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『バイオポリティクス――人体を管理するとはどういうことか』

米本 昌平 20060625 中公新書,271p.

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米本 昌平 20060625 『バイオポリティクス――人体を管理するとはどういうことか』,中央公論新社,中公新書,271p. ISBN-10:4121018524 ISBN-13:978-4121018526 \882 [amazon][kinokuniya]※bp

■内容

出版社/著者からの内容紹介
人の命はいつはじまるのか−−この問いがアメリカで大統領選挙の争点となり、ヨーロッパで法制化が急がれる原因となっているのはなぜか。臓器移植や人体商品の売買が南北問題を激化させ、韓国で起きた科学史上稀に見るスキャンダルも、そうした動きの一例として位置づけられる。今や生命倫理は政治問題となったのだ。生命を巡る急速な技術革新と人類の共通感情とのあいだにあるギャップを埋めるために必要な視座を提示する。
内容(「BOOK」データベースより)
人の命はいつ始まるのか―この問いがアメリカで大統領選挙の争点となり、ヨーロッパで法制化が急がれる原因となっているのはなぜか。臓器移植や人体商品の売買が南北問題を激化させ、韓国で起きた科学史上稀に見るスキャンダルも、そうした動きの一例として位置づけられる。今や生命倫理は政治問題となったのだ。生命をめぐる急速な技術革新と人類の共通感情との間にあるギャップを埋めるために必要な視座を提示する。
内容(「MARC」データベースより)
人の命はいつ始まるのか。この問いがアメリカ大統領選挙の争点となり、ヨーロッパで法制化が急がれる原因となっているのはなぜか。生命をめぐる急速な技術革新と人類の共通感情との間にあるギャップを埋める視座を提供する。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
米本 昌平
1946年(昭和21年)愛知県に生まれる。1972年、京都大学理学部卒業。証券会社に勤務しながら科学史研究を続け、1976年、三菱化成生命科学研究所に入所。同所研究室長を経て、現在、科学技術文明研究所所長。著書に、『遺伝管理社会』(弘文堂、1989年、毎日出版文化賞受賞)『知政学のすすめ』(中公叢書、1998年、吉野作造賞受賞)他(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


■目次

プロローグ ES細胞捏造事件 3

1 バイオポリティクス―身体政治革命 7
 国益と科学 8
  冷戦の終焉「外なる自然」から「内なる自然」ヘ
 バイオエシックスからの転換 5
  フーコーの問題提起 ゲノム的自然 インフォームド・コンセントの限界 患者の自己決定 南北間格差
 「内なる自然」への共通感情 28
  価値観の落差 イギリスGM食品大論争 なぜマスコミは暴走したのか 世界への波紋

2 科学革命としてのヒトゲノム解読 39
 「ヒトゲノム計画」の革命性 40
  遺伝学からゲノム学へ 研究手法の転換 診療データの一元化 ゲノム情報の特性 ヒトゲノムの脱神話化 ELSIプログラム ゲノム研究に関わる倫理問題
 [BOX1]ハンチントン病の発症前遺伝子診断 59
 [BOX2]嚢胞性線維症の遺伝子診断 62
 [BOX3]乳ガンの遺伝子診断 64
 遺伝研究が生む利益と差別 66
  宗派と人種 新産業としての遺伝子検査 日本の遺伝に対する感情は特別か 遺伝的差別禁止の法的対応 遺伝プライバシー法 ヒトゲノム多様性計画と少数部族問題
 ヒトゲノムをどう位置づけるか 81
  「ヒトゲノムと人権宣言」「ヒトゲノム宣言」の内容 人類の共通遺産 日本のヒトゲノム基本原則

3 バイオバンクとは何か 91
 人間の尊厳と研究の自由 92
  世界標準化するEU指令 倫理委員会の機能変容
 バイオバンク構想とその境界 99
  研究インフラの構築 アイスランドの計画 イギリス―バイオバンクの王道 遺伝的連帯と愛他主義 ゲノム人の登場「ホワイトペーパー」にみる遺伝病対策 EUの相互主義 個人情報保護法の欠陥
 犯罪捜査への利用 122
  世界への広がり 社会側の理解と合意

4 ヒト胚の政治学―クローンとES細胞研究 127
 人の命はいつ始まるのか 128
  政治問題化した理由 ES細胞とはそもそも何か ローマ教会と人工妊娠中絶 ヒト胚の「道徳的地位」 欧米の政策的対応差
 ヒト胚研究の規制 142
  アメリカの場合 ブッシュ演説 民間資金によるES細胞樹立 カトリック教国オーストリア スイスの場合ドイツの場合 イギリスの場合 クローン技術の禁止とクローン人間作成の禁止 日本の場合―クローン技術規制法の問題点 ES細胞と治療的クローン胚の研究 韓国の場合―黄教授のスキャンダル
 着床前診断 172
  胚生検と極体診断 欧州諸国の法規制 法規制のない国―アメリカと日本

5 人体部分の商品化 179
 臓器移植法の成立 180
  「内なる自然」の利用 世界が直面する二つの問題 法の対象外となっているヒト組織
 アメリカ型自由主義 184
  「人体仲買人」 NPOとヒト組織加工業界 感染事故
 経済格差と医療サービス 194
  移植ツアー 臓器売買ネットワーク 医療デバイド 医療サービスの国際化

6 欧州的秩序の確立 205
 人体の人権宣言 206
  アメリカ的潮流への反撥 フランスの法改正 サパン演説 人体・人格・人権 生命倫理関連法 身体の処分はプライバシーではない 欧州評議会 ユネスコ
 EUヒト組織細胞指令 223
  医療用ヒト組織すべてが対象 イギリスの人体組織法 EU憲法 スイスの憲法改正
 [BOX4]スイス連邦憲法の関連条項 232

終章 人体保護庁の誕生 235
 社会による科学技術の制御 236
  生命倫理学者の弁護士化 企業と研究者 人体保護庁設置へ 社会による統御 超人間主義 共通感情の発掘
 アジア共通の規範を求めて 250
  韓国の政策論議 ダブルスタンダード 価値観の変動と科学技術に対する態度 日本がやらなければならないこと 構造化されたパターナリズム 日本社会を変える力

