『出合いはたからもの』
豊田 悠子 20071115 文芸社,272p.
last update:20111105
■豊田 悠子 20071115 『出合いはたからもの』,文芸社,272p. ISBN-10: 4286036235 ISBN-13: 978-4286036236 \1470 [amazon]/[kinokuniya] sjs
■内容(「BOOK」データベースより)
皆さんに出合って頂いた「たからもの」のお返しに「元気」を差し上げたい―40代で視覚障害というハンデにもめげず、「元気・勇気・努力・笑顔」をモットーに前向きに愛犬と暮らす著者の元気のヒミツをここに明かす。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
豊田 悠子
1940(昭和15)年東京都生れ。世田谷区在住。駒沢学園高等保育学校保育科卒業後、幼稚園教諭としてクラスを担当、44歳で視覚障害者となる。歩行訓練、点字、点字ワープロを習得。フルマラソンを始め折紙、料理、編物、フリークライミングと果敢に挑戦。現在、ボランティアにも活動の場を広げている(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
■目次
T 赤い指輪
祖父母、両親そして私の誕生…11
祖父母のこと/疎開/父母のこと/また女児誕生
故郷と幼年期19
姉たちの時代と私/父の病/母の実家へ
疎開先の出来事/どんど焼き
小学校時代…28
さあ、東京へ/ランドセル
かぐや姫/林先生
小学校高学年から中学へ…36
澄子ちゃん/中学時代/面接試験
高校から保育学校…43
宵祭り/進路/アルバイト
幼稚園での奮闘記…50
梅組さん/親子リレー
もしも、あのとき…58
演劇に惹かれて/祖母との別れ
母から受けた教え…65
お手伝い/捧誠会
赤い指輪…72
わが家の変遷…79
U たからもの
死線を越えて…87
薬疹/入院生活
ロッキーと私…95
母の入院記録…100
怪我/入院/母のノートから
私のノートから/母の最期
自立へ導かれて…114
角膜移植/目の異常/盲導犬?
一枚の写真から…125
老いてゆく姿/日記から
予期せぬ事故…133
看病/日記から/別れ
たからもの…145
ミニチュア・シュナウザー/トイレのしつけ
音が大好き…152
六希の散歩/カメちゃん
私の伴走犬…159
見えないなんていや!/明日も元気で/その後の六希
山本先生のこと…170
V 元気をあげます
絆のロープ…179
代々木の練習会へ/ホノルルで
かもしかのように/フルマラソンへ/発病
巡り合い…191
出会い/伴走者
元気をあげます…199
ハッピープロジェクト/YWCAほか
移りゆく風景…206
丘からの眺め/踏切を渡って
風を感じて…213
サイクリング/タンデムに乗って
むくち…220
「夢舞いマラソン」に向けて…227
きっかけ/自主トレ開始/日記から
「夢舞いマラソン」ゴールまで…234
人間模様…242
フリークライミング…247
コンタクトレンズ…255
焼き立てのパン…258
「チーム豊田」の解散…261
チームを懐古…264
あとがきに代えて…266
■著者プロフィール(「奥付」より)
豊田悠子(とよだゆうこ)
1940(昭和15)年 東京都生れ 世田谷区在住
駒沢学園高等保育学校保育科卒業後、幼稚園教諭としてクラスを担当44歳で視覚障害者となる
歩行訓練、点字、点字ワープロを習得
フルマラソンを始め折紙、料理、編物、フリークライミングと果敢に挑戦
現在、ボランティアにも活動の場を広げている
■SJSに関連する部分の引用
(pp86-94)
U たからもの
死線を越えて
視覚障害になった最初の原因を思い起こすと、昭和四十七年夏の薬疹です。
当時、寛子姉は、元国務大臣だった青木孝義さんの三男、恒春さんと結婚していました。義兄は板橋区西台で、小児科医院を開業していました。
恒春兄に、旅行の数か月前に自動車を、月賦で支払う約束で購入してもらいました。その車で、瑛子姉(当時は青木小児科医院に勤務)と会津から御岳山を抜け上高地、恵那峡、諏訪湖を眺め、甲州街道を一路自宅へと、盛りだくさんの三泊四日のドライブをしました。
どこのガソリンスタンドでも、品川ナンバーの新車は憧れの的で優遇され、気持ち良い応対を受け、快い旅でしたが、私一人の運転で疲れ果てました。
帰宅すると、出かける前から体調を崩していた母は、西瓜ばかり食べて衰弱しきっていました。
翌日、母を車に乗せて西台の義兄の病院へ行き、処置と点滴で少し元気になった母から「捧誠会会員の阿部さん宅へ寄ってほしい」と頼まれ、世田谷通りに程近い環状8号線で、車を止めて待っていました。暑い日差しの照りつける日で、光化学スモッグ注意報が出ていました。
私の目は帰宅途中から充血し、痛みを伴います。近くの眼科を受診すると、「扁桃腺が腫れていませんか?」と聞かれ、「疲れてはいますが、今日の光化学スモッグは関係ありませんか?」と、[p88>逆に質問しました。結局、目薬をもらって帰りました。
薬疹
