『サイボーグ・エシックス』
■高橋 透 20060601 『サイボーグ・エシックス』,水声社,180p. ISBN-10: 489176578X ISBN-13: 978-4891765781 2100 [amazon] ※ c02
■内容(「BOOK」データベースより)
新たな生命体を夢見て、人間/動物/機械の境界を攪乱せよ!われわれはみなサイボーグだ!ハイブリッド的共存のうちに、種の壁を越え、サイボーグの世界へと向かう新しい世紀の新しい倫理。
内容(「MARC」データベースより)
新たな生命体を夢見て、人間/動物/機械の境界を撹乱せよ。われわれはみなサイボーグだ! ハイブリッド的共存のうちに、種の壁を越え、サイボーグの世界へと向かう新しい世紀の新しい倫理。
■目次
第1章 ケヴィン・ワーウィク
第2章 ステラーク、そしてオルラン
第3章 エドゥワルド・カッツからデザイナー・ベビーへ
第4章 ダナ・ハラウェイとサイボーグ・エシックス
■引用
第1章 ケヴィン・ワーウィク
(pp12-13)
自己をサイボーグ化するために、ワーウィクは、まず、「独立した百個の電極から成るミクロ電極アレイ」を、自分の腕の「正中神経に埋め込」んだ。「この技術によって、神経束内部の感覚ニューロンそして/あるいは運動ニューロンを高度に選択的に記録し刺激することが可能になる。」つまり、埋め込まれた電極は、ワーウィクの神経系の動きを記録したり、逆にそれに刺激を与えたりできるのだ。神経系から各電極を通じて送信されてきた信号は、増幅器で増幅され、「神経信号プロセッサー」に送られ、そこで神経波がスキャンされる(1)。こうして、神経系からコンピュータへの接続が可能になった。さらに、逆にコンピュータから神経系へ信号を送ることも確立された。つまり、「われわれは、コンピュータから信号を送り、この信号は私の指を動かすことができた(2)」のだ。このようにして、ワーウィクの神経系とコンピュータとのあいだに双方向的な接続が確立された。人間の神経系と機械とが直接に接続されたのである。
このような接続をもとにして、ワーウィクは諸々のサイボーグ実験をおこなった。
実験一は次のようなものだった。ワーウィクは、コンピュータからの信号を通じて自在に動かすことのできる、人間の手を模した「人工の手」を用意する。「実験のこのパートで、私たちは、ニューヨークにいる私の神経システムと、レディングのマッドラボ〔に置かれた人工の手〕とのあいだの直接的な電子接続を達成しようと欲したのだ。われわれの希望は、私が自分の手を動かすときに私の神経システムから受け取られた信号がインターネットを通じて、ラボに置かれた人工の手に伝達され、人工の手を私自身の手と同じように動かす、というものであった。もしこれがうまくいったならば、次にわれわれが望んだことは、レディング大学のラボから、インターネットを通じて、ニューヨークにいる私の神経システムへと信号を送信し、私の指を刺激することであった。われわれは、ニューヨークにある私の脳とレディング大学のラボとのあいだの双方向的コミュニケーションを達成することを期待したのである(3)。」この実験は、双方向において成功した。
(pp25-26)
ここで疑問が生じてくる。機械と私が一体化するのであれば、私は私でありつづけることができるのだろうか。それとも私は機械であり、機械こそが私なのではないだろうか。私は私でなくなってしまうのではないだろうか。この事態について、クラークは、「ソフトな自己」という概念を導入して以下のように述べている。「自己というものは存在しない。もし自己[という言葉]によって、私を誰かにし、私が私をそれであるところのものにするような、なんらかの中心的な認知本質のことを言っているのであれば、自己の代わりに存在しているのは、『ソフトな自己』にほかならない。ソフトな自己とは、神経、身体、テクノロジーといった諸過程の、大まかで無秩序でありながらも、コントロールを共有する連合体のことであり、『私が中心プレーヤーである』という物語を語り、そうした絵を描き続ける衝動のことである(20)」と。難しそうな言い回しであるが、要するに、「ソフトな自己」とは、たとえばサイボーグの場合、私は機械と一体化しているが、しかし、機械をコントロールし、その動きを掌握しているかぎりにおいて、私はたしかに機械でもあるものの、機械に振り回されたり、機械に自分を乗っ取られたりすることはない、という事態を指す。つまり、私は、機械にいったんは変身するものの、だからといって、私は自分でなくなってしまうわけではない。私は、機械でありながらも私なのであり、中心プレーヤーなのだ。ソフトな自己は、状況に応じて自己を変化させつづける、柔軟さや器用さをもった自己なのである。
ワーウィクの著書『アイ・サイボーグ』では「コントロール」という言葉が頻出するが、このことからも分かるように、機械をコントロールするという発想が、ワーウィク的サイボーグのキー・コンセプトになっている。このサイボーグは、機械と人間の融合体であるが、しかし、機械に変じながらも、機械をコントロールするサイボーグである。ワーウィク的サイボーグは、ソフトな自己をもったサイボーグなのだ。
(pp31-34)
「二〇五〇年よりも前に読んではならない(35)」という封印のある、『アイ・サイボーグ』の最終章で、ワーウィクは、二〇五〇年には、サイボーグが知的機械と並んで活動し、知的機械の暴走を食い止めるとともに、人間は下等な存在に成り下がっているという未来予測を披露し、さらに「サイボーグとしての生に関係づけられた道徳、倫理、価値(36)」について見解を述べている。「ある意味でサイボーグはすべて、彼らのネットワーク結合のゆえに集団として行動する。ネットワークの一部として、ネットワーク上の一ノードとして、彼らは価値を有し、何者かであるのだ。それゆえ、ネットワーク全体のために有益なことをおこなうことが良識ある行為となる(37)。」「ネットワークは、全体的なシステムとして働く。個人のサイボーグは、ネットワークへの無線接続なしにはほとんど価値がないし、またネットワークは、サイボーグ・ノードたちなしには無力であると言えよう(38)。」個々のサイボーグは、ネットワークに接続することで、ネットワーク全体となる。ネットワーク化が、ワーウィク的サイボーグのエシックスなのである。
