HOME > BOOK >

『心の病いはこうしてつくられる――児童青年精神医学の深渕から』

石川 憲彦・高岡 健 20060625 批評社,メンタルヘルス・ライブラリー,172p.


このHP経由で購入すると寄付されます

石川 憲彦高岡 健 20060625 『心の病いはこうしてつくられる――児童青年精神医学の深渕から』,批評社,メンタルヘルス・ライブラリー,172p. ISBN-10: 4826504454 ISBN-13: 978-4826504454 1890 [amazon][kinokuniya] ※ b m

■内容(「BOOK」データベースより)
“善意の笑顔に隠れた取り返しのつかない悪意”によって、一人の引きこもり青年が、鎖につながれたまま名古屋の矯正施設で死亡した。自閉症スペクトラムからニート、特別支援教育から脳死・臓器移植まで、児童青年精神医学の抱える諸問題を、根源からえぐり出す。

内容(「MARC」データベースより)
自閉症スペクトラムからニート、特別支援教育から脳死・臓器移植まで、児童青年精神医学の抱える諸問題を根源からえぐり出す。「死をも共に生き抜いている人間というストーリーの原点」を追究した、迫真の対談集。

■著書

石川憲彦[イシカワノリヒコ]
1946年生まれ。精神科医。東京大学医学部卒。1987年まで東大病院を中心とした小児科臨床、とりわけ障害児医療に携わり、共生・共学の運動に関与。患児らが成人に達し、東大病院精神神経科に移る。1994年、マルタ大学で社会医学的調査を開始し、1996年から静岡大学保健管理センターで大学生の精神保健を担当。同所長を経て、現在は林試の森クリニック院長
高岡健[タカオカケン]
1953年生まれ。精神科医。岐阜大学医学部卒。岐阜赤十字病院精神科部長などを経て、岐阜大学医学部助教授。日本児童青年精神医学会理事。雑誌『精神医療』(編集=精神医療編集委員会、発行=批評社)編集委員をつとめる(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

■目次

はしがき 子どもの存在と社会の病理(高岡健)
第1章 自閉症スペクトラム
第2章 LDとAD/HD
第3章 児童虐待
第4章 リストカットとオーバードーズ
第5章 ひきこもりとニート
第6章 健康増進法とリスク管理社会の到来
あとがき 死をも共に生き抜いている人間というストーリーの原点(石川憲彦)

■引用

第1章 自閉症スペクトラム

 「石川[…]例えば、ある年齢ぐらいまでの子どもは大人だったら戻らない発語機能が戻るのは左側が壊れると右側が利用可能だからということはよく知られてきた。かつて医学はこのような器質的以上論からスタートしたわけです。ところがいつの間にかこれが機能的異常という言葉を生み出すようになると――これは脳死臓器移植まで行ってしまいますが――逆に機能の問題を脳の中の活用方法の異常という仮説を持ち出して、ついには病気を量産しようとしている。ここに今の精神医学の中で一番のトピックス[ママ]になっていると思うのです。
 だから「心の理論」は、因果関係が問題にならない。そこから出てきている理論の怖さは、最適理論です。脳は活用方法を一定の方向に決めたのですから、そこは個性で変えられない。しかし、個性的なありように負担を与え過ぎず、しかも個性を生かすためにどうやって最適の刺激を調節して与えるかが問題だという理論です。それはある意味では当たり前のこ<0040<とで、使い過ぎは疲れるし、使わなくては機能は低くなる、というようなことにすぎないのに、あたかも「自閉症」の子どもには最適があるように言い繕う。脳の動きにまで最適基準として特殊化されて導入されることになったら、これはもう薬づけの世界に突入するしかない。」(石川・高岡[2006:40-41])

 「高岡 自閉症脳障害説に関しては、例えば自閉症協会でもそういうふうに言っていますし、これまでの親の育て方が悪かったという誤解に対するアンチテーゼとしてはそういう言い方で私は十分いいと思うのです。しかし、この説で何が証明されるかというと、私は永遠に証明されないだろうと思っています。自閉症というのは、胃がんや骨折とは、全く違う領域の話ではないかと思うからです。
 では何なのかと言われると困るのですけれども、私は人間存在の原点みたいなものだと考えています。この原点が、発達という形でどんどん不自由にされていく過程がある。[…]」(石川・高岡[2006:41])