翌朝目覚めると、紫色の三センチもある大きな斑点が全身に出ていて、鳥肌が立つほど驚きました。診察時間より早めに眼科に行くと、内科医の受診を勧められ、一軒目はミュンヘンオリンピックの観光ツアーに行って休診中。出勤時間帯で、通りかかる人に紫色の斑点を見られるのが恥ずかしく、裏道を通って指定された医院とは別の、元校医を訪ねました。
「夏風邪をこじらせたね」
「そんなことありません。熱も咳も出ませんから」
私はドライブで疲れていることや、紫斑はどうして出来たのかを尋ねました。
「………」
ショートパンツを少しまくって、お尻に太い注射をされました。
窓口で事務員らしき女性が、「先生は高齢なので目も見えにくく、話をするときは自分のほうを向いているとき、大きな声ではっきり言わないと聞こえません」と言います。「今ごろ言われたって遅いじゃない!」と文句を言い、処方された薬をもらって帰路につきましたが、だるくてだるくて、フラフラと歩きました。玄関先で心配そうに母が待っていました。[p89>
「遅かったわね」
時計を見ると、もう十時を過ぎていました。
すぐ布団を敷いて寝ましたが、汗びっしょりです。熱を測ると体温計の水銀は四十度の赤い線を超えて、何度だか測りきれません。母が、電話で恒春兄に私の状態を話すと、夜往診に行くと答えてくれました。
熱にうなされながらもうろうとし、夜七時頃義兄が駆けつけてくれ、どんな薬を飲んだかと尋ねました。私が枕元の袋を示すと「薬疹です、抗生剤を注射します。明日の朝になっても熱が下がらなければ電話してください、入院の手配をしますから」と言い残して、帰っていきました。
翌朝までの長かったこと。熱くて苦しくて寝返りを何度も打ち、空が少し白んで明るさを感じ、時計を見るとまだ四時半です。
「お母さま、電話して。入院したいの」
うわずった声で頼みました。母の体調など気にかける余裕はありません。母も隣室の寝床から、「六時になるまで待ちなさい」と言います。
熱はまだ三十九度を超えています。
十時に、寝台車で大学病院まで移送されることになり、私はふらふらしながら入院準備を何とか整えると、車を待っていました。
「こんなひどい状態の人を一人では移送できません」[p90>
「母も病気なんです」
すったもんだしているところへ、運良く幼稚園の日直の帰りだと、同僚の深井まゆみさんが自転車で遊びに来ました。まゆみさんを説得し同乗をお願いして、入院することができました。
大学病院の皮膚科の大部屋に、ベッドが確保されていました。
入院生活
ドスーン、熱にうなされて私は点滴をしたまま、ベッドから転げ落ちました。夢を見ていました。高い山のてっぺんで「バンザーイ」と両手を挙げて叫んだので、点滴のチューブはちぎれ、液が飛び散りました。
あるときは、深い穴の中の渦巻きに引き寄せられて、グルグル回りながら下へ下へ、そしてフワーッと空へ舞い上がるような夢。自分の声で目が覚めます。身体の穴という穴が膿でふさがれ、高熱にうなされる声が同室の人にいやがられ、ハイケア(ナースステーション隣にあるガラス張りの三床の重症患者室)へ移されました。
目も膿で開かなくなり、唇にはオイルを塗ってストローをさして、かすかに呼吸をしていましたが、二十四時間点滴のお蔭で熱は下がり始めました。
隣は男性が呼吸器の機械音をゼーゼーさせ、奥のおばあさんには毎日入れ代わり立ち代わり、嫁[p91>や娘が数人集まっては誰それの悪口を言い合い、たまったものではありません。
「この部屋はうるさすぎるので、前の部屋へ帰してください」
「この部屋はね、いつでもあなたを看護婦さんたちが看てるので心配ない部屋なのよ」
婦長さんが言いますが、「私は看てもらわなくても大丈夫です」と、いやがられていたことも知らず、自分の病状もわからず、のんきな返事をしました。
点滴をする太い血管がもろくなり、手の甲や足の先の細い血管にまで点滴用の針を刺しました。私は注射が大嫌いでしたから毎回、「痛くありませんように……」と祈り、おまじないを唱えてこらえていました。
注射液が漏れて腫れる紫色は、ちょうちょの形だったりほら貝の形に似ているそうで、気にする先生に「今度は馬の形に漏らしてください」と、冗談を言いました。
私の世話に付き添いさんがつきましたが、点滴が終わると尿意をもよおすことを知っていながら、ナースコールを手の届かない所へ放って長時間、部屋を離れます。病人の付き添いにはふさわしくないと判断し、寛子姉に頼んで別の人に替えてもらいました。
次の小母さんはこまやかに気を配って世話をしてくれ、私は幼い頃の話や幼稚園の子供たちの話を得意になってしました。
病状は少しずつ改善し、入院して半月ほど経って二床部屋に移され、気づくと母は一度も見舞ってくれていません。電話をしようと、ダイヤルをイメージして指で確認、局番の四××、これは見[p92>えなくても回せそうです。八九××、これも大丈夫! いつ実行して母を驚かそうかと、嬉しい計画を立てました。瑛子姉は青木小児科の午後の休診時間中、たびたび母と私と二人を見舞うので、さぞ大変だったことでしょう……。
私は目を切開しましたが、すぐ上まぶたが下りてくっつき、二度目の手術後は、夜までまぶたを閉じない努力をしましたが、まぶしくて、目に物が突き刺さるような痛みがありました。徐々に痛みは取れましたが、かさぶたで逆さまつげとなった毛先が、角膜を傷つけた虹彩炎のまぶしさは治まりませんし、薬のせいで髪の毛も、手で触っただけでゴソッと指にからんで抜け落ちました。
