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『民族の表象――歴史・メディア・国家』

羽田 功 編 20061110 慶應義塾大学出版会,315p.


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■羽田 功 編 20061110 『民族の表象――歴史・メディア・国家』,慶應義塾大学出版会,315p. ISBN-10: 4766413105 ISBN-13: 978-4766413106  \3360 [amazon]  er

■内容(「BOOK」データベースより)
「民族」とは近代に作られた観念的共同体だが、その核心をなすのはコミュニケーションの媒体である言語そのものではなく、いわゆる「メディア」によって伝えられる多種多様なイメージの集積物であり、その意味において「民族」とは「メディア」による構築物である。―本書では、民族とは関係性の産物であり、メディアによる構築物であるという観点から、ユダヤ人、パレスチナ人/イスラエル人、ドイツ人、アメリカ人、キューバ人、ラテンアメリカン、中国人、日本人それぞれの「民族」イメージ形成過程を分析。「メディア」を通じて、自己や他者を意識することから始まる自己相対化や他者像形成のプロセスを検証し、「民族」とは何かを明らかにする。

■内容(「MARC」データベースより)
ユダヤ人、パレスチナ人/イスラエル人、ドイツ人、アメリカ人、ラテンアメリカン、日本人…。それぞれの「民族」イメージ形成過程の分析から、自己相対化や他者像形成のプロセスを検証し、「民族」とは何かを明らかにする。

■編者紹介

羽田 功(はだ・いさお)
慶応義塾大学経済学部教授
1954年生まれ。慶應義塾大学文学部卒業(1976年)後、同大学院修士課程、博士課程修了(1982年)。1995年より現職。
専門分野:ユダヤ人問題、19-20世紀転換期ドイツ文学。

■目次

はじめに

ユダヤ人イメージ――ヨーロッパにおけるユダヤ人像の特質………羽田功
 1 はじめに――ユダヤ人問題とユダヤ人像
 2 中世キリスト教ヨーロッパのユダヤ人イメージ
 3 宗教的な反ユダヤ的言説・イメージの特徴
 4 経済的な反ユダヤ的言説・イメージの特徴
 5 政治的・社会的な反ユダヤ的言説・イメージの特徴
 6 「ユダヤ人解放」と近代的反ユダヤ主義――ユダヤ人イメージの変質
 7 まとめ

ドイツ的・ドイツ人であるとは何か
   資本と人種………ヨーゼフ・フォーグル
 1 ドイツ的・ドイツ人とは何か?
 2 『借方と貸方(Soll und Haben)』
   応急共同体………エーテル・マタラ・デ・マッツァ

近代日本の国家イメージ形成における和歌の機能――桜の表象を中心に………佐谷眞木人
 1 はじめに
 2 日本文化における桜の歴史的位置
 3 近代における桜
 4 軍隊と桜
 5 まとめ

国を捨て新天地をめざすのは不義か?――詩経解釈に込められた国家への帰属意識の変遷………種村和史
 1 はじめに
 2 政論としての詩経解釈
 3 詩経解釈のなかの殉国意識
 4 おわりに

時計、石鹸、星条旗――産業社会の出現とアメリカ的身体の形成過程………鈴木透
 1 「アメリカ人」の誕生――序にかえて
 2 アメリカ人のイメージの形成過程のける南北戦争の位置
 3 応用される南北戦争の体験――産業社会の形成過程における理想のアメリカ人像の具体化
 4 結語

社会主義国キューバで発せられる「黒人」の声――ラップ、人種差別、そして革命………工藤多香子
 1 外国音楽ラップの流行
 2 抗議の音楽、「黒人」の声
 3 革命的な音楽としてのラップ
 4 「白人みたいに黒人だ」

ステレオタイプとコミュニケーション――映画におけるラテンアメリカのイメージ表象………石井康史
 1 ステレオタイプ
 2 ステレオタイプとコミュニケーション
 3 アメリカ合衆国映画(ハリウッド映画)
 4 フランス映画
 5 日本映画
 6 おわりに