 「石川 私も、医者の立場から親の育て方に対するアンチテーゼとして自閉症脳障害説を認めたというところでは、そこは半分そうだと思う。でも、それを医者が言ってはおしまいだとも思う。高岡さんがよく言われるうつ病の話と同じだと思います。「うつ」は日本では根性のせいとか、甘え、だからというふうに批判的にみられてきた。それに関するアンチテーゼとして「うつ」は病気です、というのはいいように見えるけれども、気がついてみたら祖結果アメリカでは女性の4分の1は「うつ」で10%位の人が薬を飲んでいるという話にまでなってしまった。
 そこまでいったときに、専門家が病気だと宣伝していく裏に進行する社会的無意識の動向みたいなも機を相当注意していないとヤバイと感じる。「自閉症」もどんどんインフレのようにふえていく。スペクトラムという言葉自体がどういう広がりと可能性を誰にでも導いていきかねない。しかし誰にでも可能性があるなら特別視を止めてチャラにすればいいじゃない、という社会の方向はなかなか生まれない。」(石川・高岡[2006:42])

第2章 LDとAD/HD

 石川「AD/HD関係の本は高岡さんが言ったように、「褒めてあげなさい」、それ以外はないのですね。価値を個人内評価に閉じこめて、「親が褒めてあげなさい」というわけです。親トレーニングのプログラムなんてのが本になる。一つ間違えれば母性愛、父性愛にまで還元されかねないほど、価値の個人化が進んでいて、それを家族みんなが守ろうとする。セルフエスティーム論は日本社会では先ほど言いました自主管理の構築と家族関係の構造が結びついてしまうので、とても危険だと思うのです。
 ライフサイズで考えてみると、セルフエスティームが滅茶苦茶になってしまって打ち砕かれた子が沢山いるのは事実です。しかし、彼らはそこからしかスタートできないし、それが大切な力になのではないかと私はいつも思っています。大人は子どもの自信を奪ってしまってはいけない。つまり自分より弱い者を圧迫してはいけない。しかしそれはエスティームによるのではなく、リスペクトによって回復されるのです。人間はどんな子どもであろうが赤ちゃんであろうが大事な人間としてリスペクトされることで、外部が失わせた評価によって生まれる無理を克服していくのだと思う。
 それなら一遍打ち壊れされてもお互いにリスペクトし合う関係を構築すればいいと思うのです。AD/HDの子どもで一度しんどくなったけど、青年<0056<期以後徐々に変わっていった子どもを沢山観ています。それがセルフエスティーム論に対する問題提起です。」(石川・高岡[2006:56-57])

 「石川 私もリタリンの使用はゼロではないです。ただその殆どは既に余所の病院やクリニックで使用が始まっていた例です。この薬剤は子どもに依存が起こらないというのは?で、親に「覚せい剤を子どもに飲ませているのと同じです」ときつい言い方をすると、「いや、子どもの方がこの薬は納得して喜んで飲むのです」と言う。納得して喜んで飲むというのは、既に覚せい剤依存の始まりなのですね。つまり、イヤだなと言いつつ飲むのが薬で、納得して喜んで飲むというのは凄く危険なんです。
 薬を私が使わない理由は、先ほど高岡さんが言われたAD/HDの診断のところでの、病状が二つ以上の場面であるという点とからみます。場とは子どもにとっては大体学校か非学校的な家庭かです。私がリタリンを使う理由は限られています。家庭で困るなら使うのです。例えば旅行。最近は減りましたが夜汽車で行くというときに心配ですね。汽車から飛び出して迷子になったりしたらとか、親も気が気じゃないことがある。そんな時にリタリンを飲んで安心してみんなで楽しく旅行できるならそう悪いことじゃないと思っています。
 つまり多動行動が病的で本当に困るというこのは、診断基準にあるように多様な場所で困ることです。そういう場合使用もしょうがないと思います。日本で多いのは、隣の家との住居環境が悪いので薄い壁一枚で隣の家から怒鳴り込まれるといったこと。それでは一家の生活が成り立たない。そうなると親は、子どもはやはり静かにしてくれ、というふうになってしまうことは現実に少なくないですし致し方ないと思います。ですけど、リタリンを飲んでいる子どもの90数%までは家では飲まないのです。学校での限定的使用という綺麗な言葉で正当化されますが、私にはそこにもの凄い?っぽさを感じます。
 高岡 夏休みは飲まないとか。
 石川 そうです。つまり学校や社会のために飲まされているのです。」(石川・高岡[2006:71])
 →薬について

