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『ナラティヴと医療』

江口 重幸・斉藤 清二・野村 直樹 20061215 金剛出版,270p.


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■江口 重幸・斉藤 清二・野村 直樹 20061215 『ナラティヴと医療』 金剛出版,270p. ISBN-10: 4772409440  ISBN-13: 978-4772409445 3150 [amazon][kinokuniya] ※

■目次
はじめに

第1部 ナラティヴの多様性
1 ナラティヴとは何か  野村直樹
   I  「しりたがり」の不思議
   II  わからなさと「死んだ言葉」
   III 「生きた言葉」の対話性
   IV  境界線上の言葉
   V  他者の言葉
   VI  内的説得力をもつ言葉

2 臨床場面における物語と声――ジャネの「想話機能」を手がかりに  江口重幸
   I  はじめに
   II  読み書きのできない患者たち
   III 「声の文化」のもつ力
   VI  臨床記述と同意をめぐって
   V  ジャネの「想話機能」
   VI  「外傷性記憶」と「清算」
   VII 臨床的物語論の政治的文脈
   VIII 「無意識の神話生産機能」と想話
   IX 空間の遍歴としての物語:ジャネの絵画とセルトー
   X  さいごに

3 ナラティヴの断層について  小田博志

4 医療者と生活者の物語が出会うところ  星野晋
   I  はじめに
   II  病いの物語とは
   III 患者中心の医療:現代医療の物語
   VI  生活者の病いの語り
   V  医療者の物語と生活者の物語が出会うところ

5 医療倫理の方法としての物語論  宮坂道夫
   I  医療倫理学の方法論について
   II  医療倫理学の方法論としての物語論

6 医療事故紛争のナラティヴ  和田仁孝
   I  「医療事故被害」のナラティヴによる構築
   II  「医療事故」をめぐるナラティヴの構造
   III  医療事故紛争へのナラティヴ・アプローチ

7 医学教育と語り  藤崎和彦
   I  語り的なものの医学教育
   II  Community Based Medical Education
   III 患者の背景を聞く力を鍛える
   IV  解釈モデルを聞く
   V  行動科学とprofessionalismの教育
   VI  障害としての横たわるhidden curriculm

第2部 医療におけるコミュニケーションとナラティヴ
8 心身医学――移植の語り  岸本寛史
   I  はじめに――論考の諸程
   II  口承の伝統
   III ドナーの嗜好が乗り移る?
   IV  心臓はポンプ?
   V  苦痛共感的で残酷な冷たい目
   VI  移植は単なる臓器の交換ではない
   VII 死と新生
   VIII 移植を受けないという選択
   IX  一人ひとりの問題として

9 民俗セクター医療をめぐるナラティヴ――その社会・文化・歴史的構築  辻内琢也
   I  はじめに
   II  民俗セクター医療へのフィールドワーク
   III 事例の紹介
   IV  病いの社会・文化・歴史的構成
   V  おわりに

10 遺伝医療におけるナラティヴ――女性たちの語り  中込さと子
   I  はじめに
   II  出産前診断をめぐる女性の語り
   III 遺伝的特質を引き継ぐことの意味
   IV  遺伝性疾患とナラティヴの視点

11 幻覚妄想というナラティヴ――関係性における病いと癒し  土岐篤史
   I  証と「盗聴器」の物語
   II  医療と幻覚妄想の物語
   III 「盗聴器」を探す
   IV 「盗聴器」を語る
   V  「盗聴器」の被害を小さくする
   VI  「盗聴器探し」の物語を共有する
   VII 関係性の病いとしての精神疾患――ナラティヴの視点
   VIII エピローグ

12 残された家族が喪に服すということ  吉野淳一
   I  医療(者)のナラティヴ
   II  医療の一翼をになう人の語り

13 精神科看護のための物語――臨床民俗誌的思考と記憶  松澤和正
   I  はじめに
   II  5つの物語
   III 物語の変容と臨床民族誌的思考
   IV  おわりに:それは誰に向かって語られるのか