開眼したので歩行訓練を始めましたが、最初はバランスが取れず、赤ちゃんのようにヨチヨチと身体を振って歩き、トトト……と壁にぶつかっては止まります。
「豊田さん、そのハンカチをはずしてよ」
看護婦さんが私に、注意しました。私の髪の毛が伸び放題です。それで白いハンカチを半分の三角に折り、髪を縛っていましたが、三角の先が上を向いて立っていて、ちょうど幽霊の姿に見えるとか……。看護婦さんに言われ、自分の姿を想像して大笑いしました。
寛子姉が、母を見舞った後に私の病室を訪れる日、首を長くして待っているのに約束の時間が過ぎても来ません。三十一歳の私は、母の容態が急変したかと心配で、だだっ子のように大声で泣きました。[p93>
小母さんになだめられているとき、ドアがノックされ、姉が顔を出しました。
「どうしたの? 涙流して。お母さまはとても良くなってたわ。今度の水曜日に来るそうよ」
「今、泣いたカラスがもう笑った!」
照れて私は歌いました。
薬疹で化膿した個所にかさぶたが出来、ケロイド状の盛り上がった皮膚が形成されてくると、かゆみに耐えられず、寝つけぬ夜は注射で眠る日も多くなりました。
少しやつれてはいましたが、母の笑顔を見てからは、私の病状も目を見張るほど良くなり、「入院時の体重に戻ったら退院」と言われるまでになりました。
「先生、おかゆから常食に変えてください」
「そういうことは医者が決めます」
担当の先生は笑いながら、食欲のあることを喜んでくれました。
私は、一皮むけた足の裏の形そのままの皮膚を、ホルマリン漬けにしてもらい、手足の爪も化膿して、そぎ取られた手を見つめました。
退院日が決まると、皮膚の一番良い状態の背中に、薬疹の原因を調べるためのパッチテストを行いました。一センチ角の絆創膏(ばんそうこう)に四種類の薬を貼り一昼夜、反応を診ると、クロラムフェニコール系の薬剤(クロマイ)だけが赤く反応を示しました。[p94>
「豊田さんは薬に対してアレルギーがありますから、今後はこの薬を使用しないよう医者に伝えることが大切です。また目の病名は、スティーブンス・ジョンソン症候群です」と言われました。
八月三日に緊急入院してから、九月二十三日まで五十一日間、私が安心して入院生活を送れたのは、新しい先生を一人雇って、私が十月いっぱい休めるようにしてくれた幼稚園の配慮のお蔭です。
再び保育できる嬉しさを感謝した、初めての闘病生活でした。
(pp114-124)
自立へ導かれて
角膜移植
母も亡くなり、家を建て替え、道路で倒れたことが原因で退職していた私が、通院していた大学病院眼科の教授、R先生から薬疹の後遺症で見えにくくなっていた右目(スティーブンス・ジョンソン症候群による角膜混濁)の角膜移植を勧められたのは、昭和六十年の春でした。
「見えなくてもともと、見えるようになったら大もうけ」と、軽い気持ちでの入院です。
四月十七日に、三週間ほどの予定で、近くに出来た動物のシャンプー・カットの店に、ロッキーの散歩とえさやりを頼んで入院しました。
角膜移植は凍結角膜の移植で、数時間で終わりました。翌日の治療で、眼帯を取られると明るくまぶしい光と物が目に映り、「手術してよかったなぁ」と感じました。しかし、その翌日は、物がぼんやりとしか映りません。楽天家の私は、眼帯を取る頃には見えると確信し、あまり心配もせず入院していました。
私は数本の目薬を、時間で点眼していました。一つの目薬をさすと、目やにがひどくて目が開け[p115>られません。点眼で目やにを溶かして、やっと開けていました。
「この目薬をさすと目やにがひどく出ますから、変えてください」と担当医に申し出ました。
「目やにが出るのは良いことです。目の中のばい菌を、目やにとして出しているのですよ」と言って、その薬は変えてくれません。
こうして三週間以上、過ぎてしまいました。私は、月に一度は外泊願いを出して家に帰り、草取りや溜まった郵便物の整理、支払いなどを済ませて、家を守り留守番しているロッキーと遊びました。一日はアッという間に過ぎました。
目の異常
七月になっても右目は混濁したままですし、退院の許可が出ず、しびれを切らせた私は担当医に尋ねました。
「もう入院して三か月にもなります。どうして退院できないのですか?」
「豊田さんに合う目薬が見つからないのです」
また、目薬が増えました。今度の薬をさすと目が痛み、開けていられません。堪えていると頭痛さえします。同室の人からは「まぶたの上まで赤く腫れているわよ」と、気の毒そうに言われます。担当医に異議を申し立てると「豊田さん、この目薬は抗生物質の入った大事な薬ですから、痛くて[p116>も堪えてください」と言われ、しかたないのだとしぶしぶ、受け入れました。
八月のある朝方、頬を伝わって耳に入る水に気づき、目が覚めました。病室を出て廊下の蛍光灯を見上げて、びっくりしました。
良く見える左目が、ドーナッツ型が目に貼りついているような、中心とその外郭だけしか見えません。目玉を動かしても、顔を動かしても、ドーナッツ型は貼りついています。
温かい粘り気のある涙は指でぬぐうほどで、異常を感じながら、朝の回診時間を待ちきれずにいました。
