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『近代日本とマイノリティの〈生-政治学〉――シュミット・フーコー・アガンベンを中心に読む』

小畑 清剛 20070517 ナカニシヤ出版,308p. 


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■小畑 清剛(おばた・せいごう) 20070517 『近代日本とマイノリティの〈生-政治学〉――シュミット・フーコー・アガンベンを中心に読む』,ナカニシヤ出版,308p. ISBN-10: 4779501407 ISBN-13: 978-4779501401 2730 [amazon][kinokuniya] ※ b

■著者紹介
〈小畑清剛〉1956年京都府生まれ。京都大学大学院法学研究科博士課程中途退学。姫路独協大学教授、京都大学博士(法学)。法哲学、法社会学、法人間学を専攻。著書に「レトリックの相剋」など。

■蔑視され、虐げられてきた「少数者」たちの悲劇的な運命を露わにし、その実相を現代思想で読み破り、断ち切り、人間として救い出した魂の作。

■第1章 C.シュミットと友敵結束理論
 1 C.シュミットの復活?
 2 前史―「宮沢マキ」の世界
 3 戦争国家における友敵結束
 4 シュミット・フーコー・アガンベン
 5 平和国家における友敵結束
 6 環境保護国家における友敵結束
第2章 F.A.ハイエクと自生的差別秩序
 1 二つの秩序と「教義=ドグマ」結合
 2 癩者と因果応報思想に関わる自生的差別秩序
 3 鵜飼・屠者・武士と不殺生戒
 4 アイヌ・沖縄人と不殺生戒
 5 米と肉をめぐる迷信と自生的差別秩序
 6 「教義=ドグマ」結合と自生的差別秩序
第3章 M.フーコーと「精神科医=宗教家型権力」
 1 M.フーコーの曖昧さ?
 2「教義=ドグマ」をめぐる三つの思考
 3 フーコーと告白を聴くことの問題
 4 牧人としての金田一京助
 5 G.アガンベンと証言を聴くことの問題
第4章 J.L.オースティンと発話切断行為
 1 J.デリダと届いてしまう手紙
 2 被差別部落民と発話媒介切断行為
 3 複合的差別構造という困難
 4 松の木のあっちとこっち
 5 沖縄人と発話内的切断行為


おわりに

■引用

第1章 C.シュミットと友敵結束理論

1 C.シュミットの復活?
シュミットの死
「長尾龍一は、C.シュミットが1985年に他界した事実に注意を促し、M.ウェーバーが「神々の闘争」と呼んだ状況、C.シュミットが「友(味方)/敵理論」を提示した状況、H.ケルゼンが「イエスかバラバか」と形容した状況はすべて、極右と極左の思想がともにタブーの領域に封じ込められてしまった現在においては存在しない、と強調する。すなわち、C.シュミットという一人の人間の死は「シュミット思想の死」という精神世界の在り方と固く結びついているのだ。「シュミット思想の死」が語られる現在に栄えるのは、「世界観的な対立を棚上げした穏健な思想の間の合意の哲学」であるにす3>4ぎない。」pp3−4

「「〔…〕かつてケルゼンが無力感に苛まれつつ求め続けた政治状況が大体において実現をみせている。このような中で、その時その場に居合わせた者を説得する技術としてのレトリックを重視する実践哲学が唱えられているのは不思議ではない。」」p4

実践哲学の復興
「長尾によれば、ロールズやドゥオーキンの想定するアメリカ実定法の「政治哲学」およびペレルマンやハーバーマスが唱えるコンセンサス志向の「実践哲学」は、「過酷な現実の中のオアシス」とも言うべき西欧先進諸国の国内のみに妥当する哲学であり、このオアシスの政治哲学や実践哲学が「叡智に富5>6んだ人類の宝」であることを仮に承認するとしても、これが人間界の一局面にすぎないことは否定できないのだ。」pp5−6

「しかし、今や、状況は変わった。シュミットの「友/敵理論」を重視する気鋭の論客Ch.ムフはロールズやドゥオーキンの政治哲学における「政治」の欠如を厳しく指弾し、さらにG.アガンベンはC.シュミットの『政治神学』とE.Hカントロヴィッチの『王の二つの身体』そしてM.フーコーの『知への意思』から影響を受け、「ホモ・サケル」という独創的な社会哲学上の概念を提起したのである。シュミット思想は確実に死から蘇った。しかし、その復活は、皮肉なことに、長尾が「平和なオアシス」と見なした西欧先進諸国の内部においても、闘争―主権国家間の戦争(A戦争)ではなく、健康かつ優秀な人々(実は国家権力)と障害者・病者との間の戦争(B戦争)―が闘われ続けていることも明らかにするのである。」p6