パレスチナ/イスラエル紛争における「敵」イメージの形成………臼杵陽
 1 はじめに――紛争の呼称にみる「敵」イメージ
 2 「新しい歴史家」における「敵」イメージの変化
 3 アラブ世界における反ユダヤ主義的な「敵」イメージ
 4 ハマースのポスターにみる「敵」イメージ
 5 おわりに

あとがき


■引用

はじめに(羽田功)

「 21世紀に入り、「民族」あるいは「民族問題」が重要なキーワードとして喧伝されている。特に前世紀末にかけて起こった大規模なヨーロッパの再編成やその結果として出来した悲惨な民族間の争い、アラブ世界やパレスチナ、イスラームなど民族・宗教・地域などが渾然一体となって複雑な様相を見せる中東地域の争い、あるいは巨大ビルの崩壊でなお記憶に新しい「9.11」など、私たちの目の前ではたしかに「民族」、「民族問題」としてひと括りできそうな事象がたて続けに起こっている。もちろん、それ以外にも火種から活火山的様相にいたるまで世界各地ではいまも「民族」をめぐる多様な問題が多様な形態を取って展開されている。
 だが、それではそもそも「民族」とは何なのだろうか。辞典などによる一般的な理解としては、言語や宗教、慣習など広義の文化的伝統を共有することで時間の経過とともに「同じ先祖」を持つ「同じ仲間」としての意識を持つようになった人間集団が「民族」と呼ばれることが多い。それは社会的な生活を営む場合の基本単位と言うこともできるだろう。しかし、社会生活の基本単位と言っても、たとえば地域的には離れ離れの状態で暮らしながら、なお民族的な一体意識を保持している集団もあれば、同じ社会の中に複数の民族が共存して支障なく社会生活を送っているようなケースもある。民族はもちろん生物学的な意味での「種」とも異なるし、政治的な意味での国民とも一致していない。つまり、ある集団について、いくつかの普遍的・標準的な項目を立ててチェックを行い、その集団が民族が否かを判断することはできないし、逆にその集団だけに>B>特徴的な客観的性質から民族を考えても、これを他の集団に当てはめて分類を行うことは不可能なのである。
 「民族」という言葉と概念には、言語、宗教、慣習ばかりでなく、たしかにある特定の集団の残してきた歴史や彼らの生存を支えてきた地域性、その集団の自己意識や彼らを導くイデオロギー、志向性などが大きな影響を及ぼしており、彼らはそれらを手がかりにして自分たちを一つの「民族」として同定していくわけである。その限りではむしろそれは主観的で恣意的な過程である。
 ただ、この過程は孤独・孤立のうちに進められるものではない。と言うよりも、むしろ外部に何らかの対比的存在を設定することによって、「民族」化のプロセスは促進されることが多い。言語、宗教、慣習、歴史、地域性、自己意識、イデオロギー、志向性などを手がかりに自分たちの集団と外部の集団を差別化・差異化して、自分たちに共通する民族性や民族意識を醸成していくのである。その意味では、外部との差別化・差異化によって生まれた内部こそが「民族」なのだと言えるだろう。しかも、このプロセスはただ一方の集団内部だけで進展するものではない。相手からの刺激を受けて、外部として設定された集団においてもまた同様のプロセスが展開されることになる。つまり、ある集団の民族意識が他の集団内部にも新たな民族意識を呼び覚ますことになる――それは相対的な関係である以上、同時に連鎖的な性格を持たざるをえないのである。[……]>C>[……]
 だが、それでは「民族イメージ」はどのようにして生み出されるのだろうか。「民族」化の過程のなかで手がかりとして機能した要素は、おそらくその集団内部の自己認識・自己理解を背景とした自己イメージとして受け止めることができるだろう。だが、このプロセス自体がはじめから外部を想定している以上、つまり外部集団との差別化・差異化が目的である以上、これらの要素はそのまま外部集団にも当てはめられることになる。そのとき、それぞれの集団のなかでは内部としての自己理解的な民族イメージとともに、同じフィルターを通じて見た外部集団に対するイメージも形成されるのである。」(pp.B-D)