ネットワーク・エシックスとでも言うべきこうした動向は、もちろん、ワーウィク独自のものではない。ワーウィク自身が認めているように、そうした倫理の動向は、「インターネットとそれに続くデジタル的な諸アイデンティティーの到来」により、個人が「ネット上で多くの個人」でありえ、「様々なパーソナリティー」と「部分的なアイデンティティー」をもちうるようになったことの延長として出てくる考え方である(39)。このようなネットワークに生きるからこそ、ワーウィク的なサイボーグにはソフトな、柔軟な自己が要求されるのだ。
フランスの哲学者カトリーヌ・マラブーは、ニューロ・サイエンスとネオ・リベラリズムないしグローバル資本主義との共犯関係を告発した著書『わたしたちの脳をどうするか』で、リュック・ボルタンスキーとエヴ・チアッペロを参照しつつ、「資本主義の再整備(40)」についてこう述べている。「現行の資本主義は、『多数の参加者とともに、すなわちチームやプロジェクトによる労働の組織化によって、ネットワークを結んで働く』可動的な、あるいは『むだのない(リーン生産)』企業という原則にしたがっている。このような企業において考慮されるのは、『ただ結合の数と形と方向だけである(41)』」と。このような可動的なネットワーク組織にとって重要なのは、もちろん「柔軟性」(flexibilite)(42)―これをマラブーは批判するわけだが―にほかならない。
このような観点から見るならば、ソフトな自己あるいは柔軟性を要請する、ワーウィク的なサイボーグ倫理には、グローバル資本主義とネオ・リベラリズムの世界観が色濃く刻印されていることが見てとれる。しかし、可動的なネットワークの経済組織において考慮されるのが、「結合の数と形と方向だけである」のであれば、誰が全体の利益を決定するのか。全体とは何か。また、全員で話し合うと言っても、利益の土台を揺るがすような決定的な対立が生じた場合、どのように処理するのか。さらに極端な場合、そうした話し合いに参加できない者たち、これから生まれてくる者、そして「言葉をもたない」生物たちについては、どうするのであろうか。
第二回目の実験を終えたワーウィクは、「将来の道は、明確に[コンピューターの]脳移植を指し示している(43)」と確言している。マラブーは、近年の脳科学のある方向性と現代世界の政治的・経済的動向との共犯関係を告発したわけだが、上述のような政治的ならびに経済的指向性をもつワーウィクのサイボーグ実験が脳のサイボーグ化へと進むのは当然のことなのかもしれない。
第2章 ステラーク、そしてオルラン
(pp38-40)
まず、ワーウィクのサイボーグ実験との関連も考慮に入れながら、「フラクタルな肉体」と名づけられたパフォーマンスを考察してみよう。図一を見ていただきたい。一番右の人間の絵がステラークだ。右腕には「第三の手」が装着され、ステラークの身体の数箇所には、筋肉刺激用パッドが取り付けられている。パリ、ロッテルダムあるいはメルボルンといった、世界各地の端末から、データがアップロードされ、筋肉刺激用パッドを通じてステラークの身体にインプットされる。ステラークの身体は、こうして、彼のまったく意図しない行動を、世界各地の端末から指令されることになる。ステラークは、パフォーマンス中、自身の身体を通常どおり自身の意図にしたがって動かすことができるが、しかし、これに加えて、まったく思いもかけない行動を要求されることにもなるのだ。ステラークの身体は、自分と他人が同居する「分裂した身体」(Split body(3)と化す。
(pp55-57)
「フラクタルな肉体」と「パラサイト」を例に取ってみよう。これらのパフォーマンスをおこなっているステラークは、リモート・エージェントたち、あるいは様々なウエッブ・サイトたち、要するに機械たちに憑依されて、半ばは自分で、半ばは自分でないという状態に置かれている。ステラークの身体は、多種多様な他者たちにとり憑かれている。このような他者を内包しながら、彼の身体は、そのつど、様相を変貌させていくことになる。ステラークの身体は、あるときには、リモート・エージェントAから命ぜられた行動をおこない、あるときには、ウェッブ・サイトBからアップロードされた様相を表現する。そして、これらは、ステラークの身体の様々な箇所で、同時に生起することもある。究極的に言えば、ステラークの身体は、こうした多種多様な様相から構成された混交体である。ステラークの身体は、いわば万華鏡のように変遷するモザイクたちの動的な集合体である。その身体は、様々な相貌が連続して絶え間なく現れ続ける媒体、あるいは、そうした相貌たちの無限のスパイラルとなっている。ステラークの身体は、自分の身体であるためには、このように自分とは違う、他なる要素を抱え込まねばならないのである。「ステラークの」サイボーグ身体は、「分裂した身体」なのだ。
この「分裂した身体」を構成している様相と相貌の多種多様性は無限である。まず、空間的にも、リモート・エージェントは無数に存在する。たしかに、地球上の現在の人口は限られているから、その数は有限である、と言えよう。しかし、ここには時間的なファクターが付け加わらざるをえず、生まれては死んでいくエージェントたちを考慮せねばならない。そうだとすると、エージェントの多様性は無限であると言わざるをえない。したがって、「身体なるもの」は、決して完結したものではないし、完成したものでもない。「身体なるもの」をそれとして提示することはできない。それは、つねに未完成である。つねに完成の途上にあり、つねに「来たるべきもの」なのである。「ステラークの」身体は、このような来るべき「身体なるもの」の無限の相貌に接続することによって、「彼の」身体でありうることになる。このように、「ステラークの」身体は、無限の様相を孕み込み、無限の可能性に晒され、つねに来たるべき、未完成の身体でありつづける。
