HOME >

Luck, Leverage, and Equality: A Bargaining Problem for Luck Egalitarians



“Luck, Leverage, and Equality: A Bargaining Problem for Luck Egalitarians”
 Matthew Seligman
  Philosophy and Public Affairs. vol. 35, No. 3 (2007) 266-292


■内容紹介(堀田義太郎 ※「」内のみ引用。他は議論の概要)

・選択と運の区別が重要。⇒ 長年続く経済的相互作用の観点から分配を考察すると、ある種の問題が生ずることを論ずる。(266)

T 運の平等主義

・人々は等しく扱われるべきであり、意思決定と行為の帰結を引き受けるべきだが、外在的要因の帰結には値しない(not deserve)。したがって、正義の一つの要請は、運の影響が消滅するまで、偶然によって利益を受ける者から、偶然不利益を受ける者への資源の再分配である。(267)

・運の平等論の立場は以下の三つの原理に定式化される。(268)

(1) 分配は人々の選択の結果であり、かつ偶然(chance)の結果である。分配に影響を与えるすべての要素は、選択かあるいは偶然である。
(2) 分配におけるいかなる不平等も、選択に淵源する部分と、偶然の結果である部分に分割可能である。
(3) 不平等ないしその一部は、それらが偶然ではなくて選択に淵源できるときそしてそのときにのみ、正当である。(268)

 この(3)を「運の平等主義原理」と呼ぼう。これらは直観に合致する面をもつ。(268)

・重要な議論の一つが、偶然と選択の区別である。これらが明確に区別できる場面もあるが、そうではない場合もある。性格的な特徴(character traits)は選択されたものであるとは言えないが、多くの人が怠惰な人が被る不平等は正当化されうると考えている。(269)
 また、決定論によってさらに議論は複雑になる。教育、生育(upbringing)、遺伝等々。私たちは正当な不平等に値するようないかなる選択についても、疑いたくなるだろう。コーエンが言うように、「自由意思」をめぐる問題が提起される。運の平等主義は、選択のなかの何が不平等を正当化するのかを特定しなければならなくなる。

・【反例】…… そうした概念化の必要性を強調するような反例がある。それを「手続き的反例procedural counterexamples)と呼ぼう。それは、正当な分配〜開始する。そして、人々の選択が時間の経過を経て不平等を生みだすのだ。何の明白な偶然もこの分配の進化の過程に入り込んでいないなら、それが生じさせる不平等のすべてが明らかに選択の帰結でしかない。運の平等主義理論はこの帰結を正当だと言うだろう。(269)

・だが、この分配は直観的に「不正」ではないか。とすれば運の平等主義は二つの道しかない。私たちの直観が間違っていると言うか、選択という要素が、分配の深化の過程で崩壊していることを示し、この分配は不正であると言うかだ。もしこの二つが失敗するならば、手続き的判例は成功していることになり、原理(3)は正義にとっての十分条件の地位を保持できなくなる。

・以下、取り引き問題(bargaining problem)が、運の平等主義に対する手続き的反例であることを論ずる。私は、選択と偶然の間に一貫した区別があること、この区別が理論の目的に役だちうることをひとまず認める。[注7 一貫した区別についてすでにバレンタインやパリ―スによって疑問視されている]取引問題は運の平等主義にジレンマをもたらす。選択がなされる状況は分配に深く影響を与える、そしてこれらの状況は、それらの選択の道徳的な意義にとって重要であるか、そうでないかのいずれかである。手続き的反例に対する二つの戦略が、このジレンマの二つの角に対応する。一つは、選択の状況が、これらの選択の道徳的意義に影響を与えることを否定するが、結果的に甚大な不平等を受け入れる、というものである。他方、もう一つは、選択状況がその道徳的意義に影響することを受け入れるが、それによって、選択についてもっともらしくない考え方にコミットするというものである。
・この取引問題は自由意思に関する考慮とは独立している。この取引問題が、いかに規制されていない自然の経済的相互行為が直観的に不正な分配を生みだすかを示す。(270)
U 取引問題

