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『無私と人称――二人称生成の倫理へ』

山本 史華 20060501 (仙台)東北大学出版会 ,292p.


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■山本 史華 20060501 『無私と人称――二人称生成の倫理へ』,(仙台)東北大学出版会 ,292p. ISBN-10: 4861630231 ISBN-13: 978-4861630231 3150 [amazon]

■内容(「MARC」データベースより)
犯罪は、人と人との関係性の毀損であるが、犯罪に人称はいかに関わっているのだろうか。人称と責任の一般論について考え、ある少年犯罪を取り上げて、加害 者が被害者に対してどのような責任を取るべきなのかを具体的に論じる。

■著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
山本 史華
1967年東京都生まれ。東北大学大学院文学研究科博士課程修了。博士(文学)。一関高等看護学院非常勤講師などを経て、東北大学21世紀COEプログラ ム「医薬開発統括学術分野創生と人材育成拠点」フェロー(助手)。仙台白百合女子大学非常勤講師(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたも のです)

■目次

はしがき 無になりきれない人のために
序章 人称を問う 目的と方法
第一節 人称という問題設定
第二節 人称論と自己/他者論の違い
第三節 人称のタキソノミー

第一章 無私と言葉
第一節 近代日本哲学における無私の系譜
第二節 日本語の特徴と無私の哲学 時枝誠記の言語過程説をもとにして

第二章 人称と記憶
第一節 一人称と記憶
第二節 二人称と記憶

第三章 人称の倫理
第一節 記憶と責め
第二節 人称生成の倫理 犯罪における責任と人称

あとがき 不定型の思考

■引用(安部彰

はしがき 無になりきれない人のために
 本書を始める前に、一つの問いをたててみよう。「人ははたして死ぬと無になるのだろうか」。
 なぜこのように問うのかというと、死と無は同義とされることが多いからだ。「死んだら何もかも無くなってしまうんだ」といった類の言葉を、ごく当たり前 に人は口にする。未だ死をよく知らない我々が、死をすべての消滅と受けとめることは決して不自然なことではない。確かにこの感覚には一理ある。……
 でもちょっと待って欲しい。無は、その程度のものなのか。厳密に定義すれば、無は一切が存在しないことである。一切が存在しないこと。それは想像するこ とも理解することも人に許さないはずだ。なぜなら想像するとは「何か」を想像することであり、理解するとは「何か」を理解することだが、その「何か」が一 切存在しないとなると、もはや想像も理解も成り立ち得ないからだ。/つまり、それこそが無である。……
 一方の死は、定義からしても、一切合切が存在しないことではない。エピクロスに言及するまでもないが、確かに我々は自分の死を経験することができない。 生きている限り死は存在せず、死んでいる限りもはや生きてはいないからだ。その意見で死は、生にとってつねに他者である。……
しかし、だからといってこのことは、死が想像不可能で理解不可能なことを意味するわけではない。死の想像や死の理解は、経験的世界を超え出た、いわば超越 論的なお伽噺になってしまうかもしれないが、たとえお伽噺であろうとも、死は想像や理解の対象になる。死は無と違い、いつも皮膚感覚に訴えかけてくる。死 を想像するからこそ人は死を怖がるのであるし、死を理解しようとするからこそ宗教は生まれる。無の世界は描くことさえできないが、死の世界は描けるのだ。
 それに無と死にはまだほかの相違点がある。死は、「時代の死」のような喩えを除けば、「私の死」「あなたの死」「彼/彼女の死」というように、必ず誰か の死でしかあり得ない。つまり、死は人称と分かちがたく結びついており、人称によってまったく異なる現れ方をする。一方の無は人称によって異なる現れ方を しない。……
 本書は人称をテーマにしてつらつら考えてきたことの軌跡である。人称から私が学んだことは、そして本書の基調をなすのは「人は決して無にはなれない」と いうことだ。いくら無への坂道を下っていけども、終着点の無には辿り着けない。人は、一度生を受けてしまった以上、当人の意図とはまったく無関係に、そし てここが何よりも重要な点であるが、当人を取り巻く人々の意図ともまったく無関係に、痕跡を此岸に遺してしまうのである。……
 そして死者の痕跡は多くの場合微細(ミクロ)なものとして遺る。それは微細であるがゆえに、見過ごされやすい。……
 ここでいう「微細」は、物理的な大きさが極めて小さいことではない。言うなれば存在の意味づけが小さいということだ。……微細なものは、例えば場末の居 酒屋の落書きとか、国会議事堂前の道路の窪みであるとか、歴史の中でいとも簡単に人々から忘れられてしまった断片である。歴史書に記載されるほど大きな意 味を与えられずにこぼれ落ちてしまったが、無にはなれずどこかで遺り続けているものの謂いである。
 この世界は、しかし、注意深く見渡せば、そんな微細なものに満ちている。人類史において生存したすべての人々が、みな無になることができずに何かを遺し ていくならば、世界は微細なもので満ち溢れることになるからだ。ただ我々はそれらに普段気付かないだけなのだ。そして私見によれば、人称は人にとって所与 なのではなく、その微細なものの機微に触れることで生まれたり、消えたりしていくものなのである。死者の微細な機微に触れることで、初めて人 (person)は人称(person)を獲得する。
 これは、二つの重要なことを意味している。一つは、いま述べたような微細なものが人称の生成/消失には不可欠であること。そしてもう一つは、微細なもの といっても、あくまでも死ないしは不在の微細さだということである。
 「痕跡」という言葉で表現してきたが、つまりは、ある人がいないこと、ある人が不在であること、そのことを世界に存在する数々の断片から掬い上げる経験 が、人称の生成/消滅には欠かせないのである。人称(person)はその言葉通りに人(person)だけが有する経験的現象だが、それはおそらく人の みが、他の動物と違って死者の微細な痕跡に触れることができることと大きく関係している。……そして微細な痕跡に触れ直すことで、人は再び人称を恢復し、 まさにもう一度人になるのだ……(山本 2006: 7-11)

