(「BOOK」データベースより)
「一つならずに亡霊化したマルクス」「マルクスに取り憑いた亡霊たち」を前にしての、マルクスの「純化」(=アルチュセール)と「脱政治化」(=単なるテクストとしてのマルクス)。これらに抗し、マルクスの「壊乱的」(ブランショ)テクストの「切迫さ」(=マルクスの厳命)を、テクストのあり方そのものにおいて相続せんとする亡霊的、怪物的著作。シェークスピアの真価 (The time is out of joint (時間の蝶番がはずれてしまった)) を知りながら結局は亡霊を厄祓いするマルクスの限界にまで踏み込み、「憑在‐錯時性」にこそ、「遺産相続」「出来事・革命・他者の到来」「法を超えた正義」の条件を見出す、マルクス、そしてハイデガーの「存在‐時間」論との全面対決。
マルクスを読まないこと、読みなおさないことは、つねに過失であることになるだろう。それは今後ますます理論的、哲学的、政治的責任に対する違反だということになることだろう。「マルクス主義的」な(国家、党、支部、組合といった)教条機械やイデオロギー装置が消滅過程にある現在、この責任から眼をそむけるときのわれわれに残されているのは、もはや弁明ではなく逃げ口上 のみとなる。この責任なくして、未来はない。マルクスなくして未来はないのである。マルクスの記憶と遺産なくしては。彼の数ある精神 の、少なくとも一つの記憶と遺産を抜きにしては。(……)
だがマルクスも、幽霊と現実性とのあいだの境界線は、ユートピアそのもの同様、ある現実化によって、すなわち革命によって乗りこえられなければならないと考えていた。現実の境界および概念的な区別としてこの境界線の存在を、彼の方もまた、絶えず信じたか、信じようとしたことになる。〈彼もまた〉だろうか。いや、〈彼のうちの誰かが〉である。誰が、だろうか。「マルクス主義」の名のもとで長きにわたって支配力をふるったものを産み出したあの「マルクス主義者」が。そして、自分もまた排除しようとしていた当のものによって取り憑かれていたあの「マルクス主義者」が、である。(「I マルクスの厳命」より)