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『難病治療と巡礼の旅』

西谷 裕 20061024 誠信書房,208p.

last update:20150709

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■西谷 裕 20061024 『難病治療と巡礼の旅』,誠信書房,208p. ISBN-10: 4414706025 ISBN-13: 978-4414706024 2800+ [amazon][kinokuniya] n02h.

■内容

神経免疫学を専攻した著者が、スモン病や重症の筋無力症など難病の患者の治療に捧げた半生を省みた一冊。通過儀礼ともいうべき世界一周旅行、 立ち上げから関わった「難病センター」のあゆみなどをつづる。

■著者略歴

 昭和3年生まれ。昭和29年京都大学医学部卒業。昭和39年から昭和41年米国ミシガン大学精神神経研究所研究員。昭和50年から昭和53年大阪北野病院内科部長。 昭和53年から平成6年国立療養所宇多野病院副院長を経て院長、名誉院長。平成6年より、京都専売病院長、康生会武田病院名誉院長を経て、 現在、恵心会京都武田病院顧問。平成18年4月瑞宝中綬章受章。

ようこそ私のホームページへ(西谷裕/にしたに・ひろし)
http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Jupiter/1643/index.html

■目次

はじめに

第1章 世界一周九十日間巡礼記
 序詞「昭和の遣唐使」
1 なぜ旅立ったのか
2 天国に近い島、ハワイ
3 曾遊の地、ミシガン大学
4 臨床医学の メッカ、メイヨー・クリニックにて
5 東海岸の臨床巡礼
6 不況下の大英帝国
7 憧れのヨーロッパ
8 葡萄酒の熟成

第2章 「難病センター」のあゆみ
 序詞「伊吹山」
1 一人からの出発――京大時代(昭和三十四〜五十年)
2 「種子を播く」――北野病院時代(昭和五十〜五十三年)
3 「人材は猛獣か」――国立宇多野病院の改革(昭和五十三〜平成六年)
4 「専門病院」の質的改革
5 謝辞

第3章 わが国の難病医療・福祉の過去・現在・未来
 序
1 一つの公共政策の誕生のための諸要因――四つのモデル
2 難病対策成立の背景――時代のエネルギーのうねり
3 難病対策の萌芽――アイディアはどこから生まれたか
4 難病対策の発足――政治モデルの発動
5 難病対策と福祉――公共政策の進化
6 難病対策の未来像

第4章 巨大な隣人、中国とどう共生するか
1 中国の十日日間
2 巨大な隣人
3 “A Letter from form China”
4 四年ぶりの中国雑感
5 日中両国の二病院
6 最近の中国医療についてのメモ

おわりに

■関連リンク及び引用

「わが国の難病医療・福祉の歩み」(おそらく、上掲書第3章の草稿)
http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Jupiter/1643/nanbyouseisaku2.htm
この小論文の詳細は近く発刊される予定の「難病のQOL」という単行本に収録される筈のものです。(2000年,夏脱稿)

はじめに
 私は昭和47年の難病対策がスタートした時点で、先輩諸氏のご推挙により、大学の一助手という身分ながら「重症筋無力症研究班」の班員に加えていただいた。その後昭和53年に、当時厚生省の審議官として厚生行政の最先端で、陣頭指揮しておられた大谷藤郎先生の推挙により、民間の大阪北野病院から国立療養所宇多野病院副院長に迎えられて、 結核療養所を難病センターに衣替えするという仕事を、数人の若い人々と共に始めた。
 その間に厚生省スモン研究班療養分科会長、筋ジストロフィー研究班(第3班)班長、免疫性神経疾患研究班班長などの仕事を与えられて、難病対策の流れを膚身に感ずることができた。16年間、これらの仕事に没頭して、定年を迎えた。さらに平成5年からは公衆衛生審議会成人難病対策部会のメンーとして現場の意見を反映することに努めた。 「難病のQOL」という企画の中の序文として、上記の一文を書くことを依頼されたことは大変光栄ではあるが、筆が進まない。その理由は、勿論不勉強、遅筆のせいもあるが、一つは難病の現場を離れて最新の情報を入手する事が困難で、感覚的にも距離ができてしまったこともある。
 さらに大きな問題は「難病対策とは一体何だったのか?」という疑問である。確かに一臨床医として、また一管理者として、多くの難病患者さんを診、何がしかのお役に立ったというある種の達成感はある。しかし国の公共政策としてみた場合、難病対策は果たして成功したのか、失敗だったのか、絶えず考え続けているが、いまだに結論が出ない。
 今や多くの行政機関はもとより、医療の現場も、遮二無二、公的介護保険に向かって走り出し、21世紀の難病対策がどうなるか、かまっていられないという様子である。このような現状の中で、難病対策を過去のものとして語ることは私の後半生を無意味なものとして否定することになる。さりとてその未来をバラ色に語ることは、幻想を語るに等しく筆は進まない。
 そこで昭和40年代に始まったこのユニークな公共政策が、四半世紀生き続け、21世紀を迎え、どのような変貌を遂げていくのか、自分なりに今、考えていることを整理して、次の世代に届けることに自分の役割を限定させていただいた。
 従って、ここで、難病対策の成立とその発展に関連した政策的な問題を、自分の身辺で実感した事項を中心に語ることしかできないので、少なからず独断と偏見であることをあらかじめお断りしておきたい。

I.一つの公共政策の誕生のための諸要因――4つのモデル
 「難病対策」はわが国で独自に発想され、育くまれ、成長してきた一つの極めてユニークな公共の医療福祉政策である。
 それは1965〜1975年(昭和40〜50年)という、わが国における高度経済成長期の右肩上がりの財政の中で、それぞれ医学・医療・福祉の専門分野で伏流水として育ち、それが政・官の共同体とタイミング良く合流して、一つの医療福祉政策が形成されてきたものといえる。
 この流れは、いくつかの節目々々での合流を繰り返して国の政策にまで育ってきたのであり、各界の良心的な人々の指導力・影響力と合意があって、初めてこのような世界にも類のない斬新で独創的な政策が形成されてきたものといえる。
 難病対策そのものは現在も生きており、いくつかの成長要因も見られるが、現実的には阻害要因の方が強くなり、一つの転換点にあることは確かである。
 現時点で難病対策の未来を占うことは困難であるため、筆者はこの特異な公共政策の成立と発展の過程に戻って、その背景にあった諸要因の分析的把握を試みてみたいと考えた。
 ところで、米国における日本研究の第一人者であるジョン C・キャンベル1)は、永らく日本の政策決定のメカニズムについて実証的研究を行い、興味ある理論を打ち立てている。彼は、一般公共政策の転換に関わる要因として、当事者の「変革のエネルギー」の大きさと、「準備されたアイディア」の質・量という二つの要因の大小によって、以下の4つの類型(モデル)に分類している1)。
(1)政治型(Political)モデル:大きな変革へのエネルギーに対応して、それを解決するためのアイディアも十分に準備された政策、(2)認知型(Cognitive)モデル:変革のエネルギーは少ないが、問題の把握とそれに付随するアイディアは適切、十分である、いわゆる「テクノクラシー主導の政策」、(3)偶然型(Artifactual)モデル:大きな変革のエネルギーによって偶然的に生まれたが、その解決のためのプログラムやアイディアが乏しいために、政策としてはランダムで、結局「ごみ箱」に終わってしまう、および(4)慣性型(Inertial)モデル:エネルギーもアイディアも欠如しており、その解決法はルーチンに従ってなされるような政策、である。
 彼は過去25年間のわが国の高齢化社会問題に対する日本政府の複雑に曲折する政策の変遷を実証的に検討し、各時点における政策の選択と決定のメカニズムをこの4つのモデルに類型化することによって明快に説明している。
 キャンベルは、難病対策そのものについては全く触れていないが、第5章「老人ブームと政策転換」の中の1項目「高齢者と公害」の中で、昭和45年ごろに活発化した革新自治体を中心にした大衆、ジャーナリズムの動きとそれに対する政治家、官僚の反応についてはよく書かれており、本章はこれに多くのヒントを与えられたものである。
 本編では、上述の理論に則って、政府はどのような要因によって、この前例のない公共政策を始動させたかの分析を試みる。次に、どのモデルに従って難病政策がスタートしたにせよ、25年以上にわたる長期政策を維持・推進するための「諸機関」は、どのようにして調整能力を発揮してきたかが検証されねばならない。
 さらに今後の難病対策の発展のために現在試みられているいくつかの新しい芽を探り、その方向性を見極めてみたい。