サイボーグの身体が、このような無限の様相から構成されているのであれば、結局どの様相がサイボーグの「本体」なのだろうか、という疑問が出てくるであろう。これほどにも多くの様相と相貌を見せていくのであれば、本当の顔は、本当の身体はどれなのであろうか? すでに論じたように、サイボーグ身体の様相は、無限数、存在する。その身体は無限数の様相によって形作られているのだ。ということは、どの様相も、どの身体も、結局はその場かぎりのものであって、サイボーグの身体は、究極的にはどのような様相でも受け入れる無垢の白紙、つまり「タブラ・ラサ」のようなものであると言わねばならないだろう。もっと言えば、この身体は、「空虚な」(empty (27))身体である。そこにはどのような様相でも相貌でも書き込むことができる。身体はこうして「廃れた身体」(obsolete body (28))である。廃れた身体とは、だから、独立し他からは区別されたアトムという、通常の身体イメージが廃れた、という意味である。この結果、身体はいまや、無規定な、タブラ・ラサとしての身体となっているのだ。
(pp59-61)
西洋哲学には次のような考え方がある。たとえば、家を作るとき、職人は、家のイメージを描き、そのイメージに合わせて、材木や石やガラスなどの素材を使って、実際の家を作る。このイメージを「形相(エイドス)」と呼び、素材を「質料(ヒュレー)」と呼ぶ。実際の家は、形相と質料が合体して出来上がったものであり、「形姿(モルフェー)」と呼ばれる。形相とは家の形を規定するものであり、質料とは素材である。規定された様々な様相と無規定な塊とから成るサイボーグも、もちろん形相と質料の合体から出来ていると言える。しかし、家の場合には、家はいったん出来上がったら、リフォームでもしないかぎり、別の形に変わってしまうようなことはない。出来上がった家は、別のものに変形されることはない。この意味では、形相が、材料である質料を、しっかりと形相の枠内に繋ぎとめていると言える。しかし、サイボーグの身体は、一定の形相には収まりきらず、たえず変形されていってしまう。ここでは、形相は質料の変化に追いつかない。質料は、形相の規定をつねにはみ出し、無規定なままであり続ける。質料、つまりマテリアリティーは、形相によって、いったんは規定されるものの、その規定をかいくぐって流出していく。マテリアリティーは、いったんは規定されはするものの、決して規定され尽くされることはないのである。サイボーグの身体において見られる、このようなマテリアリティーを、「流動化するマテリアリティー」と名づけたい。それに対して、上で挙げた家の例のような場合には、素材ないし質料は形相をはみ出すことはないし、流動化することもない。
サイボーグの身体には、形相と流動的なマテリアリティーがこのような形で共存しているのだ。サイボーグの身体性とは、形相と流動的なマテリアリティーの共存なのである。ステラークのサイボーグにおいて形相を決めるのは、リモート・エージェントやウェッブ・サイトから送信されるデジタル・コンテンツであった。デジタルは、周知のように、ビット、つまり「0」と「1」という二進法を基礎として構築された言語体系である。コンピユータの世界では、デジタルは「離散的」、アナログは「連続的」と定義されるが、離散的であるとは、「0」と「1」という区別・分離を基礎としているということである。
これに対して、連続的というタームは、こうした区別・分離では捉えきれないものを表している。区別や分離では捉えきれないものとは、規定されえないもののことである。したがって、アナログとはここでは、上述した無規定の塊のこと、もしくは形相による規定をかいくぐる流動化するマテリアリティーのことにほかならない。規定された多種多様な相貌・様相と無規定の流動化するマテリアリティーから成るサイボーグの身体は、デジタルとアナログが共存する混成物であり、流動化するマテリアリティーは、アナログの連続量として、デジタル化による区別、分離をかいくぐるのである。
しかしながら、ステラークのサイボーグ身体に、無限の数の様相や相貌を送り付けているのは、リモート・エージェントやウェッブからの情報である。つまり、コンピュータから発信される無限数のデータが、サイボーグの身体を流動化するマテリアリティーにしている、とも言いうるのである。流動化するマテリアリティーとしてのサイボーグ身体を形成しているのは、機械なのであり、デジタル情報が、アナログの流動性を創り出している、という側面もあるのだ。テクノロジーは、したがって、マテリアリティーの流動性を産み出しもするのである。無限数の様相・相貌を産み出すテクノロジーは、こうして、それ自身、流動化するマテリアリティーとなる。テクノロジーは、だから、流動化するマテリアリティーであり、デジタルは、流動化するアナログなのである。こうして、テクノロジーは、マテリアリティーと融合する。生身の身体に付加されたサイボーグ・テクノロジーは、無限の様相・相貌を表出することで、自分自身、流動性を提示するとともに、これらの様相・相貌を生身の身体に刻印し、生身の身体を無限の様相・相貌を表現する物質、つまり流動化するマテリァリティーにするのである。テクノロジーは、生身の身体という物質に付加されることで、流動化するマテリアリティーを産み出し、みずからそうしたマテリアリティーの流動化運動となる。テクノロジーは、マテリアリティーの対立物ではなく、マテリアリティーと融合するのである。流動化するマテリアリティーは、テクノロジーであり、テクノロジーは流動化するマテリアリティーである。両者は、相互に入り混じり合い、ハイブリッド的に融合しているのだ。このように、サイボーグ・テクノロジーでは、テクノロジー、すなわち人為と、流動化するマテリアリティー、すなわち生身の身体とが、言いかえれば人工と自然とがハイブリッドという形で融合するのである。サイボーグとはこのような、人工と自然のハイブリッドのことなのだ。
