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『迷走する両立支援――いま、子どもをもって働くということ』

萩原 久美子 20060730 太郎次郎社エディタス,304p.


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■萩原 久美子 20060730 『迷走する両立支援――いま、子どもをもって働くということ』,太郎次郎社エディタス,304p. ISBN-10: 4811807200 ISBN-13: 9784811807201 2310 [amazon]

■出版社/著者からの内容紹介
 仕事にうちこみ、生活とよべるだけの経済的基盤をもち、子どもや家族との時間を大切にする。ただこれだけの暮らしが、なぜこんなにも遠いのか。「家庭と仕事の両立支援」とは、誰のための、何のためのものなのか──。
 格差と少子化。共働き家庭の増加。「両立支援」の掛け声とは裏腹に、仕事と子育ての狭間で苦悩する30〜40代の女性たち。日本とアメリカの職場の実態、制度のありようを描きだす。(……太郎次郎社ホームページより)

■目次
I 部 彼女たちのいるところ
第1章 育児休業、その後──退職へと誘われる母親

「この疲れは、なんなのでしょうか」/彼女たちがいるところ/「私はわがままなんでしょうか」/氷河期世代の疑問/ワーキングマザーとよばれて/「育児が退職理由ではないんです」/退職理由にこめられたもの/「戻ってきても仕事はない」/育児休業法はなにを守ってくれるのか/彼女たちの行きつくところ

第2章 夫と妻と子育てと──ジレンマの在りか
「夫はなにをひきうけてくれるんでしょうか」/やさしさと愛情の代償/夫の転勤/夫の単身赴任が妻につきつけるもの/「夫の背中を見送りながら、ずるいと思う」/夫の「育児」、妻の「育児」/夫婦がむきあうということ/子どものいる暮らしへの助走/「母親は家に」というお約束/家事・育児をしない夫が失うもの

第3章 働く親は「市民」になれるか──親のニーズと保育所再編
「住民って、だれのこと?」/進む保育再編計画──広島県府中市/なにも知らない親たち/加速する保育民営化の陰で/届かない「住民」の声/親の「ニーズ」の正体/年度途中の民間委託──東京都練馬区/「なんのための話しあいだったんだ」/だれのための住民参加?

II 部 アメリカの模索
第4章 「両立支援」とはなにか──経営戦略、多様な家族観、性差別禁止

「企業として当然のこと」──ファニー・メイ/経営というボトムライン/「企業間競争に勝ちぬく」──インテルの挑戦/三つのダイナミズム/家族の多様化と母親への着目/経営上のメリットという観点/ワーク・ライフ? それともワーク・ファミリー?/"バランス・モデル"を超える──家庭と仕事をとらえるあらたな枠組み/なおも残る疑問/「モデル雇用者」としての国/性差別禁止──国による強い規制と職場改革

第5章 ワーク・ライフ・バランス──アメリカの光と影
「彼女は別格」/『窒息するオフィス』の世界とワーク・ライフ/働く親へのプレッシャー/あらたなサービスと消費のサイクル/タイム・インダストリー──時間を買う/つぎはぎの保育システム/選べない保育/ふくれあがる待機児童/矛盾の連鎖──キャリア女性と外国人ナニー/保育者の労働条件がうみだす悪循環/効率と生産性への対抗──公共バス運転手の闘い/「ワーク・ライフを私たちの手に」──労組SEIU/企業と労組の連携──育児・介護基金の発足/子どもに保育を──警察官の訴え/逆風と連携と──全米初のFMLA有給化

III 部 両立のゆくえ
第6章 すれちがう両立支援──少子化と男女共同参画と

いらだつ母親たち/育児休業取得率と残業と/わが社は「ファミリー・フレンドリー」/「両立支援」と「女性活用」はどんな関係にあるか/育児休業を利用できる企業と、管理職になれる企業と/諸外国の両立支援のルール──前提としての性差別禁止/弱い、国の規制──住友男女差別訴訟から/間接差別──進まない均等待遇のルールづくり/少子化対策としての両立支援/異なる対応──次世代育成行動計画とポジティブ・アクション/「産む」「働く」──まなざしの落差/ルールなき両立支援──ワーク・ライフの読みかえ