・流れ小島にたどりついた10人が、資源を平等に、一人5単位ずつに分割することに同意する。そのうちの一人(ゲイツ)は危険な賭けとして資源をすべて投入して一人だけで大物狙いの漁を試み、他の9人は、資源を無駄にしない代わりに小物狙いの漁をする。ゲイツは賭けが成功して大物を釣り上げることができたが、残り9人は小物を少ししか釣り上げることができない。9人は飢えるか、資源と交換にゲイツに魚肉を分けてもらう課の選択を迫られる。ここで、ゲイツも他の9人も自らの選択で獲物を得ている。ゲイツの運は選択運である。つまり、彼がリスクを冒したからこそ、引き寄せられた運である。残り9人とゲイツとは取引の場につくが、ゲイツと他の人々とでは明らかに異なる立場になる。ゲイツは交渉から立ち去ることができるが、他の9人はそうすると飢えるので退出できない。ゲイツはその立場を利用して自分に有利にことを進めることができる。だが、誰も他者に強制をしようとはしていないことは明らかだろう。ゲイツは、他の人々が彼の交渉の申し出を拒否して飢えることに対して責任はない。
 ゲイツは9人が今後得るであろう資源の半分を提供し、大物釣りの手伝いをするように提案する。残り9人は飢えを凌ぐためにそれに応ずる。時間が過ぎ、ゲイツは231単位の資源を得るが、残り9人はそれぞれ27単位の資源しかない。この分配は正当だろうか? (271-273)

・直観的には「否」である。だが何故否なのか。別のシナリオを考えることもできる。この場合明らかにゲイツが他の人々に優位性(レバレッジ)を行使している。では、他の9人が飢える心配なくゲイツとの交渉に臨んでいた場合はどうか。肉一切れに対して、一単位資源で交換が成立し、大きな格差ができなかったかもしれない。その場合、ゲイツの良い選択運の結果として、不平等があるとしても正当だとされるだろう。(273)

・取引問題は、手続き的反例になる。取引後の分配はゲイツと残りの人々の選択からのみ生じている。最終的な不平等も選択だけから生じている。これを不正だという基盤は運の平等主義にはない。再度言えば、この非直観的な帰結に運の平等主義が応ずることができるとすればそれは二つの道しかない。一つは最終的な不平等が不正だという直観が間違っているというか、もう一つは、どこかで偶然の要素があるというか。おそらく運の平等主義は直観が正しいというだろう。運の要素がどこかで入っているといえるならば、この反例に答えが出せる。以下でそれが運と選択の概念と結びついていることを見る。(274)

V 第一の戦略

誰も選択以外のことはしていないのだから、最終的帰結が不正であるという直観が間違っている、というのが第一の戦略だった。 だが、私はこれは間違っていると考える。(274-5)

・その第一の理由は、やはり究極的には直観に基づくが、いくつか詳論することもできる。9人の人々の交渉上の立場はその人々のコントロールの外部にある。もし、ギャンブラーが負けると分かっているゲームを強いられているとして、そしてギャンブラーが賭けという選択をしたとしても、そのゲームは不正である。

・この直観はさらなる区別を導入することで明確化できる。運の平等主義は選択と偶然を排他的にみている。すべては選択か偶然のいずれかだと。これは非人称の観点からはそうである。これを「客観的選択」と呼ぼう。この理論は出来事が客観的にカテゴリー化されることを要請する。(275)

・だが、人間の相互行為を観察すれば、この非人称の観点だけでは処理できない。むしろ行為者の観点からは、その選択は偶然の問題である。これを「主観的選択」と呼ぼう。選択と偶然の間の形而上学的な区別は主観的N選択に適用される。行為者が形而上学的に自由な選択を為したとき、他の行為者の観点からはその出来事は(その他の行為者自身の選択ではない以上)偶然という要素になる。運の平等主義理論が出来事は客観的選択という観点でカテゴリー化されることを要請するとき、運の平等主義は二種類の区別の間でのマッピングを提供すべきである。選択が「誰か」にとって主観的選択であるならば、そしてそうであるときのみ、出来事は客観的選択である。出来事が客観的偶然であるのは、誰にとっても主観的に偶然であるとき、そしてそうであるときのみだということになる。運の平等主義派、出来事が選択であるというとき、それが誰かの――誰であれ――選択である、ということを意味している以上、この描写はこの理論にとって妥当である。(276)

・交渉問題において、あらゆる関連する出来事は主観的選択である。したがって、上記の理論からすれば、あらゆる出来事は客観的選択だということになる。ゲイツの有利な状況も、9人が強いられる状況も選択だということになる。だが、9人からみて、この答えは満足できないだろう。なぜなら、ゲイツの有利な地位は偶然だからである。彼らにとって、自分たちの不利な状況は、彼ら自身の主観的選択の帰結ではないからだ。これはコーエンの観察に構造的に似ている。(276)

・コーエンは次のように述べる。シャンパンの鑑定家にとって、彼の趣味が効果になるのはbrute luckの問題である。シャンパンへの趣味については責任があるとして、シャンパンが高いという事実には責任はないからだ。(277) ・運の平等主義は、先の事例の人々の「漁」をするという戦略が彼ら自身の選択である以上、交渉上の不平等も選択の問題だというかもしれない。悪い選択運の結果だったのだ、と。この応答は、この物語の重要な部分を看過している。彼らの交渉上の弱い地位は彼らの悪い選択運の結果であるのみだ、とは言えないからである。それは、ゲイツの良い選択運の結果でもある。優位性は関係的な特性である。彼ら両者の交渉上の地位は少なくともその一部は主観的には偶然の問題である。また、優位性を行使しようというゲイツの意志決定は、明らかに彼らにとって主観的偶然である。こうした点がこの事例を私たちが不公正だと思う理由だ。(277)

