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Egalitarianism: New Essays on the Nature and Value of Equality

Holtug, Nils; Lippert-rasmussen, Kasper eds. 200702 Oxford Univ Press, 352p.

last update: 20120105
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■Holtug, Nils; Lippert-rasmussen, Kasper eds. 200702 Egalitarianism: New Essays on the Nature and Value of Equality, Oxford, 352p. ISBN-10: 019929643X,ISBN-13: 978-0199296439 [kinokuniya]

■内容説明

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Egalitarianism, the view that equality matters, attracts a great deal of attention amongst contemporary political theorists. And yet it has turned out to be surprisingly difficult to provide a fully satisfactory egalitarian theory. The cutting-edge articles in Egalitarianism move the debate forward. They are written by some of the leading political philosophers in the field. Recent issues in the debate over equality are given careful consideration: the distinction between 'telic' and 'deontic' egalitarianism; prioritarianism and the so-called 'levelling down objection' to egalitarianism; whether egalitarian justice should have 'whole lives' or some subset thereof as its temporal focus; the implications of Scanlon's contractualist account of the value of choice for egalitarian justice; and the question of whether non-human animals fall within the scope of egalitarianism and if so, what the implications are. Numerous 'classic' issues receive a new treatment too: how egalitarianism can be justified and how, if at all, this value should be combined with other values such as desert, liberty and sufficiency; how to define the 'worst off' for the purposes of Rawls' difference principle; Elizabeth Anderson's feminist account of 'equality of relations'; how equality applies to risky choices and, in particular, whether it is justifiable to restrict the freedom of suppliers who wish to release goods that confer different levels of risk on consumers, depending on their ability to pay. Finally, the implications of egalitarianism and prioritarianism for health care are scrutinized. The contributors to the volume are: Richard Arneson, Linda Barclay, Thomas Christiano, Nils Holtug, Susan Hurley, Kasper Lippert-Rasmussen, Dennis McKerlie, Ingmar Persson, Bertil Tungodden, Peter Vallentyne, Andrew Williams, and Jonathan Wolff.

■Book Data Full Description:


◇まとめ

An Introduction to Contemporary Egalitarianism
Nils Holtug
Kasper Lippert-Rasmussen

1 平等とは何か

 ネーゲル(1979)が言うような、「人々の間での道徳的平等の想定」⇒「各人は平等な重みを与えられるべき(equal weight should be given to each person)」(2)という広い意味での平等はほとんどの論者に共有されている。
 たとえば、功利主義者は人々の利害を等しく重要なものとして扱うことで、人々に平等な重みを与えている。リバタリアンはすべての人は彼ないし彼女自身と私的所有に等しい権利を持つと考える。民主主義者は人々に平等な投票権があると考えるし、保守主義者とほとんどすべての人々は、人々は法の前で平等だと考える。
 だが、これらのすべての人々が「平等主義」ではない。平等主義者は人々の間での道徳的平等の想定の「特殊なparticular」解釈を採用するからだ。すなわち、人々は、資源ないし厚生といった財の平等な分有を有するべきだと考えるか、あるいは、それらの財に対する平等なアクセスあるいはその獲得の平等な機会を持つべきだと考える。
 もちろん、平等に道具的価値を賦与する理論もある。功利主義もそうだ。だが平等主義は、平等の価値は単に他の価値を促進するところにあるとは考えない。つまり平等主義者は、平等には固有の(intrinsically)、非道具的な価値があると考える。

2 何の平等か/平等の通貨をめぐる問題(2-3)

ドゥオーキン(1981)の二つの論文を端緒とする議論。ドゥオーキンの厚生平等主義批判。
 たしかに、厚生主義は一見妥当に見える。資源は厚生を導くからこそ重要だからだ。だが、ドゥオーキンによれば厚生の平等は却下されるべきである。
 一つの理由は、高価な嗜好を含めた、人々の選択に対する責任を考慮に入れないからである。
選択に対する責任を考慮に入れた平等主義理論のあり方について、ドゥオーキンは、外的資源に対するオークションと内的資源に対する仮設的保険市場論で対応している。(4)
 とはいえ、これには多くの批判がある。スーザン・ハーレーが言うように、たしかに厚生主義は高価な嗜好と病気を区別できない。だが、ドゥオーキンの議論もまた、健康に特別な重要性を賦与することはしない。健康も他の能力と同じ内的資源とされ、他の財で補償されるモノと位置づけられる。
 別の批判は、ドゥオーキンは、責任の問題を、平等主義者は資源を採るべきかあるいは厚生を採用すべきかという問いと混同している、という批判である。たとえば、アーネソンは厚生に対する機会の平等を採用し、意図的に獲得された高価な嗜好は補償されるべきではないと論じることができる、と指摘する。(4-5)
 問題は、ある適切な時期において、人々は他のすべての人と同じ選択肢をもっていたということであり、彼らが実際にそれらの選択肢を上手く使ったかどうかではない。
 同じ問題は資源に関しても生ずる。人々は、資源の獲得ないし逸失に対する彼ら自身の責任に無関係に、資源を平等に分有すべきかどうか、あるいは、それらの資源を責任を反映させるように調整すべきかどうか、と。これは、平等主義者は厚生に関心をもつべきか資源に関心をもつべきかという問題と、それらが責任についての考察に適合されるべきかどうかという別の問題にまたがっていると言えるだろう。

3 誰の間での平等か

 「何の平等か」をめぐる問いに答えが出たとしよう。しかし平等主義者は更なる問題に直面する。誰が平等な関係性に置かれるべきか、という問題である。
 第一に、集団と個人のどちらに平等が適用されるのかという問題がある。(5)
 とはいえ集団間の平等という考えには、集団内の不平等問題がある。(6)
 また平等の理念は政治的統一体(国家)内部で適用されるのか、あるいは国家間にも適用されるのか、という問題もある。(7)
 世代間の問題、人間と動物の問題もある(8)

4 いつの平等か?

 aとbがいるとする。人生の前半はaは暮らし向きが非常に良いが、後半で非常に悪くなるとする。bは逆だとする。トータルでみると、二人の人生の暮らし向きの良さは――単純に加算できるとして――、同じだとする。これを状況Cとしよう。

T1 T2 T3 T4 total
a 9 9 1 1 20
b 1 1 9 9 20

 他方、別の世界「D」では、aもbも人生全般にわたって、そこそこ悪くもよくもない暮らしをし、最終的には浮き沈みのある人生と同じ程度の暮らし向きをしたと言えるとする。どちらが平等主義的にみて望ましいか?(9)
 ほとんどの平等主義者は、「人生全体の平等主義」と呼べるだろう。この立場からは、上の事例では全体として同じであるからどちらがより良いということはない、とされるだろう。Dennis McKerlieはこの見方に反論し、CはDよりもよくない、と述べる。
 これが示唆するのは、人々がそれぞれの時点で等しい暮らしをしているかどうかが問題だ、ということである。人生全体よりも短い時間的幅に焦点化する平等主義的見解になる。たとえば、「タイムスライス平等主義」は、時間のどの時点でも、もし誰かが他者よりも暮らし向きが悪いとすれば、それは悪いということを含意する。タイムステージ平等主義は、ある一定の時間的幅の間、誰かが他者よりも暮らし向きが悪いならば、それは悪いことだということを含意する。このいずれの立場からもCはDよりも悪い、ということになる。
 タイムスライス平等主義と人生全体平等主義の違いは、世代間平等において明確になる。タイムスライス平等主義は世代間不平等を嘆く理由を与えない。
 他方、タイムスライス平等主義は、同時点における異なる世代の人々の間の不平等に反対せざるを得なくなる。若者が老人より現在暮らし向きが良いということは、タイムスライス不平等があることを意味する。しかしこれは人生全体では不平等だとは必ずしも言えない。いまの老人は昔は若者だったわけだし、今の若者はいずれ老人になるからである。(10)
 人生全体平等主義にタイムスライスあるいはタイムステージ平等主義が単純に置き換わるかどうかは疑わしい。次の状況を考えよう。