序章 人称を問う 目的と方法
第一節 人称という問題領域
 1 人称の三領域
 自我/自己論あるいはその変形としての私論は、デカルト(R. Descartes)が私(je)を思惟するもの(res cogitasns, une chose qui pense)とみなし、それこそが疑いえぬ実態であると規定して以来、一つの魅惑的な主題となり、多くの哲学者の関心を引きつけてきた。並行してその問題 系は、自我/自己の外部に「取り込むことのできない他者」を見出し、あるいはまた、自らの内部にも「消化することのできない他者」を発見してきた。他者経 験とはその意味で、自我や私を根拠とする近代哲学が必然的に孕む、外部の経験、残余の経験、そして不可能性や否定性の経験である。
 ……〔このような近代哲学史上の事実に比して、しかし〕人称(person, personne)はこれまで、ごく限られた分野においてしか取り上げてこなかったといえる。「私(一人称)」「あなた(二人称)」「彼/彼女(三人 称)」「それ(非人称)」は、自我や他者問題の核心部分と重なる概念であるにもかかわらず、人称が表舞台へと引き出されることは稀であった。……〔そして その稀である分野は〕以下の領域に分類できるだろう。
 一つめは、言語の領域である。何よりも人称は、言語学における文法的範疇として扱われてきた歴史をもつ。……エミール・バンヴェニスト(E. Benveniste)の指摘からも理解されるように、人称は、動詞の活用を成り立たせるものとして、ひいては名詞や形容詞の屈折 (inflection)を決定するものとして扱われてきた。・・・・・・「人称」の語源はラテン語の"persona"であるが、それはもともと劇に用 いられる「面」を意味し、転じて劇における役割、劇中人物(dramatis persona)を指す言葉となった。その用法が現実生活に適用され、「私」「あなた」「彼女」がそれぞれ第一・第二・第三のペルソナとなり、押しひろめ られて、父と子と精霊が神の三つのペルソナとなる。さらにペルソナは、各自がなすべきことの意味になり、それが行為主体、権利主体としての「人格」の意味 となった。……
 二つめは、死の領域である。死は、現実では必ず誰かの死として存在する。……ここから、一人称の死、二人称の死、三人称の死の区別が生まれ、それらはそ れぞれ独自の意味を担うと定位され、ある人称を他の人称へと還元することの不可能性や無意味性が説かれる。このような人称への視点を深めたものとしては、 V・ジャンケレヴィッチ(V. Jankelevitch)の『死』がその嚆矢であろうが、日本においても医療現場で起こる脳死の問題、デス・スタディ、グリーフ・ワークといった諸分野 において種々論議されてきた。
 「死の人称性」で問題になる人称は、言語学で扱われる人称とは明らかに別の意味を持つ。死は、一方で、人間に個体性の認識をもたらしながらも、他方で、 決して一個体に内属することなく、個体と個体との関係性の中で存在する。前者は、他ならぬ私が死んでいくこと、かけがえのないあなたが死んでいくことのよ うに、私とあなたが別個の個体でありそこに相互置換性がないことの主張である。このことは、例えば絶望や孤独、不安に怯えるとき、人は他者と切り離されて 孤立した私を見出すが、そこには必ずといっていいほど死のモチーフが影を落とすことを考えると解りやすい。……他方、後者では、私にとってのあなたの死の 重み、私にとって無縁の人の死の軽さというように、ニ者以上の関係性に意味の異なりが生じることが指摘される。例えば、……脳死の論議では、……脳死を死 として受け入れるか否かが問われている。受け入れるとは、死が脳死者だけのものではないことだ。……つまり、ある人の死は、その人だけの死であり得ず、そ の人とともに形成されてきた幾重もの社会的・歴史的関係性の死なのである。……
 人称が問題にされてきた最後の領域は、広義の意味でのコミュニケーション論の領域である。独白に対して対話を、実体に対して関係性を重視しようとすると き、そこには対話の相関者や行為の相関項が必要となるが、その相関者(項)としてしばしば二人称の存在が取り上げられる。……人称をこの分野で取り上げた 著作はたくさんあるが、例えば二人称の汝(Du)を主題化した、M・ブーバー(M. Buber)の『我と汝』や『対話』を挙げても構わないだろう。……近年の研究では、藤谷秀の試みがこの系列に含められるだろう〔藤谷秀,2001,『あ なたが「いる」ことの重み 人称の重力空間をめぐって』青木書店〕。……
 人称は、言語、死、コミュニケーションの三領域にまたがる概念である。人が本質的に言語を話す人(homo loquens)である以上、言語の欠落した人称は考えられない。人称(person)は、言語を有する人(person)に特有な問題である。またコ ミュニケーションは、存在する項の関係性を前提とするが、人称は、一人称・二人称・三人称・非人称の相関性のなかで初めて意味を持つ。相関項なき一人称や 三人称は意味をなさない。そして死の人称は、実は、時間や記憶の問題と結びついている。人が死んでもその人が二人称でい続けることを我々は日常的に経験す るが、これは空間ではなくて時間や記憶に定位して人称を捉えているからである。あなたは、眼前にいようがいなかろうが、あなたなのである。
(山本 2006: 15-21)