政治の標識
「ドイツの憲法学者にして政治哲学者であるC.シュミットは、『政治的なものの概念』において、政治を次のように定義づけた。「政治的なるものという概念規定は、政治的な範疇を見出し確定することによって獲得されるが、その特有の標識は、友(味方)/敵である。道徳的なるものにおいては、善/6>7悪が、美的なるものにおいては、美/醜が、経済的なるものにおいては、利/害がそれぞれに固有の究極的区別であるように、友/敵は、政治的な行動のすべてがそこに帰着するような究極的な区別である。」」pp6−7

「友/敵の区別は、結合や分離、連合や離反の最も強度な場合を示しており、それは他の領域とは完全に切離される。すなわち、シュミットによれば、政治的なるものは、「政治上の敵は道徳的な悪である」とか「政治上の敵は美的に醜い」とか、「政治上の敵は経済的に害をなす」とかいうことと関係なく、理論的かつ実践的に独立して存在しうる。もちろん、政治的なるものも、宗教的・経済的・道徳的その他の人間生活の様々な諸領域から、その力を受けとることは否定できない。しかし、いったん友/敵関係が成立すれば、その中での純宗教的・純経済的・純道徳的な動機や意図は後退させられ、政治化した状況から来る、しばしば不合理とすら思える諸条件・諸帰結に完全に支配されることになる。その意味で、政治は、例えば善悪正邪や合法不法のような(道徳的あるいは法的な)規範的なるものではなく、むしろ実存的なるものである。」p7

「友/敵という概念が実質的な意味をもつのは、それらが特に戦争や内戦による物理的殺戮の現実的可7>8能性との関わりをもち続けることによってである。「戦争は敵対から生じる。敵対とは他者の存在そのものの否定なのだから。戦争は、敵対の最も極端な実現にほかならない。戦争は何も日常的・通常的なものである必要はないし、理想的なもの・望ましいものと感じられる必要もないが、ただ敵という概念が意味をもち続ける限りは、戦争が現実的可能性として存在し続けなければならない」。このように、シュミットによれば、究極的な政治的手段としての戦争は、すべての政治的概念の根底に、友/敵を区別する可能性が存在することを露呈するのだ。したがって、政治的なるものの領域は、敵の現実的可能性によって規定されるのであるから、政治的概念ないし思考は、人間学的オプティミズムを出発点とすることはできない。」pp7−8

友敵結束
「一つの共同体の中で、ある問題をめぐって、緊張・衝突・相剋が生じ、それがエスカレートしていく過程でa・bという二つの集団が形成され、これらの集団が結束を固め、存在論的に相手を敵として否定するまで対立が激化した時に、つまり敵を物理的に殺戮して殲滅しようとする状況に至った時に、友(味方)結束と敵結束を前提とする政治的対立が生じる。〔…〕Ch.ムフは、このa・bという二つの集団の友敵結束という関係から、敵を好敵手に読み替えた上で、アイデンティティの政治学の構築を試みる。ムフは、シュミットによる自由主義的法秩序批判を次のようにまとめる。宗教・道徳・経済といった不和・対立が生じるような一連の論点を私的領域に閉じ込めることが自由主義的法秩序(とりわけ議会8>9制)の基盤であったが、それは、シュミットが民主主義が機能する必要条件であると見なす同質性を創出するために不可避なことであった。かくして、議会は、諸個人が衝突し合う利害から切り離されて、討議によって理性的な合意に達することのできる領域として現われた。もちろん、シュミットからすれば、そのような自由主義的な議会制国家は、「○○が敵である」ことを決断することなく、討論をずるずると継続して問題の決定を先へ先へと延ばしてしまう「中性国家」であるにすぎない。しかし、近代の大衆民主主義の発展にともなって、中性国家は没落し、新たに「全体国家」が登場する。全体国家は、様々な圧力によって次々と諸領域へと介入を開始するが、それによって以前の段階の国家を特徴付けた非政治性=中立性は逆転され、M.フーコーの言う生―領域を含むあらゆる領域に、政治は介入を開始するのである。」pp8−9

「以上のような観点、からムフは、〔…〕「〔…〕シュミットによれば、自由主義的な概念は、倫理と経済の……間を揺れ動くのである。しかし自由主義的な思想は国家と政治を回避し、「暴力と抑圧の領域としての政治的なるもの」を消去しようと試みるのだ。シュミットにとっては、政治的なるものとは、友/敵関係に関わるものであり、「かれら」に対する「われわれ」の創出に関係する。そこで示されるのは、まさに理性的な合意の限界であり、あらゆる合9>10意は必然的に排除という行為に基づいているという事実なのである。〔ハイエクのように〕私的利害を追及する自由な活動から一般的な利益が帰結するとか、〔ロールズやJ.ハーバーマスのような〕自由な討論によって普遍的・理性的な合意が達成されるといった自由主義的な理念によって、自由主義は政治的なものの現象に対して盲目になってしまう」。ムフによれば、自由主義における政治も「われわれ」の創出を目指しはするが、完全に包括的な政治共同体は決して実現できない。なぜなら、シュミットの言うように、「われわれ」を構築するためには「かれら」を切断するための境界線を引くこと、すなわち敵を定義することを意味するからである。」pp9−10

