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『環状島=トラウマの地政学』

宮地 尚子 20071219 みすず書房,228p.

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last update: 20140616

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宮地 尚子 20071219 『環状島=トラウマの地政学』,みすず書房,228p. ISBN-10: 4622073390 ISBN-13: 978-4622073390 \2940 [amazon][kinokuniya] ※ beteru m ma t06 v04

■内容

・内容紹介
戦争から児童虐待にいたるまで、トラウマをもたらす出来事はたえまなく起きている。「言葉では表現しようのない」この出来事は、それでも言語化されていった。しかし、言葉にならないはずのトラウマを伝達可能な言語にするという矛盾は、発話者をも聞く者をも揺るがせる。「なぜあなたが(もしくはこの私が)その問題について語ることができるのか」「もっと悲惨な思いをした人はたくさんいるのではないか」に始まる問いは限りなく、お互いの感情を揺さぶり、自身を責めさいなむ。
「だからここで考えてみたい。トラウマについて語る声が、公的空間においてどのように立ち現れ、どのように扱われるのか。被害当事者、支援者、代弁者、家族や遺族、専門家、研究者、傍観者などはそれぞれどのような位置にあり、どのような関係にあるのか」。
前著『トラウマの医療人類学』を継ぐ本書で、著者は「環状島」をモデルに、加害者も含め、トラウマをめぐる関係者のポジショナリティとその力動を体系的に描いた。〈内海〉〈外海〉〈斜面〉〈尾根〉〈水位〉〈風〉などの用語を駆使しながら、トラウマをめぐる全体像とあるべき方向性をしめした初めての試みである。クライアントと日々を共にする医師であり、マイノリティ問題にかかわる研究者である著者自身に必至の課題であった。トラウマに関与するすべての人にとって、本書は実践と倫理のための道標になるだろう。

・「MARC」データベースより
「環状島」をモデルに、被害当事者から研究者、加害者までトラウマをめぐる関係者のポジショナリティと力動を体系的に描く。トラウマの全体像とあるべき方向性を示した、実践と倫理の道標となる一冊。

■目次

1 トラウマについて語ること――環状島というモデル
 はじめに/サバイバル・マップ/発話者のいる島、環状島/円錐島との比較
2 〈内海〉に沈む被害者たち
 犯罪被害のトラウマと法的救済/環状島に働く力――〈重力〉と〈風〉/環状島の特徴――〈水位〉/社会運動と環状島
3 環状島の生成過程――セクシュアル・ハラスメント裁判から 
 日本初のセクシュアル・ハラスメント裁判/被害の経過/高い〈水位〉/環の形成/時代背景と〈水位〉〈波〉/支援者との溝/〈風〉――一般論/〈風〉――晴野の場合/〈島〉
4 複数の環状島――セクシュアル・ハラスメント裁判から 2
 別の島影/もう一つの島影/いくつもの環状島/雄弁な発話者を生む条件/雄弁さの相対性
5 複数のイシュー化と複合的アイデンティティ
 環状島とアイデンティティ/重層差別や複合差別/複数の環状島を描くということ/重さ比べ/複合的アイデンティティ
6 脱アイデンティティとアイデンティフィケーション
 脱アイデンティティ論/「一部圧倒性」と「一部了解不能性」
7 ポジショナリティの問いかけ
 ポジショナリティをめぐる議論/〈内斜面〉から〈外斜面〉への問いかけ/異なるイシュー化と複数の環状島/中立や普遍性のもつ偏り/ポジショナリティの問いかけは〈外斜面〉に向かうが〈外海〉には向かわない/ポジショナリティの問いかけは〈外斜面〉の人を〈外海〉に押し流しかねない/複合差別や重層差別/可視的なカテゴリーや集団帰属によるポジショナリティの問いかけの限界/「正しさ」が必ずしも問題なのではない/「度しがたいまでの無知」と「度しがたいまでの有知」/アリス・ウォーカーの「投企的同一化」
8 加害者はどこにいるのか
 加害者の位置/加害者は立ち去って、そこにはいない/加害者はその場にいる/真上からしか見えない傷/井戸の底/外傷的絆/加害者の償いと被害者の赦し
9 研究者の位置と当事者研究
 研究者の位置/跳躍・帰郷の場・論文作成/当事者研究
10 環状島と知の役割
 研究者・専門家・知識人の役割/学問領域による差異/役割の悪用や迫害/悪用できない知はない/新しい知識人像/かくれ当事者研究もしくは抽象化の効用/最後に
あとがき
参考文献

■引用

本書でとりあつかうのは、トラウマについて語ることの可能性、そして語る者のポジショナリティの問題である。p.3 語れば語るほど「唇寒し」という思いに襲われる。周りからの批判が気になって、言葉を控える。…けれどもそれは、トラウマそのものの忘却につながる。生き延びた者、語る能力をもつ者、支援者や関心をもつ者、研究者や専門家が口をつぐんでしまうということは、できごとが不可視化され、当事者の存在が記憶の中に埋もれていく流れを加速する。トラウマの記憶を社会から抹消してしまうことを容易にする。p.4-5