T1 T2 T3 T4 total
a 9 9 9 9 36
b 1 1 1 1 4

これはそれぞれの時点で見ると上と同じ不平等がある。だが、我々は上の方がマシだと考えるのではないか。
 本書でMcKerlieはタイムスパン平等主義を再検討している。この見解はコントロバーシャルな考えに依拠している。それは、我々は時間そのものに道徳的重要性を付与すべきだという考えと、人生のある時間的ステージが分配の場として適切だ、という考えである。
 なぜ、人生全体ではなくタイムスライスあるいはタイムステージに焦点化するような平等主義的な見方は、時間そのものあるいはタイミングに関する事実に道徳的重要性を賦与するのか。人々がある時点で不平等であるかどうかは問題に思えるが、彼らが別々の時期を比較して不平等であるかどうかは問題にならないからである。問題は「同時的(simultaneous)」な不平等である。しかしMcKerlieが指摘するように、彼はなぜ時間そのものがそれほど重要なのかを説明せず、直観に訴えているだけである。
 パーフィットの個人のアイデンティティをめぐる見解に訴えることもできるかもしれない。だが、McKerlieは、それはもっともらしい選択肢ではないと論じている。別の見解でよりうまく説明できる。それは優先主義である。平等とは異なり優先性は本質的に比較を含む概念ではない。ある個人をりすることの道徳的価値を評価するにあたり、我々はその個人がどの程度よいかを知ることだけが必要になるからである。(11)

5 平等の尺度

 異なる不平等な結果の間での選択問題がある。どの不平等な結果は他のモノよりも悪いのか、という問題は極めて複雑になる。
 999人が暮らし向きが良く、一人だけ悪い状態から、一人だけ暮らし向きが良く、999人の暮らし向きが悪い状態という極端があるとする。全員が平等にはなれないとして、中間に500人が良く、500人が悪い状態がある。この間に様々な状況が想定されるとする。平等という観点から、どの状態が望ましいと言えるか。全て不平等だが、これらのなかで平等が支持する状態を決めることはできないのではないか。(12-15)

6 平等主義のための議論

 これまでの平等主義の議論では、どんな平等が望ましいのか、という基本的な問いが省略される傾向にあった。
 平等を理解することなしに、どんな平等が望ましいのかについて語ることはできない。また望ましさの意味を理解することなしに平等についての説明を行うこともできない。望ましさ問題を切り離して考えよう。
 平等が本質的に正義に適っているあるいは本質的に望ましいという主張を支持する二つの議論がある。第一に、平等はより基本的な道徳的価値に由来すると論じようとする議論。第二に、反照的均衡、つまり平等の理念は、我々の道徳的信念に関する説明と最も一貫した構成要素だという議論がある。たとえば、同じ量の厚生を総体として含む二つの分配状態を比較したとき、一方は平等であり、他方は非常に不平等だとすると、多くの人は前者を後者よりも好むだろう。この選好を平等は説明するという点で、これは、平等の理念を(功利主義に反して)支持するものと理解されるかもしれない。(15)
 とはいえ、この弱い主張は批判されてきた。第一に、この選好は、別の見解、たとえば優先主義で説明できると指摘されてきた。第二に、平等主義者はすべての人の暮らし向きが等しく悪い方が、平等ではないがすべての人の暮らし向きが良いよりも望ましいという。だがこれはもっともらしくない。これらを鑑みると平等よりも優先によって我々の選好が説明されるように思える。とはいえ、それでもレベルダウンはある観点からは良いと考えるのはもっともらしくない、と論ずる論者もいる。(16)
 より根本的な道徳原理から平等を導出する試みに移ろう。これは多くの議論に見られるが、平等を、分配に対する運の影響の中立化という目的(the aim of neutralizing luck)によって基礎づけようとする議論である。ロールズの道徳的恣意性論、コーエンの議論などがある。だが、ハーレー(2003)はこれを批判する。運によって平等が成立する場合もある。運と平等が共存する場合もありうるが、その場合平等な分配がより正義に適っていないということにはならない。(16-7)
 ハーレーの見解への応答として、「運の中立化」は「人々の諸利害に対する運の問題だと思われる要素の影響の差異を除去する」ということの短縮形だと論ずることもできるかもしれない。それはそうだろう。しかし、ハーレーが指摘するように、仮にそういう意味だとしても、そこから運を中立化するという目的を通して平等を正当化するための試みが形成されるということにはならない。平等は、それが運の帰結である限りで、そこからの逸脱が不正であるようなデフォルトポジションとして扱われるからである。だが、運の中立化という目的に関係したいかなる理由も、平等がデフォルトポジションだと考えるための理由を与えたことはない。
 この批判は別の正当化を探求するように強いている。二つの選択肢が本書にはある。Perssonは、極端な平等主義的立場に立って、それによれば、正義はすべての人が等しく(厚生に関して)良い状態にあることを要求する、と論じている。この立場は二つの主張を伴う。第一に、国家が正義であるのは、すべての人が、誰かが他者よりも暮らし向きが良いということを正当化しうるものがないならば、等しく暮らし向きが良いとき、そのときにのみ正義に適っている、という正義の形式的原理。第二に、誰かが他者よりも暮らし向きが良いということを正当化するものが存在しないという消極的主張。形式的原理からは、それを否定する誰かは、正義概念の誤解を示しているだろうということになる。
 消極的主張からすれば、誰かが他者より暮らし向きがよいことを正当にする真価(desert)ないし権利があると想定することはエキセントリックではないだろう。Perssonは不平等がつねに不正義だと考えてはいない――ある状態は正当でも不正でもない、と。
 Christianoは、正義の形式的原理、この場合人は比較的同様のケースでは同じように扱われるべきであり、似ていないケースでは異なって扱われるべきだという原理に訴える。彼はこれをさらに三つの主張に結び付けている。すべての人間は歩と強い道徳的地位をもつ。人間の間のいかなる差異も、ある人が他者よりより多く福利を受け取るべきだということを含意しない。そして、福利には根本的な価値があり、それは、人は(自分自身と同じく)他者の福利を促進する理由をもつということを含意するような価値である。(17)
 Christianoの複雑な議論は大まかには次のようになる「もしある人が他の人よりも良い暮らしをしているのが正当だとすれば、それは、形式的原理によって、彼らを違うようにするだけの相違点が存在していなければならない。従って不平等は形式的原理と両立できず、また重要な違いが存在しないという想定と両立しない」(18)

7 平等と責任

 かつては平等主義者は不平等はそれ自体で悪いと考えていたが、今ではそう言う人はほとんどいない。選択と責任の重要性を認識しているからである。
 とはいえ三つのタイプを区別するのが有用だろう。「責任拒否的平等主義」「責任肯定的平等主義」「責任寛容的平等主義」である。
 責任拒否的平等主義は、誰も暮らし向きが悪いことに対して責任はない、と信じる立場である。これは単純で魅力的に見えるが、しかし責任についての常識を否定するという理論的負荷がある。(18-19)とはいえ、アーネソンが指摘するように、この対立は多くの人が論ずるほど根本的なモノではないかもしれない人々が自らの暮らし向きを悪くするような行動に責任がある。と思えるようなほとんどのケースでも、究極的に言えば、彼らには自らの行為に対して責任はないからである。
 Perssonは彼の極端な平等主義擁護論で、後退原理(regression principle)に訴えている。責任の後退・巻き戻しは無限ではありえないがゆえに、責任は不可能だということになる、と。
 しばしば責任と真価は混同されているが、両者は異なる。非常に有徳な人が小さな危険を冒して、最悪の帰結を被るとする。他方、全く有徳でない人が同じ危険を冒して、運よく、非常に良い帰結を享受するとする。この場合、我々は、有徳な人物はその結果に対して責任はあるが、その悲惨な状態に値する(deserve to)とは言わないだろう。
 真価と平等をめぐる議論もまた、責任と平等の関係性に関わる議論と多くの点で似ている。したがって、真価と平等の関係についても、責任と同じく三つの区別をする必要がある。拒否的、肯定的、寛容な立場である。真価拒否平等主義は何らかの後退原理に訴える。
 有名なのはロールズの真価を否定する理由である。(19)

