピックはPogge“, O’
Neill on Rights and Duties”においてさらに論じられている。

第3章

◆注 ──────────────────────────────────────
105 コードという観念は成文化〔codification〕というアイデアと近接しているので、私が道徳的コ
ードについて語るのは意外に思われるかもしれない。そもそも、立法とは異なり、成文化もされて
いなければ、公式に決定されたり施行されたりするものでもないということこそが我々が近代世界
で親しんでいる道徳的諸原理の独特な性質なのである。私たちは道徳的コードの存在しない世界に
住んでいると言えるのかもしれない。しかし、その場合には、私の道徳的コードの話は経験的現実
に対する応答というよりもむしろ、理論的必要性への対応だということになる。この分析がいくぶ
ん厳密に適用できるようなかなり確定的な適用事例にしっかりと目を向けない限り、諸々の道徳原
理がもたらす効果に関して意義ある分析はできない。それゆえ、道徳的コードの話は1 つの理念化
を反映しているのだ。私はあなたがたに、諸々の確定的な道徳的コードが反生産的であるような仮
想的ケースを考察するようお願いすることになる。私たちは、熟考のうえで、そのような反生産的
なコードの支持者にはそれを修正すべき理由があると結論するだろう。そして、もし私たちがいま
抱いている諸々の道徳的信念──決まった形はなく多様であろうとも──が適用事例で見る道徳的
コードとその内容と効果において十分に似ているとすれば、この結論は私たち自身にいくつかの示
唆を与えるだろう。
106 「コードそれ自体にとって」という言葉は、可能な場合はいつも省略することにする。しかし、
頭の中にとどめておかねばならないのは、我々は一貫して反生産性〔のケース〕を扱うということ、
つまり、道徳原理が自身の有効性を傷つける、いわば自身のもたらす効果を後悔〔regret〕するよ
うなケースを扱うということだ。
107 例えば、慈善的贈与に対する税控除は多くの納税者に誘因を与える。しかしこういったものの
一部について言えば、誘因は決定的な影響を与えるものではないかもしれない──控除のない場合
よりは寄付する気にさせるが、それでもまだ十分にその気にさせるわけではない。また税控除に
ついて知らないか、もしくはそれを利用する方法を理解していないという人々もいるかもしれない。
その時、コードは、最終的には行為をなんら左右しない誘因を与えているのかもしれない。これか
ら私が示すように、それにもかかわらずこのような誘因のいくつかは問題を孕んでいる。
108 これら2 つの典型的なケースはあらゆる可能性を網羅しているわけではない。ある道徳的コー
ドは、ある小さな社会システムにおいて流布しているだけかもしれないし、(何か別のコードにコ
ミットしているマジョリティの存在する)ある社会のなかのマイノリティによって保持されている
だけかもしれないし、または、ある社会でとくに影響力を持つ個人(米国の大統領)によって保持
されているだけかもしれない、等々といったことがありうる。これらのケースすべてにおいて、コ
ードの影響力はそのコードが作動している生活文脈によって形作られる。
109 私はここで次のように想定する。理念的支持者は、ノーマルな利害関心を持っており、政府の
所得よりも自分自身の所得を高めることを気にかけるし、入隊についてもどちらかといえば回避し
たがる。2 つめの事例で、兵役に就くことは道徳的に要求されているが法的には任意である。
110 本書3. 0 節の第5 段落を見よ。
111 後者の問いに関してはいくつかの予備的考察が、Pogge, “The Effects of Prevalent Moral
Conceptions”で論じられている。
112 同じように学問の世界でも、大学の学長や理事たちは、大学やその構成員に対する受託者責任
をアピールすることによって、自らの組織への寄付を道徳的に疑わしいやり方で投資するという自
身の決定を擁護しようとしてきた。彼らは暗黙のうちに、ある(例えばアパルトヘイト下における
南アフリカの金鉱や特定の武器輸出企業への)投資は、たとえ個人的な資金で行われる場合には倫
理に悖るとしても、大学のためになされたときは倫理的に容認しうると言っているのだ。
113 重要なのは、弁護士もE が要求するものを遵守しているという点(オプションB の総体的な道
徳的状態は「許容される」という点)である。私はここでは、部分的にそれを他の人に転嫁するこ
とによって自分の不当行為(ある取引に関する責任のその人の分担分)を軽減する──一部の倫理
的コードが生み出してしまうかもしれない──機会については、関心を持っていない。
114 より正確に言えば、このような──例えば、Fried.“ The Lawyer as Friend”で描かれているよ
うな──倫理は、家主に、A2 よりもB を選好する理念的な遵守誘因と、A1 よりもB を選好する
理念的な報酬誘因とを与えるのである。
115 私はここで、サミュエル・シェフラー〔Samuel Scheffler〕が結社における義務〔associative
duties〕や特別の責任〔special responsibilities〕に対して「分配上の異論〔distributive objection〕」
と呼んだもの(Scheffler, Boundaries and Allegiances, pp.56-64 and 83-95)の穏健なバージョンを
提示している。シェフラーが議論しているもっとラディカルなバージョンでは、特別な関係が諸個
人(アリスとベス)をして部外者(カーラ)よりもお互いを優先するのが当然であるというふうに
道徳的状況を変化させる可能性があるとしたら、彼の分配上の異論は特別な関係すべてに反対する。
私の穏健なバージョンでは異論は特別な関係に対して部分的に反論を行うにとどまる。すなわち特
別な関係がアリスと ベスをしてカーラに対して最低限負うものを軽減させるように道徳的状況を
変えさせる場合に限られるのだ。私の穏健なバージョンがラディカルな方を反駁しようとした結果、
シェフラーは私が次のことを見逃しているという。「自分の仲間に対する〔特別な〕責任を持つこ
ととは、一部には、その境界内では仲間でない人の利益よりも仲間の利益を優先するよう、双方が
対立する場合には、要求することなのである」(同書、p.87)。私はこの点を見逃しているつもりは
ない。私は人々が他の人に対して最低限負うことは、他のすべての人のと同じ分だけしかその人に
利益を与えてはいけない、と思っているわけではないので、そのことは簡単に認められる。何の
特別な関係もないときでさえ、アリスにとっていろんな面でカーラよりベスの利益を優先すること、
例えばカーラの方が助けを必要としているときにカーラよりベスを助けることは許容されるのであ
る。特別な関係があったら、この許容は義務に変わるだろう。私の穏健な異論では、こういったこ
とによってそれら特別な関係が批判されることにはならない。それは道徳的影響を制限するだけだ。
もし、 ベスとの特別な関係が存在していないとき、アリスがカーラに特定の行動をしてはいけない
なら(例えば、ベスの命を助けるために、同意を得ずにカーラの腎臓をひとつ奪うなど)、アリス
はベスとの特別な関係が存在するときでも同じ消極的義務を持つ。もし、 ベスとの特別な関係が存
在していないとき、アリスがカーラに特定の行動をしなければならないなら(例えば、ベスの指を
守るよりも カーラの目を守ることを優先するなど)、アリスはベスとの特別な関係が存在するとき
でも同じ積極的義務を持つ。これらの制限を課すことで、私の見方は一般に特別な関係の道徳的影
響として考えられていること(同書、pp.52-3 を参照)とは異なる。しかし、これらの制限だけを
課すことによって、私の見解では特別な関係に重要な道徳的影響をなおも持たせている。このよう
に、この見解はシェフラーが──真の仲裁可能性〔intermediate possibility〕について──主張し
ているもっとラディカルな分配上の異論とはまったく異なっている。この点を明らかにする注を付
け加えるよう勧めてくれたシェフラーに謝意を表したい。
116 「正当な理由もなく」という言葉は、妥当な反論の可能性をほのめかしている。もし弁護士の追
加雇用が道徳的に重要で、ケース1 の誘因がこの重要な価値を促進する効果的な方法だったとした
ら、そのときは誘因に正当な理由があるかもしれない。
117 私が言うまでもなく、妥当な倫理が父親の行為を許すべきではないことは、まったく明らかで
あると思うかもしれない。しかし、抜け穴の問題がかなり根本的なE の改変を要求していること
を私たちはすぐに(本書3. 6 節と3. 7 節で)見ることになるだろう。さらに言えば、私がとくにE
を選んだのは、あらゆる道徳的構想に課されるべきだと思われる制約の適切な例示とすることを企
図しているのだ。そのうち明らかになるように、この制約は一般的に持たれている諸他の道徳的見
解に対しても根本的な疑義を呈するものとなる。
118 いったん国境が南アフリカの中に引かれると、白人国家の政府は隣国の人々(がどれほど不利
益を被っても)に対して自国民の利益を精力的に促進する強い誘因を持つようなかたちで民主的に
組織されていくであろうことが、時とともに、明らかになっていくだろう。隣国の人々は、最終的
には、自分たちの利益に配慮する政府を持つことにはなる(それがどれほど無能な政府であるとし
ても)。
119 たとえE とJ がそのように理解されたとしても、望ましくない具体的誘因を与えるという理由
でなお非難される可能性がある。とはいえ、それらには抜け穴が含まれているという不満はいまや
封じられている。というのも、E とJ の理念的支持者であるならば、父親の考えやホームランド改
革の実行が禁止されている場合には、それを実行することはないからだ。
120 私は責任がそのチームとチーム創設者との間でいかに分配されるべきかについて論じたが、チ
ーム内部でどう分配されるべきかについて、本章では考察していない。
◇訳注 ─────────────────────────────────────
1 同じ行為に対しても動機が違えばその道徳的評価が変わってくるという点。