トラウマについて語ろうとすることは空間に独特の地形をもたらす。本稿ではその地形を「環状島」と捉え、そこにある力動を描写してみたい。もちろんここでの空間とは、隠喩的な意味での空間である。「環状島」も隠喩である。しかし、物理的な空間とまったく無縁なわけではない。ものごとから距離を取るというとき、それは、心的な距離を取ることによっても、人間関係を断ち切ることによっても可能になるが、物理的に離れることの効果は小さくない。p.6

・<重力>、<風>、ブラックホール、<水位>
<重力>とはトラウマがもつ持続的な影響力、被害を受けた個人にもたらされる長期的なトラウマ反応や症状そのものである。p.27
…それらから逃れるための嗜癖行為、自傷行為や自殺企図(ベセル・A・ヴァン・デア・コルク他編/西澤哲監修訳『トラウマティック・ストレス』誠信書房、二〇〇一)。被害者は<内斜面>をよじ登って外側に向かおうとするが、消耗した体力をますます消耗するだけで、そこから逃れようはない。<外斜面>にいる者にも<重力>は働く。トラウマを受けた人と接し、トラウマについて深く考えることは、似たような症状(代理外傷)をもたらす。…まだ軽いうちにさっさと逃げ出すか、さもなければ被害者と同じくらい傷つき、<尾根>を越えて<内斜面>にさまよいこんでしまうことにもなりかねない。p.28
一方<風>とは、トラウマを受けた人と周囲との間でまきおこる対人関係の混乱や葛藤などの力動のことである。…<風>にはたとえば被害者同士の間の、障害や症状やトラウマの「重さ比べ」がある。p.28
サバイバー・ギルト(生存者罪悪感)は、対人関係という意味では<風>に分類できるが、相手はすでにそこに存在しないこと、および、被害者個人の心に刻み込まれる深さを考えると、対人レベルを超えたトラウマの普遍的反応であり、<重力>と捉えたほうがいいようにも思う。いっそのこと、<風>や<重力>とも別の、中心のブラックホールに向かう求心力、というメタファーを用いたほうがふさわしいのかもしれない。p.29
トラウマに対する社会の否認や無理解の程度を意味する。被害者が声をあげやすく、責められたり疑われたりせず耳を傾けてもらえる、きちんと受け止めてもらったりし支援してもらえる場合は、<水位>が低いといえる。<水位>が低ければ、<内海>は狭くなるし、<斜面>の裾野も広くなる。<水位>に影響するのは、社会のエトス、周りの人たちの感受能力、応答能力である。p.32

運動においていちばん重要なことは、<重力>や<風>といった内向き外向きの力に抗して、当事者や非当事者が島の上に立ちつづけ、発言し続けることである。p.34
油断をしたら、いつでも<水位>は上がる。<重力>や<風>にあおられて、内側の人が<内海>に、外側の人が<外海>に放り出され、島の上に立つ人間がいなくなれば、それは加害者の勝利である。p.37

・運動
晴野は裁判終結後、裁判を起こさなかったために勇気がないと切り捨てられた被害者の存在を知って衝撃を受 p.47
け、自分が裁判を起こしたことで「私の後に続け」と無言のうちにすべての女性被害者を強制していたのではないかと考える。 p.48

内部の分裂や分断、比較や切り捨てなど、「内輪もめ」といわれる現象が「あってはいけないもの」、その運動の欠点であるという捉え方から解放されるべきだ、と私は思う。社会や加害者からの攻撃や圧力が、当事者と支援者の間の葛藤に転化し、傷つけ合いとして表出してしまいやすくなるということは、忘れられてはならない。p.59

・発言
何か自分にとって切実なイシューについて声を挙げようとするとき、そのイシューについて真剣に考えて発話や行動を起こすとき、その人は、誰が「仲間」なのか、誰が「味方」なのか、誰が(潜在的)「敵」なのあ、誰が自分よりも悲惨で声が出せない当事者なのかを、どこかで推し量ることになるだろう。意識化の程度はさまざまだとしても、当事者が声をあげるとき、誰かに声を届けようとするとき、自分の周囲の人間を、そのイシューにひきつけて「仲間」なのか、「味方」なのか、「敵」なのかを改めて布置しなおす行為は、どうしても避けられないことのように思う。p.95
「よそ者」だけれど「味方」という立場にあること、それが<外斜面>に立つということであり、支援者の特徴であるということを、支援者自身も当事者も認識しておくことで、こういった不幸な例がかなり減るのではないだろうか。p.96

・ポジショナリティ
あなたは何者として語るのか問うアイデンティティの政治に加え、ポスト・コロニアルな状況でしばしば問題になり、激しい感情をまじえた論争になるのが、ある問題を、誰が、どんな立ち位置から、誰に向かって語るのか、というポジショナリティの問題である。p.127
ポジショナリティについて議論する場合、自分を問われる側つまり<外斜面>に想定するか、問う側つまり<内斜面>に想定するかで、引き起こされる思案や感情は大きく異なってくる。p.129