ロールズは「優れた性質」をもつ個人がより大きな報酬に値するということを否定する。
 第二の平等主義は「責任肯定的平等主義」である。これはある程度は責任があるとする。ドゥオーキンの高価な嗜好をめぐる議論がその標準である。
 ドゥオーキンに対して、アーネソンとコーエンは意図的に形成された高価な嗜好の持ち主に対する対応には違いがあるにせよ、高価な嗜好の持ち主が他の人よりも厚生が低くても平等の見地から悪いと考える必要はない、という点で一致している。この立場は責任と真価に関する一般常識と整合する。
 責任肯定的平等主義についての主な問題は、平等主義的直観とこの一般常識とを把捉できるかどうかにある。また、責任肯定的平等主義は責任と真価の可能性に反対する哲学的議論を否定しなければならないという点にもある。
 責任寛容的な平等主義は、人々は暮らし向きが悪いことに対して責任があるかどうかという問いに対する態度をもたない。アーネソンの1989年の論文はそう解釈できる。彼は、もし強い決定論が真であるならば、そしてそのときのみ、厚生に対する「機会」の平等は、厚生の平等に還元されると述べている。ただ、強い決定論が真であるかどうかについては何も述べていない。
 コーエンも自由意思問題がネックだと述べている。とはいえ、彼の議論は、我々が自由意思問題に解決をもたないので、それが平等主義にとって厳密な政治的含意を持つような正当化された説明ももたない、と言っていると思える。(20-21)
 本書でアーネソンは平等(ないし優先)が真価とバランスされるべきだという考えに同情的だが、明示的には真価を擁護する理論は存在しないだろうということを認めている。彼は、平等と真価の考えを統合するより尤もらしい説明に従事するとしている。彼はコントロール原理、つまり人々はコントロールできるポジションにいるときにのみ、それに値すると言われうる、という原理を示唆している。
 責任寛容的平等主義は、責任の説明を行うという重荷を負わない。その主な欠点は、平等主義は平等主義の正確な政策的含意について寛容的な意思見決定な立場にならざるを得ないという点にある。  人々は悪い立場に責任がありうると結論づける平等主義は、自分の失敗で非常にひどい状態になった人は、他者に援助を求める正当な基礎をもたないという見解にコミットすることになるだろう。たとえばラコウスキ―(1991)はその立場を採る。だが、マーク・フローベイが言うようにそれは過酷すぎる。フローベイは代わりに、正義はあるミニマムを保障すべきだというような充分主義的要素をもつと述べる。これに対してピーター・バレンタインは、選択運の悪い結果を選択運の良い結果の人からの徴税で補償すると宣言するシステムについて、不正なところは何もないという見解を擁護する。バレンタインは、これは左派リバタリアンに対する反論を弱めると考えている。
 Andrew Williamsは本書で自由と責任と平等を、統合的な分配的正義の説明の中でどのように結びつけるかという問題を考えている。正確に言えば、彼はスキャンロンの選択の価値についての契約論的説明の平等主義への含意を検討している。(21-22)スキャンロンによれば、我々が自らの生に対するある種の力と機会を望むには、「道具的」「表象的」「象徴的」理由がある。そのような力と機会は、我々の選択を、より満足したモノにし(道具的価値)、我々自身の趣味等を反映し(表象的価値)、意思決定能力と独立性のシグナルになる(象徴的価値)。だが、ウィリアムズは、この説明は、自由の許容可能な制約についての尤もらしい説明を提供するために、また我々が自らの選択の結果として傷ついた人を補償するのを拒否することを許容可能な時についての尤もらしい説明を提供するためには、さらに展開される必要がある。とくに、そうした説明は、いかに負担が課されるかを決定する際、意思決定者以外の行為者の観点にも訴える必要があるだろう。

8 平等の価値

 更なる問いは平等の価値とはどんなものか、である。平等主義の議論では、しばしば平等は良いモノだと主張され、不平等は悪いと主張される。一方で平等が積極的な本質的価値をもつならば、不平等はその価値を排除するがゆえに悪いということになる。同じように、もし不平等が本質的に消極的な価値をもつならば、平等はそれを除去するがゆえに良いということになる。
 だが、ここには問題がある。すべての人が価値ゼロの人生を営むような結果を考えよう。もし平等が積極的で本質的価値をもつならば、この結果はそのような価値を含んでいることになる。他方、もし不平等が消極的で本質的な価値をもつならば、この帰結はいかなる積極的で本質的な価値も持たないということになる。
 また、平等主義の非人格説と人格影響説を区別することができる。非人格節によれば、自体あるいは他の非人格的実体が、平等の価値(あるいは不平等の反価値)の担い手(bearers)である。人格影響説によれば、不平等の反価値はその人にとって悪い(the worse off)個人のなかにある。後者は不平等は個人の厚生に対して、他者よりも悪くするという否定的な影響を与えるということを含んでいる(そしてそれは人々の感覚や選好等々には関係がない)。(22)次の事例を考えよう。二つの大陸に二つの共同体があり、両者は他方の存在を知らないとする。ある日、地震が起こり、他方よりも暮らし向きの良い人々の厚生のレベルを低下させるとする。もう一方の、最初から暮らし向きが悪い人々の厚生には何の変化もない。にもかかわらず、人格影響説によれば、後者はより暮らし向きが良くなった、ということになる。
 更なる区別はパーフィットによる目的論的平等主義と義務論的平等主義である。目的論は不平等はそれ自体に置いて悪いと考え、義務論はそう考えない。パーフィットはこれらの二つの立場は、その射程と、レベルダウン反論への脆弱性の点で区別されうると指摘する。
 目的論の方が射程が広い。義務論は自然の不平等や異なる共同体に住んでおり互いに関係がない人々の間の不平等にはいかなる反論ももたないと思われるからである。義務論よりも目的論を好む平等主義者もいるが、目的論はレベルダウン反論に弱いと論ずる人もいる。(23)
 第四章でKasper Lippert-Rasmussenは目的論的平等主義と義務論的平等主義を、三つの論理的に独立した区別にさらに分けて、目的論と義務論をレベルダウン反論に基づいてあるいは、その射程に関する考慮に基づいて選択することはできないと論じている。

テムキンはレベルダウン反論の根幹に対して反論する。テムキンは、レベルダウン反論が「スローガン」と彼が呼ぶ原理を前提にしていると論ずる。それによれば「もしそこに、いかなる観点から見てもより悪い(ないしより良い)人が誰も存在しないならば、ある状態は他の状態よりもいかなる観点から見てもより悪い(あるいはより良い)ということはあり得ない」とされる。テムキンは、このスローガンは受け容れがたい含意をもつと論ずる。第一に、これは、自律や自由といった帰結の本質的価値に貢献する理念を除外してしまう。自由は厚生の増大に随伴する必要は必ずしもない。
 第二に、このスローガンは、いわゆる「非同一性問題」に対して直観的に正しいと思える解答を不可能にする。二つの状態間で、同一人物が比較的な悪さ/良さを経験する現実的可能性がなければ、レベルダウン反論は成立しないとすれば、別々の個人が生ずるような二つの事態の間での「より良さ/悪さ」について何も言えないということになる。
 とはいえ、Nils Holtugはレベルダウン反論はこのスローガンを前提にしていないと論じている。この反論は、別の人格影響原理によって支持できる。それは、帰結を、諸個人により良いないしより悪い影響を与えるかどうかという観点からのみ評価する原理でありうる。(25)

9 平等、優先、充足

さらに、McKerlieは、人生全体ではなくある時間段階に分配される方がよいという点について、平等主義よりも優先主義のようがよい説明を与える、と論じている。(28)
充足主義は、平等主義に対するもう一つのオルタナティブである。充分主義は暮らし向きの悪い人が優先されるべきだという点について優先主義に同意する。だが、充分主義は、優先性が消滅するようなある種のレベルが存在すると論ずる。そのレベルで人々は充分だからである。充分主義は、我々がある種の閾を越えた不平等を気にしないと論ずることで擁護されることがある。リッチとスーパーリッチの間の不平等はどうでもよい、と。
 ここで、フローベイによるディーセントミニマムの保障を想起してよい。多くの平等主義は、たとえ本人の選択の結果だったとしても、人々には少なくともミニマム水準を満たす分は与えられるべきだということに直観的に同意するだろう、と。とはいえ、ある水準以上の平等に対する関心を欠く点で、充分主義は説得的ではないと論じられてきた。(28)

