HOME > BOOK >

『ソシュール 一般言語学講義 コンスタンタンのノート』

Saussure, Ferdinand de. Constantin, d'Emile 1910, 3 eme Cours de Linguistique Generale.=20070327 影浦 峡・田中 久美子 訳 『ソシュール 一般言語学講義 コンスタンタンのノート』, 東京大学出版会, 210p.


このHP経由で購入すると寄付されます

Saussure, Ferdinand de. Constantin, d'Emile 1910, 3 eme Cours de Linguistique Generale.=20070327 影浦 峡・田中 久美子 訳 『ソシュール 一般言語学講義 コンスタンタンのノート』, 東京大学出版会, 210p. ISBN-10: 413080250X ISBN-13: 978-4130802505 \3150 [amazon][kinokuniya]

■内容
出版社/著者からの内容紹介 記号論の祖とされ、その思想の影響は言語学にとどまらず、哲学、情報科学、芸術論など広範に及ぶソシュール。本書は、ソシュール『一般言語学講義』を、望み得る最高のテキストにもとづき正確に再現、いまや20世紀の古典となった作品の全貌を明らかにする。解題・石田英敬。

■目次
訳者まえがき
序 章 言語学の歴史を簡単に振り返る

第T部 諸言語
第1章 言語の地理的多様性 異なる種と多様性の程度
第2章 地理的な多様性という事実を複雑なものにするかもしれないさまざまな事実
第3章 原因の観点から見た言語の地理的多様性
第4章 文字表記による言語の表現

第U部 言語
第2章 言語記号の本質
第3章 言語を構成する具体的な実体は何か
第4章 言語の抽象的な実体
第5章 言語における絶対的な恣意性と相対的な恣意性

第3章 (記号の不変性と可変性)
第4章 静態言語学と歴史言語学 言語学の二重性
第 章 静態言語学
第5章 項の価値と語の意味 両者の一致と差異
第 章

解 説 新しい世紀のソシュール(石田英敬)
索引

※章立ての不統一,欠字などは翻訳が基とした原ノートの通り

■引用
「言語学の本当の対象を知るために貢献したのは、何よりもロマンス語派〔langues romances〕の研究でした。ロマンス語の研究により、印欧語研究者自身はより健全な見解に導かれ、言語学研究が一般にどうあるべ(p. 3)きかについてかいま見ることができたのです。(p. 4)」

「研究の観点から、文献学と比較言語学の段階に共通する大きな欠陥の一つは、文字〔lettre)に、そして書き言葉〔langue ecrite〕に、不自由に拘束されていることです。すなわち、実際の話し言葉〔langue parlee reelle〕とその書記記号〔signe graphique〕とをはっきり区別していないことです。そのため、多かれ少なかれ、文章を書く視点が言語学的視点と混ざってしまうことになります。(p. 4)」

「言語学は必然的に、あらゆる時代の文献をできる限り手に入れるために、いつも書き言葉で扱わなくてはならず、また、しばしば、書かれたテキストの中から適切なものを選ぶために文献学の洞察に頼らなくてはなりません。けれども、言語学は常に書かれたテキストとそこに隠されたものとを区別します。言(p. 5)語学は、書かれたテキストを、真の対象に入れる封筒あるいは真の対象を知らしめる外装と見なします。真の対象はもっぱら話し言葉〔langue parlee〕なのです。(p. 6)」

「言語は必然的に社会的なものですが、言語活動は必ずしもそうではありません。言語活動は特に個人において示すことができます。それは何か抽象的なもので、それが現実化されるためには人間がいなくてはなりません。個々人の中に存在するこの能力は、おそらく他の能力と対比することができます:たとえば人は歌う能力を持っています。たぶん、社会集団の導きがなければ、人は歌を発明しないでしょう。言語が、すべての個人に器官が存在することを前提とします。1)個人的なものから社会的なものを区別する、2)多少なりとも偶然的なものから本質的なものを区別する。(p. 9)」

