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『資源としての身体――身体をめぐるレッスン2』

荻野 美穂 編 20061222 岩波書店,248p.

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荻野 美穂 編 20061222 『資源としての身体――身体をめぐるレッスン2』,岩波書店,248p. ISBN-10: 4000267280 ISBN-13: 978-4000267281 2835 [amazon] ※ b

■内容(「MARC」データベースより)
値踏みされ、価値を切り売りされる身体。国家や市場の論理、また私たち自身の欲望は、私たちの身体をどのような利害関心の構造に置くのか。身体を資源と見なし統制しようとするメカニズムと、それへの抵抗の契機を探る。

 編集にあたって
『資源としての身体――身体をめぐるレッスン2』:v‐vi

荻野 美穂 20061222 「序論 身体をめぐるエコノミーの構図」
『資源としての身体――身体をめぐるレッスン2』:vii‐xiv

I 運用
◆荻野 美穂 20061222 「産む身体/産まない身体――生殖管理のテクノロジーとジェンダー」
『資源としての身体――身体をめぐるレッスン2』:3‐26
◆三浦 展 20061222 「働ける身体/働けない身体」
『資源としての身体――身体をめぐるレッスン2』:27‐52
市野川 容孝 20061222 「隔離される身体」
『資源としての身体――身体をめぐるレッスン2』:53‐77
加藤 秀一 20061222 「性的身体ノート――〈男語り〉の不可能性から〈新しい人〉の可能性へ」
『資源としての身体――身体をめぐるレッスン2』:79‐105

II 配分
香西 豊子 20061222 「バンキングと身体――日本における血液事業の展開から」
『資源としての身体――身体をめぐるレッスン2』:109‐132
粥川 準二 20061222 「人体資源利用のエコノミー」
『資源としての身体――身体をめぐるレッスン2』:133‐158
柘植 あづみ 20061222 「卵子・胚・胎児の資源化――何が起きようとしているのか」
『資源としての身体――身体をめぐるレッスン2』:159‐183
美馬 達哉 20061222 「生かさないことの現象学――安楽死をめぐって」
『資源としての身体――身体をめぐるレッスン2』:185‐212

III 西川 祐子上野 千鶴子・荻野美穂 20061222 「〈鼎談〉 女が老いる、ということ」
『資源としての身体――身体をめぐるレッスン2』:215‐248


■要約(*ほぼ抜き書き)

荻野美穂, 20061222, 「産む身体/産まない身体――生殖管理のテクノロジーとジェンダー」.荻野美穂編『身体をめぐるレッスン2 資源としての身体』岩波書店:3-26.

はじめに
 本稿では、生殖を計画的に管理し調節するための具体的な手段として開発された経口避妊薬ピル(以下、ピル)に注目する。

一 ピル開発の歴史と文脈
 性を生殖から切り離す避妊という行為が「いかがわしい」とされていた当時、製薬会社も科学者も、そのような領域にかかわろうとはしなかった。
 サンガーは、第一次大戦期以降、国際的に避妊知識を広めるための活動を展開してきた。その過程でバース・コントロール運動の重点は、初期における女の身体的自決権の主張から、社会の中の「健全な」部分には計画的な出産をうながすとともに、心身に障害をもつ人々や貧困層のような「質的に劣る」と目された人々の繁殖をいかに抑止することができるか、という方向へと移行していき、一九四○年代には運動自体の名称も「家族計画」へと転換された。一九五一年、サンガーは内分泌学を専門とする科学者グレゴリー・ピンカスに接触して、万人向きの避妊薬の開発を依頼した。このようにしてピル登場への道は、医学アカデミズムや製薬業界の中心からは離れたところで、二人の女性がイニシアティヴをとることによって開かれたのである。
 一九五六年、ピンカスは、ピルが将来使用されるはずの「低開発国」のプロトタイプとしての条件を備えていると考えられたプエルト・リコにおいて臨床実験を行った。これはホルモン剤の副作用のためもあって、三年間にすべての被験者が入れ替わるという結果になった。が、実験の成功という印象を与えるよう記述方法が工夫され、アメリカ食品医薬品局(FDA)は一九六○年、ピルを避妊薬として認可し、発売されたのである。

二 ピルへの期待と現実
 先進国の中産階級以上の女たちはピルを、生物学的宿命から解放してくれる夢の薬として歓迎した。アメリカでピルがこのように受け入れられたのは、中絶が合法化されていないことによって女たちに潜在的ニーズがあったこと、性に対する社会意識の変化、ピルが医師による処方薬であったことなどが考えられる。医学界はピルを医師に経済的利益をもたらすだけでなく、避妊や家族計画の領域を科学化し、医師の権威と支配力を高めるものとしても歓迎したのである。
 しかし途上国では、一九六○年代半ばから国際家族計画援助の一環として、無料で、あるいは安価にピルが供給されたにもかかわらず、その消費量の伸びは低かった。
 ピルが広く受け入れられた先進国においても、安全性をめぐる議論が巻き起こった。この頃からフェミニズム運動の一環としてさかんになった女と健康運動は、ピルについて、効果的な避妊と引き替えに女の身体を医師や製薬会社の管理下に取り込み、女だけに新たな健康上のリスクを引き受けさせるものととらえ、ピルはけっして女にとっての「第一選択」ではないと批判した(ボストン女の健康の本集団 一九八八、二○三頁)。
 こうしてピルは、妊娠をたとえコストを払っても完全にコントロールしなければならない「病気」や「災厄」の一種と見るのか、あるいは妊娠は本来ノーマルな出来事で、ピルは体の自然なサイクルを抑止するだけでなく、不必要なリスクをもたらすものと見るのかという、テクノロジー利用のリスクとベネフィット、あるいは女の身体のエコノミーをめぐる個々人の価値観のあり方が問われる問題となったのである。

