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『反骨のコツ』

團藤 重光・伊東 乾編 20071030 朝日新聞社, 280p


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團藤 重光・伊東 乾編 20071030 『反骨のコツ』,朝日新聞社,280p. 740+税  ISBN-10: 4022731699 ISBN-13: 978-4022731692 [amazon]

■出版社からの内容紹介(朝日新聞社ホームページより)
 刑事訴訟法起草でGHQと渡り合い、最高裁判事として書いた少数意見は数知れず。死刑廃止論で知られる93歳の法学界最の重鎮が、音楽家で作家としても活躍する異才の東大准教授の問いに縦横に語る。憲法9条と死刑、2009年に導入される裁判員制度と、徴兵制、昭和天皇と帝国軍人、教え子・三島由紀夫……。すべての国民が耳を傾けたい、碩学のみずみずしい言葉と、反骨に生きるすべを披露。

■目次 はじめに

第1章 反骨から見る日本国憲法
 1. 新憲法と刑事訴訟法
  「アメリカ製」の新憲法/東条英機と山本五十六/刑事訴訟法起草でGHQと渡り合う/
はねけるべきははねつけ、認めるべきは認める/亡命ユダヤ人の情熱
 2. 昭和天皇のプリンシプル
  マッカーサーと昭和天皇/昭和天皇の軍人評価
 3. 戦時下の東京帝国大学法学部
  五・一五事件と二・二六事件/美濃部達吉先生と天皇機関説/平泉澄先生との出会い

第2章 死刑廃止は理の当然
 1. 九十三歳の最新刊
  森羅万象を扱う刑法学/陽明学の新著執筆中
 2. 團藤法学はポストモダン
  ロラン・バルトと戦後の零時/強制収容所と決定論刑法学/ポストモダンとしての團藤法学/
  マスメディア、ファシズムと法思想/團藤法学の文学的思考/地球規模での同時代思想の最前線

第3章 決定論をはね返せ
 1. 主体制の理論
  保安処分か、刑罰か/牧野先生の一杯の紅茶/行為の背後にある主体性
 2. 死刑はあってはならない
  死刑廃止は天の意志/極刑を望む世論の背景/決定論が導く差別と死刑/去勢と死刑にみる生命の不可逆性
 3. 死刑廃止に立ちはだかる壁
  法廷で「人殺し」と呼ばれて/あなたは死刑宣告できますか?/被害者感情と世論
 4. 日本人にとっての罪と罰
  生きて償うより、死んでお詫びする/死刑廃止が実現していた平安時代/
  本質的な議論を/「自然な感情」の罠/死刑存置国は「弱い国」
 5. 死刑は取り返しがつかない
  地下鉄サリン実行犯の死刑確定/マインドコントロールは解けても/
  生命だけは取り返しがつかない/死刑より重い無期
 6. 国家が人の命を奪うとは
  国家が「やむを得ず」犯す罪/国民主権と死刑の矛盾/憲法で死刑を廃止したフランス/
  大統領の歴史貢献厳罰主義の是非/国民が国民を裁くとき

第4章 裁判員制度は根無し草
 1. 裁判員制度、開始へ
  法律の素人、では済まない時代/民衆の求めた権利ではない/リーガルリテラシー教育の必要性
 2. 陪審、参審と裁判員
  EUは憲法で死刑を廃止/陪審と参審と裁判員/量刑は責任重大/知らしむべからずの風土
 3. 死刑のある国の裁判員
  死刑廃止なくして裁判員制度なし/国民の九割が「死刑もやむなし」?/義務か? 権利か?/
  現代の「石打ちの刑」/教誨師という不可解な存在/殺人教団と死刑存置国

第5章 憲法九条と刑法九条
 1. 死刑合憲判決を読み直す
  死刑は残虐な刑罰ではないのか/死刑合憲説の根拠/「生命は全地球より重い」、しかし……/
  占領下の憲法解釈/煩悶する裁判官/国際世論と死刑廃止/死刑合憲判決とGHQの思惑/
  憲法三一条を死刑禁止条項に?
 2. 憲法を超えた命題
  グローバル社会の基本ルールとして/「汝、殺すなかれ」は憲法を超えた命題