話を聞いた当直の看護婦さんは、「今日は休日だから豊田さんの処置はありませんよ」と言います。私が、切迫した状態が心配で不安であることを訴えると、「じゃあ、申し送りしておくわ」と言って、隣の人の体温やトイレの回数を聞いて退室して行きました。
午前十一時が過ぎても名前を呼ばれず、不安になった私はナースステーションへ行き、朝の出来事を話すと、申し送りは全くなかったようでした。
「急いで検眼室に回って。先生が帰っちゃうから!」
日直の先生は私の目の状態を見ると「部屋へ戻っていなさい」とだけ、言いました。
「どうしてこうなったのか、ちゃんと説明をしてください」
私は厳しい口調で問い返しました。
「もう一度呼んであげるから、部屋へ戻りなさい」[p117>
「それならわかりました」
三十分くらいして呼ばれ、処置室へ行くと、教授のR先生が検眼鏡の前で座っていました。
「やっぱり大変なことだったのだ」と心の中で感じながら、教授の話を聞きました。
「目玉は房水という水に浮いています。豊田さんの角膜は、普通の人の三分の一くらいの厚さしかないのです。薄くなった部分の角膜に穴が開いて、そこから房水が流れ出したのです。この房水は二十四時間以内に処置をしないと、目玉が中へ落ちて何も見えない真っ暗闇になってしまいます。早く気づいて良かったですよ。角膜穿孔はコンタクトレンズで予防します」と言われ、治療用レンズを探しています。
医学知識にも乏しく、患者の気持ちを理解しない看護婦さんを憂いながらも、時間との勝負で真っ暗闇へ突き落とされたかもしれなかったことを思うと、背中に寒気が走りました。
「コンタクトレンズをはめるのは、傷ついた指に絆創膏を巻くのと同じです」と、R先生がおっしゃいました。
当時は、目のカーブを測ってレンズをはめるのですが、穴にばい菌が入ったら心配と、カーブを測れません。最初につけたレンズは小さくて、吸盤のように吸い付き痛みを伴い、目を開けていられません。
「目が真っ赤よ。くっきりとレンズの跡がついてるもの、痛いでしょうね」
同室の人も同情してくれました。翌日取り替えたレンズは大きすぎて、紛失してしまいました。[p118>三日目くらいに、R先生は明るい声で「前房水が出来てきたので一安心です」と。
しかし、見えていた左目はもやが掛かっているようです。目をこすりたくなりますが、レンズが入っているので、我慢しました。
九月になるとレンズも取れましたが、目の見えにくさは変わりません、
隣のベッドに、元気の良い六十歳くらいの太田さんが入院してきました。私は病院内を回り、洗濯機や乾燥室の場所を案内したり、早朝に富士山の見える窓を教えたりと、すぐ仲良しになりました。
「ほら、煙突の横にビルが見えるでしょう。天気の良い朝は、あの辺から富士山が見えるのよ」
私は得意げに話しましたが、同室の人に私が見えないことを知らされた太田さんは、びっくりした様子でした。
太田さんの家でも犬を飼っていて、お互いに犬の自慢話に花を咲かせたり、野球が好きで実況中継を二人で聞いたりもしました。
「豊田さん、そろそろ退院ですよ」
担当医の言葉です。
「いいえ、私は目が見えていて入院したのですから、見えるようになったら退院します」
「ここは、老人ホームのようにいつまでもいる所ではありません。目薬も決まったし、今すぐではないのですが、退院の準備をしてください」[p119>
退院の日が決まるのを、同室の人は指折り数えて待ち焦がれているのに、私は少しも嬉しくありません。むしろショッキングな言葉でした。家に帰っても一人です。見えない状態で、どうして暮らせましょう。不安が渦を巻いて胸を締めつけます。
大部屋には夏休み中から、小学四年の女児と三年の男児が入院していました。母親は二人とも、四十三歳の私より年下ですが、私は子供たちに「お姉さん」と呼ばせての遊び仲間でした。
二人は私の退院を知っていました。昼間はその子供たちとも戯れて過ごしていましたが、夜になると病室を抜け出し、外来の長椅子で将来のことを考えて、希望も持てないでいました。頬を伝う涙をぬぐうこともせず、口をへの字に曲げて、声の出るのを必死でこらえていました。
「豊田さん、風邪引くから部屋に戻りましょうね」
気遣って探しに来た看護婦さんに、心配そうに声をかけられ、付き添われて病室に向かいました。翌日も寝つけず、病室を抜け出しました。その夜は特に冷え、外来の廊下は寒い風がパジャマの裾から忍び込み、心も体も震えていました。
病室へ帰りベッドに近づくと、ベッドの陰に隠れていた二人の子供が飛び出し「見ぃちゃった、見ぃちゃった」と、囃(はやし)し立てて寄ってきました。私は笑みをたたえて「何を?」と聞く声に、答えるすきも与えず「そんなこと、言うんじゃない!」と部屋の奥から、どすのきいた声が忠告の言葉を浴びせ、二人はひるんで言葉を呑み込みました。
私は子供たちと手を握り合いながら、「もう泣かない」と自分の心に誓い、約束しましたが、子[p120>供たちのお蔭で「泣いたってどうにもならないこと」を悟り、涙に終止符を打てました。
私は病院内のケースワーカーを訪ね、今後の生活設計の基盤を相談しました。
生計は、私立学校教職員組合からの障害者年金を受給し、世田谷区のボランティア協会に在宅での協力を頼み、退院と同時にボランティアの援助で生活するめどが立ち、不安ながらも十月二十九日に退院しました。
盲導犬?