三 避妊のカフェテリア?
 一九七○年代になると、国際的な人口・家族計画組織の関係者や科学者たちは、どこでも使える万能の避妊法という考え方の失敗を認め、IUD(子宮内避妊具)、ホルモン注射法(商品名デポ・プロヴェラ、NET―ENほか)、ホルモン皮下埋め込み法(商品名ノアプラント)、その他さまざまな方法を用意してそれぞれの地域や個人の事情に合わせて選べるようにする、「カフェテリア・スタイル」へと方針を転換した。だが、その過程で新たに登場した避妊法の多くには共通した特徴があった。すなわち、第一にほとんどすべてが女を対象としていること、第二に単純で局所的なバリヤー法よりも、ホルモンや体の免疫システムを利用した、科学的で全身的に作用する方法が多いこと、第三にユーザー自身の意思や協力にかかわりなく避妊効果が持続し、ユーザーによるコントロールが難しい方法が追究されていること、第四にユーザー自身の使い心地や健康、安全性よりも、避妊効果の高さと確実性が重視される傾向があること、である。
 新しい科学的避妊法に対する女性運動の見方は、総じて批判的である。それは、これらの避妊法の開発にあたっては当事者である女たちの意見や希望が考慮されず、製薬会社や科学者・医師が開発の決定権を握っていること、女を対象にした方法ばかりが研究され、男性用の避妊法開発には不熱心であること、女の健康や生命を危険にさらしても効果をあげることが優先され、ユーザー自身がコントロールできない方法ほど望ましいとされること、さらに、正しいインフォームド・コンセントぬきに、社会的弱者集団を狙って臨床試験が行われていること等々の理由による。すなわちテクノロジーの設計そのものの中に、女にとって危険な濫用へと至る要因が構造的に組み込まれているというのである。

四 「ピル後進国」日本の謎
 日本では、敗戦後間もなく、人口過剰問題とからんで制定された優生保護法によって中絶が事実上自由化され、出生率の急速な引き下げに大きく貢献した。さらに一九五○年代半ば以降は、家族計画の名のもとに避妊技術の家庭への普及が進められ、夫婦あたり子どもは二人かせいぜい三人という家族のあり方が規範化していった。その過程で、産婦人科医にとっては中絶が、日本家族計画普及会(現・日本家族計画協会)や、助産婦を中心とする受胎調節実地指導員などの家族計画関係者にとってはコンドームの販売が、それぞれ重要な収入源となり、これらがピル導入に対する牽制要因となった(荻野 二○○三)。さらに日本の家族計画運動は、たんに「産ませない」ことを目的としていたのではなく、計画的な出産を通じての「健全な家庭の育成」を重視していた。そのため、夫の避妊への協力が不可欠なコンドームと違って、女が飲むだけのピルは、啓蒙的な「文化運動」としての家族計画の意義を脅かすものとしても、否定的にとらえられた(松本 二○○五、一四一頁)。こうした要因にピルの副作用への懸念や出生率低下問題等も加わって、当初は早期認可を考えていた行政側の姿勢も一九六○年代半ば以降は消極的となり、認可は先送りされていったのである。
 日本の女たち、とりわけ当時のウーマン・リブが、ピルを「女に主体性をもたらす魔法の薬」とは考えなかった。

五 ピルがもたらしたもの
 ピルというテクノロジーには、当初から解放と管理の二重の意味がつきまとっていた。確かに欧米諸国にかんするかぎり、女だけで避妊のできるピルの登場が、女の人生における自己決定や主体性の確立を容易にし、女の解放と社会進出に大きく貢献してきたことは事実であろう。その一方で、ピルの登場は、避妊、さらには生殖管理全般の科学化と専門家支配の強化への呼び水となった。それは、妊娠するかしないかは運や偶然にゆだねられるべきものではなく、個人の意思で選択し、責任を持って管理すべきことがらであり、それを可能にするのが科学技術であるという、「意思的な妊娠」イデオロギーの成立であった。そしてこの論理の延長線上にあるのが、産まないことだけでなく、産むことをも完全な意思的管理のもとに置こうとする、生殖補助医療技術の発展であるといえよう。
 また、ピルの開発は、生殖が両性の関与が不可欠であるにもかかわらず、男は生殖管理の領域では「産まない身体」として不可視化され、「産む身体」とは女(のみ)の身体であるという、ジェンダー化された生殖観が強化されていった。


◆三浦展, 20061222, 「働ける身体/働けない身体」.荻野美穂編『身体をめぐるレッスン2 資源としての身体』岩波書店:27-52.

一 フリーター、ニートの心と身体
 就職しない若者が増えた理由は、雇用環境だけでは説明しきれない。そこには若者自身の変質がある。若者が知らず知らずのうちに、働くことが苦手な心と身体を持つ人間へと変質していったのではないか。
 そうした問題意識から、私は、二〇〇六年四月に全国の男性一万人(二〇―四四歳。学生を除く)を対象にアンケートを行い、仕事、生活、消費、結婚、女性などについての意識と行動を調査するとともに、心と身体についての質問をいくつかしてみることにした。

二 過去二〇年間で低下した青少年の体力
 その結果を見る前に、文部科学省が行った「体力・運動能力調査」の結果を概観する。
 おおまかにいえば、一九六〇年代から八〇年代にかけては、体格の向上と並行して子どもたちの体力も上昇していた。ところが、その後二〇年間は、体力が確実に低下しているのである。
 一九八〇年代はファミコンが登場し、九〇年代以降は、パソコン、インターネット、携帯電話などの電子機器の普及によって、子どもが身体を使わないで時間を過ごす傾向が強まった。そうした生活環境の変化が、子どもの体力を低下させた最大の要因であることは間違いないだろう。

三 階層意識が低いほど心身に自信がない
 私の調査の結果あきらかになったのは、低所得、非正規雇用の男性のほうが高所得、正規雇用の男性よりも体力、コミュニケーション力に自信がないという事実である。

四 就業形態別
 心身の状態と職業には何らかの相関がありそうであり、また特に三〇歳前後の世代にその傾向がより強い可能性があると考えられる。また、社会経験は必ずしもコミュニケーション力を向上させないようである。

五 未婚者ほど自信がない

六 年収と対人能力との相関
 心身の状態がよい人間ほど年収が高いことが驚くほど明らかである。性格についての自己診断でも、年収が高い人ほど対人能力に自信がある。
 なお、学歴による心身の状態の違いはほとんど存在しない。

七 就業形態と身長
 興味深いことに、身長には就業形態と一定の相関がある(就業形態以外との相関はない)。背が高い方が雇用されやすく、正規雇用の場合、早く出世しやすい。

八 子どもを社会化する環境の喪失
 雇用環境の変化以上に長期的に問題なのは、そもそも現代社会においては、社会生活を営む上で必要な心身の能力が、子ども時代に自然な形で形成されにくいということである。
 コミュニケーション力とか対人能力というと、積極的に自分を表現する力のことばかりが頭に浮かぶが、いわば「話す力」に対して「聞く力」という受動的なコミュニケーション力もまた人間にとっては非常に重要なのではないだろうか。
 現代の社会は、それらの能力が自然に発達しにくい社会になっている。そして、そこにも格差の問題が横たわる。身体的能力もコミュニケーション力も、お金があればよりよい形でのばしていくことができるが、お金がないと能力は潜在したままで終わるという新しい格差が生まれる危険性にわれわれは今直面しているのではないか。


市野川容孝, 20061222, 「隔離される身体」.荻野美穂編『身体をめぐるレッスン2 資源としての身体』岩波書店:53-77.