第6章 お悩み解決は團藤説で
 1. 三島由紀夫は「バカなやつ」
  最後の教え子は団塊世代/三島を魅了した團藤刑訴法/犬に食われた名答案
 2. 飛び級の少年時代
  チョウやトンボに夢中/一人だけ呼び捨てでなかった
 3. 星空と原書濫読
  天下国家を考えて法学部へ/星空を眺めて悲観のどん底へ/幕末の志士たちにのめりこむ
 4. 一生懸命やれば悩みは忘れる
  地上でやるべき大きな任務/面白かった刑法講義/哲学的深みに魅せられ刑法学者に
 5. 反骨精神のすすめ
  不満を持つ子が伸びる

第7章 革命のコツ・團藤陽明学
 1. 陽明学を生きた父
  薬研を挽いた父/蕃山町で育つ/捜査方針に反発して検事を辞職
 2. 熊沢蕃山と陽明学への傾倒
  主体制理論につながる陽明学/西周を感服させた山田方谷
 3. 幕末のスターが揃う陽明学徒
  方谷と吉田松陰/日本の近代化を支えた「知行合一」/豪胆だった丸山真男/
  無血革命を導く反骨の学問
 4. 陽明学からの死刑廃止論
  反権力の学問/生態系保全を説いた陽明学/「君子の治世は殺を用いず」
 5. 陽明学を貫いた人生
  体制内から体制を批判する/反骨の気概を胸に最高裁へ

第8章 若者よ、正義の骨法を掴め!
 1. 「自分探し」では見つからない
  法律家になろうなんて考えなかった/無駄を省きたがる学生/
  「自分」は「探す」のでなく「つくる」/若者は己の矮小さを悩む
 2. 反骨のコツ
  法律学は悪との闘い/反骨は反抗とは違う/反骨のない組織は滅びる/
  知行合一と少数意見/若者よ、正義の骨法を掴め!

人名・用語解説
編集のあらまし
おわりに

■紹介・引用

「團藤 いまはもう話してもいいと思うけど、今まであまり言ったことはありませんけどね、昭和天皇はもう、大の軍人嫌いで。
伊東 ほう……、どんな具合だったのですか?
團藤 本当に軍人がお嫌いでね。ましてや陸軍、太平洋戦争に関する陸軍は言語道断ですよね、海軍はまだよかったけど、でも海軍も含めて軍人はお嫌いでしたね。
伊東 先生が東宮職参与として頻繁に参内されたのは昭和五八年から、ということは、いま伺ったお話は、昭和天皇晩年の消息としてたいへん貴重なご証言だと思います。敗戦直後の昭和二一年に天皇側近だった元外交官の寺崎英成が書き留めた『昭和天皇独白録』では、天皇が東条を評価していたという記述もありましたが、それとずいぶん印象が違い/
ます。
團藤 それは全然違う。大のお嫌いでしたよ。大変深刻なご様子でおっしゃったので、伺っていて、私にはよくわかりました。陛下は、どのようなプリンシプルで戦時中は行動なさいましたか、と私が伺ったらね、「もっぱら憲法、憲法の条文通りに行動した」とおっしゃったのです。たいへん感銘を受けました。それは立派なもんでしたよ。それはもう確信を持ってそうおっしゃったですね」(pp.34-35)

「伊東 そういう奥様がバルトに興味を持たれた。そもそもバルザックへのご関心だったのですよね? ところがそれが文法法学というジャンルの壁を越えて、先生の法思想全体を変容させてゆく。そして先生の「主体性理論」と一九六〇、七〇年代のフランス・ポ/
スト構造主義とが、ある同時代性を帯びる。その決定的な交差点が「死刑廃止論」なんですね。フランスで、ミッテラン政権下で法務大臣だったバダンテールさん。
團藤 ええ、ロベール・バダンテールさん。
伊東 先生のお友達でもいらっしゃるわけですが、バダンテールさんが尽力されて、一九八一年に死刑が廃止された。それに至る思想的バックボーンの中に、フーコーやドゥルーズなど「ポストモダン=近代以後」の二〇世紀哲学が決定的に存在している。一方で事典で調べると、戦時中にファシズムを根拠付けた「新派刑法学」が、戦後は否定されて「團藤重光らの旧派刑法学が復権した」などと書いてあるのですが、これが「新派=モダン」以後の「ポストモダン」刑法学、まさにそのものだと、よくわかったのです。
團藤 ああ、そのように言われると、とてもよくわかります」(pp.66-67)