「われわれ」と「かれら」
「シュミットにとって、政治的なるものの指標、すなわち政治的なるものの領域に特有の「個別的種差」とは、友/敵関係に他ならなかった。それは「かれら」との敵対関係に立った「われわれ」の創出をともなうから、本来的に集合的帰属意識の領域に属するものである。つまり、a・bという二つの集団は、「われわれアイデンティティをもつもの」と「かれらアイデンティティをもつもの」に切断され、互いに敵対するのである。ゆえに、ムフは、F.ニーチェやM.ウェーバーの「神々の闘争」の概念をヨリ真剣に受け止めなければならないと主張する。なぜなら、「われわれ」意識の創出は、その前提として異質な「かれら」の画定を必要とする。だとすれば、ここで認めなければならない事実とは、こうした「われわれ」結束―10>11「かれら」結束関係が、いつ何時、友敵結束関係へと移行して、「かれら」という異質な他者の存在が、敵という形で認識されるかもしれないという、その現実化の可能性だからである。近代民主主義のプロジェクトを存立させるのは、多元主義における同質性(等価性)の論理と差異の論理の間の、「われわれ」に対する「かれら」すなわち敵という他者を構築する可能性を秘めた緊張関係に他ならず、これを消去することは、政治的なるものの抹消を含意し、もはや民主主義は存立できないのである。」pp10−11

2 前史―「宮沢マキ」の世界
本妙寺
「本妙寺について、栗原彬は、様々な理由で共同体を出なければならなかった人々が行き着いて「ゆるやかな村をつくり、そこには共同に生きるルールのようなもの」が生まれており、「ハンセン病患者がそこで癒される場所だった」と指摘している。本妙寺集落がはたして、栗原のいう「癒される場所」=「親密圏」であったか、それともリデルの言う「排除される場所」=「疎外圏」であったか、を問おうとは思わない。しかし、本妙寺の内部と外部が「われわれ=健常者アイデンティティをもつもの」と「かれら=病者アイデンティティをもつもの」とに分断されていたことは疑問の余地がない。」p12

「もう一つ見逃してはならないことは、本妙寺が『法華経』を捧持する日蓮宗の寺院であったことである。後に詳論するが、『法華経』には、『法華経』を謗ったために癩に罹患したのだという因果応報の観点から、癩の症状の記述が生なましく記されていいる。」p12

宮沢マキ
「仏教の因果応報思想は、個人の現報についてのみ、語られたのではない。第二章で検討するように、説教節「しんとく丸」では「親(の前世)の因果が子に報い」型の因果応報思想が語られている。すなわち、「しんとく丸」によって、癩は、単なる個人の過去の悪業に対する現報ではなく、仏罰により特定の家筋―ドスマケ・ドシマキ・クサルマケと呼ばれた―の子孫に代々受け継がれていく業病であると誤解される契機すら与えられたのである。」p13

「癩は単なる伝染病ではなく、「仏罰の現報である」という迷信および「特定の家筋に受け継がれる業病である」という偏見は、仏教の因果応報思想に関わる「教義=ドグマ」を通じて少しずつ人々の心を支配していったのである。皮肉なことに、これらの迷信・偏見は、近代における遺伝学および細菌学の発達によって、ある意味、かえって強化されることになった。」p14

「「ハンセン病は遺伝病ではなく伝染病であるが、抵抗力の弱い幼児への感染を防ぐためには、癩家族のステルザチョン(断種)が必要である」という光田健輔らの主張は、日本社会に根強く残っていた「ドシマキ」という仏教の「教義=ドグマ」に起因する迷信と、胎児感染や新生児感染に関わる「癩家族」という近代医学における知見が、癩の家系の「血の穢れ」を浄化すべきであるという優生思想の観点から偶然にも共鳴・補強・結合しあうことにより、癩を「日の丸の恥」と考える多くの日本人から支持されたのである。」p14

「奇妙な国」
「日清・日露両戦争の勝利によって帝国主義列強の一角に参入し、「一等国」を自認するに至った日本にとって、西洋諸国にはほとんど存在しないハンセン病患者が3万人以上もいるという現実は、富国強14>15兵の観点からも国家の死活に関わる問題であった。優生思想の視点がハンセン病対策にも導入され、単に「癩者は「日の丸の恥」である」という理由だけからでなく、富国強兵を実現するための日本民族の体力の質的向上を図るという理由からも、光田健輔らの指導により患者そのものの撲滅を目的とした強制隔離および断種が政策的に推進されたのである。」pp14−15

「国境の外部から内部への「病棄て」、すなわち癩療養所という「奇妙な国」への病者の遺棄こそ、「つい先日まで、日本の社会がらい患者に与えた処遇の本質であった」と島田等は鋭く告発するのである。」p16

3 戦争国家における友敵結束
ダーウィンと優生思想
「強制隔離や断種によって政策的に滅亡への道を歩まされたハンセン病患者のみならず、戦争と精神障害者や先天性身体障害者の関わりという地平において重要な論点として浮上してくるのは、逆淘汰という問題である。」p18