・第二の理由は、運の平等主義は実際にはこのような立場を支持しないからである。(278) じじつ運の平等主義の「精神」はこのような帰結を放置しない。また、この理論が「偶然」に分類するモノは多い。たとえば怠惰は行為者に道徳的に帰責できないようその一種だとすることは、ゲイツの優位性を道徳的に帰属するものだとすることと整合しない。これらの点から、運の平等主義は第二の戦略に訴える方が望みがあると考えられる。(278)

W 第二の戦略

 第二の戦略は上記の反例の帰結は不正だという直観を受けいれ、帰結の交渉的地位に偶然が部分的に含まれていることを示す、というやり方である。このために運の平等主義は、主観的偶然のいくつかの要素が、仮に他の人の主観的選択であるとしても、客観的偶然であることを示さなければならない。9人にとってコントロール外の要素が多いので、主観的偶然になるわけだが、これを客観的偶然だと言うならばそう言える。(279)しかし、もし9人の交渉上の地位がブルートラックだと言うならゲイツの立場もそうだと言うことになる。全ての選択が何らかの非選択的な選択肢から形成されている以上、選択運というカテゴリーは空虚なものになってしまう(280)

・殺人者の選択肢が外的に固定されていたという理由で免責するのは馬鹿げている。運の平等主義は、選択肢の大部分が偶然の問題だという理由以外の理由で、意思決定が不平等で正当な選択の審級だ、という議論を退ける必要がある。ここで、他の唯一の選択肢が彼自身が死ぬことだったような殺人者の場合と、他に選択肢をもっていた殺人者との間の道徳的に重要な違いを看過されている点に問題がある。行為者に開かれた選択肢が、ある程度偶然によって規定されていたということは、行為者の手がその結果を産出したということを完全に除去するものではない。(280)

X 第二の戦略、第二幕

上記とは別のやり方で第二の戦略を遂行することもできるかもしれない。ある選択肢が推定上の選択を不平等正当化にとって不十分にするには、別の意味があると言うかもしれない。分配の正義にとって重要なことは、外在的な決定ではない――外在的決定因はすべての選択肢に共有されている――と。そうではなく、行為者を制約する選択肢の「内容content」なのだ、と(280)。問題は、9人に開かれた選択肢が意図的に(systematically)望ましくない者にされていた点にある。(281)事実ゲイツが意図的に影響を与えていた。植民地で飢え以外に農園主と契約せざるを得ない貧農は事実上奴隷だったと言えるのと同じである。(281)運の平等主義は行為者に入手可能な選択肢の内的構造に着目することができる。(282)

・この観点からは、選択と偶然の区別は、選択肢が外在的に規定されているという事実ではなく、選択肢の内容と、それがもたらされる特定の要因による、ということになる。運の平等主義は、選択肢を内容に従って二つに分けることができるかもしれない。第一に、分配における不平等を正当化できるものと、第二にそうではないものと。選択がなされるところの選択肢の道徳的特性によって部分的に決定されるということになる。(282)

・この解答は運の平等主義を救うが、しかしそれは、最初に見たような形而上学的区別に関係のない区別の概念を採用するというコストを強いることになる。選択肢の特性による区分は、選択と偶然にはあまり関係がないように見えるし、むしろ公正に関する直観に関係していると思える。偶然と選択の区別は独立した妥当性をもっていることが要請される。形而上学的区別はこの要請を満足する。(282)だが、選択肢集合の道徳的特性を根本的なものだと位置づけると、その判断が、何が選択で何が偶然として数えられるかを知らせるものとなる。(283)

・二つ道がある。@形而上学的区別を置きかえることができる。あるいはAそれを選択肢集合の道徳的特性を反映するようにリバイスすることもできる。第一の場合、運の平等主義派形而上学的区別を完全に捨て去り、選択肢集合の道徳的性質にしたがって偶然と選択の実質的な概念を定義する必要がある。だが、これは前理論的な直観に依存したものであり、後退だろう。正義に関する私たちの直観にマッチするように区別を誤魔化すことによっては、運の平等主義理論を支持できないだろう。(283) これは偶然と選択ではなく、公正な選択肢と不公正な選択肢との間の区別である。運の平等主義がこの立場にたつならば、整合的理論を提供することはできなくなる。