「團藤 それで「主体性」の問題では、牧野先生は主観主義ですけど、行為者の危険性に着目するわけです。危険性。ところが小野先生は危険性じゃなくて行為の人格性。人格性というのは言い換えれば「主体性」、そっちに重点を置く。主体性を持って何か言えばね、言ったことに責任を持つべきでしょ。
伊東 そうですね。自分自身で意識して、その行為と結果を引き受けるということですね。
團藤 主体性があれば、そこに責任を持たないといけない。自分が主体的にやった行為に責任を持つのは当然ですね。そうすると、行為そのものに目をつけなきゃいけない。そこで我々の刑法理論の立場は、主体性を基本にするのだけれども客観主義になるんです。
 自分という人間を離れての行為というのはないですからね。何をしたって、ちょっとこ/
う、例えば家内を殴ったとしてもね、殴る背後には人格があるでしょう。そんなことはしませんけれどもね。でも仮に殴ったとすると、私が殴ったのと、伊東君がうちの家内を殴るのとでは違いますよね。痛さは同じだとしても違うでしょう。やはり人間がやった行為というものは、その行為者と離れては理解できない。
 犯罪だってそうだと思うんですよ。同じことをやっても形にとらわれちゃいけない。中身でとらえなきゃいかん。中身と言っても、すぐに行為者そのものに入って、行為を抜きにしてすぐに行為者の危険性とか言うのじゃあ、それはやはりいけませんわね。
 行為に重点を置きながら、行為の背後にある主体に目を向けなきゃならない。大体そういうふうな趣旨です。僕の理論は。
伊東 伺っていると、要するに牧野先生の主観性の議論というのは性悪説なわけですね。
團藤 そうです。
伊東 内観の問題を性悪説の決定論で見ようということですね。それに対して、行った行為自体を客観的に見ましょうというのが、形は違うにしてもその客観主義の方々。
團藤 その通りです。
伊東 これに対して團藤先生の「主体性」、あるいは主観を考慮した客観主義の議論とい/
うのは、むしろ情状を酌量する議論で、故意か過失か、とか、犯意があったかということに対して、「人道的な」判断を下す法理を、日本で初めて確立されたわけですね。「疑わしきは罰せず」という推定無罪の原則を「性善説」に読み替えて「人間の尊厳を重視しつつどのような判決を出していくか」ということですね。今現在も生きて変化しつつある人間の主体性を尊重して、原則「大岡裁き」的な仁政で裁判の審理を導いてゆく。
團藤 そう、その通りです」(pp.77-79)

「伊東 先生の「主体性理論」の必然的な延長に、死刑の問題が出てくるのですよね?
團藤 そうです。死刑廃止論は主体性理論から導かれるものです。
伊東 そこのつながりの部分を伺えますでしょうか。
團藤 死刑廃止は大きな問題ですから、いろんな問題にからんできます。主体性は人間/
だれもが持っているものでしょ。その生命は、神様が与え給うたものですね。それを人間の恣意によって奪うのは神、天の意志に反するのではないか。神様といったけど、宗教的なものではなく、人智を超えたもの、という意味ですが。人間は各自ひとりひとりが絶対のもので、それを手段として使うことはできない。これはカント以来言われていることです。
伊東 カントは死刑廃止論者ではないですが、カント的なヒューマニズムの観点から、死刑廃止が導かれるということですね。
團藤 そうです。死刑というのは、要するに人間性に反するのですよ。人間が人間を殺すということは人道的にはあり得ない。生命は、要するに天の与えたものでしょう。それを人間が勝手に奪うということは許されない。これは根本的ですね。
伊東 「汝、殺すなかれ」という大原則ですね。
團藤 だから死刑はそもそも絶対に許されない。だけど、死刑にあたるような行為をする人がいるわけです。私は殺人罪を決して軽いものだと言っているわけではありません。それは死にも値するかもしれない。国民感情からみても、被害者の立場からも、生かしておくのは正義に反すると思う人が現在はまだ少なくないかもしれない。でも、確かに悪い行為には違いないけれども、そこで殺人犯人を、同じ人間がまた殺しちゃいけない。天罰、/
あるいは神様の罰でそうなるのは仕方ないけれど、人間はやはり普通の刑罰以外下すことができないだろうというが結論です。基本は、大体そういうことですね」(pp.79-81)