あなたは私と同じ<内斜面>にいると言うが、実はいつでも逃げることのできる<外斜面>に立っているのではないか。いや見方によっては<外海>で傍観しているだけではないのか。それどころか、今ここで私たちを抑圧し、力を奪っているのではないのか p.133

アイデンティティとは、その人が何を知っている人間かという捉え方もできるが、裏を返せば、何を知らない人間か、何を知らなくていいと思っている人間なのか、ということでもある。なぜ私たちはイスラムやアフリカ女性の日常生活を知らないのか。知ろうともしないのか。ポジショナリティの問いは、そういう自省を迫る。人はすべてを知ることはできないから、無知そのものが罪なわけではない。ただ知識人の非対称性は構造的暴力をもたらす。発話する人間は、少なくとも自分が無知であることを知っているべきだし、知らないで話してはいけない瞬間もあることをある程度は知っているべきだろう。ただ同時に注目されるべきだと私が思うのは、ポジショナリティが問われる発話者は「度しがたいまでの有知」や「度しがたいまでの過知」とでも呼ぶべきものをももっていることである。p.145

・べてるの家
まずは解放である。浦河べてるの家『べてるの家の「当事者研究」』(医学書院、二〇〇五年) p.182
には、学問の原初の喜びのようなものがあふれている。「いったいぼくは、どんな法則に支配されているのか」、それを知りたくて「精神障がい」や「生きる苦労」を抱えた当事者たちは、「冒険心」にワクワクし、目を輝かせながら自らについての研究を始める。「問題と人との、切り離し作業」からはじまって、「自己病名をつける」という名付け直しの作業、「苦労のパターン・プロセス・構造の解明」、実証、検証と研究は進んでいく。それは「幻覚や妄想など不快な症状に隷属し翻弄されていた状況」から「生きる苦労の主人公になる」のだ。「「問う」という営みを獲得すること」がどれほどのエンパワメントをもたらすのか、逆に言えば「専門的知」がどれほどの弊害をもたらし、専門家のパターナリズムがどれほど当事者の力を奪ってきたのかがそこには鮮やかに示されている。
しかし、最初の開放感や高揚感の後には、長い混乱と窒息間の時期がやってくるかもしれない。特に「専門家に対抗した研究」をめざし、自分自身が専門家になると決めた当事者は、学問という枠そのものの窮屈さや抑圧性、学問の「場」の持つ排他性に気づかされる。そして、どのように「跳躍」するのか、どこに最終的に身を落ち着けるのか、といった難しい選択に自分自身が引き裂かれそうになる。p.183

・知の役割
(1)<海>しか見えないところに環状島を浮かび上がらせるきっかけをもたらす、(2)イシュー化のための概念や用語を生み出し、環を作りやすくする、(3)<内海>の大きさと深さを推定・測定する、(4)<波打ち際>の徴候を感じ取り、読み解いて、<内海>を小さ
くする、(5)<内斜面>の地を這う人たちの情報を外に持ち出し、広く伝える、(6)<内斜面>を這う人たちに上空や外からの情報を渡す、(7)既存の見かたとは異なる切り口で環状島を描いてみる、(8)島の土台を支える、(9)<水位>を下げる

・さいごに
環状島は、本来語ることのできないはずのトラウマを語ろうとするとき、どのようなことが起きるのか、という問いから生まれた。…環状島は。トラウマ経験の持つ重みや逃れられなさについても描こうとした。…環状島は、声の出せない人、抹殺された人を想像しようとする。 p.213
声を出さない当事者はどこにいるかわからない。見えないもの、知らないことに想像を働かせるとき、そこには補助線が必要になる。さもなければ想像自体が、見えないものに対する暴力となりうる。<内海>を想像するためには、声の出せる人や、その証言から補助線をひくことができる。…発話する当事者の敬意を払うとともに、その内側に常に影が存在すること、感受されるべき沈黙が存在することを想像してみたい。発話そのものに敬意を払うとともに、それでも語られずにいること、表現されえない何かが存在することを想像してみたい。そういった受けとめ方や聞き方、たたずまい方を体得していきたい。p.214

このことさえ確認できれば、もはや当事者であるかどうでないかの区別など、どうでもいいことと言えるのかも知れない。さらに引き伸ばすならば、当事者からいちばん遠い人を想像すること、いちばん遠い人を悼み、愛し、つながろうとすることが、逆説的に、<内海>にいちばん近く深く寄り添うことになるのかもしれない。p.215

■書評・紹介

森岡 正博 20080307 [書評]宮地尚子『環状島:トラウマの地政学』

■言及

野崎 泰伸 20080331 「〈異なりの身体〉に関する哲学的考察のために――障害/老い/病いを中心にして」,平成19年度厚生労働科学研究費補助金 長寿科学総合研究事業報告書『長寿科学の推進に係るグランドデザインに関する研究』,135-148


*更新:山口 真紀
UP: 20071229 REV: 20081102, 20110909, 20140616
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