「当時、優生思想は、右翼ではなく、むしろ社会改革に合理的な基礎を与えるものとして、自由主義者や社会主義者に歓迎された。イギリスに限って言っても、フェビアン協会のウェップ夫妻や、H.Gウェルズ、後に政治学者となる若き日のH.J.ラスキ、経済学者のJ.M.ケインズなどは、優生思想に期待をかけた知識人であった。」p19

優生思想と社会福祉
「強制的安楽死をも肯定するプレッツは、「社会主義的傾向をもつ」と評されているにもかかわらず、病人や失業者を保護することは、貧困という現象が雑草を間引く効果がある以上、生存競争による雑草根絶効果が十分に現われる効果を妨げるので、廃止されるべきであると主張した。」p20

結婚淘汰と戦争
「「優生」の反対語は「劣死」である。」p20
「社会進化主義の立場に与するフランスの人類学者C.ルトゥルノーは、結婚淘汰の意義を強調して次のように論じる。もともと精神障害者や先天性身体障害者のような「低価値者」は平時においても結婚できないことが多く、彼らの集団である未婚者群では自殺者のパーセンテージも有意に高くなる。したがって、結婚は、いわばこれらの低価値者を篩にかけて淘汰するものであり、身体的かつ精神的に健康な「選ばれた者」のみが子孫を残すこと可能にするのだ、と。」p21

「すなわち、優生思想の観点から見て好ましい結婚淘汰の果たすべき機能を完全に逆転させてしまうのが、永井潜が逆淘汰であると論じた戦争なのである。」p22

「戦争は尤も恐るべき逆淘汰である」という永井が提示した命題〔…〕」p23

『小島の春』

A戦争とB戦争
「以上、永井潜の逆淘汰をめぐる言説と小川正子の『小島の春』に関する言説を分析することによって、戦争と優生思想という場合、その戦争には、@日本とアメリカとの戦争という時のような主権国家間の戦争(A戦争と呼ぶ)、およびA健康かつ優秀な人々(実は国家権力)と精神障害者・先天性身体障害者・ハンセン病患者のような雑草に喩えられ、低価値者という烙印を押される人々との間の戦争(B戦争と呼ぶ)が複雑に絡み合って論じられていることが明らかになった。」p25

4 シュミット・フーコー・アガンベン
政治から<生―政治>へ
「「近代において政治は生そのものを管理することを自らの統治行為の中心に置くようになる」と指摘している事実と呼応している。」p28

ユダヤ人から障害者へ
「フーコーが『知への意志』で示したのは、「死なせる」か「生きるままにしておく」という従来の二分法に代えて、「生きさせる」か、「死の中に廃棄する」かを決定する政治を自らの統治行為の中心に置31>32く生―政治の出現である。フーコーによれば、それは、@身体の調教・身体の適正拡大・身体の有用性と従順さの並行的強化・管理システムへの身体への組み入れ等の規律を保障する人間の「解剖―政治」と、A人間の繁殖や誕生・死亡率・健康水準・寿命等の変化に介入・調整・管理する人口の「生―政治(狭義)」から成る。」pp31−32

G.アガンベンの登場
「シュミットの政治(権力)論とフーコーの生―政治(生―権力)論を独創的な仕方で総合したG.アガンベンは、「子供、狂人、未成年、女性、体刑や名誉刑に処せられている者は市民ではない」というJ=D.ランジュイネーの言葉に注目する。「近代の生―政治の本質的な性格の一つは、それが、生において何が内にあり、何が外にあるのかを、明確に判別・切断する境界を絶えず定義し直さなければならないという点である」とアガンベンは言う。K.ビンディングとA.ホッヘの言う「生きるに値しない生命」とは、ヒトラーの「人道的理由からする安楽死計画」によって、まさに「境界を定義し直された」先天的身体障害者や痴呆者であった。アガンベンによれば、「生きるに値しない生命」とは、倫理的概念ではなく、生―政治的概念であり、そこで問題となっている「剥き出しの生」とは、「主権権力によって基礎とされるホモ・サケルの殺害可能な生に関して主権的に決定することと、国民の生物学的身体への配慮を引き受けることとの交点に位置しているのだ。それは、生―政治がまさに死―政治へ反転する点を刻印している。「主権者とは、例外状態において決断する限りで、どのような生32>33が殺人罪になることなく殺害されうるかの権力をもつ者であるが、生―政治の時代には、この権力は例外状態から解き放たれ、生が政治的な意味を持たなくなる点に関して決定する権力へと変容しようとする」。」pp32−33