「團藤 最高裁判事といっても、人間は人間です。それが「あなたに死刑を宣告します」と言えるかというと、これは絶対に言えない。人間は人間に「死になさい」とは言えない。その単純な事実に、自分が死刑宣告する立場に立って、初めてはっきり気がついたのです。
伊東 「あなた、死刑宣告できますか?」とたずねられたら、当然ながら僕はそんなことできません。世論で死刑に賛成する人は、自分自身が裁判員として特定の人物を死刑台に送り込むという主体性の認識を持って言っているわけではない。このあたりに本質的な問題があると思います。
團藤 で、それ以来、やはり国が制度として死刑というものは置いちゃいけないんだと思うようになりました。どんな間違いがないとは限らない。そのときの裁判長がよく調べて、我々も記録は見て、「まあ、間違いないに違いない」と思うけれども、そこで「人殺しーっ」ていう声があんまり鋭く響いてね。もうそれから、死刑というものがそもそも、/
いけないんだと確信を持つようになりました。それまでは、明確な死刑廃止論まで行っていなかったのですが、ここではっきりと廃止論になったですね。
 誤判の可能性が誰にも否定できないというのが、死刑廃止論の根拠として一番誰にでもわかりやすいものですね。人間はどんな天才であっても過ちを犯しうる。世界的に有名な哲学者のカール・ポパー博士も、私にくださった長文の手紙の中で、「人間の可謬性が死刑廃止論の決定的な理由だ」と述べています。犯罪捜査や事実認定などの過程で判断を誤る危険性はいくらでもあります。それを前提に処刑してしまったら取り返しがつかない」(pp.89-90)

「伊東 ここで、死刑以外の刑罰についても、先生のご意見をお伺いしたいと思います。人の命は天が与えたもので、それを人間が奪ってはならない、と伺ったわけですが、死刑以外の刑罰には、例えば自由を奪うものや、財産を奪うものがありますね。
團藤 でもそういうのは取り返しがつくでしょう、本人が生きていれば……。
伊東 そこなんですが、例えば冤罪の場合「二十年間の時間だって取り返しがつかない」という見方もありえるわけで……。/
團藤 冤罪の場合は刑事補償もありますし……。まあ、それだけで本当の償いにはなりませんし、後で刑事補償してもらっても遅いといわれるかもしれないけれど、でも死刑はもう、これは本当に取り返しがつかない。他のものだったらまだ対処のしようがあるわけですが」(pp.111-112)

「伊東 死刑の代わりとして、どのような刑罰が望ましいのでしょうか。
團藤 今の法規でいえば無期懲役しかないでしょうね。でもこれは恩赦もあるし、時間/
がたったら出てくることになる。それでは困るので、いわゆる終身刑、特別無期懲役をつくったらという議論もあります。でもこれも解決にはならない。一生出られない刑というのは、死刑よりも残酷です」(pp.113-114)

「伊東 ここで、陪審、参審の違いについて、少しおさらいをさせてください。陪審制の代表はアメリカですが、映画『十二人の怒れる男』のように、くじで選ばれた市民が、市民だけで議論して、有罪か無罪かを決めるしくみですね。評決は原則として全員一致だそうです。
 これに対して、参審はドイツやフランス、イタリアも採用しているそうですが、くじなどで選ばれた市民が職業裁判官と同じテーブルで議論して、多数決で有罪か無罪かと、量刑も決めます。「審理に参加する」から参審制。日本の裁判員制度はどうかというと、市/
民とプロの裁判官が合議して量刑も決めますから、この参審制の一種であると言えそうです。陪審も参審も本来は司法の民主化、国民によるコントロールが目的ですが、聞くところでは日本の法曹界の主流は、有罪無罪の決定を素人に左右される陪審をともかく阻止したくて、結果的に落としどころとして裁判員制度で妥協したとも言われているようです。
 だからといって「素人の裁判員のほうが職業裁判官より常識的で正しい判断ができる」という保証はどこにもないわけですよね。逆は幾らでもあると思いますが。ところが、そうした議論は、国民のよく知らないところでなされて、結局「有識者の先生が議論して法案も国会通過」なんて格好で「お上」からお触れが出される。これはかなりおかしい。法律関係ではないですが、僕も国の審議会にいたことはありますし、少なくともメディア認知に関して「有識者」なるものの発言がいかに根拠のない当てずっぽうかは知っています。
團藤 制度そのものはだれが考えたのか知りませんが、もし民衆から自然に湧き出たものだったら、新聞があんな冷ややかな扱いになるはずがない。これは民衆のなかにそういう要望はなかった証拠だと思います。
伊東 確かに、そういう民意の白熱はなかったと思います。
團藤 これは要するに根無し草ですよ。しかも悪いことにね、裁判員という、一見気が利いた名前をつけてるでしょ? 欧米で市民の司法参加のない国はほとんどないので、日本でもつくったほうがいいだろうというのでつくっただけで、単なる外面の真似ですよ」(pp.141-143)