あとがき 263
索引 271


■引用

プロローグ ES細胞捏造事件
(pp4-6)
 ここで、韓国が一九九六年になって先進国クラブであるOECD(経済協力開発機構)に加盟したことを思い出す必要がある。韓国社会になお残る前時代的な体質を視野に入れなくては、この捏造事件の意味を理解することはできない。韓国でヒトの未受精卵が集めやすい理由を、体外受精が盛んだからという技術論に求めるのは、当を得ない。体外受精の実施数なら、アメリカの方が断然多いからである。
 言い換えれば、既存のバイオエシックスの論理は、暗黙のうちに先進国的諸価値を前提とするものだったのであり、ことの善し悪しとは別に、明文化されないこれら経済水準に連動する諸価値が、現実社会の中にビルト・インされるまでに一〇年単位の熟成期間が必要らしいのである。実際、黄教授の論文に対して『ネイチャー』誌が最初に、卵子提供の倫理問題を突いたとき、この記者の行為は韓国の最先端研究を妬み、妨害しようとする欧米の横槍だとする愛国的論調が少なくなかったのである。
 韓国以外のアジアの国々や東欧諸国が、先端医療を情報産業に続く成長産業の核と考え、この分野に虎の子の研究資源を投入し始めている。こうして世界がいっせいに、バイオエシックスが定式化した諸課題に直面することになったとたん、バイオエシックスの原則がその社会で認知され実際に守られる程度と、経済の発展段階とが、ほぼ相関関係にある現実が見える状況になってきた。乱暴に言えば、一人当たりのGDP(国内総生産)が高い社会であればあるほど、倫理規則が精緻になっていく。
 このことはまた、日本にとって別の重要な意味を含んでいる。日本を除く欧米先進地域はキリスト教圏の出自であるがゆえに、既存のバイオエシックスの体系がキリスト教的諸価値と共鳴関係をもっている。この「バイオエシックスの共通認識空間」とでも呼ぶべき、先進国共通の規範を受け容れることを当然視してきた日本は、生命倫理政策の一端が、欧米型の価値観に過適応してしまっているのではないかという疑いが生まれてくる。
 つまり、われわれは二〇世紀に成立したバイオエシックスを、相対化できるだけの距離感を獲得し始めているのだ。だが、なんといっても、このような事態が出来した最大の要因は、生命科学研究に圧倒的に巨額の資金が投入されるようになったからである。これにともなう新しい問題の形を、「バイオポリティクス」と借り置きしてみることで、現代文明が直面する課題の一端を削り出してみたいと思う。

