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佐藤 哲彦 200605 東信堂,446p. ISBN:4887136714 5,880 作成:植村要(立命館大学大学院先端総合学術研究科)* http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/g/uk01.htm ◆佐藤 哲彦 200605 『覚醒剤の社会史―ドラッグ・ディスコース・統治技術』,東信堂,446p. ISBN:4887136714 5,880 [amazon]/[boople] ※ b m/s01 <目次> はしがき 序章 覚醒剤の社会史―ある奇妙な「何か」から考えはじめること 3 1 はじめに 3 2 社会学的に考える、ということ 4 3 犯罪と統治技術 6 4 ドラッグについて 8 5 技術について 9 6 覚醒剤という現象 12 7 本書の構成 15 第一部 ドラッグ政策研究と方法論の検討 21 第一章 ドラッグ問題とドラッグ政策研究―リンドスミスのドラッグ研究 23 T ドラッグ政策の歴史的背景 23 1 流通統制 24 2 使用統制 25 U 依存理論とドラッグ政策研究 28 1 依存理論 28 2 政策研究 32 V ドラッグ政策を左右する要因 34 1 連邦麻薬局と最高裁判決 34 2 犯罪化政策の原因 36 W 初期ドラッグ政策研究の図式 38 1 政策研究の図式 38 2 利害関心・行為・結果 39 3 言語活動と状況への包摂 41 4 受容という結果 43 第二章 政策と道徳―機能分析という方法 49 T 政策に対する機能の分析 49 1 機能分析 49 2 検討 51 3 機能分析にともなう問題(1)―機能の記述 53 4 機能分析にともなう問題(2)―客観主義の問題 56 U 被害者なき犯罪 60 1 被害者なき犯罪の機能 60 2 道徳的な語り方 61 V モラル・パニック論 63 W 法と道徳 66 1 法が先か道徳が先か 66 2 サンクションの調査研究 70 3 当事者の発話 72 第三章 ディスコースの分析―方法論的ディスコース主義 79 T 言語的活動について 79 1 言語行為について 80 2 提案と承認 83 3 ディスコース分析 85 4 発話とテキスト 87 5 テキスト分析の事例(その一) 89 6 テキスト分析の事例(その二) 94 U 文脈的状況と客体化機能 98 1 状況づけられた道徳 99 2 ディスコースの客体化機能 102 3 カテゴリーの提案と承認 108 4 経験の組織化 112 V 社会問題構築論と逸脱の医療化論 115 1 社会問題構築論とその問題点 115 2 逸脱の医療化論 119 3 もうひとつの説明方法へ 120 第二部 覚醒剤現象の研究 第四章 初期医学的諸研究―薬理作用の探究 133 T 覚せい剤取締法案の合理的根拠 134 U 初期の諸研究 137 1 堀見太郎ほか「精神状態二及ボス”Hospitan"(Phenylmethy-aminopropan)作用二就テ」 138 2 三浦謹之助「麻黄より製出せる除倦覚醒剤に就て」 148 3 有山登「新興奮剤β-phenylisopropylamin」 156 4 その他のテキストについて 163 V 初期医学的諸研究のディスコース編成 169 第五章 覚醒剤中毒のディスコース編成―探究から鑑定へ 175 T 新たな文脈的状況の提案 175 1 急性中毒現象の説明 175 2 新たな文脈的状況の提案再び 181 3 混在する文脈的状況 185 U 覚醒剤中毒のディスコース編成 186 1 新たな説明編成 187 2 総説とその実践 194 3 各論の新たな編成 199 4 特定カテゴリーと問題の結びつき 203 5 中毒性精神病への連続性 209 6 「中毒者」の機能 215 V 探究と鑑定 223 1 中毒ディスコースの成立 223 2 探究から鑑定へ 225 3 領域編成の変化 227 4 病理と価値 229 第六章 法案審議にいたるまでの過程―前提的に構築される他者性 238 T 特定カテゴリーと覚醒剤の結びつき 240 1 特定の使用者とその使用 242 2 軍部への言及 249 3 浮浪児と青少年 252 U 法案審議にいたるまでの諸局面 255 1 問題の所在 256 2 覚醒剤言及の限定性 261 3 混在する意味とひとつの予兆 267 V 青少年問題 269 1 二つの原因説 270 2 青少年問題協議における精神衛生 276 3 青少年問題協議における覚醒剤 281 W 薬理作用の強さ 288 第七章 法案成立、そしてその後―新たな他者性の構築 299 