一 ある意見陳述
 ある一群の人びとを、他の人びとから遠ざけ、特殊な空間の中に閉じ込めること。あるいは、閉じ込め続けること。隔離という、身体管理の技術は、ハンセン病者以外にも実践されてきたし、今でもそうだ。精神病院がそうであり、刑務所がそうであり、ハンセン病以外の伝染病―例えば「チフスのメアリー」(金森二〇〇六)―がそうであり、さらに言えば、ナチがそこでユダヤ人の絶滅を目論んだ強制収容所がそうである。
 隔離を、啓蒙以前の時代遅れの遺物と見るのは間違いだろう。むしろ、近代社会においてこそ一層、念入りに仕上げられる装置であり、制度なのだと考えるべきではないだろうか。
 この隔離という身体管理の技術は、どのような論理に支えられているのだろうか。―無論、その答えは多数あり、それらが複雑に絡まりあって、隔離というものが正当化されてきたに違いないが、以下では、人口という眼差し、安全性という論理、そして国民という身体、の三つに焦点をあてて考えることにしよう。

二 人口という眼差し
 公衆衛生は無論、医療の一部門だが、それは通常の医療と少々、異なる面を有している。
 公衆衛生の能動的主体は、当事者でも、その依頼を受けた医療専門家でもない(集合的な)第三者―「コミュニティ」や「社会」―である。そして、この第三者が、その健康や福祉が問題となる当人からの直接的要請を要件とせずに、一連のサービスを提供する。そのための財源も(部分的自己負担を除けば)個々の受益者から直接に徴収されることはない。これにより、人びとが無料に近い形で利用可能な公共サービスが提供されるという面が確かにある。しかし、その反面、場合によっては、当事者の意に反した強制や介入がなされることも事実である。日本で明治期から公衆衛生の一つとして実践されてきた「らい予防」は、その典型と言ってよいだろう。
 一四世紀半ばにミラノ大公のG・G・ヴィスコンティ(Gian Galeazzo Visconti一三五一―一四〇二)がとった方策、一六〇四年制定のイギリスの「疫病法」、これらの疫病対策が、感染者一人一人を気づかうものでないことは明らかだ。それがまず第一に守ろうとしたのは、まだ感染していない健康な人びとの利益であり、そのためには、すでに感染した者の健康や生命を犠牲にすることさえ勘定に入れられているのである。
 公衆衛生が照準しているのは「人口」という集合体であり、一人一人の人間が問題となる場合でも、それはこの集合体という観点に照らしてである。

三 安全性という論理
 精神疾患が、安全性(治安)の問題と関係づけられるのは、何もフランクの時代に限ったことではない。いやむしろ、フランクの時代から今日に至るまで、そのような議論は絶えたことがないと言うべきだろう。
 しかしながら、安全性を下敷きにしたポリツァイの論理に対しては、すでにフランクの時代から異論が出されていたという点に注意しよう。すなわち、フランクの医療ポリツァイは、プロイセンのフリードリッヒ二世やオーストリアのヨーゼフ二世が展開した啓蒙専制主義の一翼を担うものだったが、カントやW・フンボルトたちは、この啓蒙専制主義をパターナリズムとして批判しながら、自由主義と呼ばれる思想の基礎を築いていった。
 しかし、カントとフンボルトの説く自由もまた、安全性の論理から完全に自由であるわけではなかった。自由主義は、安全性の論理に加えて、自律性というもう一つの論理によって、隔離を二重に正当化しさえするのである。
 自由と自律性は、ある円環を形づくる。人間は自律的である、つまり自分で生活の秩序を維持できるがゆえに自由を与えられなければならないのだから、自律的たりえない、つまり他人の理性に依存しなければならない人間に自由を与えることはできないというわけだ。そして「癲狂院」は、この円環から完全に締め出されていく。

四 国民という身体
 一九三一年の「癩予防法」は、一九〇七年の「癩予防ニ関スル件」と異なり、在宅の患者をも強制隔離の対象とした。それは、家族という親密圏を切り裂き、そこから身内―これはきわめて日本的な表現であり、確かに西洋語でも、ラテン語のcorpus(身体)に由来する言葉(英語のcorporation等)が団体や組織を意味するにしても、それらが何よりもまず家族や血縁関係を意味するということはない―である患者たちを力尽くで奪いとっていったのである。それは、たとえて言えば、生ける身体から臓器を摘出することにどこか似ている。それまでの隔離が、すでに家族を失った人びとを主たる対象としていたとすれば、三一年以降の隔離は、家族という親密圏に深く介入していくことに、その本質があったと言えるだろう。
 一九三七年五月の『國體の本義』、一九四〇年八月の『臣民の道』によって、国家を家族に引き戻しつつ強化しようとする家族国家という装置は、しかしながら、矛盾を抱え込んでいた。一九四〇年に、設立間もない厚生省が、ナチの断種法を範として「国民優生法」を制定するが、これに対して保守派の議員は、たとえ病気や障害ゆえに断種が「公益上」必要であろうとも、断種によって子種を断ち、その結果、家が絶えるようなことを、家族国家たる大日本帝国が法律で認めるとは一体、何ごとか、と強く反対したのである。
 ハンセン病者に対する優生手術も含めて、優生政策が日本で本格化するのは第二次大戦後であり、優生手術の件数を一つの指標とするなら、そのピークは一九五〇年代前半から半ばにかけてである(市野川 二〇〇二)。他方、五三年に制定された「らい予防法」もまた、家族という身体を切り裂き、ハンセン病者を療養所に閉じ込める強制隔離という刃と鎖を失効させはしなかった。
 一九五〇年代は、日本で国民という身体が、家族国家というキメラ的イデオロギーから解放されつつ、本当の意味で呼吸し動き始める、そういう時代だったのではないだろうか。


加藤秀一, 20061222, 「性的身体ノート――〈男語り〉の不可能性から〈新しい人〉の可能性へ」.荻野美穂編『身体をめぐるレッスン2 資源としての身体』岩波書店:79-105.