政治・医学・警察
「アガンベンは、フォン・ユスティが、政治と警察を区別し、政治には純粋に否定的な任務(国家に対する国内外の敵を相手とする闘争)を、警察には純粋に肯定的な任務(市民の生への配慮とその成長)を割り当てていた、という事実に注意を促す。「ナチズムの生―政治は、これが政治と警察という二つの用語の区別の消滅を含意するということが了解されてはじめて理解できる。今や警察は政治となり、生への配慮は敵に対する闘争と一致する。……ユダヤ人絶滅がすべての意味を獲得する。そこでは、警察と政治、優生的動機とイデオロギー的動機、健康の維持と「敵」に対する闘争が、まったく見分けがつかなくなるのだ」。」p34

J.ロールズの限界
「このように先天性身体障害者や精神障害者そしてハンセン病患者の問題は、社会哲学や倫理学にとって決定的な意味をもつ。だが、B戦争の敵、すなわち優生保護法やらい予防法により著しく「不正義」な状況に置かれた「かれら=障害者・病者アイデンティティをもつもの」は、正義感覚に富むものの、J.シュクラーの言う不正義感覚に感受性を欠く思想家によって、無視されてきた。優生保護法やらい予防法によって時として「生きさせられ」たり、時として「死の中に廃棄され」たりした障害者や病者の現実を「不幸」や「不運」と見るのではなく、「不正義」として受け止める不正義感覚が貧しい場合、正義感覚のみが豊かな論者は、そのようなB戦争がもたらす不正義を自らが構築を目指す「正議論」となんら重要な関連性を有さないものとして、捨象ないし「後回し」にする。そして、障害者や病者を含む人間存在の多様性をTh.アドルノが非難する同一性へと還元した上で、B戦争における敵とされたマイノリティに関わる問題群を、自らの体系的な学的地平の外部へと放擲することになる。p36

「結婚十訓」
「〔…〕その翌年、閣議において、大東亜共栄圏の確立および高度防衛国家維持のための人口増加と資質の向上を目指す「人口政策確立要綱」が決定されたが、それは、結婚の早婚化・出産奨励・家制度強化を柱としていた。同年、国民優生同盟が発表した結婚についての指導方針である『結婚十訓』には、「心身ともに健康な人を選べ」「お互いに健康証明書を交換せよ」「悪い遺伝のない人を選べ」「近親結婚はなるべく避けよ」「産めよ育てよ国の為」等々の項目が列挙されていた。」p38

救癩挺身隊
「平時におけるハンセン病患者は、光田健輔が「国父」として君臨する「奇妙な国」すなわち癩療養所において強制隔離および断種を命じられて静かに劣死することを期待された。しかし、〔…〕ハンセン病患者はB戦争において静かに劣死することを待つ者ではなく、A戦争の勝利のために統制運用されるべき人的資源として救癩挺身隊の一員となり、皇国に奉公することが求められたのである。」p39

ナウル島の悲劇
「1980年、日本ナウル協会会長の石川三郎は次のように証言した。「日本軍が上陸した当時、ナウル島には10名ほど(一説では49名)のライ患者がいまして、癩病院に入っていたのですが、日本軍は、この患者を大変神経質に扱いまして、聞くところによりますと、ある晩、全員をボートに乗せて沖に連れて行き、沈めてしまったということです。〔…〕」p41

5 平和国家における友敵結束
北欧の理想郷で
「『朝日新聞』(1997年8月26日付)は、1935年から1976年にかけて低価値者と見なされた6万人もの男女がスウェーデンで強制的な断種・不妊手術を受けていたことを報じた。優生思想に基づく同様の手術は、スウェーデンのみならず、ノルウェー・デンマーク・フィンランド・スイス・オーストリア等でも行われていたことが明らかになった。」p42
「アメリカ・イギリス・フランスなどの連合国側は、優生思想に基づく断種を、人権侵害=非合理的なものと認定しなかったのである。カリフォルニア断種法(1917年)→ナチス断種法(1933年)→(日本の)国民優生法(1940年)→優生保護法(1948年)という継承関係の起点に、アメリカの法律が位置しているという事実が〔…〕p43

K・GミュルダールとA・フォーレル
「実際、スウェーデン人でノーベル賞受賞者のK.G.ミュルダールは、平和の擁護と福祉の充実を訴えるために「戦争は尤も恐るべき逆淘汰である」という命題を生み出す優生思想を支持しつつ、同時に、治療困難な特定の病者や先天性身体障害者―彼(女)らが「不良な子孫」をつくることは、回復可能な病者や後天的障害者などの福祉に使うべき資金を無駄遣いすることになる―へ断種・不妊手術を実施することの重要性を主張している。」p43
「また、スイスの著名な精神科医A.フォーレルは、1892年に精神障害者に対する初の断種手術を行う一方、反戦・平和の立場から、「戦争を行う国民のうち健康な男性が死ぬように定められ、1300万人の死者という途方もない血の犠牲が払われた一方で、戦闘の役にも立たず、したがって生殖にも不適切な人間は、性的な競争もなしに故郷にとどまった」と論じている。」p43
「市野川容孝は、1996年まで効力を有していたガイドライン「優生保護法の実施について」の一節、すなわち「審査を用件とする優生手術〔=医師の申請に基づき、その可否を都道府県の優生保護審査会が決定する不妊手術〕は、本人の意思に反してもこれを行うことができるものであること。……この場合に許される強制の方法は……真にやむを得ない限度において身体の拘束、麻酔薬使用又は欺罔等の手段を用いることを許される場合があると解しても差し支えないこと」を引用した上で、現実に、精神障害者や知的障害者に対して「「お腹の病気」と偽って、本人の同意もなしに不妊手術が行われていたこと」を強調する。〔…〕市野川はヨリ率直に、「優生政策は憲法九条となんら矛盾しないばかりか、むしろそれと密接に連動しながら本格化していっ44>45たとさえ言えるであろう」とまで論じているのだ。」pp44−45

