HOME > BOOK >

『リベラルな多文化主義』

松元 雅和 20071225 慶応義塾大学出版会,209p. ISBN: 4766414519 3360


このHP経由で購入すると寄付されます

■松元 雅和 20071225 『リベラルな多文化主義』,慶応義塾大学出版会,209p. ISBN: 4766414519 ISBN-13: 978-4766414516 3360 [amazon][kinokuniya] ※ p l03 r05

■出版社/著者からの内容紹介
ロールズを継承し、反差別と国家中立性を掲げる現代リベラリズムは、多文化主義の理論と実践にいかに応答しうるのか。現代政治理論の難問に正面から取り組んだ意欲作。

■著者紹介

松元 雅和(まつもと・まさかず)
慶應義塾大学21COE多文化市民意識研究センター研究員。1978年生まれ。慶應義塾大学大学院法学研究科修士課程、英国ヨーク大学大学院政治学研究科修士課程修了。M. A.(政治哲学)。慶應義塾大学大学院法学研究科後期博士課程修了。博士(法学)

■目次

■引用


◇第1章 リベラリズム・多文化主義論争の修正

「リ//ベラリズムと多文化主義のあいだの二つの主要な対立軸」(23-24)

⇒ 「「集合的目標」の集合的側面にかんする対立軸と目標の側面に関する対立軸」(24)
「集合的側面をめぐる対立軸では、性差・人種・民族・宗教・言語といった集団的属性に基づいて人々を別異に処遇することを禁止する「反差別」要求の是非をめぐって衝突が生じている。一方でリベラルが、個人権の画一的――「差異を顧慮しない」――保障を主張するのにたいして、他方で多文化主義者は、ある場合には文化という集団的属性に基づいて人々を別異に処遇することが正当化されうると主張する」(24)
「目標の側面をめぐる対立軸では、文化という生の目標に対する「国家中立性」要求の是非をめぐって衝突が生じている。」(24)

ex. フランス語文化優遇措置 「公共の掲示および商業広告」「メニュー」等はフランス語。訳語を併記するとしてもフランス語表示が優先等。
「フランス語系住民にとってみれば、フランス語が公的に採用され、フランス語文化//が社会内で栄えることは自らの善き生を送るうえで有利に働き、それどころかフランス語の使用自体が自らの善き生の一部分でさえあるかもしれない。しかし逆に、非フランス語系住民にとってみれば、このような文化保護政策は自らの善き生を送るうえで不利に働くものであるかもしれず、、政府が善き生の目標に関与することは不当なものと思われるであろう」(27-8)

 注14 「再分配」と「承認」について …… 「リベラリズムと多文化主義を「再分配」と「承認」の区別で対比させることは論争の過度の単純化であり、また誤りであるとも思われる。……一般に文化保護政策は再分配のカテゴリーも承認のカテゴリーも含んだ重層的な政治的要求である」(36:注14)

◇第2章 リベラリズムは「差異を顧慮しない」か
「現代リベラルの多くは、反差別(non-discrimination)という旗印……のもと、集団別処遇の妥当性を疑問視してきた。それにたいして、多文化主義者はリベラルの「差異を顧慮しない」要求が文化的少数者の保護や支援には不適切であるとして、その要求の撤回や修正を求めている」(37)
「平等保護条項は、政府にたいして集団的属性を顧慮しない等しい処遇だけを求めているのか」(41)

⇒ 「リベラルが積極的差別是正措置を支持しようとする」ならば、①第14修正の平等保護条項は差異を顧慮しない処遇ではなく集団別処遇を容認するのか。②もし容認するのであれば、黒人差別は不当であるが白人逆差別は不当でないという「差別の非対称性」を説明できるか。」(43)という問いに答える必要がある。

⇒ ドゥオーキンは①②に肯定的回答を下している。
「ドゥオーキンは積極的差別是正措置を「原理」(princple)ではなく「政策」(policy)の局面から支持している」(43)
「ドゥオーキンにとって積極的差別是正措置とは、人種的少数派が原理上有する「権利」に依拠するものではなく、同措置が政策上寄与する共同体全体の「集合的目標」に依拠するものである」(43)。