T ある「回顧」の意味するもの 299 U 国会審議 302 1 審議の再開 303 2 新たな水準設定と立法可能性 307 3 法案作成上の技術的処理 310 V 覚せい剤取締法の成立とその後 328 1 法案可決 328 2 所持と密売 332 3 取締法成立 334 4 外国人表象における加害者の合流 337 5 精神異常犯罪 348 W 覚醒剤の意味の変化 354 第八章 覚醒剤使用者の告白―語りの同心円構造 367 T 使用者の語りと他者の語り 367 1 安吾的経験 367 2 尾崎的記述 370 U 他者の語りの制度化 375 V 覚醒剤中毒告白の同心円構造 380 1 親という他者の語り 380 2 自己にかんする自己の語り 385 3 覚醒剤中毒告白のディスコース編成 390 4 「白い粉の恐怖」における語り 392 終章 覚醒剤ディスコースと統治技術―何が思考されなかったのか 403 T 薬理効果とドラッグ 404 1 ドラッグとは何か 405 2 他者性の象徴 407 U 社会を召喚すること 408 1 前提的に構築されるもの 409 2 統治技術としての精神科学 411 V 方法論と「考える」こと 415 1 記述と説明 415 2 既存の研究の意味 418 W 物語の反復 420 1 嗜癖と回復 420 2 別の可能性 425 X 表現すること、思考すること 428 1 文章構造と現実の構築 428 2 何が思考されなかったのか 431 あとがき 437 参考文献・引用資料B 索引i <以下、ほぼ抜き書きからなる要約> 植村要 序章 覚醒剤の社会史 ―ある奇妙な「何か」から考えはじめること― 1 はじめに 私はそこで、有効成分は同じメタンフェタミンなんですよと説明しようかと思い、しかしなぜかふと思いとどまってやめたのである。そしてそれ以来、この老人のつぶやきを折にふれて反芻している。 説明を思いとどまった理由は私自身にもよくわからない。が、もしかしたら、ヒロポンと覚醒剤は違うようだというこの老人のつぶやきに、「何か」を感じたからかもしれない。その「何か」とはもちろん、この老人が有効成分について知らなかったということではない。そうではなく、ヒロポンの使用経験を覚醒剤の使用とは違うものだと語らせる「何か」、ある意味でとても奇妙な「何か」である。 本書は、その「何か」について考えることを目的としている。それは同時に、ヒロポンと覚醒剤を同じものとして表象し経験させる、また別の「何か」―そしてこんにちのわれわれが当然のものとして受けいれている「何か」―について考えることでもある。 2 社会学的に考える、ということ 本書は、希少な歴史的資料を集め、それらの提示によって先の問いに対する答えを探りだそうとするものではないし、あるいはそれらを考える材料にしようというのでもない。資料自体はむしろ、その時点時点において公刊されているものを主としており、したがって新資料の発掘によって新事実を競おうというわけではないのである。その意味で、歴史研究とはその目的を、したがって方法をもまた異にしている。 この点にかんして、アメリカ合衆国における禁酒法運動史について社会学的研究を行ったガスフィールドは、歴史研究と社会学的研究の違いを簡潔明瞭に述べている[Gusfield 1986, 56-60]。彼はひとつのたとえとして英国の産業革命にかんする研究をあげ、歴史研究が英国の産業革命の個別性や唯一性に着目するのに対し、社会学的研究はその一般性に着目する。なぜなら社会学の関心は、英国特有の事象にあるのではなく、産業化の一般的形態にあるからだ、としている。そしてそれゆえに通史ではなく、一般的形態に関連する部分的な歴史だけを扱うとしているのである。これは、同じ現象を対象としながらも、それら二つの研究方法が相互排他的なものではないということを含意している。また同時に彼は、歴史研究においては禁酒法運動が宗教的動機にもとづくものと解されているのに対し、彼の研究が「地位のポリティックス(status politics)」を禁酒法運動の機能として位置づけていることに言及し、その違いを強調している。 われわれは日常的に行為や現象を動機や心理的な言葉を用いて語ることにあまりにも慣れており、それゆえに機能という極めて興味深い発想が、多少の油断で動機や心理の説明へと転落してしまいがちである。これは別の言い方をすれば、目的論的に歴史的事象を説明するのを避け、結果において明らかになった事象と事象の関係を記述するということを、さらにはそのことをとおして考えていくということを意味している。むしろ目的論的に歴史的事象を説明すること自体、その結果において論じられることになるだろう。