タクシーで、七か月ぶりのわが家に着きました。瑛子姉が、木戸を開けながら呼びかけます。
「ロッキーちゃん、ご主人さまのお帰りよ」
飛びつくことを想定し身構えた私に、愛犬はのそのそ近づき、クンクンかぎ回るだけです。「忘れちゃったのかしら?」と、私はクスッと笑いながら姉を振り向き、「ロッキー」と小さく声をかけました。
すると「やっぱりそうだ、嬉しい!」と、言わんばかりにロッキーが十五キロの体重をかけ、すり寄ってきたので、しゃがみかけていた私は尻餅をつきました。
ぎゅっと抱きしめた瞬間、独りぽっちじゃないと強く感じると同時に、生きるエネルギーをもらったような嬉しさと温かさに、語り尽くせない喜びを覚えました。このとき、ロッキーは七歳です。[p121>
退院祝いに義兄の隆一さんも立ち寄り、ちょっと賑やかな夕食を共にした後、「一晩でも二晩でも、これ(姉のこと)を貸してあげるよ」と、笑いながら言いました。
私は、一人で生活するには甘えは禁物と心に決めていましたので、「ありがたいけど、今日から一人でやっていきます」と、きっぱり言い、心配そうな姉の背中を押しながら玄関で別れました。
洗濯物を陽の当たる庭へ干しに行くと、ロッキーは嬉しそうに寄ってきます。竿に干す間中、そばで寝そべっているようです。
「キャーン!」
「ごめんね、見えないのよー」
しっぽや足を踏まれて、逃げ出します。毎回こんなことが続きます。
数日後、犬の散歩を頼んでいた店の人が集金に来て、「犬はご主人と散歩するのが一番嬉しいものですよ。店が忙しくなったので、もう散歩はできません」と断られ、今までのご恩に感謝をしました。
翌日の夕方、ロッキーが「キューン、キューン」と、悲しそうな苦しそうな声で鳴きます。
「ロッキー、ごめん。まだ外を歩けないの」
散歩の催促とわかっていますが、早めの夕食でごまかしました。翌日は近所に聞こえるくらい、大きな声で鳴きました。思い切って引き綱を持って庭に出ると、ロッキーが飛んできました。[p122>
「一回りよ、怖いからゆっくり歩いてね」
門を出ると、まぶしく乳白色の世界が広がり、辺りの景色は灰色の濃淡と、近くは少しばかりの色合いが見える程度で、一歩を踏み出すのも躊躇する私を、ロッキーは角を上手に曲がり、電信柱をよけ、ゆっくり一角を回って帰り着きました。
「ロッキー、歩けたね」
ホッとした満ち足りた気分で、翌日からはおねだりされないうちに散歩をしました。
ロッキーが足早に、私の前を横切り、道の真ん中へ行こうとします。
「危ないでしょう!」
私は、引き綱を強く握って、きつい口調で止めるのと同時に、ももとひざを硬い物にぶつけてしまいました。よく見ると、駐車中の自動車でした。私を守るために横切った動作と知り、それからはロッキーを信じて、次第に広い道路を渡って遠くまで行かれるようになりました。
でも毎日、ラジオが唯一の友達で話し相手もなく、料理も作れず、ごった煮やお菓子で空腹を満たし、犬との散歩だけでは、生きている価値も意義も見つけられず……。最終電車にロッキーと、と考えて家を出ましたが、大きな音が嫌いな犬に、家へ引き戻されてしまいました。
ある午後の日、小さなリュックにロッキーのえさと、私も少しばかりのお菓子を入れて家を出ました。どこまでもどこまでも、歩ける限り歩いて疲れたら寝て、歩けなくなったらそこで終えるの[p123>も私の一生と、過ぎし日の物思いにふけりながらも、犬と一緒なら誰にも不信がられないと確信もしていました。
いつもの遊歩道は、葉を落とした木々の合間から、暖かな冬の日差しがそそぐ小春日和です。もう、どのくらい歩いているのでしょう。足が棒のようになり、へたへたと座り込もうとする私を、ロッキーは引っ張って歩きます。
日差しも西に傾き、冬の日暮れは早いのです。
「悠子さん、お散歩?」
「あ、おばさま」
呼び止められ、ハッと我に返りました。声の主は回潤会の古田さんです。ロッキーは私の行動を不信に思い、必死で私を家へと歩かせていたのです。
「ロッキーのためにも、しっかり目標を持った生活をしたい!」と考えるきっかけをくれました。
狭い道をディーゼル車がやってきます。ロッキーは門の入り口の小さなスペースを探し当て、私を安全な場所に誘導すると、車の通りすぎるのを待ちました。
「わぁ、盲導犬ですか!」
後ろから自転車で来た女性が、立ち止まって話しかけてきます。
私は手短にロッキーの自慢話をすると、「そう、お利口さんね。お母さんを守ってね」と、ロッ[p124>キーの頭を撫でて行きました。
愛犬ロッキーは、私を自立へと導く水先案内人(犬)です!