一 〈男語り〉の不可能性
 近代における告白とセクシュアリティとの関係をめぐるミシェル・フーコーの批判的研究以降、自己について語ることは素朴に推奨されうる態度ではなくなった。
 「男」について語ることはそれ自体がすでにステレオタイプ化への傾斜を免れえない以上、ただ語ればよいというものではない。男において「自己」であることと「男」であることは、客観的にも主観的にも度し難く癒着しているのだが、その双面の事実を引き受け、みずからのポジショナリティに敏感であろうとすること―すなわち、何を言っても「男だから」と批判されることを知った上で、その原理的な正当性を甘受しつつ、なお性差別への批判とフェミニズムへの批判を率直に言うこと―は、しかし「自己」を「男」に積極的に結びつけ、男として語ることとイコールではない。
 ただしこのように言いうるのは、「自分の身体」でさえも実際には客観的対象という資格でとりあげられる限りにおいてのことだ。それでは客観的対象ではない、ある自我にとって世界把握の道具であると同時にみずからがそこに住まう場所であるところの身体についてはどうだろうか。仮に前者を〈三人称の身体〉、後者を〈一人称の身体〉と呼ぶならば、筆者に求められている課題は〈男の一人称の身体〉について書くことであるに違いない。
 だがそのとき、僕はそれを男として、一人称で語ることはできない。男である〈私〉が、男として、男ならではのやり方で、男の身体について語ること―それを〈男の身体語り〉、あるいはさらに簡略に〈男語り〉と名づけておこう―は不可能である。その理由は簡単であり、仮に語り手が男であるなら、女の身体について一人称で語ることはできない。だが、しばしば忘れられてしまうもう一つの帰結として、〈私〉が女として語りえないのならば、女であることとの比較において男の身体性の特性について、あるいは両者の差異について―これらは必ずしも同じことではないが―語ることもできないということだ。ある人が真に特権的に語りうるのは、いかなる比較にも先立つ直接的な身体経験だけだ。

二 アイデンティフィケーションとしての〈男語り〉
 アイデンティティ構築の仕掛けについて語ることと、〈一人称の身体〉について語ることはイコールではない。アイデンティティの水準における〈男語り〉において指示されているのは、じつは「男」という言語カテゴリーに媒介され浸食された客観的身体であり、三人称の身体だからである。
 このことは、アイデンティティが、身体感覚やその表象と無縁であるということを意味しない。言語的したがって社会的に媒介されたアイデンティティは、いったん成立すれば、自然的態度における自我にとっては身体感覚と区別することができないまでに深くそれを浸すことがある。
 言語的に媒介されたアイデンティティの受肉化を、アイデンティティが媒介なしに身体の内部に起源するということと取り違えてはならない。むしろそのようなアイデンティティの受肉化・身体化において忘却されるもの、それこそが〈一人称の身体〉なのである。それゆえ〈私〉が〈一人称の身体〉における経験を語るためにまず何よりも必要なのは、〈男語り〉を止めることである。

三 〈一人称の身体〉への遡行
1 身体の両義性
 人間の「感覚する身体」(sentient body)の行動は、その身体そのものによって知覚されたかぎりでの環境という視点から理解されるべきものである(ジョン・オニールはこれを「コミュニケーション的身体」と呼んでいる(ONeill 1985=1992:16-25))。この課題を遂行するものこそが現象学的身体論にほかならない。それはわれわれの身体がそれを知覚し、関わるところの世界を記述するとともに、そのような知覚と実践とを構成するわれわれの身体の権能をも記述する。そのような体位図式(postural schema)および身体像(body image)の経験をあるがままに記述すること、それが現象学的な意味における〈一人称の身体〉の記述なのである。
2 メルロ=ポンティにおける「性」
 性(別)に関連づけられる経験は、具体的な実存としての人間にとって不可欠のものであるに違いない。だが、一個の人間において、その客観的身体に属するすべての器官は、進化論的および発生生物学的観点からは最終的には偶然的なものであるが、現象学的身体においてはすべてが必然的なものであり、したがって本質的なるものはない。実存は「男」でも「女」でもないのである。
 もしも人が自分の〈身体〉を取り替えたいと欲望するならば、それは他人の身体と比較しているから、すなわち他人の目を媒介として自分の身体という対象を眺めているからだ。それはすでに客観的対象としての身体であって、〈私〉と根源的に一体である〈一人称の身体〉ではない。同じように、「己れの意識の中心に立ちかえってみれば」、私は私自身にとって「男」でもありえない。

四 『知覚の現象学』の先へ、あるいは手前へ
 問題の一切はここから、すなわちメルロ=ポンティの、あるいはメルロ=ポンティ的な議論が立ち止まった地点から始まるとさえ言うべきだろう。問いの矢は相対立する二つの方向へ進められねばならない。一つはここまでの行程を逆向きにたどり直す方向、もう一つは現象学者メルロ=ポンティがめざしたはずの方向へ、さらに遡行していくことである。
1 受肉としてのアイデンティティ
 メルロ=ポンティが先駆的決意と落態といった序列を密かに操っているのではなく、ただありありとした事実性の水準において、望まぬ死に際してさえ人間は自由であると述べるなら、己れに耐ええず、それゆえその強靱さを驚かれることもない人々の存在仕方もまた、「耐ええない」という欠如態としてではなく、実存のありのままの姿態として分析されねばならないのではないか。それほどまでに身体性と化合したアイデンティティは、すでにそれ自体が身体性であり、生きられた経験ではないのか。
2 性の形而上学へ
 性は実存にとって世界の一部なのか、それとも世界そのものの形式なのか。誕生と死はどうか。「性」の起源へと向かう問いは、個体の誕生と死を包む「世代性」の問題、したがって現存在の有限性を輪郭づける誕生と死という世界形式そのものの問題に連なっているはずだ。―このような、なお散漫な数々の問いがより洗練され、そこに向かって収斂されるべき地点を、「性の形而上学」と呼ぶことができる。

五 身体そのものへ!
 かつて在ったものの再生・反復と「新しい人」の顕現という二項対立の壊乱―そのような別の思考の可能性は、己れの一回性をどこまでも守り抜こうと決意する個にとっては、生殖を通じた〈全体性〉への奉仕か、それともそれを避けるために性/生殖を拒否するかという二者択一とは別の実践の可能性でもある。〈私〉が一個の〈性的身体〉であることの意味を明らかにするという企ては、そのような場所にはるかに通じるはずの、終わりなき探究である。


香西豊子, 20061222, 「バンキングと身体――日本における血液事業の展開から」.荻野美穂編『身体をめぐるレッスン2 資源としての身体』岩波書店:109-132.