第7章 子どもをもち、働くということ──沈黙と格差を超えて
「迷惑をかけない」ワーキングマザーとして/職場はなぜ沈黙するのか/「いまごろなにしにきたの」──人事担当者の悩み/「仕事優先の職場風土」は、だれがつくりだしているのか/男性の育児休業取得への期待と女性の憂鬱/取得期間の男女間格差がうみだすひずみ/労働時間の規制緩和は、働く親への朗報か/拡散する「家族的責任」──ライフスタイルの問題として/少子化対策の「家族的責任」の射程/ニーズだけでは解決できない/両立を問う、社会を問う



■紹介・引用

第6章
「産む」「働く」──まなざしの落差

 雇用上の男女平等という切り口からはだめでも、少子化という切り口からは、国も企業も両立支援の義務化をすんなりと進めていく。これはいったい、どういうことなのだろう。この動きに対し、「均等からはアプローチしにくいので、少子化というフィルターを通すことで、間接的に実現する戦略だ。いずれにせよ両立支援が進むのだからいいではないか」とみることもできるだろう。
 だが、「女性が産まない」ことを出発点に職場の両立支援が展開されるのと、「女性が働く」ことを前提に職場の両立支援が展開されるのとでは、その結果も意味も異なる。少子化対策の是非はここでは問わないが、どうしても疑問が残る。両立をめぐって、産むという女性の行動への関心から発せられる企業や国の熱いまなざしは、なぜ、両立のもう一方にある、女性が働くことを阻害する職場の仕組みにはむけられないのだろうか。
 女性が産むか、産まないか。それに関して、国はこれまでまったく対策をとらなかったわけではない。それどころか、戦後一貫してかかわってきた。戦後の混乱期、食糧不足もからみ、貧しかった日本では多産が問題となり、少産による豊かで明るい家庭像を強調するとともに、人工中絶を中 >240> 心とする出生抑制政策が図られた。それが効果をあげると、一九六〇年代の高度経済成長期には一転して、企業や国からは人手不足の懸念が出され、七〇年代に入ると、人工中絶抑制の方針が何度も国会などで議論になった。さらに九〇年代の一・五七ショック以降の少子化議論は、これまでのような単純な抑制や奨励では通用しないことを意識しつつ、「産みたいのに産めない」という女性の意識に注目しながら、進んできた。
 一方、企業などで働く女性雇用者数の増加傾向も、子どもをもって働く母親への対応という課題も、いま突然に始まったことではない。旧労働省が一九五三年から毎年、働く女性に関する動きをまとめてきた報告書『婦人労働の実情』の一九六二年版は、雇用されて働く既婚女性労働者の割合が、五五年の二一%から六〇年には二五%(国勢調査)に、さらに六二年には二八・七%(労働力調査)へと増加したことにふれ、こう書いている。
 「最近結婚し、出産してもつづけて働く婦人が増えてきたこと、また企業もこれを当然と考える気運がたかまってきたことを示すものとして注目されますが、またこれに伴い婦人の雇用上いろいろの問題が起こっていることも否定できません」
 子どもを産んでも働きつづける女性を当然と考える気運――。たしかに、女性活用の波は何度か押しよせた。一九六〇年代後半の「ウーマン・パワー」、八〇年代の「キャリア・ウーマン」と、そのときどきに、企業の女性活用はライトを浴びてきた。「女性が働きつづける時代になり、企業の女性活用も進んできた」「女性の社会進出が進み、家庭と仕事の両立にのりだす企業が増えてき >241> た」ことはくり返し伝えられた。
 そのなかで、時代の変化を映しだす鏡のように、社会は、華やかに軽やかに働く母親像を求めてきた。トップランナーともいえるエリート女性幹部の紹介記事の最後には、ちらりとお弁当づくりを欠かさない母親像をつけ加える。次代のホープの紹介記事には、きびしい両立への悩みやグチは似あわない。「悩みはつきないが、周囲の支援や理解を得て、がんばる」のだ。
 けれども、その幾度となく押しよせた潮流のなかで、女性はいつも職場でのサバイバルにさらされてきた。希望を抱かせた均等法は、同じ「雇用管理区分」内での格差のみを問題にした。その指針を後ろ盾に、企業はコース別雇用管理を導入し、均等法以降も従来の職場のありようにひきつけていった。パートと正社員の処遇格差は「区分」の違いとされ、その格差は、育児や介護など家族的責任をもふくめた「ライフスタイルの多様性に配慮した働き方」という美辞麗句で塗りかためられてきた。
 こうして、女性が働きつづけることを困難にする問題を、企業・職場そのものが、かたちを変えながらうみだしているにもかかわらず、職場はそのことを正面から直視しなかった。国の規制もおよばなかった。それはくり返し、女性個人の問題として返され、こう言われてきた。「女性には家事・育児があるから」「女性は結婚し、出産するから」。まるで、女性に生まれた以上、必然的に抱えざるをえない問題かのように。職場のありようがうみだした矛盾にもかかわらず、社会は、働くことを選択した母親個人が抱える問題かのように、「両立の悩み」とよんできた。そんな問題のたて>242>方は一方で、男性の働き方も苦しくし、家族やたいせつにしたい人との暮らしの喜びを奪い、過労死や大量の自殺へと追いこんでいった。(pp.239-242)