(pp67-70)
サイボーグの可塑性と柔軟性はどちらも、そのつどの文脈に即応して、様々な相貌・様相を呈する点においては同じである。それでは違いはどこにあるのだろうか。ステラーク的なサイボーグは、憑依する様々な他者を、自己のうちに憑依するがままにさせておくのだった。ところで、ステラークのサイボーグ・パフォーマンスの歩みを振り返るならば、その歩みは、それぞれのパフォーマンスにおいて、そのつど異なった他者が、ステラークのサイボーグ身体、つまりサイボーグ・ボディに憑依し、寄生してきた過程であると解釈できるであろう。ステラークはそれぞれのパフォーマンスのたびに、そのつど、自己のサイボーグ・ボディを憑依するものに向かって開け放してきたのである。かくして、このボディは、そのつど、新たに憑依してくるものに合わせて、それまでの刻印を消去し、自己の形を変形し、新たな自己の形を創造し、発明し、陶冶してきたのだ。それゆえ、ステラーク的サイボーグ・ボディは、マラブーが言うところの「形を与える資源、創造する力、発明する力、刻印を消去すらする力、しつける力」であり、要するに「可塑性」そのものなのである。そして、この可塑性としてのサイボーグ・ボディは、新たに憑依してくる他なるものを受け入れ、そうした他なるものと融合し混交していくのだから、それがすぐれてハイブリッドな本性を有する身体であることは言うまでもない。
これに対して、ワーウィク的サイボーグ・ボディは、「柔軟性」を本質とするものであった。ワーウィクは、すでに指摘したように、サイボーグのエシックスとして次のような価値観を述べていた。「ネットワークの一部として、ネットワーク上の一ノードとして、サイボーグたちは価値を有し、何者かであるのだ。それゆえ、ネットワーク全体のために有益なことをおこなうことが良識ある行為となる」と。ワーウィクの価値観からすれば、ネットワークという全体に接続し、その一部ないし一ノードとして機能することが、あるいはマラブーの言葉で言えば、全体としてのネットワークに適応し、慣れ、その時点でのネットワークのあり方を、すなわちそうしたネットワークの形あるいは刻印を受け入れ受けとり、このようにしてそのネットワークの襞を自分自身に刻み付ける従順さが、良識ある行為にほかならない。もちろん、全体としてのネットワークといっても、刻々変化する動態であるが、ネットワークが変化するからこそ、柔軟さが求められるのは言うまでもない。だからこそ、柔軟で、ソフトな自己が価値をもつことになる。
柔軟性がこのように、変化するネットワークの動態への適応能力、要するにあらかじめ与えられた、そのつどの状況の形態への従順さであるのに対して、可塑性は、こうした形態そのものを「爆発」させること、つまりその形態の底を穿ち、新たな形態を「創造」し「発明」することを本性とする。柔軟性がネットワークの地平の成立を前提としているのに対して、可塑性はこの地平を創りだすのである。したがって、柔軟性も可塑性も、動的な変化に対応するという点では同じであるが、しかし、この変化への従順さであるか、あるいは変化の創造であるか、という点において異なっているのだ。柔軟性は、成立した地平をイデオロギーとして受容するがゆえに、また、可塑性の創造する力を見せかけつつもそうした力を収奪するがゆえに、「可塑性のイデオロギー的変貌」、そして「同時に可塑性の仮面、乗っ取り、没収」と化すのである。サイボーグの文脈に置き移してみれば、このことは、ステラークがそのサイボーグ・パフォーマンスの歩みを通じて、新たな憑依者に対して繰り返し自己を創り変えてきたのに対して、ワーウィクは、全体としてのネットワークへの適応能力としての、要するに、ソフトな自己としてのサイボーグ価値を与えてきたという事態に対応しているのである。
機械と人間の共生
柔軟性と可塑性の対比はさらに、上で言及した、機械と人間の共生の在り方の問題に繋がる。柔軟性は、ソフトな自己としてのサイボーグを生み出すが、ソフトな自己では、すでに指摘したように、最終的には人間が中心プレーヤーとなる。だから、これは共生というよりはむしろ、かえってヒエラルキーの導入となるであろう。これに対して、可塑性は、現在の地平では見えてこない新たなものをたえず模索し、発明・創造するのであるから、これは同時に人間が中心であるという見方に穴を穿ち、人間以外のものとの、すなわち機械と人間との共生の可能性を打ち開くことになるであろう。
(pp75-76)
現在いたるところで簡単におこなわれるようになった整形手術。これはすでにサイボーグ化の端緒であると言ってよい。フランスのアーティスト、オルランは、自分自身に整形を施すことによって、「カーナル・アート〔肉的芸術〕」(Carnal Art; Art Charnel)と名づけられたサイボーグ・パフォーマンスをおこなっている。
「オルラン」(Orlan)という名前は本名ではない。これは、彼女が自分で付けた「ペンネーム」だ。オルラン自身によれば、ある時、自分の署名が、「死んだ」を意味するフランス語 "MORTE" を連想させることに気づき、"OR" を残して、"LAN" を付け加えたのだという(42)。ケート・インスによれば、「オルラン」という名前は、複数の名前を連想させる。オルレアンの少女、ヴァージニア・ウルフの小説の性転換をおこなった(女)主人公のオルランドー、オルロン(合成繊維)、きらびやかな広告で宣伝されている香水(オルランヌ)等だ。さらに、頭文字のOだけを取り出せば、他者(Other)や『O嬢の物語』へと連想は膨らんでいく(43)。これだけですでに、オルランのカーナル・アートの方向性が見えてくるであろう。それは、彼女の名前がアイデンティティーの無限の可変性を示しているように、肉体ないし身体の(原理的には)無限の「可塑性」をパフォーマンスすることにある。