「言語活動はつねに言語という手段を通して実現すると言うことができます。言語なしで言語活動は存在しません。一方、言語はその本質において社会的であり、集団性を前提とします。最後に、言語に不可欠なのは、音と聴覚イメージが概念と結合することだけです(棉ひたちの中に留まる印象は、私たちの脳になる潜在的な聴覚イメージです(G. D.))。それ(言語)を、常に話されているものと考える必要はありません。(p. 10)」

「それは、社会における記号学的事象〔faits semiotiques〕です。社会的労働の産物と見なされる言語に立ち戻りましょう。言語は、社会の成員の合意により確定した記号〔signes〕の集合です。それらの記号は概念を喚起しますが、記号として、たとえば儀礼と共通する点があります。
ほとんどすべての制度は記号にもとづいていると言えるでしょうが、それらの直接ものごと〔choses〕を喚起するわけではありません。すべての社会で、さまざまな目的のために、示したい概念を直接喚起する記号のシステムが確立される現象が見られます。言語はそうしたシステムの一つで、基も重要なものであることは明かですが、唯一のものではありません。ですから、他のものを除外するわけにはいきません。(p. 12)」

「さまざまな文語〔langues litteeaires〕。多くの国で、言語は、まったく別の現象ゆえに、また別の意味で二重化しています。文語は、もとを同じくする自然言語〔langue naturelle〕の上に重ねられ、その二つが並んで共存するからです。その現象は特定の文明段階に関連していますが、妥当な政治的状況があればほとんど例外なく現れます。
文語という名がふさわしいこともありますし、別の名前(公用語〔langue officielle〕、教養言語〔langue cultivee〕、共通語〔langue commune〕、ギリシャ語の…)がふさわしいこともあります。結局のところこれらは同じ事実に関わります:一国〔nation〕の全員が使える道具を持つ必要性です。(p. 27)」

「地理的な分化を時間の中に投影しないと完全な図式にはなりません。地理的な分化は直接、時間の違いに還元でき、また還元しなくてはなりません。この現象は時間の欄に分類しなくてはなりません。川面が上昇したと言うときと同じ間違いです。流れるのではなく、川底から川面に水が上昇したかのように言う間違いです。(p. 33)」

「すべての人間集団で、二つの不断の要因が同時に作用しており、お互いに反対の方向に向かっています:1)地元びいきの力〔force du clocher〕と、2)「交雑」の力〔force de "l'intercors"〕、かつ、人間の商売の力です。
 1)地元贔屓の力、限定された共同体(村や小さな郡など)で育まれる習性、それは、個々人が子どものことから身につけた習性なので強力です。その影響にそのままゆだねられると、結果として、習慣は限りなく多様なものとなるでしょう。
 2)けれども、人々を定住させておく要因と並行して、人々をまぜあわせ、近づける、あらゆる要因があります。この第二の力は、第一の力を補正します。他の場所から来てあら村を通りかかる人がいるでしょうし、祝祭や市のために近隣の地へと旅する村人がいるときもあるでしょう――戦争の影響によりさまざまな場所の人びとが集まることなどもあります。
 第一のものは言語を分断する原理です。
 第二のものは言語を統合する原理です。(p. 46)」

「声学者〔phonetiste〕の観点からは、時間軸のみに依存する発祥地と、時間および空間上の拡散という二重の概念を必要とする伝播された地域とを区別する場合があるでしょう。音声学〔phonetique〕上の事実に関する理論では、伝播は扱われません。というのも、元のかたりに変化が加えられるのではなく、模倣によって変化するからです。
 発祥地で起きる変化は、それ独自のかたちをとりますが、そこから次から次へと生ずる変化は、近隣から模倣によって借り受けた現象なのです。(p. 49)」