II.難病対策成立の背景――時代のエネルギーのうねり
1.公害問題と市民運動
 第2次大戦の敗戦の虚脱状態から脱して、わが国は輸出産業立国を旗印に、昭和30年代後半から、高度成長路線をまっしぐらに走り出した。
 20世紀後半、飛躍的な技術革新をあくなく追求し、日本列島は世界の新製品工場と化し、過去の歴史に全く類をみない多種多様の合成有機化学製品が氾濫した。 その大量の産業廃棄物による環境破壊と、それに伴う国民の健康阻害はすさまじいものであった。
 現実に、工業ベルト地帯の大気汚染による喘息、製造工程ミスによる森永砒素ミルク中毒やカネミ油症、工場廃水からの有機水銀による水俣病などが相次いで発生した。当時すでに水銀、カドミウム、BHC、PCBは四大汚染物質とされ、白木博次2)は、すでに1973年にこれらの汚染物質の日本国土における蓄積量は世界各国の50から100倍に達すると推定している。それらによる潜在性または顕在性の健康破壊は現在も環境ホルモンの名の下に、被害実態が確認もできないままに論議が続いている。
 ジャーナリズムは「日本公害列島」「複合汚染」などの新造語を乱発し、漠とした社会不安は、昭和40年(1965年)代には、全国各地での市民運動にまで発展してきた。
 これを背景にして、革新陣営は次々と自治体首長を当選させ、独自の医療・福祉政策を実施し出した。中でも、シビルミニマムの保障を提唱した美濃部都政は、 その巨大な人口による豊かな財政に支えられて、後述するような難病の先駆的なモデルをも創始することになり3)、1970年には65歳以上の東京都民に、 「老人医療費無料化制度」を打ち出した。危機感に駆られた自民党政府もこれを追認する形で、1973年には老人医療の自己負担撤廃、 さらに高齢者年金額の引き上げと物価スライド制を導入した。
 このため1973年は「福祉元年」ともいわれるようになったが、実際にはこの年、西側諸国を襲ったオイルショックにより、それまで右肩上がりの急成長を遂げてきた日本経済にかげりが見え始めてきていたのである。

2.スモンなどの患者会の結成
 国における難病対策の始動の原点がスモン問題であったことは、多くの関係者の等しく認めるところである。
 スモン(Subacute Myelo−Optico−Neuropathy;SMON)症例の報告は、昭和30年代の初頭から日本全国各地で散見されていた(表1)。昭和39年5月、第61回日本内科学会(京都)で、「非特異性脳脊髄炎症」というシンポジウムが持たれ、椿忠雄・豊倉康夫らによってSMONが一つの疾患単位である可能性が強調された4)。
 とくに昭和39年の戸田地区での45例に及ぶ集団発生はオリンピックのボートレース開催予定地であったために、国の威信をかけて、厚生省は補助金による研究班を急遽発足させた。その当時、すでに37都道府県で823例という多数の罹患者が集積されていた4)。
 スモン研究の歴史については昭和60(1985)年に祖父江逸郎・田村善蔵によりまとめられた「スモン研究の経緯とその解析」4,5)に詳しい。主としてそれに沿ってスモン調査研究の流れを追っていくと、昭和43年頃からスモン患者は激増し、同年岡山県井原市、湯原町の大流行を始め、全国各地でも次々と患者の発生があり、当時はウイルス感染説が強力に推し進められたために社会的疎外者や自殺者が出るなど大きな社会不安にまで発展してきた。
 そこで昭和44年9月には、ウイルス学者である甲野禮作を班長として、研究費を増額し、44名の班員でスモン調査研究協議会が発足し、診断指針がまとめられた。これが後の難病対策で採用されることになったプロジェクト研究方式の始まりともいえる。さらに翌、昭和45年には厚生科学研究費(公衆衛生企画課)から5000万円が支出され、班員は64名に増強された4)。
 一方、昭和44年10月には患者会が結成され、国や自治体に対して救済、原因の解明などの対策を要望した。時を同じくして、公害・薬害などに対する市民の権利意識が高まり、 医療の谷間にあって、家族の中でひっそりと養生していた可能性のある慢性、難治性疾患の患者とその家族も市民運動の高まりの中で声を上げ始めた。すなわち、日本リウマチ友の会(昭35)、日本筋ジストロフィー協会(昭38)、全国心臓病の子どもを守る会(昭38)、全国重症心身障害児を守る会(昭39)、全国精神障害者家族会連合(昭40)、ベーチェット病友の会(昭45)、ベーチェット病患者を救う医師の会(昭45)、全国筋無力症友の会(昭46)、多発性硬化症友の会(昭47)などの数多くのグループが続々と誕生することとなった6)。これらの会の多くが結集して、全国難病団体連絡協議会を結成し、革新陣営はこれらの救済を求める患者達を、巨大産業社会における陰の部分の被害者と位置付けこれを支援し、国の新たな施策を求める声は、大きな社会的なうねりとなった。

3.スモン訴訟の進展
 昭和45年、豊倉康夫、井形昭弘、高須俊明らのグループはスモン患者に緑色舌苔および緑尿が高率に見られることに注目し、吉岡正則、田村善蔵らの薬学者の協力を得て、これがキノホルムの酸化鉄キレート化合物であることを発見した5)。この結果は6月30日の班会議において田村善蔵によって発表された。多くの班員は重金属の代謝異常がスモンの原因と感じたが、椿忠雄はむしろキノホルムそのものが問題と考え、新潟県、長野県下、キノホルム服用状況についての疫学調査を進め、キノホルム原因説に到達し、8月6日、新潟県衛生部を通じて厚生省に報告した。その内容の一部が翌日の朝日新聞に発表され、大きな反響を呼んだ4)。
 こうした状況を受けて厚生省は、「キノホルムの副作用に関する小委員会」「同打ち合わせ会」を急遽開き協議の末、9月7日の中央薬事審議会を開き、諮問し、その答申にもとづいて翌9月8日キノホルムの販売停止の措置に踏み切った。
 当時まだ研究者の中には、強い反対意見もあったので、これはいわば「国家的見地からの一種の実験的な措置」4)であったが、結果はそれまで毎月100人を超えていた患者の発生が数ヶ月でゼロに収斂した。これと平行して行われたキノホルムの服用の有無についての疫学的調査でも、84.7%の服用率であった。
 研究の進展に伴い、総合的研究を一層進展させるために、疫学、キノホルム、病理の各部会が設けられ、6部会、73班員に拡大されたスモン研究班は、翌47年3月、「疫学的事実ならびに実験的根拠から、スモンと診断された患者の大多数はキノホルム剤の服用によって神経障害を起こしたものと判断される」と結論した4)。
 これらの経過の中で、種々の救済を待っておられなくなった患者たちは、次々と国と製薬3社を相手取って、訴訟に踏み切った7)。、昭和53年1月の金沢地裁の判決を皮切りに、 翌54年8月21日、前橋地裁判決にいたるまで、6地裁において、原告の勝訴が確定した。これと平行して、患者団体と国との交渉も進められ、昭和53年度から次の対策が開始された。