第4章

◆注 ──────────────────────────────────────
121 「世界人口の5 分の1 に当たる所得が最も高い国々に住む人々と、世界人口の5 分の1 に当た
る所得が最も低い国々に住むとの間の所得格差は 1997 年には74 対1 であり、1990 年の60 対1 お
よび1960 年の30 対1 から差が広がっている。〔それよりさらに以前でも、〕最上位の国々と最底辺
の国々との所得差は、1820 年の3 対1 から1870 年の7 対1 に、さらに1913 年の11 対1 に広がっ
た」(UNDP, Report 1990, p. 3, cf. p. 38 を参照せよ)。
122 注125-30 と関連する本文を見よ。グローバルな貧困ギャップは、世界銀行の極度の貧困線
〔extreme-poverty line〕に関しては年間約500 億ドルであり、深刻な貧困線〔severe-poverty
line〕に関しては年間で3,000 億ドルである。これらの数字は、グローバルな社会的生産〔global
social products〕(44 兆9,830 億ドル)の0.1708%と1.13%、そして、高所得国での国内総所得の合
計(35 兆5,290 億ドル)の0.21%と1.43%にそれぞれ対応している。2005 年度のデータを報告して
いるWorld Bank, Report 2007, p. 289 を見よ。
123 1919 年4 月11 日。この提案はそれを扱う委員会で過半数(出席した17 のメンバーのうち11
名)を得たが、ウッドロウ・ウィルソンは、議長として、この改正条項に関してだけは通過に全会
一致の支持を必要とすると裁定した。Naoko Shimazu, Japan, Race and Equality, p. 30 を見よ。
124 このような特別な紐帯と「同胞の優先」への訴えかけは、第3 章と第5 章でさらに議論される。
このような訴えかけは、より平等主義的なグローバル経済秩序においてさえ正義に適いかつ豊かな
国民共同体を容易に構築できるような社会のためになされるのが通例である。〔ここでの議論がそ
れと〕違うのは、人類の残りの多数派も、その際に、同様の共同体的な善を享受できるだろうとい
う点である。
125 Chen and Ravallion,“ Developing World.”を見よ。世銀は、極度の貧困線「員数〔headcount〕」
を、後発途上国のうちより速く成長している人口を母集団としたパーセンテージと──すなわち
54 億8,300 万のうちの26.00%と──したいようである。これにより、趨勢はよく見えてしまう(上
述のp.12 にある表を見よ)。極度の貧困層を世界全体での成長の遅い人口を母集団としたパーセン
テージとして報告すると趨勢はもっと悪く見えるようになるし、直接的な人数として報告された場
合にはさらに悪く見える。
126 世界銀行は2005 年のPPPs によって2009 年の各国通貨の額を比較しているため、この数字は
厳密には不正確である。つまり、世銀は、その国際貧困線をドル以外の各国通貨の2005 年の額で
換算するために2005 年PPP を使用しているのである。そのうえで、そこで得られた値をそれ以外
の年度の通貨額に換算する際には各国の消費者物価指数(CPI)を使用している。PPP 基準年の選
択によって結果は変わってくる。というのも、これらの換算は異なる商品バスケットに基づいてい
る。つまり、PPP の換算は換算該当年度における国際商品バスケットに基づいているのに対して、
CPI の換算は各国で異なる商品バスケットに基づいているのだ。このような手法を採っているせい
で、世銀の数値はPPP 基準年(注23 を参照せよ)の恣意的な選択に非常に左右されやすくなって
しまう。
127 Chen and Ravakkion,“ Developing World,”pp.42-6を見よ。この平均の不足分を算出するために
は、この貧困ギャップ(7.6%)を貧困員数(25.2%)で割る必要がある。もし過剰な貧困の負担が
途上国のすべての人々に分散されているのであれば、極度の貧困線からの平均的不足は7.6%とな
るだろう。しかし、現実には極度の貧困の中で暮らす25.2%の人々にこの負担が集中しているため、
このグループ内の構成員にとっては平均不足分が30.2%となる。
128 我々は米国ドルの市場為替レートと家計消費に対するppp 為替レートを比較することで、こ
の比率を計算できる。それゆえ、世界銀行は、平均為替レートに関してインドの44.12INR を
15.60PPP ドルに、中国の8.20CNY を4.09PPP ドルに、パキスタンの59.74PKL を20.71PPP ドルに、
インドネシアの9,721.65IDR を4,192.83PPP ドルに、ブラジルの2.43BRL を1.57PPP ドルに、ナイ
ジェリアの132.10NGN を78.58PPP ドルに、バングラディッシュの64.65BDT を25.49PPP ドルに、
ウガンダの1,777.28UGX を744.62PPP ドルに、エチオピアの8.83ETB を2.75PPP ドルに、ベトナ
ムの15,967.54VND を5,919.89PPP ドルに、スーダンの247.28SDD を123.51PPP ドルに、エジプト
の5.83EGP を2.02PPP ドルに、タイの40.31THB を17.47PPP ドルに、タンザニアの1,150.31TZS を
482.45PPP ドルに、ウクライナの5.16UAH を1.71PPP ドルにそれぞれ等しいと見なしている。2005
年のこれらの数字は、市場為替レートに関しては、www.oanda.com、家計消費PPPs に関しては
World Bank, Global Purchasing Power Parities, table1, pp.28-36 を見よ。ここで挙げているのは貧困
の数が最も多い国々である。
129 Chen and Ravallion“, Developing World,”pp.42-6を見よ。これによれば、2004年の貧困「員数」
は後発途上国の人口54 億8,300 人のうちの56.6%であったことが分かる。
130 Ibid., 25.9%の推定貧困ギャップを貧困員数56.6%で除している(cf. 注127 を参照せよ)。
131 FAO,“ 1.02Billion People Hungry”; WHO and UNICEF, Drinking Water and Sanitation, pp.30
and 7
132 UN-Habitat, Human Settlements 2003, p.vi
133 Fogarty Center“, strategie Plan”and UN Habitat“, Urban Enegy.”
134 UNESCO Institute for Statistics“, Literacy Topic.”
135 ILO, The End of Child Labour, Table 1.1 およびp. xi を見よ。また、この報告によると、これら
の子供たちの1 億2,600 万人は危険労働〔hazardous work〕に──例えば農業や採鉱に──従事し
ており、840 万人が「絶対的に最悪な〔unconditional worst〕」形態の児童労働に従事している。こ
の絶対的に最悪な児童労働には、奴隷、強制労働や借金のカタによる労働、軍事紛争に利用するた
めの強制的な徴兵、強制的な売春またはポルノグラフィ、非合法薬の製造または取引、などが含ま
れる。
136 2004 年には、約5,700 万人の死亡者があった。貧困と強く相関する主要な原因(以下、単位は
千人)は、下痢(2,163)、栄養失調(487)、周産期条件(3,180)および母体条件(524)によるもの、
小児期疾患(847 ──約半数がはしかである)、結核(1,464)、マラリア(889)、髄膜炎(340)、肝
炎(159)、熱帯病(152)、呼吸器系の伝染病(4,259 ──主に肺炎)、HIV/AIDS (2,040)、性行為感
染症(128)である(WHO, Global Burden of Disease, table A1, pp.54-9)。
137 マヤ・リン〔Maya Ying〕によって設計されたワシントンのベトナム戦争戦没者慰霊碑は黒い
花崗岩の壁であり、493.5 フィートの長さである。そこには、5 万8,256 人の戦没米兵士の名前が刻
まれている。
138 World Bank, Report 2007, pp. 288-9.
139 Ibid., 年間44 兆9,833 億ドルのグローバル所得総計〔aggregate global income〕(すべての国民総
所得の合計)と世界人口64 億3,800 万人(2005 年度)を反映した数字。
140 多くの経済学者が、グローバル所得分配を分析する際に、市場為替レートではなく購買力平価
PPPs を使いたがる。PPPs での換算は── およそ2.5 の要因のうちのひとつによって──最貧層
〔the poorest〕の消費支出総額を20%つり上げ、その結果、大まかに言って、グローバル生産に
おけるそのシェアは2 倍となってしまう(グローバル生産がPPPs 換算によってそれそんなにつり
上げられることはない── World Bank, Report 2009, p. 353 を見よ)。しかしながら、市場為替レ
ートは、当事者たちが与えることのできる影響力(交渉力や専門知識)を評価する際には、もっと
適切な尺度となる。また、市場為替レートは貧困の回避可能性を評価するためにも適切な尺度であ
る。たしかに、生活水準の比較に関して言えば、市場為替レートは不適切である。しかし、一般消
費購買力平価〔general-consumption PPPs〕もまた、非常に低い所得を評価する際には、問題があ
る。なぜなら、非常に貧しい層〔the very poor〕の消費支出パターンは、PPPs に基づく国家間の
消費支出パターンとは大きく異なっているからである。PPPs を使用することによって、我々は結
果的に次のように言っている。すなわち、彼らが暮らしているところでは諸々のサービスが安いの
で、貧困層は我々よりはるかに暮らし向きが悪いというわけではない。しかし、この労働の廉価さ
が消費者としての彼らに便益を与えることになるわけではない。というのも、貧困層は基本的必
需品に自らの乏しい財源をつぎ込まねばならないからである。詳細に関しては、Reddy and Pogge,
“How Not to Count the Poor”を見よ。
141 注122 を見よ。奇妙なことに、世界銀行は、グローバル貧困層〔the global poor〕の一人当たり
所得ないしその集合的所得に関するデータ、グローバル所得総額におけるそのシェアに関するデー
タ、彼ら全員が当該貧困線に達するために必要とされる追加的所得の額に関するデータ、などを公
表していない。
142 Davies et al., The Distribution of Household Wealth, Appendix 1, 表10a。PPP 換算を使った場合、
上位10%がグローバル資産の 71.1%、上位1%がその31.6%を所有するのに対して、最底辺50%は
その3.7%を所有することになる(ibid., Table 11a)。この著者たちは、家計調査では超富裕層〔the
superrich〕──数百人だけでグローバル家計資産〔household wealth〕の1.7%を占める世界の億万
長者たち──の特徴があらわれないので、彼らの研究がグローバル資産の不平等を過小評価してい
る可能性がある点を強調している(ibid., p. 31)。
143 報じられるところでは、1987 年と2005 年の間で、深刻な貧困〔severe poverty〕のもとにい
る人数は4.8%、つまり1 億1,800 万人に増加しているという。その内訳は、中国で3 億7,800 万人
減少し、残りの世界で 5 億4,300 万人が増加している(Chen and Ravallion “Developing World,”
Table7)。報じられるところでは、同期間に、極度の貧困〔extreme poverty〕のもとにいる人の
数は11.7%、つまり3 億4,330 万人──中国によってもたらされた3 億7,800 万人中の(ibid)─
─に減少した。その間、世界の人口増加は29%だった。http://www.census.gov/ipc/www/idb/
worldpop.html.php
144 冷戦終結のおかげで、世界各国はその軍事支出を1985 年度におけるGDP 各国合計の4.7%から
1996 年における2.9%(UNDP, Report 1998, p. 197)へ削減できた。今日、このグローバルな平和
の配当は年間約1 兆2,000 億ドルの価値がある。この平和の配当が貧困撲滅のためにどれほど行き
渡ったのかと問いたくなるだろう。その答えは、ほとんど皆無である。冷戦終結に伴い、後発途上
国が地政学的意義を喪失するにつれて、裕福な国々は各国合計での正味の政府開発援助(ODA)
を1985 年度での各国合計GNP の0.34%から2000 年度での0.22%に削減した(豊かな国それぞれ
の詳細については、UNDP, Report 2002, p. 202 に見られる)。テロとの戦争に支出するため、それ
以降にODA は僅かに上昇し0.33%、つまり、1,070 億ドルになった(UNDO, Report 2007-2008,
p.289; 注10 も見よ)。注336-7 の本文も参照せよ。
145 1996 年「世界食糧安全保障に関するローマ宣言」は「8 億人以上の人々」を栄養不足とした。
この数字は、公式的には、ほぼ8 億人近く(UNDP, Report 1995, p. 16 およびUNDP, Report 1996,
p. 20)から最新の報告書での10 億2,000 万人(FAO, “1.02 Billion people Hungry”)へと悪化した。
世界銀行の食糧価格指数は(2002 年のドルを基準として)1990 年の107.9 から、2002 年の90.2 へ
と低下し、その後、2008 年にピークとなる190.9 へと急上昇した。2008-2009 年におけるグローバ
ル経済の停滞によって食料価格は(147.9 へと)暴落したが、このことは貧者にとって不幸中の幸
いである(www.fuo.org/worldfoodsituation/FoodPricesIndex/en)。
146 高所得諸国に関して、World Bank, World Development Indicators Online(accessed July 8,
2009)を参照し、「人口と総量」を用いて、毎年の「家計最終消費支出」と(2005 年の国際ドルを
基準とする)ppp を割った。全人類における所得層の半分未満の層に関して、World Bank, Povcal
Net(July 9, 2009)を参照した。完全な計算は著者のファイルにある。不幸なことに、後者のデー
タベースは高所得諸国の人口が含まれていないので、全人類の人口の上位半分については同じよう
に詳細な計算がまったく不可能である。また、Milanovic (Worlds Aspect, p. 108)も見よ。その報
告では、世界人口の最貧5%の実質所得は1988-93 年期間では20%、1993-8 年期間で更に23%、下
落している。 1988-98 年の期間中に、Milanovic は、世界規模で見て、諸個人間の不平等が上昇し
たことを発見している。彼は、不平等に関する2 つの標準的な尺度を利用して、ジニ係数で62.2 か
ら 64.1(注57 を参照せよ)へ、そしてタイル係数で72.7 から78.9 への上昇を報告している(ibid.,
p. 112)。
147 ラテンアメリカを除く大部分で、国内での所得五分位不平等比率は3 と10 の間である。例えば、
日本3.4, ドイツ4.3、オーストリア4.4、バングラディッシュ4.9、スイス5.5、フランス5.6、スペイ
ン6.0、オーストラリア7.0、イギリス7.2、アメリカ8.4、ナイジェリア9.7、中国12.2、マレーシア
12.4、南アフリカ17.9、である(ibid., UNDP, Report 2007-2008, pp. 281-4 を参照せよ)。
148 9,370 ドル対9,852 ドル(World Bank, Report 2009, pp. 352-3)。
149 北朝鮮が思いつく。そして、1960 年頃の中国、1930 年頃のソビエト連邦もそうである。しかし、
このような事例であってもサブ.サブ・ブラジルほど極度な所得不平等を見せてはいない。
150 この一般的な言明においては、反.普遍主義は、現行のグローバル経済秩序には2 つの最小限
の要求が(結合的に、あるいは、非結合的に)適応される という命題と完全に両立する。このため、
私がそのような反.普遍主義の問題に取り組むのは、そのような問題がこの命題を脅かすからでは
なく、私がここでこの命題を支持するその方法論を脅かすからである。
151 とくに、Miller,“ Justice and Global Inequality,”“National Self-Determination and Global Justice”
および“National Responsibility and International Justice”を見よ。
152 Miller,“Two Ways to Think about Justice,” p. 20
153 Ibid., p. 16.
154 Ibid., p. 6.
155 Ibid., pp. 12-13.
156 「一元論」という用語はMurphy,“Institutions and the Demands of Justice”で導入された。彼
の使用法によれば、一元論は、それぞれに独自の基本的道徳(諸)原理を持つ、多様な価値の文脈
または価値の領域の多元性があることを否定する。それゆえに、一元論的道徳構想の基本的諸原理
はその範囲が文脈的に限定されることはない。にもかかわらず、そのような構想は、その性質とし
て基礎的な道徳諸原理の多元性を持っている可能性があるし、それゆえより一般的な意味で一元的
である必要はない。
157 Ibid., p. 280; Cohen“, Where the Action Is” pp. 22-3.
158 これら理由の精緻化として、Pogge“, On the Site of Distributive Justice”を見よ。彼自身の〔過
大要求〕回避の方法との整合性から、ロールズはおそらくもっと弱い主張をすること──すなわ
ち、基本構造に適した道徳諸原理は他の文脈には適さないかもしれないという点、あるいは一般的
に、異なる「価値の領域」には異なる道徳諸原理が適するかもしれないという点を明らかにするこ
と──の方を好むだろう。Rawls, Political Liberalism, pp. 169-71 における「重なり合うコンセンサ
スのモデルケース」に関する議論で彼が採用している周到な定式化を見よ。
159 Rawls, The Law of People, pp. 116-18。この主張は、集団の自律性に訴えかけることによって不
平等を正当化するという戦略の例証である。
160 Pogge, Realizing Rawls, pp. 252-3 を見よ。また“An Egalitarian Law of Peoples,” pp. 211-13 お
よび“Do Rawls's Two Theories of Justice Fit Together?”を参照のこと。
161 Rawls, A Theory of Justice, pp. 401, 7.
162 Ibid., pp. 90-1.
163 自らの同胞市民に関してロールズは以下のように書いている。「最も適切な政治的構想について
市民たちが様々な見解を持つことは不可避であるし、それは往々にして望ましいことでもある。と
いうのも、公共的な政治文化には、様々な方法で展開させることのできる様々な基礎的理念が内包
されざるをえないからだ。時間の経過とともにそれら基礎的理念の間で秩序ある論戦が展開される
のであれば、それは、どの理念が──もしあるとしたら──最も理に適った理念であるのかを発見
するための信頼に足る1 つの方法なのである」(Rawls, Political Liberalism, p. 227)。また、pp. 164
と241 を見よ。
164 Rawls, The Law of Peoples, pp. 67-8.
165 Ibid., p. 37.
166 ロールズの説明に対するこの反論はPogge, “Rawls on International Justice”でもっと詳細にな
されている。
167 特別な紐帯への訴えかけについては注124 の本文を、集団の自律性への訴えかけについては注
159 の本文を、文化的多様性への訴えかけについてはロールズの「まともな人民」に関する議論を
見よ。この最後の訴えかけには2 つの変種がある。文化的多様性は、我々の道徳的基準に対する我
ら同様のコミットメントを共有していない外国人を扱うに際しては、我々はそれらの道徳的基準を
停止させてもよいということを正当化するために挙げられることがある(Pogge, Realizing Rawls,
pp. 269-70 を見よ)。しかし、このコミットメントを共有していない同国人を扱うに際して、同じよ
うにこれらの基準を我々が停止してはいけないのは、なぜなのか? 文化的多様性はまた、国外の
非リベラルな諸文化〔の存在〕を所与とするならば、公正性〔fairness〕や機会平等といったリベ
ラルな諸観念の観点でグローバル経済秩序を改革しなくても許される、と主張するためにも挙げら
れる。だが、なぜ我々は、米国内に非リベラルな文化が存在するにもかかわらず、国内経済秩序に
おいてはそれらリベラルな諸観念を実現することが許されるのか?
168 ロールズが提示したのはこのような見解のひとつであり、国家間不平等の原因は純粋に国内的
なものであることを示唆している。「ある人民に富をもたらす要因、およびその富の形態は、その
国の成員の勤勉さや協働の才能〔cooperative talent〕、その成員の政治的徳性によって支えられる
あらゆる事柄にかかっていることはいうまでもなく、その国の政治文化に、そして、その政治的
および社会的な諸制度の基本構造を支える宗教的・哲学的・道徳的伝統にも、かかっている……
また、その国の人口政策も決定的である」(Rawls, The Law of Peoples, p. 108)。もしある社会が貧
しくなりたくないなら、その社会は人口成長を抑制するか、あるいは工業化すればよい(ibid., pp.
117-118)。また、いずれにせよ、「それが満たせない場合は貯蓄を増やし続ければよいし、あるいは
それが実行不可能であるようなら、国際社会〔the Society of Peoples〕にいる他の成員から資金を
借りればよいのだ」(ibid., p. 114)。適切な文化と政治があれば、日本のように資源に乏しい国でさ
えも大きな成功を収めることができる。他方で、不適切な文化と政治があると、アルゼンチンのよ
うな資源が豊かな国でさえも非常に貧しくなるかもしれない(ibid., p. 108)。あらゆる人民が──
北極のエスキモーをおそらく唯一の例外として──自らの運命の主人である(ibid., p. 108 n. 34)。
169 歴史や文化に立ち戻る多くのナショナリスト的説明の精神は、以下にあるウォルツァー〔Michael
Walzer〕の短評に見られる。「ある政治的共同体が権威主義的体制を創りだしてしまうのは、何ら
かの集合的機能錯乱や根源的な無能さの印というわけではない。実際のところ、当該共同体の歴
史・文化・宗教が権威主義的な体制を──現にそうなっているように──必然的にできせしめるよ
うなものである可能性があるのであって、そこで広く共有されている世界観や生のあり方を反映
している(Walzer,“ The Moral Standing of States,” pp. 224-5)。詳細な説明は、Lades, The Wealth
and Poverty of Nations に、また、Harrison and Huntington, Culture Matters の諸論稿に、示され
ている。社会の自然環境に立ち戻るナショナリスト的説明としてはDiamond, Guns, Germs, and
Steel がその例である。
170 これら以外の諸側面は──重要性は劣るものの──もっとあからさまなものであり、おそらく
それが理由で、現在批判に晒されている。あからさまな側面の1 つが──最近ではアウグスト・ピ
ノチュト将軍が発動させた──外交官免責特権で、これは他国での刑事訴追から政府高官が犯し
た犯罪をかばうものである。もう1 つが企業による外国公務員の買収であり、これは大部分の先
進国が最近までは許容も奨励もしてきたのである(注243 を見よ)。先進諸国はまた、自国への投
資を目的とした外国公務員からの違法資金を誘致するよう自国の銀行を促している。マルコス、ス
ハルト、サニ・アバチャ、モブツ・セセ・セコのような支配者が西側の銀行からの助けによって盗
みおおせた信じられないほどの金額さえも氷山の一角にすぎない。先進国の銀行は、毎年約5,000
億ドルから8,000 億ドルを貧しい国々から腐敗したファンドに流し込むのに関与しているとされる。
Baker, Capitalism's Achilles Heel を見よ。
171 5. 3 節の第2 段落を見よ。
172 Hohfeld, Fundamental Legal Conceptions において解明されたように、ある権力〔a power〕は、
最上位の諸自由・請求権・義務といったものの分配を変更するための法的に承認された権威を含ん
でいる。この意味でひとつの権力〔a power〕またはいくつかの権力〔powers〕を持つことは、〔た
んに〕権力(すなわち、物理的強制力および/または強制手段の支配)を持つこととはまったく違
うのである。
173 背景事情については、“Going on down,” The Economist, June 8, 1996, pp. 46-8 を見よ。最新版は
次のように報告している。「石油収入は最も高いレベルで政府に直接支払われる……国家元首が最
高権力とあらゆる現金に対する管理力を持っている。彼は石油以外には、誰にも、何にも、依存し
ていない。利益供与と腐敗とは頂点から下へと広がるのだ」(The Economist, December 12, 1998,
p. 19)。膨大な石油収入にもかかわらず、ナイジェリアの実質1 人当たりGDP は、30 年間でほぼ
変化しなかった──実のところ、1975 年から2005 年を通じて、0.1%だけ下落した(UNDP, Report
2007-8, p. 279)。
174 直近の2008 年では、ナイジェリアは腐敗認識指数で10 点満点の2.7 であり(www.
transpatency.org/news_room/in_focus/2008/cpi_2008_tabl1e)◇、それは181 ヶ国のうち121 番目に位
置する。
175 1975 年から2004 年の期間中、これらの国々が経験した実質一人当たりGDP における長期の年
平均変化率は次のようなものだった。ナイジェリア-0.1%、コンゴ共和国(ザイール).4.9%、ケ
ニア+0.1%、アンゴラ.0.6%、モザンピーク+2.3%、南アフリカ.0.3%、ナミビア .0.1%、ブ
ラジル+0.7%、ベネズエラ.1.0%、サウジアラビア.2.0%、アラブ首長国連邦.2.6%、オーマ
ン+ 2.4%、クウェート .0.5%、バーレーン+1.5%、ブルネイ.1.9% *、イラン.0.2%、インド
ネシア+3.9%、フィリピン+0.4%*( UNDP, Report 2006, pp. 331-4. ただし* はデータ不足のため
に若干短い期間を使用したことを示す)。このように、資源の豊かな途上諸国は、グループとして、
2.2%という高所得OECD 諸国の年平均実質一人当たり成長率を大幅に下回った──中国(+ 8.4
%)とそれ以外の東アジアおよび東南アジア(ibid)における急速な成長のおかげで、後発途上国
全体では〔OECD 諸国平均を〕若干上回っていた(+2.4%)というのに、である。
176 注262 およびその周辺の本文を見よ。
177 クーデター・内乱・圧制といったものは、たんなる資源保有の見込みによって──つまり、た
とえ国際的に妥当な私的所有権を付与する権力は備わっていないとしても──誘発される可能性が
あるので、ここで注記を加えておく。私がジョサイア・オーベルから学んだように、この点はすで
に、Thucydides, The History of the Peloponnesian War, book 1, ch. 2 において的確に述べられている。
178 多くの貧しい国々には、選挙によらない支配者が非生産的目的(ここには、最も典型的なもの
として、国内の抑圧に必要とされる兵器購入が含まれる)のために招いた巨額負債の利払い義務が
重くのしかかっている。例えばナイジェリアでは、アバチャとその前任者たちが数十年間にわたり
石油収入を盗用し浪費しただけなく、300 億ドル──つまりGNPの79%──の国家債務を後世に
残した(UNDP, Report 2000, p. 221)。他の支配者たち、とりわけ資源が豊かな国の支配者たちも、
似たようなかたちで自国の未来を質入れする誘惑に駆られ続けてきた。とりわけ言語道断な事例が
ルワンダであり、大量虐殺を招いたハビャリマナ政権が西側からの武器購入をその目的の一部とし
て起債した国家債務の利払いを強いられている(OAU, Rwanda: The Preventable Genocide, 17.30
節と17.33 節)。負債利払いの負担が過重になると、高所得諸国は臨機応変にある程度の債務免除を
与えるが、それによって、自国の銀行を貸し倒れから保護しているのであり、さらに副次的効果と
して、腐敗した権威主義的支配者たちへの更なる貸し出しを助長してしまっている。
179 第6 章は、とくに国際的な資源特権および借入特権を改革するためのアウトラインを示す一方
で、第7 から第9 章では、適切なグローバル制度改革に関する一般的議論を提供する。
180 よく知られていることだが、シンガー〔Peter Singer〕(“Famine, Affluence and Morality”)は、
自分だけがその浅い池から救出できる溺れた幼児に遭遇した健康な成人の状況とのアナロジーに基
づいて、かなり要求度の高い義務を正当化する彼の議論を構築している。他の論者たちの多くは彼
の先導に追従し、我々が緩和できる苦境に我々は加担してはいないのだ、という暗黙の想定に基づ
いてこの問題を論じている◇1。
◇訳注 ─────────────────────────────────────
1 シンガーの立論はこの義務を積極的義務と解するものであり、ポッゲは、本書を通して、それを
批判している。