1 バイオポリティクス―身体政治革命
(pp13-14)
 この政策転換は、研究フロンティアの主軸が、物理学的自然から生物学的・医科学的自然へ移行したことを意味する。われわれにとっての「外なる自然」を対象とする物理科学から、人体という「内なる自然」へ、自然科学全体の照準が移り、われわれは自然の探求者であると同時に研究対象にもなった。歴史上、自然科学の研究対象として「内なる自然」がこれほど大きな比重をもったことはない。
 長い間、基礎医学は医療の基礎づけという付随的な位置にあった。しかし二〇世紀末にこの関係が逆転し始めた。その例が遺伝学研究である。遺伝子組換えという画期的技術は一九七三年に確立した。だがこれは、ニクソン大統領が採用した対ガン政策の副産物であった。一〇年でガン撲滅という政策目標が掲げられ、ガンと名がつけばほとんどの計画に研究費助成がつく状態になった。
 これに対して、一九九〇年に始まった国際共同研究、ヒトゲノム計画は、アポロ計画に匹敵する生命科学初の巨大プロジェクトであり、この基礎研究を推し進める目的として、医療への応用可能性が繰り返し力説された。そしてゲノム解読完了(二〇〇三年)に前後して、ゲノム変異と疾病との対応関係を見つけようとする研究に拍車がかかった。ゲノム解読という基礎研究の存在感が大きくなり、そこからの成果が臨床応用に役立つはずであることが強調された。基礎研究が当初からその応用可能性を強調する事態は、再生医療の場合、さらに濃厚になる。
 このような事態の出現によって、われわれは必然的に、「内なる自然」をどう把握し、理解し、価値づけ、管理し、利用していくのかという価値の問題と本格的に向き合わざるをえなくなった。われわれは、「内なる自然」を扱う広義の政治的枠組み(ポリティクス)を確立させなくてはならない歴史的な結節点に立っている。そして問題は、科学と社会との関係の洗い直しにまで及ぶことになる。
 これまで、この課題はバイオエシックス(生命倫理)が扱うものと考えられてきた。しかし二〇世紀後半に生まれ、その骨格を築いてきたバイオエシックスは今、その限界が見え始めている。理由はいくつかあるが、基本的には自然科学全体が、これほどまでの規模で組み換えられるとは考えられていなかったからである。そしてわれわれが直面するこの大きな課題を表すものとして、ここでは「バイオポリティクス」を採用する。
 「二〇世紀バイオエシックスから二一世紀バイオポリティクスへ」と、わざと粗っぽく定式化してみることで、直面する課題がより見えやすくなると思うからである。
(pp15-17)
 バイオポリティクスという言葉は、これまでほぼ四通りの意味で使われてきている。最初にこの言葉を用いたのは、フランスの哲学者ミシェル・フーコーである。彼は、歴史的な時間スケールで探求すべき課題として、この言葉を用いた。一九七六年の『性の歴史第T部 知への意志』(邦訳は一九八六年、新潮社)の中で、彼は、人間の身体機能の利用に関する支配(解剖学的政治学)と対をなすものとして、生物学的な「種」の側面に介入し、これを管理しようとする権力の働きを、バイオ・ポリティクスと呼んだ。具体的には、繁殖や誕生、死亡率、健康の水準、寿命などの管理に関わる権力の行使を意味する。これは、今日的な目から見ると優生政策を連想しがちであるが、フーコーが意図するところはもっと視野の広いものである。フーコーの場合、かつて国王が保持していた臣民に対する生殺与奪権が、近代に入るに従って人口の維持やその保健管理という、人びとを生かしておくための管理策へと権力側の意図が移り、その技術開発が始まったことを指している。
 フーコーの問題提示を、特定の視点から扱うものとしては優生学も該当する。その他、たとえばフェミニズムの視点から、女性の身体・出産・性に対する政治的支配を研究する学派がバイオポリティクスという言葉を用いてきている。
 第二に、方法論上の視点からまったく別の用法がある。政治現象の基盤に生物学の存在を認め、これを解明しようとする「生物学的政治学」を意味するものである。生物行動学的・進化論的政治学とも表現しうるもので、この中で自然科学に最も近い位置で論を展開するのが社会生物学や進化心理学である。日本にはこのタイプの政治学者はほとんど見当たらないが、非常に原理的な生物学的枠組みを政治学の基本仮説として置くグループである。また性の役割を生物学的決定論に沿って説明しようとする試みを批判するフェミニストが、この表現を用いることがある。
 第三は、インドの批判的思想家・運動家バンダナ・シバが『バイオポリティクス』という名の本を著しているのに代表される立場である。熱帯多雨林や伝統的農業など、南の豊かな生物学的資源を、北側の多国籍資本が独占的に利用しようとする問題を、南北問題の視点から批判的に論じる立場である。生物学的資源に関する政治学という意味であり、これと同趣旨のものとしてバイオピラシー(biopiracy)がある。意訳すれば「生物資源収奪」であり、piracyは著作権侵害を指す。
 第四に、近年とくに欧州において、先端医療や生物技術に関する政策論を、バイオポリティクスと表現するようになっている。遺伝子組換え農産物(GM農産物)に対するEUの規制政策や、ES細胞研究に関するEU研究機構の助成などの議論を、この言葉で指すことが多い。アメリカ―EU間のGM食品政策に関する国際政治上の対立をバイオポリティクスという場合には、多分に第三の意味も含まれている。ドイツ連邦議会が二〇〇二年五月にまとめた特別委員会調査報告『現代医療の法と倫理』に関連する政策論議は、ビオポリティク(Biopolitik)と呼ばれている。
(pp17-19)
 本書では「バイオポリティクス」を、フーコーによる問題提示を視野に置きながらも、実際には第四に近い意味で使用する。その理由をあれこれ論じるより、ここではバイオエシックスと対比して論じておこう。
 まず第一に、三〇年前にアメリカで産声をあげたバイオエシックスは、自然科学研究の主軸がかくも大規模に生命科学に移行することを想定したものではない。バイオエシックスは、結局のところ、感染症時代における医者―患者関係の倫理原理である「ヒポクラテスの誓い」に対して、慢性疾患の時代の医者―患者関係を創り出そうとしたところに、その主な動機の一つがあった。バイオエシックスは、あえて言えば、拡張された医者―患者関係の倫理学であった。
 フーコーの言うバイオポリティクスは、中世的な国王がもっていた臣民に対する生殺与奪権から、近代形成期に権力の関心が結婚や誕生、死亡率、健康の管理へと移り、公衆衛生政策や人口政策が形を成してくる過程を意味している。これらは、近代医学の成立に歩調を合わせるかのように国民国家を支えるものとしての地位が与えられたが、二〇世紀に入り、とりわけ福祉国家の成立後には、医学と保健政策がいっそう整備されることになった。ただし、基礎医学と生物学は医療を側面から支えるものであり、医学が「主」、生物学が「従」という構図にあった。二〇世紀まではなお、フーコー的な枠組みのバイオポリティクスの形態であった。
 だが二〇世紀末以降になると、自然科学の主な研究対象が人体的自然となり、これに沿って全面的な再編が始まった。二〇世紀中期に生物学から生命科学へと変貌をとげたこの領域に、さらに巨額の研究費が投入され、体制強化が行われた結果、生命科学研究は医療に対する添え物の地位から、一部で逆転現象が起こった。生命科学研究の活動水位の方が高くなり、研究成果の医療応用を現実のものにするよう圧力がかかり始める。
(pp21-22)
 第二に、二〇世紀バイオエシックスが拠って立つ論理の限界が見てとれる局面が出てきた。バイオエシックスは、思想的には「自己決定」という単純かつ明快な考え方を基礎としている。この単純明快さこそが、複雑な生命倫理的諸課題を扱うときの切れ味の良さでもあった。
 この原理を、医療の現場や生命科学研究における倫理的手続きとして表現したのが、インフォームド・コンセントである。(略)だがその基本には、人体実験における被験者の人権擁護という考え方があるため、インフォームド・コンセントの原則を厳格に当てはめることに起因する困難(たとえばゲノム研究、第2章を参照)や、インフォームド・コンセントだけを条件とした場合の社会的感情との対立(たとえばヒトES細胞研究、第4章を参照)、という形で問題が表出した。