10 平等主義への批判

平等主義は功利主義、優先主義、充分主義から批判されてきたが、それ以外にも批判はある。たとえば、コミュニタリアニズム、フェミニズムそしてリバタリアニズムからも批判されてきた。(28) 平等主義は公正であれ資源であれ、他のアイテムであれ、あるしゅの全体的な善さあるいは利益が存在すると想定する傾向がある。この善さの候補が何であれ、平等主義は、政治的影響力や市民権など、そこでの平等が主要な、上位にある通貨による平等からは独立して評価されうるような領域、いわば副次的な分配領域の存在を認めうるだろう。ドゥオーキンを含めて何人かの論者は、政治的平等の問題を切り離して扱うために明示的に別扱いしている。
 マイケル・ウォルツァーのようなコミュニタリアンによれば、しかしこうした別の分配領域に関する認識ではまったく十分ではない。彼は「何の平等か」という問いはミスリーディングな問題だと考える。分配的正義の最終帰結原理(end-result principles of distributive justice)を批判して、ウォルツァーは多くの分配領域があり、この多元性は財の間の差異に関するわれわれの共通理解を反映していると論ずる。たとえば教育は才能に応じて分配されるべきだ、等々。
 本書ではジョナサン・ウルフがこのラインで考察している。
 ウォルツァーは自らの理論を平等主義的正義の理論だと考えているが、その非平等主義的な含意は批判対象になってきた。アーネソン(1995)は、ウォルツァーの基準はエリートの存在を許容すると批判する。
 また、別の論者は、共有された文化についての理解へのウォルツァーのアピールは、そんな共通理解など存在しないがゆえに無駄であるか、あるいはそれが存在するとすれば、その最も強力なものは分配は正当ではないという理解になる、と論じてきた。(29)最後に見ておくべき点は、ウォルツァーの主張の大部分が、何らかの全体的な通貨が存在するという平等主義によって提供されうるという点である。
 コミュニタリアンはまた、文化や伝統が抑圧や差別を含むことを看過しているとしてフェミニズムによって批判されてきた。アンダーソンとヤングは同様の批判を主流の平等主義に対して向けた。彼女らによれば主流の平等主義は自然の不運に対して補償するという抑圧的な観点をもつ傾向にある。それは、支配や抑圧といった社会関係における不平等を看過する傾向にある。(30)
 とくに運の中性化では搾取や周辺化、文化帝国主義等に晒された人々の不正をただすことにはならない。
 たしかに運の平等主義は往々にして、平等者として人々を尊重するという観点と衝突することがある。それはたとえば、「本人に咎なき才能の欠如により暮らし向きが悪い」人に対して憐れみの眼差しを含むことがありうる(ウルフ1998が同様の指摘をしている)。またフローベイが言うように、自らの選択の結果過酷な状況に落ちいた人を放置するかもしれない。(30)
 本書では、Linda Barkleyがアンダーソンの議論を検討している。バークレイは、アンダーソン自身、不平等な社会関係の反価値について、それらが人々のcapasitiesと福利に影響を与えるという意味で説明しているように見える、と指摘する。とすれば、社会関係は、それが人々のcapasitiesに影響を与える限りで、道具的価値があるということを示唆する。抑圧的関係性を、ある種の重要なケイパビリティつまりある価値のある物事をすることや価値ある状態であることに対する機会ないし自由を脅かすものとして特徴づけることができる。もし社会関係に、こうした派生的な意味での重要性しかないならば、それは平等主義的正義の通貨にはすべきではない。(32)
 ノージックはリバタリアンに基づく批判のなかで、正義の理論が自然の不運の補償に過度に傾いているという点で、フェミニズムに事実上同意している。だがノージックの視線は、この正義論の誤謬は、正義はある種の最終帰結と分配パターンをもたらすことに関わるというより一般的な誤解に起因するという点にある。
 ノージックはウィルト・チェンバレンの事例を用いて歴史原理を擁護する。
 ただ、平等主義者は二つの仕方でこのノージックの議論に反論できる。第一に、自発的同意が必然的に正義を保持しないと。初期状況では、彼らの取り分に対する絶対的な私的所有権を否定することによってこの反論を基礎づけることもできるかもしれない。(31)
第二に、初期の分配をたとえば資源に対する機会の平等という方向で考えることもできる。(32)
 ※ 以下、自己所有権論に関するノージックの議論と反論の概観(32-4省略)


第8章 Linda Barcley "Feminist Distributive Justice and the Relevance of Equal Relations,"
※「」は引用

◇要旨…… エリザベス・アンダーソンが分配的正義論にたいして〈民主主義的平等〉や〈地位あるいは関係性の平等〉論で提起した論点の重要性を認めつつ、それでは狭すぎるという点を、(狭義の)福祉の観点から批判。

1 導入

 フェミニストが分配的正義理論に期待すべきものは何か?
 分配的正義に対するフェミニストの強力な批判があるが、フェミニストによる代替案はあまり展開されていない。エリザベス・アンダーソンの「民主主義的平等」は重要な代替案の一つである。
 アンダーソンは「運命の平等」あるいは「運の平等主義」への応答としてこの観念を練り上げている。アンダーソンによれば、運の平等は平等主義を主張しているが、平等の真の価値あるいは真の論点を手つかずのままにしており、その主要因は、それがすべての人々を道徳的に等しく尊重することに失敗していることにある。運の平等主義は、暮らし向きの悪い人に対する軽蔑を含みの憐れみ(pity)を誘うような議論である。また、この理論は、社会的抑圧や制度的抑圧という形態の不平等を扱い損ねている。(196)
 とりわけ、社会化のパターンと社会関係、制度的ルールと規範、そして文化的かつ象徴的な表象の諸形態こそが、多くの人々が上手くやっていくための機会を著しく妨げるものである。(197)
 フェミニストの不満は、単に正義をめぐるほとんどの議論で抑圧の重要な形態が看過されているということにあるだけでなく、正義論が抑圧を扱うことが「できない」という点にある。それは、ほとんどの現代正義理論が、富と所得といった私的に享受される可分的な財(divisible goods)の分配にかかずらってきた点にある。たしかに富や所得は重要だが、不正義の多くの形態は貨幣の再分配によって扱うことはできない。(197)
 平等主義正義論はこれらの形態の抑圧を扱わなければならないし、扱うことができるのでなければならない。厚生への機会平等論も資源平等論も、これらの抑圧の諸形態を扱うことができる、という議論も展開されている。(197)
 〔それにたいして〕アンダーソンの解決は資源主義的アプローチと厚生アプローチ双方への却下を含んでおり、「何の平等か?」という問いについて、平等の指標は市民の平等な関係であると答えている。それは厚生の平等の単なる一要素ではなく、また、広義の資源平等の結果でもないとされ、平等な関係それ自体が平等主義的正義の目標であると論じてられいる。とはいえ、私はこれは採用しがたい議論であると思う。アンダーソンのようなフェミニストは、市民の福祉にとってある種の社会的・制度的関係性が重要であるということを正しく強調してきたが、正義のすべての要求を市民間の平等な地位という問題に還元することは間違いである。(198)

2 民主主義的平等

 アンダーソン特有の平等観によれば、民主主義的平等とは「市民相互の間の根本的な義務は万人の自由の社会的条件を保障することにある」(1999:314)。
 また平等主義者は、センによって明らかにされたケイパビリティに関して、万人の平等を追求すべきだと論じられている。消極的には、たとえば、貧困は人を搾取と支配の関係に巻き込まれやすくするため、一定の水準の物質的富を全ての人々が与えられることが主張されるかもしれない。積極的には、市民社会への平等者としての参加が必要だということになる。(199)

3 平等な関係と福祉

 アンダーソンの見解によれば、可分的な財の分配パターンは平等な関係性を実現するために必要だが十分ではない。
 とはいえ、平等な関係性の本質とそれを保障するケイパビリティとは何かについては非常に不明確であり、両者の関係性もよくわからない。アンダーソンはI・M・ヤングの抑圧についての説明に依拠している。それは五つの異なった形式をとるとされている。搾取、周辺化、無力化、文化帝国主義、暴力(に晒されること)である。そうした抑圧に晒されないようにするのはもちろん重要である。だが、アンダーソンの議論でそのために必要とされているもの、富、政策、法、社会政策は、ケイパビリティではなく、それを保障するための手段である。(200−201)
 同じ不明確さが「民主主義的平等」の積極的な面についても言える。問題はどんな種類の参加か、であり、どのような社会規範と諸関係が参加を脅かすのか、である。(201)
 アンダーソンはゲイやレズビアンを例に挙げており、それは納得できる。だが、では、奇妙な宗教はどうか。不正な不利益には基準が必要になるのではないか。それについてアンダーソン自身が、いわゆる「客観的テスト」について言及している。たしかに客観的テストは、本人の主観的に参加を妨げられていない場合にも不正な不利益を指摘できる点で意義はある。聾者の事例では納得できる。しかし、それは他方で逆に、本人の主観的地位が重要でないという見方を導きかねない。そしてそれは間違っているだろう。(201)
 総じて、人々がもつべきケイパビリティの具体的な特定がなければ、アンダーソンの議論は曖昧なままに留まる。(204)