なぜなら、ある特定の歴史を語るということは、別の語りの可能性を抑圧することを意味しており、『結果的に』その目的論的説明自体がなんらかの働きを有していると考えられるからである。 6 覚醒剤という現象 医学的・薬理学的性質のみがドラッグの真の姿であるというわけではない。医学的・薬理学的性質もまた科学的知識である以上、技術の実践にともなって、結果的に立ちあらわれるドラッグの意味であると考える必要があるからである。したがってそのような過程にあって、ドラッグはそれがおかれた関係のなかでこそ意味を生成し、次にはそこで生成した意味をその関係が拡張されたり縮小されたりしていく過程のなかで保存したり修正したり、ときには喪失したりもする。より正確にいえば、そのような形で語られることになる。 しかしここでいう関係とは、いわゆる社会関係と呼ばれるものではない。たとえば医者と患者、裁判官と被告人、あるいは父と子などといった形で表象される社会関係はそれ自体、ある特定の概念の組み合わせ、より正確にいえば、われわれが語ったり説明したりするさいに用いるカテゴリーのセットであって、それもまた特定の状況のなかで意味を生成し、あるいは保存され修正されるものだからである。その意味でそれらもまた、その組み合わせの仕方、そしてその組み合わせの意味においてドラッグと同じように生成し保存され修正されるものだといえるだろう。したがって、これらの社会関係をいわば定数とし、ドラッグの方を変数とした形で、社会関係において意味を与えられるドラッグを記述するわけにはいかない。ここでいう関係とは、それが語られたり説明されたりするさいの、語られ方のあいだの関係を意味しており、いわば語り同士の文脈や配置、さらにはその再配置を意味している。 7 本書の構成 序章の最後に、本書の構成について述べておきたい。本書は、先に与えられた「何か」について、政策と経験の二つの問いを経由して考えていくための、二つの部分とひとつの考察からなっている。 第一部は研究の方法にかんするものである。ここでは主としてドラッグ政策の社会学的研究を取りあげ、それらの概要を述べながら、そこで用いられた方法を批判的に検討する。これは、その作業によって本書の出発点となる方法を吟味するためであるが、それと同時に、ここで考える方法それ自体を間接的に示すためでもある。批判的検討そのものが、すでに考える方法を示すことになるからである。 第一章ではまず、ドラッグ政策の社会学的研究が成立する前提として、ドラッグがどのように問題化されてきたのかということを歴史的に説明している。そしてそのような歴史において、リンドスミスにより思考されはじめたドラッグ政策の社会学的研究を概観し、その方法を批判的に検討している。 第二章ではまず、シャーによって提案された、機能分析を用いたドラッグ政策の社会学的研究について概観している。そこでは機能分析という方法がそもそもどのようにして可能になっているのかについて論じるとともに、それを批判的に検討している。次にモラル・パニック論を用いた研究についても言及し批判的に検討している。最後にダスターによる、法と道徳の関係に着目したドラッグ政策研究を概観し、なかでもとくにリハビリテーション・プログラムについての分析を再検討している。 第三章では、前章までの批判的検討を踏まえ、ディスコース分析という観点を用いた方法を提案している。あるいはそれは、方法論的ディスコース主義と呼びうるものである。ここでは、その分析方法の中心的な発想方法を提案と承認という用語を用いて具体的な資料をもとに示している。そしてそのさい、テキストと発話をほぼ同じように発話行為として分析していく方法を提案している。また同時に経験の語りの分析方法についても示している。そして最後に、社会問題構築論と逸脱の医療化論について概観しこれを批判的に検討している。これらの作業によってこの章では、ドラッグ政策の社会学的研究という比較的狭い領域だけでなく、より広い領域において用いることのできる社会学的方法を提案している。 第一部 ドラッグ政策研究と方法論の検討 第一章 ドラッグ問題とドラッグ政策研究―リンドスミスのドラッグ研究― U 依存理論とドラッグ政策研究 リンドスミスは、シンボリック相互作用論(Symbolic Interactionism)を、最初に調査研究に用いた社会学者である[佐籐 2001]。彼は一九三五年という比較的早い時期からドラッグ研究をはじめ、当初は施設外(street)のアヘン系ドラッグ依存者たちの観察と彼らへのインタビューをもとに「ドラッグ依存の社会学的理論」(以下、「依存理論」)を提出した[Lindesmith 1938b]。さらにその後、みずからの調査研究にもとづき、ドラッグ依存に対する精神医学的研究への批判を行い、ついで合衆国のドラッグ政策の研究も行うようになった。 