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『日本の国籍制度とコリア系日本人』

佐々木 てる 20060925 明石書店,190p.


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■佐々木 てる 20060925 『日本の国籍制度とコリア系日本人』,明石書店,190p. ISBN-10: 4750324116 ISBN-13: 978-4750324111  \2520 [amazon]

■内容(「MARC」データベースより)
戦後日本の国籍(制度)をひとつの社会的構築物として捉え、それに翻弄されてきたコリア系日本人に注目して様々な視点から分析し、「日本人」や「外国人」といったカテゴリーの政治性を検証する。

■著者紹介(奥付より)

佐々木 てる(ささき・てる)  1968年生まれ。ボストン出身。
 博士(社会学)。
 筑波大学社会科学専攻修了。筑波大学人文社会科学研究科社会学専攻技術職員(準研究員)。
 主な専門は国際社会学、ネーション・エスニシティ研究、生活史研究。

■目次

はじめに

序論 在日コリアンの国籍取得とコリア系日本人
 はじめに
 1 「帰化モデル」と「参政権モデル」の議論
 2 「コリア系日本人」
 3 制度・政策論的な対応策と社会・文化的な対応策
 まとめ 在日外国人の国民編入の議論に向けて
第1章 戦後日本政府にとっての国籍制度とネーションの設定
 はじめに
 1 集成直後から1952年まで
 2 1952年〜1984年までの言説
 3 国籍法改正と「日本人」イメージの変容
 4 1990年以降の傾向
 まとめ
第2章 戦後日本国籍取得者の概況
 はじめに
 1 日本国籍取得者の現状
 2 在日コリアン社会における日本国籍取得の意味
 3 在日華僑社会における日本国籍取得者
 4 国際結婚
 まとめ
第3章 コリア系日本人への意識調査
 1 質問票調査の概要
 2 帰化理由
 3 エスニック・アイデンティティの変化
 まとめ
第4章 コリア系日本人のアイデンティティに関する理念型的把握
 1 コリア系日本人のアイデンティティ構築の分類枠組み
 2 事例分析
 まとめ
第5章 日本国籍取得者のライフストーリー
 はじめに
 1 日本国籍取得者の事例:山森由紀子(仮名)
 2 事例分析:国籍取得とナショナル・アイデンティティ
 まとめ


■引用

第1章 戦後日本政府にとっての国籍制度とネーションの設定

「 在日コリアンの国籍取得の問題は、彼らの戦後補償の最終的な問題としての側面を持つ。しかしより積極的な意味として、国内に旧来から「日本人」として所属している沖縄やアイヌの人々の「文化的アイデンティティの承認の問題」と結びつく。すなわち、(排他的差別意識に基づいた)単一民族志向についての言説を根底から覆し、「日本人」という画一的な名付けによって抹消されてきた文化的多様性を救い出すことにつながるだろう。つまり在日コリアンの国籍取得の問題を考えることは、同時に日本という国家が国内の多文化を制度として承認することの一つのステップといえる。そして最終的には現在の日本に必要とされている、包括的な外国人・移民政策へつながってゆくだろう。」(p.14)

「 1980年代までに各種マイノリティ運動の結果、様々な権利が保障されてきたが、最終的には国籍を取得しなければ十分な権利を保障されなかった。そして帰化とは様々な面で労力を必要とした。なにより「日本人/外国人」という二分法という前提があったため、帰化とは「日本人」への同化を意味しており、多くの在日コリアンにとって心理的抵抗があったことは否定できない。帰化が「日本人」への同化を意味していたことは、先にみたように1960年代の帰化制度をめぐる言説にわかり>44>やすく現れていた。国籍を取得するという行為は、あくまで単一民族で構成される日本人に同化するということが大前提であり、そのため「帰化=新たな日本人が生まれる」という感覚であったといえる。そして国内における旧植民地出身者に関しては、単なるやっかいな存在にすぎなかったと考えられる。彼らの多くは単なる「外国人」であり、積極的に同化してもらう必要も本来はなく、いずれ本国に帰るだろうと考えていたと思われる。そのため、日本の国籍を取得するような人は、自らの意思で残っているのだから、「日本人化」を要求するのが当然と考えていたといえる。
 こうした当時の日本政府、もしくは官僚が考えていた、単一民族論を根拠とした「日本人」イメージを図式的に整理しておくと次のようになるだろう。まず単一民族論は「日本人」=「日本民族」=「日本国民(国籍保持者)」という認識である。つまり戦後の「日本人」というネーション概念は「民族」と「国民」を一体化させ、かつシティズンシップを享受するものとしての条件として成立した概念といえる。そして重要なのは「『日本人の血』を引く者だけが国家の正当な構成員だとして、異なる民族に属する人々を排除するイデオロギー」という「イデオロギーとしての血統主義」と結びついていたことにある(柏崎 2002:200)。またこのイデオロギーは、文化的同一性の重視とも結びついていたと考えられる。この点は特に後天的な国籍取得の際に判断の材料となっていた。つまり出生に関しては「血統」の重視によって、そして帰化に関しては文化的同一性の重視により、同質性の強い「日本国民(国籍保持者)」をつくり出すことが基本的な国家方針であったといえる。
 ところが、日本という国家は単に「日本人/外国人」で認識できない人がいること、さらにたとえ「日本人」であっても、二分法が依拠している「血統的に純粋な日本人」という根拠が現実的に崩れ>45>ていることが徐々に認識され、単一民族を背景とした、厳密な国籍法の適用はしだいに矛盾を引き起こすことになっていった。その結果1984年の国籍法の改正につながっていく。つまり、「イデオロギーとしての血統主義」の行き詰まりが「日本人」イメージの変容を促したと考えられる。」(pp.44-46)

