『時間と絶対と相対――運命論から何を読みとるべきか』
入不二 基義 20070925 『時間と絶対と相対――運命論から何を読みとるべきか』,勁草書房,291p.
■入不二 基義 20070925 『時間と絶対と相対――運命論から何を読みとるべきか』,勁草書房,291p. ISBN-10:
4326199172 ISBN-13: 978-4326199174 3255
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■著者
入不二 基義[イリフジモトヨシ]
1958年11月11日生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程満期退学。青山学院大学准教授。『相対主義の極北』(春秋社、2001年)、『時
間は実在するか』(講談社、2002年)、『ウィトゲンシュタイン 「私」は消去できるか』(NHK出版、2006年)ほか。
■内容(Amason.com HPより)
過去・現在・未来はひと続きなのか。「私たち」は絶対的か相対的か。「時間と相対主義」をめぐる思索の先で、運命論が立ち上がってくる。
過去のあの出来事は「運命」だったのだ。未来に起こることは「運命」として定まっているのだ。あるときには意味現象であり、あるときには因果的決定だと見
なされる「運命」。本書は、論理や形而上の問題として運命論を捉える試みである。「無関係」からも関係がなく、「現にある」ようにあるしかないもの、それ
こそ語られるべきものだ。
■目次
まえがき
序章 時間と相対主義
第1章 非時間的な時間 第三の〈今〉
第2章 「未来はない」とはどのようなことか
第3章 過去の過去性
第4章 時間と矛盾 マクタガートの「矛盾」を書き換える
第5章 時間の推移と記述の同定 マクタガートの「矛盾」に対する第一の覚え書き
第6章 相対主義と時間差と無関係
第7章 「寛容/不寛容の悪循環」とそれからの「脱出の方途」について
第8章 プロタゴラス説のあるべき姿
第9章 運命論から何を読み取るべきか
■引用
「ローティの『エスノセントリズム』は、いわゆる『自民族中心主義」』や『自文化中心主義』ではない。それは、普遍的な真理や合理性を立てること(普遍主
義・絶対主義)でもなく、複数の真理や合理性の横並び状態(相対主義)に陥るのでもない、第三の考え方を表すローティ独自の用語である。」(252-
253)
「ローティは『我々西洋のリベラルな知識人』と述べているが、『我々』の原点性(そこから出発するしかないこと)は、『我々―』
の『―』の部分にまったく依存しない。『我々』は、何者であろうとも、「今いるところから出発するしかない」ことに変わりはない。それは、『西洋のリベラ
ルな知識人』という事実とは関係のない、『我々』というポジションの文法に属することである。『我々―』には対比項(―でない者)があるが、そこから出発
するしかない『我々』という原点には、対比項(今いるところ以外から出発できる者)はない。『我々』が『我々』から出発できないことは、その意味におい
て、文法的必然的なことである。/しかしローティの『我々』は、『―』の部分、すなわち西洋リベラルであるという事実性に、きわめて強く規定されている。
すなわち、ローティの『我々』とはリベラルなエスノセントリストのことである。」(253)