1 依存理論 彼の「依存理論」の要点は二つ。ひとつは使用者による離脱(退薬あるいは禁断)症候の解釈であり、もうひとつは再使用によるその解釈の確認である。すなわち、ドラッグ使用の中断は離脱(退薬)症候という激し風邪にも似た苦痛をともなう症状を使用者に引きおこすが、まずこれがドラッグ使用の中断にもとづくものという解釈がなされなければならないということ。したがって、通常そこでは使用者自身またはその周辺に離脱症候をドラッグ使用の中断に起因すると指摘する知識が必要とされる。さらに、その解釈にもとづいてドラッグを再使用し、その再使用によって離脱症候が緩和ないしは消滅することが確認され、それによってドラッグ使用中断と離脱症候の因果関係が認識されること。これら二つの認識をえることによって使用者は依存へと踏みだしていくというのが、その「依存理論」の要点である[Lindesmith 1938b : 1947 : 1968]。つまり、巷間考えられているように、依存はドラッグの陶酔感によっておこるのではなく、ドラッグの離脱症候を避けようとすることによっておこるとしたのであった。 彼の政策研究は、彼自身の「依存理論」にもとづき、依存は精神病質や犯罪性の発露ではない、という観点からはじまっている。そして、その研究の要点はまず第一に、依存現象の特徴にもとづいたより合理的なドラッグ政策とはどのようなものなのかということを明らかにすることであり、ついで合衆国のドラッグ政策が現行のような犯罪化を推しすすめているのはなぜかということを明らかにすることであった。 2 政策研究 リンドスミスが考えた合理的なドラッグ政策とは、依存者を患者として処遇する政策であり、別の言い方をすれば、依存の医療化政策である。彼は、当時のイギリスの依存者を患者として扱うドラッグ政策を踏まえ、以下の利点をあげながら医療化政策を支持している。すなわち、依存者が患者としてドラッグの処方をえられるために購買資金獲得のための犯罪を行う必要がないこと、犯罪者はその生活形態を守るためには依存者になると逆に不利になること、処方によってドラッグが手に入るために闇市場が発達しないこと、闇市場の発達が阻害されることで依存者が増加しないこと、がそれである[Lindesmith 1957]。 にもかかわらず、合衆国のドラッグ政策は犯罪化を推しすすめている。これについて、リンドスミスの初期の研究では、依存者を犯罪者と同一視する見方が広まったことをその理由と考えている。すなわち、中国人労働者の合衆国への流入によってアヘン喫煙の習慣が持ちこまれ、この習慣に接触したアメリカ人たちによってヤミ世界でアヘン喫煙が広がっていった。そして、ヤミ世界の住人である犯罪者たちが同時にアヘン喫煙者であることから、依存者すなわち犯罪者であるという見方が広まり、これが犯罪として処罰するよううながしたと考えている[Lindesmish 1947, 185-188]。 しかしのちに、彼はより詳細な説明を加えるようになり、欧州や極東のドラッグ政策を概観しながら医療化政策の重要性を論じている。たとえば、医療化政策を採用している地域のドラッグ問題の小ささと、犯罪化政策を採用している地域のドラッグ問題の大きさを比較しながら、医療化政策が結果的にドラッグ問題を統制可能にしていることを論じている[Lindesmith 1965, 180-221]。 V ドラッグ政策を左右する要因 リンドスミスによるドラッグ政策研究をつらぬく最大のモチーフのひとつは、連邦麻薬局の専制とそのプロパガンダであり、さらにもうひとつ、多少扱いは小さくなるものの警察の態度である。そして同時に、そこでは政策運用のプロセスが詳細に明らかにされている。つまり、一方で状況の経過が説明されつつ、そのなかで麻薬局とさらには警察の果たした役割が論じられている。 W 初期ドラッグ政策研究の図式 1 政策研究の図式 このような利害関係集団の特定やアンスリンガー連邦麻薬局長に代表される代表的個人の特定といった方法にもとづく解釈は、ドラッグ政策にかんする研究の初期においては、ある意味で典型的なものともいえるだろう。たとえば、リンドスミスと同様にシンボリック相互作用論をその方法論としているハワード・ベッカーは、マリファナ税法(Marihuana Tax Act)の制定過程を、私的利害、企画行為・情宣(publicity)にもとづく道徳事業(moral enterprise)と位置づけたが、そこにおいてもやはり連邦麻薬局による各州政府との連携や利害関係集団との利害調整を重視するとともに、同局によるマスメディアを用いた宣伝活動を重要な要素としてあげている[Becker 1963=1978, 197-213]。