第3章 児童虐待

 「偶然の要素というものを誰がつくるかという問題ですね。治療がよかったという言い方を私は信じません。治療的根拠がないから信じないというだけでなく、治療者もそういう偶然の要素を呼び込み得るような存在であることをあり得るといきう非可視的な事実をどう評価するかだと思います。私はその根拠というのは比較的簡単ではないかと思います。虐待の連鎖のなかで先祖まで遡っていくと、西洋の世界ではアダムとイブまで行くわけですね。[…]
 […]誰もが永遠に苦労を背負って生きなければいけないと楽園から追い出されるわけです。しかし神はアダムとイブを消滅させなかったというストーリーこそ、メソポタミアの創造神話です。そのアダムとイブの子ども同士に虐待とも言える差別を与えて兄貴殺しを神がさせるわけです。兄を殺した弟はあらゆる人間から人殺しだと責め立てられる可能性を予測し、自分は生きていく自信がないと嘆く。しかしそのとき、神は弟に向かって、そうはさせない、お前に手を加えたら手を加えた者に何十倍もの責めが帰るのだ、と勇気づける。私は、ここは凄くおもしろいところでと思<0082<います。
 小さいころ虐待を受けた人。凄まじい思いを生きて、「うつ」になったり、PTSDになったり、人格障害と診断されたり、命を絶とうとしたり、そんな和い人との付き合いは、いつもこの神話に帰着します。自分が人間として生きていくときに、その人が最終的に求めているのは「自信」よりもっと根底的な、「生きることとの和解」です。自らに襲いかかってつくるようなものに対してなお自分でいつづけられるような「ゆとり」の回復ですね。そうしたものを生み出すのは診療室の治療というより、社会的な「和解」のストーリーの実現だと思います。原因を親に遡るなら、人類の最初の先祖まで遡って考えて生きていくしかない。そのために一番いやな人間と生きていくことを支え合うしかないし、どんなことをしても死んではいけないし、殺してはいけない。そうした和解が恨みや憎しみの中から親子や家族の間で生まれてきたときに、何となく楽になってくるというのが30年ぐらい付き合ってきた人から読み取れるストーリーなのです。」(石川・高岡[2006:82-83])

第4章 リストカットとオーバードーズ

 「石川[…]リストカッティングを、必ずしも新しい現象だと思っていない。遡れば日本社会では指を詰めたりしたわけですね。あれはヤクザの世界、義理人情の世界の特殊事情ということになるけれども、私は、自罰性というのはそもそも修行者の世界に端を発する普遍的行動だと思う。断食の行ちるしても――摂食障害とも通底すくかもしれませんが――食を断つという形で自らの身体を傷めるわけですね。リストカットする子も、ある意味では身体を傷めリセットするわけです。世界的にも宗教行事に伴って、さまざまな身体罰を伴った自虐性、自罰性というのは一つの意味がある行為とされている。私は、その自罰性の意味合いが変化したところにリストカットを見ているところがあるのですね。これ<<は、宗教性の変化と言ってもいいのです。摂食障害の子どもと初めて出会った時に、私は食べないっていうことにもの凄い聖なるものすら感じました。自分のしている行為を確実に何らかの形で認識できる絶対性の中で確認するというのは、悟り以前の修行の特徴です。体重計は自らが食べないということで自分を罰するという行為を確実に測定して評価してくれる。しかしそれ以外の世の中の評価というのは、努力しようがしまいが、その努力をきちんとした形で想定して正しい評価を返してこないわけです。
 つい最近まで宗教性というのは、世俗的価値に対する対極的な意味として主観的絶対価値を的確に反映していく方法として存在した。自傷というのは、世俗性に対決する明確な宗教性がなくなったために起ってきた。リストカットする子を見ていると、見せたくないリストカットと、誰かに見てほしい、家族に見てほしいリストカットと、家族には見せないかわりに友だちだけには見てほしいリストカットなどがあります。それぞれ気メッセージ性は宗教的なレベルで全然違うのではないかと思います。」(石川・高岡[2006:104-105])