(pp22-25)
 第三に、バイオエシックスの論理とアメリカの社会哲学との、本質的な親和性である。
 そもそも人体実験規制の原理であるインフォームド・コンセントを、別の領域である医者―患者関係に当てはめるきっかけになったのは、一九六〇年代末における心臓移植手術の流行であった。この時期のアメリカ社会は、「ヒポクラテスの誓い」に立脚したパターナリスティックな(父権主義的な配慮による)医者―患者関係を、再定義しようとした。それに対する答えが「患者の自己決定」という概念である。これは日本では、威圧的な医師に対して患者が対等な地位を確立する思想と解釈されすぎたきらいがある。しかし、六〇年代の消費者運動が医療の領域にも浸透してきた結果というのがその実情に近い。アメリカは、国民全体をカバーする公的医療保険がない先進国中の例外であり、消費者主権が医療の現場に移行したものといえるのである。
 一九七二年にアメリカ病院協会が採択した「患者の権利」宣言は、インフォームド・コンセントと患者の自己決定を二本柱としているが、欧州では「患者の自己決定(patient’s autonomy)」という表現はまずとらない。患者は医師の専門性を頼って赴くのであり、医者―患者関係がパターナリスティックであることから本質的に逃れられないという認識がある。福祉社会を実現させている欧州先進国では、日本と同様、医療は公的サービスであり、医師集団の提示する治療メニューが「給付」されるという性格がある。
 また「患者の自己決定」とは、個々人の肉体の処分権や残る人生を決定するのは徹頭徹尾本人である、とする考え方である。autonomyを辞書で引くと「地方自治」の意味であり、身体に対する自己統治、「ミニマム主権」のようなニュアンスをもっている。そして、これに強い親和性があるのが、他人に害を及ぼさない限り個人の行動は制限されないとする、自由主義思想である。医療サービスも、自らの所得を考慮した上での人生戦略の一部であり、自己責任で民間医療保険を購入して対処する対象である。つまり、アメリカ流の社会哲学からすれば、「患者の自己決定」という考え方以外はとりえなかったのであり、バイオエシックスもこの社会的現実の上に築き上げられてきた体系である。
 だが、人体の処分権を個人に認め、自己決定と自己責任の原理に委ねたアメリカは、他の先進国と比べて、人体組織の商品化が格段に進んでしまった(第5章を参照)。(略)
 欧州社会は暗黙のうちに、このようなアメリカの状況を反面教師とみなしてきている。欧州におけるバイオポリティクスは、個々人は、とくに危機的状況では誤った決定を行う恐れがあると考え、生命倫理的課題に対して法律や共通ルールを策定する方向にある(第6章を参照)。むろん欧州社会も自由と多元的価値を社会的原理として掲げる。しかし、同等に公序も重視するのである。
(pp25-27)
 第四に、先進国以外の多数の国々がこの分野へ参入し始めたことが、二〇世紀バイオエシックスが絶対のものではないという確信を広める結果になった。これまで、生物技術や先端医療の研究はもっぱら先進国において行われてきており、これに応じてバイオエシックス研究も欧米中心に進められてきた。このことは、既存の生命倫理学が、先進国的諸価値の機能を暗黙の前提としていることを示唆している。政治的自由や人権の保障はもちろん、われわれが日常的に享受している、先進国では当然の医療、教育、社会福祉、食生活、生活環境が整ってはじめて実現可能な倫理規範を、国際的基準としてきた可能性がある。
 先進国における生命科学研究の予算が飛躍的に増えれば、おのずと非先進国の研究者や住民が研究プログラムに関わるようになる。そこでは、南北の価値観の違いが「破断線」として現れる。(略)
 むろん、南北間格差に直面するのは臨床研究だけではない。これまでバイオエシックスは、南北間に厳として存在する価値観の落差を、文化(culture)の違いで説明しがちであった。だが、文化の違いによるものと、経済格差に由来するものとは区別すべきである。
 経済格差による価値観の違いが問題視されなかった理由の一つに、そもそもアメリカの社会哲学がそのような社会構造を所与のものとしてきたという側面がある。バイオエシックスには経済格差を隠蔽する機能があった。一九七〇年代に発達したこの学問は、もともと保守色の強いものであり、商品としての医療保険を購入できない所得層が医療サービスを享受しえない現実を、間接的にしろ、自己責任原理によって正当化してきたのである。
 アメリカにおける臨床研究は、所得格差による医療のアクセス差を利用し、研究プログラムに参加すれば被験者はより有利な治療サービスを受けられる仕組みを活用している。研究への参加は無償が原則だが、全体として見ると経済的動機づけが組み込まれている。この点、国民皆保険を完成させている日本は、臨床研究が格段の重みをもち始めた二一世紀において、臨床研究を推進させる駆動力としては、医学に対する社会の理解しかないように見える。
 一方、欧州では国ごとに医療の規制に微妙な違いがあり、自国で受けられない治療サービスを他国に受けに行く「医療ツアー(medical tourism)」が出現している。欧州社会は、基本的権利として移動の自由を認める以上、これを受忍せざるをえないという立場に立つ。だが、EU拡大が進むことによってEUの中核諸国と最近EUに加盟した中東欧諸国との経済格差は著しく大きくなり、事実上の"臓器売買"が発覚するまでになった。
(pp28-31)
 このようにバイオエシックスが扱ってきた課題群を、国際比較の視点から点検してみると、次にわれわれが取り組むべき課題が見えてくる。われわれが今、直面せざるをえないのはアジア諸国との価値観の落差である。
 日本と近隣諸国とは、西欧と中東欧に似た関係から逃れられない。近隣諸国の一部では、経済格差に由来する価値観の違いを利用し、日本では行いえない卵子の譲渡、代理母、臓器移植、中絶胎児の組織を利用した治療を、日本人向けに提供する機関まで生まれてきている。移動の自由を制限できない以上、突然これらがスキャンダラスに報道され、社会が混乱に陥らないよう、生命倫理に関して近隣諸国との間で、最低限の合意を固めておくべきである。
 加えて、われわれには近隣諸国の生命倫理政策の比較研究を行うべき積極的な理由がある。
 まず、アジア諸国は、非キリスト教圏における生命科学研究の新興地域である。これまでのバイオエシックスでは、事実(fact)と価値(value)という二項概念から議論を始めてきた。ここでは、科学が扱う自然は無色無価値の存在であり(科学的事実の価値自由)、それに価値や意味を付与するのは哲学や宗教である。この立場に立つと、まずは人格性(personhood)が定義され、これに当てはまるものが人間的存在であることになり、法哲学上も重要な論拠になる。しかしこの構造は、世界に関する一切の解釈を、聖書などの経典群から神学者が演繹してきたキリスト教の自然に対する態度と同型である。西欧近代哲学は、粗っぽく言えば、キリスト教からその教義内容をできるかぎり脱色し、純粋論理として抽出したもの、という性格をもっている。(略)
 しかし、われわれに態度決定を迫っている「内なる自然」は、これまでにない次元のものである。当然、キリスト教を含め、既存宗教は、これを咀囎し、解釈や意味づけをして、それを社会に提供する準備作業は不十分である。「内なる自然」の意味づけを、仏教や儒教の教義の中に探索しようとしても、現状のままでは無理である。
 にもかかわらず、われわれが「内なる自然」を管理していくためには、その根拠となる共通基盤を手にしなくてはならない。近隣諸国における生命倫理関連政策を比較、分析する中で、これまでの生命倫理の基本に合致しない価値規範が見つかれば、きっとそれは、その社会にとって切実なものに違いないのである。
 比較、分析の結果、もし共通の価値基準が確認できれば、それはさらに磨きあげるべきものであろう。それが日本社会には受容できないと感じられれば、われわれはその部分については別の価値体系の住人であると推測できる。つまり日本社会の基盤を流れる、いまだ言葉にはなってはいない「内なる自然」についての共通感情を探り当てるための、補助線となりうるのである。

