自助グループは当事者のみの安全な語りの場を作ることそのものが目的であるので、部外者による取材はもっと困難である。また自助グループは匿名を原則におこなわれ、住所はおろか本名を名乗る必要もなく、いつ行っても、いつやめてもまったく自由であるため、自助グループ全体についての正確な統計データというものも存在しない。社会学者レスリー・アーバインは共依存の自助グループを研究するために、目的を隠してミーティングに参加したが、そのことが研究の前後に様々な反発を呼んだと述べている(Irvine 1999)。(p.29)
被虐待者などの社会的弱者や女性は、しばしば自分たちが被害者であるという主張によって社会的アピールをおこなう。現代社会では市民は、自分の被害というものをいっそう自覚するようになってきている。それを現代の社会学では「被害者化(Victimization)」と呼ぶ場合がある。ノーランは「被害者化」を次のように説明する。
個人や集団が、自分たちのことを、虐待的な過去や自分を取り巻く抑圧的な環境の犠牲者であると考える傾向が拡大しているようだ。もちろん、被害を受けたというこの心性は、自己という中心的な場と、人間行動をますます病理的に解釈する文化的傾向に密接に関連している。自己は悪事の加害者ではなく、ある障害(disorder)の被害者なのだ。こうした障害の定義に暗示されているのは、個人の性でなく、別の誰かや何かが非難されるべきなのだという信念である。(Nolan 1998:15)
ノーランによれば、こうした被害者的な姿勢は、自己の健康や幸福の権利を主張するような傾向の増大とも結びついているとしている。そして被害者化は、私的な被害の言語によって社会に公的に働きかけるという、ややねじれた社会性を帯びている。アメリカの政府高官が不当解雇を争った訴訟などにおいても、しばしばアルコール依存や精神疾患の被害者であることが強調されてきたという。
アメリカの医療人類学者アラン・ヤングは、PTSDこそは、心的不調についての「無罪証明力」をもっていると分析している。
PTSDの無罪証明力とは、散在する症状と逸脱行動と一種の士気沮喪感とを集めて一元的な症候群に仕立てあげ、この症候群を外的原因に結びつけて、患者の自己統率力あるいは責任能力を超えたものとする力のことである…一九九〇年代までにPTSDと診断された患者の大部分は米国の復員軍人であり…PTSDの設計を担当した委員会は、仕立屋よろしく、診断項目をベトナム帰還兵の必要に合うように裁断したのである。診断項目は帰還兵が復員軍人局の提供する精神医学サービスを最大限まで受けいれられ、障害年金を最大限まで受けられるように組み立てられた(Young 1995=200:xxxii-xxxiii)(p.156)
アメリカにおける被害者化の問題を広範に論じた保守派のジャーナリスト/評論家のチャールズ・J・サイクスは、社会による個人の抑圧に対して、心理学的な対処を論じた先駆に、アドルノの「権威主義的パーソナリティ」研究などがあったと解説している。そこにあるのは、全体主義を生み出した近代性に対する、終始一貫した批判的な視点であろう。その見方の延長として、次のような論理的帰結が考えられるとサイクスは言う。
日々の生活、特に家族生活が悪魔のようなものとみなされ、それゆえ社会構造への攻撃すらセラピー的であると再定義される。性的抑圧、ブルジョア的家族、宗教的信仰、伝統的道徳を、ナチズムと同一視することは、可能というだけでなく、科学的に推奨すべきことなのであろう。(sykes 1992:58)
被害者であることは要求を通そうとする際に最大限に利益を得ようとする立場なのであり、差別される人々の利益団体の活動は、たとえば、極端に太った人々の利益団体がマクドナルドに大きな椅子を設置を要求するといった事態にまで及ぶ。こうした広義の「マイノリティ」のカテゴリーは途方もなく増え続けており、何らかのマイノリティを総計すると、アメリカの国民の三七四%に及ぶという。それは、「私は悪くない」「責任は他者にある」という言説の拡大なのだ。被害者のクレイムは次第に神聖化されてきている。(pp.158-159)
一九九八年度にある国立大学の「社会調査実習」で、多数の自助団体の調査研究を対象にしたところ、複数の団体から調査姿勢についての抗議が来た。中でも、あるアディクション系の団体は、許可なく事実と反する内容を書かれ、報告書が配布されたと主張し、以後、この調査実習の報告書を配布する際は、その団体による抗議文の小冊子も必ず送付されるようになった。研究者のポジショナリティ(研究する際の立ち位置)も被害者や当事者を相手にすればするほど、そうした他者の視線から無関係ではいられないのだ(上野 2005)
(pp.159-160)
セラピーは「モラルの実験場」であるがゆえに、隔離された空間で共同性を体験するという働きがある。それはしばしば現代的なイニシエーションの過程であった。セラピー文化は、その主観的倫理と、コミュニケーションによる他者および共同性の理解、そして時にはイニシエーション的機能によって、現代社会において部分的には宗教の代替物として機能している。(p.217)