「 このように1984年国籍法改正によって、渉外結婚によって生まれた子供も「日本人」となった。純粋な血統主義ではなく、両親どちらかが「日本人」ならばよいということを公に認めたことは、第一に統計的な意味で「日本人」という範囲に含まれる人々の増加を、そして第二に「日本人」イメージの幅を広げることにつながっていった。国籍法改正の波及効果として民族名での帰化を認める素地ができた。実際、1987年から法的に民族名を取り戻すことが可能になり、1990年代には「行政指導」という名のもとに行われていた、日本名への変更は実質的にも行われなくなっていった。>52>例えば、1992年の『民事月報』の記事、「最近における帰化事件の動向」では、「帰化」行政の対象が在日コリアン以外の「日本人の配偶者等」「本土系中国人」「日系中南米人」になってきたことが指摘されている。
 在日コリアンに関しては、「……世代が進み、一世にかわって二世・三世が中核になりつつあるが、新世代に属する人たちの帰化に対する意識は一世の時代とは変わってきている」とした上で「在日韓国人・朝鮮人の法的地位は一層安定」したため日本国籍取得をするものが増えるとしている。また「日本人の配偶者等の帰化」は「国籍は、韓国、中国、香港(連合国)、タイ、フィリピン等の近隣諸国が圧倒的に多」く、「本土系中国人」は「観光、ビジネス、留学等の目的に渡日し、日本社会との結びつきを持った人たちによる申請」が多いとしている。そして「日系中南米人」は「中南米諸国の日系人(移民として中南米に渡った後当該国の国籍を取得した者及びその子孫、中南米で出生したが国籍保留の届出をしなかったために我が国の国籍を喪失した者など)による帰化申請」が増加していると指摘している。結論として「我が国にとって本格的な帰化問題が投げかけられるのは、これからであろう。帰化制度は、新しい時代の入り口に立っているのである」とし、「帰化事件」が新たな様相を呈していることを述べている(法務省民事局、1992、『民事月報』vol.47、No.2:3-6)。ここでいう「本格的な帰化問題」は、さらに同年7月号の記事「国籍行政に思う」においてより明確に現れている。ここでは在日コリアンの帰化、および中国帰国者の帰化を「戦後処理」と位置づけ、上記の「日本人の配偶者等」「本土系中国人」「日系中南米人」を「近時渡来者」として位置付けている。」(pp.52-53)