@国立病院・療養所におけるスモン患者の治療
A自治体病院におけるスモン患者の診療
Bスモン総合対策

などであった7)。
 スモン薬害は世界にも例のない一万人以上の種々の後遺症を持った罹患者と、多数の死者を出した。主として法廷闘争の戦術上の理由から、医師、病院が被告となることは免れたが、この事件は医療不信につながるとともに、臨床医にとっても深刻な反省を促すことになった。一方厚生行政にとっても、大きな教訓ともなったはずである。

III.難病対策の萌芽――アイディアはどこから生まれたか
1.新しい医学の目指したもの
 昭和40(1965)年代初頭、全国の大学教育機関を襲った全共闘の批判運動は、「白い巨塔」とも呼ばれた旧来大学の教育・研究体制を根底から揺さぶった。戦後、殆どまともな体制の見直しもなく進んできた各大学の教授会組織は、学生、医局員による大衆団交で「自己批判」を迫られ、管理はもとより、研究・教育・診療などのあらゆる機能の停止に追い込まれた。しかし、政府の「大学管理法」に助けられて、「正常化」の名の下に機動隊を導入し、「日常性」に慌ただしく戻ろうとした。
 しかし医学界に関する限り、名目だけになっていたインターン制度の廃止運動に始まった全共闘運動は、全くの徒労ではなく、いくつかの新しい芽が育ってきた。とくに最も封建的とされた臨床教授会を中心にしたヒエラルキーはようやく崩され、若手研究者の論文のプライオリティーもまともに尊重されるようになった。また若い医師たちは、従来の重箱の底をつつくような仕事で博士号を戴くよりも、日進月歩の臨床研修に力を注ぎ、専門医を目指すようになってきた。
 そして大学紛争後、良心的な医師たちは患者中心の医療に真剣に取り組みだし、とくに「患者のサービスに務め、症例に学ぶ」という医療本来の姿勢に立ち戻る必要性を痛感していた。そのため今までのような大学の研究中心の医学に疑問を感じて、どのような医療体制が患者のニーズを満たすのか模索を始めた(しかしわが国の医療改革は、既成の学問領域の境界にあって悩む患者にとってかなり不徹底なものであった。また1970年以降の分子生物学の急速な発展は、大学の臨床医学教授の関心を、再び分子生物学中心に引き戻しているが、それは日本の医学教育のかたよりと基礎−臨床の連携の悪さに大きな原因があるように思われる) 。
 因みにこの時点で、医学の分化と統合の矛盾や、医療人の指向するものと社会の要望とのミスマッチが指摘されだしたのは世界的な傾向であり、同時期に米国ではprimary physicianの復権と、それを学問的に裏付ける臨床疫学の研究が活発となり、次の時代には膨大なcontrolled trialとインターネットを結びつけたevidence−based medicine(EBM)へと発展を遂げており、両国のアプローチの差を鮮明にしている8)。
 ともあれ、わが国では神経内科学はリウマチ、膠原病などを対象とした臨床免疫学とともに、旧来の尨大な内科学領域の中では、いわば「遅れてきた」診療分野であった。国立大学でも神経内科講座は昭和50年以降に徐々に新設され出したが、社会の潜在的ニーズの大きさにもかかわらず、1000床をかかえる大学ですら、20床前後のベッドが割り当てられるに過ぎず、専門医師の定員も極めて少ないのが常であった。しかも対象疾患の多くが、成因も治療法も判らず、慢性、進行性で、長期療養のためのベッドを確保する必要があった。
 これはリウマチや膠原病などの長期に再発寛解を繰り返す疾患を抱える臨床免疫学の専門医や、高齢化の中で急速に増大する新しい治療対象を抱えた整形外科医や、小児慢性疾患の包括的治療に頭を悩ましていた小児科医たちなどにとっても、同様なジレンマであったものと推定される。

2.国立療養所の再生
 全国150ヵ所以上の広大な敷地に建てられていた国立療養所の大部分は、戦前には「国民病」とされていた結核患者の隔離収容が主たる目的であった。それ以来、国立病院が高度医療と救急医療を必要とする一般疾患を扱うのに対して、国立療養所は慢性疾患を主とした不採算な「政策医療」を扱う第三次病院として位置付けられてきた。そのため特定の慢性疾患にフォーカスを当てて包括医療を行うためのノウハウの蓄積は、一般病院に比べてより豊富であった。しかし昭和20年代後半からの国民の衛生状態の改善と抗生物質の発達によって、結核を含む感染症が激減し、脳卒中・がん・心臓病などの成人病が死因の上位を占めるようになると、結核単科であった国立療養所の多くが新たな対象疾患を求めて生き残りのための模索をし始めていた。
 昭和36年、このような結核空床が深刻化してきた時点をとらえて、厚生省の療養所担当者達は、当時社会問題化してきた重症心身障害児を収容することを決定した。
 さらに、昭和39年には筋ジストロフィー協会が時の厚生大臣および医務局長に陳情し、直ちに「進行性筋萎症対策要綱」が策定され、国立療養所に筋萎縮病棟が作られ、関連大学は大学では得がたいポストとベッドを求めて、若手の向学心にあふれた神経内科・整形外科・小児科の医師たちを積極的に送り込んだ。一方、国は府県立の養護学校を付設し、 リハビリを中心にした包括的療育プログラムを作り、同時に筋ジストロフィー症に対する大型研究費を予算計上した9)。
 この時の川端二男理事長以下の日本筋ジストロフィー協会の政治家へのロビー活動には目をみはるものがあった。また当時神経内科領域の疾患には、スモン、水俣病などの社会問題化する疾患が多かったこともあって、後述する国立の神経センターを作る運動も短期間に軌道に乗り、精神神経疾患委託研究費も順調に増額されていった。
 この研究班の発展は、当時日本神経学会をリードしていた沖中重雄、黒岩義五郎、里吉栄二郎、祖父江逸郎らの協力と、基礎医学者の江橋節郎、整形外科の山田憲吾などの、 私心のない熱意によるところが大きかった。
 とくにこの共同研究班では、経理面での透明性や外部評価の面でも当時の医学界の常識を越える公正さが配慮されており、後の難病研究の原型とも言える多くのアイディアが生まれた。

3.厚生行政の転換点
 厚生省は1938(昭13)年に内務省より分離独立したが、戦前は「母子保護法」(昭12年)、司法保護法(昭14年)、 国民優生法(昭15年)などにみられるように富国強兵を目的とした福祉政策を推進することが主たる目標であった。
 第2次大戦後、わが国は米国主導の平和的民主主義国家として再生した。その憲法25条には「すべての国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。 国はすべての生活部面について、社会福祉、社会保障および公衆衛生の向上に努めなければならない」と宣言され、「福祉権」はすべての国民に対する最低保障条件と規定された。
 これを受けて1950(昭25)年、総理府の社会保障制度審議会はイギリスの福祉国家をモデルにした包括的な社会保障制度の勧告(いわゆる50年勧告)をした。
 次いで1962(昭37)年には、国や自治体の財政の向上に伴って、具体的に「社会福祉は事業採算本位に運営されてはならず、原則として受益者に費用を負担させるべきではなく、 国と地方公共団体が負担するべきである」とした(62年勧告)10)。
 しかしながらこのような社会環境の変化の中でも、厚生省の社会福祉行政の重点はなお施設整備とその監督に置かれていた11)。 ようやく60年代から70年代初頭になって自治体レベルでは社会福祉から地域福祉、市民福祉への転換が試みられ11)、厚生省内でも新たな公共政策への期待が、 若手官僚を中心にして高まり、種々の勉強会が持たれるようになった。
 昭和45年10月には「医療保険制度の根本的改正について」審議していた社会保険審議会が、「原因不明で、かつ社会的にその対策を必要とする特定疾患については、 全額公費負担とするべきである」と答申していた。
 これまで見てきたように、当時の日本の福祉思想の変遷、市民の健康権への欲求、市民運動のうねり、多発する公害、薬害に対する市民の怒り、 それに支持された多くの集団訴訟など、すべては高度成長時代の曲がり角に立った社会が、新たな「総合的な公共福祉・医療政策」を期待していたことを示している。
 そして重心、筋ジストロフィーの国立療養所への実験的な受入れ対策の成功9)、さらに大学機関とタイアップして文部省も驚くような大型研究費を組むことにより、 学閥にとらわれない横断的なナショナル・チームが創設され、それらの共同研究が目覚しい成果を挙げたことは、 厚生行政にとっては一つの画期的なアイディアとヒントを提供することになった。