第5章

◆注 ──────────────────────────────────────
181 当人の人種およびそのメンバーに対する優先性は、植民地主義、奴隷制、ナチス・ドイツで過
剰となった後には支持されなくなった。だがそれは新たな市民権を獲得する端緒でもあった。つま
り、最近では当人の「エスニシティ」に対するコミットメントに多大な威光が付与されるようにな
っている。なおここで、エスニシティは出自の共通性以上に文化の共通性をも含んでいるので人種
よりも複雑〔な概念〕である。そして、(人種やジェンダーといった)純粋に生物学的な共通の特
性に基づいて優先性を与えることも、問題となっている集団が当該社会において抑圧された少数派
であるならば、妥当であることになっている。(どこに力点を置くかで微妙な分岐がある。例えば、
ある者は黒人が黒人を助けるべきだと言い、別の者は黒人が黒人を助けるべきだと言う。)
182 Raz, Practical Reason and Norms, ch. 1.2.
183 こういった遵守の曲解現象はすべて、現代のバスケットボールやとりわけサッカーがうまく例
示してくれる。
184 彼らはこの見解を遺憾ながらに受け容れているのかもしれない。つまり、「スポーツがこうなっ
てしまったのは不運なことだ。だが、ほかの連中がそのようにしているのを見ているので、我々に
はそのような選択肢を差し控える余裕はないのだ」というわけである。本書5. 1 節の終わりに「カ
モとなる場合の例外」を問題にする段でこのような弁解に関してさらに述べる。
185 彼らの論証が不快なのは、それがアファーマティブ・アクションに対する親としての反対だか
らではないという点に注意せよ。公正競技の場はアファーマティブ・アクションを必要としないま
たは排除しさえする、と市民たちが理性的に信じることはありうる。不快なのは、万人にとって正
しくかつ公正であると彼らが首尾一貫して信じる事柄に彼らの政治的スタンスが依拠しているので
はなく、(自分の子供がそれによって得をしそうな場合にはアファーマティブ・アクションを強く
支持しようとの思考に見られたように)彼らの政治的スタンスが自分の子供たちの利益になると彼
らが考える事柄に依拠しているからだ。つまりこの事例は、その基本的諸ルールを自分向けにつく
ることによって社会的秩序を歪めるという傾向性をわかりやすく示しているのだ。対照的に、先述
の母親の例では、それら諸ルールの運用を台なしにさせることによって社会的秩序が傾けられてい
たのだ。スポーツにおいてと同じく公的生活においては、2 つのことが求められる。すなわち、諸
ルールが公正であること、および、それらが贔屓なく運用されることである。
186 この一般的理想は本当にグローバルになっている。アジア、ラテンアメリカ、(程度は劣るもの
の)アフリカの多数の発展途上国において、知り合いや家族に利益を与えるための政治的権威およ
び権力の濫用が大規模な道徳的反発や憤懣を引き起こしたからである。
187 この限度枠としての人権という解釈を国際的なスキームにおいても受け容れるからといって、
それら限度枠の内容とは何かについての──それに先立つ諸条項で述べられた──「世界人権宣
言」の実体的な構想にまでコミットすることにはならない。
188 海洋担当国務次官補代理〔Deputy Assistant Secretary of State for Oceans〕デイヴィッド・A・
コールソン国連大使〔David A. Colson〕による、アメリカ議会下院・商船漁業委員会・海洋学小委
員会〔Subcommittee on Oceanography of the Merchant Marine and Fisheries Committee of the US
House of Representatives〕に先立って行われた宣誓証言(April 26, 1994)にて。
189 「1982 年12 月10 日の国連海洋法の条項履行のための協定」』〔Agreement Relating to the Implementation
of Part XI of the United Nations Convention on the Law of the Sea of 10 December
1982〕。その2 条1 項によれば、「この協定と第6 部に不整合がある場合、当協定が優先する」。
190 USDS, US Commentary - the 1982 United Nations Convention on the Law of the Sea and the
agreement on implementation of part XI - Law of the Sea Convention, p. 53.「協定は米国およびそ
の他先進各国の第6 部に対する異論を完全に満足させるものだった」(ibid., p. 52)。その異論とは
次のようなものだった。曰く、「それは、先進各国が有する利害に見合った影響力とは合致しない
海底採掘レジーム運営の構造を創出するものだ。それは自由市場の哲学とは相容れない経済諸原理
を内包している。その個々の諸条項は経済および商業政策の見地で数多くの問題を生んだのであり、
それらは米国および他の先進諸国がナショナルな管轄権を超えて海底にアクセスすることを妨げて
きた」(ibid., p. 52)。www.state.gov/www/global/oes/oceans/fs_oceans_los.html を参照せよ。
191 「条約の付属文書V、第5 条の諸条項は適用されない」。「協定」付属文書の§5(2)より。
192 「協定」付属文書の§7(1)は、利益シェアを「その低下が〔海底採掘〕によるものである範
囲内での、鉱物価格およびその鉱物の輸出量の低下によって生じる輸出収入および経済状況への悪
影響に苦しんでいる発展途上国」への「経済支援」に限定している。§8(3)はサイトの探査およ
び開拓のための申請料金を25 万ドルへと半減させるものであるし、§8(2)は年間100 万ドルの
生産料金と、利潤比例の財源拠出を全廃するものである(これらはすべて「国連海洋法条約」の付
属文書Vの第13 条で義務づけられている)。
193 コールソンの宣誓証言(注188)。
194 とくにドイツとイギリスはそのような動きに喜んで同調した。
195 先述の空想上の親たちとのアナロジーで、もし自分がある貧困国の大統領であったなら自分は
間違いなく技術および経済的便益のシェアリングを強く支持していただろうと述べるクリントンは
容易に想像できる。そのような述懐が道徳的に誤りだと考える人はほとんどいない。
196 現行の鉱物価格では、海底採掘がこの後20 年間で商業的に存続可能となるとは考えられない。
197 28 条は我々のグローバルな経済秩序が基本的人権によって課される限度枠を満たすことをも
要求しているのだという見解を説明し擁護するものとして、 Pogge, “Human Rights and Human
Responsibilities”を見よ。第6 .8 章では、グローバル・レベルでの人権の充足が国際的な諸制度
のあり方にいかに依存しているかを示す。
198 この条約の第6 部が発展の最も遅れた国々のためにたちあげるファンドはすべて最終的にはそ
れらの国の腐敗した統治者および官僚のポケットに入ることになるという反論があるかもしれない。
もっと言えば、大部分の「開発援助」もそうである──我々の政治家および官僚は彼らからの支持
を必要とするのであって、貧困層からの支持を必要としているわけではないからだ。だが確かなこ
とは、第三世界の腐敗エリートに金をつぎ込むか、世界的な貧困を無視するか、が採りうる選択の
すべてではないということだ。クリントンは、たちあげられたファンドが効果的な貧困削減に使わ
れることを担保する取り決めを強く迫ればよかったのである。
199 この論証の詳細については第3 章を見よ。
200 この提案は、ある意味では、クリントンのそれよりも妥当である点に注意されたい。公的給付
は税を支払う人々の負担で行われているのだから受給可能であるのは税を払っている人のみである
べきだ、と主張することは可能である。海底資源は誰の負担によって生じたものでもないから、ク
リントンが同様の主張をすることはできない。むろん、それらの資源は採掘会社の負担で採取され
ることだろう。だが、それはたんに、貧困国は採掘された資源の公正なシェアを要求することはで
きないが、元の位置にあった資源の公正なシェアを要求することはできるという点を明らかにする
に過ぎない。それら未開発資源の価値は、当該海底の特定区画の特定の鉱物を採掘する権利をめぐ
って競合する各企業が入札をするオークションを通じて、簡単に決定することができるだろう。
201 Hume, An Enquiry Concerning the Principles of Morals, pp. 25-6( §3, part 1)。極端な弱者を
〔議論から〕除外することの説明──正当化ではなく──を探す文脈において、ヒュームもロール
ズもともに力の大まかな均衡を強調する。Rawls, A Theory of Justice, pp. 109-10 を見よ。
202 1982 年「国連海洋法条約」第6 部のオリジナルはその種のイニシアティブの小幅なものと見な
されるかもしれない。非民主的な政府、膨大な国家債務、貧困諸国内部でのドメスティックな貧困
と不平等といった諸問題の削減に向けたもう少し実体的な改革案を第6 . 8 章で素描している。
203 この大きな食い違いは一般理論の領域にも、もっと具体的ないしは「応用的な」領域にも存在
している。国内に関する理論化の量と国際正義に関するそれと──または、国内のアファーマティ
ブ・アクション立法に対して熱心に行なわれる道徳的精査と、それよりはるかに重大な影響を及ぼ
す世界経済を構造づけているグランド・ルールに向けられる精査と──を比較してみよ。
204 犠牲者がその個人の母親であるとしたら、そのような行いが一般的には道徳的により悪いもの
であることは認めよう。ただしそれは、家族成員への加害を避けることを見知らぬ者への加害を
避けることよりも気に掛けるべきであるからではなく、この危害が非常に重大なものであるから
だ。つまり、その息子はただたんに、もっともな理由なしに物理的苦痛を与えているだけではない
のだ。彼は自分を育ててくれた個人に対する忘恩をさらしてもいるのであり、彼女の愛と信頼、か
つ/ または、それに類するものを深く傷つけているのだ。それと対照的にサム・シェフラーは次の
ように主張する。日常的な道徳原理に従えば、見知らぬ者に対する消極的義務は、仲間や家族成員
に対する消極的義務の場合以上に、積極的義務によって、または、主体にとってのコスト計算によ
って、はるかに容易に棄却されてしまう。Scheffler, Boundaries and Allegiances, pp. 52-3 を見よ。
205 Goodin,“ What is So Special about Our Fellow Countrymen?”リストはpp. 668-9、引用はp. 673
より。
206 それらがどの程度具体化されているべきかについての合意はむろん存在しないので、この2 つ
の但し書きに関する私の定式はわざと曖昧にしてある。それでも、西洋近代の道徳的思考において、
同胞愛〔compatriotism〕のような特別な関係性によって消極的義務を弱めることが妥当とされる
のは、それが私の素描した2 つの但し書きの一般的形式を実体的にしたものを満たす限りにおいて
である、という事実は残るのだ。
207 これが、厳密な、すなわち辞書式のヒエラルキーとして提示されているわけでないことを明確
にしている点はわかってもらえると思う。上位の道徳的理由が下位の道徳的理由に優先されること
が、後者においてより多くの利害が関わっている場合には、ありうるということが一般的に認めら
れている。とはいえ、20 世紀の間断ない殺戮に対して示された公的な反応は、その「交換レート」
が極端な〔までに高い〕ものであることを明らかにしている。国内のある企業でのセクシャル・ハ
ラスメントは国外でのジェノサイド的殺戮よりもはるかに強力な反応を惹き起こす。また、このヒ
エラルキーが道徳的理由の全領野をカバーしていないことも明らかだ。それは悪行を伴わない危害
(例えば、自然災害)から諸個人を守る理由を、他者に便益を与える理由と同じく、排除している。
これらのケースは第三者の悪から他者を守る道徳的理由((2a)-(2z))と同じ扱いであると私は思
うが、ここではこの問題は開かれたものとしておくことで満足しよう。
208 我々の社会が、それゆえ我々が関わっている悪を停止させる試みにおいて、外国人に加えられ
ているより重大な悪を、同胞に加えられている重大でない悪よりも、一般的には、優先せねばな
らない──「一般的には」というのは、そういった決定は我々の〔悪への〕関わり合いの度合いや、
矯正の試みにかかるコストおよび見通しをも考慮に入れねばならないからである。
209 寄付をする人々が、国内の相対的に瑣末な名目〔cause〕またはありがちな名目──当人の同窓
会、地域の公園や美術館、当人の所属する宗教団体──であっても、それを相対的に安く済む発
展途上国での救命活動より重視することはまったく結構なことである、と多くの人が考えるだろう。
ある人が個人的に気に掛ける名目を偏重することは結構なことであるし、それを改善することが当
人の家族にも便益をもたらすような個人の共同体に「恩返し」をするのはよいことなのである。
210 彼らはこう主張してきた。我々が自らの善行をグローバル貧困層に傾注すべきなのは、(2a)-
(2z)のヒエラルキーにおけるある危害の重要性などというものは通常の道徳的思考が想定するほ
どのものではないから、そして/あるいは、グローバル貧困層の位置が当該リストの最底辺であ
るとしても彼らを助けることに伴う費用/便益の比率ははるかに低いからである、と。〔裕福な国
の〕田舎の貧しい子供を1 人サマーキャンプに出席させるのに必要な金額があれば、そのお金を経
口水分補充療法のためにUNICEF に寄付することによって、多くの外国の子供たちの命を救うこ
とができるのだ。そのような主張の代表的な例として、 Singer,“ Famine, Affluence, and Morality”
; Rachels, “Killing and Starving to Death”; Kagan, The Limits of Morality; Unger, Living High
and Letting Die。注目すべき2 つの例外がO’Neill, “Lifeboat Earth”およびNagel, “Poverty and
Food”である。また、 Pogge, Realizing Rawls, pp. 32-6 and 276-80 を見よ。
211 Rawls, A Theory of Justice, p. 98.
212 Ibid., p. 94. そこでは相互援助および相互尊重の自然的義務は積極的なものとして、無罪の者を
傷つけたり危害を加えたりしない自然的義務は消極的なものとしてカテゴリー化される。ロールズ
は自分が積極的/消極的の区分をどのように解釈しているか明確にしていない。これは問題にはな
らない。というのも、私に関心があるのはロールズの帰結するところ──正義の自然的義務には重
要度の低い積極的義務が含まれる──のみだからだ。
213 Ibid., p.99. 同様の記述がpp. 293-4 にある。また、p.216 を見よ。「状況が許すかぎり、我々には
あらゆる不正義を──完全な正義からの乖離の程度によって定義される最も非道な不正義を手始め
として──除去する自然的義務がある」。
214 この損失は、我々の制度的秩序を運営するために利用できる資金が僅かに足りないために生じ
るのかもしれないし、明るみになる非遵守によって相互的な信頼がダメージにさらされるリスクの
方が僅かばかり大きいために生じるのかもしれない。私が前提としているのは、まったくロールズ
に忠実に、正義の義務とは1 つの間人格的な責任のことであり、他の人格に対してのみ負わされる
義務である。
215 ロールズはこの安定性の問題を詳細に論じ、秩序ある社会の市民とは実効的で道徳的にすべて
に優先する正義の感覚〔a sense of justice〕を持つ存在であると見なすことによって、それを解決
しようとした。例としてRawls, Political Liberalism, pp. 141-2. を見よ。問題なのは、遵守したいと
いう市民たちの強い道徳的欲求を、そうすることに弱い道徳的理由しか認めないような彼らの道徳
観念への忠誠から引き出すことができる、と想定している点である。
216 いずれのケースにおいても、より多くのことが問題となっている場合には積極的義務が優るこ
とがありうる(注207 参照)。一般的に言って、そうすることが例えばある人間の生命を救うため
に必要な場合には、約束を破ったり、正義に適う所有権レジームを侵害したり、無実の人間を傷つ
けたりすることが許されるだろう。
217 カントは、そのような法的義務を課すことを次のような命令的命題〔the enforceable
imperative〕に基づかせている。「あなたの意志を自由に用いること〔気まぐれWillkur〕が普遍
的立法に従った各人の自由と両立できるようなかたちで、外形的には振る舞いなさい」。Kant,
