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『老いと死を考える』

森 幹郎 20070915 『老いと死を考える』,教文館,253p.


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森 幹郎 20070915 『老いと死を考える』,教文館,253p. ISBN-10:476426904X ISBN-13: 978-4764269040 1575 [amazon][kinokuniya] ※ a06

http://www.kyobunkwan.co.jp/Publish/NB33.htmより

見えない老い、忘れられた死
○いま日本は、老いを拒否する「モラトリアム中年」、死を考えたくない「モラトリアム老年」が増えていないか。
○著者は元厚生省老人福祉専門官。行政と教育で老人福祉に長年携わり、現在は老人ホームの一室で自らと周囲の老いに直面。若いときからの自らの老人観の変化をも交えながら、個人・社会・行政の現状に問いを投げかけ、迫り来る高齢化社会に向けて提言。
○「若さ」「健康」「強さ」のみが価値ありとされる風潮のなかで、実は、常に病や死にさらされているすべての人間存在についても考えさせられる書。

目次
第1章 老人ホームの生活
第2章 老いと病
第3章 死と葬
付録 1.ボーヴォワール『老い』(書評)
   2.有吉佐和子『恍惚の人』(解説)

■引用

 「一九六一年(昭和三十六年)、寿命学研究会(二〇〇七年解散)の会長・渡邊定(ルビ:わたなべさだむ)先生(一八九<83<二―没年?)はアメリカからM.ダッショ博士(ニューヨーク大学医学部助教授)を招き、全国主要都市を回って、老人リハビリテーションの講演会を持った。まだ誰も老人リハビリテーションなどと言わなかったころのことである。老人問題の黎明期に啓蒙学者として、また、老年社会科学会の初代理事長として、先生の働きは大きかった。」(森[2007:84])

 「一九六八(昭和四十三年)、民生委員制度発足五十周年を記念して行なわれた、全国社会福祉協議会のねたきり(ねたきりに傍点/引用者補足)状態実態調査の結果報告によると、六十五歳以上のねたきり老人の数は四十万人と発表された。その惨状は広く報道されたが、介護する家族の負担がひときわ目を引いた。
 老人福祉の仕事をしながらも、私は私や妻がねたきり(ねたきりに傍点/引用者補足)になることなど考えてもいなかったので、調査の結果を知って、ねたきり(ねたきりに傍点/引用者補足)になったときのことなども含め、老後設計のプランニングを持っていることが必要だと考えるようになった。
 当時、認知症のことはまだ問題になっていなかったが、そのとき、まず第一に考えたのは、私たちの介護のため、子供が自分の時間をさいたり、ましてや家庭崩壊の危機に曝されたりするようなことがあってはな<10<らないということであった。これが全てのことの大前提であった。
 当時、ねたきり(ねたきりに傍点/引用者補足)になれば、入院するのが一般的であったが、私は入院には否定的であった。病院には「治療」はあっても、「生活」がなかったからである。また、今後、在宅福祉がいくら進んでも、増加してくる老人数の絶対的な増加のなかで、とても十分なケアは望めないだろうと思ったからである。また、特別養護老人ホームの待機者数が多く、とても「措置入所」してもらえないだろうということも分かっていた。そこで、夫婦で話し合い、入居時前払い金の目途さえつけば、有料老人ホームに入ろうという結論になった。誰にでも与えられている選択肢とは言えないだろうが、私たちの場合、幸いにも願い通りの道を選択することができた。」(森[2007:10-11])

