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The Ethics of Care: Personal, Political, and Global

Held, Virginia 2007,Oxford University Press,224p.


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■Held, Virginia 2007 The Ethics of Care: Personal, Political, and Global Oxford ; New York : Oxford University Press 224p. ISBN-10: 0195325907 ISBN-13: 978-0195325904 [amazon] ※ b

■目次
Inroduction

Part 1 Care and Moral Theory
1. The Ethics of Care as Moral Theory
2. Care as Practice and Value
3. The Caring Person
4. Justice, Utility, and Care
5. Liberalism and the Ethics of Care
6. Caring Relations and Principles of Justice

Part U Care and Society
7. Care and the Extension of Markets
8. Civil Society, Rights, and the Presumption of Care
9. Power, Care, and the Reach of Law
10. Care and Justice in the Global Context

Notes
Bibliography
Index

■引用

U-7. Care and the Extension of Markets より

「線引き(Drawing Lines)」pp. 120-121.

「私が念頭に置いているような議論をうまく照らし出すものを、「代理母」あるいはより適切に言えば「契約妊娠」をめぐる議論の中に見出すことができる。リベラルな契約主義的あるいは功利主義的な思考の立場からみて、このサービスを、他のサービスと同じく市場に置くべきではない理由はなにか? もし、ある女性が彼女の赤ちゃんをこのやり方で利用する契約を望んだとして、また仮に、彼女がそうすることに対して、あるカップルが支払うことを望んだとして、さらに適切な安全保障装置が存在しているとしよう、そのとき、法が、この契約を他の多くの契約を承認しているように認めるべきではない理由はなにか? リベラル個人主義の見地からすれば、賛成者の「善」の概念と契約妊娠の反対者とのあいだで、中立的であってはならないのだろうか? 
 私たちが考慮する別の価値、とくに両親の愛に含まれる価値を考えてみよう。私たちは、子供たちの価値を子供たち自身のために尊重すべきなのであって、子供を両親の利益のために利用したり操作すべきではない。アンダーソンの説明では、両親の愛は、次のようなものとして理解されうる。すなわち両親の愛とは「子供にケア、愛着、そしてその子が成長する能力を育むニーズの手引きを提供することによって、子供を育てることに対する無条件のコミットメントである。……両親の子供たちに対する権利は信頼であり、それは、親が子供たちのために履行すべきものなのである」120>121
   契約妊娠は、こうした諸価値を掘り崩す。アンダーソンの語るところによれば、契約妊娠は、

「両親の愛をめぐる諸規範のいくらかを市場の規範へと置き換えてしまう。それは、両親の権利を、信頼ではなく所有権のようなもの――所有物に対する使用権と処分権――に近い権利として理解することを私たちに要求する。契約妊娠を行うことで、母親は物理的利益のために子供を犠牲にするという意図で、妊娠する。彼女と、彼女が親権を手放すことに対して対価を支払うカップルは、彼女の権利を、部分的な所有権として扱うのである。かくして、契約当事者たちは、子供を、売買しうるような部分的な商品として扱うことになる。」

 私はここで、アンダーソンがケアの倫理の擁護者であるとまで言いたいわけではなく、彼女は、市場の価値評価様式に付け加わるような、あるいはそれとは往々にして対立するような価値評価の方法を擁護しているのだ、と言いたい。
 メアリー・リンドン・シャンレイは、契約妊娠にも関わる労働に焦点を当てている。彼女は次のように論じている。女性の妊娠労働を商品と見なすこと、そして契約妊娠を法的に強制できるものとして見なすことは、「単に女性の子宮ではなく、女性自身が再生産労働に関わっているかもしれないということ」を看過する、と。母親と胎児は、強固に結びついており、産みの母は、その子が他人に育てられるか否かに関わらず、その子に生命を与えた女性であるということを決してやめることはできないだろう。このような考察はシャンレイを、「妊娠契約は、他の雇用契約よりも、奴隷契約と比較されることが有効だろう」という議論に導いている。かくして彼女は、契約妊娠は非合法にされるべきであると論ずる。
 契約妊娠の多くの批判者の見方では、法は、この契約履行を強制するべきではなく、その締結を、きわめて稀なケース以外は基本的に除外するだろう。稀なケースとは、女性が、姉妹もしくはきわめて親密な友人のために、対価を得ることも契約関係もなく、子供を産んであげるようなケースである。こうした議論は、ケアの倫理に基づいて説得的に展開できる。
 私たちは、いかに市場に対する境界線を引くことができるか、ということについて様々な例を挙げることができる。私たちは、商品化と商業化が忌避されるべきであるような人間の活動と価値の諸領域を識別できるし、個人的な獲得物が至上の価値になるべきでないような領域が他にもあるということを認めることができる。たとえば、私たちは、人体組織の売買や、政治権力の市場化の何が悪いかを検証できるし、それを理解することになる。私たちは、さまざまに異なる諸活動における優先順序に一致させられるべき価値を、明らかにすることができる。」

■簡単なコメント

 ケアを、妊娠出産や身体組織の提供と同列に並べること、あるいは少なくともケアを妊娠出産との類推で論じることは妥当か? 妥当ではない。
 妊娠出産や身体組織が売買契約の対象にされるべきではない、と考えられる根拠と、ケア等の行為が売買契約にそぐわない、と私たちが考える理由は異なるからだ。
 妊娠出産の過程や身体組織の移転が売買契約の対象にされるべきでないと思われているとすれば、それは、本人の同意がない場合これらは単なる暴力になるからである。逆に言えば、妊娠出産させる(身体組織を摘出する)ことは、当人の同意を必ずしも必要としない。
 身体組織の摘出に当人の意思等は不要である。また、妊娠も必ずしも当の女性の意のままにならない(望まない妊娠/不妊)。では、出産には当人の意思や意図が介在する必要がある、と言えるか。言えない。母体外生存可能性基準(中絶許容期間)は、当人の意思とは関係ないからである。  当人の同意なく、また生命維持の必要性や苦痛除去等の理由なく、身体に接触・介入・侵襲したり、変化を与えることや拘束することを、私たちは「暴力」と呼ぶ。
 「暴力」になりうる可能性が高い介入や侵襲に関しては――それに伴う負担とリスクの大きさに応じて、つまり「暴力」になる可能性に応じて――、介入に対する当人の意思の真正性(authenticity)への要求が高まる。これに対して、本当に「真正な意思決定」など存在しない、という批判はナイーブである。私たちは、ある種の決定については当人の意思決定の条件を厳しく吟味して、その真正性を保障するべく、強制や圧力を除去しなければならない、と考えているからだ。もし「そうは思わない」と主張するならば、その者は、様々な圧力を前提として決断される臓器売買にも何ら問題はない、と言う立場に立っていることになる。その者は同時に、いかなる状況でなされる、いかなる内容の自己決定をも全て認めることになり、何も主張できなくなるだろう(この論理を明確しているのは立岩である)。
 私たちが要求する真正性の程度(条件の吟味の厳格さ)は、意思を欠いた場合に「暴力」になる可能性の高さに比例して高まる。妊娠出産を売買契約の対象として認めることは、経済的圧力等を理由にした契約妊娠の可能性を承認することになる。
 他方、ケアは行為である。行為には定義上、「意図」の存在が含意されている。妊娠出産の過程や身体組織を売買契約の対象にすることへの違和感と、ケア行為を売買契約の対象にすることへの違和感とは根拠が異なる。
 ケアを売買契約の対象にすることへの違和感について考察するためには、ヘルドの議論では不十分である。


*作成:堀田義太郎
UP:20080116 REV:
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