 石川「私はすべての患者さんにそのように対処できるとは思いませんが、ある医者のところで滅茶苦茶な投薬量の薬を飲んでいた人たちが、1剤か2剤まで投薬薬を減少すると調子がよくなることがほとんどです。なぜかと言いますと、確かに病気だったかもしれないし、薬剤の力を借りなければ乗り越えられないこともあったかもしれませんが、薬剤は対症療法です。歯を抜く時に傷み止めが要るように、薬を使わなくても歯は抜けるのです。しんどいところも抱えつつ、そこを乗り切っていく姿に人間は凄いなと感動したりしながら治療関係をつくっていく時と、大量投薬の時とでは全然違った症状になるわけです。特にそうしたことを強く感じるのは、今流行りのボーダーラインという診断名をつけられて薬が出されている場合です。ボーダーラインという診断名をつけたら、薬を使ってはいけないと思う位です。私は、ボーダーラインの場合、単一の症状に限局して薬を使うことはあるけれども、それ以外はしんどいけれども耐えていけるなら耐えていこうという形で投薬を抑制すべきだと思います。」(石川・高岡[2006:115])
 →薬について

■書評・紹介・言及

◆立岩 真也 20140825 『自閉症連続体の時代』,みすず書房,352p. ISBN-10: 4622078457 ISBN-13: 978-4622078456 3700+ [amazon][kinokuniya] ※

◆立岩 真也 2008/09/01 「集積について――身体の現代・3」,『みすず』50-9(2008-9 no.564):- 資料,

 「『治療という幻想』(石川[1988])等の重要な著作がある小児科医の石川憲彦と精神科医の高岡健との対談の本に以下のような発言がある。

 「高岡 自閉症脳障害説に関しては、例えば自閉症協会でもそういうふうに言っていますし、これまでの親の育て方が悪かったという誤解に対するアンチテーゼとしてはそういう言い方で私は十分いいと思うのです。しかし、この説で何が証明されるかというと、私は永遠に証明されないだろうと思っています。」(石川・高岡[2006:41])

 「石川 私も、医者の立場から親の育て方に対するアンチテーゼとして自閉症脳障害説を認めたというところでは、そこは半分そうだと思う。でも、それを医者が言ってはおしまいだとも思う。」(石川・高岡[2006:42])

 こうしたものいいに対して、自閉症がどんな機制で発現しそして持続したり変化したりするのかについては、親が言おうが、医師たちが言おうが、同じであるはずだ、と批判することはたやすい。ただまず、この二人はこのように言っている。なぜこのように言うのかについては考えてみてよいと思う。  本人やあるいは家族に、病気だということにした方がよいと思う人たちがいる。それはわかると言いながら、しかし、とさらに言う人がいる。双方がそれなりに真剣に考え、まじめに思っている。どうなっているのか。家族や当人たちの話はさきになる。まず、人を相手にする仕事をする人たち、そのことについて何ごとかを言う人たちが「社会」を持ち出すことについて考えてみる。」

◆稲場 雅紀・山田 真・立岩 真也 2008/11/** 『流儀』,生活書院

◆立岩 真也 2008/02/01 「二〇〇七年読書アンケート」,『みすず』50-1(2008-1・2):


UP:20080105 REV:20080107 0902, 20091207
精神障害  ◇自閉症  ◇石川 憲彦  ◇高岡 健  ◇身体×世界:関連書籍  ◇BOOK
TOP HOME (http://www.arsvi.com)