4 平等な関係性と不平等な人々

 ケイパビリティリストを明確化すればよいのか。たしかに、不平等な関係性が否定するケイパビリティの具体的リストがなければ、地位の平等は分配要求に応えるための基礎としてはあまりに空虚で無差別的なものである。とはいえ、平等な地位に関して国家が関心を持つべきものにケイパビリティと機能の範囲を限定することは、他方であまりに狭すぎる。私たちの基本的福祉の部分となり、分配的正義の中心に据えられるべきであるような重要なケイパビリティと実際の機能には大きな幅があるのであって、それらは直面的な対他者関係における私たちの地位とはあまり関係がない。
 サミュエル・シェフラーはアンダーソンと同様に、分配の問題が重要なのはある種の分配が平等と合致しないからだと述べ、「基本的ニーズを満足できない人々は、他者と平等な地位をもって政治的生活や市民社会に参加できず、もしできたとしてもつねに多大な困難を伴う」と言う。(205)
 飢餓や病気等の一つのケイパビリティの不達成は、たしかに他の多くのケイパビリティの不達成を導く。また、栄養状態を達成できないことは、抑圧的関係性に関わるような、より多くのケイパビリティの不達成をもたらすという事実が、私たちに、危害を改善する他の最善の理由を与える、とされている。だが、次のような事例を仮想してみよう。飢えや病気が抑圧的関係性に巻き込まれる原因とならず、参加にとって中立的であるような事例である。病気や飢えはその場合には改善を要求しないというならば、それは、平等主義的立場にとって信じ難いことだろう。別の事例を考えよう。マラリア患者に対する平等な地位を保障することが、彼らを治療することか、あるいは別の手段で完全な参加を保障することかのいずれの手段でも可能だとしよう。第二の手段の場合、マラリア患者は熱にうなされているが//病気が彼らの平等な市民権にもたらすマイナス影響は除去されている。民主主義的平等の観点からは、これらの選択肢はいずれも等しく良いことになるが、それは明らかに間違っている。(205-6)
 これらはありえないシナリオかもしれないが、フェミニストがずっと関心を持ってきた問題に関わっているので重要である。あまりに平等な地位に焦点を絞ることは、フェミニストの観点からは受け入れがたい別の誤謬をもたらす。すなわち「人間の依存という現実を看過するという誤謬を」。私たちの権原(entitlements)を平等な市民権という権原に還元することは、この誤謬を犯している。依存する人々の福祉に応答するという私たちの集合的義務は、彼が抑圧的関係性に巻き込まれないようにすることを保障するためである、と言うのは納得しにくい。(206)
 アンダーソンはたしかに長い機関他者のケア提供に依存していることが、人々のライフサイクルの通常のそして不可避的な一部であることを認識して入る。だが、依存という現実についての認識がアンダーソンの理論に登場するのは、依存するひつびとに対するケアの義務が、ケアする人々を不平等な地位に追いこむべきではないという理由を説明するために、である。彼女は、運の平等主義者は、ケア提供者が職場を後にして小さな子や他の依存者の世話を選ぶことを、補償に値しない高価な嗜好だとみなしているため、ケア提供者を貧困に追い込み、したがって支配と搾取関係に追い込むのだ、と論じて(は)いる(206)。それに対するアンダーソンの応答は二重だ。第一に、ケア提供者は、//彼らの道徳的義務を果たしているのだから搾取や支配に晒されるべきではないという議論である。第二に、依存者のケアによって果たされている労働は経済に貢献しており、したがって報いられるべきだという議論である。(206-7)
 この二つの応答に私は同意する。だが、依存する人自身の福祉についてはどうなるのか? 依存する人々のニーズの重要性はなぜ、彼らのケア提供者の「道徳的義務」に解消されるのか? この議論の含意は国家は独立した大人のケイパビリティには直接的な責任はあるが、同じ責任を大人に依存する人々にはもたない、ということである。それは抑圧的関係性の否定と平等な参加の保障という観点をとることの帰結だろう。(207)
 たしかに自由な選択は重要だが、たとえばマラリアに罹らないことの善さは、そして少なくともその善さの大部分は「選択やエージェンシーとは一切何の関係もない」。(208)

5 結論

 可分的な財とともに、社会化のパターンや社会的諸関係、制度的ルールと規範、文化的そして象徴的表象の形態は、人々の福祉にきわめて大きな影響をもつ。正義はそれを考慮すべきであり、正義に厚生、資源あるいはケイパビリティといったアプローチのどれがそれをもっともよく扱うかは、まだ検討の余地がある。とはいえ、平等な関係性という観点は、分配的正義の観点から重視されるべき福祉の指標としては狭い。(209)


第13章 Susan Hurley "The 'what' and the 'how' of distributive justice and health"
 ※「」内は引用。それ以外はまとめ。

1 導入

 分配的正義をめぐっては「何を分配するか?」というWhat問題と、「いかにして分配するか?」というHow問題がある。

「how問題について、我々は重要な財を平等に分配するという目的と、それを再不遇の地位にある人の完全のために優先的に与えるように分配するという目的を区別できる」(308)
「厚生-資源の区別と平等-優先の区別は、分配的正義の方法に対する四つの枠組みを生みだす。厚生ないし資源の平等という軸か、社会の最不遇者の厚生レベルに優先性を与えるのかあるいは資源レベルで優先性を与えるのか」(308)

⇒ この枠組みを、健康と厚生、健康と資源との関係性を考慮するために用いる。健康は果たして他の財に比して特別なものか? 

「健康は分配的正義が関心を持つ他の財と代替可能な関係にあるのか? 分配的正義は健康の分配パターンを他の財のそれと同じように要求するのか?」(309)

2 「What」問題
2.1 厚生と健康

分配的正義は厚生に究極的に関わるという見方がある。この見解では、農民の厚生も貴族の構成も依怙贔屓なく評価される。
この発想は功利主義の一つの着想源になっている。それによれば、ある資源は、それによって大きな厚生を得る人に分配すべきだということになる。
だが、この発想は不健康な人(unwell)や障害者にとって魅力ない含意を持つ。不健康な人や障害者を差し置いて、健康な人々に追加的な所得を与えることになりかねないからである。(309)
だが、これは通常我々が抱いている直観と対立するだろう。

「不健康な人あるいは障害者の厚生を増大させる配分は、健康な人の厚生を増大させる配分よりも、たとえ前者が厚生の最大化にはならないとしても、ときにより重要であり、あるいは緊急性をもつとみなされる」(310)

とするとやはり健康は特別なのだろうか? そうではないだろう。健康についての考察は、単に最大化と平等とのあいだにコンフリクトを示すだけだとされる。

2.2 依怙贔屓しないこと(nonfavoritism)と適応

所得配分ではなく別の資源、時間ないし生存年で考えよう。健康な人の方が障害者よりも高いレベルの厚生で生活しているとして、どちらの人の人生を延長するかの選択が問題になるとする。健康な人の人生を延長した方が厚生最大化になる。だがこれは不正に思える。なぜか?
 一つは、依怙贔屓しないという理念と厚生最大化を保持したまま、別の反論を行う道がある。(310)それは適応を考慮に入れることだ。人は病や障害に適応するから厚生は低くはならないケースもある、という議論が可能かもしれない。そう言えるならば、その場合最大化論とも両立する。
 この議論は、健康な人はつねに障害者よりも大きい効用を得るという一般化が間違いだ、という議論である。
 この適応論には、たしかに一定の魅力はある。だが、たとえば障害を軽減・治療できる場合はどうか。障害を除去ないし軽減できる可能性がある場合、仮に障害のある状態に適応した人が健康な人と同レベルの厚生を感じているとして、しかし治せるなら治したいと思う何らかの理由が存在するのではないか。もし、すでに適応して現に非障害者と同じ厚生を経験している人の厚生が、さらに障害の除去によって改善されるならば、彼はその時には、非障害者よりも高いレベルの厚生を得ていることになるに違いない。(311)とすれば、最大化論はこれまで健康であり続けていた人よりも、治った人の人生を延長する、という結論になるだろう。ここで、依怙贔屓をしないという理念は、障害の除去は厚生を増大させる、という前提のもとでは、別の方向に進むことになる。
 あるいは、元障害者だった人は、治った状態に再適応して「普通の」厚生のレベルに戻るかもしれない。とすれば、厚生最大化論の有効期限は短期間だということになる。この場合、依怙贔屓しないという理念は安泰だと言えるかもしれない。だが、障害の除去による厚生の増大が、再適応によって短期間で終わってしまうならば、厚生最大化論が「除去」を支持する理由もまた弱められるだろう。
 直観的には、我々は障害を軽減ないし除去する強い理由を持つし、人生延長に対して依怙贔屓ナシという理念を保持している。だが、厚生最大化論を採用する以上、これらの二つの立場を維持することは困難だということになるだろう。

