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『〈個〉からはじめる生命論』

加藤 秀一 20070930 日本放送出版協会,NHKブックス1094,245p.


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加藤 秀一 20070930 『〈個〉からはじめる生命論』,日本放送出版協会,NHKブックス1094,245p. ISBN-10: 4140910941 ISBN-13: 978-4140910948 1019 [amazon][kinokuniya] ※ be,

■出版社/著者からの内容紹介
 http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4140910941.html

「生命」の倫理から「人間」の倫理へ選択的中絶や尊厳死など、生の輪郭が揺らぐ中、生命倫理という知/権力は「生命」の範囲を線引きしてきた。本書は抽象化された従来の生命論を超えて、「誰々が生きている」という人称性を伴った事実にこそ生の真髄があると説く。障害者が自己の出生を否定するロングフル・ライフ訴訟や、中絶・脳死問題を題材に、倫理的配慮の対象は誰かを見定め、個を起点に、他者との関係性の中で生きる人間像を描き直す。倫理学の新たな一歩を築く画期的論考!

著者について
加藤秀一[カトウシュウイチ]
1963年東京生まれ。一橋大学社会学部卒業、東京大学大学院社会学研究科満期退学。明治学院大学社会学部教授。専攻は社会学、性現象論(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

■目次

序章 「生命」を問い直す
 「かけがえのない生」が揺らぐ時
 反・生命の倫理学に向けて
第1章 胎児や脳死者は人と呼べるのか――生命倫理のリミット
 「生命」とは何か
 胎児とは“誰”のことか
 脳死者と胎児の差異)
第2章 「生まれない方がよかった」という思想――ロングフル・ライフ訴訟をめぐって
  cf.ロングフル・ライフ
 ロングフル・ライフ訴訟とは何か
 ロングフル・ライフ訴訟の実例
 「生きるに値しない人」は存在するか
 「生命」の至上価値を疑う
第3章 私という存在をめぐる不安
 存在の「意味」をめぐる不安
 存在の「根拠」をめぐる不安
 存在の「事実」をめぐる不安
 〈非在者の驕り〉を批判する)
第4章 「生命」から「新しい人」の方へ
 人間はいつから「生命」になったのか
 「誕生」の哲学・序説

■引用

序章 「生命」を問い直す

 「ロングフル・ライフ訴訟とは、重篤な先天的障害をもって生まれた人が、その苦痛に満ちた生そのものを損害であるとして、親に中絶することを促さなかった医師に損害を請求するものである。」([20])

 「もしこの世界が生命で充ち満ちていて、しかしあなたや私のように人称で呼びかけられる存在者たちがいなかったら、わたしはいったい〈誰〉のために考えればよいのだろう。倫理にとって重要なのは「生命」でも「いのち」でもない。そうではなくて、私たちが互いに呼びかけるとき、あるいは呼びかけようとするときに、その呼びかけが差し向けられるべき点としての〈誰か〉であり、そのような〈誰かが生きている〉という事実こそが、守るに値する唯一のものなのだ。」([28])

第1章 胎児や脳死者は人と呼べるのか――生命倫理のリミット

 「たとえ生命があっても、それが私たちにとって呼びかけの対象たりうる〈誰か〉でないのなら、そもそも倫理の問いが立ち上げることさえないだろう。」([44])

「私たちは何かを、それに向かって呼びかけることが無意味ではないような対象すなわち〈誰か〉として見出すことにおいて、何かが「生きている」という述語の使い方を学ぶ。」([42])

 「トゥーリーは、まず「生物学的規定とし<0054<てのヒト」と「倫理的・道徳的規定としてのヒト」とを区別する。ある存在者が、事実問題として前者に属するとしても、すなわちある意味ではヒト=人間であるとして、それだけでは後者の資格を与えられるわけではない。ヒトは道徳的配慮に値する存在者、言い換えれば「権利の主体」であるためには、「パーソン(人格 person)でなければならない。そこで問題は、ヒトがパーソンであるために満たすべき要件は何かということになる。トゥーリーの答えは以下の「自己意識要件」と呼ばれる原則に示されている。
 「ある有機体が生存する重大な権利を有するのは、経験や他の心的状態の持続的主体としての自己の概念を有し、自分がそうした持続的実体そのものであると信じているときであり、その場合に限られる。」(Tooley[1972=1988])
 何ものかが生命への権利をもつには右のような基準を満たさなければならない。しかるに、胎児や新生児は明らかに「経験や他の心的状態の持続的主体としての自己の概念」をもってはいないから、妊娠中絶や新生児殺しは道徳的に正当化される。特に重い先天性障害をもつ生命は不幸なものだから、障害をもつ新生児を殺すことによって「社会の幸福を有意義かつ正当に増大することができるだろう」(Tooley[1972=1988:39])。」([54-55]
 →Tooley, Michael