14 ソーシャルワークとナラティヴ――緩和医療の実践から  田村里子
   I  はじめに
   II  ソーシャルワーク
   III 遺族の物語
   IV  臨床における言葉の意味とその限界――ナラティヴの陥穽
   V  おわりに

15 地域コミュニティとNBM――病いの語りの倫理的証人になること  古屋聡
16 心身医療への民俗誌アプローチ――病いの語りの証人になること  鈴木勝己
   I  病いの語りに基づく医療の課題
   II  民俗誌アプローチの意義
   III 事例の紹介
   IV  ソシオソマティクスという戸惑い
   V  民俗誌における倫理的証人

17 医療におけるナラティヴの展望――その理論の実践の関係  斉藤清二
   I  ナラティヴを下支えする理論の多様性
   II  医療における
   III ナラティヴとセオリー
   IV  医療実践におけるツールとしてナラティヴ
   V  死や病気はナラティヴなのか?――ナラティヴと現実
   VI  物語の拘束性の問題――反物語としての物語論
   VII 対話可能性と医療における教育への展望

あとがき



■引用
太字見出しは、作成者による。

無知の姿勢
アメリカの家族療法家アンダーソンとグーリシャンは、かれらの治療を「無知の姿勢(Not-knowing)」という言葉で表現した。患者やその家族の人生について何も知らない治療者が、素朴な好奇心からそれを「教えてもらう」立場に立つ。いわゆる専門家が仕切り、素人が聞き手になるという一方的な会話ではなく、いつも「理解途上にとどまる」学習者(治療者)が、患者から教えてもらうことで前進する会話。その中から、未踏の領域、つまりこれまで語られて来なかった物語(あるいは、物語についての物語)が出現し、会話の空間が押し広げられる。患者の生に新たな可能性を拓くこの会話のスタンスに、最初に着目したのが右の二人である。(p.18)「1 ナラティヴとは何か  野村直樹」

語り直し
 病いやライフストーリーは語られるものである。それは何よりも「出来事」をめぐるものだからである。重要なのは、語りは絶えず語り直しが可能だという点である。語りは、何かの契機でまったく別の、時には正反対の解釈に向う大幅な余地を残しているから「治療的」なのであろう。ブルナー(Bruner 1986)が述べ、グッド(Good 1994)が強調した「現実の仮定法化」とは、とうてい好転の見込めないような病いや苦境であっても、語り直されることでそこに次第に空所が形成され、固定的に見えた現実が可塑的、可変的になることである。(pp.35-36)「2 臨床場面における物語と声――ジャネの「想話機能」を手がかりに  江口重幸」

「外傷性記憶」とジャネ
 さらに重要なのは、一九八〇年以降登場した心的外傷後ストレスや解離性同一性障害をはじめ、解離や記憶が問題になる際、しばしば「外傷性記憶」が論じられ、その始祖にこの概念を鋳造したジャネの名が挙げられたことである。「記憶は、信念やすべての心理的現象と同じように行動なのであり、本質的にそれは語るという行動(l'acte de raconter)からなるのである」(1919 tomeII, p.272)とジャネは述べた。外傷性記憶は、ジャネの「ふるまいの心理学」、つまりその言語=行動論の核心的部分なのである。(p.38)「2 臨床場面における物語と声――ジャネの「想話機能」を手がかりに  江口重幸」

サファリングの語り
 病気に関わるサファリングは、病気それ自体がもたらす身体的苦痛や不自由のみならず、日常生活をスムーズにおくれないつらさ、会社や家族の中での役割を果たせないつらさ、経済的困窮、人生全般への不安など、さまざまなつらさの入り交じった経験である。つまり個人的・主観的な体験である一方で、社会関係と不可分に結びついている。
 このような病気をめぐる生活者の語りは、医学的な意味での病気ではなく、病気であることによって生じるサファリングをめぐって展開する。とすればそれは病いの物語というよりもむしろサファリングの物語であると考えたほうがいい。ある心身の状態について病気であってもつらい、不安と感じていなければ物語は求められないだろうし、逆に医学的に病気はないとされても、サファリングがあれば物語は作られ続けるのである(pp.76-77)「4 医療者と生活者の物語が出会うところ  星野晋」