(p78)
身体あるいは肉体は、もちろん限界があるとはいえ、整形手術によって彫塑可能である。原理的に考えるならば、整形においても、ステラークの場合と同じことが言える。ステラークのサイボーグ身体は、様々な様相・容貌を受容しながらも、それ自身は空虚なのであった。オルランの身体も、同様に、整形によって様々な様相・容貌を受け入れながらも、それ自身は何の規定ももたず、空虚な身体である。そして、ステラークにおいて、空虚な身体がサイボーグ・テクノロジーによって満たされたように、オルランの身体も、整形手術というテクノロジーによって満たされるのである。さらに、形相とマテリアリティーの関係について言えば、オルランは次のような興味深い発言をしている。「私の目論見は、肉と言葉のあいだの関係を説明することであり、言葉が肉になるのではなく、肉が言葉になることを狙っている(48)」と。「肉」という物質は、「言葉」という形相の支配を免れた、「流動化するマテリアリティー」なのだ。
第3章 エドゥワルドカッツからデザイナー・ベビーへ
(pp93-101)
カッツが提示する、生命の創出の例をもう一つ紹介しておこう。「ジェネシス・プロジェクト」が、それだ。ジェネシスとはもちろん、旧約聖書の「創世記」のことだ。カッツによるプロジェクトの紹介には、こう書かれている。「ジェネシス(一九九八―九九)は、遺伝子導入作品(トランスジェニック・アートワーク)であり、生物学、信仰の体系、IT〔情報通信技術〕、対話的インタラクション、倫理学およびインターネットのあいだの入り組んだ関係を探求する。この作品の鍵となっているのは、『アーティストによる遺伝子』である。この遺伝子は私が創出した、自然界には存在しない合成遺伝子である。この遺伝子が創られたのは、聖書のなかの『創世記』の一節をモールス信号に翻訳し、このモールス信号を、今回の作品のために特別に開発した変換規則にしたがって、DNA塩基対へと変換することによってである。その一節には、以下のように書かれている。『人に、海の魚、空の鳥、家畜、地を這うすべての生き物を支配させよう』と。聖書のこの一節が選ばれたのは、この一節が、(神によって是認された)自然に対する人類の至上権という、疑わしい概念にかかわる含意を含んでいるからである。モールス信号が選ばれた理由のひとつは、モールス信号は、無線電信においてはじめて用いられたものであって、情報時代の黎明、すなわちグローバル・コミュニケーションの創世〔記〕を表しているからである(8)。」〔図六、七〕(略)
ここでおこなわれているのは、いわゆる「組換えDNA技術」の基本的な作業である。(略)
つまり、プラスミドに、「創世記」から創ったあの人工合成遺伝子を組み込み、それをバクテリアに移入したのである。カッツの作品は、だから、特別な遺伝子操作をおこなっているのではなく、原理的手法を通じて、遺伝子工学の本性を浮き彫りにする試みなのである。ジェネシス・プロジェクトを追ってみよう。 ジェネシスという作品では、まずはじめに、(一)ECFPとEYFPを組み込んだプラスミドをバクテリアに移入し、それぞれ紫外線に照らされると青緑色と黄色の蛍光色を発する二種類のバクテリアを作出する。次いで、(二)メイン・テーマである「創世記」由来の合成遺伝子を組み込んだプラスミドを、(青緑の)ECFPバクテリアの方にのみ移入した。
微生物たちは、まず、(一)で組み込んだ、二つの蛍光色を互いに取り替え合ったり、打ち消したりするパフォーマンスを演じたが、これについてはここでは詳細は省略する。
次いで、微生物たちは、(二)で組み込んだ合成遺伝子にかんして、妙技を披露した。ジェネシス・プロジェクトで用いられた「バクテリアの菌株は "JM101" というもので、突然変異は通常一〇の六乗に対して一の確率で起こるとされている。突然変異の過程においてECFPバクテリアに書き込まれた精密な遺伝情報が変化することとなる。人工合成遺伝子に突然変異が引き起こされる三要因は、1―バクテリアの自然な増殖過程、2―バクテリア同士の対話的な相互作用、3―人間の手による紫外線放射、となっている(15)」。ECFPバクテリアに組み込まれた、「創世記」由来の合成遺伝子の突然変異は、ここに書かれているように三通りの可能性によって生じる。第一の可能性は、バクテリアは、細胞分裂によって増殖するが、この自然増殖過程において、遺伝子のコピーミスが生じて突然変異が生じることを意味している。第二の可能性は、「接合(16)」を指すと考えられる。接合においては、バクテリアが他のバクテリアに直接接触することで、合成遺伝子を組み込まれたプラスミドが他のバクテリアに伝達される。この「生殖」もしくは増殖過程において、コピーミス、つまり突然変異が生じる可能性がある。第三の可能性は、バクテリアに照射された「紫外線のエネルギーがバクテリアに影響を及ぼし、プラスミドのDNA配列を損傷して突然変異が起こる確率を促進することになる(17)」というものだ。
ジェネシス・プロジェクトにおいてさらに注目すべきことは、この「作品は展示室内の人間はもちろん、会場外からもインターネットを通じて経過を観察できるように展示されている(18)」という点であり、さらに場外の人間も、インターネット経由でバクテリアに紫外線を照射することができるという点である。ここには、ネットという機械を経由した、人間と動物(微生物)とのインタラクティヴがあるのだ。