「 これまでの議論を整理しておくことにする。ただし以下の分類は象徴的な制度改正、もしくは法案作成といったものを中心に考えており、実際は徐々に変化しているといえる。また本稿の冒頭でも述べたように、あくまで国家を運営する側(政府・行政もしくは国家官僚)が設定する「日本人」イメージの変容を提示している。
 まず@終戦から1952年までの「日本人」イメージは単一民族論を採用することで徐々に成立してきたと考えられる。そしてA1952年から1984年まではその単一民族論を根拠として制度を運用してきた。つまりAの時期においては「日本人」のイメージはほぼ固定化されたといえりょう。1952年の昭和国籍法の背景には、「日本人」=「日本民族」=「日本国民(国籍保持)」という認識があったといえる。そしてその時語られた「日本人」とは「純血性」によって再生産され(出生における父系優先血統主義)、「文化的同一性」によって規定(帰化時における日本文化への同一化)される存在であったといえる。
 次にB1984年の国籍法改正以後、単一民族論は建前としてはあるが、これまでの図式では制度の運用がたちゆかないことが認識されてきた。この時期は単一民族論が一つの言説(もしくは神話)であることが徐々に認識された時期といえる。国籍制度は、確かにそれまでと同様「日本人」=「日本民族」=「日本国民(国籍保持)」という図式に支えられている。しかしながら、「日本人」とは>58>「純血」+「混血」によって再生産されると公的にも認識され、また必ずしも「文化的同一性」によって規定するとは限らないものと再定義された。つまり「文化的多様性」の一部が許容(氏名など)されはじめたわけである。この背景には、在日コリアンの問題を戦後処理と捉え一刻も早く解消し、新たに来日した「外国人」への対処を考えなくてはならないという現状があったことは指摘してきた。そしてC1990年代には在日コリアンの国籍取得者も増加し、さらに三世、四世と世代をかさねることによって、彼らが日本人(民族)ではないが「日本国民」であると認められてきたといえよう。そのことが、2001年の国籍法改正案の提示につながっていく。
 さて2000年以降は現状からすれば、「単一民族論」がいまだに社会制度の基盤になっているのは事実である。だが、国籍法の帰化規定の改正は、「日本人」=「混合民族」=「日本国民(国籍保持)」という構図を生み出す契機となる可能性がある。この場合の「混合民族」とは、(日本系)日本人、アイヌ系日本人、沖縄系日本人、コリア系日本人、日系ブラジル系日本人といった人々によって構成されることになるだろう。もちろんこういった認識を政府、行政が持っているとは限らない。現在「簡易帰化」法案が国会に提出されず棚上げの状態になっているということは、民族的意識を持ったままの国籍取得に関して根強い抵抗があると思われる。
 以上のように、制度の背景にある「日本人」というネーションのイメージは変容しているといえる。通常制度が改革されていくのは、現実的認識と制度の矛盾が明らかになってからが多い。特に国籍法といったものは、国家の構成員を選定するという意味で非常に保守的な制度であることは間違いないだろう。そのため、国籍制度が変わることは、「日本人」というネーションのイメージが直接変わっ>59>ていく契機をもたらすのではないだろうか。」(pp.58-60)


補論「近代日本における国籍制度の誕生」 ※下線は佐々木によるもの。

「 先に「日本人」とは誰かという設定を述べたが、国籍法より前に制度的に「日本人」を設定したのが「戸籍法」である。「戸籍」自体は明治以前にもその原型となるものがあった、例えば670年の「庚午年籍」や江戸時代の「宗門改帳」や「人別帳」といったものがそれである。しかし明治期に成立した「戸籍」は全国的なものであり、その意味で現代まで続く近代的な「戸籍」のはじまりだといえる。「戸籍制度」は当時「版籍奉還」(1869)、「廃藩置県」(1871)、「徴兵制」(1873)といった制度と関連していた。「版籍奉還」は各藩が人民(戸籍)と土地(版図)を返上し、中央集権化をはかるものであった。それは同時に「廃藩置県」に結びつき、空間的な「日本領域」を設定する役割を持っていた。最初の「戸籍法」が出されたのが、「廃藩置県」と同年というのも偶然ではないだろう。また「戸籍」は徴税の方式から、「家」単位で編纂されていった点で「徴税制」とのかかわりも深い。「徴兵制」は形骸化した封建家臣団を武装解除し、新たに近代的な軍隊をつくるためであった。

 さて明治32年の国籍法制定以前に、全国的な戸籍作成の試みは、明治4年、明治19年、明治31年の3回にわたり行われている。まず明治4年(1871)の「戸籍制度」(明治5年に施行されたためその年の干支をとって「壬申戸籍」と呼ばれている)では、政府の本務は全国民の保護と明言し、戸籍を作成したものである。その冒頭では次のように記されている。>154>
(引用文省略――石田)
 一読すれば「壬申戸籍」は「全国民」の「保護=支配」体系の確立をねらいとしていたことがわかる。その体系確立のための装置が「臣民一般」という概念である。つまり第一則において「臣民一般(華族、士族、卒、祠官、僧侶、平民)」という語が用いられ、封建的な身分階層制が一掃され、近代的な意味での「国民」観念がつくり出された。
 「壬申戸籍」の特徴として福島の整理を参考にまとめてみる。第一に戸籍は「戸」を単位として編制されるが、「戸」とは「戸主」と「家族」で構成されている。つまり「戸」は共同生活を営む血縁・家族集団であることを原則としていた。第二に「戸籍」は「戸主」によって表示され、代替わりとなった時は、その「戸籍」は改正される。つまり血統主義の「波及性」を明示している。第三に「戸籍」の内容記載は、戸籍書式の「戸籍同戸列次ノ順」とされていた。つまり「戸」内に明確な身分序列が決められていた。第四に身分関係取得の事由を記載するものとした。つまり婚姻等、「家族」構成の変化を示さなくてはならなかった。第五に「戸主」を届け出義務者として、あるいは末端の戸籍役人として、その「戸」に関する一切の戸籍記載に関する責任と権限を付与した(福島 1959:39-41)。福島が指摘するように「戸主が戸長に届け出る方式で『戸主の全権』を認め、これによって人民全体をにぎろうとすることを、われわれは戸長=戸主系列と呼ぶ。これが明治政府の国民統治にお>155>ける底辺工作装置となった」のは間違いない(同:41)。現在家族構成の届け出や記載の順番などはあまり不自然なものとは感じられないのは、国民統治が生活世界にまで浸透しているためともいえる。
 当時においては、「家」とは必ずしも血縁によって構成されていたわけではなく、一つの「戸」の中に非血縁者である「附籍」が存在していた。また生活実態と戸籍の記載事実とが乖離することがあった。例えば都市部への人口移動、徴兵制・税金対策のため戸主が偽りの届け出をする、また地方による書式の不統一のため判読不能といった事態が生じていた。その結果「壬申戸籍」はその戸籍としての機能を形骸化させていった。そのため明治19年に全面改正の運びとなり、「19年式戸籍」が誕生する。