前提 …… 「平等者として処遇される権利」つまり「個々人の利益が「他のすべての人々の利益と同じ程度十分に共感をもって処遇される」こと(45)が重要である。

「積極的差別是正措置とは、人種的平等社会を創出するという「政策」上の観点から特定の集団(=黒人)を優遇し、逆に特定の集団(=白人)を冷遇するものである」が、それは、「平等者として処遇される権利」という観点から見れば、後者の権利を侵害するものではない。(46)

とはいえ、「政策」つまり「効用の論証によって正当化することは諸刃の剣」である(46)。集合的目標や一般的利益の促進のために一部集団を不利に扱うことが許されるなら、人種隔離政策も支持される可能性がでてきてしまう。

⇒ 「黒人差別は不当であるが白人逆差別は不当でないという「差別の非対称性」」を説明するために、ドゥオーキンは「個人的選好」と「外的選好」を導入し、「後者を算入することは「平等者としての処遇」に反するとドゥオーキンは言う」(47)。

だが、この議論は十分ではない。外的選好の排除というだけでは、積極的差別是正措置を支持しつつ人種隔離政策を批判することはできない。「黒人がいっそうの社会進出を果たし、専門的職業に就くような人種的平等社会を望ましいとする選好は、黒人にたいする(好//意的な)外的選好である」(48)からである。

問題は、「禁止された原因」つまり「偏見」にある。「平等保護条項に照らして黒人差別が禁止されるのは、それが二重の算入をもたらす「外的選好」に基づいているからではなく、それが「偏見」(prejudice)という禁止された原因に基づいているからである」(48)。

「ドゥオーキンの平等保護条項解釈が、黒人差別を禁止しながら白人逆差別を禁止しないという「差別の非対称性」を認めるのは、偏見の有無こそが政策的是非の基準になっているからである」(49)

・積極的差別是正措置――人種的少数者への集団別処遇――偏見の除去。政治的市民としての尊重。

⇒ 「しかしキムリッカによれば、偏見を取り除くための措置として人種的少数派の事例を一般化することは誤りである。なぜなら、人種的少数派の場合とはまったく逆に、文化的少数派の場合は、多数派との統合を目指すことがむしろ偏見を強化してしまうことになりかねないからである」(50)

「黒人に対する人種差別主義は、黒人が同じ共同体の構成員であるということを、白人が否定することから生じているのだが、それとは逆に、インディアンに対する人種//差別主義は、主として、インディアンが自らに固有の文化と共同体を有する独自の民族であるということを、白人が否定するところから生じているのだ(Kymlicka 1995: 60/86-7)」(50-51)

文化構成員としての尊重――文化的少数者に対する集団別処遇――「文化的少数派を平等な尊重をもって処遇する場合、ときに統合ではなく分離をめざす集団別処遇が必要になる」(51)
「リベラルと多文化主義者の双方にとって必要なことは、偏見を取り除くような集団別処遇は肯定しつつも、偏見を強めるような集団別処遇は否定すること、つまり「良性の差異と悪性の差異を区別する」ことであろう(Fraser 1997: 184/278)」(52)

◇第3章 国家中立性と文化保護政策

国家中立性を、①結果に対する中立性、②目的に対する中立性、③正当化における中立性に分けると、③の解釈で「国家中立性」を解釈することが理論的にも妥当であり、かつその解釈からすれば、国家中立性は、かならずしも文化保護政策を採用することを妨げるものではない。

◇第4章 自律と文化

文化保護の根拠として「自律」の基盤という側面を挙げる議論の検討⇒ 自律を根拠にする議論では、自発的に支配的多数派文化に適応する人を、あえて少数派文化に押しとどめるような政策を正当化できない。

◇第5章 公正としての多文化主義
「代表的リベラルの中心的主張とは、自らの随意的選択の結果として生じた不利益については本人が責任を負うべきであるとする一方で、非随意的環境――たとえば才能や資質のような自然的偶然性、生まれや階級のような社会的偶然性――の産物として生じた不利益については本人の責任とすべきでないとするものである」(113)

・文化的不利益とハンディキャップの比較

①文化的不利益はハンディキャップなどではなく「高価な嗜好」だという主張。(バリーの議論)