IV.難病対策の発足――政治モデルの発動
1.国会の動きと「難病」の定義
 昭和45年11月、「公害国会」ともいわれた臨時国会で、初めて難病対策についての国会質疑が行われた。しかし当初、難病の定義が曖昧なこともあって、厚生省側の反応は鈍いものであった。しかしマスコミは程なく「難病」を慣用語として使い始め、昭和46年2月20日の朝日新聞朝刊には「難病対策救済基本法」の私案なるものが掲載された。これを受けて全国難病団体連絡協議会は、国会議員への直接的な陳情を開始した6)。
 昭和46年5月には、難病対策議員懇談会が64名の超党派議員により発足し、難病研究の状況、医療費などの困窮の実情、生活の実態などについて患者代表、専門学者などを招いて数回の会合を行い、難病対策の緊急性は次第に、社会労働委員会、社会部会へと浸透していった。
その結果、昭和47年4月14日第68回国会の衆議院社会労働委員会において、「特定疾患対策に関する件」が取り上げられ、参考人として虎ノ門病院長沖中重雄、スモン調査研究協議会会長甲野禮作、帝京大学教授清水保、東大教授白木博次の諸氏が意見を陳述することになった。この中でとくに「難病」の定義が問題になり、次のように整理された3)。

第1概念:原因不明、治療法未確立であり、かつ後遺症を残す恐れが少なくない疾病(例:ベーチェット病、重症筋無力症、再生不良性貧血、悪性関節リウマチ…沖中による医学的定義)。
第2概念:経過が慢性にわたり、単に経済的な問題のみならず、介護等に著しく人手を要するために家庭の負担が重く、また精神的にも負担の大きい疾病(例:小児がん、小児慢性腎炎、ネフローゼ、小児喘息、進行性筋ジストロフィー、人工透析対象者など…白木による社会学的定義)の2つの概念が浮かび上がってきた。

 それに先立って厚生省は、昭和46年4月より省内に科学技術審議官をチーフとして「難病対策プロジェクトチーム」を発足させた。その結果、昭和47年のプロジェクト報告の中で、「難病の定義」について触れている。それらを抜粋すると、「難病の定義は医学辞典にも存在しないし、また難病対策と銘打ったものは諸外国にも存在しない(中略)。 ところが医学の進歩、社会生活の著しい変化によって、今まで宿命的なものとして放置されてきた疾病や症状が難病として掘り起こされてきた。 しかも社会環境の複雑化に伴ってさまざまな健康阻害要因が増大しつつあるため、原因不明、治療法のわからない新たな難病発生の可能性が増えつつある」との認識を示している。
 ここで前述の第1、第2概念を2つの観点からの難病の定義として認め、「(1)は純医学的に個々の疾病の特徴として難病を把握したものであり、(2)は社会的に、 疾病の種類如何を問わず、患者のおかれている臨床終末像および社会的立場に力点を置いたもの」としている。「しかしながら(2)を強調するあまり、 難病のカテゴリーを無制限に拡張し、長期慢性の疾患すべてを含めることは、かえって難病対策の重点をぼかすことになり、国民の容認する範囲を逸脱して、総花式となり、 特殊な施策として早急な医学研究を促進し、医療・福祉の弱点を補強し、生きる権利、健康への復権を保障するという難病対策の意義を失わせることになる。
 従って、緊急性、重要性などを十分に考慮した上で、疾病の主症状を抜き出し、対策の対象として指定せざるを得ないし、 また研究対象としてのみ指定して医療費の公費負担は現行保険制度で足りるものと判断することもあろう。」下線およびゴチックは筆者が付したものであるが、 下線のところでは当時のプロジェクトチームが難病対策を「当座の政策」的な意味にとっていた可能性をうかがわせる一方、ゴチックの考え方は、 同じ病名でも一定度まで進んだときに難病指定される場合を想定したものと思われる。
 最後に「難病の範囲は固定したものではなく、計画的、年次的に拡大することが必要であるが、社会保険の抜本改正によって、高額医療が解消し、 あるいは給付率が高められるならば、医療費に関する限り、難病でなくなるものも出てくるであろう」と締めくくっている。
 また同じプロジェクト報告の中で、「難病」の定義が時代により変わりうる恣意的なものであることと、難病の場合、疾患ごとに特異性を持ち、対策も異なることから、 これらを一括して一つの法律で対応するのは困難であるとして、難病対策の法制化には消極的であり、むしろ福祉諸制度をきめ細かく運営していくのが有効であろうとしている。

2.難病対策のスタート
 厚生省は上述の省内プロジェクト・チームの検討を経て、田中角栄内閣の発足後、昭和47年10月「難病対策要綱」(表2)を発表した。
 その中で、対策の進め方として次の三点を柱とした。

(1)調査研究の推進(調査研究費の対象)
(2)医療施設の整備と要員の確保
(3)医療費の自己負担の解消(治療研究費の対象)

であり、この他福祉サービスの面にも配慮していくこととした。
 同じような疾患でも、老人対策、成人病対策、精神衛生対策など、他の制度として行われているものは、重複を避けるため難病対策としては取り上げないこととした。 また治療研究事業の実施主体は、他の公費負担医療制度と同様に都道府県となった。厚生省では、昭和48年度の所管予算の10本の柱の一つと位置付け、 47年11月から公衆衛生局に特定疾患対策室を設置し、さらに48年8月よりは組織を強化するため、これに代えて難病対策課を新設した。
 この特定疾患の決定および対策の推進のために、医学の各分野の権威者からなる「特定疾患対策懇談会」が昭和47年12月、厚生大臣の私的諮問機関として設置された。 会長沖中重雄ほか11名で構成されていたが、昭和51年よりは吉利和が会長となり、さらに5〜6名の専門委員が加わった。
 特定疾患の選定にあたっては、およそ難治度、重症度が高く、予後が不良であり、後遺症を残す恐れの大きい疾患の中から、 症例が比較的少ないために全国的な規模での研究を要するような疾患が逐次取り上げられた12)。
 昭和47年度には調査研究を行う対象疾患として、スモンの他、ベーチェット病、重症筋無力症、全身性エリテマトーデス、サルコイドージス、再生不良性貧血、 多発性硬化症および難治性の肝炎の計8疾患が取り上げられ、指名された班長の下に疾患ごとに全国の専門研究者からなる調査研究班が組織された。 国はこれに対し昭和47年度で2億2000万円を計上した。
 さらにこのうちスモン、ベーチェット病、重症筋無力症および全身性エリテマトーデスの4疾患は治療研究の対象疾患とされ、治療法解明のための研究に協力し、 入院した受療者には協力謝金の名目で、国が1万円支給し、都道府県もほぼ同額を支給することとした。さらに48年度からは、この治療研究費については、入院、退院を問わず、 社会保険各法の規定に基づく医療費の自己負担分を全額公費で負担(国と都道府県で2分の1ずつ負担)することになった12)。最近では、 この両者の分担の割合は都道府県側に増大しつつある。

