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『「負け組」の哲学』

小泉 義之 20060710 人文書院,194p.


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小泉 義之 20060710 『「負け組」の哲学』,人文書院,194p. ISBN: 4409040790 1680 [amazon] ※

■人文書院のHP(序全文掲載)
 http://www.jimbunshoin.co.jp/mybooks/ISBN4-409-04079-0.htm

■目次

1 八月テーゼ――弱さと強さ
2 配分的正義を――死の配分と財の配分
3 無力な者に(代わって)訴える
4 残された者――民主制の内包と外延
5 自爆する子の前で哲学は可能か――あるいは、デリダの哲学は可能か?
6 贖罪の時
7 知から信へ
8 不自由を解消しない自由
9 無神論者の宗教性
終章 資本のコミュニズム

■引用

   … そのうち、します。 …

◇3 無力な者に(代わって)訴える

 「ドゥルーズは、革命について歴史的反省を繰り返す知識人を罵倒していた。[…]反省したい者はいつまでもやっているがいい。しかし、銘記すべきは、いつの時代にも、革命を必要としている人間、革命なくしては自由に生きていけない人間、革命を命がけで求めている人間がいるということだ。そんな人間には、反省している暇などない。」(小泉[60])

◇5 自爆する子の前で哲学は可能か――あるいは、デリダの哲学は可能か?

 「生きているか死んでいるか定かでない状態、それゆえに、死の贈与と生の贈与と経済の絡み合いから絶えず脱落している状態は、最悪の状態であるとしても、決まりきった世界、脱構築だけが進行する世界において、底知れぬ善意や悪意の歯の立たないような最善のものを告げる予兆であるかもしれない。そして、自殺に失敗したもの、自爆に失敗した女性、死線を潜り抜けた病人は、明日の哲学者の予兆であるかもしれない。」(p.101)

◇7 知から信へ

 ドゥルーズ『シネマ』
 「私たちは倫理や信仰を必要としている。こう言えば馬鹿どもは笑うだろう。しかし私たちが必要としているものは、別の何かを信じることではなく、馬鹿どももその一部としてあるこの世界を信じることなのである。」([128])

 「純粋理性を実践的に拡張して生きる人間とは、例えば病人のことであると考えてみることができる。病人は、生きる法や命令に服するために必ず要請されるべき何ものかを知っている。例えば、貨幣、水と食物、人工呼吸器、医薬品、誰かの手、何らかの希望である。そして、病人は、それらをもたらすものの存在を命懸で信じている。とすれば、病人こそが<0129<真の導師であることになろう。」([130])

 「「われわれ」は、選んだもののかけがえのない絶対性を信じたくなるときがある。しかし、信の内容に絶対性があるはずもない。絶対性は、信の作用を突き詰めて探されるべきである。」([130])

◇終章 資本のコミュニズム

 「ベーシック・インカムは賃金労働と分業を前提としている限りにおいて、社会主義の分配の改良版にとどまると言わざるをえない。たしかに、市民手当・参加所得などと区別される、資本のコミュニズムとしてのベーシック・インカム構想はよりマシな再分配を説得するための戦術として重要である(フランスのRMI[参入最低限所得]の経験を参照)。しかし、それだけでは、資本の社会主義に回収されてしまう。」(小泉[2006:187]、他の箇所では小泉[2006:140-143])

 言及:立岩真也「私は賃金労働も分業も認める――ただし、この書に記されているように、「市民手当」「参加所得」といった類の「活動」に人を割り振るという類の分業政策は肯定しないから、その点ではまったく立場が異なるというわけではない――ので、批判をするとすれば別のことを言うことになる。」(「質問」→2006/08/01「撤退そして基本所得という案――家族・性・市場 11」,『現代思想』34-0(2006-08):- 資料


■書評・紹介

◇立岩 真也 2006/09/23 「書評:小泉義之『「負け組」の哲学』」
 『図書新聞』2791:5[了:20060819]
http://blog.livedoor.jp/moleskin/archives/2006-08.html#20060821
http://blog.livedoor.jp/moleskin/archives/2006-08.html#20060826
http://d.hatena.ne.jp/syukuse/20060918

■言及



UP:20060706 REV:0806 0914 20070712
BOOK
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