終章 人体保護庁の誕生
  生命倫理学者の弁護士化
 こうして世界を俯瞰した上で、全体を総括してみると、生命倫理的諸課題に対する社会の対応、すなわちバイオポリティクスの型は、米・欧・日とその他新興地域の「3+1極化」の状態にあることがわかる。このまとめ方は、最近のアメリカにおける生命倫理学の変質を見れば確信に近いものになる。
 アメリカでは、公私を問わず巨額の研究資金が生命科学に投入されている。しかし「内なる自然」の扱い方に関して法制化することはできず、すべてが自己責任の原理に立脚して行なわれており、もし争いがあれば裁判所の判断に委ねられることになる。こんな社会において生命科学研究を進めようとすると、個別プロジェクトごとに倫理面で、社会全体を向こうに回して、正当化のための理論武装が必要となってくる。この機能を担うために、生命倫理学者が動員されることになる。現在、アメリカでは生命倫理学者の"弁護士化"が著しい。
 初めてこの点を指摘したのは、アーサー・アレンの「バイオエシックスの時代がやってきた」(http://www.salon.com/,2000.9)であろう。ここでアレンは、一九九九年にペンシルバニア大学で起こった、世界初の遺伝子治療実験での死亡事故で、遺族が損害賠償請求の訴えを起こした際、被告の一人に同大学バイオエシックス・センター所長のアーサー・キャプランまでが含まれていたことに、象徴的意味を見出す。(略)
 このようなアメリカにおける生命倫理学者の弁護士化に比べ、欧州における生命倫理は学問として隆盛を謳歌するのではなく、既存の学会や研究機関はこれらを政治的に取り組むべき課題と考え、政策立案へ向かった。欧州社会は、一九九〇年代以降、技術評価の作業を行った上で、生命倫理関係法を成立させてきたが、二一世紀に入ると人体保護庁(human body protection agency)と呼ぶべき機関を設置する方向にあるように見える。
 振り返れば、中東での巨大油田の発見の上に立って、先進国は一九六〇年代に重化学工業化を推し進めたが、同時に大規模な公害を表面化させてしまった。これに対処するため、これらの国は六〇年代後半に競って環境関連法を整備し、環境庁もしくは環境保護庁を創設した。ただし、一般人にとってこれらは唐突な感じのする新官庁の出現であった。
 西欧諸国が人体保護庁を設置する方向に進むには、多くの人が人体的自然は公権力によって管理されるべき対象であると痛感する状態になくてはならないが、この点はまだ定かではない。行政コストを考えると、人体的自然を扱う局面での倫理原則を明確にし、そのルールの遵守に一定程度の強制力を加える道が選ばれるのが主流になるのかもしれない。だとすれば、制度設計も異なってくる。前者は人体保護庁であろうが、後者は公正取引委員会のような、人体組織の取扱いに関する監視機関になる。イギリスの例では、新設の人体組織管理庁(HTA)は明らかに前者の性格をもつものであるが、ヒト遺伝委員会(HGC)は後者のような性格をもつ組織である。
  社会による統御
 そもそも、人体的自然の管理に向けて公権力を拡張することは、どのような論理で正当化されるのだろうか。欧州社会が、生命倫理に関する共通価値の文章化に一部成功しているとはいえ、だからといって「人体の人権宣言」というフランスのエリート官僚が書きあげた政治哲学が、欧州一円に順調に浸透しているとも思えない。当然のことなのだが、それぞれの国の政体はそれぞれの歴史の上に成立したものであり、生命倫理という新規の課題群に対して、体系的法改正で速やかに応じられる国の方が例外的な存在なのであろう。だが同時に、人体的自然への科学技術の侵攻に対して、何らかの制御をかけるべきだという意識は、次第に強まってきている。
 フランスを除く欧州社会は、生命倫理的諸課題に対して個別法制化の段階にあるのだとしても、フランスの思想的覚醒を、人体的自然の扱いが公権力によって規制される際の、理論的正当化の根拠に利用することは可能である。本書で繰り返し述べてきたように、二〇世紀の生命倫理が確立させた「自己決定」に対して、欧州社会は今のところ一般的に「連帯(solidarity)」という概念を対置させているが、これを具体的な思想体系として表す努力をすべき時にきているように見える。
 繰り返すが、中世までアルプス以北の西欧は地中海世界に比べ後進地域であったのであり、社会秩序と権威すべての供給源とモデルは、唯一、ローマ教会であった。世俗的世界の支配をほしいままにした絶対王政は、フランス革命によって倒され、近代社会に移行した。これ以降、市民自らが国家という怪物(リバイアサン)を運転する立場になり、統治権とともに軍を運用する責任主体になった。シビリアン・コントロールの始まりである。
 国家が国益のために軍隊を動かしたり、人権擁護を理由に公権力を発動することから類推すると、人体的自然に対する侵襲や加工が一定線を越えたとき、当人の意思とは独立に、公権力がこれを規制することを正当化するような論理をたてることは可能である。次元も質も異なるが、先端医療やバイオテクノロジーについて市民的統制(シビリアン・コントロール)下に置くことを決意するとすれば、公的資金を生命科学の研究に助成する段階、もう一つは研究成果を応用に移す段階、この二つの局面で、社会による統御の可能性を考えることができる。
 もし、「研究の自由」という社会的価値を重要視するのであれば、主として採用すべき手段は後者であろう。それは、臨床研究やその成果の応用の過程に、社会的な討議が必然化されるような仕組みを考えだすことでもある。「内なる自然」を研究対象とする生命科学においても研究の自由は極力認めながら、他方で、科学技術に対する嫌悪からではなく、個々人を具現させている身体的自然への技術的侵入に一線を画する、社会的抽象構造を設けておくことをめざすことになる。かつてこのようなものはイデオロギーと呼ばれていた。この道をとることは、安全性を理由に科学技術の使用を先延ばしにする、価値観定立に対する消極的態度から離脱することでもある。言い換えれば、身体処分に関し自己決定原理のみに立脚せざるをえないアメリカ的な自由主義に対して、身体処分とその管理や利用に関して秩序だった共有空間を構築しようとする、政治的意思を表明することである。この点において、日本と欧州社会には共通点があると言ってよい。
  超人間主義
 「内なる自然」に対する技術介入の線引きに関して、逆にこれを積極的に解除しようという思想的立場が存在する。こんなところで、クローン人間作成を公言する新興宗教団体「ラエリアン」など、泡沫(ほうまつ)的なアクターを引き合いに出すのは適切ではない。すでに十数年来、個々人が科学技術を自由に動員して、生物としての自身の身体を改良していくことを主張する、超人間主義(transhumanism)が存在している。オックスフォード大学哲学科のニック・ボストロム教授が主宰する「世界超人間主義協会(World Transhumanist Association)」がその例である。(略)