 「一九七〇年代の終わりごろから、私は、苦痛の緩和・除去及び看護・介護サービスの充実等いくつかの点の改善を条件として、「特別養護老人ホームを老人のホスピスにするこ<14<と」を提唱してきたが(7@)、これは特別養護老人ホームが「終のすみか」となることを期待したものであった。
 一九七九年(昭和五十四年)、四十代の研究者が「森幹郎は特別養護老人ホームはホスピス(死にかけ老人収容施設)となることを乱暴にも肯定しているが、この主張の間違いは、訪問看護の実践からも証明できる」と反論した(7A)。ホスピスを「死にかけ老人収容施設」と説明するのも研究論文として無神経に過ぎるが、私も「訪問看護」の重要性については十分に認識していた。
 乱暴と言われた拙稿は、中軽度の介護の必要な老人に対しては在宅ケアを、そして、常時、濃厚なケアの必要な老人に対しては、入院ケアではなく、特別養護老人ホームにおけるケアを提言したものであった。
 すでに一九六八年(昭和四十三年)、六十五歳以上のねたきり老人の数は四十万人と報告されていたが(本書一〇ページ)、一九七四年(昭和四十九年)時点でもホームヘルパー数は一万七二〇人に過ぎず、先進諸国の高レベルケアに倣うなら、八十五万人の配置が必要であろうと、私は試算した(7B)。それから三十数年、平成十六年時点でも、介護保険法による訪問看護職員は十五万三二三二人に過ぎない(7C)。八十五万人! 夢のまた夢である。」(森 2007:14-15)
※[引用者補足説明]注(7)は以下の通り。
@例えば、「ホスピスとその問題点」『断章・老いと死の姿――死ぬことの社会学』保健同人社、一九八三年(一七九―一八五ページ)に所収。
A前田信雄「病める人を地域でみる」『講座日本の中高年(六)』垣内出版株式会社、一九七九年(一八七ページ以降)
B『ホームヘルパー』日本生命済生会社会事業局、一九七四年(一四ページ)。『戦後高齢社会基本文献集(第二十一巻)』日本図書センター。
C厚生労働省『平成一六年介護サービス施設・事業所調査結果の概況』

 「一九六二年(昭和三十七年)に厚生省(二〇〇〇一年、労働省と合併、厚生労働省となる)が行なった調査によると(11)、生活保護法の養老施設の時代、入居者の健康状況は、健康六四%、病弱二七%、臥伏中九%と報告されている。つまり、養老施設は生活保護階層に属する老人の住宅事情、家庭事情又は健康・疾病状況等に応じて、それぞれ住宅、老人ホーム又は病<24<院として機能していたのである。
 一方、養老施設とは別に有料老人ホームの流れがあった。一九五九年(昭和三十四年)の時点で、その数は二十二ヵ所と報告されている(12)。有料老人ホームは、毎月の利用料の他、入居時に相当額の前払い金を支払わなければならなかったが、個室制であったこともあってか、そのニーズは高く、一九六三年(昭和三十八年)には四十二カ所に増え、四年の間にほぼ倍増している。
 これに応えて、一九六一年度(昭和三十六年度)から、有料老人ホームに対する設備費及び事務費の国庫補助が始まり、名称も「軽費老人ホーム」と称されることとなった。軽費老人ホームは有料であるが、従来までの有料老人ホームと違って、前払い金を支払う必要もなく、社会福祉事業法の社会福祉事業であった。また、養老施設とも違って、個室制であり、入居者自身が食費や事務費の一部を支払うものであったから、社会の見る眼は有料老人ホームとも養老施施設とも一線を画していた。
 一九六三年、老人福祉法が制定されると、養老施設は養護老人ホームと名称を改め、また、特別養護老人ホームの制度が創設された。これらに軽費老人ホームを加えた三つの老人ホームは老人福祉施設として(当初・第一四条。現行法・第五条の三)、また、従来からあった有料老人ホームは届出施設としてそれぞれ規定された(第二十九条)。<25<
 このうち前二者への「収容」(当初法。後に「入所」と改正)については国家事務(機関委任事務)とされ、施設整備費及び入所者措置費(施設事務費及び老人生活費等)は政府予算に計上された。一方、軽費老人ホームは潜在していた一部のニーズに応えることにはなったが、居室面積は六畳一室であったから(制度発足時は三畳一室)、より高い居住水準を欲する階層の老人ホーム・ニーズは依然として充足されなかった。」(森 2007:24-26)

 「一九六一年(昭和三十六年)、寿命学研究会(二〇〇七年解散)の会長・渡邊定(ルビ:わたなべさだむ)先生(一八九<83<二―没年?)はアメリカからM.ダッショ博士(ニューヨーク大学医学部助教授)を招き、全国主要都市を回って、老人リハビリテーションの講演会を持った。まだ誰も老人リハビリテーションなどと言わなかったころのことである。老人問題の黎明期に啓蒙学者として、また、老年社会科学会の初代理事長として、先生の働きは大きかった。
 同年、厚生省内に「リハビリテーション研究会」という有志のグループができた。翌年、研究会は報告書を纏(ルビ:まと)めて解散したが、「老人のリハビリテーションについては身体障害のためハンディキャップを持っている老人の問題はこれを検討事項に含めたが、一般的には老人の福祉問題として取扱うことが適当であるとし特に触れなかった。……」(同研究会報告書。四-五ページ)と、呼べるに止まり、理学的リハビリテーションの範囲を出なかった。研究会の一員として、老人のリハビリテーションは広く「生活のアクティヴェーション化」まで含めなければならないと発言してきた私にとっては、いささか不本意な報告書であった。
 それから、五十年近く、今や、アクティベーションの考え方は当然のこととなり、ついには生活不活発病(学術的には廃用症候群)などという言葉さえ出てきた。」(森[2007:84])