(pp159-165)
私の伴走犬
見えないなんていや!
私は治療用のコンタクトレンズを退院当時から、ずっと左目につけています。
その朝は左目がゴロゴロと痛み、うっとうしく何度も生理食塩水の点眼薬を差していました。昼食時にはゴロゴロの痛みは消えていましたが、見え方がいつもと違って、にじんだ感じです。「はずれたのかな?」と思いながらも、ジムの予約時間に間に合うよう家を出ました。
私は人や車の多い通りを歩くと神経を使い、肩こりの元になります。それで静かな住宅街を選び、好んでくねくねと曲がりながら歩いています。
そのときは、歩くことだけに集中し、何回角を曲がったのかの記憶が薄れていました。左に曲がると千歳通りの信号の所へ出ると思い、曲がろうとしました。ところがその道は縁石が白杖の行く手を邪魔して止めました。道路ではないのです。
私はとたんにパニックになり、「えっ、ここはどこ?」と頭の中は真っ白で、自問自答しても答えが出ません。
いつもは何となく白い塀とか駐車場の空間、生け垣の盛り上がった黒い色と、わずかな色のコン[p160>トラストを感じながら歩いています。が、そのときはすべてが乳白色で、上を向くとまぶしい太陽を感じるだけでした。
今来た道を戻り、T字路で立っていると人の靴音がしました。
「この道(私が進もうとした道)はどこに出ますか?」
「さあ……」
「駅はどっちですか?」
男性はこの辺りは知らないらしく、指をさしているのでしょうか、声が後ろ向きに聞こえます。軽く会釈をして自分を信じ、今行こうとした道を進みました。
ミニバイクが前方を横切り、「十字路」を確認できました。さらに進むと、うなぎの蒲焼の匂いが漂い、私は安心し、目的のスポーツクラブに到着できました。しかしジムへの階段の位置が、なかなかわかりません。「こんなに見えないのは、きっとレンズがはずれている」と確信しました。
掛かりつけの眼科は毎週、水曜日も木曜日も休診です。この日は火曜日、「今行かなければ見えない日がずっと続き、耐えられない」と、心の目まで真っ暗になりそうでした。
掌に汗を感じ、恐怖で血圧が低下し、目まいもします。「あんな状態はいやだ」と、寒気さえ感じました。
以前、角膜炎で四日間レンズをはずしたときは、左目も乳白色に混濁し、日に日に混濁が進み、何も見えなくなりました。家の中でも物にぶつかる恐怖の日々を過ごした、あの経験の記憶が脳裏[p161>をかすめます。
家の中では、窓のほうは明るく見えます。それを頼りに流し台やガス台、テーブルと食器棚の位置を確認しました。混濁がひどくなると、冷蔵庫も白く明るく光るのです。それで、自分のいる場所がわからなくなります。少しでも角度を間違えて歩き出すと、机やガラス戸にぶつかり、手を伸ばし、すり足で行動したのでした。
そんなときでも六希のためには、朝と午後の散歩をしました。
一日目は、目玉をきょときょと動かすと、混濁の隙間から近所の様子を何となく把握できます。横断歩道らしい白い線、店頭で風にはためく売り出しの旗、歩道と、引きずられて散歩しました。
二日目は、歩道を歩いているはずでした。「車がやけに近くを通るな」と思ったと同時に、「あぶない」と女の人に左手をつかまれ、引き寄せられました。
「あなたは見えないのですか?」
覗き込んでいるのか、下から声が聞こえます。
「ええ」
「今は車道を歩いていたのですよ」
私は、犬が向こう側に渡りたがっていることは感じていました。
六希が、歩道と遊歩道が交差する場所で立ち止まりました。いつもは自動車の来ないことを確認して渡っていましたが、もう一度折り返さないと自宅へは帰れません。二回も大きな道路を横断す[p162>る勇気がありません。それで「今日は行かれない」と引き止めたのでした。どうしても六希は渡りたかったのでしょうか、斜め横断を試みて失敗したのです。
その日は「見えるようになったら行ってあげる」と諭し、約束し「ハウス、ハウス」と急き立てて、家への道案内をさせたのでした。
この遊歩道は、私も六希もお気に入りの道です。
私がマラソンを始めた時期が六希も成長盛りで、私のジョギングの伴走相手を務めました。出会う犬と鼻で挨拶したり、お尻の臭いをかぎ合ったりするのも六希の楽しみのひとつです。が、ジョギング中は臭いもかがず、すれ違い吠え立てる犬を尻目に「僕、お仕事中」とでも思っているのでしょうか、知らん顔して走り去ります。
遊歩道は人通りも少なく、絶好の練習場です。私と六希はハアハアと息を弾ませ、六希の歩調に合わせてピッチ走法で走っていました。
木の根っこがコンクリートを盛り上げた所で、私はつまずきました。引き綱をギュッと握ると、六希は四本の足で踏ん張り、私の体重を支え、私は転ばずにすみます。そんなことは幾度もあり、何度六希に助けられたことでしょう。
きっと、斜め横断をして、その大好きな遊歩道を歩きたかったに違いありません。