では、これらの条件下に置かれて、「創世記」由来の合成遺伝子はどうなったであろうか。「創世記」の〔英訳版〕オリジナルには次のように書かれていた。Let man have dominion over the fish of the sea and over the fowl of the air and over every living thing that moves upon the earth. 〔和訳は、九三頁参照〕。ところが、ジェネシスのパフォーマンスのなかで、微生物たちはこの一節を見事に書き換えてしまったのである。このパフォーマンスにおいて書き換えられた遺伝子を、今度は逆のプロセスをたどり、モールス信号に置き換え、さらに英語に翻訳すると、こうなっていた。Let aan have dominion over the fish of the sea and over the fowl of the air and over every living thing that ioves ua eon the earth. (19)
コーエンたちの組換えDNA実験では、遺伝子は、組換えた後でも、元と同じ機能を発揮するのであった。というか、人間の眼差しはひたすら、そうした機能の同一性に注がれていた。しかし、カッツのジェネシスは、バクテリアという生命体が突然変異を通じて遺伝子を書き換えること、つまり生命が、人間の意図に反して、あるいは人間の意図を超えたところで、遺伝子を書き換え、その機能を変更してしまう点に着眼し、この点を浮き彫りにしているのである。このことの意図は何か。カッツはこう語っている。「ジェネシスはたんに、他の種に対する人間の支配を繰り返しているだけのように思われるかもしれないが、それが究極的に明らかにしているのは、こうした人間中心主義的な考え方は、この作品のコンテキストにおいて確立された物質的関係性よりも、むしろ人間の側の認識のあり方にかかわりがあるということだ。私たちは、私たちの胃の内部を被っており、私たちが共生関係において私たちの生命を分け合っているバクテリアの支配者なのだろうか。あるいは私たちは、彼らの手先なのだろうか。また、私はジェネシスのバクテリアをコントロールしているのだろうか。あるいは私は、進化の過程を通じて、彼らのサバイバルへの意思のための乗り物なのであって、新たなバクテリアを創り出すことによってバクテリア増殖に貢献しているのだろうか(20)。」これに対する明確な回答はありえないだろう。むしろ、ここにあるのは、人間とバクテリアのインタラクティヴな共生関係にほかならない。カッツのジェネシス・プログラムは、「創世記」的な人間支配に穴を穿ち、人間と微生物との、ひいては人間と動物との共生関係を切り開く試みなのである。
(pp104-107)
突然変異について、生命誌家の中村桂子は『ゲノムが語る生命』でこう述べている。「DNAに関しては、複製とかコピーという言葉が使われますが、現実にはDNAはまったく同じものを作るようにはできていません。コピー機で複写したときには書いてある文字を一字たりとも間違えずに写せるようになっているからこそコピーなのであり、たとえば一枚の中で一字間違えることになっていたら、百枚も千枚もコピーしているうちに、わけのわからない文になってしまうでしょう。ところが、DNAが次のDNAを作るときには、必ずどこかで間違えます。間違っても、生きていますよというメッセージが失われないかたちで間違えられるからこそ、三十八億年もの間続いてきたのです。それは、生きているという表現が多様な形を取り得るからです(26)。」DNAの伝達過程には、このように必ず、コピーミスがつきものなのだ。もっと言えば、DNAの伝達過程においては、つねに解釈という作業がおこなわれているわけだ。だから、DNA伝達機構ひいては遺伝子伝達機構そのものに、解釈という、計算を阻害する要因が内在しているのである。
遺伝子伝達機構に内在する、以上のような突然変異ないしコピーミスの過程について、デンマークの生命科学者ジェスパー・ホフマイヤーは、『生命記号論』という著書のなかで、アナログとデジタルという対概念を用いて、以下のように説明している。「すべてのワニは、どの一頭をとっても、全てのワニに共通するワニの性質『ワニ性』(遺伝物質を通して先祖から伝えられたメッセージ)をもつとともに、ワニを個々のワニにする要素をももつ。この後者のメッセージは、血統を表すデジタル・メッセージに付随する、一種のメタメッセージである。〔個々の〕ワニはアナログ情報なのである。……そして、交配という記号過程が進行するにつれて、〔デジタル・メッセージ〕は、同じ種の他の個体たちによって受け取られ、解釈されるのだ(27)。」
一方には、ワニをヒトから区別し、ワニという種(「ワニ性」)を決定しているメッセージ、つまり種の遺伝子情報がある。ホフマイヤーは、これをデジタル・メッセージと名づける。他方には、個々のワニの個別性を形作っているメッセージがあり、それを、デジタル・メッセージに対するメタメッセージ、つまりアナログ情報と呼んでいる。したがって、現実の一匹のワニは、種を規定するデジタル・メッセージと、ワニ間における個体性を形成するアナログ情報とから成り立っているのである。つまり、デジタルとアナログの融合から。そして、これらが交配を通じて融合されるとき、デジタル・メッセージは、中村が語っていたように、間違いを含んだ形で伝達される。つまり解釈される。一匹のワニはしたがって、デジタル情報が正確に伝達されている側面と、デジタル情報が一定の解釈にもとづいて伝達されている側面とを併せもっているのである。デジタル情報は、一匹のワニとして具現化されるとき、自分のコントロール圏をはずれる側面(アナログ)を含まざるをえない。デジタル情報は、宿命として、自分の内部から、(少なくとも一部は)自分ではないものを生み出さざるをえないのだ。