「伊東 僕自身は「裁判員制度」自体に反対という立場はとっておらず、あくまで、もしそれを実施するのであれば、教育を整備し、死刑を廃止し、その他、自由と民主主義の進展、向上に生かすべきだ、運用が大事だ、という考えです。いま、先生から裁判員制度を/
上からやるのは感心しないとのご発言があったわけですが、あえて上からやってもいいから進めたほうがいいのは死刑の廃止だと思うんです。
團藤 ああ、それはそうです、ミッテランもそうでした。
伊東 だから、裁判員制度を実施するのだったら、法務省も同時に死刑廃止も積極推進しなければならないことが、論理的によく理解できました」(pp150-151)

「伊東 個人的に恨みがなくても「殺せ」と「わたし」が「被告人」に宣告させられる。これは実は徴兵制とすごく似てるんじゃないか、という指摘もありました。自分は敵に恨みも何もないが、上官の命令、国の命令だから、武器を取る、これと同じだという論旨です。だからこの問題は、単に裁判員制度だけを論じるというよりも、憲法レベルで死刑を廃止した国家が、純然と裁判員の問題、あるいは開かれた司法の問題として長期的な視野で考えてゆくのが、本来の筋であるはずです。そう考えると刑法の側から憲法九条が見えてくる……。/
團藤 ええ、だから死刑というのは戦争と同様、そもそもあっちゃいけないんです。絶対に廃止ですよ」(pp.152-153)

「伊東 じっさい僕自身が「死刑廃止の人」というのは一部の理想主義者のような人たちだと、つい最近まで誤解していたので、「死刑もやむなし」式の存置論の大半は、なんとなくの感情が先立ったまま、専門知識の欠如で、雰囲気だけ温存されていることはよくわかります。
 現実の最高裁での死刑存置の議論が、一九四八年当時、いかに対GHQ的な政治背景などによって日本の判例に書き加えられたか、ちゃんと理解しなければ、かなりおかしなことになります。日本が独立自主の憲法像を二一世紀の国際社会で考えるとき、憲法レベルの死刑禁止が実効的に重要なのだということが、僕自身調べてみて初めて、よくわかりました。知らないだけなんですよね、要するに。
 死刑は国の弱さの代名詞、アメリカが死刑を存置しているのは、移民国家としての米国の内国統治の弱みを露骨に示しているわけでしょう。EUが死刑を全廃して、フランスが憲法で死刑を禁止している二一世紀の先進国で、死刑の存置がいかに情けないことか。そ/
してこういう、死刑を含む法律に関する議論、その整合した全体像が一般市民に全く見えない。法律家も本当の経緯をよく知らない。こんな状況のまま市民「裁判員」が死刑判決も下せるというのは……言葉がないですね」(pp.178-179)

「伊東 そんなことを考えたので、さっきの最高裁判例の日付に関して、整理してみました。
1945年8月10日 ポツダム宣言受諾打電
8月15日 玉音放送
    9月2日 降伏文書調印(ミズーリ号)
 46年 1月19日 極東国際軍事裁判所条例
    4月29日 戦犯起訴(昭和天皇誕生日に起訴)
    5月 3日 審理開始
    11月3日 日本国憲法公布
 47年 5月3日 日本国憲法施行
 48年 3月12日 死刑合憲の最高裁判決/
 48年 11月4日 極東軍事裁判結審
         12日までに言い渡し
    12月23日 A級戦犯への絞首刑執行(皇太子誕生日に処刑)
 こう改めてみてみると、憲法や刑法の制度導入とGHQの判断が、天皇制と極めて密接に関係付けられているのが露骨にわかりますね」(pp.179-180)