医療倫理学における物語論
 医療倫理学の方法としての物語論は、漠然と現れてきたというよりは、それまでの方法論の主流であったものに拮抗するもの、あるいは補完するものとして登場したと見た方がよい。その「主流」とは、倫理原則を中心に議論を組み立てる方法論、つまり原則論(principle-based approach)である(p.83)「5 医療倫理の方法としての物語論  宮坂道夫」

 しかし、原則論と手順論を用いても、なお捉えきれない領域がある。それを抽象的に表現しようとすれば、固有性、人称性、文脈性など、医療の専門家にとってはあまり耳慣れない表現を使わなければならない。そこで、「無危害原則」という倫理原則を例に説明しよう。原則論では「患者に危害がおよぶか」と考える。手順論では、「患者に副作用が生じるか」と考える。このどちらにも欠けているのは、「その患者にとって危害とは何か」という視点である。「その患者」とは、たんに「○○症の患者」ではなく、固有の名前を持ち、固有の人生を生きてきた人であり、親や子ども、きょうだい、友人、配偶者や恋人など、大切な人々とのつながりを持った人である。原則論を医療従事者の作業手順の文脈に置き換えて考えるのが手順論であったが、これを患者の人生の文脈に置き換えて考えるのが、物語論(narrative-based approach)である。(pp.84-85)「5 医療倫理の方法としての物語論  宮坂道夫」

医療における物語の不調和とその緩和の類型
医療においては、物語の不調和があることに気づくのみでなく、その不調和を緩和することを試みなければならない。積極的な働きかけをして、場合によっては「物語の書き換え」を促すような方法を考える必要もあるかもしれない。これは臨床事例に基づいて実証的に検討することが必要だが、形式的に考えれば、いくつかの種類があり得るように思う。例えば、一方が他方を完全に説得して、二つの異なった物語がほぼ同じものになること(同化)、二つの物語の争点そのものが消失して対立がなくなること(解消)、二つの物語のうちに共通の要素を発見して対立がなくなること(共約)、二つの物語とは別個の第三の物語を作りだしてそれを共有すること(共作)、などがあり得るのではなかろうか。(pp.88-89)「5 医療倫理の方法としての物語論  宮坂道夫」

紛争発生過程の解釈
 このように「被害」から紛争発生に至るまでの過程を解釈の流れとして捉えると、起こった「客観的な出来事としての事故」と紛争の間に単純な因果関係を想定することはできなくなる。なぜなら、第一に、一定の定型性はあるとしても、相似した事態を「被害」として意味づけるかどうかは、個々のケースで、必ずしも確定的ではないし、その「被害」の責任をどこに帰属させるかも確定的ではないからである。解釈が介在することで、その意味づけは、様々な要因、状況の中で、多様な分岐を見せ、また展開に応じて流動するはずである。第二に、そこでなされる解釈・意味づけも単純な確定的・静態的なものにとどまらず、時には矛盾さえ含む、多層的な深みをもったものとして存在しているはずである。いわば、事故をめぐる解釈と意味づけは、広がりと深みという二つの次元で、一定の定型性のもとでも、なお不確定性に彩られることになる。
 そしていうまでもなく、この事故をめぐる解釈と意味づけこそ、ナラティヴによる「被害」の物語の構築の過程にほかならない。(p.94)「6 医療事故紛争のナラティヴ  和田仁孝」