 ボストロムは、超人間主義を、歴史的には世俗的人間主義(secular humanism)と啓蒙主義の延長線上にある立場として位置づけ、現在の人類は科学技術によって健康・寿命・知能・運動能力の面で改良の余地があり、精神状態も自己制御しうる存在である、と考える。明らかに、キリスト教的世界観からの脱却が西欧近代であったことを、自覚している言葉の使い方である。実際、「生命科学による現世的自己救済」を開始した世代の人類を、フランシス・フクヤマらの用語に従って「ポストヒューマン(posthuman)」と呼び、それがなんら歴史を逸脱した異物ではないと指摘する。彼は、技術規制を当然視する立場を一括して「バイオ保守派(bioconservative)」と呼び、この中に、ジェレミー・リフキンはもちろん、レオン・カス、フランシス・フクヤマ、ジョージ・アナスなどを含めて論じている。原理主義的な反対論ばかりか、われわれの感覚からすれば常識的なバランス感覚をもち、規制を認める者までをも一律に、「内なる自然」に対する技術を規制するという一点において、バイオ保守派とみなすのである(N.Bostrom:Bioethics,Vol.19,p.202,2005)。
 先端医療・バイオテクノロジーに関するシビリアン・コントロール論が組み立てられれば、このタイプの主張と正面から議論を闘わせることができるし、本書では意図的に言及はしなかった、「パーソナルな優生学」とも実質的な議論が可能となるだろう。
 本書で優生学を扱わなかった理由は、二つある。第一に、すでに私は優生学については書いており(『遺伝管理社会』『優生学と人間社会』)、バイオポリティクスという課題領域にはこの問題から先に入っているからである。第二に、優生学が反面教師像として圧倒的な位置にあったのは二〇世紀後半においてであり、現在ではその地位から後退してしまったように見えるからである。(略)生命倫理の問題を語るのに、ナチス政策との類似点を見つけて危険だと指摘することこそが知識人の役割と信じた戦後世代は、社会の構成員の主流ではなくなり始めている。言い換えれば、歴史記憶が倫理規範の代用として機能する時代は、過ぎてしまった。ナチス=反面教師モデルの機能は、リアリティを失った。これを象徴するのがリフキンの退場であろう。
 しかし、戦後世代が無条件に繰り返し指摘したこの問題を、二一世紀人は課題として鋳直し、「内なる自然」を扱う際の共通秩序と、これを維持するための制度を考え出す必要に迫られている。二〇世紀までに人類が築きあげてきた社会的秩序とは、結局のところ、身体拘束に関わる政治的秩序=人権を論理的基盤にするものであった。これを「内なる自然」の扱い、という新しい課題に向けて適用し、ルール化しえた項目を国際文書化したものが、欧州評議会の「人権と生物医学条約」やユネスコの「ヒトゲノム宣言」だと考えられる。ある意味でこれは歴史的に自然な発想による成果ではあるが、人体という「内なる自然」そのものの地位や待遇を直接規定しようとする原理ではない。これまで人類は、そういう問い立てに直面することはなかったのである。近代キリスト教は教義的要請ゆえに、言わば歴史的な偶然として、初期胚については精緻な解釈を用意できているが、これを除けば人類全体が準備不足であり、これはいたし方ないことなのである。
 とりあえず必要なことは、最新の生命科学の成果を、社会にとって必要で意味ある視点から、包括的で、過不足のないバランスのとれた形でまとめて、これを社会に向けて提供することである。この作業を自然科学者が行うのは勧められない。職業的自然科学者は、どうしても自分が行っていることが最重要だと思い込み、古典的な科学啓蒙の体質を引きずりがちで、自身が属す研究領域をすばらしいものと描きやすいからである。そもそも彼らは、国から研究費がこなければ一切の研究が進まない利害当事者であり、この意味においても、その発言の中立性が疑われて当然である。
 そしてもし、ナチス体験を、人間の遺伝決定論とその政治的悪用であったと総括するなら、逆に、ゲノムがわれわれにとって何を意味するか、その解釈権を誰がもつかは決定的に重要なはずである。
  共通感情の発掘
 共通の価値規範を見出すためには、実際の行動様式として現れるものの基層を成す、生命に対する共通感情を発掘する必要がある。第1章で触れた、一九九九年「GM食品大論争」の形で表出したものが、その今日的な具体例である。こんな心情的価値がイギリス社会の根底に流れているとは、通常のアンケートで事前には検知できなかった。EUの場合、共通政策の重要な参考指示とするために、EU全域でよく練れたユーロバロメータという世論調査が行われていた。にもかかわらず、このような事態が出来した。アメリカはたかだか二百数十年前にイギリスから独立した、同根の文化圏にあるはずの国である。大西洋をはさんでの、生命に関する共通感情のこの不一致は重要で、考えようによっては深刻な課題である。人間の発生のように、キリスト教がその解釈のための体系を提示しない問題でありながら、技術の受容に関する価値判断で、二つの先進地域が対立するこの問題を「宗教戦争」と表すのは、単なるレトリックを越えて、その本質の一面をついている。
 感情あるいは感情的という言葉には否定的ニュアンスがあるのならば、エートスと言い換えてもよい。われわれの行動原理の核に相当する「内なる自然」への共通感情を捕捉するには、明確な目的意識と深い洞察力をもった研究者によって慎重に設計された、研究プロジェクトを立ち上げるよりない。
  アジア共通の規範を求めて
  韓国の政策論議
 未明の心清的価値に光を当て、これに言葉としての形を与えるためには、一見迂遠なようだが、さまざまな社会、とくに日本の場合は、近隣諸国と行動様式を比較してみることが、有効なプログラムであろう。生命倫理に関連する政策立案過程で、表面ににじみ出てくるさまざまな論点や諸価値を抽出して比較し、日本社会において意識下で共有されている諸価値を分節化し言語化するための「補助線」とするのである。この作業の果てに、これまでの欧米型生命倫理の議論にはなかったものが浮かびあがってくれば、それはアジア的な価値である可能性がある。もしそれが、日本社会には当てはまらないと感じられるものであれば、さらにそれを基点に日本独自の価値を探りあてる糸口にすればよいのである。
