|
>HOME >BOOK
大屋 雄裕 20070910 筑摩書房(ちくま新書),214p. ■大屋 雄裕 20070910 『自由とは何か――監視社会と「個人」の消滅』,筑摩書房(ちくま新書),214p. ISBN-10:4480063803 ISBN-13:9784480063809 \735 [amazon]/[kinokuniya] ※ nr03 ■内容 かつてより快適な暮らしが実現した現代社会。 各人の振る舞いは膨大なデータとして蓄積され、“好み”の商品情報が自動的に示される。 さらにはさまざまな危険を防ぐため、あらかじめ安全に配慮した設計がなされる。 こうして快適で安全な監視社会化が進む。 これは私たち自身が望んだことでもある。 しかし、ある枠内でしか“自由”に振る舞えず、しかも、そのように制約されていることを知らずにいて、本当に「自由」と言えるのか。 「自由」という、古典的かつ重要な思想的問題に新たな視角から鋭く切り込む。 ■著者紹介 大屋雄裕[オオヤタケヒロ] 1974年生まれ。東京大学法学部卒業。法哲学を専攻。名古屋大学大学院法学研究科准教授(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもので す) ■目次 第1章 規則と自由 「個人」の自己決定と法・政治 自由への障害 二つの自由―バーリンの自由論 交錯する自由 第2章 監視と自由 見ることの権力 強化される監視 ヨハネスブルク・自衛・監視 監視と統計と先取り 監視・配慮・権力 「配慮」の意味 衝突する人権? 事前の規制・事後の規制 規制手段とその特質 第3章 責任と自由 刑法における責任と自由 自己決定のメカニズム 責任のための闘争―刑法四〇条削除問題 主体と責任 ■引用 本書の目的は、「自由な個人」すなわち我々の法・政治・社会システムの前提となっている近代的自我のあり方と価値とをもう一度問い直すことにある。「自 律的に自己決定する自由な個人」という近代の人間像には、多くの問題点が指摘されてきた。……我々が文化や環境に依存し決定される「客体」であるとするな ら、我々の「主体」性を前提にしてきた近代の社会システムは根底から問い直されるべきだというわけだ。「自由な個人」など虚構である、フィクションにすぎ ない、そう言われるべきなのだろうか。(: 8) 我々を「個人」という能動的な主体から操作の客体へと解体していく力に対して抵抗を呼びかける言説は勇ましいが、決定的な有効性を欠いている。それは、 監視のシステムの提供するものが便利であり快適であり親切であり安全であるという事態への認識を、それらの批判者が持っていないからではないだろうか。我 々に快適さを提供することによって「客体」として対象化しようとする善意のシステムに対抗するためにはどうすればよいのだろうか、あるいはそもそもそれら は抵抗しなくてはならない対象なのか。こういった問題について、「自由」とそれを行使する「個人」とはどのような存在かという視点から検討することを通 じ、自発的に責任を引き受けることによって生まれる「自由な個人」という、近代的自我の新たな考え方を示したい。(: 9-10) ◆ノージックに関する記述の引用 だが、国家を制約すれば我々は自由になれるのだろうか。「リバタリアニズム」(自由至上主義)という、個人の自由を最大化しようとする思想の先駆けとなったロバート・ノージック(Robert Nozick, 1938-2002)は、それでも「暴力・盗み・詐欺からの保護・契約の執行などに限定される」最小国家の存在は正当化されると考えた(ロバート・ノージック『アナーキー・国家・ユートピア――国家の正当性とその限界』嶋津格訳、木鐸社、一九九二)」。 ノージックは、社会契約説によって国家の限界を説いたジョン・ロック(Jhon Locke, 1632-1704)と同じ出発点から、しかしロックとは異なる国家像を描こうとする。ロックはまず、人々が平等かつ独立な状態で平和に暮らしているような自然状態を想定する。人々は生得の自然権を持っており、その中には生命・自由、そして自己の身体に対するものを含む所有権が含まれる。従ってたとえば他者の財産を奪えばそれは彼の自然権に対する侵害となるが、この自然状態にはまだ政府が存在しないため、それに対して罰を与えた>27>り、奪われたものを取り戻すことが常に可能だというわけにはいかない。 (中略) ロックは、このような自然状態の不便を解消するために人々が社会契約を結んで国家を設立すると考えた。従って国家の権力の限界は社会契約に対する人々の同意によって画されており、国家がそれに違反した場合、国民には革命に訴えて国家を変更する権利があるという展開になっていたのである。 だがノージックは、政府の設立はロックのような全員一致の社会契約というフィクション(擬制)を用いなくとも説明可能であると考えた。ロック的自然状態において、人々は自分たちの自然権を守るために助け合う(「相互保護協会」)を設立するだろう。(中略)いずれにせよそこに市場と競争が発生し、その結果ある地域において独占的な地位を占める「支配的保護会社」が成立すると、ノージックは考えた。国家の発生は市場とい>28>う「神の見えざる手」によって可能になるというのである。 この支配的保護会社は、司法・治安維持・国防という最小国家が提供するサービスをすべて行うだろうが、ただ自らと自主的に契約を結んだメンバーだけを保護するという点が異なっている。そこでノージックはこのような支配的保護会社のことを、「超最小国家」とも呼んでいる。その内部には、何らかの理由(サービスの料金を払えないとか、支配的保護会社に頼らなくても自分の自然権を守ることができるとか)で契約に同意しない「独立人」が、まだ残っているのである。 だが、この独立人の存在は支配的保護会社(超最小国家)に不都合をもたらす。契約者同士のトラブルであれば契約に基づいて超最小国家が実力を行使し、解決することができる。だが契約者と独立人とのあいだのトラブルだと話しはややこしくなるだろう。このような不都合を防ぐために超最小国家は、契約が結ばれていないにもかからわらず、独立人を保護対象として自らの内部に組み込んでしまう。独立人は、国家の外部にいれば享受できたかもしれない全面的な自由を一定程度失うが、その補償として国家によるサービスを受けることになるというわけで。 このようにして、被治者全員の同意の有無にかかわらず、ある地域の国家機能を独占する「最小国家」が誕生することになる。ノージックによれば、最小国家までの成長は道徳>29>的に正当化することができ、かつその範囲までに限られるということになる。(: 27-30) だが、問題はこの最小国家誕生の説明が多分にいかがわしい点にある。(中略)支配的保護会社=最小国家は、普通の国家と同じように、ある領域内で紛争を終結させ、強制的に「正義」を実現することができるだけの暴力を独占しようとするだろうし、またそうでなければ超最小国家としての目的が果たせないことになる。だが、だとすれば市場の生み出した超最小国家にも、普通の国家と同じように、その暴力が暴走する危険性が秘められてるのではないか。(: 31) UP:20080219 REV:20090107,0822 ◇Nozick, Robert ◇哲学/政治哲学/倫理学 ◇身体×世界:関連書籍 ◇BOOK |