3.厚生省の戦略
 難病対策の導入によって不採算医療としてこれまで省みられなかった難病患者に日が当たることには、これまでことあるごとに厚生省と対立関係にあった日本医師会ですら反対する理由はなかった。
 適切な主任研究者の下で、臨床に偏らないで、基礎研究者や社会学者の参加を得て、「目的(疾患)指向性」の強い研究が厚生省のイニシアティブによって推進されることになった。これによってこれまでの日本の臨床医学に欠けていた全国的な疫学データや患者動態が把握されるようになった。 これは日本の先進医療への新しい総合的戦略の第一歩と位置付けられて、学会からも医師会からも歓迎された。
 時あたかも歴代の総理大臣の中でも最も世論操作と官僚操縦術に長け、しかもオイルショック寸前の豊かな財政を一手に握った田中角栄総理にとっても、 願ってもないタイミングと一石三鳥のアイディアとして受け止められたことは間違いない。
 これはまさに大衆の中に鬱積したエネルギーを最大限に利用し、官・学の協力によってある程度実験され、 創造されたアイディアを十分に駆使したキャンベルの定義1)による政治的(political)モデルの公共政策の一つであることは間違いない。
 しかし「難病対策」は人口10万人に数人から100人ぐらいの稀な病気を対象にしたものであり、 そこに効率性を度外視して多額の公的資金を投入することには財政的な批判があっても不思議ではない。
 その点では恐らく厚生省の上級官僚の頭の中には、 当時成功しつつあった通産省の「傾斜生産方式」が日本産業の近代化の達成に果たした役割と難病対策との類似性が想起されていたのかもしれない。 またそれまでの後追いの監督官庁から、前向きの政策官庁への脱皮のチャンスとして捉えていた可能性もある。
 事実、難病対策の導入後、厚生省と大学研究機関との接触のパイプは太く、多様となり、厚生省の先進医療への研究費の補助金は急増している。 大学・医療機関の先進的な研究者達にとっては、厚生省が文部省とは違った面での良きパトロンであり得ることが認識され出した。またこのことは、 難病対策の発足前にどれだけ読み通されていたかはわからないが、ともかく厚生省のその後の高齢社会への対応、 政策にとっても重要な導入部としての役割を果たしたことになる。

V.難病医療と福祉――公共政策の進化
 難病対策はこれまでみてきたように、ある種の政治(Political)モデルによる公共政策であった。しかしこの難病対策という公共政策の成立は、あくまで社会が一つの合意に達し、 共通の道具を使用することを取り決めたに過ぎない。その誕生以来25年以上が経過しながら、現在も生きつづけているのは、 単なる慣性(Inertial)モデルとして生き残っているのではなく、時代とともに難病患者のニーズが変化し、 それに対して少しでも難病患者の役に立ちたいという医療者や担当官僚の良心(good will)に基づく現場での改善・調整努力の結果、 創立時には予想も出来なかったような種々の手直しが行われ、再生発展し続けたと言って良い。
 われわれ医療者は常に難病の患者および家族が、日々何を求めているか、どういう生と死を望んでいるかに深く思いをめぐらす必要がある。当然のことながら、 難病に襲われた患者はまず「自分がいま罹っている病気は何なのか、治らないのか、それが知りたい」という一心から専門医に助けを求めるのである。 しかし次には「どうやら頼りにしていた医師にもよくわからない、治らない病気らしい。なぜ自分だけがこんな病気に罹ったのか納得できない」という、 自分の運命に対する人生を懸けた戦い、苦悩の年月を過ごすことになる。その難病の受容の後に来るものは「残された生をどう生ききっていくのか。 少しずつ失われていく身体の機能(ADL)、生命の質(QOL)を少しでも長く良く保ちたい」という希求であろう。
 このような人々とその家族に対して、現在われわれの出来ることは極めて限られたものであることを謙虚に認めねばならない。 このような患者のニーズに多少なりとも貢献してきたいくつかの事項を、福祉問題を含めて以下に取り上げてみたい。

1.研究体制の発展と問題点
 昭和48年以降、難病対策の研究対象疾患は、年々加えられてし、昭和50年には40疾患、40研究班にまで増加している。
 さらに51年度からは、疾患別研究班のほかにテーマ別研究班を設置し、また類縁疾患を含めた疾患群別研究班を設けるようになった。その結果、52年度には31の疾患研究班と、 12のテーマ研究班、合計43研究班によって60疾患が研究対象となっている。その予算も47年度2億2000万円であったが、以降毎年増額されて、51年度9億9000万円、52年度11億、 53年度11億7000万円となっている12)。
 研究対象も神経難病14、自己免疫疾患14、消化器系難病12に拡大していたが、昭和53年からは神経系疾患については、「変性性神経疾患」班と「免疫性神経疾患」班に大きく統合され、 自己免疫性疾患についても、「自己免疫疾患に関する」研究班と「系統的血管病変に関する研究」班に統合することになった。これらの大型化・横断化と、 テーマ研究班の推進とが相まって、複雑な疾患の問題点を縦横から攻めていく戦略がとられることになった。また難病研究は、極めて社会的要望の強い政策的研究でもあることから、 治療、リハビリテーションにも力を入れ、「難病の治療看護に関する研究班」(班長 宇尾野公義)などのユニークな班も発足し、 これは後に「難病のケア・システム班」(班長 広瀬和彦)に発展した11)。
 一方、文部省においても、昭和49年度から51年度までの3カ年間にわたり、特定研究の一つとして「難病の発症機構に関する基礎的研究」を取り上げ、 この9部門からなる大型の「難病班」の研究はさらに3年間延長され、厚生省の班よりも発症機構に重点を置き、運動ニューロン症(班長 豊倉康夫)、 有機水銀中毒(班長 椿忠雄)や先天性代謝異常(班長 山川民雄)などについて大きな成果を挙げた。
 難病の調査研究の最も大きな特徴は、成因解明のために、丁度期を一にして発展してきた遺伝学・免疫学の専門家が多数研究班に加わったことと、スモンの例が示すように、 疫学・社会科学・福祉や行政などの広範な専門家が参加した総合的、多面的研究組織が作られた点にある4)。
 昭和58年の時点で、過去10年間における特定疾患対策の臨床研究の成果を要約して、国立精神・神経センター総長里吉栄二郎は、

(1)各種神経難病の疫学的調査が全国規模で行われ、その患者数、性別、発症年齢、地域差や実態が明らかにされた。
(2)難病の診断基準、検査手技、分類などが統一され、診断が容易になった。
(3)各疾患の病態が明らかにされ、欧米の病態と比較検討が行えるようになった。
(4)治療法の開発が盛んになり、難病に対する治療も一部の疾患で著効を挙げた。
(5)最も効果があったのは、一般の医家の難病に対する関心と知識が飛躍的に向上し、この結果、難病の早期発見、早期治療が可能となってきたことである。

の5点に集約され、多くの患者に救いと希望がもたらされたことを強調している13)。

 難病研究の拡大長期化と、一方では財政的制約のために、さらに厳しい自己評価システムが必要となってきたので、特定疾患対策懇談会は、 昭和61年より新たに下部に評価調整部会を設置して、毎年の班長よりのヒアリングを公開性とし、 (1)各研究班の研究内容の評価、 (2)2つ以上の研究班に共通する研究テーマに関する調整、 (3)新たに研究班を編成する必要のある研究テーマに関する調整などの作業を任せた。 それと平行して、研究費が特定の長老的研究者に集中することを避け、若手研究者の自主的研究の発展を期待することとした。
 その間、図1にみられるごとく、財政的理由から調査研究費は1年1疾患が加えられる程度で、平成7年度の調査班数は44班で、年間約15億円のレベルで、 研究費は横ばい状態である。一方、治療研究対象疾患患者の実数がうなぎのぼりに増加し、厚生省の財政はもとより、 バブル崩壊後の地方自治体にとっても大きな財政圧力となってきた。
 そこで厚生大臣の諮問機関である公衆衛生審議会の一つ、成人病難病対策部会(部会長 大谷藤郎)に平成5年7月より難病対策専門委員会(座長 黒川清)を設け、 21世紀に向けての難病対策の現状と、その評価および今後の対策の方向につき、患者団体や都道府県からの意見聴取を含めて15回にわたって広範囲に検討を加えた。 この間、平成6年7月18日に中間報告を取りまとめて公にし、さらに患者団体の意見を聴取した上で、最終報告を平成7年12月17日、厚生大臣に提出した。 その最終報告の骨子は、図2にまとめられている14)。ここではまずこの報告を受けて特定疾患「調査研究班再編成検討委員会」 (委員長 井形昭弘)が平成7年11月より4回にわたって審議してまとめた調査研究の今後の具体的方向について述べる14)。

