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『腎臓移植最前線――いのちと向き合う男たち』

青山 淳平 20070530 光人社,247p.


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■青山 淳平 20070530 『腎臓移植最前線――いのちと向き合う男たち』,光人社,247p. ISBN-10: 476981352X  ISBN-13: 978-4769813521 \1680 [amazon][kinokuniya]

■内容
(「BOOK」データベースより)移植先進国アメリカでは積極的に評価され、有力な選択肢の「病腎移植」は、透析患者にとって革新的な医療となりうるのか。移植医療の歩みをみつめ、大きな岐路にある今後の方向を示唆する渾身のノンフィクション。

・著者略歴(「BOOK著者紹介情報」より)
青山 淳平
1949年山口県下関市生まれ。松山商科大学(現・松山大学)大学院修了。国家と個人のあり方をみつめた著書多数(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
■目次
第1章 神の美しい手
 第一人者赤ひげ
 シャントの名人
 すぐやらなければ
第2章 あけぼの
 父の背中
 法華津峠
 止まった時間
第3章 奔流
 それは、おもしろい
 このままではいけない
 夢の実現
第4章 よみがえる命
 責任は私がもつ
 どこでもやっていた
 命をありがとう
第5章 移植と日本人
 私のために
 誤ったスクープ
 立ち上がる患者たち

■引用
第1章より
「…「あなた、おしっこがでていますよ!」
耳元で悦子の弾んだ声がした。
「おう、そうか。出たか」
排尿は何年ぶりのことだろうか。
喜びがふつふつとわきあがってくる。
からだを起こし、ベッドの下にぶらさがったビニール袋をのぞこうとしたが、移植手術が終<0037<わってまだ二日しか経ってなく、起き上がれない。
「どんな色しとる?」
「どんなって、それはもう宝石みたい。きらきら輝いている」
「宝石か」
「ええ、そうですとも。お姉さんが下さった宝石ですよ」 <0038<(…中略…)
黒田の場合、移植腎は一年半しかもたなかったが、軽い尿毒症の状態をなんとか維持しているにすぎない透析から、排尿ができる通常の生活に戻ったときの喜びは、何にもかえがたいものがあった。膚はつやをとりもどし、いくら働いても疲れが来ない。世の中が白黒からカラーに変わり、緞帳があがって視界が一気に広がる感がある。
ワシにはもう、あの頃のめくるめくようないのちの息吹を感じることはないだろうが、いま透析でなんとかいのちをつないでいる仲間たちにも移植のよろこびをわけてやりたい。尿道からおしっこがほとばしり出る仕合せを取り戻させたい。」<0039< (引用者註:この話の移植時期は1974年)」

第3章より
 「一九七三年(昭和四八年)一月、「腎臓移植普及会」は任意団体として設立された。普及会のもっとも大きな目標は、死後の腎臓提供者登録制度の全国的な実施であったが、まずは腎臓病と移植についての正しい知識を広く世間一般に広めてゆくことが急務だった。
 普及会は発足から三ヶ月後、啓発用の機関紙『とらんすぷらんと』創刊号を一万部発行した。…
 普及会会長の大林(*)は、巻頭にあいさつ文を書いた。(*引用者註:1970年当時の倉庫業界老舗の京浜倉庫を経営。長女を腎炎で亡くし、三女はネフローゼ症候群で透析をしながら数回の腎移植を受ける。)
 <現在日本で、腎臓病に悩んでおられる方はそれは大変な数にのぼりましょう。元気がなく、顔色が青白く、浮腫が目立ち、尿が無色で気分がすかっとしない。人生全く暗雲にとざされた浦井日々の連続、なんとかして元のように元気になりたいなあ……と思わない時はないでしょう。<0131<
 或る人は夢で大量の尿が出て、飛び上がって喜んだとたん目が醒めたともいっていました。
 このような患者さんたちに、私は自分の腎臓病はいずれ根治出来るのだと自信を持って戴きたいと思うのです。そのためには、そのような環境を一日も早く作り上げねばなりません。
 いま私は腎臓病を克服できると申しました。嘘ではありません。死なずに済むし、社会へ、学園へ、復帰することが出来るのだという事です。…<0132<
<0133<(中略)アメリカではちょうど、懐中電灯の電池の入れ替えのように死体腎移植が普及しています。八〇%以上の成功率ですが、残りの人たちも再入れ替えなどで、腎の専門医にかかっている限り、生命は絶対に失わないと言い切れるサミエル・クンツ博士の力強い言葉が腎臓移植普及会を設立させた大きな原動力になりました。
 皆さん!はっきりとしたレールが敷かれています。そして我々はすでに走り出しております。…>」 <0133<

 「ところで、設立された腎臓移植普及会は、運営資金も事務員と事務所も京浜倉庫からの現物出資と大林の個人負担、それに大林が役員をしている中央競馬馬主社会福祉財団によるものだった。…
 これでは、発展は望めないし、何かと肩身もせまい。<0135<
 大林は普及会の社団法人化をめざし、森弁護士にかわって、元大蔵省日銀政策委員の海堀洋平を普及会の副会長にすえた。
 大林は父の代から田中角栄と親交があり、政界の人脈にも通じている。大蔵官僚だった海堀も各界に太いパイプをもっており、法人への改組は海堀の尽力もあって、スムーズにすすんだ。
 一九七五(昭和五十)年七月、普及会は社団法人になるための設立総会をひらいた。大林はは理事長に就任し、会長には経団連名誉会長の植村甲午郎を選んだ。新た理事となったのは橋本龍太郎(衆議院議員)、鳩山威一郎(参議院議員)、横田郁(第一勧業銀行頭取)、上野幸七(関西電力副社長)、加藤一郎(東京大学法学部教授)、松尾正雄(元厚生省医務局長)、高安久雄(東京大学医学部教授)など、政・財・法・医の各界の錚々たる人物である。
 翌七六(昭和五十一)年、ついに厚生省が動き出した。
 腎患者の実態調査をすすめながら、腎移植に関する基礎研究を行い、移植に必要なドナーと患者のデータを集積する情報センターを千葉県の国立佐倉療養所と兵庫県立西宮病院に設置することになった。国家の事業として、腎移植の普及にのりだすことになったのである。
 国が動きだした背景には、もちろん普及会の存在があったが、それに加えて医療財政上の懸念も指摘される。
 人工腎臓による透析療法は、患者一人につき年間六百万円以上の高額な費用がかかる。そのため、昭和五十年当時で約六百億円が各種医療保険や厚生医療の負担となっていた。さらに今後、患者数が累増することは必至で、腎不全対策が人工腎臓の段階でとどまる限り、近い将来、国民経済の負担という点においても、相当な問題をはらんでいたのである。<0136<
 社団法人となった普及会は、腎不全対策に取り組む専門医たちとの連携もつよめてゆく。」<0137<

■書評・紹介

■言及



*作成:有吉 玲子 
UP: 20090629 REV:
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