 明治19年(1886)の戸籍法、通称「19年式戸籍」は「壬申戸籍」で問題になった点を考慮に入れ改正された。その特徴は第一に府県庁の厳格な監督手続きを整備統一した点があげられる。これまで「戸主」に任されていたものが監督されることによって、厳正を確保した。同時に戸籍簿副本を作成し焼失等に備えた。第二に登記目録の新設である。これは「加籍、除籍、移動」の3つの目録に分かれており、戸籍届けがあった時にこれに記入するようになった。このことにより、婚姻、縁組み等の管理が行われた。第三に戸籍簿構造と記載様式の改革がある。これによって全国的な戸籍簿の統一がはかられた。第四に寄留制度(90日以上の不在者の届け出)が充実されたことである。最後>156>に出生、死亡、失踪者復帰、寄留などの報告事項は、一定期間のうちに届け出ることとされた点である。違反者は科料に処し、厳格性をたもった(福島 1959:57-59)
 この「19年式戸籍」によってほぼ戸籍制度の型がつくられたといえる。そして最終的に明治31年に戸籍法が改正され、近代戸籍法の完成をみる。これは翌年の「国籍法」とセットになり、制度上の「日本人」の確定を促した。先にあげた「壬申戸籍」の第一則には「日本国民ニツイテ遺漏ナキヲ期スル」とされ、「31年式戸籍」には「戸籍ハ戸籍吏ノ管轄地内ニ本籍ヲ定メタル者ニ付キ之ヲ編制ス。日本国籍ヲ有セザル者ハ本籍ヲ定ムルコトヲ得ス」と明記されている。つまり日本国民であるものは建前上すべて戸籍に登録されていることになった。ちなみにこの戸籍制度は「血統主義」へ決定的な役割を果たす。それは「血統主義」の遡及性の出発点が、戸籍に記載された時点でつくり出され、その後の「波及性」も保証された点である。

 さて「戸籍法」の成立からうかがえることは、近代日本の支配システムが「戸」つまりは「家」単位で行われたきたことである。ここに「血統主義」を支える原理がある。つまり「家」空間において支配者=父親であり、その父親から受け継ぐものが血筋である。それゆえ、父親が日本人であればその血筋を受け継いでいる者は「日本人」という公式が成り立つ。この結果、日本において身分登録制が戸籍制度、すなわち「戸=家」単位で行われている限り、「国籍制度」において「血統主義」を採用するのは自然なことといえる。
 なおもう一つ個人を管理する方法があった。それは江戸時代から馴染みの深い「手形」の変形とも>157>いえる「鑑札制度」であった。明治初期には「内国旅券規則」案として登場している。これは現代的にいえば「身分証明書」であり、常時携帯義務まで盛り込まれていた。結局の所採用されなかったが、現代でも応用版として「パスポート」や「外国人登録証」があることはすぐに思いつくであろう。この方式が成立していたならば、あるいは国籍取得の方法は「生地主義」になっていたのではないだろうか。
 ではこのような鑑札制度が採用されなかったのはなぜか。これは国家建設のイデオロギーの問題であったといえる。つまり「血統主義」「戸籍制度」が採用されたのは、そのイデオロギーと合致していたからである。そしてそのイデオロギーの中心にあったのが「国体思想」を中心とした「天皇制」であった。」(pp.154-158)


引用文献:福島正夫編 1959 『家族制度の研究 資料編一』東京大学出版会


■書評


■言及


*作成:石田 智恵
UP:20080806 REV:20080826
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