 とりわけ隣国の韓国における生命倫理の政策論議については、詳しく分析してみる必要がある。第一の理由はなんといっても、ヒトES細胞で世界最先端の研究が進められており、必然的に生命倫理に直結する価値規範があらわになる可能性が大きいからである。それはまた、バイオポリティクスの現状を「3+1極化」と見る見解を補強することにもなる。自己決定のアメリカ、生命倫理に関する秩序の整備をめざす欧州、問題意識が希薄な日本。この先進三極の外側の、しかしその近傍において、ヒトクローン胚研究が急展開している事実は、ことの善し悪しは別にして、注視しなくてはならない。(略)
 韓国は、一九九六年になってOECD入りした国である。この点、既存の先進国型の諸価値から、若干のズレが出るのはいたし方ないことである。ズレの一つは、受精卵を限りなく人間存在に近いものとみなす、法王庁を発信源とするキリスト教的価値観との間の問題でもある。韓国はキリスト教徒が多いといっても仏教に次いで二位、二四%止まりであり、キリスト教は土着化し、伝統的に圧政に対する抵抗の拠りどころとしての機能を果たしてきた。もう一つは、生命倫理的規範というものが、先進社会では空気のように供給されている個人主義的自由、高度な医療と福祉、高等教育などがあってはじめて可能となる、ガラス細工のような規範だからである。そのような先進国型の規範感覚が、韓国社会に広く浸透するほどにはまだ時間は経ってはいない。他方で韓国人は、国際的な面子を重んじるから、国家的な研究のお役に立つのであれば私の卵をお使いください、という女性も出てくる。このような事情に配慮せず、ただパターナリスティックに生命倫理面の不備を追及することは、"生命倫理帝国主義"に接近することである。
 再度、粗っぽく表すと、一人当たりのGDPに正比例して、生命倫理的規範が精緻なものとなり、強化される社会となる。(略)
  ダブルスタンダード
 アジアにおける生命倫理を考えるとき、難しい問題の一つがこれである。アジア東端の海の中に世界第二位の経済大国、日本がぽつんと浮かんでおり、韓国、台湾を除けば、周囲のほとんどが発展途上国である現実に起因する問題である。発展途上国とは、残念ながら先進国的な倫理規範からすれば許容できない臓器移植や卵提供が、サービスとして成立してしまいやすい社会である。そして「移動の自由」の原理の方が上位にあるから、これらのサービスを日本人が買いに行くことをやめさせることはできない。このようなサービスを求めて赴く人をあまり厳しく制限すれば、相手国への内政干渉になりかねないし、大挙して行けば日本人が金にあかせて臓器や卵を買いに来ているという感情に、いつ火をつけることになるかわからない。二一世紀社会は、このようなダブルスタンダードの現実に、いやでも耐えていかなくてはならない。
 必要なことは、まずは日本側が相手国の事情を正確に理解し、一方的な批判を控えることである。その上で、最低限これだけはやめようという基準に関して関係国間で合意を形成し(ミニマム・コンセンサス)、その後に政府間での政策対話の場を設けることである。その場合、経済格差の大きい地域をメンバーに加えた、拡大EUの体験は参考になるはずである。
 逆に言えば、日本は非キリスト教圏の出自でありながら、二〇世紀後半に成立した欧米型の生命倫理的規範を、自らの根底に流れる心情的価値との対応関係をよく確かめることなく移入してきており、一時的に欧米的価値規範に過適応の状態になっているかもしれないのである。たとえば、ヒト受精卵を限りなく人間と同等とみなすキリスト教的価値観や、「人間の道具化」というカント哲学のレトリックを規制論拠としているが、これが日本社会では実際に説得力をもっているようには見えない。
 生命倫理には医学や自然科学だけではなく宗教や哲学が重要だといわれ、そのようなメンバー構成のシンポジウムや委員会が多数もたれてきた。しかし、このような課題設定のあり方自体が、キリスト教圏における宗教や哲学の社会的機能を前提としたものである。欧米以外の他世界もこれと同じはずだという、近現代史において山ほど繰り返されてきた思い込みに近いものである疑いが濃厚なのだ。居住まいを正してアメリカのバイオエシックス事典をひもとく光景に、歴史的な既視感を覚える。こうしてわれわれは、「内なる自然」に対する心情的価値を隠蔽したまま、今日まできているのではないか。こう反省してみる必要がある。
 だからこそ、近隣諸国との体系的な比較は不可欠であり、切実なものですらあるのだ。
  価値観の変動と科学技術に対する態度
 近未来を洞察するには、近過去研究が不可欠である。「内なる自然」に対するわれわれの態度や作法を支えているはずの論理を発掘するには、近現代史の中における身体観・生殖観・家族観・疾病観を再編してみなければならない。そしてこの作業が、空疎な既存のアカデミズムの研究様式に流れたり、自己目的化しないためにも、近隣諸国との比較は必須なのである。(略)
 このような近隣社会における、価値観の変動と科学技術に対する態度は、われわれ自身の価値観の確認と技術政策上の選択にとって、重要な鍵を与えてくれる。他方で、アジア地域における生命倫理に関する共通規範を確立する必要があり、しかも韓国はすでに二〇〇三年十二月にアジアで初めての生命倫理安全法を成立させ、〇五年から施行している。
  日本がやらなければならないこと
 結局、日本がとっくに着手していなければならなかったのは、社会的に問題となっているさまざまな先端医療やバイオテクノロジーに関して、テクノロジー・アセスメント報告を作成し、これによって社会が取り組む問題の形(アジェンダ)を正確でバランスのとれたものにすることであった。報告が含むべき内容は、技術の評価、規制の必要性、経済的評価、社会的価値観との関係と調停、諸外国の政策、国際間調整などであり、これを客観的・公平・包括的な視点から主要な文献を示した、読みやすいものである。諸外国でも、この種の問題は特殊なものと考えられがちで、社会的な関心が薄く、議論も少なかった。であればこそなおのこと、個々の問題について深掘りした(in-depth)、公正な報告書を最低でも一つは作成すべきなのである。
 この不可欠な作業を、なぜ今日まで行ってこなかったのか。生命倫理的諸課題は、基本的には政治的なものである。だからこそ本書のタイトルも『バイオポリティクス』としたのだが、この新しい政治的課題に、霞ヶ関と日本のアカデミズムが対応できないことが二大原因である。
 これまで何か政治的課題が生じると、社会とマスコミと国会議員は口を揃え、霞ヶ関に向かって「知恵を出せ」と言うばかりであった。みな、霞ヶ関が最強・最大の政策シンクタンクだと信じてきた。私はこの状態を、「構造化されたパターナリズム」と呼んできた。だが、霞ヶ関は絶望的なほど縦割り構造になっており、生命倫理のような新規で領域横断的な課題にまったく対処できていない。