 二つの主な文字表記のシステム
「1)表意文字のシステム〔susteme ideographique〕。このシステムは、語/を、それを構成する音とは無関係に表そうとします。そのためにそれぞれ別の記号を使い、各記号は、それが表す概念以外のものとは結び付きません。中国語の文字表記がこのタイプです。語を図で描けるから図で描くということではありません。
 2)「表音文字」のシステム〔systeme "phonetique"〕。このシステムは、語の中に続いて生起する一連の音を再現しようとします(より狭い意味での表音文字は音を正確に再現しようする合理的なシステムです)。(p. 56)」

「言語が文字表記から独立している…
 言語−文字表記があるだけでなく、
 対置される
言語の歴史 | 文字表記

があるのです。
(p. 60)」

「1)文字表記が言語の中に存在するものを隠してしまいます。言語研究を補助する立場から、敵の立場に回るのです。…(p. 62)
 2)文字表記が、表記すべきものと対応しなければしないほど、文字表記に依拠する傾向はより強くなります。理解しにくいほど基本的なものと見なされるのです。(p. 63)」

「文字表記が言語に到達するための手段であるならば、その扱いに注意しなくてはならないことを忘れるべきではありません。文字表記がなければ過去の諸言語については何一つ手にできないでしょうが、けれども書かれた文書を通して言語を把握するためには解釈が必要となります。それぞれの場合について固有言語の音韻システム〔susteme phonologique〕を作らなくてはなりません。そちらが現実で、記号はそのイメージなのです。言語学者の関心を引く唯一の現実は、音韻のシステムです。この仕事は、固有言語と環境によって異なったものになるでしょう。(p. 66)」

「言語を構成するさまざまなかたちは、聴覚印象による多様な組合せを表しています。言語の相貌すべてを作り出すのは聴覚印象の対立なのです。(音声印象〔impression phonetique〕の一つ一つを得るために必要な発声器官の動きをすべて観察しても、言語について何も明かにはなりません。)言語を、チェスのゲームにたとえることができます。対立する価値が作用すれば、駒の一つ一つを作っている素材(象牙か木か)を知ることは、ほとんどどうでもいいのです。(p. 71)」

「言語〔langue〕は言語活動〔langage〕の本質的で主要な一部ではありますが、結局のところ言語活動の一部にすぎません。
 私たちにとって言語とは社会的な産物であり、言語があるからこそ個人が言語能力を実践することができます。とはいえ、たとえ言語に問題が限定されていたとしても、それにとりかかるときには、言語活動の全体に目を向けなければなりません。言語活動は、さまざまな意味で複雑で、多様性であり、雑多な対象です。したがって、言語活動は、その全体をそのまま、人間に関する他の事柄と関連させて上手く分類することはできません。言語活動は(物理学や心理学の領域、あるいはさらに、個人の社会の領域といった)さまざまな分野にまたがっています。言語活動にどのように統一性を与えればよいのかは、わかっていません。
 一方で、言語は、複雑化もしれませんが、丸ごと他から分離できるもので、有機的組織〔organisme〕そのままのもとして整理することのできるものです。言語は心〔esprit〕にとって申し分のない単位です。この単位は言語活動をめぐる事柄全体の中でも非常に重要です。他のものは従属物として理解できます。言語が中心で、他はそれに依存しているのです。(p. 85)」

「個人の状況を考えるとして、すべての語は、すなわち繰り返されるすべての現れについて
 同じ回路を考えるならば、(言葉のイメージを複数受けとる以上)それを規則的に連携させる操作を表す部分を付け加える必要があります。そうして統一されたものを、話者は、少しずつ意識するようになります。その結果、反復される一連のものが、主体〔sujet〕においてある秩序を形成することになります。(p. 88)」