四日目は混濁がひどく、家の前の電信柱で用を足させたのでした。[p163>明日も元気で
あんな不安でいやな体験は、一度だけで十分です。
早く眼科へ行かねばとあせりながらも、心細く立っていると友人が来たので、わけを話してタクシーで眼科へ急ぎました。
眼科では、やはりレンズははずれ、無いそうでした。
「こんなに赤い目では、レンズは入れられませんよ」と、今井先生がおっしゃいます。
「これ以上見えないと何もできません」
「見えないのは一時(いっとき)ですよ。レンズをはずしているほうが、目には良いのですから」
それでも「レンズがないと、しみて痛いです」とか「混濁が進んで食事の支度もできません」とか「金曜日まで待てません」などと、私はつべこべ泣き落としでレンズを入れてもらうことに成功しました。
家までの道中は電柱にぶつかったり、駐車場の、砂利の中まで踏み込んだりしました。が、心は「きっと霞が晴れてくる」と、強引にレンズを入れてもらえたことにニコニコしていました。
翌日の予約をしているガイドヘルパーをキャンセルするため、世田谷福祉事業団に電話しました。[p164>すぐ、ガイドヘルパーさんから「目が痛いって、どうなさったのですか?」と電話。私は朝からの出来事を手短に話しました。
黒沼さんと話していると、あんなに落ち込んで夕食をする気もなかったのに、不思議です。「明日の朝も走るので、体力をつけるためにうなぎでも食べることにするわ」と、冷凍庫のうなぎが目に浮かび、角のうなぎ屋の匂いまで感じて元気に返事ができ、黒沼さんも安心したようでした。
その晩は仏前で、「お母さま、見えるようにしてください」と母に祈る気持ちで、両手を合わせて拝みました。
「きっと見えるようになる」と信じていても、黒い不安で胸が締めつけられます。払っても払っても黒い不安は繰り返し襲い、寝つけません。何度も手探りでトイレに立ち、目薬を点眼し、水を飲んで、置時計が毎正時を打つ音を数えていました。眠ったのは明け方の一、二時間でしょうか。
翌朝、寝返りを打った私に、六希はいつもどおりの散歩に行く気になって、飛び下りました。
「六希ちゃん、ママ見えないから、ぶつからないよう、ゆっくり頼むわね」と言いながら、胴輪をつけました。
玄関で靴を履き、「六希」と声をかけると「僕、ここですよ」と、私の伸ばした手に犬は頭を差し出します。私は綱をギュッと握り、六希を信じて戸外へ出ました。
犬は屋内で飼うと、たくさんの言葉を理解し、分別ももつようになります。それでいて何年経っ[p165>ても、従順で素直で愛らしく、こんなときこそわが家の一員であることを、よかったと感じます。
もし六希がいなければ、外に一歩も出られず、それどころかベッドにしがみついて、自分の不幸を嘆き悲しんで目を赤く腫らせていたでしょう。
一人で悶々と過ごしたかもしれない時間を、共有して元気づけてくれる犬を、ありがたいと感じた朝でした。
(pp255-258)
コンタクトレンズ
今井眼科の先生は、
「あなたの角膜は、もう穴の空く心配はないので、コンタクトレンズを外したい」
と、おっしゃいました。
この数年は、風の強い日や長距離走をした日にレンズをなくしたり、角膜炎で目を充血させることが多くありました。
今井先生は、大学病院の教授の見解を知りたいと、私に再診を勧めます。私は、先生の紹介状を携えて、久しぶりに角膜外来を受診しました。
大学病院の教授の見解は、今までどおりコンタクトレンズの装用を勧める返信だったようです。
「う〜ん」
今井先生は、手紙を読み終わると、腕組みして唸(うな)ったあと、
「コンタクトレンズをつけたままがいいなら、大学病院へ行きなさい」と、私に判断を迫ります。
私は、以前は十日から二週間に一度はレンズの洗浄と装着のため、通院していました。その通院は、大学病院まで一時間以上もかけて電車とバスを乗り継いで行くのが、ラッシュとも重なって大変で、歩いて行かれる近くの今井眼科へお願いして六、七年経っていました。[p256>
「レンズを外しても、本当に穴は空かないのですね」
私は、角膜穿孔(せんこう)の心配と、レンズを外すと混濁がひどくなったことを思い出し、その点も、念を押しました。
「混濁は一時的なもの、誰だって目に異物を入れていて良いはずないでしょう。特にあなたは……」
私は悩んだ末、今井先生の言葉を信じて、レンズを外しての生活を決断しました。平成十七年十一月のことです。
レンズを外した数日は、混濁がひどくて、〈外さなければ良かったのかしら〉と思う日々が続きました。
六希の散歩もままならず! 不可能でした。
シャンプー・カットの店に事情を話し、
「有料でも良いから、一日一回、六希の散歩をしてくれる人を探してもらいたい」
と、電話をしました。
「有料は、良くないわ」