Metaphysik der Sitten, in Kants gesammelte Schriften, vol. 6, p. 231.
218 このような主張の筋立てでは現行の正義に適った諸制度のすべてを遵守する消極的義務を正当
化することにはならない。速度制限を超過することや数多くの社会的慣習およびエチケット・ルー
ルを破ることに成功するというのは、他の人々がそれに従うよう制約されていることに依存しては
いないのが普通である。また、ある非遵守的な主体が現行では存在していない正義に適った諸制度
を遵守可能であることを主張できる場合にも、このような主張の筋立ては挫折すると思われる。彼
は、現行の正義に適った秩序の下で取得することを許容されているよりも多くの自由や資源を取
得するが、それは、すべての人が自由に従うことのできるルールを有する、同程度に正義に適った、
しかし現に存在してはいないスキームを遵守して行われるのである。彼の好むスキームを遵守する
ことによっても正義に適う秩序を実現することができるのだとしたら、なぜ彼は我々のスキームを
遵守する消極的義務を持たねばならないのだろう? 私にはここでこの異論に完全な回答を与える
ことはできないが、回答は次のようなことを認識することから始まるはずである。すなわち、他の
人々が遵奉している秩序がどのようなものであるかにかかわらず、彼の選ぶ正義に適った秩序の下
で彼に正当に与えられるであろうものを各人が取得することは一般的に不可能である──のに対し
て、現行の正義に適った制度の下で彼に正当に与えられるものを各人が取得することは可能である
──ということだ。
219 このカント的な戦略は、諸制度を遵守する義務は、その諸制度が正義に適っており、かつ、我々
に適用される(と称している)というたんなる事実から生じうるとする──ロールズの示唆した──
主張を回避する。この主張は、 Simmons, Moral Principles and Political Obligation, pp. 147-56 にお
いて説得力あるかたちで批判されている。消極的な正義の自然的義務をどのように正当化するかに
関する私の大まかな見解は Waldron,“ Special Ties and Natural Duties”によるシモンズへの返答と
近いものである。
220 ここでは、マックス・ウェーバーによって与えられた社会学的な意味で「正統性」を使っている。
多数派の同意が少数派の虐待に対する道徳的な正統性となりえないことは正義の本質である。ナチ
のケースは政府の公務員による危害の例証であるが、政府が不当な危害に対してたんに法律上の制
裁を謳っているだけで、危害を実行した人々を保護し援助している時にも、本質的にまったく同様
の結論が妥当する。それは米国において奴隷制が法的に認められており、奴隷所有者の権利が政府
の公務員──彼らは反抗を押さえ込み、逃亡する奴隷たちを捕まえることに協力していた──によ
って執行されていた時にそうであるのと同じことである。
221 この結論は次のような常識的な信念とも合致する。個人には、黒人や女性をクラブから排除す
るルールに反対する強い理由が、その個人自身がそのクラブのメンバーである限りにおいては、存
在する──たとえ、当のその個人が、ありうる正反対のルールを持っている別のクラブから排除さ
れているとしても、である。
222 スティーブン・スピルバーグの「シンドラーのリスト」で描かれたように、オスカー・シンド
ラーはその犠牲者の一部を保護することによって、ナチス・ドイツの経済に対する自らの貢献を償
ったのである。
223 格差原理は、「社会的および経済的な不平等が……社会の最も不遇なメンバーにとって最も便
益となる」ことを要求する(Rawls, Political Liberalism, p. 6)。グローバルな格差原理はロールズ
自身には拒絶されたが、多くの論者が、ロールズの理論は彼をしてグローバルな格差原理の受容
に至らせると主張してきた。以下を見よ:Scanlon, “Rawls’ Theory of Justice,” p. 202; Barry, The
Liberal Theory of Justice, pp. 128-33; Beitz, Political Theory and International Relations, pp. 149-76;
Pogge, Realizing Rawls, ch. 6.
224 問題となっている不正義が怠慢〔omission〕の性質を持っているように見える場合には、この
想定は疑わしいものとなるだろう。ある人は、配偶者間での暴力を禁止していないまたは実効的に
防止しない法秩序が不正義であることについては同意するかもしれないが、それでもなお、そのよ
うな法的秩序を押しつける人々は女性たちを不当に害しているのだ(ただたんに彼女たちの夫の悪
行から彼女らを保護することに失敗しているのではなく)という点は否定するかもしれない。
225 Locke,“ An Essay Concerning the True Original,” §27 and §33.ロックは一方的専有に対して
さらに2 つの制約を課しているが、我々はここでそれに関心を向ける必要はない。すなわち、個人
が自然資源を所有してよいのは、その自然資源に「当人の労働を混えた」ことによってのみである
(ibid., §27)、または、当人の所有において自然資源が腐敗させられることがまったくない限りに
おいてである(ibid., §31)という制約である。また、一方的な専有の自由およびこの自由に対す
る諸制約がどのようにしてロックの基底的な「自然法」(ibid., §6)から導かれるのかについても、
ひとまず措いておいてよい。
226 ロック的但し書きは多数決ルールに服すことはない──少数者に課される不当な危害は、多数
者がそれらの危害を課したがっているという事実によって正当化されることはありえない(本書
注220 を見よ)。話はむしろまったく逆である。つまり、多数決ルールとは、それ自体、その道徳
的正当性が各人の合理的同意に依存しているような1 つの制度なのである。ロックの主張によれば、
多数決ルールはこの条件を満たしているが、独裁制はそうでないのだ(ibid., §93, §137; §22, §§
90-6 を見よ)。
227 Ibid., §50.
228 Ibid., §36.
229 Ibid., §41.§37 を見よ。
230 他方では、ロックの基底線は別の側面においてはまだ十分に制限的でないという異論もありう
る。つまり、すべての人が自然状態〔の最善の生〕と比較して僅かばかり豊かになる〔gain〕だけ
の社会的諸制度に同意することは、すべての人がもっと豊かになる実行可能なオルタナティブの諸
制度が存在するのであれば、不合理であるだろうからだ。ロックはこの点を見落としている。
231 Ibid., §73, §121.
232 だが、 Rawls, A Theory of Justice, p. 145 を見よ。そこでは「奴隷所有者の一般的なかたちの論
証は正しい」という驚くべき主張がなされている。
233 ブラジルは適切な比較を提供してくれる。というのも、その購買力平価での1 人当たり国民総
所得は世界平均のそれに近いし(World Bank, Report 2007, pp. 288- 9)、最貧五分位階層の相対的
地位の極端な低さ(その1 人当たり所得は国家平均所得の13%である。ibid., p. 292)と、それによ
る高い貧困率(21.2%。ibid., p. 290)とが特徴である。それでも、グローバルな所得格差は、言う
までもなく、それよりはるかに甚大である(注236)。
234 ときおり言われるのは、そういった貧困は回避可能ではない、とか、大きな格差は急速な経済
成長の対価であり、経済成長が時間を経て、すべての人に便益を与える、とかいったことだ。だが、
我々が手にするデータはまったく異なるストーリーを物語る。(多くはラテンアメリカとアフリカ
にある)格差の大きい貧困な国々は、コンスタントに、1 人当たりGDP におけるとても低い成長
を──または後退さえ──示してきた。これは驚くべきことではない。不平等が非常に大きくなる
とき、貧困層に生まれる人々は栄養・医療・教育の不足に苦しみ、彼らのその後の生産性を毀損し
重要なポジションをめぐる実質的な競争を妨げてしまうような不利性を被るのである。多かれ少な
かれ〔貧しい人々の〕不戦敗によって、そういったポジションは富裕層に生まれた諸個人のものと
なり、そのため、もっと開かれた競争があった場合よりも乏しい才能や努力しか引き出されなくな
るのだ。
235 ロールズは──仮に、彼の理論はブラジルの社会秩序にも完全に適用可能であると言われたと
して──例外であろう。彼はブラジルのエリートたちに、より正義に適うアレンジメントを目指す
たんなる積極的義務を課すだけである。
236 グローバルな所得分配はどの程度不平等なのだろう? ラフな見積もりがある。2005 年に世
界人口の最貧5 分の1 階層が年間消費支出で最高値を達成したが、それは2005 年購買力平価
で442.68 ドルだった。また、彼らの平均年間消費支出は2005 年購買力平価で313.10 ドルだった
(iresearch.worldbank.org/PovcalNet/jsp/index.jsp, November 15, 2009)。市場の為替レートにお
いて、これは2005 年の約125 ドルである。2004 年の世界人口は65 億1,200 万であり、最貧5 分
の1 階層にあたる12 億8,800 万の消費支出は約1,163 億ドルだった。その年の総家計支出〔Total
household expenditure〕は26 兆3,870 億ドルだった(World Bank, International Camparison
Program 2005)。つまり、最貧5 分の1 階層は世界の民間消費支出の約0.62%を占めるにすぎない。
最貧5 分の1 階層における1 人当たり消費は、全体で見た1 人当たり消費の3.1%である。購買力
平価で計算すると(ただし、注23 および注140 を見よ)、2005 年の最貧5 分の1 階層の消費を約
2.5 倍高く(4,080 億ドル)、総家計支出は約19%高く、約32 兆4,740 億ドルと見積もることになる
(cf. World Bank, Report 2007, p. 289)。このように、購買力平価で見ると最貧5 分の1 階層は世界
全体の民間消費支出の約1.26%となり、1 人当たり消費は全体で見た1 人当たり消費の 6.3%だった。
237 遺伝的要因と環境的要因の重要性に関する議論においても同様の論点が中心となっている。な
んらかの母集団においてある特質(例えばIQ や身長)について観察される分散〔variation〕を説
明するのにはさして重要でない諸要因が、その同じ母集団におけるその特質の全体的な水準(頻
度)を説明するには非常に重要であるかもしれない。ある地方において成人女性の身長に観察され
る分散(54 インチから60 インチ)がほとんど完全に遺伝性の要因によるものであるとしよう。そ
れでもなお、この女性たちの間での身長の違いは、もし彼女たちが成長する過程で食料が希少であ
り男の子が女の子よりも優遇されるといったことがなかった場合に彼女たちの身長がどれだけ高く
なっていたか(67 インチから74 インチ)と比較すれば、小幅なものにすぎないということが、十
分にありえるのだ。または、遺伝的情報に基づいて、誰が癌に罹り誰がそうでないかをかなり正確
に予測することが可能であるとしよう。それは全体的な癌の発生率が人類の遺伝子プールによって
決定されることを証明するものではない。というのも、より健康な環境にあれば癌はほとんど発症
しないということがやはり十分にありうるからだ。
238 本書4. 9 節の国際的な資源特権および借入れ特権に関する私の分析で示したように、この点は
しばしば見逃されている。例えばロールズは、典型的な貧困国の人権問題をローカルな要因のみに
帰してしまう。「問題は、共通して、公共的な政治文化の性質およびその諸制度の前提となってい
る宗教的・哲学的な伝統である。貧しい社会における甚大な社会的害悪とは、多くの場合、抑圧的
な政府と腐敗したエリートである」(Rawls, “The Law of Peoples,” p. 77)。この皮相的な説明は誤
りというより不完全である。ロールズは問わなかったが、これらの国のうちそれほど多くが抑圧的
な政府と腐敗したエリートを持っているのはなぜかを問うたならば、すぐにグローバルな諸要因─
─私が出した2 つの事例で論じたような諸要因──に思い当たらざるをえない。ローカル・エリー
トたちが抑圧的で腐敗していられるのは、外国の貸付や軍事援助によって、たとえ人民の支持がな
くとも彼らが政権に留まっていられるからである。そして、彼らがそこまで頻繁に抑圧的かつ腐敗
的となるのは、現行の極端な国家間格差においては、自らの貧しい同胞たちの利益ではなく外国政
府・企業の利益に奉仕することの方が彼らにとってはるかに儲けになるからなのだ。事例は枚挙に
暇がない。貧しい国々では、外国の支持のおかげだけで政権に就いた、そして/あるいは、政権
に留まっているような政府がいくらでもある。そして、外国人によって生み出され、買収までされ、
その人民の利益に反する仕事をしている政治家や官僚がいくらでもいるのだ。例えば、観光客に都
合の良い風俗産業の発展(それによって強いられる児童や女性の搾取を彼らは容認し、そこから利
益を得る)を促進する、公的支出での不要な・目的のはっきりしない・値段の吊り上げられた製品
の輸入を促進する、有害な製品・廃棄物・生産設備の輸入許可を促進する、被用者ないし環境を保
護する立法に反対する、といった政治家・幕僚たちである。貧しい国々での腐敗と抑圧をロールズ
が嘆くのはもっともなことだが、国際格差の大幅な縮減なくしてそれが解消されると信じるのは完
全に非現実的である。
239 Ibid., p. 56.
240 Ibid., p. 77.
241 例えば、Amnesty International, Human Rights and U.S. Security Assistance を見よ。
242 このような提案は本書6. 4 節で詳述する。
243 ウォーターゲート事件後のアメリカ議会は改革のパイオニアとなり、ロッキード社が──第三
世界の小国に小金を渡したのではなく──大国でしかも民主国家である日本の総理大臣・田中角栄
に200 万ドルの賄賂を渡していたことが発覚した後には、1977 年連邦海外腐敗防止法を成立させた。
その他の富裕国が、アメリカやトランスペアレンシー・インターナショナルの圧力を受けてそれに
倣い、「国際商取引における外国公務員に対する贈賄の防止に関する条約」〔通称、1997 年賄賂禁止
条約〕となるまで20 年を要した。この条約は署名国に対して外国公務員の買収を犯罪とするよう
求めている。この条約は1999 年2 月に発効し、以来37 ヶ国によって批准されている(www.oecd.
org/home)。つまり、本文で提案した改革は達成されているのだ。多くの豊かな国々では、いまや
外国公務員に支払われた賄賂は違法であり、税控除できるなどということはない。「だが、巨大な
多国籍企業たちはいまだそれを簡単にすり抜けている」(The Economist, March 2, 2002, pp. 63-5)。
244 注262 およびその周辺の本文を見よ。
245 詳しい提案としては第8 章を参照せよ。
246 そのような改革や保護の努力に我々はどの程度の貢献をすべきなのだろう? 私の考えはこう
だ。すなわち、同じような立場に置かれた他人たちが同程度の貢献をする場合に当該危害を根絶
するのに必要なだけ、である(他人たちが実際にどう貢献するかは関係ない)。そうなると、所得
の高い諸国の各市民たちの所得合計の1%が世界的貧困を2、3 年以内に根絶させるに十分である
としたら(本書4. 3. 2 項参照)、これら豊かな国々の市民たる我々は自らの政府を説き伏せて自ら
の国民所得の1%を寄付させるべきなのである。でなければ、可能であれば自らの所得の1%を個
人で寄付するか、それに等価な何らかの非金銭的貢献をすべきなのである。一定量の危害を一緒
になって根絶しなければならない人々は、他人もその公正な負担の受け持ち分を実行する場合に
は、各々が当該危害を根絶するのに必要なだけを実行しなければならない、という考え方はParfit,
Reasons and Persons, p. 31 (「集合的帰結主義」)において示唆され、Murphy, Moral Demands に
おいて大幅に精緻化された。また、Pogge,“ Severe Poverty as a Violation of Negative Duties,” pp.
60-2 and 67-75 を見よ。
247 Bok“, Acting without Choosing”を見よ。
248 だが、先例のないことではない。独自の考えを持ち、かつ進歩的だった過去の思想家たちの多
くも、我々がこんにち深刻な不正義の典型例と見なすもの(例えば、奴隷制や女性の抑圧)を何ら
悪いとは考えなかった。
◇訳注 ─────────────────────────────────────
1 一般的に消極的義務が積極的義務に優先するとされるのとは逆の優先性。
2 ロールズの社会正義構想においては諸制度が安定性〔stability〕を持つことが必須条件とされてい
る。
3 過酷な環境で労働者を抑圧する工場。