「言語活動のうち、発話の部分は、言語と本質的な関係はありません。この発話の部分を検討する最良の方法は、言語を出発点として位置づけることです。
 ただし保留点:発話に関する事象を言語からそこまで切り離すことができるでしょうか。語や文法的なかたちを見てみると、すべてが言語の中に与えられた状態の中にきっちり固定されています。しかし、まだ個人的な要素があります。自分の考えを表現するために文中で語をどう組み合わせるかは個人に任されています。この組み合わせは発話に属します。というのも、これは実践だからです。
 この部分(言語の記号システムを再び個人的に使用すること)は一つの問題を喚起します。言語の中で与えられていることと個人の主体性に任されていることとの間の不確定さは、結局のところ構文〔suntaxe〕の中にあるだけなのです。境界を定めることは難しいのです。端的に言うと、構文の領域では、社会的な要素と個人的な要素、実践と固定した連動とが、多少混ざり合っており、幾分混ざり合うことになります。(p. 93)」

「最初の原理あるいは最重要の事実:言語記号は恣意的〔aribitarire〕である。
 ある聴覚イメージとある概念を結びつけるつながり――これが記号としての価値を与えるものですが――は、根源的に恣意的なものです。これには皆が同意しています。
 この事実は最も重要なことです。いくつもの異なる事象が、結局のところ、この事実からの分岐あるいは隠された帰結にすぎないということが、徐々にわかるでしょう。(p. 96)」

「この点に関して、擬音語〔onomatopees〕(表現されるべき実際の概念を呼び起こす何かを音の中に持つ語)をめぐる問題があります。擬音語の選択は恣意的ではありません。ここでは、内的な結びつきがあるでしょう。(p. 97)」

「第二の原理すなわち第二に重要な事実。言語記号(記号の役割を果たすイメージ)には広がりがあり、その広がりは一次元的なものに限られます。この原理はさまざまに応用されます。この原理は一目瞭然です。文を語に切ることができるのは、この原理のおかげです。この原理は、言語が有するメカニズムすべてを支配する条件の一つを表しています。
 この原理から、言語が聴覚的であることが導かれます(時間とともに広がり、線状の次元、ただ一つの次元しか持たないからです)。別の種類の記号(たとえば視覚記号)には複数の次元にわたり複雑なものもありますが、それに対して、張格記号は戦場に表現される空間の複雑さしか持てません。記号のすべての要素は一つずつ続き、鎖をなします。ときどき、この原理は否定されるかに見えます。たとえば、ある音節が強勢されるときです。異なる記号の要素が同じ場所に累積するようにみえますが、これは幻想です。(実際は、強勢による記号の補足は、並置されるものとの関係でのみ機能します。)
 この原理のもう一つの結果として、そのイメージを空間的なかたちに(p. 98)しかるべき翻訳ができることになります。それにより線として表現されます。一次元しか存在しないから、結局のところ線状なのです。(p. 99)」

「言語に直接向き合うならば、単位〔unites〕も実体も事前には与えられていません。言語に含まれるさまざまな実体が何から形成されているのかを把握し、また言語上の実体と他の分野との混同を避けるには、努力が必要です。組織化された存在や物理的なものが目の前にあるわけではありません。言語では、その真の実体を見るのは難しいのです。というのも、言語の現象は内的なもので、根本的に複雑だからです。言語の現象は二つのものの結合を前提としています。概念と聴覚イメージです。そのため、言語を形成する全体の中から実体を取り出すためには、主体的な操作と注意が必要となります。(p. 100)」

「境界を定めると、実体という名称を単位という名称に置き換えることができます。私たちが置かれる最初の状況では、境界が定まっているものは何もないのですが、幸いなことに、そこには、聴覚上の響きがただ一つの次元の方向に展開されるという状況、そのような条件があります。その結果、紙とはさみを与えられて紙からあるかたちを切りだすよう求められる状況にあるのです。境界を定めると、一本の線に沿って鎖の輪がかたちづくられるでしょう。(p. 102)」