はじめに
 この小論では、骨髄や角膜など、数ある人体のバンクのなかでも、最も古くから存在する血液のバンクに注目する。

一 血液銀行の歴史的支点
 日本の血液事業は現在、「安全性・安定供給・倫理性」という旗印のもと、バンクをとおして血液製剤を取り回している。だが、その歴史をひもといてみれば、それがある時期までは、ドナー(供血者)とレシピエント(受血者)とのあいだで対面的に血液の授受をおこなう形式をとっていた。その転換のきっかけは、通例、一九四八年、世に言う「東大病院・輸血梅毒事件」(以下、「東大梅毒事故」と略す)に求められる。この東大梅毒事故はその後、医事法学の分野において、「日本における医療訴訟の検討がこの輸血判例をかえりみずしてはなされ得ないことは、いうまでもないであろう」(唄孝一「輸血過誤の研究序説 ― 不適合輸血を中心として(一)」『社会科学研究』一八巻二号、一九六六年、三頁)として、参照され続けることとなった。医事法学のテキストでは、現在でもなお、問診という手続の義務が確認された事例として言及されている。
 しかしながら、この事故をのちの血液事業の支点となる「事件」たらしめたのは、事故当時において、梅毒を数値や視覚的な像として読み取りうる検査技法がなかったからに他ならない。そうであってみれば、東大梅毒事故の「悲劇」というのは、事故が起こったことにも劣らず、同様の事故がそれ以前に「事故」として、社会的に問題とされてこなかったことにあるだろう。日本での輸血による梅毒感染事故は、医学の文献上にあらわれただけでも、二〇例はあった。しかし、それらは幸か不幸か、医学の領域内で処理されてしまう。輸血による感染事故のはらむ問題が、訴訟というかたちで社会性の場へと接続されるのは、ようやく戦後になってからであった。
 この事故を通して、社会は「感染させられる身体」を見出すこととなった。血液の孕む疫学的な不透明性のゆえに、輸血という処置は、ドナーの問題をレシピエントにまで流れ込ませてしまうことが明るみに出たのだ。では、そうして現れる露骨な感染にどう対処するか。日本の血液事業の「歴史」は、この問題を始点=支点として、具現化してゆくのである。

二 日本の血液事業
 東大梅毒事故が発生した一九四八年、GHQは厚生省や東京都に、血液をいったん保存し、その間に種々の検査を施せるよう、血液銀行の設立を促した。これを受けて厚生省では、日本赤十字社(以下、「日赤」と略す)を中心に血液事業を展開していくことに決する。一九五一年に、売買血方式をとる民間の血液銀行が設立されたのを皮切りに、日赤や病院の院内血液銀行など、血液銀行業務をおこなう機関は全国に設立されていった。
 患者が輸血により梅毒に感染する事故を受けてはじまっただけに、血液銀行の使命の第一は、〈安全〉な血液を供給することとされた。
 ひとくちに血液銀行と言っても、その採血方式には大別して三通りのものがあった。「売血」・「預血(返血)」・「献血」である。そして、この三つの方式のうち、当初から圧倒的な採血量をあげていたのは、売血だった。
 一九五〇年代当初より、保存血液はほぼ一〇〇%が売血方式にもとづく制度により取り回されるのが常態だったが、六〇年代半ば、売血がにわかに輸血製剤の場から姿を消して、一転、献血制度が大々的に整備されはじめる。この劇的な変容を、当時の社会運動や血液事業に対する政府の施策の成果とする通説に大過はなかろうが、それを「献血思想」なるものの発現と捉えたり、既存の日赤の制度がそのまま拡大したように解したりするのは、誤りである。というのは、民間血液銀行が全血製剤の分野で売血方式をとらなくなったこと、この時期に統計につかわれている「献血」が預血的意味合いをおびたあいまいなものであったということがある。また、それでは、採血方式と血液製剤の品質とが同列に論じられ、問題視されるようになったのかが見えなくなる。
 一九六〇年代、売血の非が説かれた際、供血者の健康問題と保存血液の品質の低下問題の二つが論拠とされた。そのうち、「黄色い血」と呼ばれる供血者の健康問題は、いわば血液事業とともに常に存在していたのであり、六〇年代にもち上がった議論のうち、血液事業の再編に効いていたのは、輸血用血液製剤の品質低下であったといえよう。
 〈安全性〉という要請と献血方式との結びつきは、一見して見取れるほど直截的なものではない。そこには、みずから進んで供血をする者の血液が安全でないはずはないという信憑が、しだいに制度化されていくことになったのである。献血による「善意」の血液は、とくにキャンペーンなどでは、患者への「贈り物」として語られることが多いが、そうした意味論が派生する基盤には、それを〈安全性〉に資するものとして効用の面から捉える、社会医学的な言葉があったことは、記憶されおくべき事実である。
 そして、反対給付の側面をもっていた預血制度も、また徐々に廃止される方向へとむかい、献血制度は唯一の形態として整備されていった。
 供血を、人々の移り気な「善意」にまったく依存したのでは、血液製剤を必要とする患者が危険にさらされる。〈安定供給〉の装置を組み込んだかたちで、献血制度を構築するかという課題に対しては、およそ三つの動きが見られた。一つは、採血場の拡充、および日赤によるそれらの一括管理体制の整備である。もう一つの動きは、預血方式の部分的採用である。三つ目の動きは、国の血液事業に対する財政政策の転換である。こうして〈安定供給〉という要請は、「善意」の制度を立ち上げるなかで応えられることとなった。
 〈倫理性〉という旗印にしても、血液事業の場には、「感染させられる身体」への配慮として、もっとも後になって登場したのだった。そして、それらの結びつきが献血に内在的なものではないという事実性は、血液事業に付随する矛盾として、現在でも時おり現れている。

おわりに ― バンクのなかの身体
 東大梅毒事故のほぼ二〇年後にあたる一九六〇年代前半には輸血による肝炎感染が、さらに一九八〇年代前半には、血漿分画製剤を介したHIV感染が問題となったように、その時々の制度が保障する〈安全性〉が臨界に達するたびに、「感染させられる身体」が浮上している。
 血液事業の「悲劇」は、のちの制度設計の参照点とされた。また、臓器移植に関する諸規則・法律のなかで、非営利性が担保されているのも、その系譜をたどれば、「黄色い血」の教訓によるように、隣接領域にも多大な影響をおよぼした。
 しかしながら、そうした経緯をへて、ひとびとの「善意」の上に組みたてられてきた現行の制度も、臨界に達しつつあるのは確かである。血液事業はいま、厳として存在しつづけるリスクに対し、それを低減させる方途と、制度ごと放棄する方途とを探っている。前者は、人から人への輸血処置をいぜん前提としたもので、血液製剤(輸血用製剤・血漿分画製剤)の適正な使用、検査および製剤技術の向上、問診の強化などが懸案となっている。それに対し、後者の方向性としては、事前に自己の血液を保存しておきそれを輸血する「自己血輸血」や、「人工血液」・「遺伝子組み換え製剤」などの開発が企図されている。


粥川準二, 20061222, 「人体資源利用のエコノミー」.荻野美穂編『身体をめぐるレッスン2 資源としての身体』岩波書店:133-158.