優生結婚のすすめ
「松原洋子も、特に1970年代に至るまで国家および地方公共団体の優生はタブーではなかったと強調し、その証拠として、高等学校の保健体育で「母子衛生・家族計画・国民優生」あるいは「結婚と優生」について指導することが求められていた、という事実に注意を促している。」p45

バカは死ななきゃ……
「また、1978年、愛知教育大学の生物学のテキストに露骨な差別表現があることが判明した。いわく、「精神病には遺伝が大きく支配していることがわかる。今日、精神病を完治する方法はほとんどない。キチガイもバカも“死ななきゃ治らない”のである。しかも、社会の受ける害と経済的負担は大きい。……重要で有効な方法は、これらの遺伝を研究して、その遺伝子を社会から消すことである。……低脳は断種する必要がある」。P46
「教育基本法の第一条は、〔…〕この「心身ともに健康」という文言について、哲学者の高橋哲哉は、そこに平和国家における友敵結束をもたらす優生思想の臭みが潜んでいることを否定できないと言う。」p47

不幸な子ども
「ところで、兵庫県は、他の自治体に先駆けて1966年から「不幸な子どもの生まれない施策」を47>48推進し、先天性身体障害や精神障害をもった子供の発生予防を重視する母子保健対策のモデルとなった。この施策は「不幸な子ども」であると定義された障害児や病児は、「新たに出現してはならない存在である」と公的に宣言されたのと同義であるとして、「障害者団体である「青い芝の会」は、ナチスの優生思想にも言及しつつ、鋭く批判した。」pp47−48

神聖な義務
「優生思想が障害者や病者の基本的人権を侵害しかねないという認識が広まったのは、渡辺昇一のエッ49>50セイ「神聖な義務」が、ヒトラーの『わが闘争』を想起させたことを一つの契機とする。〔…〕渡辺はそのエッセイで、ヒトラーの行為を非人道的犯罪としながらも、「遺伝的欠陥のある者」や「ジプシー」の「ナチスによる処理」を肯定する発言を引用しながら、血友病患者の子供二人の父親である大西巨人の名を挙げて、「未然に避けうるものは避けうるようにするのは理性のある人間としての社会に対する神聖な義務である。現在では治療不可能な遺伝病の子どもを作るような試みは慎んだほうが人間の尊厳にふさわしい」云々と批判した。〔…〕渡辺は、「われわれ=健常者アイデンティティをもつもの」と「かれら=障害者・病者アイデンティティをもつもの」とを切断し、「われわれ=健常者=友」結束・対・「かれら=障害者・病者=敵」結束という構図を前提とする、平和国家においてこれまで隠蔽されていたB戦争の開戦を宣言してしまったのである。」pp49−50

6 環境保護国家における友敵結束
環境基本法第一条
「A戦争を否定する平和国家において、緊急の課題の一つは、公害=環境汚染との闘いである。しかし、ここに陥穽が潜んでいる。ダウン症の娘をもつ生物学者の最首悟は、「公害反対運動と、障害者運動はどこかで共通の根をもちうるかという問題」を提起している。つまり、最首は、環境ホルモンが生殖に与える危険性やダイオキシンなどの環境汚染物質がもつ催奇形性が宣伝される以前から、いわゆる公害反対運動・環境保護運動は「(五体満足でありたいという思いに支えられた)心身共に健康な人間像を基準とする運動」であるのに対して、障害者運動は、障害者解放運動すなわち「障害者は生きるに値する人間であることを主張する運動」であるにもかかわえず、公害反対運動が公害をなくす運動であることから誤って類推されて「障害者をなくす運動」と誤解されてしまう可能性があることに注意を促していた。」p51

さっちゃんの悲しみ
「ここには、まさに「悲しみを背負った子供たちが今以上に増えることへの恐れ」に共鳴する視座から、先天性身体障害者を「環境汚染のバロメーター」と見なす善意の科学者・市民の姿が確認されよう。」p54

