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『公共性の法哲学』

井上 達夫 編 20061220 ナカニシヤ出版,396p.


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井上 達夫 編 20061220 『公共性の法哲学』,ナカニシヤ出版,396p. ISBN-10:4779501148 ISBN-13:9784779501142 \3,675 [amazon][kinokuniya] ※ b

■内容(「MARC」データベースより)

巷に溢れる公共性言説の危うさと困難さの問題を、法哲学の観点から解明する。また、多元的社会における公共性が孕む問題の複雑性と困難性を浮き彫りにし、この問題を考察するための思考の道具・資源・触発剤を提供する。

■著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

井上 達夫
1954年生まれ。1977年、東京大学法学部卒業。東京大学大学院法学政治学研究科教授(法哲学専攻)(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

■目次

第1部 公共性とは何か―多元的世界における公共性概念の再定位
 公共性とは何か
 公共性のテスト 普遍化可能性から公開可能性へ
 討議は何故必要か?公共性と解釈的実践
 ほか
第2部 法の公共性―法概念論と法実践論の転換
 公共性の母胎(マトリクス)と革命的法創造
 立法過程における党派性と公共性
 民主的公共性における世論・運動・制度の役割
 ほか
第3部 法における公共性―法価値論の脱構築と再構築
 “性”の公共性 法における社会改革の位置づけ
 教育・子育ての私事性と公共性 権利概念の関係論的再編
 シティズンシップ概念の再編と公共性 外国人の参政権問題を手掛かりに
 自然環境問題における公共性
 死の公共性と自己決定権の限界 奥田純一郎 330-348 cf.安楽死・尊厳死

■引用

◇大屋 雄裕「討議は何故必要か?――公共性と解釈的実践」からの引用
「我々は何故、討議に参加しなくてはならないのだろうか。例えば国家の運営方針や具体的な立法の可否について、みんなで議論して決めるべきだという意見はよく聞かれる。だが何故我々はそんな面倒な作業に関与しなくてはならないのだろうか。あるいは何故それを、我々がやらなくてはならないのだろうか。
 法の解釈という実践も、そのような討議の一類型と考えられることが多い。例えば裁判において我々は、公開の法廷において自己の主張を承認してもらうために法規範・事態の解釈を提示しあうという振る舞いをする。だが、紛争を解決するためにとにかく何らかの帰結を得ることが目的だとするならば、もっと効果的な手段があるのではないか。例えばナポレオンは完全な法典の編纂によって解釈に関する紛争をなくすことを目指したし、ヒトラーは無制約な権力を持つ指導者への服従によって資本主義社会の無秩序なあり方を克服しようとした。何故我々はとにかくすべてを統治者の裁断に委ねるとか、ひとつサイコロの出目で勝敗を決するとか、そのような処理をしないのだろうか。我々は何故、公的な問題にかかずらわなくてはならないのか。何故「公共性」などを問題にしなくてはならないのか。」(54)

「ロバート・ノージックによれば、政治哲学の根本問題は「何故アナーキーであってはならないのか?」(Why not have anarchy?)」である。それは国家の為すべき行為や基準を問う問いに先行して存在する、根本問題なのだ。(中略)この問題から出発したノージックが、正当化し得る最大範囲としての最小国家論を提唱し、リバタリアニズムの祖の一人と目されていることは言うまでもない。だがここで、ノージックがすでに忘却している根本問題があるようにも思われる。国家の存在可能性それ自体を否定するアナーキズムはしかし、まずこの社会が諸個人から成り立っていることを前提しているだろう。たとえさまざまにその選好や正義構想を異にしていても、社会のすべてのメンバーは等しく「この私」であり、自らの生き方を自ら選択することができる「自己決定的な主体」と>55>想定されている。この点を疑うことから始まる「実存的エゴイズム」については、すでに大屋2002aにおいて、完全な独我論に陥ることなしには整合的たり得ないことを示した。そして完全な独我論は、その内部に複数の主体がそもそも存在しない以上、「等しさ」をめぐる正義論にはなり得ないのである。」(55-56)

「もう一つ、ノージックは人々が善く生きたがっていること、決して自己利益のみを追求するという意味でのエゴイストではないことを議論の前提として導入している。確かに彼は、唯一の善い生のあり方などというものは想定しない。だが、人々がある特定の傾向を共有していること、あるいは少なくともそうでない人が比較的少数で無視可能であることを仮定してしまっているのではないか。我々はそれを、救貧システムの検討から読み取ることができよう。ノージックは所得再分配を基礎とする福祉国家の肥大化を問題視しているが、では国家による福祉を否定することによって貧困者は放置されることになるのだろうか。そのような懸念に答えるために彼は、税という名の強制徴収を元にした福祉の代わりに、それだけの金額を個々人が直接支出することによる救貧システムが実現できると主張する。だが、それが可能になる前提は(彼が明記している通り)人々が他者を救いたがるという一定の傾向をあらかじめ有していることである」(56)

「弱者保護・人権保護のための抑制原理として想定されるのが政権交代の可能性を担保にした答責性(accountability)と、司法府の違憲立法審査制である。
井上2002はこのような構想の一環として、「この指とまれの公共性」という考え方を提唱している。千葉県・谷津干潟の保護の例を通じて井上は、自発的な実践と参画に公共性の基盤を求めようとするのだ。それは荒れ果てた干潟を見て過去の美しい姿を取り戻したいと思ったあるタクシー運転手の物語である。まず保護運動を人々に呼びかけるのだが、うまくいかない。そこで彼は、自分一人で干潟のゴミを拾い始める。当初は周囲の人々からも認められないし、拾ったゴミの受け入れをあちこちから断られるといった苦難もあった。しかし一人でゴミを広い続ける彼に同調して手伝う人々が現れ始め、やがてそれは一つの大きな流れへと転化していく」(62)

「我々はここで、しかし討議が失われていることに注目すべきだろう。井上の「この指とまれの公共性」においてまず求められているのは実践であり、それを根拠付けようとする行為ではない。何故か。それはここで想定される公共性を秘めた行為が他者への強制という要素を含んでいないからではないだろうか。」(63)

「さて問題は4型の「抜け駆け御免」である。例えば排気規制を想定した場合、それを守るためには一定のコスト投下が必要になるが、他の人々が規制を守らなければ十分な効果を得ることはできない。このような場合、人々の自発性に委ねたのでは「抜け駆け」が多発し、価値創造も規範遵守も行われないことになるだろう。この問題を解決する鍵は「抜け駆け」した違反者に対して制裁が行われることであり、人々の自発的な協力はそのような制裁の可能性に担保されている。そして、強制手段と結びついた法がこの4型の問題解決と結びついているとすれば、そこにおける公共性の位置を問題にすべきなのではないだろうか。」(64)

■言及

◆立岩 真也 2013 『私的所有論 第2版』,生活書院・文庫版


*作成:高橋 慎一 
UP:20061216 REV:20090107,0822, 20130222
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