一 人体の値段
 アメリカの雑誌『ワイアード』二〇〇三年八月号、ジャーナリストのアニー・チェイニーの「死体産業」をあばいたルポルタージュ『ボディ・ブローカー』(邦題『死体闇取引』)は、人体の各部分の値段をリストアップした。この二つの試算は、人体の価値を純粋に金銭的な基準で評価することが可能だと示すことによって、人体がすでに資源もしくは商品としての価値をもちはじめている現実を、きわめてわかりやすく示した。

二 バイオテクノロジーと人体
 バイオリソースのなかでもヒトに由来するもの(臓器、組織、細胞、DNA、個人情報など)を、ここでは「人体資源」と呼ぶことにする。
 人体資源の供給源には生体、死体、死胎がある。
 アメリカの倫理学者ステファン・ウィルキンソンは、人体の「商品化commercialising」の様相を、「物質的/身体的物体physical objects」の商品化、「抽象的物体abstract objects」の商品化、「身体的サービスbodily services」の商品化の三つに分類している。いうまでもなく、物質的/身体的物体は、抽象的物体や身体的サービスと関係ないわけではない。とりわけ「物質的/身体的物体」は、年齢や性別、病歴やさまざまな検査結果、親族の情報といった個人情報、すなわち「抽象的物体」と結びつくことで有用性が高まる(粥川二〇〇六、一四四頁)。
 バイオテクノロジーの研究開発において、その利用目的からおおまかにわけ、必要とされる人体資源を記すと、次のようになる。(1)移植―各種臓器、組織、細胞。(2)生殖補助―精子、卵子、受精卵(胚)。(3)遺伝子治療―遺伝子(DNA)。(4)遺伝子診断―塩基配列情報。

三 人体の価値
 アメリカの法学者リチャード・ゴールドは、身体の「価値」と、その「評価」の方法(あり方)に着目し、バイオテクノロジーにおけるゴールドの呼ぶところの「財産言説property discourse」と、身体に対する伝統的な評価方法とは異なる。
 人体の評価方法は多様である。バイオテクノロジーのインパクトは、その評価方法の再考をうながすにとどまらず、「身体やその構成要素を商品として評価するための環境をつくり出す」(Gold, op. cit.:2)。
 臓器、組織、細胞、遺伝子など人体資源の提供は、少なくとも日本では無償で行なわれている(ことになっている)。しかし、無償だからといって、その行為が経済的な価値評価、すなわち人体の商品化・資源化と関係がないとは思えない。現在、人体資源と金銭の非対称的な流れがつくられつつあるということは事実である。少なくとも、それらを石油や石炭のような「資源」のように扱うという意味で、「資源化」と呼ぶことはできるのではないか(粥川二〇〇五b)。

四 臓器移植法改定
 一九九七年に施行された「臓器の移植に関する法律」(臓器移植法)は、二〇〇六年六月現在、改定が議論されている。あまり表立って言及されていない論点として、臓器移植法はその第九条で「移植術に使用されなかった部分の臓器を、厚生労働省令で定めるところにより処理しなければならない」と定め、その厚生労働省令(施行規則)第七八号第四条では処理作業を「焼却して行わなくてはならない」としている。そのため、ヒトの臓器や組織をもちいた研究はすべて欧米からの供給に頼っているという現状がある。やはり臓器移植法の改定が議論されていた時期である二〇〇四年一二月二七日、複数の学会や団体が共同で「移植不適合臓器処分のあり方についての要望書」をまとめ、厚生労働大臣宛に提出した。この背景には次のようなシナリオがあった。
 臓器移植法施行から約二カ月後の一九九七年一二月、小泉純一郎厚生大臣(当時)の諮問を受けて設置された「ヒト組織を用いた研究開発の在り方に関する専門委員会」は、一九九八年七月に最終報告書をまとめ、八月、その上部組織の先端医療技術評価部会に承認された。「黒川答申」と呼ばれることもあるこの報告書「手術等で摘出されたヒト組織を用いた研究開発の在り方について「医薬品の研究開発を中心に」」は、はっきりとこう述べている。

移植不適合臓器については、現行法上、研究開発に利用することは不可能であるが、臓器移植法の見直しの際には、諸外国と同様に、それらを研究開発に利用できるよう検討すべきである。

 つまり、シナリオは少なくともこの時点ですでに描かれていたのである。そのシナリオの先に、前述の要望書がある。

五 シナリオへの抵抗
 薬害エイズに代表されるような企業や行政のモラルハザードの頻発を考慮するならば、提供者からの無償提供に釣り合うだけの責任を、彼らは深く問われるべきである。そしてその利益の社会還元について、財産言説によって失われるかもしれないものについて、もっと踏み込んで議論するべき時期がきている。問うべきは、人体資源利用の経済構造なのだ。
 僕たちにできることは、周到に用意されたシナリオ通り役割を演じることだけではない。


柘植あづみ, 20061222, 「卵子・胚・胎児の資源化――何が起きようとしているのか」.荻野美穂編『身体をめぐるレッスン2 資源としての身体』岩波書店:159-184.

個人的体験
 「材料と方法(Material and methods)」。それは自然科学の論文には必須の項目である。
 生物学を学ぶ学生だったときに、ある論文の「材料と方法」に「ヒト胎児の培養細胞」と記されているのに衝撃を受けたことがある。教授に尋ねると、少し皮肉な調子で「人工妊娠中絶はものすごい件数が行われているから」というような答えが返ってきた。「中絶した人は、中絶した胎児が実験材料にされることを知らされていたのだろうか」という疑問を抱いたが、それは質問しなかった。質問しない方が良いと思った。一九八〇年代のはじめである。
 同じような体験がもうひとつある。その数年後、ある研究所でアルバイトをしていたときに、隣接する関連病院において手術で切り取った臓器の一部分を、実験材料として培養するために「もらってくる」役目をまかされた。その時も「手術を受ける人は、その細胞が実験材料として培養されることを知っているのか」と質問したかったが、しなかった。日本ではやっとインフォームド・コンセントとか患者の権利について議論されはじめたころであった。
 二〇年を経たいまでも母の手術が気にかかるのは、予防という名目で卵巣を切除したこと、夫の代諾であって本人の承諾ではなかったこと、そして私自身がそのときに何もできなかったためなのだろうが、もうひとつ、それが卵巣であったこと(思えば母はまだ四〇代だった)が大きい。