 大庭健『自分であるとはどんなことか』(勁草書房、1997)への言及
 「いま私たちが思い浮かべているのは、ふつうの意味での「呼応」に参加することがもはや不可能な、いわば人間同士の相互関係の辺縁に位置する存在者たち、すなわち、呼びかけられてもそれに応じる声をもたない胎児や、重度の知的障害を負った新生児たちなのである。」([61])
 「外側からはわからないような何らかの経験が生じていることは十分にありうる。したがって、と大庭はつづける。意識なき身体とのかかわりや、ひいては死者とのかかわりは無意味だということにはならないし、いわんや意識を喪失した身体は人格性なき物体、つまり任意に処理可能な物件にすぎないなどということにはならない。」([62]、下線部は傍点)
 しかし「大庭の論理の従えば、いかなる意味でもそこにおいて「なんの経験も生じていない」ような相手であるならば、その相手とのかかわりは「無意味」だということになる」([62])
 「私たちは、私たちがそれに向かって呼びかけることが意味をもつような〈誰か〉を指し示すのに、どうしてその相手が一人称の「わたし」としての経験をもつことを資格要件としなければならないのだろうか。」([63])
 「生者たちの誰かが眼前の脳死者を単なる「物=脳死体」以上の「者=脳死者」と感じるなら、それによってその脳死者には倫理的配慮を受けるに値する〈誰か〉である可能性が開かれる。それ以外には、人格であることや、生命をもつことさえ、倫理的配慮の対象にとっての必須の条件ではない。
 このような見方に対して、それでは倫理的配慮を払うべき対象とそうではない対象との区別が、周囲の人間の恣意に任されてしまうのではないかという疑問がありうるだろう。また、結局はそのことと重なるのだが、その脳死者を「物」以上の「者」とみなしてくれる他者にたまたま恵まれた<0064<人だけが倫理的配慮を受け、そうでない人は受けなくてもよいということになってしまうのではない、という反論も浮かぶ。シンガーの言い方を借りて、「倫理判断を下すさいには人は自分自身の好き嫌いを越える」(Singer[1993=1999:14]べきだとすれば、〈誰〉をめぐる判断を生者たちとの関係にゆだねてしまうときに忍び寄る、生者たちの側の「好き嫌い」によって生かされる者と殺される者とが選別されるという危険性に、私たちは敏感になるべきではないか。
 これらの疑問は重要である。[…]他者から好まれた者だけに生きる価値が認められる――倫理的問題をもっぱら人々のあいだの関係性から考える「関係主義」的立場の危険性はこのような結論を導きかねないという点に集約される。
 だがいうまでもなく、関係性を考慮すべきだということは、関係性だけによってすべてを決めるべきだということを意味しない。ある存在者を〈誰か〉と認めるか否かという判断に際しては、単なる見た目の印象だけではなく、死についての一般常識や脳死状態に関する医学的知識もまた考慮<0065<されるべきである。そうしたさまざまな情報の有無や理解度によって、ある人の脳死者に対する感じ方が変わることは当然ありうる。[…]」([64-66])
 しかも〈誰か〉であるための資格要件は、具体的な他者から愛されているか否かといった高すぎる基準によって測られるものである必要はない。」
 「いうまでもなく、胎児を自分とは異なる〈誰か〉と感じることは、妊娠中の女性にとって少しも必然ではない。たとえば次のような証言がある。
 
第2章 「生まれない方がよかった」という思想――ロングフル・ライフ訴訟をめぐって

 「〈誰か〉を生むこと、すなわち新しい個別存在者をこの世界に招来することは、その〈誰か〉に利益を与えることではないし、反対に危害を加えることでもない[…]。なぜなら、生まれてくる当人にとって、自分が生きているという事実は、その利害を判断しうるような対象たる経験の内部にあるのではなく、経験そのものを可能にする「大地」だからである。」([135])