(1)臨床調査研究グループの創設
 従来の44調査研究班のうち37の臨床系調査研究班を、14の「臓器別臨床調査研究班」に再編成しなおし、 3年を限度として各班員数を限定して一人当たりの研究費の増額と責任体制の明確化をはかった。研究対象疾患の診断基準や治療指標を適宜作成または改定することをも求めた。
(2)横断的基礎研究グループの創設
 疾患にとらわれない総合的な調査研究を行うために、@基礎研究、A特定疾患遺伝子解析、B社会医学研究(疫学研究とQOL研究)、 C政策的研究(リサーチソースバンク研究・緊急研究・評価研究)の4本柱が設定され、全体の研究システムにメリハリがついた。 とくに緊急研究班では後述する「薬剤の適応外使用」の実態や、 わが国での脳外科手術に関連したクロイツフェルト・ヤコブ病の実態(班長佐藤猛)などが明らかになるなど成果が現れてきている。
(3)その他:研究評価体制の強化、研究発表の公開、若手研究者の育成強化(難病特別研究員の設置)、定年(70歳)制の導入などについても、具体的な案が盛り込まれた。


2.医療機関の整備と治療研究
 難病対策要綱の実施のための第2の柱、医療施設の整備については、大学病院や公立病院に依存するところが大きかったが、 厚生省としてはまず国立病院・療養所を受け皿として整備することとした。そのため、疾患の病態、急性か慢性かおよび総合的な対応の難易度、長期療養の必要性などから、 国立病院と国立療養所の機能分担を明確にしながら、年次的に整備にあたった。即ち、国立東京第一病院を基幹的研究・研修施設である国際医療センターとして整備し、 小児難病の基礎的総合的研究を推進するための国立小児発達センターを、またリウマチ・アレルギー疾患については国立相模原病院、 血液疾患については国立名古屋病院などの整備が順次行われた。
 一方国立療養所においては、精神・神経・筋疾患を総合的に研究するために、国立武蔵療養所内に神経センターを整備した。 これは昭和62年の大規模な国立医療機関の統廃合計画(10ヵ年)の中で国立国府台病院および精神衛生研究所を統合して、国立精神・神経センターを整備した。 これは後に国立精神・神経センターとなった。さらに多くの国立療養所が後述するような疾患別の基幹施設として再生を計って現在に至っている。
 ここではとくに難病基幹施設に対する臨床研究部のあり方について触れ、さらに難病の治療研究の問題点について述べる。
 難病の患者を一個の現場の病院で診る時に、臨床医は一体何が出来るのか。かなり悲観的になってくる。それは今までの中央検査部で可能な検査では、 何も指標となるべきデータが得られないことが多いからである。何らかの実験的な治療(後述するごとく、それが許されるとして)が可能だとしても、 指標となるべき検査データが必要であろう。そのためには種々のネットワークを通じて、高度な検査を国立精神・神経センターのような外部機関に委託するか、 自力で検査法を開発するしかない。こう考えたとき、難病を取り扱う国立療養所には、それを専門とする臨床研究部を設置することが不可欠であり、それがなければ、 病院は「単なる難病患者の収容所に堕落してしまう」というのが私の持論であった。
そこで私たちがスモン患者の病棟の設置を受け、このことを厚生省に強く主張し、昭和55年宇多野病院には、国立療養所としては第1号の臨床研究部の設置が認められた。 それ以後、病院全体としてある程度の人員と指向する難病が定まれば、順次臨床研究部の設置が認められるようになり、今では国立病院25ヵ所、  国立療養所22ヵ所に臨床研究部が設置されている。
 それらの臨床研究部における研究の特徴は、@自病院で多数取り扱っている各種の神経難病、筋ジストロフィー、脳血管障害、てんかんなどの診療に根ざした課題を研究対象にしている。A長期追跡による病態や治療法の開発研究に力を入れ、多施設の共同参加によって、二重盲検法などの治療研究が行われている。B重度・複数の障害を持つ長期入院患者の病態管理上の問題やリハビリテーション、医療機器、装具開発を研究している、などの点である。
 比較的定員数の少ない国立療養所の現場で、臨床の傍ら、研究を続けることには並々ならぬ努力が要求される。それにもかかわらず、国療の若手臨床研究者による学会での発表論文は量・質とも、ここ10年間に飛躍的に伸び、最近では国際誌でも、そのユニークな研究のいくつかは高く評価されるようになってきた。
 また平成8年よりは、病院・療養所の臨床研究部の運営費も外部評価委員会により、毎年の研究実績の厳しい査定に従って配分されるようになった。
 厚生省では、昭和60年に「国立病院・療養所の再編成合理化の基本指針」が策定され、さらに平成4年には外部の学識経験者を交えて「経営改善懇談会報告書」が提出された。
 これにより統廃合が進められ、国は政策医療を分担し、一般医療は民間に優先する方針を打ち出した。平成11年の再編成計画の見直しにより、政策医療の範囲を先駆的な医療や難治性の疾病等に特化し、政策医療の14の分野ごとに、診療・治療研究、教育研修および情報発信を担う全国的な政策医療ネットワークを構築することになった。図3は「神経・筋疾患(筋ジスを含む)」および「免疫異常」のネットワークの例であり、国立精神・神経センターおよび国立相模原病院を中心に、基幹医療施設および専門医療施設間の連携の緊密化をはかっている。
 今、国立病院、療養所は数年後に迫った独立行政法人化の嵐の真っ只中にあり、採算性を無視した医療は成り立たない。しかし社会は独立行政法人化した後も、これらの病院に不採算的な政策医療を強く期待していることは変わらない。研究的側面や若い人々への研修制度を持たない政策医療はあり得ないし、難病対策はその最たるものであることは確かである。この厳しい時代に、施設をあずかる立場にある人々の、先見的で公正な指導力に期待するところ大である。
 現場の医師は、難病患者または家族からどんな薬でも良いから試しに使ってほしいと頼まれることがある。しかし無原則に試行するべきではない。これについて、私は第11回日本神経治療学会(平成6年)の会長講演で私見として次の5条件を提唱した16)。それは、

(1)ヘルシンキ宣言およびGCPガイド・ラインに基づいて、新しい治療研究に関するあらゆる情報が患者に知らされ、しかも患者の自由な判断が保障されること。
(2)文献的に、または動物実験のデータなどから、その疾患に対する効果を期待すべき科学的根拠があること。
(3)一定のプロトコールに従って計画され、得られた結果が公表に耐え得るように準備されていること。
(4)治療前後での指標が科学的かつ推計学的に意味があると判断しうること。
(5)当該施設関係者以外で、かつ医学関係者以外の学識経験者の加わった倫理委員会の承認が望ましい、であった。

 その後、厚生省は特定疾患政策的研究部門の緊急研究班として、平成8年に「特定疾患調査研究における医薬品の適応外使用に関する調査研究班」(班長 野崎貞彦)に委託して、 難病各班での実態調査を行い、実施についてのガイドラインを作成した.その時行われた全難病班員へのアンケート調査では、適応外使用に関心を持っているもの87.7%で、 日常診療で「しばしば使用」と「時々使用」を合計すると48.0%の高頻度であった。このため上述の私案に類似した「適応外使用指針」が公にされたが、関係班員の中ですら、 あまり周知されていないようである。
 また難病を対象とする医薬品や医療用具は、その必要性が高いにも拘らず、患者数が少なく市場性が低いために十分に研究開発が進まない状況にある。
 このようなオーファンドラックの開発研究費を支援すべく、厚生省薬務局は稀用医薬品の開発を支援し、承認申請の簡素化を図ることとした(昭和60年6月)。
 これを踏まえて、平成5年4月に「薬事法および医薬品副作用被害救済、研究振興基金法の一部を改正する」法律を公布した。
 この稀少疾病用途薬品は、対象患者が本邦において5万人未満で、医療上とくにその必要性が高いものの申請を受けて、 中央薬事審議会の意見を聞いて厚生省が指定するものとした。医薬品機構は@助成金の交付、A税制措置、B指導助言、C優先審査などの便宜を図ることとした。 平成12年6月19日現在141品目が指定され、このうち67品目がすでに承認されている。難病関連では、多発性硬化症、重症筋無力症、ALS、脊髄小脳変性症、 原発性胆汁性肝硬変などの治療薬が指定されている。