ルールなき両立支援──ワーク・ライフの読みかえ
 企業は変わる。職場は変わる。幾度となくいわれたバブル崩壊以後の急激な変化のなかで、だれもが性別や家族的責任の有無で不当な処遇をうけず、なおかつ効率的で、ゆとりのある働き方・暮らしへの変革を待ち望んだ。そんなときにとびこんできた、欧米でのファミリー・フレンドリー企業やワーク・ライフ・バランスという考え方は、現状を打破するものとして希望を抱かせた。
 でも、日本ではなぜか、読みかえがおきる。欧米がその考え方の前提においている雇用上の男女差別へのきびしい規制には正面から取り組まないまま、ファミリー・フレンドリー企業やワーク・ライフ・バランスという言葉が受けとめられつつある。
 二〇〇五年版『少子化社会白書』は、欧米でのワーク・ライフ・バランスなど、両立支援、子育て家庭への経済的支援策を「児童・家庭政策としての少子化政策」として紹介している。しかし、出生率に対する政策スタンスとして、「国は介入しない」とするドイツ、イタリア、スウェーデン、イギリス、アメリカでは、少子化対策として両立支援に取り組んでいるわけではない。日本と同様、出生率を「回復させる」としたフランスでも、「少子化対策」という概念ではなく、「家族政策」だ。同白書はそのことを明記しつつ、なお「海外の少子化対策として、章立てをする。>243>
 そして、日本の企業は両立支援をどうしても、職場がうみだしている格差とはからめたくない。また、国もそこには強い姿勢で臨まない。日本でいま進む両立支援も、いつしか従業員の生産性をあげること自体が目的化され、格差を前提とした、企業のための「ワーク・ライフ・バランス」に陥らない保証はどこにもないのだ。
 ファミリー・フレンドリー企業、ワーク・ライフ・バランスを達成するうえで必要とされる「均等推進と両立支援という二つの車輪」。だが、日本では雇用上の男女平等という土台は脆弱で、両輪の一方とされる「均等」の車輪はあまりにも小さく弱い。しかも、その車輪はいともたやすく別のものに交換されてしまう。両立支援と少子化対策、あるいは両立支援と企業の生産性というかたちで。
 そのとき、両立支援とはいったい、だれのためのものだろうか。ちぐはぐな車輪が組みあわされ、両立支援は現場で迷走する。その事態はまた、「日本型ファミリー・フレンドリー」「日本型ワーク・ライフ・バランス」とよばれ、働く親は両立しがたさに嘆息することになるのだろうか。(pp.242-243)