と、その女性が店の合間に、六希の散歩をしてくれました。
私も、八方につてを求めてお願いし、あるときは友達が、ある日はガイドさんの好意でと、二週間もいろいろな人にお世話になりました。[p257>
六希は、誰とでも喜んで家を飛び出し、この辺の地理に疎い人と出かけても、三十分で、ちゃんと戻って来るのは不思議でした。
私の目の混濁も、薄紙をはがすように少しずつ、ほんの少しずつ回復し、目に映る物の輪郭がおぼろげながら見えてきました。
六希の気配に、しゃがんで目を近づけると灰色の動くものが見えました。このときは嬉しかった!! 今井先生を信じて良かったと思った瞬間です。
それ以来、レンズを外した状態で暮らしています。
以前より薄暗く見えるのは、白内障のせいだとのこと。
お出かけ用に、薄いぼかしの入っためがねを新調しました。敏美さんのアドバイスとカウンセリングを受けて、おしゃれにはお金のかかるものと大奮発して、購入しました。
そのめがねは軽いし、「似合う」とか、「格好良い」と言われてご満悦です。[p258>
焼き立てのパン
神奈川県から世田谷へ引っ越してきた女性が、私と同じ目の病、スティーブンス・ジョンソン症候群ということです。年齢も近いことから共通の話題も多く、電話で話す機会も増えていました。
彼女、小沢尚子さんは、だんだん見えにくくなる目を気にしながらも、ご主人の協力で二人のお子さんを育て上げた、中途失明の主婦です。
小沢さんのコーラスグループの発表コンサートに招待されるうちに、仲良しになり、お家を訪問しました。
お昼は、彼女の焼いたパンが山盛りに、野菜スープやサラダにハム・手作りジャムなどが食卓を賑わせ、全盲でも主婦ってすごいなァと思いました。
(pp261-263)
「チーム豊田」の解散
ジョギングの早朝練習中や、走り終わって立ち止まると、風邪も引いていないのに咳が止まらないときが多くなりました。最初の頃は、〈寒い朝だったから〉と、あまり気にしませんでした。が、春先から夏にかけても、時々咳に苦しみました。
マラソンを始めて十年余り。私は、朝食前に走るので、糖分補給と、のどの奥の乾き防止のためにあめをなめて走っていました。
そのあめが、最初は口の中に三十分ほどありました。あめがあるほうが会話もしやすく、のどもうるおうので何気なく続けていました。それが唾液が出ない今は、二時間も残っているのです! あめをなめているのに、のどの奥がヒリヒリし、偉そうな咳払いをします。
また、平成十九年二月に、お弁当に出されたウインナーソーセージを前歯で噛んだ瞬間、前歯が折れたのかと思うほどの激痛が走りました。そのあとの食事は、何を食べても味も感じず、痛みだけです。その前歯の激痛の翌日に「チーム豊田」の新年会がありました。第六感の働きでしょうか!
私は、その酒宴の席で、「今年一杯は、何とかレースに出たいので、早朝練習を続けてください」と、お願いしました。[p262>
毎年開く新年会で今までこんな頼みはしませんでした。皆も半永久的に続くものと思っていたことでしょう……。
ところが、前歯の折れそうな痛みは、その後も短期間に数回続きました。お寿司の貝を前歯で噛み切ろうとした瞬間、パンの耳を噛んだとき、はたまた鶏の唐揚げと、激痛と疼痛に襲われました。痛かった歯茎の根元を指で触れると痛みがあります。
私は、長期間あめをなめていたのが原因で糖分や歯についた汚れが悪さをしているのだと、心配になりました。
中江クリニックに相談し、国立病院のシェーグレン症候群(唾液が出ない病)に詳しい先生の紹介を受け、診察を仰ぎました。
血液検査やアイソトープ検査で、唾液腺の状態を調べましたが、全く機能していないことがわかり、投薬も、役に立っていないとの理由と副作用の心配で、中止しました。
口の渇きやのどの渇きは、水を含むことや、オーラルバランス(ゼリー状のもの)で自然療法で解決するしかないようです。
岩が波に浸蝕されたように、前歯の裏側が削り取られていくのも心配の種で、歯科医を受診しました。目で見る私の歯は、きれいに磨いて白く光り、歯並びも良いのですが、レントゲンの結果は、ほとんどが虫歯で、前歯の芯は上下三本共、半分以下の太さとのこと。虫歯の詰めたものが、虫食い状態でポロポロと欠け始めています。それを治療すると、治療に歯が耐えられず前歯が折れる可[p263>能性があるとのこと。〈怖いなァ、両親がくれた自慢の歯だったのに……〉
食べ物は、包丁や箸で小さく切り分けたり、手でちぎり、前歯を使わない工夫も始めました。〈年寄りっぽくて嫌!〉もう、口をあんぐり開けて、かぶりつくことは夢です。
ある朝、みっともないけど、不精してシュウマイを奥歯で噛み切ろうと口を大きく開けて噛みました。「ガリッ!」私は、ビクッとし、一瞬背筋が伸びました。
〈なあんだ〉そそっかしい私が、箸の先を噛んだ音でした。
*作成:植村 要