第6章

◆注 ──────────────────────────────────────
249 この簡潔に過ぎる説明を補うためにも、規模の大きな近代の民主政治に関する以下の重要
な研究を挙げておこう。Schumpeter, Capitalism, Socialism, and Democracy; Dahl, Preface to
Democratic Theory; Bobbio, The Future of Democeacy; Lefort, Democracy and Political Theory;
Elster, and Slagstad, eds., Constitutionalism and Democracy; Dahl, Democracy and its Critics;
Beitz, Political Equality; Held, Models of Democracy; Copp et al., eds., The Idea of Democracy;
Rawls, Political Liberalism; Guinier, The Tyranny of the Majority; Habermas, Between Facts and
Norms; Christiano, The Rule of the Many; Gutmann and Thompson, Democracy and Disagreement;
Manin, Principles of Representative Government; Elster, ed., Deliberative Democracy; Rosenblum,
ed., Obligations of Citizenship.
250 この研究は広範にわたり、今もかなり急速に成長している。ここに、また注253 に、わずか
ではあるが代表的な例を列挙しておく。Herz, ed., From Dictatorship to Democracy; Huntington,
The Third Wave; Ackerman, The Future of Liberal Revolution; Linz and Stepan, Problems of
Democratic Transition and Consolidation;, Diamond, Developing Democracy.
251 代表的な例を挙げれば、Wallerstein, The Capitalist World Economy, The Politics of the World
Economy, After Liberalism, The Essential Wallerstein; Falk, The End of World Order; Roberto
Unger, Democracy Realized.
252 この目的については、とくにHoffe, Demokratie im Zeitalter der Globalisierung を参照。
253 このような研究のうち重要なものとして、以下の著作がある。Weschler, A Miracle, a Universe;
Kritz, ed., Transitional Justice; Nino, Radical Evil on Trial; Malamud-Goti, Game without End; Pablo
de Greiff“, Trial and Punishment”; Minow, Between Vengeance and Forgiveness; Crocker“, Reckoning
with Past Wrongs”; Hesse and Post, eds.: Human Rights in Political Transitions; Rotberg and
Tompson, eds., Truth v. Justice; Teitel, Transitional Justice; Hayner, Unspeakable Truths.
254 Parfit, Reasons and Persons, §2 を参照。
255 ibid., §36 を参照せよ。
256 Farer“, The United States as Guarantor” and“A Paradigm of Legitimate Intervention”; Hoffmann,
“Delusions of World Order” and The Ethics and Politics of Humanitarian Intervention.
257 例えば民主的正当性をもった政府が非立憲的な手段で権威主義的軍事政権に取って代わられた
場合、その政変が非立憲的であると判断しようとしない政府もあるかもしれない。なぜなら、それ
らの政府は新しい政権を「以前より友好的」と見なし、権力の座につかせようとその政変に一役買
うことさえあるからだ。また自らより強力な国家の圧力に晒され、非立憲的であるとの判断を差し
控える政府もあるだろう。彼らがその圧力に抵抗することは難しい。抵抗すれば自らの利益に悪影
響を及ぼすだろうと考えるからだ。
258 民主制パネルが非立憲的であると公式に裁定することで、支配者は大いに弱体化するだろう。
このことで彼の評判と支持率は対内的にも対外的にも土台から崩れ、それにより、借入れ特権(お
そらく資源特権──本書6. 4 節を参照──も)だけでなく、多くの国際外交、財政、金融、貿易協
定における通常の利益までも享受できなくなる。
259 対処法の1 つは、その政府が自らの債務の見返り担保として将来の資源輸出を持ちかけること
である。その場合、潜在的な権威主義後任者がその債務を逃れるにはそれら資源輸出を完全に停止
するしかない。
260 こうしたことが起こりうる証拠として、1997 年のOECD の「国際商取引における外国公務員
に対する贈賄の防止に関する条約〔Convention on Combating Bribery of Foreign Public Officials
in International Business Transactions〕」を想起されたい。この条約は、(1977 年以降の米国を除
く)ほとんどの先進国が国内の企業に外国の公務員を買収することや、そのような課税対象収入か
ら出された賄賂を控除することさえ許していた長年にわたる慣習を終わらせた。トランスペアレン
シー・インターナショナルが生み出し拡大した公的な圧力は、この条約に勢いをつける決定的な役
割を果たし、条約は望ましい前例を創った(注243 参照)。ただし、贈収賄の抑制は先進国とその
企業の集合的な自己利益に沿うと思われるのに対して、民主制パネルと民主制基金はそうではない
ことは見逃してはならない。
261 この名称は、1959 年の天然ガスの膨大な埋蔵量の発見に始まるオランダ史のある時期をほのめ
かしたものだ。この発見は1970 年代までに年間約50 億から60 億ドルもの歳入と輸入の節約を生み
出した。これほどの予期せぬ収穫(「オイルショック」によるエネルギー価格の上昇にも後押しされ
た)があったにもかかわらず、オランダ経済は不況、高失業率、最終的には景気後退にも悩まされ
た。同じような他の国と比べても1970 年代から80 年代初期のオランダは相当ひどいものだった。
262 Lam and Wantchekon“, Dictatorship as a Political Dutch Disease,” pp.35-6. 後の論文でWantchekon
は、「GDP に対する主要な輸出額の割合から算出される資源依存率が1%上昇するごとに、権威主
義体制の発生率は8%近く上昇する」ことを示すデータを発表している(Wantchekon, “Why Do
Resource Dependent Countries Have Authoritarian Government?” p.2)。これによく似た発見はRoss,
“Does Resource Wealth Cause Authoritarian Rule?”にある。Collier and Hoeffler, “On Economic
Causes of Civil War”、および、オランダ病についての所期の研究としてSuchsand Warner“, Natural
Reources Abundance and Economic Growth”も参照のこと。
263 国外の公的不動産の価格が巨額になることはめったにないので、そのような公的財産は無視す
る。いずれにせよ、それらがもたらすのは動産によってもたらされるのと似たような問題である。
264 天然資源はもはや世界経済において重要な位置を占めてはいないという話を耳にするたび、私
たちはこれを想起せねばならない。なぜこれが真であるかが(ドル建ての資源販売額とドル換算し
た世界総収入や国際貿易総額を関連させながら)理解できるなら、それはより深い意味では偽で
あることも理解できるだろう。天然資源がさほど重要でなくなるのは時価ベクトルを基準とした
〔modulo current price vectors〕場合のみである。時価ベクトルは国際的な資源特権に大きく影響
されるし、それが生み出す世界規模での極端な所得格差にもしばしば影響を受ける。(ケネス・ア
ロー〔Kenneth Arrow〕が誠実にも指摘したのは、一部の天然資源の消費は家計所得と大まかに線
形関係となるので、総需要は所得格差の分散にはそれほど左右されないということだった。)そこ
で、裕福な国が天然資源の輸入に費やす額が国民所得のうちで僅かであるとしても、それはその国
の経済的繁栄がそうした資源にどの程度依存しているかを表すものではない──これは私の所得の
うち水を買うのに費やす割合が、私の水に対する依存度を反映しないのと同じことである。もし消
耗天然資源を、現在及び将来を含めた全人類にとっての使用価値によって適切に評価するとしたら、
現行市場価格では大幅に過小評価されていると判断せねばならない。この過小評価はある負の外部
性を反映しているのだが、その外部性は、資源に富んだ途上諸国の腐敗エリート層と資源の大量消
費者たちが一緒になって、途上諸国の住民ならびに将来世代──おそらく彼らにとってそれら資源
はより希少になり高価になるだろう──に押しつけようとしているものなのだ。
265 このように考えることは、グローバル不平等に関する広い意味での標準的マルクス主義の説明
が現実の世界ではいかに不適切となったかを物語っている。ハイテク生産の恩恵を受けて、先進
国世界の会社は、貧しい人々の安価な労働力にほとんど頼らなくてもよくなっている(ただそれ
を行っていないわけでも、それで儲けていないわけでもない)。世界中の購買力が高所得諸国に圧
倒的に集中しているおかげで、先進国の企業は、自社の製品やサービス、融資のために途上国の
市場を開かなくてもやっていけるようになっている(とはいえ、そういった会社やその国の政府
は、途上国からの「不当なほど安い」輸入品から自国の市場を守りながら、途上国の「門戸開放
〔penetration〕」を目指して必死に働きかけをしているのだ)。先進国の途上国に対する依存は天然
資源に移行しており、何をおいても原油である。この傾向は、先進国の人々の関心の変化を生み出
している。つまり先進国は、途上国の人々が労働力を再生産するに足るほど健康でいることや自国
の製品を買えるほど裕福であることに無関心でいられるようになっている。彼ら途上国労働者の数
が減り貧しくなればなるほど、彼らの資源を外国が買収することに干渉しなくなるだろう。
266 先進国は第3 のいかがわしい利権〔a third dubious benefit〕としてもっと利益の上がるビジネ
スチャンスも手にしている。権威主義的支配者──これは国際的な資源特権によってより頻繁に発
生する ──は資源売却権からの収益を裕福な国にキックバックすることが多い。マージンの高い
兵器・軍事顧問や超高級品、不動産、金融投資への支払いにあてるためである。これに対し、民主
的に応答性の高い〔世論の動向を気にする〕供給側政府であれば、資源から得た歳入の大部分を
(自国の経済を刺激するために)国内で消費する傾向があるし、輸入品の支出についても、もっと
有意義な買い物をする傾向がある。
◇訳注 ─────────────────────────────────────
1 第1 は直接的な支持/反発といった反応についての考慮であり、第2 は国内の誘因効果に関する
考慮であり、第3 は周辺諸国への誘因効果に関する考慮。