「伊東 軍備と死刑の問題は、どちらも国が国民を殺す、あるいは国民に「殺せ」「死ね」と命じる意味で通底しています。復讐権と自衛権、いずれも人間がもともと持っている自然権ですが、それを個人から取り上げ、国家という怪物、リヴァイアサンが権力として持つことで、万人の万人に対する闘争状態を回避する法治国家ができたはずで、復讐戦争で民心を煽り、先制攻撃も辞さずという現在のアメリカのイラク戦争のようなやり方は大変野蛮だと言わねばなりません。自衛権というのはもっと明確に範囲があるものでしょう。
團藤 正当防衛みたいな戦争ね。
伊東 やられたらやりかえす、をやめることに法の倫理的な基礎があるわけでしょう。目には目をという身体刑をやめるのも、同じことだと思います。復讐の連鎖は、バルカン/
半島の旧ユーゴの諸民族とか、内戦の続くルワンダのフツ族とツチ族の対立なんかのケースでも、もうどうしようもない。血で血を洗う惨劇の繰り返しにしかならない。それを国が取り上げて、管理しようというのが、法治の本質だと思います。戦争を禁じる日本国憲法の精神に照らして、死刑は成立しない、という観点は成立するのでしょうか?
團藤 論理はそうだけれども、私は死刑廃止は憲法を超えていると思います。まず事柄について考えるべきです。事柄自体として、死刑はあっちゃならないのです」(pp.186-187)

「伊東 戦争にしても「改憲して堂々と戦争できるようにしよう」と言う人もありますが、先生のご主張は、死刑も戦争も、憲法以前にあっちゃならない、ということですね。組織的な人殺しは、あまねく、これは法律以前にあってはならないと。
團藤 あってはなりませんね。
伊東 そう考えると、日本は憲法で戦争放棄ができているのに、軍備を持つ国家ですら憲法で禁止が標準になっている死刑廃止がまだできていないことになります。
團藤 つまりね、死刑や戦争を放棄するというのは、個別の憲法とは関係ないわけです。
伊東 あ……国によって異なる、各国別の憲法に縛られるレベルの案件ではない、と……。
團藤 そうですそうです。もっと深い人間性に根ざしていますから。だから、それを憲法で改めて謳うことは、ある意味で人間として当たり前、当然のことですけれども、もうそれは改憲という政治の問題としてどうこう、ではなくて、一国の憲法の制度がどうあろうとも、つまり旧憲法時代でさえも、死刑は本来あっちゃいけなかったと思います。いまから考えると。旧憲法時代には、僕はまだ廃止論になっていなかったものだから、残念ながらそういうことを言っていないんですよ。だけど、いま考えてみると当然、その頃から廃止論でなきゃならなかったと思うんです。
伊東 なるほど、欽定憲法下ですでに刑訴法の名著をお持ちの先生が「明治憲法下であっても死刑は許されるべきではなかった」とおっしゃるのですね……。胸のつかえが取れた気がします。「汝、殺すなかれ」は、国によってバラバラな憲法なんかで左右される命題ではない、万人を害する「戦争」の放棄から一人を誅す「死刑」の廃止まで、個別の憲法を超えた絶対的な命題だということですね。憲法史上、初めてフランス憲法が死刑廃止を決めた二〇〇七年に先生からこのお話を伺ったことに、今はっきりと必然を感じました」(pp187-188)

「伊東 さきほどから幾度も出ている気骨とか骨法という言葉、これは何事かの核心、コアにあたるものですよね。「骨法」をひっくり返すと「法の骨」となります。最後にお伺いしたいのですが、法学を貫くべき核心、言ってみれば人類の文化としての法を理解する/
上で、われわれ素人、つまり専門家でないすべての人がわきまえていてよい……いやむしろ万人がわきまえるべき……一番の骨法とは、一体何なのでしょうか? 組織の健全な維持から、最高裁の新陳代謝まで、反骨が何より大切だというのはわかったのですが、素人でも分かるような、そのコツ、コツなんていうと小手先のことみたいですが、若い人に伝わりやすい「反骨のコツ」があるとすれば、それは何だと言えばよいでしょうか……。
團藤 反骨のコツですか……気骨を持って進むとき、何かにぶつかることがあるでしょう。ぶつかると跳ね返りますね。そこで「反骨」になる。そのとき囚われた目で見るのではなくてね、あるがままを見て、そこで「正義」を実践する。法の本質はここにありますね。そして正義の実践には反骨をも辞さない。正義の骨法、これが陽明学の要諦です。それは腹の底から出て来なきゃならない。ざっとこんなところでしょう。
 未来を担う人には、そういう反骨精神を持ってもらいたいですね」(pp265-266)

*作成:櫻井 悟史
UP:20080207
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