第二章で、ステラークのサイボーグ・ボディにおける「流動化するマテリアリティー」という側面を指摘しておいた。このボディは、流動化するマテリアリティーとして、形相を受け入れながらも、形相に繋ぎとめられ、形相に牛耳られることはなかった。先にも述べたように、サイボーグ・ボディは、デジタルとアナログが共存する混成物であり、アナログの、流動化するマテリアリティーは、連続量として、デジタル化をかいくぐるのだった。同じ関係を、遺伝子伝達構造におけるデジタル―アナログ関係についても見てとることができる。ワニのデジタル遺伝情報は、個体としてのワニとして具現化されるとき、解釈を被り、変形される。つまり、個々のワニは、種としてのワニという形相には収まりきらない部分を含んでいるのである。個々のワニとは、具体的に肉体をもったワニであり、物質、質料である。個々のワニという質料は、ワニ一般の形相には収まり切らない部分をもっている。つまり、形相の枠組みでは線引きしつくせない連続量の部分、すなわちアナログの部分を孕んでいるのだ。アナログという連続量は、連続する流れとして、流動化するマテリアリティーにほかならない。かくしてデジタル情報に発しつつも、デジタル情報には収まり切らない個々に異なったワニが産み出され、そのつど、新たな個体のワニが創出され続けていくのである。
(pp111-114)
上で指摘したように、人工遺伝子は、ラボで作成する段階では、計算可能でありコントロール可能であった。しかし、いったんバクテリアという生物に移入されるやいなや、人工遺伝子は、部分的にではあれ、コントロール不可能な様相を呈するようになる。かくして、人工遺伝子は、バクテリアという生命体の「身体」に移入されると、自己の遺伝子配列を内部から攪乱し、新たな遺伝子配列を産み出すにいたる。ホフマイヤー式に言えば、デジタル情報が、アナログによって変形されるわけだ。このように、こうした変形は、自然状態における遺伝子伝達時にだけ生起するのではなく、人工遺伝子の伝達時にも生じるのである。人工遺伝子といえども、全面的にコントロール可能なのではなく、それがバクテリアの「身体」に移入されたときには、自然の遺伝子と同様、コントロール不可能な変形を産み出すのであり、このような変形が新たな生命の創出へと繋がるのである。
(人工遺伝子の、このような、デジタルかつ/またはアナログ、人工かつ/または自然というハイブリッドな融合構造が、サイボーグ・テクノロジーにおける、テクノロジーと生身の身体あるいは流動化するマテリアリティーとの、つまり人工と自然とのハイブリッドな融合構造と軌を一にすることは容易に見てとれるであろう。)
さて、人工遺伝子を作成し、バクテリアに人工遺伝子を組み込んだのは遺伝子工学であるが、遺伝子工学は、以上のように、コントロール可能かつコントロール不可能なものを創りだすことによって、新しい遺伝子の作出に、ひいては新しい生命の創出に資することになるのだ。遺伝子工学は、たしかにコントロール可能、計算可能なものを創りだすが、しかし、人工遺伝子は、バクテリアという自然の生命体に移植されると、コントロールも計算も不可能な側面を発現させるのだから、遺伝子工学は、人工遺伝子を作成することによって、コントロール不可能性・計算不可能性を潜在的な形で孕んだ遺伝子を作り出していることになる。つまり、遺伝子工学は、人工的なものを作り出すと同時に、人工性―つまりコントロール可能性と計算可能性―を攪乱させる「自然」的要素をも、潜在的にではあれ、共に作り出しているのである。このようにして、遺伝子工学は、遺伝子工学の計算を裏切り自己を変形させていく人工遺伝子を作出することになる。遺伝子工学は、みずからの「意図」に反する形で、こうした遺伝子を産み出さざるをえないのだ。というよりもむしろ、遺伝子工学は、このようなみずからの「意図」に(部分的にではあれ)反するものを産出しうるからこそ、人間のコントロールから外れた遺伝子、言いかえれば人間の知の領域にも実践の領域にも収まりきらない、未聞の新たな遺伝子を産み出すことができるのであり、このことを通じて、新しい生命の創出に資することが可能になるのである。
このような新しい生命創出に際して、遺伝子工学は当然ながら、人工遺伝子の自己変質という形で自分の意図していたものとは違った結果を抱え込むことになる。つまり、遺伝子工学は、コントロールしえない他なる要素を孕み込むのである。しかし、このような他なる要素を自分のうちに孕むことで、遺伝子工学には、こうした他なる要素との共存・共生可能性が開かれる。この共存・共生可能性にもとづいて、遺伝子工学がソフトな自己や柔軟性の論理にもとづいたテクノロジーのタイプに、すなわちいったんは自分を動物に変じながらも、最後は動物を人間の支配下に組み敷くための武器になることが食い止められうるであろう。
(pp115-116)
このようにして、これまで自然がおこなってきたことを、いまや、テクノロジーがおこなうのである。とはいっても、テクノロジーが自然を組み伏すような仕方でではなく、自然とハイブリッド的に融合することによっておこなうのだ。なぜなら、遺伝子工学が作出する人工遺伝子は、自然という攪乱要因を自己の内部に孕み込んでいるからである。つまり、遺伝子工学によって作出された人工遺伝子は、人工かつ/または自然という、ハイブリッド的な構造体だからである。遺伝子工学は、このように、人工もしくはテクノロジーと、自然とをハイブリッド的に融合させることによって、自然のプロセスのシミュレーションを、すなわち新たな遺伝子、新たな生命の創出をおこなうのである。
遺伝子工学、あるいはバイオ・テクノロジーは、以上のような形で、自然のシミュレーションとなることで、生命の神秘、生命の謎に対する驚嘆の念を呼び覚ます。
第4章 ダナ・ハラウェイとサイボーグ・エシックス
(p133)
前章までで、サイボーグ・テクノロジーと遺伝子改変テクノロジーについて考察してきた。
サイボーグは、人間と機械の融合体であった。そして、遺伝子改変では、人間と動物の融合が問題になった。しかし、サイボーグにかんして言えば、蝙蝠をモデルにした第六感獲得の実験にも見られるように、ワーウィクの場合には、機械と人間の融合体であるサイボーグが、さらに動物という要素を融合させようとしていたし、ステラークの場合も、エクソスケルトンという巨大な虫ロボットとのパフォーマンスが動物との融合の方向性を打ち出していた。サイボーグはだから、最終的には、人間/動物/機械の融合となるのである。