「同一性には主観的で定義不可能な要素が含まれています。どこに同一性があるかという問題に対する正確な答えはいつも微妙です。
 …聴覚上の音の一区切りと、そこから想起される概念について、ほぼ完全な対応がとれなくてはなりません。
 言語の機構はすべて同一性と差異のまわりをめぐっています。ここでは、単位の問題と同一性の問題は同じである、とだけ述べておきます。(p. 105)」

「最後に、抽象〔abstrait〕という語についての検討が残っています。1)まず最初に、抽象的なものの中には、まったく言語上のものではないものがあります。たとえば、以前見たように、音の基盤、モノ的な基盤から完全に離れて意味そのものを把握しようとすると、もはや言語上の領域ではなく、心理上の領域にいることになります。そこには抽象化はありますが、もはや言語上の領域ではないので、これを言語の抽象的な実体とするわけにはいきません。同様に、音それだけでは言語上のものではありません。2)一方で、言語には抽象的な何もないと述べることには意味があります。これは次のように正当化することができます。:言語においては、すべて語る主体の意識に現れるものは具体的である。抽象的にあれやこれやと区別するのは文法学者だけで、語る主体の意識の中にそのようなものは認められません。
 これまで具体的とか抽象的と言ってきたのはこの意味でではありません。概念が音の単位で直接基礎付けられる場合に限って具体的という用語を用いてきたのです。抽象的なものは、語る主体が行う操作から間接的に理解できるものを言います。(p. 108)」

「どの言語においても完全に恣意的なものは限られた範囲の一部の記号だけです。他の記号には名づけの現象が介在し、思惟生の度合いをそれによって区別することができます。恣意性と言う代わりに無根拠性〔immotive〕と言うこともできるでしょう。(p. 109)」

「すべての言語に二つの要素が同時に含まれ、さまざまな割合で交じり合っています。その二つの要素とは、完全にも無根拠なものと、相対的に根拠があるものです。諸言語はこれらをさまざまな割合で含み、その割合は言語によってかなり異なります。この割合は、個々の言語に特徴を与えるものの一つです。これらの要素がどの程度含まれるかによってある言語と別の言語とを比べることができます。言語にとって進化の全動向は、手短かに言うと、完全に無根拠であるものと相対的に根拠のあるものとの相対的な量の変化です。たとえば、ラテン語からフランス語への進化です。以前の状態と比べたとき、現在のフランス語の状態は、とりわけ、無根拠性へと大きく変化している点に特徴があります。(p. 112)」

「どのような原因(音声上の変化)によってある状態から別の状態へと移ったのかを気にすることはありません。語を相対的な恣意性と絶対的な恣意性の軸上で位置づけるには、語のさまざまな状態を観察するだけでいいのです。(同じ事は何百という例に認められ、)フランス語の性格はそれに最も大きな影響を受けています。
 …厳密には言えませんが、この対比の一面を示すために言うと、ある意味で、無根拠なものが最大となった言語は/より語彙的〔lexicologiques〕であり、一方で、無根拠なものが最小である言語はより文法的〔grammaticales〕であるといえます。むろん、これらは直接対応するわけでもないし、同義でもありません。けれども、原理的には共通する何かがあります。実際、語彙的な方法にもとづくのか、文法的な方法にもとづくのかは対極的で、二つの対立する潮流として区別され、すべての言語がその二つに支配されます。語彙的な方法は独立した仕切りから成り、文法的な方法はそれらをつなげる輪の鎖のようなものです。そこでは、単位が別の単位を喚起するのです。(p. 113)」

「言語には、すべて、直接あるいは間接に、発話、つまり認識できる個々の全体から得られたものしかありません。また逆に、言語と呼ばれる産物なくして発話は考えらず、言語は発話を作り出すためのさまざまな要素を個々人に与えます。(p. 116)」