そして彼は、とくにこのような規則の制定過程を考察する場合、その事業を行う「個人ないしは集団の存在」を重視する必要があることを述べている。 この図式は、人間や集団の活動を利害関心(動機=原因)にもとづいて説明するという特徴をもち、さらには宣伝が人びとに影響を及ぼすという考えをもとにしているために比較的理解しやすいという利点をもつ。しかしながら、第一に、はたして利害関心と活動そしてその結果は、そのように直線的に結びつくものなのだろうか。第二に、宣伝の機能はそれほど単純なものなのだろうか。 2 利害関心・行為・結果 ここでの問題はまず第一に、利害関係やそれにもとづく特定の意図があることと、その活動さらにはその結果との結びつきを、研究上どのように保証するのかという問題として位置づけられる。 もちろんそれは、たとえばリンドスミスが論じているように、ある特定の思考(禁酒法の哲学)を実現するためにドラッグ使用を犯罪にしたのだという形で説明がなされるかもしれないし、あるいはベッカーが論じているように、ドラッグを違法とすることそれ自体がまさにそれを担当する人物の関心であるという形で説明がなされるかもしれない。あるいはまた、官僚制組織が組織論的に宿命づけられた生存拡大志向のためという説明がなされるかもしれない[Dickson 1968]。これらはいずれも、利害関心、すなわちある種の動機を、社会的行為の意味の理解に用いるとともに、その社会的行為の原因と位置づける、ウェーバーの理解社会学の方法論的潮流にそった考え方である。 しかし、意図/行為と、意図/機能は、本来別々の現象としての水準に位置するものであって、その結びつきが自動的に保証されるものではない。それが保証されるのは、むしろ、それを同じ水準における因果関係として説明したときの、当の説明の仕方のなかにおいてであると考えられる。 また別の見方をすれば、このような図式は、機能から意図をさまざまな傍証をもとに推測するという作業であり、その意味で機能と意図を混同しているとも考えられる。なぜなら、意図は必ずしも機能を帰結せず、また機能は必ずしも意図をともなわないからである。マートンが述べているように、機能とは結果において明らかになるものであって、意図とはまた別の現象としての水準にあるものである[Merton 1957=1961, 第一章]。 にもかかわらず、われわれは往々にして結果において意図の実現を語ろうとする。しかしそれは、本来そこでの思考が、結果から原因を抽出するといった形で時間を遡っているのにもかかわらず、時間の流れにそって因果的に語るという説明の形式によって浮かびあがる図式であり、まさにその形式によって保証された因果連関なのである。言い換えれば、語られる対象の要素が、それぞれのあった位置において実際にどのように結びついているのかを記述するのではなく、対象の要素を利用して語り手(この場合は研究者)の側が妥当な物語を作りだしたことによって生みだされた因果連関なのである。この場合、物語とは、諸事象について因果連関や時間的連関などなんらかの連続性にもとづいて再記述する形式を意味している。 とはいうものの、政策を成立させたり、それを運用していく手続きのなかには、すでに特定集団の活動に含まれるなんらかの要素が含みこまれている。したがって、われわれの作業は、それを発見し記述することである。そしてその場合、この「なんらかの形」は、そもそもは結果としての政策成立やその運用・維持に貢献する機能のことを意味する。その貢献の仕方それ自体が、機能という結果における諸要素の結びつきを意味するのである。 3 言語的活動と状況への包摂 政策成立と維持の過程を明らかにするということは、すでに「ある特定の形」で組みこまれている活動(の要素)の結びつきの形を明らかにすることであって、結びつきを前提に説明することではない。なぜなら、その結びつきがあるのであれば、それはすでに現実化しているはずのものだからである。 4 受容という結果 第二の問題点は、この方法では、特定の政策を受けいれるという社会状況が宣伝活動によって自動的に生じるとされていることである。それらの情報を利用する受け手の側が、これを批判的にあるいは否定的に受容する可能性は考えられておらず、またどうしてこれを自動的に受容するのかも述べられていないのである。むしろ宣伝活動において描写される問題が、どのような形でそれを受容する側のなかで語られるようになるのかということをみていく必要がある。なぜなら、それこそが受容という結果的な現象を意味しているからである。そしてそれは、先に述べた問題と同じように、受容という結果において宣伝活動が「ある特定の形」で組みこまれていることを記述するということを意味している。 