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『腎不全でもあきらめない――強く明るく生きる三二人の物語』

松村 満美子 20071210 ミネルヴァ書房,202p.

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last update:20170124

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■松村 満美子 20071210 『腎不全でもあきらめない――強く明るく生きる三二人の物語』,ミネルヴァ書房,202p. ISBN-10: 4623050602 ISBN-13: 978-4623050604 [amazon][kinokuniya] ※ a03, hsm

■内容

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

松村/満美子

1939年東京四谷に生まれる。千葉大学文理学部卒業後、NHKにアナウンサーとして入局。出産を機に退局し、以後フリーのTVのキャスター、ジャーナリストとして、講演、行政、自治体の委員などで活躍。また財団法人腎研究会設立時からボランティアで参画、腎研究会発行の機関紙『腎不全を生きる』で多くの腎不全患者と交流する。現在、NPO法人腎臓サポート協会理事長、医学ジャーナリスト協会理事、日本臓器移植ネットワーク中央評価委員他(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

■目次

序章 透析導入を遅らせるために
 食事療法で一〇年以上透析導入を延ばす
 三分の二の腎機能で、仕事と子育てを両立
1章 二〇年、三〇年、まだまだ健在!!―血液透析
 「自己管理が大切、わかってるんですけどねぇ」
 全腎協を発足当時から支えて
 ほか
2章 自宅で、職場で、自分のペースで―腹膜透析
 子だくさん家族の大黒柱は腹膜透析導入中
 音楽を通じて生きる意味を伝えたい
 ほか
3章 さらば透析、自由をふたたび―腎移植
 感謝の声を全国の人に届けたい
 アメリカ人から贈られた腎臓とともに
 ほか

■引用


4 全腎協を発足当時から支えて
   小林孟史さん

  1938年生まれ 全腎協常務理事
  [透析歴] 1994年から血液透析

 腎臓病の患者会「全腎協」の結成
 今や透析人工は二七万人にもなり(二〇〇七年)、医療費の面からも何かと問題にされていますが、(社)全国腎臓病協議会(発足当初は、全国腎臓病患者連絡協議会)、通称「全腎協」が発足した一九七一年当時の透析患者は、六〇〇〇人にも満たない数でした。
一九六七年に透析医療が医療保険の対象になり(それまでは全額自己負担)、会社員や公務員は自己負担ゼロとなりましたが、その家族は五割負担で、自営業などの国民健康保険の被保険者は三割負担でした。当時の社会人の月給以上の自己負担金を払えるはずもなく、金△026 の切れ目が命の切れ目といわれていました。そこで、透析を受けている患者自身が、自分の身を守るために立ち上がって、結成したのが全腎協です。
 全腎協も二〇〇一年に三〇周年を迎えましたが、設立当初から全腎協の活動を支えてき,在までを知っている人というと、もう小林さんと私ぐらいではないでしようか。
 「全腎協は一九七一年に結成されましたが、初代の副会長に当たる人が情熱家でね。僕の家に泊まり込んで、熱心に説得されたんです。『おまえが出てくれなきゃ』って。その方は三年後の一九七四年に、亡くなってしまいました」
 その頃は、透析で生き延びられるのは最長でも五年といわれて。だいたい三年が一つのターニングポイントで、三年生きたらすごいことだったのです。それが二〇〇二年の時点では、三〇年以上透析を続けている方が、全腎協の会員で一四九人、会員以外の人も含めると、全国では二〇〇人近くいるのではとのこと。透析治療を受けている人の割合も、世界的にみて日本がダントツ。三〇年間透析をしている方たちというのは、三年も生きられないという時代から、医師たちと一緒に透析医療を育てた人たちといえます。
 「全腎協を結成した翌年(一九七二年)に、透析の更生医療の適用も決まり、医療費の公△027 的負担で、誰でも、全国どこでも、いつでも透析を受けられるようになって、一気に透析が普及し、技術も飛躍的に進歩しました」
 全腎協は設立以来、厚生省や労働省に掛け合い、医療費の問題だけでなく、人工腎臓の増設、社会参加に必要な労働条件の整備など、数々の成果をあげてきました。
 「あと活動の成果といえば予防ですね。小中学校の隔年検尿が毎年になり、就学前、五歳児、三歳児と、今は社会人を含め、検尿は全レべルで制度化されて、それで三〇〜四〇代の透析患者が少なくなって、中高年の病気になった観があります。それから、われわれの連動もさることながら、子どもたちについては、松村さんの活動が実を結びましたね」
 私が腎不全対策に足を突っ込んだ原点は、『「腎不全」を生きて』(ミネルヴア書房、一九九一年)の本にも書きましたが、子どもの腎臓病患者との出会いから。この子たちをなんとかしたいという思いから関わり始め、今に至ってしまいました。