第7章

◆注 ──────────────────────────────────────
267 これら2 つの概念間の相違はここでの議論にとって本質的なものではない。
268 未来の、または過去の(死んで間もない)人々の利益にどの程度重きを置くべきかについて議
論はある。しかしそれはコスモポリタニズムとその代案との間での議論とは交わらないので、ひと
まず措く。
269 単一の世界国家を求める議論はNielsen,“ World Government, Security, and Global Justice”にお
いて促進された。また、Hoffe, Demokratie im Zeitalter der Globalisierung を参照せよ。これはも
っと控えめな政治改革を論じている。
270 私はここではミニマルな人権構想を念頭においている。それは、本当に深刻な虐待や剥奪、不
平等を排除しつつも、広範な政治的・道徳的・宗教的な文化と並存しうるものである。近年見られ
る政府および非政府の国際的組織の発展とその内部での進歩は、我々の世界において、そのような
構想が広く世界で認められる合意の目標となりうるのだという希望を支えるものであると思う。第
1章およびPogge“, Human Rights and Human Responsibilities”を見よ。
271 相互行為的コスモポリタニズムは数多く文献で擁護されてきた。ひとつの典型的な物言いがル
ーバンのエッセイ“Just War and Human Rights,” p. 209 で示されている。「人権とは、したがっ
て、その受益者はすべての人間であり、その債務者は当該権利に影響を与える立場にいるすべての
人間であるような権利である」。内容としては同じような道徳的立場がSinger, “Famine, Affluence,
and Morality”; Rachels, “Killing and Starving to Death”; Kagan, The Limits of Morality; Peter
Unger, Living High and Letting Die などで展開されている。Nozick の Anarchy, State, and Utopia
もまた──彼が権利を不可欠なものとして選び出すことが驚きではあるが──相互行為的コスモ
ポリタニズムの一例である。制度的コスモポリタニズムについては、O’Neill, “Lifeboat Earth”
; Nagel, “Poverty and Food”; Beitz, Political Theory and International Relations, part 3; Beitz,
“Cosmopolitan Ideals and National Sentiment”; Pogge, Realizing Rawls, part 3 を見よ。大きな反
響をよんだシューの著作Basic Rights は上記2 つの道徳的コスモポリタニズムの間で揺れているよ
うに思える。剥奪されている人を保護し援助する我々の義務の重さは、我々が(それを生み出す社
会制度を彼らに押しつけることによって)その剥奪に加担しているのかしていないのかによって変
わるとシューが考えているのか、はっきりしない。注98 を比較参照のこと。
272 これをしたのは、例えばロールズである。彼は、正義に適う社会制度を支持する自然的義務と
並んで、共通の社会制度を前提としないような他の自然的義務についても力説している。例えば、
傷害や虐待を避ける義務、相互援助をする義務、その時点では存在しない状況において正義に適う
社会制度を導入する義務、などである。Rawls, A Theory of Justice, pp. 98-9 and 293-4 を見よ。
273 これら2 つの制限は、我々には包括的な制度秩序を創出する義務があるとする信念と両立す
る。例えばカントは、互いに影響を与えることを避けえないあらゆる個人および集団は法状態〔a
juridical condition〕に入るべきであると信じていた。Kant’s Political Writings, pp. 73, 98 n., 137
(Kants Gesammelte Schriften, vol. 8, pp. 289 and 349n.; vol. 6, p. 312)を見よ。
274 社会制度によって創り出された効果とそこから派生した効果との区別は、その道徳的重要性の
問題とならんで、Pogge, Realizing Rawls, §§2-4 で詳細に論じられている。純粋に受け手志向の
評価モード(ロールズの原初状態にみられるような)を拒絶したのは、より最近の論文“Three
Problems”および“Equal Liberty for All?”である。
275 この見解は確率的に決着がつけられ、おそらく多様な個人的特徴が考慮されることになる。例
えば、身体的安全への人権は、今日の米国において、中年の白人や郊外居住者については達成され
ているが、黒人の若者やインナーシティ居住者についてはそうでないというのはかなり妥当だろう。
276 この虚偽に満ちた不用意発言にみられる説明手法は社会理論家や哲学者たちの間で一般的なも
のである。これについては本書4. 8 節、4. 9 節、5. 3 節でより完全な批判をしている。
277 Walzer, Spheres of Justice, p. 31.
278 Nozick, Anarchy, State, and Utopia, p. 149.
279 第2章およびPogge“, Human Rights and Human Responsibilities”を見よ。
280 これが意味するのは、B に対するA の権力行使に関する指令を与える権威を有する監督者がA
にはいないということである。この意味での監督されない権威は司法審査とは両立する。
281 私が絶対的主権性を定義したようなかたちで〔つまり、一者的な断定として〕主権性を定義す
ることは十分可能であるが、歴史的正当性がなければ不可能である。そのように定義された場合、
主権性は分割されると存続できない(海外にいるとき、B は主権者を欠いていると考えられるだろ
う)し、「主権性の分配」という表現は撞着語となるだろう。
282 EU の中心的な諸機関はこの一般的説明の例外である。より詳しい議論としては、Pogge,
“Creating Supra-National Institutions Democratically”を見よ。
283 これには──そんなものが存在せねばならないのだとしたら──パトリオティズムの感情も
含まれる。ベイツ〔Charles Beitz〕は政治単位に対するパトリオット的忠誠が望ましいものとな
りうる2 つの側面を指摘している。それはある種の分割された忠誠心を支持する(“Cosmopolitan
Ideals and National Sentiment,” p. 599)。また、それは、個人が自らをある共通の文化的プロジェク
トに対する貢献者であると見なすことを許容する。「我々が、自分自身のことを、自らの人生にお
いて様々な形態の個人的卓越を実現するために努力する存在であると見なすことができるのとまっ
たく同じように、我々の国のことを、様々な形態の社会的ないし共同体的卓越のために努力する存
在であると見なすことができる」(ibid., p. 600)。これらの考察はいずれも、例えば英国が──グラ
スゴウ、スコットランド、イギリス、ヨーロッパ、人類といったものの何らかの組み合わせではな
く、また、英国国教会、世界労働組合運動、PEN〔国際ペンクラブ〕、アムネスティ・インターナ
ショナル、といった地理的に分散した単位でもなく──パトリオット的忠誠心の唯一の対象である
はずだという結論を導くものではない。
284 むろん、多くの個人がその国籍に、それ以外のものより自己同一化するだろう。しかし、多層
化された秩序においては、そのような傑出した自己同一化はそれほど頻繁ではなくなるし、これは
より重要なことなのだが、1 つに収斂することもなくなる。例えば、グラスゴウ住民の一部が自分
たちをまずもってイギリス人であると見なすとしても、他の人々は、ヨーロッパに対して、スコッ
トランドに対して、グラスゴウに対して、人類全体に対して、より強く自己同一化するだろう。
285 この──トマス・アクィナス、ダンテ・アリギエリ、パドゥアのマルシリウス、ジャン・
ボダンによって予示されていた──ドグマは、ホッブズが『リヴァイアサン』の14、26、29 章
で最も完全なかたちで述べた。彼はまた、obligations in foro interno というアイデアも導入し
た。これに関するカントの記述については、Kant’s Political Writings, pp. 75, 81, 144-5 (Kants
gesammelte Schriften, vol. 8, pp. 291-2 and 299; vol. 6, p. 319)を見よ。このドグマは20 世紀に入っ
ても支配力を保持したが、オースティン主義の法学構想とともに凋落した。Austin, The Province
of Jurisprudence Determined; Marshall, Parliamentary Sovereignty and the Commonwealth, part
1; Benn and Peters, Social Principles and the Democratic State, chs 3 and 12; Hart, The Concept of
Law を見よ。
286 Walzer, Spheres of Justice, p. 39.
287 Ibid.
288 Ibid., pp. 38-9.
289 Ibid., p. 39.
290 Ibid.
291 Ibid., pp. 38-9.
292 4. 3. 1 項を見よ。
293 そのような改革の1 つが第8 章で提案されている。また、Beitz, Political Theory, pp. 136-43、お
よび Barry“, Humanity and Justice in Global Perspective”を見よ。
294 「法的強制力を伴うかたちで〔legitimately〕」という条件は次のような要求を排除するために必
要となる。「私には世界のあらゆる場所における同性愛承認に関する投票が認められるべきである。
どこにおいてであれ同性愛立法が実行されているという知識は私にひどい苦悩を引き起こさせるの
だから」。ここではこの条件づけの議論に立ち入ることはできないが、その条件の具体化に関連す
る議論は概してミル〔John Stuart Mill〕の無危害原理の具体化に関連する標準的な議論と類比的で
あるとだけ言っておこう。「誰であれそのメンバーの行為の自由に──個人的に、ないし集合的に─
─干渉する際に人類に与えられる唯一の目的とは、自身の保護である」(Mill, On Liberty, p. 9)。
295 私は、機会というものを、発話障害のような(自然の)ハンディキャップによってではなく、
参政権からの排除といった(社会的な)不利益〔disadvantages〕によってのみ毀損されるものと
して理解している。これが妥当であるのは、「ハンディキャップ」を狭く解釈するかぎりにおいて
である。つまり、関連する社会的要因だけのために自然の要因がある個人の機会を減少させるので
あれば、その個人は、ハンディキャップではなく、不利益を負わされていると見なされる。例えば、
黒人であることや女性であることは遺伝的特性であるが、それらがある個人の政治的決定に影響を
与えるチャンスを減少させるのは、特定の社会的背景において──人種差別主義/性差別主義の文
化において──のみである。このとき、黒人および女性は、その人種やジェンダーによってハンデ
ィキャップを負わされているというよりは、そのような背景によって不利益を負わされていると見
なされる。対照的に、知能の低さのせいで公的討議に参加する能力が劣るような人々は不利益を負
わされているのではなくハンディキャップを負わされている。彼らが適切な教育へのアクセスを得
られていたのだとしたら、彼らは平等以下の機会しかもてなかったと見なされることはない。
296 ここで規定されたような人権は集団の権利ではない。むろん、ある町の住民が、例えば政府が
彼らだけに影響のある何らかの政治的決定を押しつけたのは間違いであったということを示すため
に、この権利に訴えるということはあるだろう。そのようなケースでは、当該の町の住民は不平を
持った人々の集団を形成することになる。だが、彼らは一集団として不平を持つわけではない。む
しろ、彼ら各人が、その集団自身にしかるべき政治的影響力が与えられなかったという不平を──
その決定がその集団を排除した町の人々によってなされていた場合にその集団が持ったであろう不
平と同じように──持つのである。
297 ここ数十年、この考えは補完性という標語のもとヨーロッパで最もよく論じられてきた。
298 以下の点については、Hoffe, Demokratie im Zeitalter der Globalisierung を見よ。
299 海底資源の使用に関するルールの展開についての例証として本書5. 1 を見よ。
300 この主張は、国家レベルの自己決定を護持するために超国家的な民主的プロセスとは縁を切ら
ねばならないというコミュニタリアンの主張に逆らうものである。たしかに、そのような絶縁は先
進国の恵まれた人々が持つ国家レベルの自律性を強化するだろう。だが、自律性における彼らのゲ
インは、自らの生を形成する最も基本的なパラメーターに対するコントロールを──彼らが法的に
独立しているにもかかわらず──まったく持っていない貧しい人々の犠牲のうえに、もたらされる。
実際のところ、彼らの多くは国際的には無力な自分たちの政府に対してさえ影響を及ぼすことがで
きないのである。それらの政府は、往々にして、その構成員に対して奉仕するよりも外国の利益に
奉仕することの方に、はるかに強いインセンティブを持つ。
301 隣接という条件はある程度の緩和が必要であるが、それは、互いへのアクセスを他の政治単位
によってコントロールされることのない内的に隣接した少数のエリアからなる領域があってもよい
からである。米国は、プエルト・リコ、アラスカ、ハワイ、および残り48 の隣接諸州の間でアク
セスを保証しているので、この緩和された条件を満たすだろう。
302 「理に適った形状」について細かく言うつもりはない。その理念は、境界線が(そのエリアの面
積に比して)極端に長い領域や、分断都市、統合された経済活動ネットワークなどを排除すること
にある。おそらく、新たに統合するエリアは一定の最小住民数を持っているべきだろうが、その最
低限はかなり低いと私は考えている。州境の小さな村が近隣の州に所属することを望んだ場合、州
の乗り換えが許されるべきでないのはなぜなのだろう?
303 クロアチアのセルビア人のように、マイノリティ集団が地理的に分散しているとしたらどうだ
ろう? そのようなケースでは、新たな政治単位の形成に反対している人々をなだめる魅力的な方
法は存在しない。本文で提案された2 番目の原理により、問題となっている領域内の多数派の選好
がやはり優勢になってしまうのである。私の考えでは、人権が達成されているかぎりこの事態は容
認できる。そのようなケースにおいて、正統な選好が抑圧されて一部の人が間違いなく不満をくす
ぶらせるのであれば、多数派の選好にまかせるのが理に適うと思われる。
304 本書3. 5 節およびBuchanan, Secession, pp. 114-25 を見よ。
305 このトピックはブキャナンが詳細に論じている。彼は現行の国家システムを自明のものとし
て扱い、そのうえで、自らの離脱の理論を現実的にそれに当てはめている。この国家システムか
ら出発するとしても、私は、多層的グローバル秩序が道徳的にもっと魅力的な離脱理論の実行
を可能にするという事実のなかに、多層的グローバル秩序を求める理由をまた1 つ見出すのであ
る。この理論が民主的な自己統治の観点で持つ道徳的訴求力に関するより一貫した主張がPhilpott,
“In Defense of Self-Determination”で示されている。また、Christopher Wellman,“A Defense of
Secession”およびBeran, The Consent Theory of Political Obligation による初期の先駆的業績も見
よ。
306 例えば、ヨーロッパ諸国が重要な政府機能をEU のような国際機関や国家の下位に属する政治
単位へと移譲し続ければ、現行のベルギー領土内に存在すべき国家は1 つかそれとも2 つか、とい
う問題に関する対立は──ベルギー国内の2 つの文化集団にとっても、すべての第三者にとっても
──重要でなくなるだろう。
307 言うまでもないが、この例はインド亜大陸の実際の状況を反映したものではない。
308 「国民」や「国籍」の正確な定義はこの議論にとって本質的ではないが、国籍が完全に自由意志
に基づいて定義される(例えば、「国民とは個人の集団であるが、彼らすべてが1 つの政治単位を
構成することを望んでおり、その政治単位では彼らのみがメンバーである」)ことなどない、とい
うのが私の想定である。そのような〔自由意志のみで定義される〕ケースにおいては、(a)は瑣末
なことに過ぎなくなるし、(b)は無意味なものになるだろう。それでも、国籍の定義は相当に自由
意志的な要素を含むことがありうるのであり、それはルナンの提案に見られるとおりである。「国
民とは、個人が過去になした、そしてそれら個人が再びなすことを覚悟している犠牲の感情によ
って構成される偉大な連帯である。それは過去を前提する」(quoted in Barry, “Self-Government
Revisited,” p. 136)。ある程度の自由意志的でない要素が存在するかぎり、あの2 つの主張〔(a)お
よび(b)〕のうちの少なくとも1 つは通用するだろう。1 つの政治単位として一緒になりたいと望
む人々であっても、それなりの連帯と犠牲の歴史を欠いている場合には、それを妨げられることが
ある。
309 Margalit and Raz“, National Self-Determination,” p. 456.
310 とはいえ、この主張が例えば19 世紀の米国の歴史と合致しているのかと問うべきだろう。そ
こで市民権を持つことができた人々は生まれにおいても育ちにおいても非常に違っていたし、自発
的な移民によって同胞市民となったのだった。このような事実によって彼らの享受する連帯や相互
信頼の水準が──その時代の主要なヨーロッパ諸国で享受された水準と比較して──大幅に低下す
るなどと私は思わない。このケースを注意深く研究すれば、人間というものは、特定の憲法やイデ
オロギーの呼びかけに応じるという共通の決定によっても、機会や投機の見こみを追いかけるとい
う共通の決定によっても、一緒になることができるのだという点がおそらくは明らかになるだろ
う。そうであれば、これが示唆するのは、1 つの政治的生を一緒につくりあげるという意志は、選
択によらない共通性がなくても可能であること、連帯や相互信頼にはその意志だけで十分であると
いうことだろう。我々の形成するこの上なく親密な友情というものが、顔の特徴や母語、文化的背
景、宗教的信念といったものにおける共通性がなくてもうまくいくことがどれだけ容易であるかを
見れば、この結論はほとんど驚くに値しない。
311 Margalit and Raz“, National Self-Determination,” pp. 443 and 456.
312 例としてBarry,“Do Countries Have Moral Obligations?”, pp. 27-44 を見よ。
313 ロールズがこれを指摘している。「我々は、その理論的基礎において個人主義的であるような正
義構想によって、社会的諸価値や制度・共同体・結社活動の本有的な善さを説明しようとする。と
くに理論的明晰性を理由として、我々は、社会というものをその全メンバーの生命とは別個で、か
つ、それに優越する独自の生命を持つ、そんな1 つの有機的全体であるとは考えたくはないのだ」
(A Theory of Justice, pp. 233-4)。
314 Walzer, Just and Unjust Wars, p. 53.また、 Walzer“, The Moral Standing of States,” p. 219を見よ。
315 ウォルツァーが示唆しているのはこちらである。「ある主権国家の市民たちは、彼らがそもそも
破壊されたり強制されたりせねばならないとして、市民たちがお互いの間だけで苦しめ合う権利が
ある」(Just and Unjust Wars, p. 86)。
◇訳注 ─────────────────────────────────────
1 ベルリンの壁崩壊を踏まえてのものか。
2 政治単位の政府はその支配を、気乗りしないまま住んでいる同国人/同胞民族の下位集団がいる
地域にまで、拡張してもよい。
3 人権の達成にとっての前進になるか否かによって主権性の垂直的分配の方向性──上向か下向か
──を定めるべし。