2 従来の捉え方の問題点
 ある他者が私に特別な意味を担う他者(二人称)として生成すること。別の他者はそのように生成しないままの他者(三人称)でいること。あるいは、私が時 に私でなくなり、再び私になったりすること。我々はこの種の経験に馴染み深い。しかし、こういった人称の生成/消失がなぜ起きるのかの説明は不思議とこれ までなされてこなかったのである。
 ……ピアジェの「発生的認識論」、ラカンの「鏡像段階論」、ミードの「自我の発生の社会行動主義的な説明」などは、人称が生成することを人の成長過程と 併せて考えている点、つまり一回性の出来事として捉えてしまっている点が問題である。……
 発生した私は、所与のものとして存在するのではないのではないか。それは、あたかも明滅する星のように、何度でも生成/消失を繰り返すものではないだろ うか。そして何よりも人称が死の領域に根差す概念ならば、死が持つ意味の重大さをまだ受けとめられない子どもより、死の何たるかを多少なりとも熟慮したこ とのある大人の方が、数段、人称の生成消失に敏感な存在なのではないか。……
 要するに、「発生(genese)」と「生成(apparaitre)」は異なるのである。後者を前者の特殊なケースと考えることは決してできない。

あとがき 不定型の思考
 長らく私は論文というものが書けなかった。いや、いまでも論文を書けているかどうか甚だ怪しい。……
その理由は何であろうか。自己分析してみると、論理的な思考よりも直感的な思考を好むこと、文献を緻密に調べ上げるだけの細やかさに欠けること、論文特有 の窮屈な文体に自分の思考があわないことなど、色々考えられる。
論文の文体は纏足のようである。対して思考は本来不定型で、猛獣のように荒々しいものではないだろうか。猛獣に纏足を施術することは、猫の首に鈴をつける より難しいはずだ。……
哲学には、いくつかの専門領域がある。……だからまず学問をするということは、自分が棲まう専門領域を見つけ、その領域における先行文献を精読し、何が問 題になってきたのかを整理し、新たな問題やその解決法を見つけだし、それらを筋立てて論文という形に仕上げ、学会や学会誌で発表していくことである。地道 にその鍛錬をこなすことで、人は学術用語を覚え、その道の専門家になっていく。
だが、私にはそれがなかなかできなかった。……それでもなんとかこれまでやって来られたのは……、おそらくそれが哲学だったからだ。哲学は、「地を愛す る」や「哲を希む学」といった語源に遡るまでもなく、もともと特定の専門領域を持たない学問である。……哲学は研究対象が限定されない学問であり、良い意 味でも悪い意味でも、清濁併せ呑む度量の大きさがある。それに助けられてきた。
 ……一人称や三人称あるいは非人称は哲学でもよく問題になるが、二人称はこれまで見逃されてきたのではないか。
哲学者は往々にして極端な事例を好み、そこから自分の論理を組み立てる癖がある。「超越論的な自我」や「絶対的な他者」はその最たる例であろう。そのよう な極限的思考に、二人称は馴染まない。西欧において二人称はつねに神の占める位置であり、そのことが問題を見えにくくしてきた理由の一つなのだろうが、二 人称はもっと人と人の間(あわい)に目を遣らなければ見えてこないものである。……
二人称から始めよう。二人称から始めて、そこから一人称や三人称を捉え返してみよう。それも、特定の専門領域(例えば言語学)で扱われる二人称ではなく、 二人称を軸に種々異なった専門領域を横断してみよう。このようにして本書のテーマは見つけられた。本書では第二章第二節以降で二人称が論じられるが、むし ろ思考の軌跡としては、二人称から一人称へ、二人称から無私へという具合に、本書の構成とは逆の形で辿られてきたのだ……(山本 2006: 287-289)


 作成:橋口 昌治立命館大学大学院先端総合 学術研究科

UP:20071105
哲学/政治哲学(political philosophy)/倫理学
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