「 このように相対的な言葉・概念である「民族」を扱おうとするならば、どのような視座・観点からこれを扱うことで問題の本質に迫ることができるのだろうか。そこで私たちは一つの作業仮説を立て、その有効性・射程距離を測るという実験を行うことで問題理解の可能性を模索することにした。
 だが、私たちの作業仮説に触れる前に、もう一度「民族」をめぐる一般的な理解や立場をまとめておきたい。というのも、実はここまで叙述においては「民族」に関する二つの異なる理解・立場が混じりあっていたからである。ひとつは伝統的な見方である。すなわち、「民族」を言語・宗教・歴史・慣習・血縁的なつながり・領土などを共通の基盤として持つ人間社会の自然で基本的な単位と考える立場である。これに対し、チェコ民族主義に見られるように、「民族」とは近代に入り、国民(民族)国家の成立とともに現れたまったく新しい集団意識であり、政治的要因や社会的要因によって作り出されたものとする立場がある。この二つは分けて考えなければならないのである。」(p.E)

「ちなみに、「民族」という言葉自体が政治の舞台に本格的に登場するのは、フランス革命を経た19世紀に入ってからであり、その議論がさらに活発化するのは20世紀になってからである。その意味では、「民族」もまた近代になってから生まれたものだと言えるのかもしれない。しかし、他方では連綿として続く民族的紐帯を強調し、時空を超えた一種の共同幻想的な「民族」理解にも根強いものがある。いずれにせよ、「民族」という言葉・概念については、現在もなおさまざまな解釈や議論、検討が行われている最中である。しかも、そうした議論を無視するかのように、現実にはこの問題は実質的な「民族問題」として世界各地で深刻さを深めつつある。
 さて、混迷のなかにあるとも言える「民族」あるいは「民族問題」の新たな理解の地平を切り開くことを目的に、私たちはこれまでになかった一つの仮説を立てることとした。その仮説とは、「民族」とは近代に作られた観念的共同体であるが、その核心をなすのはコミュニケーションの媒体である言語そのものではなく、いわゆる「メディア」――ここでは口伝・言語・表象芸術から最新の伝達技術などまで含む広義のメディアを意味している――によって伝えられる多種多様なイメージの集積物であり、その意味において「民族」とは「メディア」による構築物であるというものである。とすると、民族とはあたかも一冊の完結した書物のような体系性を備えた物語>F>あるいはきれいに分類・整理された資料集として把握しうるように見えるかもしれないが、しかし実際には、この書物にはたえず修正と加筆が加えられると同時に、すべての読者がその内容を共有するものでもない。多くの場合、読者はせいぜいその一部のみを共有するにすぎず、また、テキストの常として相矛盾する多様な解釈を含有する不定形な集積体であると言うことができるだろう。
 [……]さまざまな時代・国家・地域・社会にあって、ある集団が自らを「民族」と意識するのは他の集団との差異を強く感じ取れる場合である。すなわち、それは広義のコミュニケーションを通じて成立する相対的な「関係性」が意識化されるなかで生まれるものだと考えることができる。とすれば、「民族」を構成する基盤には、外部との差別性・差異性を明確化・具体化することで「民族」を言わば集団的に身体化するためのイメージが形成されることになるだろう。と同時に、それらのイメージは合わせ鏡のようにそのイメージに対応する外部集団のイメージをも生みだすはずである。
 それでは、こうした「民族」の自己イメージや他者イメージから何が読み取れるのだろうか。
 このような仮説に基づいて、私たちはこうした「関係性」の成立に重要な役割を果たしている>G>「メディア」に注目し、「メディア」を通じて自己や他者を意識することからはじまる自己相対化や他者像形成のプロセスを多様な事例を通して解明することに焦点を置いた。なぜならば、自己規定的なものにせよ、他者による外的なイメージにせよ、民族のイメージは何らかの「メディア」なくしては成立も伝播もしないからである。」(pp.F-H)


■書評


■言及


*作成:石田 智恵
UP:20080729 REV:20081014
民族・エスニシティ・人種(race)  ◇BOOK  ◇身体×世界:関連書籍 2005-
 
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