体外受精が拓いた材料化・資源化
 世界で初めて体外受精によって子どもが生まれたのは一九七八年、日本では一九八三年である。不妊の人々の「福音」と表現されたこの出来事は不妊治療の新たな幕を開けた一方で、女性を研究材料の供給源として扱うことを正当化した。不妊治療技術の進展のためという名目ができたからである。
 日本でも一九八四年、女性が材料の供給源にされていた事件が報道された。「病気摘出の卵巣を集め無断で受精実験 〔昭和〕五六―五八年徳島大」(朝日新聞東京版、一九八四年三月九日朝刊)、という見出しの記事が出された。奇しくもその隣には「四人目の体外受精児 市川東歯大病院〔東京歯科大市川病院〕で男の子」という記事がある。医師は卵子または卵巣を「本人の同意なく」「人為的に受精させて」「研究に用いる」ことのいずれについても、研究者が日常的に行っていることであり、問題はなかったと弁明している。
 徳島大学の医学部は、一九八二年に日本で最初の倫理委員会を設立しており、体外受精実施においても倫理的な手続きを踏むように整備していた(武藤ほか 二〇〇五、二八頁)。いわば、日本のIRB(施設内研究審査委員会、日本では倫理委員会と読んでいる)のさきがけである。

卵子・受精卵の使い途
 現在、卵子および受精卵の使い途としては、(1)不妊治療や生殖医療に関する基礎研究の実験材料として、(2)不妊治療における第三者からの提供卵子や受精卵として、(3)ES細胞研究やクローン研究などの再生医療研究の実験材料、および将来的には医薬品や研究用・移植用の臓器・組織を作る資源として、などが挙げられる。女性の体外に出された卵子や受精卵は、その使途により、規制の方法、内容や手続き、管轄などが異なる。

死亡胎児は廃棄物か資源か
 廃棄物や「棄てられるはずだったもの」という認識は、研究者が卵子や受精卵、胎児を材料・資源とみなすことに一役買っている。
 イギリスは限定的に人のクローン胚の研究を認めている。アメリカは連邦政府による研究への助成は禁止しているが、民間資金による研究が盛んに進められている。韓国では法律によって厳しい条件下での人クローン胚の研究が認められている。人の胚を用いたクローンES細胞研究はドイツやフランスでは禁止されているが、フランスは韓国やアメリカでのクローンES細胞研究の進展に刺激され、〇四年から五年間に限りES細胞の基礎研究のみを許可した。
 議論が対立するのは、宗教的・倫理的な理由に加えて、それが知的所有権や産業利用と密接に関わるからである。気にかかるのは、これらの研究に関する、宗教を含めた倫理的な議論については報じられるが、女性を材料・資源の供給源とすることについては論じられない、もしくは報道されないことである。

インフォームド・コンセントの重要性と限界
 韓国のファン・ウソクらの論文が捏造されていたこと、そして、その研究において膨大な人の卵子が不適切な形で入手されていたことが発覚した。韓国では、二〇〇五年に「生命倫理及び安全に関する法律」が施行されており、クローン人間の産生が禁止されるとともに、ヒト胚の作成・研究利用、遺伝子関連の研究について規制され、人クローン胚の作成・研究は希少病及び難病の治療のための研究にのみ認められている。未受精卵の金銭目的での提供も禁止されている(文科省 人クローン胚研究利用作業部会 二〇〇六)。韓国の事例は、そのような法律が存在していても、医師と患者、研究者間の上下関係、経済的な要因などによって、インフォームド・コンセントの理念は簡単に打ち砕かれることを示し、また、難病患者のためという「美談」や世界初の栄誉というものが、人々の行動を扇動することをも示唆したのである。つまり、インフォームド・コンセントがなされれば問題はないと考えるのは安直であるといえる。

資源化がもたらす不安とそれへの抵抗
 ひとたびES細胞が樹立されてしまうと、それはES細胞として捉えられるようになり、そのもととなったヒト受精卵がどこからどのような手続きで得られたのか、ましてや、女性が、どんな思いから受精卵や卵子を提供したのかは論文には書かれない。まるで、そこに最初から材料として存在するのが当たり前であるかのように。その上で、さらに要求されるのは、材料や資源の品質である。品質の高い材料・資源を入手しようとしたら、その供給源の評価・管理をせざるをえなくなる。つまり女性の身体の管理である。それは、たとえば人口政策においてみられたように、強制という形とともに、奨励といった形でなされる可能性が高い。
 卵子・胚・胎児の資源化がもたらす女性の身体の管理に対する抵抗手段のひとつは、技術の有用性や正当性、倫理性について論じる際に、女性の経験を切り離さないということである。
 しかし、それでも、韓国でまたはアメリカで生じたように、研究利用に自分の身体から卵子をとりだして提供したいという人は現れるだろう。手術で切除した卵巣を研究に使うことに同意する人も存在するだろう。それは自由意志として尊重されるべきなのだろうか。私は、その際に、「なぜ、彼女たちは提供しようとするのか」を理解しようと努力し、そこに存在するジェンダー関係や政治性を不断に検証していく必要があると考える。自発的な提供の意志に干渉するのは「パターナリスティック」であり、女性の「自己決定」を尊重していないと批判を受けるかもしれない。
 それには、こう反論したい。病気に苦しんでいる人を治す研究を進めるため、子どもを欲しがっているカップルを援けるため、お金のため、いずれの理由ももっともなものと受け止められる。だが、ささやかな欲求をかなえることを認め、かなえてあげる行為を称揚する社会・文化に存在する陥穽に注意すべきである。それこそが、卵子・胚・胎児の資源化によって利益を受ける者と犠牲や貢献を要求される者の差異を存続させているのである、と。


美馬達哉, 20061222, 「生かさないことの現象学――安楽死をめぐって」.荻野美穂編『身体をめぐるレッスン2 資源としての身体』岩波書店:185-212.