2.3 厚生の平等と適応

 健康な人の人生を延長することを自動的に支持するような議論はなぜ不正なのか。第二の提案は、厚生最大化という目的を拒否し、平等に訴える議論である。この立場からはむしろ逆に、障害を持つ人に生存年を多く配分することで、厚生のより平等な形が実現する、ということになる。
 この立場は、厚生を非効率的に生み出す人(inefficient generators of welfare)から資源を取り上げるのではなく、むしろその人々に資源を割り当てる。非効率な人に多くの資源を分配し、他の人と同様の厚生水準に至らせるのが平等だからだ。
 しかし、この想定は再び「適応」という問題に突き当たる。障害という状態に慣れて厚生水準が高いならば、追加的資源も不要だということになるし、たとえば障害を軽減ないし治療できる場合にもそれはとくに不要だということになる。
 この問題を除去する一つの方法は、厚生ベースの立場を放棄することである。適応をめぐる困難が示すのは、健康が厚生に与える影響や厚生の手段が重要だという前提から生じている。しかしよく考えてみれば、適応そのものがこの想定に疑問を投げかけている。
 ある人が障害ある状況に適応すると、資源から厚生を産み出す彼女の力を描写する関数は変わる。この変化は直観的には、障害を除去したりする資源配分における変化を要求しないようにも思われる。これはさらに一般化することで強化されうる。つまり仮に誰かが適応したとして、その適応した厚生レベルを理由として彼女は資源を多く受け取ることも、少なく受け取ることもすべきではない、と。この見方では、適応の結果としての厚生水準の変化は、重要な意味で彼女にとって低下であるとされる。彼女が適応したとしても、我々の彼女の状態に対する義務は存在するとされる。彼女が新たに状況に応じて人生を楽しむ道を見出すことができたとする。その場合でも、我々は義務から解放されない。我々の義務は彼女の状況に向けられているのであって、彼女が成し遂げたものに向けられているのではないからだ。
 最初の「依怙贔屓ナシの読み」と、この第二の読みを比較しよう。第一の読みは言う。障害や不健康が厚生に対して低い能力をもたらすというのは偏見である、と。第二の読み、「責任の読み」にとっては、厚生に対する人々の選好と能力は様々な状況に置かれており、それは彼女自身の責任である。正義はある人がその健康状態からどれくらいの厚生を産み出すことができるか、ではなくてその状況そのものに関係しているべきだとされる。
 第二の見解を受容するとして、この見解は健康は特別なものだという見方を支持するのか? もし厚生ベースのアプローチを拒否するならば、健康を単なる厚生の手段としては扱わないだろう。
 別の可能性は資源主義である。それによれば健康状態は資源の中に含まれる。(314)この立場は健康を内的資源として位置づけるが、とはいえ、この立場でも健康とヘルスケアは他の財との競合から切り離されない。
 第二の可能性は健康状態を特別なモノとみなすことである。健康は他の資源と同列の資源ではなく、「機会の公正な平等を確立するのに特別な役割」を果たす、とみなされる。
 第三に、運と責任という枠組みで正義を理解する可能性もある。この見解では、たとえば先天的な盲人がそのために貧困に陥ってしまっている場合には資源分配の対象になるが、自堕落な生活の結果健康を害した人はそうではない(もちろんその人は別の理由から資源配分の対象になりうるが)。健康は特別なモノではないということになる。
 以下、これらの可能性をそれぞれ考えていくが、それを優先主義ではなく平等主義の中で考える。その後、what問題からhow問題に移行する。

2.4 健康状態 vs. 高価な嗜好

厚生の平等アプローチは厚生最大化アプローチの問題の一つを解決するが、別の問題を生じさせる。厚生平等化は厚生生産(generate)が不効率な人を補償する。しかし、厚生生産(generating welfare)の効率性と不効率性は、健康状態の良/不良の区別を横断している。
 すでにみたが、不健康ないし障害を持つ人の多くは、その状況に関わらず厚生を効率的に生産する。(315)上手く適応した人は資源を分配されないことになる。
 他方、健康な人の多くが厚生生産に不効率であるとする。高価な嗜好を持つ人がそうだ。その人は厚生平等アプローチでは補償されることになるだろう。しかし直観的にこの帰結は受け入れがたい。
 厚生平等アプローチは厚生だけしか見ないので、健康状態が特別であるとしてそれは、嗜好のように厚生を決定する他の要因(determinants)と同様のものとされる。嗜好と健康状態に正しく線を引くアプローチは何か。三つある。ドゥオーキン、ダニエルズ、ローマーはそれぞれ異なる解答を与えている。

2.5 資源平等と障害

まず、厚生と資源の間に根本的に線を引くという立場がある。正義が我々に平等化を要求するものは、厚生ではなく資源だとされる。
 資源主義はある人が自らがそこに置かれていると認識する賦与と状況を問題にする。金持ちで高い才能を持って生まれた人は//価値ある賦与を有している。(316-7)この人は多くの資源を持っている。
 ドゥオーキンは人々の選好や嗜好の結果としての厚生の不平等と、資源あるいは状況や付与の差異の結果としての厚生の不平等を区別する。たとえば高価な嗜好を持つ人はそれを持たない人よりも厚生水準が低いとして、それは正義の問題ではない。また、同じ賦与を持つ人が、異なる選好や企図を背景にして異なる選択を行い、暮らし向きに差が生じたとして、ドゥオーキンの見方ではこの不平等は不正義でも何でもない。
 自然の不運と選択運の区別によって資源平等論の目的を表現することもできる。最初の公正な資源分配を背景として、ある人がリスク承知の選択をした場合、そして運悪く実際にリスクが実現して差が生じても、それはギャンブルの結果と同じく不正ではないとされる。部分的に選択から生じた結果は悪い選択運として、悪い自然の運、たとえば盲目に生まれることなどとは区別される。ドゥオーキンによれば、後者は補償対象になるが前者はそうではない。平等は事後的視点ではなく事前に判断される。もちろん、実際に両者の運を区別することは困難である。(317)
 ドゥオーキンは健康状態や障害の有無を内的資源として、その補償のために外的資源が再分配されるとする。とはいえ、内的資源は、嗜好や企図ないし選好を含まない。
 ドゥオーキンは仮設的保険市場により、人々が購入する保険商品でおおむね内的資源への補償は可能だと考えている。人々はどの程度の水準まで補償額を設定するのか。おおむね人々は、たとえば、マリア・カラスのような才能の欠如に保険をかけることは非合理的だが、他方、障害を負うことに対する保険は妥当と考えるだろう、とされる。

2.6 健康――他の諸資源の中の一つの資源か?