3.財団・協会の役割
 難病対策が発足した翌年、昭和48年10月に、難病研究の振興、国民の健康・福祉の向上のために民間の推進母体として、医学研究振興財団(初代理事長 山本正淑)が設立された。 この財団は、昭和59年より「難病医学研究財団」と名称を変えて、現在も続いている。
 その主たる事業は、

@一般シンポジウム:臨床の医学者以外に基礎医学者、工学系学者や、経済学者や評論家などを招いて、「一般シンポジウム」を開催し、「遺伝と環境」「老化とは何か」 「固体と集団」「生命の見方」など、難病克服への視点を踏まえた幅広いシンポジウムを開き、出版刊行した。
A国際シンポジウムとワークショップ:国外からの著名な研究者を交えた学術研究集会を毎年2〜4回開催した。“アジア地域における多発性硬化症”(昭49)、 “遅発性ウイルス感染症”(昭49)、“膠原病と血管病変”(昭50)に始って”免疫不全“(昭51)、”ベーチェット病“(昭56)などが次々と取り上げられた。 ”筋ジストロフィー症“のように、昭50、昭55と2回にわたって取り上げられたテーマもあり、多くの研究者にとって今後の研究のヒントとなるような企画が多かった。
Bセミナー:海外より講師を招いて、若合宿形式で、若手研究者を対象にした三年連続のセミナーを開催した。そのテーマは、「神経生物学」、「遺伝学」、「組換えDNA」で、 この受講者の中から多くの新進の難病研究者が輩出している。
C研究奨励賞金:毎年数人を選んで中堅研究者を対象にして厳正な選考により研究奨励金を交付している。
D講演会:さらに最近では年1回、全国保健婦を主たる対象にして、「難病研究の進歩」を各班の班長に逐次講演を依頼して、研修の実を上げている。

 昭和54年度に東京で開催された「重症筋無力症国際シンポジウム」に招待されたジョン A.シンプソンは、 重症筋無力症が胸腺で産生された抗体の神経筋接合部でのブロック作用であることを予言した著名な神経学者17)であり、 長らくJ. Neurology and Neurosurgeryの編集主幹を務めていた人である。彼はこの財団の組織したシンポジウムの成功を高く評価しているが、 研究の進め方に関しては「ある研究において、全く新しい面が開かれてくるというのは、任命された研究チームで行う場合にはめったに起こらない。たいてい、 個人的に、自然科学のある分野から別の分野へ概念を転換させたら新奇なインスピレーションや『側面からの思考』が湧き起こり、その結果そうなったという場合が多い。 〔中略〕だから、若干の施設に対して、豊富な症例を長期にわたって深く研究するように奨励し、そこに働く研究者たちに対しては、 定期的に自分たちの観察結果を話し合う会合を持ち、相互の信頼の下に検証可能な仮説を立てていくようにさせることが望ましい」と述べている18、19,20,21)。
 今後の難病研究とそれを支持する財団のあり方に対して、極めて示唆に富んだ提言である。わが国での多発性硬化症のHTLV-1 説に触発されて、 井形昭弘らのグループが発見したHAM19)や最近では国療宇多野病院のてんかんグループの共同研究によって、 内側型側頭葉てんかんノサイトカイン説20、21)などがこれに当たるものだろう。
 難病に関する財団や協会としては、このような難病対策をトータルに捉えることを目標としたものがまずスタートしたが、その後、 神経疾患研究振興財団(理事長:里吉栄二郎---若手研究者への奨学金交付など)、日本二分脊椎・水頭症研究振興財団 (理事長:松本悟---若手研究者への奨学金と患者・家族教育など:因みに本財団が刊行している患者向けのサーキュラーは患者と家族に生きる勇気を与える素晴らしいものである)、 日本多発性硬化症協会(会長 菊地清明 ---研究奨励と患者の教育および相互の交流など)、日本ALS協会(会長   )のように疾患対象を限定したものも誕生してきた。
 財団ごとにその設立の歴史、目的が少しずつ異なっているが、現下の財政難の中で、それぞれに創意工夫を凝らして健闘している。
 私はかつて米国のパーキンソン病患者の家族が書いたパーキンソン病に関する半専門書を翻訳したことがあった22)。その時、日本の患者会や家族の手記、 体験記と比較して、彼らが個人として難病に対峙して一歩もたじろがない姿勢に強く打たれた。 とくに難病の実験的治療に参加する患者の一人一人の勇気と医師-患者間の同志的な協力関係が新しい治療法を生み出していることに強い共感を覚えた。
 それと同時に米国では、パーキンソン関連だけでもいくつかの財団が活動しており22)、それぞれが多額の研究費の支援や治療情報の速報、保健婦の教育など、 多彩な活動を行っていることを知った.わが国でも今後、官に頼るだけでなく、このような領域に多くの専門知識をもったボランティアの参加が望まれる。
 また財団の運営方針も今後は、国際化を見越して、今までよりもamorphousな、未知の領域の仕事に基金を投入するだけの先見性と勇気、 また現場感覚と成果重視の気風が必要になるのではなかろうか。

4.難病医療の福祉との連携23)
 難病患者の多くが完治することが困難な長期慢性疾患患者であることを考えれば、当然在宅ケアを含む包括的医療システムを創造することの必要性は明らかである。 しかし患者は広域に居住しており、症状も進行性で、慢性期あり、予知できない増悪期あり、その時々に高度医療と人手を要する介護の両方が必要であることから、 そのケアのシステム化は容易でない。東京都では、早くから都立神経病院が医師会とタイアップして、神経難病患者の検診をはじめており、 これが退院患者の在宅看護のための医療相談室を創設する契機になった3)。
 私たちが京都の保健所と接触するようになったのは、昭和52年に京都府下4町で、京都府の委託により「パーキンソン病の有病率」を悉皆調査した時からである。その後、 向陽保健所に招かれて難病対策の講演をした。この時保健婦たちの新しい医学知識に対するすばらしい吸収力に強い感銘を受けた。
 これがきっかけとなり、宇多野病院の医師たちが交代で京都府下保健所へ出向して「難病相談」を支援することになり、京都府衛生部のバックアップによって、 このシステムが府下全保健所に拡がった(図4)24,25)。これとほぼ同時期に、大阪吹田保健所、富山保健所、横浜、北海道などの各地で同様の試みが行われるようになった。 これを受けて平成元年度より、厚生省疾病対策課は「難病患者医療相談モデル事業」を開始し、さらに平成2年度からは保健所の訪問看護にも府県への補助金を出すこととした。 次いで、これらの新しい動きと連動して、平成8年の難病対策専門部委員会の最終報告では、図5のように、福祉との連携が図られることとなった。以下これについて述べる。

(1)保健所を核とした地域ケアシステムの構築
 平成9年度より新しく発足した地域保健法では、保健所の機能の一部を地方自治体に分権委譲するとともに、保健所を統合、広域化し、医療情報のコーディネータとしての機能を強化することとなった。すなわち、新しい保健所は「AIDSなどとともに難病に対しても、高度かつ効率的な保健指導の実施主体あるいはコーディネータ」となり、地域医師会、医療機関、市町村、保健・医療・福祉機関を含めた総合的な地域ケアシステムの構築および情報提供や研修などを充実、推進することとなった22)。

