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『ナショナリズムの由来』

大澤 真幸 20070628 講談社,877p.


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■大澤 真幸 20070628 『ナショナリズムの由来』,講談社,877p. ISBN-10:4062139979 ISBN-13: 978-4062139977 \2730 [amazon]

■目次 ■作品紹介

あらゆる知を博捜し、15年の歳月をかけて考究した待望の巨編2000枚、ついに成る! 資本主義、ファシズム、イスラーム、キリスト教…民族、国家、近代、帝国…人類最後の難問ナショナリズムを解く。

あらゆる知を博捜し、15年の歳月をかけて考究した待望の巨編2000枚、ついに成る!

資本主義、ファシズム、イスラーム、キリスト教……民族、国家、近代、帝国……

人類最後の難問 ナショナリズムを解く!

■著者紹介
大澤 真幸(おおさわ・まさち)
1958年生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程修了。京都大学大学院人間・環境学研究科教授。専攻は、社会学
■引用
どんな小さなネーション(国民)にあっても、これを構成する個々人は、大多数の他のメンバーに直接に会ったことはなく、彼らを間接的な仕方で知ることすら もない。ネーションは、このように圧倒的に多くの未知のメンバーを含む共同性として成立しているのである。(: 76)
……アンダーソン自身も認めているように、社会のどのような形態も「想像された」ものであり、なにもネーションだけが例外なわけではない。……しかしアン ダーソンの力点は、次のことにある。すなわち、ネーション以前には、共同体は個人を中心とした?その意味で対面関係に基礎をおいた?伸縮自在のネットワー ク(親類や主従関係等々の)として想像されていたが、ネーションは個人から独立した共同体としてイメージされているのだ、と。(: 76)
■要約(: 819-)

大澤によれば、法と愛には共通する、ある「過剰性」がある。彼はまずカフカの『審判』の不可欠の一部をなす「法の門」と題された寓話、およびその寓話を めぐるベンヤミンとショーレム、アガンベンの読解を検討しつつ、「法が内在させている過剰性」に注目する。その「過剰性」とは、寓話に登場する男が大きく 開け放たれた門への入門を何故か門番に制止され、その入り口でとどまりつづけたように、「必要性も大儀もないように見える法〔=禁止〕に捕縛されてしまう こと」である。ところで、そうした過剰性は、法と対照される「愛」のうちにもみいだすことができる。すなわち、「愛の関係においては、愛される人物に対し て、彼(女)が実際に行っていること、行いうるに見合わない過剰な愛が注がれる」。大澤によれば、ナショナリズムにみられるような法=規範が特殊性や限定 的な共同性への執着をその性格とするのは、法=規範と否定的なかたちで相補的な関係にある、またときに直接に重なりあうこともある「愛」(の対象)が特殊 性を帯びているからである。ゆえに、かかる法=規範の「過剰」で不可解な支配を超克する道を探るためには、「愛」についての内在的な吟味が不可欠であると される。

しかしでは、「愛」とは、いや「真の愛」とは何か。大澤がまず目を向けるのは、それを「死者への愛」と、すべての他人=隣人にたいする普遍的で平等な愛 と考えたキルケゴールの理説である。大澤も指摘するように、キルケゴールのこうした「愛」についての考えは、通常我々の考えるそれとは異なっている。つま り、我々はふつう、その対象が帯びる示差的な特異性=美点のゆえに、彼/彼女を愛する。だがこの場合、「愛」は、その対象がまさしくその示差的な特異性= 美点を失うと同時に失われることになる。ゆえにキルケゴールはそのような特異性=美点に準拠する「愛」を斥け、「死者への愛」こそが「真の愛」であると、 つまりその「愛」は対象の特殊性に無関心である?死者は「死者」というその一般的なカテゴリーに帰属することにおいてその示差的特性を喪失している?がゆ えに普遍性と平等性をもちうると考えたのである。しかしつづけて大澤も問うように、「対象の特殊性に無関心な愛」は、むしろまったく相手を愛していないと いうことにならないだろうか。あらゆる特殊性がそこから剥離した、一般的なカテゴリーとしての「ひと」を愛するということは、つまり「あなた」に愛も、憎 しみさえも感じていないということにならないだろうか。かくして「真の愛へと純化したはずのものが、愛の零度へと反転してしまうことになる」。