 たとえば、いやしくも先進国である以上、はるか以前に日本が整えていなくてはならないはずの法律群は、生命倫理領域では実に多い。
 第一に、医師法を改正して、弁護士並みに強制参加の身分組織としての「医師会」を設けるべきだが、これは詳論しない。
 第二に、臨床研究の被験者を守る被験者保護法がない。薬事法で指定された治験とクローン技術規制法の特定胚の実験を除けば、倫理委員会に法的根拠はない。あまたある大学医学部・付属病院・医療機関の倫理委員会はその権限も機能も委員構成も法律で定められたものではない。
 第三に、クローン技術規制法を除けば生殖技術規制法がなく、ヒト胚の保護、ヒト胚実験の規制、生殖技術一般の規制、精子や卵子の扱いや譲渡、家族関係、代理母の是非に関する法体系がない。
 第四に、現在の臓器移植法は死体と脳死者から特定の臓器を取り出す移植しか規定しておらず、日本の移植のほとんどを占める生体腎移植、生体肝移植を規定する法律がない。これを行っている医師は、医師の裁量権のうちであり、保険点数も認められているため、正当な医療行為だと信じているが、健康な人にメスを入れ臓器を取り出すこの行為は、傷害罪を構成する疑いが残る。戦前に断種法が作られたのは、本人の治療目的以外で体にメスを入れるのは傷害罪を構成するという解釈が一般的であったからである。さらに生体肝移植は基本的に血液型が合致すればドナーは誰でもよく、候補対象は無限に拡大してしまう。
 第五に、現在の個人情報保護法は、事実上、グローバル・スタンダード化しているEU個人情報保護指令で定められたセンシティブ情報の区分け(保健情報や性生活などについては、本人の明確な同意がない限り、無断で編集・利用してはならない)がないため、たとえばEU圏の機関とゲノム研究について共同研究をしたり、日本でのデータを欧州で利用したりする場合、不利な扱いを受ける恐れがある。
 第六に、臓器移植法の対象とされている臓器以外の、骨・軟骨・皮膚・腱・心臓弁などの扱いについて、欧州では包括的な法律を作成中であるのに、日本ではほとんど議論がない。
 第七に、犯罪捜査目的でのDNA型鑑定の利用と、そのデータベース化について諸外国では法改正が進んでいる。
  構造化されたパターナリズム
 深刻なのは、日本はこれほどたくさんの"法律不足状態"、もっと言えば"無法地帯"が広がっているのに、これまでまともな政策論が提示されてこなかった事実である。霞ヶ関官僚は、縦割り一府一二省庁の立場から見て、必要でかつ自省の権限拡張につながる政策しか、政権与党に説明に回らず、記者クラブに対しても情報を撒かない。霞ヶ関は、財務省主計局から予算をもらって、国というブランドで行政サービスを請け負う特殊法人とみなしてよい。政策官僚は、自省の権限拡張にどう貢献したかで評価する官房長に向かって仕事をしている。一昔前には予算獲得が腕の見せどころであったが、これが望めない現在、「法律一本、業績一丁」という傾向にあり、縦割りの省益・局益に合致し、省庁間の調整作業の手を抜いた、細切れの法律を作っている。大手シンクタンクは、縦割り省庁から委託調査費を投げ与えられ、政策官僚の下請け業務に忙しく働いている。もはや、担当官庁=内閣法制局=与党という立法複合体は機能しなくなっているのである。
 普通の先進国であれば、アカデミズムが官僚機構を監視し、代案を提出したりするものである。しかし日本のアカデミズムは、本能的に政治から遁走してしまう。政治は汚く危険なものであり、これに近づかないことこそが学問の中立性を維持することであると公言し、自らもそう欺いてきた。大学の法学部や社会科学系の教授や研究者は、具体的課題に関与すれば世俗の煩わしさに巻き込まれると予防線をはり、原理論ほど高級で応用は二流、ジャーナリスティックな対象に関わるのは下品で二流の研究者が行う売名行為、と蔑んできた。「構造化されたパターナリズム」という日本の権力観を裏から支えてきた、精神的にひ弱なアカデミズムなのである。
 わかりやすい例が日本の生命倫理学者である。たとえば韓国では、生命倫理学会が早い時期から、黄教授に対して、卵の提供や資金の出所に関して公開質問状をつきつけてきた。韓国の生命倫理安全法を成立させた、一つのパワーのありかは学界であり、もう一つは環境問題を出自とするNGOであった。しかし日本の生命倫理学界は、何一つ法提案を言い出さず、テクノロジー・アセスメントのプロジェクトを企画せず、第2章で述べたように家族性アミロンドポリニューロパチー(FAP)のような困難な状況にある遺伝病の患者・家族を調べようともしなかった。
 ところが国に向かっては、生命倫理は重要だからと研究費を要請してきた。政策官僚の方も、思いついたように、マスコミ受けする研究予算をつけて業績稼ぎをし、研究者の側は研究費を投げ与えられて、高級そうなシンポジウムを開き、同業者の間でのアリバイ的な業績稼ぎに、当然のことのように国費を消費してきた。困難な状況にある患者・家族を支えようとする研究プログラムなど提案されないまま、講壇生命倫理学だけが流行する、橋や道路といった公共事業と同じような、政策官僚と研究者との癒着の構図である。
  日本社会を変える力
 ならばどうすべきなのか。答えは簡単で、独立したシンクタンク群を社会の側がもつことである。しかしそれ以前に、問題意識の高い普通の人が、インターネットなどを駆使して調べものを始め、これが横につながって力をつけることである。「市民は何も知らされていない」という被害者意識まる出しの言い方は、先進国では日本くらいでしか通用しないものである。だいの大人が自らを小児的地位に位置づけることが当然視され、それが政府批判の論法たりうるのは、科学技術情報がエリートに独占されていた一昔前の発展途上国の社会でのみ見られた光景である。
 普通の人が、ただただ面白がり、工夫をこらして調査を始めること。そのとき、本人が患者であったり近くに患者がいたりすれば、その病気に関する問題で調べものをするのに、これほど強い動機づけはない。これこそが日本社会を変えてしまう確実なパワーである。私は、そう信じている。

あとがき
(p263)
 本書の出発点は、一九八八年に出版された拙書『先端医療革命―その技術・思想・制度』(中公新書)に、長めの補遺をつけて増補改訂版を作るという企画であった。ところがいざ筆をとってみると、書くべき対象とそれを取りまく状況は激変しており、かなり早い時点で新しい本として書き下ろすことを決めた。しかし、こうなるとよほどの圧力でもない限りなかなか形にならないもので、大幅に遅れてしまった。

■言及

◆立岩 真也 2013 『私的所有論 第2版』,生活書院・文庫版


*作成:植村 要 更新:竹川 慎吾