(2)地域支援ネットワークの構築
 これまでの難病対策の中で調査研究の成果の広報化、専門医および専門医療機関へのアクセス、一般医師および患者への情報提供の流れが極めて不充分であったとの反省の下に、 国の補助による「難病情報センター」の設置の方向が提案された。また、国立療養所犀潟病院が中心となって、「国立療養所神経筋難病研究グループ」の製作により、 インターネット上で神経筋難病情報が次々と流され、その内容も次々と改訂されて、最近(平成12年6月)までに13万人以上のサイト・ビジターが数えられている。
 一方、ALSを中心とした重症難病患者で、在宅ケアを希望する患者・家族が増えてきたのに対応して、緊急研究班として「ALS等の患者の療養環境整備に関する研究班」(主任研究者:佐藤猛)、基礎研究部門の中に、平成10年度には政策的研究「神経難病医療情報整備研究班」(主任研究者:木村格)、次いで平成11年度には「特定疾患対策の地域支援ネットワークの構築に関する研究班」が継続して研究活動を推進している。
 これには地域的にも北海道から東北、関東、中部、近畿、中国、四国、九州の各大学研究者と国立病院・療養所などの難病医療実践の研究者を網羅して、 全国からの班員が参加している。
 そこでは各地の特殊性を考慮して、例えば、新潟市の例(図6)26)が示すように、行政、福祉公社、患者会、ボランティアグループなどが緊密な連携により、 難病患者の病状の進行に応じた在宅ケアの確保のためのケアネットワークを創設している。
 これらを受けて、平成11年から厚生省は「重症入院施設確保事業」を予算化し、各都道府県は@難病医療連絡協議会の設置、A難病専門員の配置、 B拠点協力病院の選定、C相談窓口の設置などの事業を開始した。

(3)その他
 難病患者のQOLの向上を目指して、ホームヘルプサービス、ショートステイ事業および日常生活用具(便器、特殊マット、体位変換器など6種)の給付事業などを新たに創設することになった。

5.公的介護保険の導入と難病対策
 わが国は、平成9年から数次の国会審議の末、医療(健康)保険、年金保険、雇用(失業)保険、労災の4種類の公的(社会)保険制度についで第5番目の公的介護保険制度を導入することが可決された。
 この介護保険制度では給付対象が第1号被保険者は、65歳以上の者であり、第2号被保険者を「40歳以上、65歳未満であって、その要介護状態の原因である身体上または精神上の障害が政令で定める15の疾病(特定疾患)によるもの」と限定している。
 この中には難病対策の対象であるALS、パーキンソン病、後縦靭帯骨化症、シャイ・ドレーガー症候群、脊髄小脳変性症が指定されている。また難病に関連した疾患としては、初老期における痴呆、慢性閉塞性肺疾患、慢性関節リウマチ、脊柱管狭窄症などがある。ドイツで先行している公的介護保険制度の場合は、給付対象者の年齢制限がないのと比較すると、この15種の「特定疾患」だけへの限度には疑問が残る。
 すでに見てきたように、難病に対する福祉政策は平成8年より実施されてきたのだが、これが新しい介護保険の導入により、難病としてのサービスの低下を招くのではないかという危惧が患者家族はもとより、市町村からも示唆されていた。とくに重症で、在宅人工呼吸療法などを受けている難病患者に対しては、限定された介護サービスではほとんど役に立たないことは明らかである27)。このため、今後介護サービスに医療行為を含むための法改正、技術指導の必要性など、新しい問題が生じている。
 公的介護保険の導入そのものがかなり拙速を選んだ経緯からも、種々の手直しが必要であり、難病対策の場合と同様に現場の意見を反映して進化を遂げていく必要があることは明らかである。

VI.難病対策の未来像
 最後に、難病対策の21世紀の姿を予測してみたい。まず難病対策の長期的な未来を考えるときに、もはや逼迫した国家財政の中で国が特定の疾患だけを難病に指定し、 それに対してだけ効率を省みずに多くの補助金を投入するような仕組みには国民の多くの支持が得られなくなりつつあることを前提にせざるを得ない。
 キャンベルが推論しているように、国の公共政策の転換はエネルギーとアイディアの組み合わせで決められていくとすれば、 難病対策は政治型モデルとしてスタートしたが、エネルギーが不足してくると、いかにアイディアがあっても、他に今回の公的介護保険のような、 より強力なエネルギーを持ち、包括的なアイディアが提案されれば、認知型(cognitive)モデルと化して、より大型の政治型モデルの中に組み入れられる運命にある。
 福祉国家の元祖であった英国をはじめ欧州各国で、国家財政の逼迫とともに福祉への公共支出を削減し、福祉供給における行政部門の役割を縮小して、 インフォーマル(家族や隣人による)部門、ボランティア部門および営利企業(受益者負担)部門の役割の増大を図っている。 いわゆる福祉多元化(welfare pluralism)28)によって対応し始めている。これは勿論、財政難が最大の要因であるが、同時に国民のニーズの時々刻々変化する多様化への対応と、 福祉政策の効率化、個性化を狙ったものでもある。今回のわが国の公的介護保険がすでに露呈し始めているように、 多くの国民はお仕着せの福祉には拒否反応を示すほどに成熟しつつある。
 一方、これまで見てきたように、過去4半世紀の間、難病に悩む患者と家族のために日夜現場で努力してきた医療人と行政の人々の善意によって開拓された新しい医療と福祉の領域での多くの経験と実績は、今後いろいろな機関によって受け継がれ、貴重な財産として生かされていくであろう。
 このことは、公共政策としての難病対策は、大きな手直しや縮小を余儀なくされるかもしれないが、わが国で誕生したユニークな難病対策の手法や業績は、 21世紀にも形を変えても生き続けていくことを意味する。それらが本書の第2章以下で取り上げられる「ALSのケアシステムと緩和医療」や「難病の情報ネットワーク」や 「QOL測定による難病患者の評価」などのソフトウェア的な諸問題として論ぜられることになろう。
 それでは、これまでの難病患者のための制度あるいはシステムとして進化してきたものはどうなるのであろうか。現在、 わが国の過度の公共投資依存の経済構造全体が行き詰まり、その改革の手法として、私的ベンチャー企業やNPOの発展に未来が託されているのと同様に、 難病対策は、今後もいくつかの曲折を経ながら、より個人の自発性に根を下ろした新しい形態に移行していく可能性がある。
 これに対応して、難病対策の推進に大きなエネルギー源であった「患者の会」についても、私自身も最近、時間ができたので、ボランティアとしてお手伝いをしているが、 これからはより広範な階層、職業の人々を取り込んでいくような発想の転換が必要であろう。 
 これまでのように政府の省庁が直接的に疾患を特定して補助金を出し、監督権を独占するのではなく、英国などで実行されているようなCouncil(評議会)に大きな財政的裁量権を与えたほうが、より弾力的な対策が打ち出せると考えられる。
 一方、難病に悩む患者とそれを支える善意を持った医療人、病院組織などが、自発性を持って財団組織を創生しなければならない。その新しい財団は形式的なものでなく、独自の企画力、綿密な調査能力、多面的な折衝能力を備えなければならない。それを支えるマンパワーとしては、善意の医療人のみでなく、広範な医療と福祉の専門的学識を持ち、 行動力があり、かつ執行の責任をも持ちうるプロフェッショナルの参加が必要である。
 そのようなプランは、現在は夢物語のようにも思えるが、これまで見てきたように、欧米にも、また日本の一隅でもすでに芽生えつつあるのである。

(筆を置くに当たって、本章の完成までに多大のご迷惑をおかけした福原信義先生に厚く御礼申し上げるとともに、人見英子さんに本文の整理、 作成に多大な援助を得たことを記して深謝する。)

■言及

◆立岩真也 2014- 「身体の現代のために・9〜」,『現代思想』 文献表


*作成:北村 健太郎
UP: 20150420 REV: 20150709
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