(pp141-142)
人間/動物/機械が融合していく、以上のようなハイブリッドたちの世界を作り出しているのは、言うまでもなく、先端テクノロジーである。ところで、先端テクノロジーで使用されているのは、デジタル言語である。このことは、サイボーグを生み出すコンピユータの領域では言うまでもないことであるが、バイオ・テクノロジーの領域でも、DNAの四つの塩基は、0/1というビット、つまりデジタル言語に翻訳可能なのだから、ここでも、デジタル言語がバイオ・テクノロジーを下支えしていることは容易に見てとれる。デジタル言語の使用なしには、先端テクノロジーは成立しえない。デジタル言語は先端テクノロジーの本質を構成する要素なのだ。では、デジタル言語は、先端テクノロジーが産み出すハイブリッド化とどのように関係しているのだろうか。サイボーグ・テクノロジーとバイオ・テクノロジーは、デジタル言語とどのように関係しているのであろうか。
(pp144-145)
しかし、ここで問題がある。カントが示したように人間の認識は、感性と悟性のフィルターによって制約されているのであり、これを批判的に引き継いでニーチェがさらに言っていたように、世界は解釈なのである。対象の認識はすでに、人間の視点からなされているにすぎず、決して絶対的に正確なものではないのだ。認識一般についてのこうした考え方は、デジタル言語による認識についても当てはまる。デジタル言語も、0/1という枠組みを通じて世界を認識することであるかぎり、対象は、0/1というこの枠組みによって解釈されたものにすぎなくなる。0/1というこの枠組みが当てはめられるや否や、対象そのものは、そうした枠組みから逃れる連続量として、つまりアナログとして、デジタル言語による把握から抜け去って行ってしまうのである。デジタル言語は、だから、どれほど柔軟性を発揮しようとも、対象をそのものとして把握することはできないのだ。
デジタル言語は、こうした逃れ去る連続量を捉えようとして、柔軟性を発揮し、ビットの組み合わせを変化させ続けるであろう。しかし、この逃れ去る連続量は、デジタル言語によって把握されたと思う瞬間に、ふたたび形態を変えて、立ち去って行ってしまうのだ。この連続量はどのようにでも変化するのであり、可塑性そのものなのである。マラブー的に言うならば、デジタルの柔軟性はアナログの可塑性の仮面であり、模倣であり、デジタルとアナログは表裏一体の関係にあるが、しかし、デジタルはアナログを捉え切ることはできないのである。
(pp147-148)
したがって、先端テクノロジーを構成するデジタル言語は、自己を透明に伝達することはできず、マテリアリティーによる変形を免れえない。デジタル言語は、それゆえ、自己完結した純粋記号ではなく、記号とマテリアリティーの混交なのである。ハラウェイは、記号とマテリアリティーのこのような混交を、「物質―記号論的」(material-semiotic)と名づけている。ハラウェイによれば、「『物質―記号論的』は、物質性と記号過程の絶対的同時性を強調している(20)」。絶対的同時性とは、両者の混在、混交のことである。したがって、物質―記号論的というタームは、決していわゆる「記号の戯れ」を意味しているのではない。「記号の戯れは、たしかに『記号論的』ではあったが、しかしそれは、ハラウェイにとっては、充分に『物質的』ではないことがしばしばであった(21)。」ハラウェイにとっては、だから、記号という一元的で自己完結した領域ではなく、記号と物質の混交こそが考慮されるべき現象なのである。
「人間のサイボーグ化が今後不可避であるとすれば、人間が人間であるための要素、人間の規定は、〈人間はサイボーグである〉という点に求められねばならない。人間をサイボーグとして規定することで、人間の尊厳という考え方は、今後も重要性を保持・拡大していくことになるのである。
このように考えるならば、サイボーグ化の時代に必要なのは、人間の純粋性・純血性に依拠する、人間の尊厳という考え方であるよりも、むしろ人間をサイボーグ、つまり人間と人間以外のものとのハイブリッドと本質規定するエシックスである、ということになるであろう。このエシックスを、ハラウェイは「サイボーグ・エシックス」と名づけている」」([153])
■言及している文献
◆Haraway, Donna J. 1991 Simians, Cyborgs, and Women: The Reinvention of Nature, London: Free Association Books & New York: Routledge=20000725 高橋 さきの訳,『猿と女とサイボーグ――自然の再発明』,青土社,558p. ISBN-10: 4791758242 ISBN-13: 978-4791758241 3600 [amazon] ※ b c01 c02
◆小泉 義之 20030530 『生殖の哲学』,河出書房新社,シリーズ・道徳の系譜,126p.ISBN:4-309-24285-5 1575 [amazon]/[kinokuniya]/[bk1] ※ b
「ここで引用した小泉義之の著書、すなわち『生殖の哲学』[…]は、現代思想における「他者性」というテーマと、バイオ・テクノロジーの産み出す「キマイラ」という問題にについての、日本における先駆的業績である。」([169]、[125]に引用)
■紹介・言及
◆天田 城介 20071201 「ケア・1」(世界の感受の只中で・08),『看護学雑誌』71-12
http://www.josukeamada.com/bk/bs07-8.htm
◆立岩 真也 2008 『…』,筑摩書房 文献表
*追加:植村要