ボランティアと障害者
「しかし、「与えることと受けとめることが相互的なプロセスである」ことを強調する金子郁容は、ボランティアを「あるきっかけで直接または間接に摂食するようになった人は、なんらかの困難に直面していると感じた」場合に、「その状況を「他人の問題」として自分と切り離したものとはみなさず、自分も困難を抱えるひとりとして、その人と結びついているという、「かかわり方」をし、その状況を改善すべく、働きかけ、「つながり」をつけようと行動する人」と定義づける。」p54
「「われわれ=健常者アイデンティティをもつもの」と「かれら=障害者・病者アイデンティティをもつもの」の切断はB戦争をもたらすが、「われわれ=健常者アイデンティティをもつもの」と「かれら=障害者・病者アイデン56>57ティティをもつもの」がつながれば、それらは徐々に相互浸透しながら、「われわれ=健常者=友」結束・対・「かれら=障害者=敵」結束という構図をゆっくりと解体していくのである。」pp56−57

「私は私の手が好きだ」
「……環境汚染のバロメーターや、汚染のつけのサンプルとして無神経に引き合いに出されるのはいやだ、私は私の手が好きだ、と父母の会で最初に発言したのは小学生の少女であった。」p57

問題としてのタバコ
「たばこ(禁煙)訴訟」についても、興味深い論点が確認される。〔…〕ここでは、「環境を汚すことは子宮を汚染することだという重い事実」を前提とする正義の告発によって、先天性障害児の誕生を含む異常分娩が訴訟で提起される危険性が、職場における禁煙ないし分煙を勝ち取る「切り札」となったと考えられる。ここにも、生―政治の領域におけるB戦争が確認される。」p59

サリドマイド児とALS患者
「もちろん、サリドマイド児に「深いまなざし」を注ぐことすらない太田の思想は、彼が制定に尽力した「不良な子孫の出生を防止する」ことを目的とする優生保護法の精神に合致している。」p60
「サリドマイド児にすら堕胎を行うべきであると主張する太田は、当然、進行性筋ジストロフィーやALS(筋萎縮性側索硬化症)の患者にも、安楽死を勧めることになろう。竹内章郎は、太田に見られる「本人の最上の利益は(安楽・尊厳)死である」という学説の背後には、「重度障害児」=モンスター説、「重度障害児」=非人間説、「重度障害児」=社会の負担説が潜んでいると言う。このことを踏まえて、太田に問いかけるべきは、「なぜALSの患者だけが安楽死・尊厳死を拒否して生きるための理由を問われなければならないのか。そして、目が悪くなった時に眼鏡をかけることをためらう人など誰もいないのに、なぜALS患者たちは呼吸が不自由になった時に気管切開をして人工呼吸器をつけるか否かの選択を迫られるのか」ということであろう。高度医療国家における低価値者の「劣性」によって人類が「退化」することを憂うる太田の立場からすれば、人工呼吸器の発明に代表される医療の進歩は、自然淘汰されるべきALS患者のような低価値者を意味もなく生存し続けさせることになった、とかんがえられるだろうからである。P61

安積遊歩の闘い
「安積の歩みは「生命としての身体、人としての身体、女としての身体を肯定して受容」するために、「優生思想と家父長制による差別や偏見や抑圧を突き崩していく闘いそのもの」である。病院(医師)から、学校から、そして家庭から、その「肉体=身体(body)を自己に取り戻すための闘争は、「他人に迷惑をかけない(他人の世話にならない)」という戦後日本が創り出した貧弱で不遜かつ傲慢な「倫理」との闘いでもあるという意味で、佐藤は、安積の「肉体=身体」は、「性的存在から政治的存在に移行している」と指摘する。」p63

「母よ!殺すな」というトリック
「要田によれば、女性=母親の自己決定権を隠れ蓑とすることによって、先天性心身障害者予防という自らの政策に潜む優生学的な人口政策を巧妙に隠蔽した厚生省は、出生前診断の利用や選択的人工妊娠中絶の採否、すなわち薬害や環境汚染を原因とするか否かにかかわらず出生前診断の結果、胎児に障害があると判明した場合、人工妊娠中絶を行うかどうかが(障害児を産んだ場合に差別・抑圧される)女性=母親の自己決定によることを強調することで、「障害児の抹殺を母親という個人に負わせている」のだ。人間の繁殖や誕生・死亡率・健康水準等の変化に優生学的観点から介入・調整・管理しようとする国家の行使する生―権力は不可視化されているゆえに、サリドマイド児に関する二つのアンケート調査がB戦争において親と子が互いに敵となることを示唆したように、先天性身体障害者たちの叫びは、「国よ!殺すな」でも「父よ!殺すな」でもなく、「母よ!殺すな」となってしまう。」p64
「「障害者として生きる権利」や鹿野靖明が「病者として生きる権利」が基本的人権として保障されなければならない。」p66

新優生学の誘惑
「新優生学は、これまでの優生思想とは異なり、遺伝子改良により発癌遺伝子の無効化・免疫系の強化・成人病関連遺伝子の改善のみならず、身長・容貌・筋力などの改良を行うものである。この新優生学が、〔…〕すなわち「われわれ=(遺伝子改良をする)医師・プラス・(遺伝子改良をされる)障害者・病者=友」という協同の構図に変更することになるかは、現在の時点では、正確に予測できない。」p66