たしかに、文化は「完全な選択の対象下にはない」(123)。だが高価な嗜好もそうである。変更可能性は、それがもたらす結果の公正性とは切り離される。

問題は、「規範や信念の起源や修正可能性ではなく、人々の眼前にある代替案の範囲の正当化可能性である」(124)。「主観的信念・選好の起源は別にして、文化的少数派が別の生き方を送る客観的機会をもち、なおかつ文化慣習に忠実な生き方をつづけているのであれば、そこから生じる不利益は政府の関知するところではない」(124)

②文化的不利益はハンディキャップであるという主張(パレクの議論)

ハンディキャップのなかにも物理的に不可能ではないが、精神的な苦痛を感じるものもある。高所恐怖症、パニック障害等。これらの「困難は――宗教的信条と同じく――客観的状態ではない主観的状態において生じている」(126)。

もし、信念や文化的不利益は高価な嗜好であるという根拠が、客観的機会と主観的機会の区別にあるとするならば、アレルギーや恐怖症は高価な嗜好だということになる。これを避けようとして恐怖症等をハンディキャップとみなすなら、「機会とは主観的状態ではなく客観的状態を意味するという彼自身の「決定的な区別」がくつがえされることになる」(127)。

⇒ とはいえ、文化的不利益とハンディキャップを同類とみなすことにも問題があるように思える。(127)

「文化を捨て去ることはハンディキャップを克服することとはまったく異なる」から(127)。
⇒「問題は、【かりに】それが選択の対象下にあったとしても、そもそも人がハンディキャップの場合のように文化からの離脱を望むであろうか、という点である」(128)

「何らかのアレルギーや恐怖症に悩まされる人は、もしこのハンディキャップを取り除く特効薬を手にするなら、おそらくそれを服用するであろう。」 それに対して、文化はそうではないだろう。それは、「当人にとって不可欠のアイデンティティや自尊心の一部になっているからであると思われる。アレルギーや恐怖症を有することは不運であるといえるかもしれないが、写真へのこだわりをそう評することは「奇妙なこと」である」(128)。
「セグロウ(Jonathan Seglow)が指摘するように、「自らの文化的メンバーシップのゆえに不利な立場に置かれているとしても、かれらは自文化を、車椅子を必要とする場合と同じ補償に値する障碍的環境であるとは見なさない。逆に、かれらは自文化が積極的に肯定・促進されることを望むのである」(Seglow 2001: 91)」

注19 「ただし、一般的な意味での障碍なら公正に訴えることが適切であるといいたいわけではない。それどころか、文化的メンバーシップに関わる場合であれ障碍に関わる場合であれ、ハンディキャップの是正という公正のパラダイムそれ自体が分配の受益者に恥辱感情を生じさせスティグマを押し付けてしまうとの批判が、現在リベラルな平等主義に向けられているのである」(135)

◇第6章 「自尊心の社会的基礎」とリベラルな多文化主義の課題
「公正に訴える論証にたいしては、それが人々の自尊心を損ない、その結果リベラルの掲げる「平等な尊重」の原理それ自体に背いてしまっているとの批判が近年投げかけられている」(137)

「運の平等主義」批判――「アンダーソンは、運の平等主義において、不利益の補償が生まれの運・不運という観点から正当化されていることに注目する。すなわち運の平等主義派、受益者が生まれつきの能力に恵まれない「不幸」な存在であるとみなすことをその理論的出発点にしているというのである」(139)

そうではなく、自尊心の社会的基礎としての文化という観点をとれば、文化保護政策を自律や公正よりも、文化保護政策を適切に擁護できる。
「運の平等主義にたいする近年の批判が示しているとおり、リベラルが掲げる「平等な尊重」の原理は、「公正」の達成ではなくむしろ「自尊心」の確保を必要課題としている」(154)

■言及・紹介

更新:堀田 義太郎
UP: 20080304 REV: 20100628
哲学/政治哲学/倫理学  ◇自由・自由主義 リベラリズム  ◇多文化主義/多言語主義  ◇身体×世界:関連書籍  ◇BOOK
TOP HOME (http://www.arsvi.com)