第7章
労働時間の規制緩和は、働く親への朗報か

 家族的責任をもつ人を長時間労働から守る動きと、労働時間じたいを柔軟化し、成果や能力に応じて個人の選択にゆだねる動き。この二つはいったい、職場でどんな整合性をもつのだろう。一見、男女や家族的責任の有無に中立的にみえる、こうした労働時間のダブルスタンダードが、職場で働く人たちのあいだにじわじわと格差を広げていくことは、想像に難くない。あらたなワークルールが、だれにどんな影響を与えるのか。そこに目くばりをしない鈍感さが、そっくりそのまま「仕事優先の職場風土」「性別による分業意識」であり、両立をむずかしくさせる職場をつくりだしているもののひとつなのだ。
 にもかかわらず、「ワーク・ライフ・バランス」について、日本経団連の二〇〇六年度版「経営労働政策委員会報告――経営者よ正しく強かれ」は、こう説明する。
 「近年、仕事と家庭の両立に関して、『ワーク・ライフ・バランス』(仕事と生活の調和)という考え方が注目されている。その基本は、柔軟な働き方の実現であり、労働時間や就労場所、休暇などについて多様な選択肢を提供・整備し、個人の能力を十分発揮することができる『ダイバーシティ』(人材の多様性)を活かす経営を進めていくことである。こうした考え方を企業戦略の一環として組み入 >269> れていくことが、長期的にみて、高い創造力を持つ人材を育成し、競争力の高い企業の基盤をつくることになる」
 ここでは「多様な働き方」の選択肢という部分と「仕事と生活を調和させて働くことを実現する」との観点が直線で結びつけられ、競争力強化に到達する。残業時間をふくめ、国による労働時間に関するきびしい上限や規制がはたらいたうえでの柔軟性と選択肢なら、まだしも理解できないことはない。だが、上限の労働時間が不透明な選択肢のなかから個人が自分の生き方にあわせて自由に選択した結果、昇進・昇格や賃金などでの納得できない処遇格差がうまれたとき、それは個人の選択や個人が選んだ「ライフスタイル」の違いの結果だと説明するのだろうか。企業にとって最終的な目標が経営強化にあるのは当然だが、現状では「ライフスタイルの多様な選択」「個人の自由」という言葉は、格差や矛盾を個人がひきうけるためのレトリックになりかねない。
 その事態に対して「ワーク・ライフ・バランス」という言葉が用いられるなら絶句するしかない。働く母親も言葉を失うだろう。自分の選んだ生活にあわせて選んだ働き方だから、その結果もひきうけるしかない。それがいかに不当な結果であろうと、訴える場もルールもなく、両立支援と競争力とを両輪に進む経営側からの「ワーク・ライフ・バランス」を問いかえせないまま、沈黙する。残業で疲れたからだをひきずるようにして家に戻る父親にも、それを問いかえす力はもはや残ってはいない。(pp.268-269)

拡散する「家族的責任」──ライフスタイルの問題として
 いま、両立支援を進める強力な動きをつくりだしている「ワーク・ライフ・バランス」という考え方や少子化対策でも、「家族的責任」は揺れている。
 両立支援が企業のワーク・ライフ・バランスの一環として語られるときには、育児や介護などの「家族的責任」は働く人の多様なライフスタイルのなかで一挙に拡散していく。
 生産性向上という企業の目的に合致していれば、短時間勤務制度で与えられた時間をどう使うかは、個人のライフスタイルにゆだねられる。そこでは極端に言えば、短時間勤務制度を利用する人がその時間をキャリアアップにあてようと、育児にあてようと、個人の選んだ生き方の違いとなってしまう。
 だが、少し立ちどまりたい。いまの日本の職場では男女平等が徹底されず、国の規制も弱い。パートや派遣社員は正社員との賃金格差に直面し、職場の両立支援制度から排除されている。職場での不当な格差を固定化しかねない仕組みを温存したままに、支援制度の多様さや働き方の柔軟さだけを優先させれば、やがては、多様なライフスタイルへの対応という男女双方に中立的な制度を装 >274> いながら、男女間格差の再生産・固定化がおきないともかぎらない。「働く人に、豊かな私生活と仕事のバランスを」と言うとき、不当な格差をうみだし固定化する職場での「ワーク」は、従業員にとってほんとうに豊かなものだろうか。(pp.273-274)



■書評・言及

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*作成:村上 潔北村 健太郎
UP:20071018 REV:20091114
ワーク・ライフ・バランス  ◇女性の労働・家事労働・性別分業  ◇身体×世界:関連書籍 2005-  ◇BOOK
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