「1)言語記号は恣意的である、2)言語記号は広がりを持ち、それは一次元の方向に限定される。
 シニフィアン〔signfiant〕とシニフィエ〔signgie〕という用語を用いることで、これら蓋すの事実をより定式化することができます。…
 シニフィアン(聴覚的なもの)とシニフィエ(概念的なもの)は、記号を構成する二つの要素です。したがって、
 1)言語においてシニフィアンとシニフィエの結合は、完全に恣意的です。
 2)言語においては、シニフィアンの本質は聴覚上のもので、時間の中でだけ展開され、時間から借り受けた次の特徴を持っています:
 a)広がる特徴
 b)ただ一次元の方向のみに広がる特徴(p. 118)」

「言語は、どの時点で見ようとも、どんなに遡っても、その時点より前から引き継いだ遺産です。
 想像上の行為、つまり、ある時点で名前はものに割り当てられ、その行為により概念と記号、つまり指し示すもの指し示されるもののあいだに契約が成立する。この行為は純粋に想像上のものです。これは、記号が恣意的であるという感覚からもたらされるものですが、それが現実世界に属しているとは認められません。ある社会が、言語を、前の世代におよそ完成した産物以外のものとみなしたことは一度もありません。つまり、言語のいかなる状態についても、その起源には歴史的な事実が認められるのです。(p. 121)」

「実際、言語は常に過去と連動しており、そのことが言語から自由を奪っているのです。社会的でなければ、言語が自由でないということはないでしょう。しかしながら、時間を、世代から世代への伝播を、考えに入れる必要があります。(p. 124)」

「どのような言語であれ、そもそも言語としての条件を満たすならば、シニフィアンからシニフィエへの関係全体を刻々と変化させる諸要因から身を守るには、弱い存在です。関係が完全にそのまま保たれている例はありません。これは連続性の原理からすぐに得られる補題です。記号の恣意的に含まれる自由の原理との関係では、連続性は自由を剥奪するだけでなく、法律にもとづいて言語を構築したとしても、次の日には人々(共同体)がその関係を変化させてしまっているでしょう。人々のあいだに流通しない限り、言語を統制することは可能ですが、言語がその機能を満たすならば、関係は変化します。歴史が示す例にもとづくならば、少なくとも、このことは避けがたいと結論することができます。(p. 127)」

「1)言語はシステムです。どんなシステムでも、全体を考える必要はあります。だからこそシステムなのです。ところで、変化は、システム全体、まるごと起きるわけではなく、ある部分に起きます。ある日太陽(p. 136)系が変化するとするならば、太陽系というシステムのある部分に起きるでしょう。
 その変化は、システムに影響を及ぼします。なぜならば、相互関係があるからです。けれども、変化はある特定の部分に起きるでしょう。さまざまな種類の変化が考えられるでしょうが、変化はすべて一定の部分だけに影響します。
 言語がシステムである以上、二つを同時にとらえることはできないことがわかります。
 2)継起する二つの事象をつなげているものが、共存する二つの事象をつなげているものと同じであることはありえません。継起する二つの点は、進化的な事象の性質を持ち、静的な事象とは対照的に、そのものとして客観的に把握されるべきものです。一方で、共存する事象は、主観的な事象です。(それは、心に、人間の能力に起因するものです。)3)言語を構成する記号の量を考えると、二つの軸を同時に追求することはほとんど不可能です。4)記号が恣意的であるという基礎的な原理を忘れてはいけません。言語を構成する価値は恣意的です。このため、ものを基礎とすることはできません。時間に沿って考えることは難しいのです。(p. 137)」

「静的な事象が生れるためには、さまざまな進化的、通じ的な事象が必要です。人はもはやcripusuとは発音せずcrep-と発音していますし、ある時点でラテン語から直接新しい語が複数導入されなくてはならなかったのです(別の通時的な事象)。
 1)この通時的な事象は、現在問題にしている(decrepitとdecrepiの混同という)静態的な事象が起こるために必要なことですが、静態的な事象自体とは、まったく無関係です。静態的な事象のために必要となる条件ではありますが、それ自体はまったく別のものです。
 2)静態的な事象を把握するために、その起源を知ること、すなわち通時的な事象を知ることは、無駄でしょうか? いいえ、それはとても役に立ちます。戻るべき点、つまり、記号を前にしたときの語る主体の受動性を示してくれます。実際、これら二つの語を並置することは、起源の観点からはばかげていますが、状態の観点からは理にかなっています。
 3)一つの研究の中で、通時的な事象の集合と共時的な事象の集合とを統合することはできるでしょうか? いいえ。それらは異なる領域に属するものです。(p. 138)」