第8章

◆注 ──────────────────────────────────────
316 Pogge,“An Egalitarian Law of People,”“Eine globale Rshstoffdividende,” and “A Global
Resource Dividend”.
317 Reichel,“Internationaler Handel”, Kesselring, “Weltarmut und Ressourcen-Zugang”, Crisp and
Jamieson“, Egalitarianism and a Global Resource Tax”.
318 Kreide,“Armut, Gerechtigkeit und Demokratie” and Mandle,“Globalization and Justice”.
319 詳細は4. 3. 1 項を見よ。
320 Nagel“, Poverty and Food”を参照せよ。
321 O’Neill“, Lifeboat Earth”; Nagel“, Poverty and Food”; Pogge, Realizing Rawls, §24において示
唆されている。
322 本書4. 8 節および5. 3 節を見よ。
323 途上国に売られる兵器は圧制を助長し、内戦を煽り、資金をベーシック・ニーズの充足から
逸らしてしまう。2008 年に後進諸国が購入した通常兵器は420 億ドルにもなり、2001.2008 年の
期間では2,440 億ドル(2008 年ドル価値)を超える。最も大きい供給国は、米国(36.3%)、ロシ
ア(25.1%)、フランス(6.3%)、イギリス(10.4%)であり、他の欧州諸国も7.7%、中国が4.1%
を計上している。 Congressional Research Service, Conventional Arms Transfers to Developing
Nations 2001-2008, p. 35 を見よ。
324 本書6. 3 節および6. 4 節を見よ。
325 本書4. 3. 3 項を見よ。
326 Nozick, Anarchy, State, and Utopia, ch. 4 も見よ。
327 Locke“, An Essay Concerning the True Original”, §27 and §33.
328 Ibid, §36.
329 Ibid, §41 and §37.
330 本書4. 3. 1 項を見よ。
331 Nozick, Anarchy, State, and Utopia, p. 231 を見よ。
332 2005 年グローバル社会生産は44 兆983 億ドルだった(World Bank, Report 2007, p. 289)。
333 注122 を見よ。よく知られた世銀の極貧ライン〔extreme poverty line〕について言えば、消費
不足分の総額は年間760 億ドルにすぎない。だが、このラインでは我々を含めた豊かな世界におい
ての妥当な貧困定義にとっては低すぎる。高い方の深刻貧困ライン〔severe poverty line〕でさえも、
4 人世帯が毎月購買できるのは米国で2009 年に約333 ドルで買えた程度のものにすぎない。さらに、
すべての人間を高い方の貧困ラインまで引き上げても、高所得諸国の平均的個人にはその55 倍以
上の消費支出と22 倍以上の購買力が残される(注122、130、138、およびその周辺の本文を参照せ
よ)。
334 液化天然ガス(NGL)を含む石油のグローバル生産は、現状では日量8,200 万バレル、年間で
は約300 億バレルである。一般的な世界市場価格であるバレルあたり70 ドルであれば、価格は時
間とともに高くも低くもなるが、年額 21 兆ドルに達する。
335 例として、World Bank, Assessing Aid, Alesina and Dollar, “Who Gives Foreign Aid to Whom
and Why?”およびCollier and Dollar“, Aid Allocation”を見よ。
336 UNDP, Report 2007- 8, p. 289. 注144 も比較参照せよ。
337  mdgs.un.org/unsd/mdg(November 14, 2009)
338 Drescher, Capitalism and Antislavery
◇訳注 ─────────────────────────────────────
1 この原語は「systemic」であるが、原著者に尋ねたところ、このような言い換え表現の回答をい
ただいた。
2 UNDP は『人間開発報告』1994 年版で1995 年5 月に予定されていた社会開発世界サミットに向
けて6 つのアジェンダ提言を行ったが、その第 2 点が発展途上国の国家予算の20%および先進国
のODA の20%をもって充当する「人間開発 20 : 20 契約」の運用・作成であった。