ドミナント・ストーリー
 我々が自らの生きる「世界」を認識するとき、一からすべてを構築していくわけではないことは当然である。言語がその典型であるが、我々は一定の認識のためのあらかじめ存在する枠組みに依拠して「世界」を認識する。何らかの事象を「現実」として認識する際、多くの場合、我々は出来合いの認識のためのストーリーの枠組みを有している。こうした範型的なストーリーをドミナント・ストーリーと呼ぶ。しかし、また、このドミナント・ストーリーは、当事者の生きられた体験とのずれを内包するという両義性も有している。(野口 2002; 和田 1996)(p.100)「6 医療事故紛争のナラティヴ  和田仁孝」

「語りえないもの」
 このように、事故という状況にあって、当事者は、一方でドミナント・ストーリーや固有の経験的フレイムから、事象やコンテクストを読みとり、それをナラティヴによるストーリーとして構築していく。そこには一定の定型性と、固有性が見られることになる。
 しかし、またその固有性は、この経験的フレイムの固有性に基づくものにとどまらない。そこには先に述べたかけがえのない生命・身体・健康をなくしたことによる、代弁しようのない固有の苦悩と悲嘆が存在しているからである。そこで構築される「喪失の物語」も「被害の物語」も、実はそうした語りやストーリーに回収しきれない、いわば実存的な苦悩をそこにそのまま残している。それはストーリーや語りを超えてあふれ出す何かであり、ナラティヴは、いわばそれへの道標に過ぎないのである。
 考えてみれば、「語る」とは、常に何かを「語らないこと」でもある。ナラティヴは、常にそこで「語りえないもの(言葉にはならない感覚や想い)」を背後に残し、しかしそこへつながる手がかりを残している。(p.102)「6 医療事故紛争のナラティヴ  和田仁孝」

「苦痛共感的で残酷な冷たい目」
 ボスナックは別のところで「苦痛共感的で残酷な冷たい目」について述べている(Bosnak 2004)。ここでいう残酷さとは、「一つ一つの皮膚のしわも映し出すようなカメラの残酷さ、恐ろしいことでも真実を言うような子供の残酷さ」である。「苦痛の共感を持たない残酷さは、無益な責め苦に過ぎない。医学が客観性を重視するあまり「苦痛の共感」を忘れてしまっていないだろうか。しかし、「残酷な冷たい目」を持たない「苦痛の共感」も問題である。それは「正確さを欠く」からだとボスナックは言う。(p.121)「8 心身医学――移植の語り  岸本寛史」
ここでのボスナックはBosnak R.: Integration and ambivalence in transplants. In: Berrnett D(ed): Trauma and Dreams. Harvard University Press, 1996(ボスナック(2004)所収)
ボスナック(岸本寛史・山愛美訳) ドリームワーク 金剛出版、2004

幻覚と妄想
 いわゆる実在しない「声」や「盗聴器」を知覚する現象のことを幻覚体験という。幻覚は、入眠時幻覚など実生活上でもよく見られる現象である。しかし、精神病における幻覚体験は、自分自身に対する深い意味の関係づけが伴い、あり得ない内容にかかわらず強い確信に至る点に特徴がある。被害的な意味づけが関係性を支配するこのような確信を妄想と呼ぶ。(p.162)「11 幻覚妄想というナラティヴ――関係性における病いと癒し  土岐篤史」

 言うまでもないが、私は、幻覚妄想体験において、盗聴器や声を探すことが治療的だと主張しているわけでも、妄想を扱う技法を紹介しているわけでもない。精神疾患の治療領域において、マニュアル化された医療は十分な力をもってはない。そして、もしもそれが万能であれば、逆に大きな弊害となる。慢性経過をたどる精神疾患を有する人たちは、医療の場ではなく、家族や地域生活、当事者同士の支え合いの場においてこそ、精神病的経験のストーリーを共有し回復する必要があるからである。(p.172)「11 幻覚妄想というナラティヴ――関係性における病いと癒し  土岐篤史」