それでは、普遍的で平等な愛なるものはありえず、やはり「愛」は、特殊性への愛というかたちをとるしかないのだろうか。そうではない。大澤によれば、普 遍的な愛への潜在的な可能性を宿した愛というものがある。それは、「どのような性質としても積極的に記述しえないような空虚」、つまり「無としての他者」 への愛である。しかしそれは果たしてどのような「愛」なのか。

大澤によれば、キルケゴールの「愛」――「死者への愛」――は、じつは我々がふつうに誰かを愛するよりも簡単なことである。その相手の「死者(一般)」への解 消は、そのひとがもはや毒にも益にもならないことを帰結するが、そのような「無害化」された人物を愛することはたやすいことである。我々が誰かを愛するこ との困難は、その相手の些細な特異性、それも多くの場合、身体的であるような特異性によってもたらされるからである。「他者のちょっとした表情の歪みや細 かな癖にこそ、人は、しばしば嫌悪を覚え、その他者を愛することができなくなる」。大澤によれば、かかる特異性に比べれば、イデオロギーの違いなど、架橋 しがたい溝ではない。むしろ、このような「いかなる深遠な意味づけもできないような」些細な特異性こそ?自分でも曰く言いがたいものであるがゆえに?乗り 越えがたい深淵にほかならない。しかし大澤は、以下のような我々の経験的事実に準拠しつつ、このような愛を困難ならしめる相手の特異的な欠点によってこ そ、我々は真にその相手を愛することができるようになるではなかろうかと示唆する。すなわち、我が身を振り返ってみよう。じっさい我々はどのような人物に 魅力を感じるだろうか。「絵に描いたような美人」だろうか。そうではないだろう。そのような人物にはどこか魅力が欠けている、我々の情熱を掻きたてないは ずだ。むしろ我々は「標準的な美」や「完全なバランス」からの偏差にこそ魅了されるのではないか、と。かかる事実への洞察から大澤が導きだそうとするの は、示差的な特徴=美点にもとづく愛とも「対象の特殊性に無関心な愛」とも異なる「愛」である。つまり「両者を横断するような愛の形態」である。

 「〔それは〕すなわち、対象となる他者の特異的な性質、彼(女)を他からわかつユニークな特徴を経由してはいるのだが、それに、肯定的・順接的に関わる のではなく、否定的・逆説的に関わるような愛の形態である。他者の特異的な美点のゆえに愛するのではなくて、特異的な欠点にもかかわらず愛するのだ。重要 なのは、この「にもかかわらず」という逆説の連関である。「にもかかわらず」という逆説性において措定されているからといって、他者のその特異的な性質 が、「愛」にとって障害物として作用しているわけではない。そうではなくて、むしろ逆に、その特異性は、他者を愛する上で不可欠の要素である。」(大澤 2007: 824)

大澤によれば、他者の特異性が愛を誘発する契機でありながら、「にもかかわらず」という逆説性においてあらわれるのは、真に愛されている対象が、その特 異性の「直接的・積極的な現象形態に回収しえない過剰性」、他者のうちにあって何ものとしても積極的には特徴づけられない「それ以上の何か」だからであ る。つまり他者の特異性は、かかる「それ以上の何か」との対照において「不足しているもの」として、否定性を帯びて現前するからである。つまりこのとき、 「どのような性質としても積極的に記述しえないような空虚」つまり「無としての他者」が、真の愛の対象となっている。そしてその愛は、積極的には何者でも ありえないというまさにその点において任意でありうる他者への愛として、普遍的な愛への潜在的な可能性を宿しているといえるだろう。普遍的な愛は、「死者 への愛」がそうであったように、普遍的な他者=特異性を喪失した他者を直接に愛の対象としようとするとき、その自己否定へと陥るのだった。しかし特異的な 他者のこうした逆説的なあらわれに媒介されるときには、可能なものとなりうる。

作成:樋口 也寸志
UP: 20080217 REV:20100209
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