はじめに
 本稿の目的は、近代医療での多様な「生かさないこと」を検討することを通じて、安楽死や尊厳死を再考することにある。安楽死や尊厳死の問題は、これまで、何が許されるべきかという倫理的規範や法的位置づけと結びつけて議論されることが多かった。しかし、「どうあるべきか」という狭い問題意識から出発することは、現場で「何が起きているのか」の広がりを見失わせることにつながる。ここでは、価値観をカッコに入れて判断停止した上での現象学的なまなざしから、「死に逝くこと」と「生かさないこと」の絡まり合いを見つめることに挑戦してみよう。

汝、生かすなかれ
 臨床の現場での「死に逝くこと」をめぐる患者の自己決定権と「生かさないこと」の間のせめぎ合いはもっと複雑な交渉過程であり、法的権利の確認だけに還元される単純な意思決定ではない。そのことを示す一つの例がスローコードとよばれている事態だ(Gazelle 1998)。医療倫理の立場からは、スローコードは患者の自己決定権を骨抜きにする欺瞞的行為であって許されるべきものではない。だが、明文化された法律の裏面で、このような医師の裁量による「生かさないこと」が行われ続けるというのもまた、臨床の現場がはらんでいる意思決定の複雑さであり、現実の医療実践の姿である。
 スローコードの対象となりやすい病気の患者は、本人の自己決定権ではない理由によって「生かさないこと」が選ばれる三つの主要な理由とほぼ対応しているといってもいいだろう。まず、第一は「生かさないこと」による死は自然な死であるという見方、第二は「生命の質」が低い人間は生かすことに値しないという価値観、第三は「生かすこと」による介入は医学的に無益という見込み、の三つの理由である。

安楽死から尊厳死へ
 「植物状態」での尊厳死について、「生かされているだけの生命と人格を持ったパーソンの区別」や「栄養・水分補給や通常の治療と、人工呼吸などの特殊な治療の区別」や「意識のない患者の意思を誰が代行できるか」などという枝葉末節の問題がしばしば医療倫理において飽きずに論じられている。だが、ここまでたどってきた安楽死と尊厳死をめぐる歴史からわかるように、「植物状態」での尊厳死の最大の問題は、それが本人によるその時点での「生かされないこと」の自己決定ではあり得ないところなのだ。後見人による代行はもちろんだが、たとえリヴィング・ウィルがあったとしても、外部からみて意識のない状態というその時点での本人の意思は、さまざまな法的手続き上の擬制によって推定しているに過ぎない。
 DNRをめぐる議論において、医師の裁量から患者の治療拒否権へというストーリーは、スローコードという実践において裏切られていた。安楽死から尊厳死への歴史において、大量虐殺への歯止めとなるはずだった自己決定という論理は、医療倫理学的ジャーゴン(専門用語)によって「生かさないこと」を権利として追認する手段となっているのだ。
 だからこそ、本稿では、臨床の現場での「生かさないこと」を、自己決定権の発展としての公式的歴史のなかに位置づけるのではない形で再考することが必要なのだ。繰り返すが、そこに見て取ることができるのは、ある患者を前にしたときの「生かさないこと」を正当化するための言説に繰り返し現れるテーマ群、つまり(1)自然死の好ましさ、(2)生きる価値のなさ、(3)治療の無益さの三つである。以下でそれぞれを検討していこう。

創られた「自然死」
 尊厳死や自然死をめぐる言説においては、自然死と医療化された死という現代の社会での死のあり方における二分法と、自然対人為という対概念の二分法とが重ね書きされていることによって、三つの重要な帰結が生み出されている。第一にあげられるのは、安楽死や尊厳死を容認させようとする運動による医療化された死を批判するレトリック(修辞)が、人間的な末期医療の充実を求めるホスピス運動による医療化批判と酷似してしまうという点だ。第二は、尊厳死(やホスピス運動)で使われる自然死という概念の社会的規範としての側面が、死を社会的に意味づけようとする傾向と結びつく点だ(Seale 1998)。第三は、自然死という社会的規範が、医療化された死に対して批判的だとしても、人為的処置としての医療そのものを完全に否定しているわけではないという点に関わる。
 自然死が自然と人為の二分法を使って語られるとき、自然死が特定の価値観に従って創られると同時にその価値観を維持し強化する働きをも持つ社会的規範になっていることが隠蔽されてしまうのだ。

死の権利と死の義務
 どうして、「不治あるいは末期状態の病人」の自己決定権としての死が「生存無価値な生命の抹殺」へと違和感なく接続されていったのか。この点を考える上で重要なのは、死の権利と死の義務との結合はナチスドイツだけに特有なできごとではなかったという事実を認識することだろう。むしろ、歴史的にみれば、それは二〇世紀初頭の科学的な世界観の潮流である社会ダーウィニズムの論理のなかでは、障害新生児の安楽死は死の自己決定と矛盾するものではなく、それと連続するものとしてとらえられていた。

死を待機する ― トリアージの思想
 トリアージ(triage)とは、大規模な災害などに対して限られた医療資源しかない場合に、最大多数の傷病者に最善の医療を施すために傷病者の搬送や治療の優先度を決めることを指している。トリアージというかたちで傷病者を選別するならば、回復の見込みがないと判断された人々に対して救命を打ち切るべきかどうかという「生かさないこと」をめぐる問題が生じることは避けられないのだ。トリアージによる効率的な救急医療には、「生かさないこと」による死への待機という影がつきまとっている。

生かさないことの滑りやすい坂
 一九七八年、「安楽死法制化を阻止する会」(以下「阻止する会」)は、安楽死合法化の問題点を指摘しているが、それは、医療倫理でいう「滑りやすい坂」の議論である(「くさび理論」ともいう)。つまり、古代ギリシャのヒポクラテス以来の「患者に害を加えてはならない」という無危害の原理の例外として安楽死という名の殺人を容認してしまえば、殺害に対する心理的な歯止めが除去され、あるいは、安楽死を正当化する論理が拡大解釈されて安楽死と殺人の線引きがあいまいになり、あたかも坂道を滑り落ちるように、社会的・経済的な理由による殺害や本人の意思に反する殺害が安楽死として行われるのではないか、ということを憂慮しているのだ。だが、ここで批判の対象となっているのは安楽死概念の拡張なのであって、厳密に末期状態での苦痛の除去に限定された安楽死そのものについては肯定も否定もされていないことには注目しておく必要がある。

おわりに
 自己決定権や選択の自由という形式で、普遍的な個人の自由や権利の一部としての「死に逝くこと」が論じられることに対して感じていた違和感を集約させた言葉として、本稿では「生かさないこと」というあまり聞き慣れない語を一貫して使った。「死に逝くこと」の自己決定はあり得ても、他者による「生かさないこと」であれば社会を巻き込まずにはいられないと考えたからだ。
 しかし、生命を語るにあたって、生きるという自動詞と生かすという他動詞を対比すること自体は、あまりに近代主義的な態度だというべきかもしれない。「生かさないこと」を「死に逝くこと」として正当化してきた個人の権利や自由の概念とは異なった方法で、生命に関わる「権利」や「自由」を再定義し、創りかえていくことは果たして可能なのだろうか。


*作成:北村健太郎植村要
UP:20070418 REV:20071227, 20081123,20090802
荻野 美穂  ◇身体  ◇身体×世界:関連書籍  ◇テキストデータ入手可能な本  ◇BOOK
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