「変更はシステムに起きるのではなく、システムの要素に起きるのです。システム全体が変更されるということはありません。システムにおける要素間の相互関係とは関係なく、変更はシステムの要素に起きます。…
 言語を、検討の対象となっている概念に照らしてそれに合ったかたちで作られた仕組みとみなすのは、間違った考え方です。言語の状態は、それが持つ意味を表すようには決してなっていませんし、人が使う言葉の習慣に従って意味を表すようにもなっていないことがわかります。偶然の状態が生起し、別のものにとって代わられるのです。(p. 141)」

「共時的な事象は、いつも意味する事象であり、意味作用に関連します。少なくとも二つの項が同時に存在することが条件になります。…
 通時的な事象では、その逆です。…共存する語の関係ではなく、ある語の後に別の語が続く関係を見るのです。(p. 142)」

「チェスと言語に共通に見られる重要な特徴があります。それは、言語と同様、チェスも慣習的な価値、および相互の位置によって得られる価値にもとづいて動くことです。(p. 144)」

「言語同様、重要なのは、状態だけです。変化は二つの状態のいずれにも属しません。つまり、人は言語の状態が存在しなければ話すことができません。(p. 145)」

「通時的な領域では、法則は強制的で動的です。ある事象が消えて別の事象が現れます。法則はその効果を通して姿を現します。法則に力があります。…
 通時的な法則には強制力があり、あらゆる抵抗力を屈服させてその法則は発揮されます。
 共時的な法則は存在する秩序を表しています。次のように問うときと同種の法則です:庭に木を植える際に用いた法則は何ですか。
 共時的な法則はものごとの状態をあらわしており、秩序を実現します。強制的でも動的でもありません。(p. 148)」

「今私たちが到達した最後の分岐に従って言語学がとるべき合理的な形式はどのようなものでしょうか? 一つの科学が理論的に合理的に理想的に表現される形式は、実際にその科学を実践する際に余儀なくされる方法には依存しません。これが本当でなければ、ほとんどの言語学者が同時に文献学も行うことを見てわかるように、言語科学について述べる権利がないことになります(なぜなら、文献学は言語学とは何の関係もないからです)。言語学者は、スラヴ語と同時にスラヴの文学を扱いますが、そのことは、言語学の対象と異なることや、言語学の研究が文献学の研究と原理的に異なることを妨げはしません。
 同様に、今度は純粋な言語学に戻ってその内的な区分を調べたとしても、理論的にどのような区分と下位区分がなされるのか示すことはとても難しいし、研究全体にその枠組みを課すのも困難です。枠組みが絶対的だとしても、理論的に設定された境界にそのまま従うことは難しいでしょう。私たちが設けようとする理論的見取り図については、次のように考えるべきなのです。すなわt、それは存在すべき区分なのであって、観測されるままになされる区分ではないのです。(p. 150)」

「共時的な事象の通時的な事象に対する依存と独立を示す二番目の観察、そこでは、共時的な事象を通時的な事象の投影とみなすことができ、現実の物体が平面上に投影されることにたとえられます。
 当然、東映の結果は対象とは独立ではなく、それどことか対象に直接依存しています。しかし、それを見てみると、
 1)通時的なものとは別のもので、
 2)通時的なものの横にそれ自体として存在しています。(p. 155)」