第3章 私という存在をめぐる不安

第4章 「生命」から「新しい人」の方へ

 1人間はいつから「生命」になったのか
 『風の谷のナウシカ』
 「剥き出しの生を政治の圏域に含みこむということが主権権力の――隠されているとはいえ――そもそもの中核をなしているということである。さらに言えば、生政治的な身体を生産することは主権権力の本来の権能なのである。この意味で、生政治は少なくとも、主権による例外化と同じほど古くから存在している。([200]に引用されているAgamben[1995=2003:14])
 「その分析は、われわれが追い求めてきた倫理の問いにとって重要な示唆を与えてくれるものだ。なぜならアガンベンは、それがあくまで生命をめぐる「政治」の要素であって、決して「倫理」の問いではないことを指摘しているからだ。」([201])
 「現時点ではひとまず「生きられるに値する」とされたものも、比較対象との関係が変わればたやすく「値しない」グループへとすべり落ちるにちがいない[…]そして、そうしたことすべてを根底で支えているのは、「生命」という平板な観念が人間のすべてを覆ってしまったという事実にほからない。」([204])
 「何より<0205<重要なのは、彼が「政治」と「倫理」を敢然と峻別していることである。
 ナチズム前夜に出版されビンディングとホッヘの共著『生きられるに値しない生の抹消の認可』がヒトラーの障害者に対する安楽死政策に与えた影響を論じる文脈で、アガンベンは次のようにいっている。
 ▽「生きられるに値しない生」は明らかに、個人の期待や正当な欲望に関わる倫理的概念ではない。むしろそれは政治的概念なのであり、そこで問題になっているのは、主権権力によって基礎とされるホモ・サケルの殺害可能で犠牲化不可能な生が極端に変容したものである。(Agamben[1995=2003:206])△
 これを受けて、さらにアガンベンは続ける。「近代の生政治においては、主権者とはありのままの生の価値や無価値に関して決定する者である。」(Agamben[1995=2003:196])――この一節を目にするわれわれは、かつて創成期の生命倫理が「誰が生き、誰が死ぬかを決定する」とされ、その任務を担う「倫理委員会」が「神さま委員会」という憮然たる揶揄を向けられたことを想起せずにはいられない(香川[2000])」([205-206])  *Agamben, Giorgio 1995 Homo Sacer: Il potere sovrano e la nuda vita, Einaudi=20031001 高桑 和巳 訳,上村 忠男 解題,『ホモ・サケル――主権権力と剥き出しの生』,以文社,283p. ISBN:4-7531-0227-0 3500 [amazon][bk1] ※
 *Binding, Karl.;Hoche, Alfred 1920 Die Freigabe der Vernichtung lebensunwerten Lebens: Ihr maB und ihre form, Felix Meiner, Leipzig=20011126 森下 直貴・佐野 誠 訳『「生きるに値しない命」とは誰のことか――ナチス安楽死思想の原典を読む』,窓社, 183p.ISBN:4-89625-036-2 1890 [amazon][BK1]
 *香川 知晶 20000905 『生命倫理の成立――人体実験・臓器移植・治療停止』,勁草書房,15+242+20p. ISBN:4-326-15348-2 2800 [kinokuniya][amazon][bk1] ※
 政治(権力)/倫理 …?

 「「何」(what)とは、ある人の特質、天分、能力、欠陥といった性質(傾向性)であり、その人の活動がなくとも答えられるようなものだ。それに対して、ある人が「誰」(who)であるかは、「その人が語る言葉と行なう行為」、すなわち他の人々とかかわる活動のなかに、多数性のなかの唯一性として示される。」(加藤[2007:219])

 「私たちは、来るべき子どもたちに、かつて親などというものはなかったかのようにふるまうことを教えることができる」(加藤[2007:222])

■書評・紹介

森岡 正博 20071028 「書評:加藤秀一『〈個〉からはじめる生命論』」
 『熊本日々新聞』2007-10-28
 http://d.hatena.ne.jp/kanjinai/20071102/1194010890