証人
 ここで、フランクは患者本人を証人と呼び、クラインマンは患者に関わる者たちを倫理的証人と呼んでいる。また、それぞれが「証人」に込める意味も一様ではないが、それらが単に何事かを証明するための証言やその証人という、型どおりの意味合いでないことは明らかであろう。とはいえ、この証人という言葉は、病者や医療者に関わる言葉としては、確かにだいぶ唐突で生硬な印象を与える。病者の苦悩に満ちた経験やそれに立ち会う者たちに、証人としての何らかの役割や責任を求める姿勢とは、皮相な見方をすれば、個人レベルからより社会的な次元への覚醒を求めるかのような、ややイデオロギカルな主張を感じないわけでもない。もちろん、クラインマンのいう倫理的証人とは、まさに病者の前に立つことによってしか受けとめられない生の事実性に関わるものであり、しかもその事実性とは証人の物語をも必要とするような何かなのである。その限りにおいて、証人のもつ意味は、病者の苦悩の経験に対する切実な共感や現前そのものにとどまるのかもしれない。ただし、それでもこの「証人」という言葉の持つ力によって、病者とそれを前にした者との関係は、特有の文脈へと流れ出してゆくように思える。(p.189)「13 精神科看護のための物語――臨床民俗誌的思考と記憶  松澤和正」

ソーシャルワークと物語
 物語の作用として指摘される現実理解に一定のまとまりをもたせる「現実組織化作用」、現実理解を制約する「方向付け現実制約作用」は、物語の重要な作用である。そしてクライエントが、現在が物語の結末となるように組織化することで、物語の一貫性が得られる。そこに関係性「つながり」と「意味」の誕生がある。語ることで確かさを増すものが、自己である。語ることは、感情を吐露するというだけではなく、物語が創出されていくことに意味がある。単に思いを言葉にするという独白の形では、物語は創出されない。ソーシャルワーカーという聴き手がいて、クライエントが伝えるという意図をもって語ることによって、物語が生まれる。語りが物語になっていくプロセスの中で、クライエントにとっての意味が生まれる。(p.204)「14 ソーシャルワークとナラティヴ――緩和医療の実践から  田村里子」

フランク
 二〇〇四年一月にカナダのエドモントンでおこなわれた国際質的研究方法論学会において、『傷ついた物語の語り手』の著者として知られるアーサー・フランクFrank Aが、「語りの探究:物語のポイントはなにか(Narrative Inquiry: What's the Point of Story?)」と題したプレコングレスを行い、参加の機会を得た。このプレコングレスは、臨床のなかでナラティヴ・アプローチや物語の視点を重要ととらえている実践家や、研究者が対象であった。そこで何度も強調されていたのは、「物語と共に考える(thinking with stories)のであって、決して物語について考える(thinking about stories)ではない」という点であった。(p.213)「14 ソーシャルワークとナラティヴ――緩和医療の実践から  田村里子」

ナラティヴ・ベイスト・メディスン
 今日の心身医療は、臨床疫学上の科学的な根拠に基づくエビデンス・ベイスト・メディスン(Evidence-Based Medicine)を志向しているが、同時に臨床における対話と病いの語りに基づくナラティヴ・ベイスト・メディスン(Narrative-Based Medicine)に対しても関心が払われている。ナラティヴ・ベイスト・メディスンの隆盛は、心身医療で扱われる疾患が慢性化した難治性疾患であることと関係している。なぜなら難治性疾患のケアでは、病気の根治だけではなく、病者がいかに病気とうまく付きあっていくかを重視せざるを得ないからである。心身医療におけるナラティヴ・ベイスト・メディスンでは、病者が医療者との対話を通して慢性疾患を日常生活に組み込んでいく治療プロセスが確認されている(鈴木ほか、2005a)。(p.230)「16 心身医療への民俗誌アプローチ――病いの語りの証人になること  鈴木勝己」
鈴木勝己・辻内琢也・辻内優子ほか 心身医療における病いの語り―文化人類学による質的研究(第1報) 心身医学 45(6);449-457, 2005

*作成者 篠木 涼
UP:20080513 Rev:20081001
ナラティヴ・物語 身体×世界:関連書籍 2005-  ◇BOOK
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