 二七年の保存期を経て透析導入
 小林さん自身は、二七年もの長い保存期を経て、血液透析を導入しました。そもそもの腎臓病は、勤め先の尿検査で見つかりました。
 「鉄道員だったので、視聴覚の検査については義務づけられていたのですが、当時は三〇歳まで尿検査がありませんでした。それで三〇歳の春の健診で尿検査をしたら、尿タンパク1+だったのが、秋には一気に3+になって、そのまま入院する羽目になりました」
 昔は、腎臓病は絶対安静が治療の基本。布団から背中を離す時間が長いほど、治りが遅いなどといわれ、退院後も寝っぱなし。最初はちゃんといいつけを守って、布団に汗がしみ込んで畳にカビが生えるほど、しっかり侵ていたといいます。
 それから血液透析導入まで二七年。ずいぶん長く保存期を続けてこられたものです。  「いやあ、導入前の患音としては、あまり優等生ではなかったですよ。僕が通っていた病院が患者教育に◆熱心で、女く野蔵」丙曳亘を損いていました◆。家族同伴で栄養士さんの講義などもあってね。そういう環境にいたから、無茶もせず、しかもあまり神経質にならですんだのかもしれません」
 食事面では、奥様のお父様が脳卒中で亡くなったことから、結婚しても減塩食だったため、小林さんも薄味に慣れて、保存期を長く保てたかもしれません。奥様の内助の功のおかげ。本当に記録的な長さです。
 「いやいや、透析に入らずに天寿を全うする人もいますし、尿タンパクが消えなくても、△029 腎機能が低下しない人もいますから、記録的な長さではないと思いますよ。個人差が非常に大きいという点では、依然として腎臓病は難しい病気といえますね。腎の病の存在は、江戸時代からわかっていたはすですけど、いまだに対症療法しかありませんから」
 お話を伺っていてびっくりしたのは、甘い和菓子を食べていて、時々「塩辛い」といって周りの人を驚かせるというのですが、たしかに館には塩が入っています。それだけ塩分に対して、デリケートな舌になっていたのですね。
 保存期の最後の頃は、貧血がひどく、寒くて仕方がなく、血液透析を導入した直後は、のどの渇きやかゆみなど、いろいろな症状にも悩まされたようです。
 「透析の大変さは知っていたつもりでしたが、透析そのものについて、本当にわかっていたか疑問ですね。透析を導入してからのほうが、全腎協の一人として、患者さんを支えるカがついたのかもしれません」

 全腎協の活動のすごいところ
 私が全腎協の活動で関心するのは、患者団体でありながら、腎臓病にならないための啓発活動を、熱心にやっていることです。△030
 「本来行政がやる仕事ですよね(笑)。腎臓病はとにかく自覚症状がないから、ついつい悪化させてしまいます。だけど、私達の苦しみは、私達だけでたくさん。私達のような苦しみを味わわせたくないんです」
 制度が整う前、費用の自己負担に耐えきれなかったり、透析器械が少なかった時代を体験した会員と、腎不全になれば透析するのが当たり前になってから全腎協に入った会員との間に、意識の違いを感じることもあるといいます。小林さんが血液透析を導入した時は、「ついに小林さんが透析に入った」とショックを受けた人も多かったといいますが、これからも患者さんたちのために、元気に活躍してほしいと頗っています。
    (「そらまめ通信」二〇〇二年一二月号取材より)

 ――二年ほど前から体調を崩し、入退院を繰り返しておられましたが、今は全腎協の役員を退き、ご自宅で静養されているとのことでした。お子さんもいないため、奥様は「夫
が生きているだけでありがたいと思います」と電話口で話してくださいました。(ニ〇〇七年九月記)△031

■書評・紹介

■言及



*作成:岩ア 弘泰
UP:20170124 REV:
人工透析/人工腎臓/血液透析  ◇病者障害者運動史研究 身体×世界:関連書籍  ◇BOOK
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