健康を内的資源とする見方は、障害を他の才能とのスペクトラムと見るとすると、健康を特別なモノとする立場を擁護することは困難になる。じじつドゥオーキンは健康とヘルスケアは、他の諸財から分離され得ないと論じている。それに対して、ダニエルズは健康関連資源を他の諸資源と同じモノとすることに反対している。(318)
 ダニエルズは健康に対する考慮をロールズの分配的正義の理論に組み込むやり方を否定する。それによればロールズ理論は、「正常で活動的」な人に適用されるべく理念化されている。ではどうすればヘルスケアをカバーするようにロールズ理論を拡張すればよいのか。基本財に組み入れるとして、では他の基本財と健康関連資源との間での重み付けをどうすればよいのか? 他の財よりも優先するとして、ヘルスケアのコストがかかり過ぎて、他の財の保障が困難になる場合はないのか。
 これに対して、ドゥオーキンは健康を全ての財の中で最重要とするような見解を支持できない、と論ずる。(319)
 ドゥオーキンの理念化された状況下での個々人の選択を通したヘルスケア保険制度の正当化論は、概ね人々が妥当と思う範囲に収まるだろうとされている。(320)持続的な植物状態の人の生命維持に対して、多くの人々は保険で補償されるべき価値があるとはみなさず、それよりも家族や教育に費やした方がよいと考えるはずだ、と。
 他方、ダニエルズの見解では、ヘルスケアは、他の財と同列のものではない。資源のシェアが公正であるのは、合理的な健康保険が十分に存在するときのみだからである。あるシェアが公正であるかどうかを知るために、我々はすでに合理的なカバレッジを購入できるかどうかを知っているのでなければならない、と。
 こうした議論には、すべての人にとって合理的な熟慮を経た保険の水準が一つであるとはかぎらない、という反論がある。これに対してダニエルズは、熟慮は基本的ニーズの充足への関心を反映した構造をもっている、と再反論する。

2.7 健康と平等な機会

 ダニエルズは、あるニーズは正常な人生のライフコースに関係している、という。ダニエルズが健康を特別扱いするのは、「種に典型的な正常な機能」が基準とされる。(321)
 ダニエルズによれば、種の正常な機能の維持は正常な機会の範囲にとって重要である。それゆえ、障害と才能は非対称的である。ダニエルズは、病や障害は、さもなければ個々人に開かれていたスキルや才能の範囲に対して影響する。とはいえ、障害や不健康に才能に対するのとは異なる対応をすべき理由はなにか?
 ダニエルズは、機会平等が格差原理に優先するというロールズの議論から、健康は公正な機会平等を促進するのに根本的に重要な役割を果たす、と論ずる。(322)
 食糧や衣服は全ての人にとっておおむね同じだけの必要性を持つが、ヘルスケアはそうではなく、他の基本的ニーズとも区別される。ダニエルズはヘルスケアが機会平等に対する影響を教育と対比して主張する。とはいえ、無際限に保障されるわけではなく、社会の生産性が掘り崩されない程度で、という条件は付く。
 このダニエルズの議論は妥当か。まず教育とヘルスケアは異なるだろう。教育は若者に与えられるものであり、実際に機会にとって重要だが、ヘルスケアは機会を必要としない高齢者等にも与えられる。

2.8 責任と健康

見てきたように、厚生最大化主義は、障害の除去に対する理由と、依怙贔屓しないという理念を結びつけることが困難である。厚生平等主義にも問題点がある。これに対して、資源平等主義による応答を確認した。また、健康資源を他の財と同等に扱わないという議論を確認した。
 だが、これらの応答のどれも、健康の重要な特徴に焦点化することに失敗している。個人は、自らの健康に対してある程度コントロールできるし、また責任があるからである。同じ健康への機会があったとしても、人は様々な選択をする。この点について、ドゥオーキンは、人々はギャンブルに責任があるのと同じく、健康を自ら損なったことに責任があると論じている。(323)この見解について、正義は社会に、自らの健康を――たとえば喫煙等で――危険に晒した人への健康資源を要求するのか? という問いが成立する。
 一つの道は、リスキーな選択は完全に自由な状況で下されたのではない、と評価する方法があるかもしれない。だが、この見解は一般的な反パターナリズムの感覚と両立しないだろう。例えば、タバコ販売を規制すべきではなく、喫煙は個々人の自由だということと、他方でしかし喫煙は人々の責任ではないという見方は両立しないだろう。
 第三の道が、運の平等主義者、たとえばコーエン、ローマー、アーネソンらによって展開されている。それによれば、問題は人々は彼らの不利益に責任があるのかどうか、あるいはそれらは自然の運の問題なのかどうかである。この区別は厚生と資源の区別を横断する。正義が我々に要求するモノは、運の問題である程度に、資源ないし厚生における不利益を補償することだ、と。(324)

 「資源ないし厚生に関わる不利益が正義に訴えて補償に足るものになりうるのは、それらが自然の不運の問題である限りにおいてである」(325)と。

 こうした運の平等主義の問題の一つは、どの程度まで責任と運の区別を適用するか、というところにある。喫煙の結果の肺がんは部分的には自然の不運の問題でありうる。選択には生育環境や教育や所得階層等々、様々な要因が絡んでいるが、たとえばローマーはそれらを考慮に入れるようにという。(325)ローマーの解答は、ある種のタイプの人々の成員、たとえば黒人男性の肉体労働者と白人の女性教授等の区別をして、個々人の選択に対する影響のタイプを分けるという方策である。
 とはいえ、タイプ内にいる個人間には当たり前だが違いがある。タイプ内の差異に人々は責任がある。ローマーはこうした偏差を認めつつ、しかしそれぞれのタイプのおおむね平均で近似する方法をとる。だがやはり、どのタイプ集団に編入されるかによって、個々人は多く補償を得られたり得られなかったりするという問題は残るだろう。
 この帰結は、水平的な衡平についての標準的見解と対立する。だがローマーは、水平的衡平について別の理解をしている。それは、たとえ異なるタイプの集団に属していたとしても、責任を計算に入れて、二人の患者が同じ程度健康を害しないように努力をしていたとすれば、同等の回復を要求する、という理解である。
 ここで、what問題からhow問題に移る前に、これまでの議論をあらためて振り返っておこう。
 まず厚生ベースの議論は、疾患と障害を高価な嗜好から区別するのに失敗していた。この見解では健康は特別な役割を果たさない。対照的に、ドゥオーキンの資源平等論は、健康関連資源を考慮に入れ、疾患と障害を否定的な内的資源とみなす。(326) この見解は障害と高価な嗜好の混乱を回避し、適応に関係なく資源不足として障害を補償する。だが、ここでも健康は特別なものとはされず、むしろ他のさまざまな資源との競合関係に置かれる。
 機会平等論についての二つの見解を考察した。ダニエルズは健康を他の財の中の一つとして取り上げるが、彼はそれを、機会平等の条件として特別な財とみなす。ローマーは対照的に、健康への機会の平等という概念を採用する。健康不利益は他の不利益と同じものだとされ、それが不正なのは、自然の不運の問題である限りにおいてだ、とされる。不健康という結果が自律的選択から帰結した場合、それは、他の自律的選択から生じた悪い結果と同様、機会平等に関わるモノでは何らない、とされる。
 我々の当初の問い、つまり分配的正義についての「What」問題の考察は、健康を特別なものとみなす決定的な理由はそこでは提出されていない、と結論づけてよいだろう。ダニエルズは、機会ベースで健康は特別だという議論をしているが、しかし彼の〔教育と対比した〕議論はリタイアした人には適用されないだろうし、ローマーが言うような健康への機会を考慮に入れていない。議論の重点は別のところにある。  しかし、ダニエルズの「正常な」種の機能は機会平等にとって必要だという見解は、もし責任を考慮に入れたとして、それでも他の財と健康には非対称性があると言える根拠を提示していると言えるかもしれない。健康型の社会経済的財の条件であると言える二つの道がある。ダニエルズが示す方向性は、絶対的健康は社会経済的財への機会の条件であり、相対的な健康もそうだ、というものである。もし逆に考えるならば、絶対的な社会・経済的地位が健康に対する機会の条件だと認めるべきだということになる。だが、相対的な社会・経済的な地位は、健康にとっての機会の条件ではない。この非対称性が、健康の分配がとくに考慮されるべき理由になるとされる。
 とはいえ、この応答は経験的事実に依存している。相対的健康は社会・経済的地位に因果的な影響を与えるが、相対的な社会・経済的地位は//健康に対して影響を与えない、と。(327-8) とはいえ、これがもっともらしいとして、それは表面的なものだろう。たとえば、ウィルキンソンは、人々の絶対的な健康レベルが、彼らの経済的・社会的な〔相対的な〕地位に相関して強い影響を受けていることを経験的に明らかにしている。
 ウィルキンソンが正しいとすれば、ダニエルズのような機会の条件としての根本的な因果的な役割を根拠にした非対称性論は維持できない。ウィルキンソンの見解は、分配的正義の関心の対象となる財のなかで、「what」問題に対する解答は、健康に対して他の財との関係で特別な位置を与えない、という見方を強化する。

