1人間はいつから「生命」になったのか
『風の谷のナウシカ』
「剥き出しの生を政治の圏域に含みこむということが主権権力の――隠されているとはいえ――そもそもの中核をなしているということである。さらに言えば、生政治的な身体を生産することは主権権力の本来の権能なのである。この意味で、生政治は少なくとも、主権による例外化と同じほど古くから存在している。([200]に引用されているAgamben[1995=2003:14])
「その分析は、われわれが追い求めてきた倫理の問いにとって重要な示唆を与えてくれるものだ。なぜならアガンベンは、それがあくまで生命をめぐる「政治」の要素であって、決して「倫理」の問いではないことを指摘しているからだ。」([201])
「現時点ではひとまず「生きられるに値する」とされたものも、比較対象との関係が変わればたやすく「値しない」グループへとすべり落ちるにちがいない[…]そして、そうしたことすべてを根底で支えているのは、「生命」という平板な観念が人間のすべてを覆ってしまったという事実にほからない。」([204])
「何より<0205<重要なのは、彼が「政治」と「倫理」を敢然と峻別していることである。
ナチズム前夜に出版されビンディングとホッヘの共著『生きられるに値しない生の抹消の認可』がヒトラーの障害者に対する安楽死政策に与えた影響を論じる文脈で、アガンベンは次のようにいっている。
▽「生きられるに値しない生」は明らかに、個人の期待や正当な欲望に関わる倫理的概念ではない。むしろそれは政治的概念なのであり、そこで問題になっているのは、主権権力によって基礎とされるホモ・サケルの殺害可能で犠牲化不可能な生が極端に変容したものである。(Agamben[1995=2003:206])△
これを受けて、さらにアガンベンは続ける。「近代の生政治においては、主権者とはありのままの生の価値や無価値に関して決定する者である。」(Agamben[1995=2003:196])――この一節を目にするわれわれは、かつて創成期の生命倫理が「誰が生き、誰が死ぬかを決定する」とされ、その任務を担う「倫理委員会」が「神さま委員会」という憮然たる揶揄を向けられたことを想起せずにはいられない(香川[2000])」([205-206])
*Agamben, Giorgio 1995 Homo Sacer: Il potere sovrano e la nuda vita, Einaudi=20031001 高桑 和巳 訳,上村 忠男 解題,『ホモ・サケル――主権権力と剥き出しの生』,以文社,283p. ISBN:4-7531-0227-0 3500 [amazon]/[bk1] ※
*Binding, Karl.;Hoche, Alfred 1920 Die Freigabe der Vernichtung lebensunwerten Lebens: Ihr maB und ihre form, Felix Meiner, Leipzig=20011126 森下 直貴・佐野 誠 訳『「生きるに値しない命」とは誰のことか――ナチス安楽死思想の原典を読む』,窓社, 183p.ISBN:4-89625-036-2 1890 [amazon]/[BK1]
*香川 知晶 20000905 『生命倫理の成立――人体実験・臓器移植・治療停止』,勁草書房,15+242+20p. ISBN:4-326-15348-2 2800 [kinokuniya]/[amazon]/[bk1] ※
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