まとめ
「本書では、C.シュミットとM.フーコーの思考を参考に、戦争国家における友敵結束、平和国家における友敵結束、環境保護国家における友敵結束についてそれぞれ検討を行った。例えば、戦争国家においては、日露戦争のような主権国家間の戦争=A戦争の前提となる「われわれ=日本人=友」66>67結束・対・「かれら=ロシア人=敵」結束という構図が成立しているが、それに重ねて、富国強兵を目指す国家と低価値者という烙印を押された人々との間の戦争=B戦争の前提となる「われわれ=健常者=友」結束・対・「かれら=先天性障害者ないしハンセン病者=敵」という構図が成立していることを明らかにした。つまり、B戦争において障害者や病者の撲滅による民族浄化を達成することにより、富国強兵策を実現し、A戦争においてロシアの壊滅を目指すという友敵結束の二重構造が確認されるのである。このことは、第二次世界大戦後、A戦争を否定した平和国家として生まれ変わった日本においてもB戦争が継続し、らい予防法や優生保護法が長く廃止されなかった事情を説明する。とりわけ、ダイオキシンや環境ホルモンなどによる環境汚染が深刻化するにつれて、環境保護を重視するに至った国家は、「われわれ=健常者=友」結束・対・「かれら=(環境汚染のバロメーターと見なすべき)先天性身体障害者=敵」結束という構図を新たに確立することになる。先天性身体障害者は、戦争国家においては、A戦争を闘うべき兵士になれないのみならず、優生思想の観点から憂うべき逆淘汰をもたらしかねないゆえに撲滅されるべき存在と捉えられたが、環境保護国家においては、環境の保全が実現されるべき国家に誕生してはならない存在と見なされることになる。このように、戦争国家・平和国家・環境保護国家のいずれにおいても成立する友敵結束というコミュニケーションでは、敵は理性的な合意を目指す相手とされることなく、むしろ撲滅すべき対象と見なされるから、それは、必然的に歪んだものとなる。G.アガンベンは、『アウシュビッツの残りのもの』において、コミュニケーション的合理性の重要性を説くJ.ハーバーマスの盟友、K.O.アーベルの「コミュニケーション共同体のア・プリオリ」という思想を嘲笑している。詳細は第三章で検討されるが、シュミットの言う政治ないしフ67>68ーコーの言う生―政治の水準における友敵結束が成立しているところで、「回教徒」に関わる「P.レーヴィーのパラドックス」のもつ深刻さを理解しえないアーベルが、「コミュニケーション共同体のア・プリオリ」を説くことはナンセンスである。そして、コミュニケーション的合理性の実現を妨げ、「コミュニケーション共同体のア・プリオリ」の思想を否定する友敵結束が日本社会において具体的な姿で現象したものが、らい予防法・優生保護法・北海道旧土人保護法という「法という名に値しない法」=「管理的指令」がごく最近まで効力をもち続けた理由を、F.A.ハイエクの言う組織のルールと自生的差別秩序のルールの「教義=ドグマ」結合という客体的側面から、解明したいと思う。」pp66−68

◇第3章 M.フーコーと「精神科医=宗教家型権力」
  M.フーコーの曖昧さ?
 「教義=ドグマ」をめぐる三つの思考

 「らい予防法がごく最近まで廃止されなかった原因を、[…]善意の医師たちが意識的ないし無意識的に行使した「牧人=司祭型権力」[…]によって、ハンセン病患者の多くが内閉という歪んだコミュニケーションに陥ったことに求めた。」([209])

◇おわりに

 「本書で試みたことは、C・シュミット、M・フーコー、G・アガンベン、F・A・ハイエク、Ch・ムフ、W・E・コノリー、J・L・オースティン、J・デリダ等の現代思想と、ハンセン病患者、先天性障害者、被差別部落民、アイヌ、沖縄人などが辿った運命を遭遇させることである」([304]) *人名にはこれからリンク
 「様々に「不利な立場」に置かれている少数者の運命をどのように理論的体系化するかは、学知の普遍性と人間存在の多様性の相克に関わる実に困難な問題なのである。」([305])
 「一応の研究成果として提示したのが、「不利な立場の少数者は、「友敵結束」「「教義=ドグマ」」「結合」「内閉」「切断」という歪んだ「精神の構え」ないし「生の形式」に陥っていたため、らい予防法・優生保護法・北海道旧土人保護法等の「法という名に値しない法」=「管理的指令」を廃止することができなかった、というものである。そして、そのような歪んだコミュニケーションへと不利な立場の少数者を追い込んだのは、有利な多数者が行使した「牧人=司祭型権力」などによる作為である、というものである。」([306])


■書評・紹介・言及

◆立岩 真也 2007 「書評:小畑清剛『近代日本とマイノリティの<生−政治学>』」,『論座』


*作成:仲口路子 更新:樋口 也寸志
UP:20070608 REV:20070703,1011

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