3 「How」問題
3.1 平等 vs. 優先――レベルダウンとトリクルダウン

「how」問題に移ろう。健康が特別な役割を果たす理由を見出すことができるか? これはトリクルダウンとレベルダウンに関する議論との関係で明らかにできるかもしれない。
 「how」問題は、パーフィットによる平等と優先の区別によって導入された。それによれば、平等主義はある人々が実際に他の人々よりも暮らし向きが悪いかどうかに関心を持つが、優先主義は、現実の個々人の状態を仮想的に達成されうる状態と比較する。(328)優先主義にとって、不遇者に対する利益が問題になるのは、他の人々とその人との関係性が問題になるからではなく、その人の絶対的レベルが問題だからである。優先主義にとっては平等は単なる手段に過ぎない。
 優先主義は絶対的な重みづけを用いるが、個人間比較を含んでいる。ただ、比較の種類が異なる。平等主義は現実の個人間比較を行うのに対して、優先主義は最不遇者が可能的に得られるかもしれないような、仮想的状態と現実との比較を行う。これは個人間比較から反実仮想的な比較への移行である。
 「how」問題は「what問題」への回答を横断する。what問題に対する回答としては厚生主義と資源主義がある。how問題への回答、平等主義と優先主義はこのいずれのバージョンも取りうる。平等主義は平等に分配すると答えるが、優先主義に分配すべきだとは言わない。その対象は厚生でも資源でもある。もう一つ、フランクファートによる「全ての人が十分に得られる」ように分配すべきだ、という充分性論もある。だがその基準は曖昧である。優先主義に絞っていこう。
 平等主義と優先主義との論争は、トリクルダウンとレベルダウンに関する問題を生じさせる。追加的労働インセンティブを生み出すことで、生産性向上の恩恵を他者に得させることができる。優先主義からすれば、もしある種の不平等が、平等状況下で彼らが得るよりも、より良い生活をすべての人々に可能にするならば、//それは反論できないだろう。(329-330) この状況で平等を主張することは、すべての人のレベルを低下させることになる。多くの人々が優先性論に魅力を感じるのは、彼らが、もしトリクルダウン効果が生ずるならば不平等は受容可能だということを認めたいと思っているからであり、より一般的に言えば、彼らは平等のためのレベルダウンには問題があると考えているからである。

3.2 トリクルダウン効果と健康

トリクルダウンとレベルダウンに関する問題は、「what」問題へのさまざまな解答の中で実際に利いてくる。所得の不平等には、所得、厚生あるいは健康についてトリクルダウンの利益があるのかどうかが問われうる。所得の不平等が全ての人に所得増大をもたらすことがあるとして、それが健康に対してもトリクルダウン利益をもたらすか否かは経験的な問題であり、両者は少なくとも別の話である。もし、所得増大が健康利益にならないとすれば、それは、健康は他の財との関係で特別なものだ、ということになるかもしれない。
 この経験的可能性を見過ごすことは自然だと思える。まず、健康は絶対的な所得増加とともに向上すると想定するのは自然だと思われるからである。次に、ある社会で高所得層の求めに応じた医療技術の進展は、それより低い層の人に対する医療ケアを改善するトリクルダウンがある、と想像できるからである。  しかし、これが経験的な問題だという事実を見過ごすべきではない。ウィルキンソンによる「リッチに発展した国よりも平等な国の方が、良い健康状態だ」という主張を再考しよう。もしこれが正しなら、先進国では絶対的な所得レベルよりも、相対的な所得レベルが絶対的な健康レベルに大きな影響を与える、ということになる。(330) とすれば所得不平等は彼らの健康レベルを悪化させる可能性がある。優先主義は、所得不平等の効果を考慮するさいに、所得レベルの改善と健康レベルの改善の間での衝突に直面する。彼らはトリクルダウン効果の評価の中で、他の財のレベルから健康レベルを除外して、健康を特別扱いする必要が生ずるかもしれない。

3.3 レベルダウンと健康

「how」問題の考察は、トリクルダウン効果との関係で、健康を特別視する必要があるかもしれない、という方向性を提供する。ここで、所得不平等が健康の絶対的レベルに与えるトリクルダウン効果に関わる問題をとりあえず措いて、平等と優先をめぐる見解が、他の財と対立するものとしての健康そのものにどのように適用されるかを考えよう。
 社会Aでは成員の半分が病気で、半分は健康である。社会Bでは全ての人が病気である。Bの方がAよりも平等である。平等主義はAからBへの移行を支持するが、優先主義はそうではない。全ての人が健康状態のレベルダウンすることを支持しないならば、平等を拒絶すべきである。
 テムキンは平等を擁護する。テムキンはレベルダウンへの反論は「人格影響要請(person-affected requirment)」によって動機づけられている、と述べる。それは、ある状態の別の状態に対する良し悪しは、その状態をより悪いとかより良いと感じる人が存在している限りにおいてだ、という「スローガン」にまとめられる。テムキンはこのスローガンに反論する。第一に、人格影響要請への反論を通して、第二に、多元主義を採用することによって。平等は、もしレベルダウンが正当化されないとしても、レベルダウンに対してある理由を提供する、とされる。ここではテムキンの議論を詳論しないが、人格影響要請によってレベルダウン反論が動機づけられている、という彼の診断を取り上げたい。
 レベルダウンに対する反感にとって最も基本的な動機は、人格影響要請ではなく、むしろよりシンプルな非人格的な卓越主義(perfectionism)と卓越(excellence)の価値だと思われる。レベルダウンが無駄にするのは、善へのより高い達成である。(331)
 人格影響要請のスローガンは次のような問いを導くだろう。〈そこに誰もより良い人が存在しないのに平等が良いといかにして言えるのか?〉と。この問いは、同じ人が平等シナリオと不平等シナリオに存在しており、同一人物の二つのポジションがシナリオ間で比較されていることを含意する。だが、非人格的な卓越主義では次のようになる。〈平等が卓越を捨て去るのになぜよいと言えるのか?〉と。この問いは、平等シナリオと不平等シナリオに同じ人が存在していることを含意しない。不平等シナリオは、それがより大きな卓越を含んでいる程度に従って良いとみなされる。二つのシナリオの中にいる人々が別の人になるとしても、論点は変わらない。
 テムキンは人格影響要請スローガンが反平等主義を動機づけると考えているが、私は、より根本的な動機は卓越主義だろうと考える。では、この相違は健康に対してどう効いてくるのか? 卓越主義は、健康な人よりも不健康な人が多い状態は、たとえその人々にとっては悪いことでないとしても、端的に、より悪いと考える(たとえば〔人格影響説にとって難問の〕出生選択の場合でも、卓越主義は良し悪しを問題にできる)。もちろん、これは可能な解釈の一つにすぎないが、これはレベルダウンが比較する二つの状態に別々の人が存在するとしても、レベルダウンが忌避される理由を表現している。もし、二つの状態に別々の人が存在するとしてもレベルダウンが忌避されるならば、同じ人々が存在する場合にはもちろん忌避されるだろう。
 この議論は、とくにある種の財に対して強力である。リベラルな立場は、ある人にとって良い財について、その人が自由なトレードオフを行う権限を否定することは難しい。だが、人々にとって良いだけではなく、それ自体として良い財の場合、同じ場合でもトレードオフはできないだろう。健康はそれ自体として良いモノであると思える。それは、人々にとって良いというだけでなく、それ自体において良い、と。(332)次を比較しよう。高所得が人々にとって良いと主張するだけでなく、高所得の人々が存在するほうが、低所得の人々が存在するよりも良いと主張することはできるだろうか? 後者のように言うことは、せいぜい派生的に真であるにすぎないと思われる。
 卓越主義に基づくレベルダウン批判は、スローガンに対する反論によってまったく弱められない。
 これは健康が特別扱いを要求する別の解釈である。健康な人にとって良いのと同時に、それ自体として良いものだという卓越の一つとして、健康はレベルダウンと厳格な平等に反対するだろう。

4 結論

 what問題とhow問題には様々な答えがある。おそらく驚くべきことに、健康を特別な財として扱うためのより強い理由は、「何を(what)」分配すべきかという問題よりも、「いかにして(how)」分配すべきかをめぐる考察の方から生じる。厚生、資源あるいは運に関する「what」問題では、健康を特別なモノとして扱う強い理由を見出すことはできない。むしろその理由は、トリクルダウンとレベルダウンに関する「how」問題によって示唆された。健康のレベルダウンに対する反論の文脈における卓越主義の貢献は//、健康に特別な役割を認める議論の一つの方向性を示している。


作成:堀田 義太郎
UP: 20100709 REV: 20120105
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