・第二の道は、推定上の(putative)選択の形而上学的な地位は、選択肢の道徳的性質に密接な関係があると考える理由をもたない、という立場である。
 状況が不公正だという事実はそれが形而上学的選択を生みだすかどうかによって説明され得ない。(284)それは、公正性に関する〔形而上学的区別とは〕独立した政治的社会的経済的理念によって説明されるべきである。不利な人々は単にその社会的経済的地位によって形而上学的に正統性をもつ選択能力を欠いているいると想定することはパターナリスティックである。(284)しかし、運の平等主義理論は、それが選択と偶然の間の形而上学的区別の重要性にコミットしている限り、そしてそれが選択肢構造の内的な影響を看過する以上は、これらの不平等の不正義を説明することはできない(285)。運の平等主義の第二の道は、こう諸問題に置いて頓挫する。というのもそれは選択と偶然の区別に関する弁解の余地なき概念を含んでいるからである。
 運の平等主義の立場はかくして、基本的で重要な分配的不平等を説明する概念的装置を欠いている。(286)

Y 反論と応答

・かくして原理(3)は分配的正義にとって十分条件を述べていないと結論づけられる。これに対する二つの反論を検討する。第一の反論は、先の二番目の戦略は交渉問題を解決するのに成功しているという反論である。第二の反論は、交渉問題は運の平等論に対する反例になっていない、というものである。これに答えることを通して、単に運の平等主義の原理が十分条件でないだけでなく、それはもっともらしい理論における重要な役割を演じることができない、ということを示したい。

・第一の反論は、選択と偶然の区別を形而上学的な特性ではなく、公正性に基づいて行うという立場がありうる。ある種の「選択」の結果を人々は引き受けるべき(deserve)であり、その「選択」の結果ではないような不平等は不正である、と。(287)

・この区別は行為者に提示されている選択肢セットの構造を考慮するというものである。この立場からすれば、交渉問題において9人は選択肢集合の構造のため、「選択」ができたということを否定しなければならなくなる。だが、その際、彼らの選択が単に選択肢集合の構造のために正統性をもたない、とは言えないだろう。また、彼らがなしえた選択は、道徳的な帰責に値するものにはならない、とも言えないだろう。たとえば彼らはゲイツを殺すこともできたが、その場合、彼らは道徳的に有罪であり刑罰に値すると私たちは考える。これに対して運の平等主義は、「選択」の概念を洗練させようとするかもしれない。たとえば、彼らを道徳的責任の主体にするような「選択」の特有の特徴がある、と。彼らはもしゲイツを殺したならば責任があるが、ゲイツと取引したならばその分配の結果に対して責任はない、と。こうした「選択」の概念は、直観にも合致している。(287)
 だが、こうした概念化は支持できないほど広すぎるし、直観的な見方から多くのものを取り除いてしまう。(288)人はしばしば、「望ましい選択肢がなかった」ことを意味するのに「選択できなかったんだ」と言ったりする。だが普通、これに対する答えは「うん、でも君は選択したんだ」というものだろう。こうしたことを認めるともはや運の平等主義の主要な主張は捨て去られたことになる。この区別の欺瞞と先に呼んだことに対して反論できない。(288)

・第二の反論は交渉問題は分配的正義の問題であるというのはミスリーディングだというものである。真の問題は、9人が飢えていくことにある、と。分配的正義の問題は、ニーズをもつ人々を助けるというより根源的な道徳的義務に道を譲るのだ、と。(289)

・これは強力な反論だが、運の平等主義の立場を救うことにはならない。この反論が成功するためには、道徳的考慮が支配的になるようなミニマムレベル以上のケースにおいて、交渉上の優位性という現象が「まったく」存在しないのでなければならない。この強い主張は偽である。少し不利な状況でも交渉上の優位性は存在する。それが繰り返されることで、ゲイツは徐々に交渉上の優位性を得ていく。

・こうした過程は、道徳的ミニマム以上の交渉上の優位性が存在する以上通いていく。こうした道徳的考慮に依拠するならば、運の平等主義の適用範囲は劇的に制限されることになる。交渉上の優位性はいたるところに存在するからである。(289)

・優位性を伴う交渉という現象は広範に存在しており、取引の繰り返しにしたがって、運の平等主義によって推奨される分配は直観的に正統な分配からどんどんかけ離れたものになる傾向をもつだろう。(290)

Z 結論――市場の限界

運の平等主義はリバタリアンと同じく、政治的な問題を個人の道徳的責任の問題にしており、いずれにしても問題がある。


*作成:堀田 義太郎
*このファイルは生存学創成拠点の活動の一環として作成されています(→計画:T)。
UP: 20110202 REV:
  ◇自由・自由主義 リベラリズム 
TOP HOME (http://www.arsvi.com)