 もしあなたに、生まれつき重い障害があったとしたら、あなたは「こんなことなら生まれないほうがよかった」と思うだろうか。世の中には、実際にそのように考えて、出産に立ち会った医師を裁判で訴える人たちがいる。彼らの言い分は、次のようなものだ。
 もし医師が、妊娠中の親に、胎児に障害があることをきちんと伝えていたとしたら、親はきっと中絶することを選んだことだろう。すると、自分は中絶されてしまうから、この世に生まれることはなかったはずだ。障害をもって、こうやって苦しむこともなかったはずだ。障害をもって生まれることは、自分にとって苦痛であり、損害である。だから、自分は、親にきちんと情報提供しなかった医師を損害賠償で訴える、というのである。
 これを、「不当な出生(ロングフル・ライフ)」訴訟という。このような訴訟は、実際に、米国や、フランスや、英国でなされており、訴えられた損害を認める判決も一部では出ている。医事法や生命倫理学の世界では、こういう理屈を認めていいものかどうかをめぐって、専門家たちが頭を悩ませてきた。
 加藤秀一さんは、本書で、この「生まれない方がよかった」という思想を、いったいどのように考えていけばよいのかについて、あらゆる角度から検討した。「生まれ出ること」をめぐるこの哲学的な問いを、多彩な文献を手がかりにしながら読み解いていく加藤さんの試みは、現代の生命倫理学の最先端に位置する仕事だと言ってよいだろう。
 加藤さんは、「生まれない方がよかった」とは、そもそも何を意味しているのかを考える。たとえばそれは、「もう死んでしまったほうがいい」という自殺の思いと、どう違うのだろうか。自殺の場合は、自殺した本人は死んでしまうのだが、その人がこの世に存在したことの痕跡は、この社会のあちこちに残されたままだろうし、親しかった人たちの記憶にも残されることだろう。
 ところが、「生まれない方がよかった」という思いは、それとはまったく違ったことを希求している。すなわち、この世に私が生まれてこなかったほうがよかったというわけであるから、この自分の存在だけではなく、この自分が存在したという一切の痕跡もまた、この世から完璧に消え失せてほしい、と願っているのである。
 自分がいままで生きたということ、そしてそれが世界や他人に影響を与えたということ、そのすべての痕跡を、まっさらの白紙にもどしたいということなのだ。加藤さんは、ここに、考えられるかぎり最大の「絶望の深さ」を感じるという。
 では、加藤さんは、この絶望に満ちた「生まれない方がよかった」という思想を全否定して、「生まれてきてよかった」とみんなが肯定的できるような生命思想を積極的に作り上げていこうとするのかと言えば、ぜんぜんそうではないのである。
 加藤さんによれば、「生まれたこと」それ自体は、よいことでも悪いことでもない。「生まれない方がよかった」と陰鬱につぶやくことも、「生まれてきてよかった」と明るく歌うことも、どちらも無意味である、と加藤さんは言う。人はもうすでに生まれてきてしまっているのだから、それを、生まれる前と比較してみても、まったく意味がないからである。それなのに、そういう比較をして、いま存在する生命を賛美する人たちがたくさんいるが、それは欺瞞以外の何ものでもないと言うのである。
 加藤さんの批判は、さらに、すべての問題を「生命」という言葉に還元して考えようとする発想にまで及び、それを「生命のフェティシズム」として却下する。
 いま必要なのは、「生命」という言葉で思考を埋め尽くすことではなく、私の前で現に生きている具体的な人間を、単なる生命ではない「誰か」として捉え直し、その「誰か」の存在を守ることを倫理の核心とみなすような倫理学を発想していくことではないのか、と言うのである。
 本書タイトルの「〈個〉からはじめる生命論」とは、そのことを指している。荒削りながらも、強い主張が秘められた好著である。

野崎 泰伸 2007/11/17 「書評:加藤秀一『〈個〉からはじめる生命論』」
 『図書新聞』2846号
 http://www.nozakiy.org/ronbun/200711a.html
◆立岩 真也 2007/1*/** 「書評」
 共同通信配信記事
天田 城介 2008/01/01 「ケア・2」(世界の感受の只中で・09)
 『看護学雑誌』72-01(2008-01):-(医学書院)
 http://www.josukeamada.com/bk/bs07-9.htm
◆天田 城介 2008/02/01 「ケア・3」(世界の感受の只中で・10)
 『看護学雑誌』72-02(2008-02):-(医学書院)
 http://www.josukeamada.com/bk/bs07-10.htm
◆立岩 真也 2008/02/25 「『〈個〉からはじめる生命論』」(医療と社会ブックガイド・79)
 『看護教育』48-(2008-2):-(医学書院)[了:200712]
◆立岩 真也 2008/05/25 「『〈個〉からはじめる生命論』・2」(医療と社会ブックガイド・82)
 『看護教育』48-(2008-5):-(医学書院)[了:20080328]
◆立岩 真也 2008/06/25 「『〈個〉からはじめる生命論』・3」(医療と社会ブックガイド・83)
 『看護教育』48-6(2008-6):-(医学書院),

http://d.hatena.ne.jp/kallikles/20070930/p1
http://d.hatena.ne.jp/kallikles/20071001/p1
http://d.hatena.ne.jp/x0000000000/20071001/p1
http://d.hatena.ne.jp/oda-makoto/mobile?date=20071024

■言及

◆立岩 真也 2008 『唯の生』,筑摩書房,424p. ISBN-10: 4480867201 ISBN-13: 978-4480867209 [amazon][kinokuniya] ※ et. 文献表
◆立岩 真也 2008/**/** 「人命の特別を言わず/言う」,武川 正吾・西平 直 編『死とライフサイクル』(シリーズ 死生学・3),東京大学出版会 [了:20071022],
◆立岩 真也 2009/03/25 『唯の生』,筑摩書房,424p. ISBN-10: 4480867201 ISBN-13: 978-4480867209 3360[amazon][kinokuniya] ※ et.
 第1章「人命の特別を言わず/言う」
 上掲「人命の特別を言わず/言う」に加筆・構成変更


UP:20071104 REV:20071106,14 20080328,0423,0629, 20090325,20100721
ロングフル・ライフ  ◇加藤 秀一  ◇身体×世界:関連書籍  ◇BOOK
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