「静態言語学は、観察できる言語の状態すべてに共通するものを扱います。
 このように一般化すると、そのもとには「一般文法〔grammaire generale〕」と呼ばれるものも属することになります。それは特に言語学を論理学に近い視点でとらえるものです。名詞、動詞といった分類は、結局のところ静態言語学によって宣言されるものです。というのも、言語の状態を通してのみ、一般文法に見られる関係や差異が確定するからです。(p. 158)」

「このように、あるときは語の意味とかたちと二重に関係し、またあるときは語のかたちだけあるいは意味だけに関係して、不可避的に一連の連合が形成されます。この配列は語そのものとともに心の中に存在すると考えることができるでしょう。どんな語も、連合におり、それと似たあらゆる要素を喚起します。(p. 163)」

「言語学は、語を取り巻くものを、連辞の観点から議論することもあるし、連合の関連から議論することもあります。
 語を連辞的に取り囲むものは前後に来るもので、文脈です。一方、連合的に取り囲むものは文脈ではありません。意識がもたらすもので、意識の上の関係により結びつけられています(空間的な意味合いはありません)。
 語を取り囲むものは、連辞的なものと連合的なものとで区別しなければなりません。連辞の中では、語は始まりと終わりがある。また他の語が前や後ろに配置させることで機能します。
 連合の中には、始まりも終わりもありません。
 存在する配置と不在の配置と言うこともできるでしょう。(p. 164)」

「関係の二つの領域のいずれにおいて語が機能するときも(両方で帰納することが求められるのですが)、語は常に何よりもまずシステムに属しており、他の語と関係します。その関係は、連辞関係と連合関係のいずれです。
 何が価値を形成するかを考える上で、このことを考慮する必要があります。まず、システムの中の項として語をとたえる必要があります。
 語の代わりに項について話すとすぐに、他の項との関係が考慮の対象となります。(他のとの結びつきという概念が喚起されます。)
 システムを導くには、語、項から始めてはなりません。これでは、項が絶対的な価値をあらかじめ持っていると仮定することになり、そうすると、あるものの上に別のものを積み重ねていくことだけでシステムが得られることになってしまいます。そうではなく、システム、互いにつながっている全体から始める必要があります。これが個別の項へと分解されるのです。もっとも、一見そう思えるほど簡単には項を区別することはできません。(価値の)全体から始めて、個別の価値を掘り出すと、認識すべき項のグループとして語に出会うことができるでしょう。(p. 167)」

「結局、概念の純粋に思弁的なかたまり、言語から離れたかたまりは、それだけでそもそも何かを区別することができない、かたちのない星雲のようなものです。ですから同様に、言語についても同じことがいえるわけです。さまざまな概念が何か事前に存在するものを表象することはありません。a)それぞれきちんと区別され、事前に確立された概念も、b)これらを表す記号も存在しません。思考の中には、言語記号なしに明かなものなどまったくないのです。(p. 172)」

「価値は、言語における項の対立からもたらされるのです。
 …シニフィエをシニフィアンに結びつける枠組みが最初にある枠組みではありません。他の領域でと同様、価値を言語学者が決めることはできません。価値は、その明確なところも曖昧なところも含めて受け入れるしかないのです。
 要約すると、語は、シニフィアがなくてもシニフィアンがなくても存在しません。けれども、シニフィエは、それぞれの言語のシステムにおける項の相互関係を前提とした言語的な価値を要約したものにすぎません。(p. 175)」

解題
「講義への導入でソシュールは、19世紀までの言語学の歴史をふり返り、言語と言語活動を区別し、言語学の対象を「社会的産物」としての言語だとして、個人の言語活動の能力とを区別している。そしてその社会的な本質からして、言語学が研究対象とする「言語」は、ソシュールが提唱した「記号学」の対象である「記号の諸制度」の不要なひと(p. 182)つとされている。(p. 183)」

■書評・紹介

■言及



*作成:岡田 清鷹 
UP:20081008
哲学  ◇身体×世界:関連書籍 2005-  ◇BOOK
 
TOP HOME (http://www.arsvi.com)