第9章

◆注 ──────────────────────────────────────
339 このような疾病は注136 に列挙した状況によるものであり、また同様にデング熱やハンセン病・
トリパノソーマ症(睡眠病やシャガス病)・オンコセルカ症(河川盲目症)、リーシュマニア症、ブ
ルーリ潰瘍、リンパ系フィラリア、住血吸虫病(ビルハルツ住血吸虫症)といった他の多くの伝染
性疾患にが含まれる。Gwatkin および Guillot, The Burden of Disease を見よ。
340 UNICEF, The State of the World's Children 2005 の表紙の内扉にある、2003 年のデータは5 歳
以下の小児死亡が1060 万人(全人類死亡の19%)を占めていると報告している。
341 UNDP, Report 2003, 310-30; UNRISD, Gender Equality; Social Watch, Unkept Promises
342 WHO, Report 2004, pp. 120-25.
343 Barnard“, In the High Court of South Africa.”
344 その主要特許の有効期間中、当該特許の保有者は1 つの薬品についての多くの場合瑣末で重要
性のない──パッケージの工夫や投与計画といった ──広範な諸側面に関して、追加的な特許を
取得することができる。これらの追加的特許は、後になってから出願される場合は主要特許を延
長することになる。それら追加的特許によって、当該特許の保有者たちはその主要特許が失効し
た後でも当該薬品のジェネリック薬製造開始を計画しているあらゆる企業から通告を受ける権利
を確実に保持できるようになる。ひとたび通告を受ければ、その特許の保有者はジェネリック薬
の製造を止めさせるないし大幅に遅らせることが可能である。大幅に遅らせるに際しては、30 ヶ
月停止〔a 30-month stay〕を要求したり(2003 年8 月以前はそのような停止を何度も出すことが
認められていたし、実際に行われてもいた)、その180 日間排他権〔180-day exclusivity〕を「確
保する」ために最初のジェネリック薬特許出願者に支払いをしたり、ジェネリック薬製造の開始
を──そのメリットとは無関係に ──数年にわたって遅らせることのできる法的措置で脅すあ
るいはそれをほのめかすといった手法をとる。製薬業界の反競争的な諸々の慣行は、the Federal
Trade Commission in“ Generic Drug Entry Prior to Patent Expiration: An FTC Study,” July 2002
(www.ftc.gov/os/2002/07/genericdrugstudy.pdf)で報告されている。また、NIHCM Foundation,
Changing Patterns of Pharmaceutical Innovation, May 2002( www.nihcm.org/fi nalweb/innovations.
pdf)を見よ。さらに、the GAO report “New Drug Development” (p. 34)は次のように報告して
いる。「一部のアナリストは、一般に品揃えの拡張〔producing line extensions〕として知られてい
る慣行──ある薬品の服用量を変えたり、ある薬品を錠剤からカプセルに変えたりといった、現行
製品に小幅な変更を加えることによって、現にある成分調合から新しい製品を派生させる行為──
にとくに注目する。アナリストたちによれば、そういった変更は大ヒット商品に対して、その特許
が失効するほんの少し前に、なされるのが通例である」。
345 それらの条項は、潜在的なジェネリック製造業者たちに対して、彼らが製造を計画している薬
品の安全性と有効性を文書報告するために浪費的な新規の治験を強いることになっている。当該特
許保有者がオリジナルに提出したデータをジェネリック製造業者が利用することが、当該特許の失
効後であっても、禁止されているからである。MSF, Data Exclusivity を見よ。
346 特許体系が自明視してきた製薬研究ツールのうちでも、発現遺伝子配列タグ〔expressed
sequence tags〕(EST
◇6
s)、制限酵素〔restriction enzymes〕、スクリーニング・システム、DNA シ
ーケンス解析に関連する技術、一塩基多型(SNPs)などである。そのような特許は実質的に研
究と自由競争を妨害している。詳細については、Rai and Eisenberg, “Bayh-Dole Reform and the
Progress of Biomedicine”を見よ。
347 ケヴィン・アウターソン〔Kevin Outterson〕は、非常に貧しい人々が誰にもコストを支払わず
に何らかの公共的な便益を享受するという文脈においても、彼らの不利となる「ただ乗り」という
表現を使うことに疑義を呈してきた。彼はその代わりに「まっとうな利用者」と呼ぶよう提案して
いる。Outterson“, Fair Followers”を見よ。
348 “India’s Choice,” editorial, New York Times, January 18, 2005; also at select.nytimes.com/gst/
abstract.html?res=F10610F8395C0C7B8DDDA80894DD404482.
349  Kuflik, “Moral Foundations of Intellectual Property Rights”も見よ。また、知的財産権につい
ての自然権的な説明に対するより精緻な異論として、Sterckx“, The Ethics of Patenting”を見よ。
350 このパターンが米国で見られるようになったのは、1980 年の連邦議会が、消費者利益のために
政府資金による発明の商業利用を奨励することを企図して、バイドール法〔Bayh-Dole Act〕を通
過させた後のことである。バイドール法によって、大学やNIH で行なわれた基礎研究の応用特許
を製薬企業や大学教授、臨床医が営利使用することが可能になった。これ以上の論及もある簡潔
な説明として、Rai and Eisenberg“, Bayh- Dole Reform and the Progress of Biomedicine”を見よ。
バイオ医療のR&D に関しては1990 年代に私的資金が公的資金を追い抜いたが、それでも公的資
金は莫大である。以下を見よ。Moses et al.,“ Financial Anatomy of Biomedical Research,” p. 1336;
Light“, Basic Research Funds to Discover New Drugs”; Research!America“, 2005 U.S. Investment in
Health Research,” at www.researchamerica.org/publications/appropriations/healthdollar2005.pdf;and
Angell, The Truth about the Drug Companies, pp. 7-8, 22-7, 56-76.
351 Nozick, Anarchy, State, and Utopia, p. 181. ロック的但し書きが要求するのは、一方的な専有が
許されるのは、彼ら専有者が他の人々にも「十分かつ同じくらいよく」残すかぎりにおいてである
ということだ。Locke,“An Essay Concerning the True Original,” §27 and §33 および本書の上述
5.2 節を見よ。
352 Nozick, Anarchy, State, and Utopia, p. 182.
353 多くの人たちが、ジョンがいかに美食家であるかを知りつつ、また、彼の努力にただ乗りしよ
うと望みつつ、さもなければ彼らが自ら実行していたであろう創造的な料理の実験を差し控えてい
ると想像してみよ。カントもロックも、そしてノージックでさえ、そのようなふるまいが道徳的に
問題であると見なす十分な理由を提示しているという点を私は否定しない。だが私が言いたいのは、
そのような振る舞いは、三人の思想家すべてが厳密な批判と見なすもの──すなわち、そのような
振る舞いはジョンの権利を侵害するという趣旨の非難──は免れているという点なのである。私が
さらに主張したいのは、ジョンの利益のために、この例に出てくるただ乗り志望者たちが自前のキ
ノコを自前の食材に加えることを禁止される場合にはこのただ乗り志望者たちの権利こそが侵害さ
れることになる、という見解に対して、少なくともノージックはコミットしているという点である。
この点に関する議論を明瞭にしてくれたことについて、アンドリュー・ウィリアムスに感謝する。
354 音楽、文学、コンピューター・プログラムなどの作品について生じる特別な論点はひとまず措く。
それらはShiffrin“, Lockean Arguments for Private Intellectual Property”で中心的に扱われている。
355 大部分似たような主張が、特別な材料を必要としない医療的発明──例えば鍼術──について
も、可能である。ここでも、発明者は自分の発見をシェアしないというリバタリアン的権利を──た
とえその発見は多くの人の甚大な苦痛を予防する可能性があるとしても──持つが、そのタイプを
所有する権利を持つことはない。他の人々が自身の身体やその患者の身体に対して──彼らが正当
に所有しているものに対して、は言うに及ばず──なしてよいことを当該発明者が一方的に制限す
ることなど、まったく不可能なのだ。
356 注344 に引用されたGAO およびFTC の研究を見よ。また、Goozner, The $800 Million Pill,
ch.8 およびAngell, The Truth about the Drug Companies, ch.10 を見よ。遡及的特許〔upstream
patents〕がいかにバイオ医療の研究開発を阻害しているかに関する議論として、Rai and Eisenberg,
“Bayh-Dole Reform and the Progress of Biomedicine”を見よ。
357 例として、“the patent system is the only proven system to bring new medicines to society on a
large scale basis and in a timely manner”(www.pfizer.com/pfizer/subsites/corporate_citizenship/
report /good_business.jsp).
358 Cheri Grace, “The Effect of Changing Intellectual Property on Pharmaceutical Industry
Prospects in India and China: Considerations for Access to Medicines,” June 2004, www.dfi d.gov.
uk/pubs/files/indiachinadomproduce.pdf を見よ。
359 “White Man’s Shame,” The Economist, September 25, 1999, p. 89.
360 Ibid.
361 この種の情け容赦ない圧力は、貧しい国々が特許薬品についての強制ライセンス発行に踏み切
ることが──そのようなライセンスは理論的には 2001 年ドーハ宣言の第6 段落に従って容認さ
れているという事実にもかかわらず──ほとんどないのはなぜかを説明するに十分である。2006
年11 月、タイ政府は、抗HIV 薬エファビレンツ(商品名ストックリン、メルク社)と〔HIV プ
ロテアーゼ阻害抑制剤である〕ロピナビル/リトナビル(商品名カレトラ、アボット社)そし
て抗血小板薬クロピドグレル(商品名プラビックス、ブリストル・マイヤーズスクイブ社およ
びサノフィ・アベンティス社)について強制ライセンスを発行したが、ただちに合衆国政府の
圧力に晒されることとなった。そういった圧力がどのように及ぼされるかを感覚的に理解する
ためにも、 Congressman Jim McDermott’s speech (June 20, 2006) 「A Morality Tale on AIDS」
(www.house.gov/mcdermott/sp060619.shtml)、および、「Schwab Announces Results of Chile IPR
Review, CitesDeteriorating Performance」(www.ustr.gov/Document_Library/Press_Releases/2007
/Section_Index.html)と題された米国通商代表部事務局のプレス・リリース(2007 年1 月8 日)を
見よ。
362 例として以下を見よ。“Making Trade Work for Poor People,”speech delivered at the National
Council of Applied Economic Research, New Delhi: November 28, 2002, by former World Bank Chief
Economist Nick Stern( siteresources.worldbank.org/INTRES/Resources /stern_speech_makingtrwo
rkforpoor_nov2002.pdf).
363 これは貧しい国々がODA として年間に受け取る1,000 億ドル(2005 年)とのよい比較である
(www.oecd.org/dataoecd/52/18/37790990.pdf)。
364 エイズ薬や普及版の結核薬などは顕著な例である。
365 「世界全体の医療研究のたった10%が全世界の90%の疾病負荷の原因となる病状の研究にあ
てられている」(DNDWG, Fatal Imbalance, p. 10; cf. GFHR, The 10/90 Report on Health Research
2003-2004)。この不均衡は、ゲイツ財団の目覚しい資金提供によって減少傾向にあるかもしれない。
366 GFHR, The 10/90 Report on Health Research 2003-2004, p. 122 (www.globalforumhealth.
org/filesupld/1090_report_03_04 /109004_chap_5.pdf).GBD の計測に関してはいくつかの異なる方
法があり、私自身はそのうちどれかひとつを推奨する立場にはない。
367 Trouiller et al., “Is Orphan Drug Status Benefi cial to Tropical Disease Control?,” p. 413;
Trouiller et al.,“Drug Development for Neglected Diseases,” p. 2189; DNDWG, Fatal Imbalance,
p. 11.
368  Chirac とToreelle“, Global Framework on Essential Health R&D,” p.1560; DNDWG, Fatal Imbalance,
p. 10
369 この点がある程度論争の的になるだろう。製薬会社が新薬開発への彼らの財政的知的貢献をむ
やみに強調すること、また最も基礎的な研究は政府や大学が出資し、のちに製薬業界が無料で利
用できるようになったことが主張されてきた。Angell のThe Truth about the Drug Companies の
第3章; Consumer Project on Technology( www.cptech.org/ip/health/econ/rndcosts.html); UNDP
Report 2001 の第5 章、さらに注344 に引用したthe GAOreport の製薬業界のバイオメディカル研
究開発の生産性が著しく減少したこと、1993 年の16 兆ドルから2004 年の40 兆ドルの147%の研究
開発報告の増加のうち、新薬関連の申請はわずか38%の増加に留まり、分子生物関連の申請はさら
に少ない7%の上昇にすぎない、という記述などを参照。とくに「1993 年から1995 年を通して分
子生物関連の新薬申請数は増加したが、1995 年から2004 年の間では40%も減少した」(P4)とさ
れる点。また1993 年から2004 年の間で新薬申請総数のわずか12%が分子生物関連であった(p17)
とされる点。つまり分子生物関連薬が既存の薬物療法全般に重要な恩恵をもたらしたわけである。
370 特許保有者はまた他者にその発明品を生産するライセンスを売ることもできる。開発企業に莫
大なライセンス料を支払うために生産者は、しばしば長期にわたるその薬の生産の限界費用にかな
り上乗せした(たいてい非常に高額の上乗せである)価格設定も行なわなければならない。この場
合もまた、第二の市場の失敗として、少し違ったやり方で論じていく。
371 www4.law.cornell.edu/uscode/28/1498.html 参照。この権利は様々な重要な事例で法廷で争われ
ている。Hughes Aircraft Corporation の Williams 特許の事例では生産ライセンス料は1%とされた。
(詳細はwww.cptech.org/ip/health/cl/us- 1498.html を見よ。
372 Kanavos 他“The Economic Impact of Pharmaceutical Parallel Trade in European Union Member
States”を参照。
373 予想される費用の総計=$5,200 万 × 25% + $3,500 万 × 60% + $4,000 万 × 15%
374 なぜなら、この報酬を獲得する確率が25%だとすると、報酬の期待値は1 億6,000 万ドルの25
%、すなわち4,000 万ドルとなる。会社は当然、いつ特別な費用や報酬の支払いが行なわれるかに
敏感である。したがって、我々はドル数字をその会社内の手形割引歩合に基づく現在価値=《将来
に受け取る〔支払う〕金額を適当な割引率で割り引いて求められた現在の価値》とみなせるだろう。
375 もちろんプッシュ・プログラムは同じ課題を2、3 の開発業者に(同時に)割り当てることもあ
る。しかし(そうすると)費用が2 倍あるいは3 倍かかることになり、したがって対応するプル・
プログラムに対する費用優位性は劇的に崩壊してしまう。
376 Kremer and Glennerster のStrong Medicine を見よ。
377 この情報の欠損──賞金制度のほかの問題ではなく──は会社や他の可能な機関が自分たち自
身の賞金対象の発明を特定し名づけるといった、思慮ぶかい仕組みを介して克服できる。企画者
たちは自分たちが開発を希望する薬剤の特質を公表し、その実行が可能である組織は、それを満
たす薬剤の製造によってもたらされる賞金額と期限、遅れた場合のペナルティなどを特定した上で、
「せり」に参加することになる。そして企画者は、全体の中で最も魅力的なせり値をつけた組織を
選ぶことができる。
378 この問題に関する卓越した議論については Hollis の“Incentive Mechanisms for Innovation,”
pp.15-16 を参照。
379 事前買取制度はこの問題をうまく回避するようなかたちで設計できるかもしれない。事前に設
定された高価格で一定量の新薬を購入するという約束は、実際に患者たちへ処方される投薬量次第
である。その薬の消費される投薬量が少なければ少ないほど、支払いも少額になる。しかし、事前
買取制度をこのように定式化してしまうと、新たな難点が生じる。つまり、薬の浪費への誘因が問
題となる。もし(クレメール〔Kremer〕の具体的な数値例の1 つのように)開発者は2 億服用分
を上限として各服用分につき追加的に(研究開発費を補償するための補助金を)1,000 ドル支払われ、
その薬品に進んで支払う買い手は1 ドルしか払わないとしよう。このとき、当該開発者は、買い手
がその薬品を必要としているか否かにかかわらず、(開発者は買い手に賄賂等を与えて、その薬を
大量に買わせようと)買い手たちを誘い、説得する強い誘因が働くことになる。
380 特許(パテント)とは国家的な法的管轄域を伴う独占価格設定力を与えるものだという考え方
に我々はあまりに馴染んでしまっているので、ここでの私のこの言葉使いは不適当であると思われ
るかもしれない。だがその言葉使いは、「パテント」の伝統的な(フランス語のlettre patente から
派生した)意味、つまり何らかの特典・権利・公職・タイトル・プロパティなどを授与する公開の
(ラテン語のpatens)文書としての意味には合致している。「公開の」という言葉も特許にふさわ
しい。特許にはその発明の公的な囲い込みが要求されるからである。また、その発明に対するユニ
バーサル・アクセスをさらに要求するGBD 特許にはとくにふさわしい。
381 UNDP, Report 2001, p. 101 を参照せよ。
382 Selgelid“, Ethics and Drug Resistance.”を参照せよ。
383 この対立が最も劇的に展開されたのは39 社の製薬企業連合が南アフリカの法廷に押しかけたと
きである。彼らの目的は、自分たちの発明が現地のジェネリック製造業者によって製造されて、自
身の生命が彼らのレトロウイルス薬への手頃なアクセスに依存している絶望的な患者たちに廉価で
売られるのを止めさせることだった。2001 年の4 月、世界規模の批判的世論の集中砲火を浴びて
この訴えは挫折した(Barnard,“ In the High Court of South Africa”を見よ)。いくぶん似た訴えが、
2007 年1 月、スイスの製薬企業ノヴァルティスによってインド政府を相手取って、インド高等法
院に持ち込まれた。ノヴァルティスの主張は、インド特許法のセクション3(d)は違憲であるし、
知的財産権の保護にとって不十分なので国際商取引法も遵守していない、とのことである。2007
年8 月6 日、マドラス高等法院は3(d)の合憲性については訴えを棄却したが、TRIPs 遵守の問
題についてはWTO の紛争解決メカニズムにしたがった。
384 これらの新しい誘因は、少なくとも最初のうちは、まれな疾病(「orphan disease」)の研究を惹
起するほどには──たとえ患者1 人当たりの健康インパクトは大きいと見込まれる場合でも──強
くない可能性がある。
385 この短期的な効果は軽減される可能性があるのだが、それは製薬業界が斜陽期にあるという事
実による。その原因は、大ヒット薬品の特許失効、製薬企業による研究開発の低生産性、その反競
争的慣行に対する規制の強化、大口の買い手による圧力の強まり、などである。例えばファイザー
は、2008 年末までに1 万の拠点を廃止し、欧州への作業割り当て〔field force〕を20%以上も削減
しようと計画している。
386 私の大まかな見積りは以下を想定している。すなわち、改革されたルールの下で、製薬業界
は、少なくとも当初は、現在あらゆる製薬研究に支出されている額の30 .60%を新しい(とくに
今のところおろそかにされている疾病向けの)必須薬の開発研究費として支出するという想定で
ある(ともに注 350 に引用されているMoses et al およびResearch!America、さらに、 GFHR, The
10/90 Report on Health Research 2003-2004, p.112 を参照せよ)。私がさらに想定しているのは、改
革されたルール下で提示される報酬はこれら支出見積額に匹敵するだけでなく、それを大幅に上回
るはずだということである。というのも、研究活動が高くついたり長引いたりするかもしれないと
いうリスクや不確実性に製薬企業が勇敢に立ち向かうのは、その期待報酬がそのコストをかなり上
回る場合に限られるからだ。本文中の数値はピーク時の見積りである。当該プランにおける支出は
最初の数年間は、今までおろそかにされてきた疾病向けの新薬が患者たちに供給される準備が整う
につれて、上昇するだろう。その後、支出は20 年から30 年のうちに、残余の疾病負荷の減少とあ
いまって、再び下落するだろう。
387 アフリカの最貧24 ヶ国とは、ブルキナファソ、ブルンジ、中央アフリカ共和国、チャド、コ
ンゴ民主共和国、エリトリア、エチオピア、ガンビア、ガーナ、ギニア、ギニアビサウ、リベリ
ア、マダガスカル、マラウイ、マリ、モザンビーク、ニジェール、ルワンダ、サントメ・プリンシ
ペ、シエラレオネ、タンザニア、トーゴ、ウガンダ、ジンバブエである。それら各国の総国民所得
の合計は106.6 億ドルである(World Bank, World Development Indicators Online〔November 15,
2009〕)。
388 プランピー・ナッツとはアンドレ・ブリアン〔Andre Briend〕の処方による風味のよい高タン
パクのペーストである。それは貧しい国々でも安価に製造でき、冷蔵装置なしで気密包装のなかで
2 年も保存できるし、(しばしば汚染された)現地の水を混ぜる必要もないので、とくに子供の栄
養失調に対しては非常に効果的である。
389 少なくとも相当数の政府が示した関心の兆候のひとつとして、2006 年5 月の第59 回WHO 総会
〔World Health Assembly〕で採択された第24 決議── Public Health, Innovation, Essential Health
Research and Intellectual Property Rights: Towards a Global Strategy and Plan of Action ──があ
る(WHA 59.24 - www.who.int/gb/ebwha/pdf_files/WHA59/A59_R24-en.pdf)。この決議に引き続
いて、専門家による付託が請願され(www.who.int/phi/public_hearings/en)、公衆衛生、革新、知
的財産に関する政府間作業部会〔Intergovernmental Working Group on Public Health, Innovation
and Intellectual Property〕がジュネーブで召集された。その後刊行されたDraft Global Strategy
and Plan of Action on Public Health, Innovation and Intellechual Property,World Health Assembly
Resolution 60.30 および、これら文書の議論への公開寄稿(www.who.int/phi/public_hearings/
second/en /index.html ですべて入手可能)も見よ。
390 仮想的な原因が重要になるのは、例えば、逸失寿命年数を配分する際である。仮に、ある個人
の環境は、当人がその実際の死因によって死なない場合でもその人を一定の確率で殺していたはず
の諸原因にその人をさらすようなものであったとしよう。その場合、その個人の逸失寿命の全年数
をその人の早死の原因〔つまり実際の死因〕に帰することはできないのだ。
391 注目に値するのは、GBD 特許制度が高くつく訴訟を回避するという観点では例外的なまでにう
まくいく、という点だ。現行制度は、成功したあらゆる薬品の特許に異議申し立てをすることに強
い誘因を持つジェネリック企業を必然的に生み出してしまうので、多くの訴訟を惹起する。ジェネ
リック企業がGBD 特許に異議申し立てする誘因を持つことはまったくない。彼らはそのような異
議申し立てなどしなくてもその薬品を無料複製できるからだ。GBD 特許制度がうまく行かないの
は発明者適格性〔inventorship〕をめぐって競合する要求についてである。とはいえ、それらは現
行の訴訟にかかわる支出のうちのごくわずかに過ぎない。この点に関する有意義な議論についてロ
シェル・ドレフュス〔Rochelle Dreyfuss〕に感謝する。
392 これは「完全〔full〕」という言葉の第二の意味を明らかにする。その言葉が意味するのは、た
んに、薬品が──死亡率と罹患率の減少に効果を発揮するようになることを企図して──患者た
ちまで完全に引っ張られる、ということに留まらない。それが意味しうるのは、そのような誘因が、
最終的には、世界的貧困という問題を構成する深刻な剥奪のすべてに向けられるようになるだろう、
ということでもあるのだ。
393 豊かな国々の市民が製薬開発やグローバル・ヘルスの改善に向けた諸他のイニシアティブを支
援するという目的で課税されることには歓迎であることの証拠については、Woolley, Propst, and
Connelly“, United States Investment in Global Health Research,” pp. 93-4を見よ。
◇訳注 ─────────────────────────────────────
1 ユニバーサル・アクセス〔universal access〕:国籍・貧富を問わず、必要とする人が医薬品にア
クセスすることを意味する。これはブラジルにおけるエイズ治療薬無償化政策がモデルになってい
るという。なお、この訳注はアフリカ日本協議会事務局の斉藤龍一郎氏のご教授をいただいた。
2 トークン〔token〕:論理学や言語学の用語であり、「生起型」などと訳される。ある特定の「タイ
プ〔type〕」(同一の単語・記号・表現・文)に対して、その具体使用例がトークンである。
3 緑の間〔green room〕:米国大統領官邸ホワイト・ハウスの1 階にある部屋を意
味する。
4 レトロ・エンジニアリング〔retoro-engineer〕:成分分析や骨格再建あるいは遺伝子解析による復
元などを意味する。ここでは必要とされる成分を特定し同等のものをつくる、つまりジェネリック
薬製造のことを意味していると思われる。なお、この訳注もアフリカ日本協議会事務局の斉藤龍一
郎氏のご教授をいただいた。
5 死荷重的損失〔deadweight loss〕:不完全競争下で産出量が制限されているとき、産出者が得る
利益と消費者が失うもの(の貨幣価値)の差額を意味する経済学の用語経済学の用語である。
6 発現遺伝子配列タグ〔expressed sequence tags〕(ESTs):cDNA ライブラリーからランダムに
選んだクローンの5' 末端(あるいは3' 末端)から数百塩基の配列を決定したものをデータベー
スに登録したもの。遺伝子解析の過程において、断片的なcDNA しか保持していない場合、こ
のEST をPCR のプライマーとして利用して全長を得ることができる。配列を決め、そこから全
長遺伝子を取り出す。その全長遺伝子がタンパク質を発現し従来より、遺伝子解析の特許化に関
しては国際的に様々な議論が行われてきたが,最大の問題は遺伝子断片が有用性を持つかどうか
を判断する点にある。なお、この記述は以下のリンク先からの引用である。 http://www.yodosha.
co.jp/jikkenigaku/keyword/106.html
7 事前買取制度の原語はadvance purchase commitments であるが、advance market commitments
と表現されることもある。なお、訳語の補足は、この注に対する原著者への質問の回答に基づいて
いる。

*作成:安部 彰村上慎司岩間 優希
UP:20100329 REV:20010509, 0523
  ◇Pogge, Thomas W.  ◇哲学/政治哲学(political philosophy)/倫理学  ◇身体×世界:関連書籍  ◇BOOK
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