 「『老人はどこで死ぬか』の鼎談のうち、「死に水」に関する私の発言の一部を紹介しておこう。
森 「老人はどこで死ぬか」というようなことを、実は、これまであまり考えたことがありませんでした。(中略)<121<
 さて、「老人はどこで死ぬか」ということからまず第一に連想するのは、「寝たきり老人」の問題です。その数は、昭和四三年〈一九六八年〉、全国の民生委員が老人の総点検をした結果によりますと、七〇歳以上の老人については十八万人、六五歳以上の老人については四〇万人と推計されていますが、これらの老人が、どこで、どのようにして死んでいくのかということは大きな問題です。つまり、家族や看護婦〈現・看護師〉の看護も受けないで、はなはだしい場合には、ゴハンは一日に一回しかあてがわれないとか、納戸にねかされほったらかされているとか、人間としての生活を保障されていない老人もそのなかには少なくないことを知って、「どこで、どのようにして」、ということをもう一度、謙虚に、素直に見直さなくてはいけないと思うんです。老人福祉といいますが、人権にもかかわるこのような大きな問題が民生委員の老人総点検が行なわれるまでほとんど問題にならなかったということは、大きなショック<122<でしたね。」(森 2007:122-123)

 「これらの変化を一言で言えば、死の社会化ということである。やがて、老人の死のケアのあり方に二度目の変化が現れてきた。それは医療レベルから福祉レベルへの、病院死から老人ホーム死への転換である。財源について見るなら、税金から保険料への、そして、医療保険財政から介護保険財政への転換である。このことについてはすでに第一章第二節で述べておいた。
 老人ホーム死と関連して、老人福祉法の立案の過程で、特別養護老人ホームの法的な性格について論争のあったことに触れておきたい。それは、特別養護老人ホームを慢性疾患を持った老人のケアの場にしたいと考えていた老人福祉部局に対する、医療関係者の強い反対であった。反対の理由は慢性疾患を持った老人は病人なのだから、家庭で介護ができないのなら、病院に入院させるべきであって、老人ホームのような福祉施設に入れるべきでない、ということであった。医療行政部局もこれに賛同したため、老人福祉法の八月制定(一九六三年)より早く、その年の三月に成立していた新年度予算の費目上の名称「看護老人ホーム」の構想は実現しなかった。(中略)<126<
 しかし、私は特別養護老人ホームは慢性疾患を持った老人を対象としたナーシング・ホームとして専門化していくべきであり、終焉の地になるべきであると思っていたから、その後も私見を繰り返し主張した。老人福祉法の制定から八年経った、一九七一年(昭和四十六年)、私の主張に反対する浴風会病院院長・関増爾(ルビ:せきますじ)先生(一九一八―一九九三)と私の往復書簡が浴風会(四九ページ)の広報誌に連載されたこともあった。」(森[2007:126-127])

 「私の安楽死に関する関心は一九七〇年代の後半に始まる。一九八〇年代の初め、私は時事通信社の『厚生福祉』にターミナルケア論や死論(死の変容、死の選択、死の理解等)を長期連載していたが、その中の「安楽死について」が「安楽死」に関する私の最初の小論である。次に、一部引用しておこう。(中略)<136<
 「(略)いずれにしても、世界的に広まりつつある一連の安楽死運動は、人が自分の終末期のケアと死に方について、選択的にかかわっていこうとしている一つの現われである。科学の奴隷になり下がった人間がもう一度人間としての主体性を回復しようとしている一つの現われであろう」(森[2007:136-137])
 →死なせることを巡る言説 1980年代

 「二〇〇七年(平成一九年)に入ると、厚生労働省(医政局)は「終末期医療の決定プロセスのあり方に関する検討会」を公開開催し、ガイドラインの検討を行なっている。底知れない医療財政に悲鳴を挙げての結果であろうが、私はインフォームドコンセント医療の確保が担保されていれば、安楽死法の制定も医療行政のコントロールも必要ないものと思っている。」

 「死の射程距離内に入った今、思い出すのは一九六〇年代後半から七〇年代にかけ、老人福祉の世界に吹きまくった「生きがい論」である。」(森 2007:152)


UP:20080107
森 幹郎  ◇老い  ◇身体×世界:関連書籍  ◇BOOK
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