第二章 政策と道徳―機能分析という方法― T 政策に対する機能の分析 3 機能分析にともなう問題(1)―機能の記述― 十分な機能分析とは、意図・行為・機能といった現象の水準を混同しないことで可能となるのだろうか。 機能分析は、そもそもの理論的文脈から、社会を個人的行為とは別の現象的水準の実在として扱うことによって成立している。すなわち、デュルケーム以来の社会学の前提のひとつとされている、社会の実在という考え方である[Durkheim 1895=1978]。しかしながら、個人的行為とは切り離されてはいるものの、個々の社会現象の結びつきは、同じ現象的水準の実在として位置づけられている。暗黙にではあるけれども同じ現象的水準にあるものとして与えられているがゆえに、それらの社会現象が結びつきうる形になっている。その典型的な考え方が社会構造という考え方である。社会構造の考え方とは、ごく簡略化すれば、社会全体を構成する諸部分が同じ現象的水準の実在としてあるがゆえに、それぞれ固有の結びつき、すなわち機能を有していると捉えるものである。 しかし、この前提は、機能を記述するという当の作業によって作りあげられているものである。ガーフィンケルは、期待違背実験といわれる実験を学生に行わせ、コミュニケーションがつねに暗黙の想定をその基盤にしているということを示した[Garfinkel 1964=1989]。この実験が示していることは、人びとがコミュニケーション可能なのは正確な意味の一致を前提とするからではなく、むしろそのような一致をお互いに想定していることを前提としているからだということである。ガーフィンケルはこれを背後理解(背後期待)と呼ぶ。 この実験の含意は、実はそれ以上のものである。ここで示されているのは、お互いに暗黙の想定を前提とするような形でふるまうことによって、コミュニケーション可能空間、すなわち同じ現象的水準にあるとされる言及対象となる空間を作りだすことができるのではないかということである。 そのような観点からすると、機能分析という作業が実質的に行っていることは、結果に対して貢献する諸要素の抽出あるいは確定という単純な作業ではない。分析的にあえて段階わけすれば、まず第一に、諸要素を同じ現象的水準に位置づけたのちに、第二に、それら要素間の結びつきを説明するという作業なのである。なぜなら、機能分析による説明は何よりもまず、一般的カテゴリーを用いて、個々の状況をその状況づけられた具体性から理解可能な一般性へと翻訳あるいは再度表象することによって成立しているからである。 4 機能分析にともなう問題(2)―客観主義の問題― ラドクリフ=ブラウンは機能を論じるさいにデュルケーム[Durkheim op.cit.]に言及しながら有機体の類比を持ちだしている[Radcliffe-Brown 1952=1975, 246-259]。しかし、類比として言及することによって、それと同時に行われていることが隠れてしまう。すなわち、動物有機体との類比によって社会有機体の機能的まとまりという観点を採用することにより、機能的まとまりという作業仮説を成立させるだけでなく、まさにそれによって動物有機体と同じように、暗黙のうちに構造的諸要素の現象的水準の同一化が行われてしまうということである。 スペクターとキツセは機能分析の問題点を、社会の目標を恣意的に設定しなければ順機能や逆機能を記述できないこととした[Spector and Kitsuse 1977=1990, 第二章]。しかしながら、そのような場合、恣意的にしろなんにしろ社会の目標を設定すればいいのである。 そうではなく、機能分析の問題は、機能分析をする作業が必然的にともなう表象上の問題にある。すなわち、結果における諸要素の結びつきを説明することを通じて、それらが同一の現象的水準に属するという想定される前提を、所与のものとして作りあげてしまうことである。 そしてそのような想定の最も典型的な形が、いわゆる客観主義と呼ばれるものである。というのは、客観的な現象とはそもそもコミュニケーション(相互作用)の過程によって、その前提として想定されることを通じて産出される現象であり、その想定を前提として、言い換えれば、交渉不可能(不必要)な地点として協働で作りあげることを通じて、コミュニケーション(相互作用)自体を成立させるものだからである[佐藤 2003a, 42]。 つまり、客観主義の問題とは、対象とした社会事象(たとえば公式統計)が客観的かどうかの信頼性や妥当性の問題ではなく、それらの事象が、相互作用過程における想定される前提として作りだされるもの(ガーフィンケル流にいえば背後理解や背後期待)であるのにもかかわらず、相互作用過程とは独立してそもそもから存在するかのように、相互作用の結果において表象されるという問題なのである。これに対して信頼性や妥当性を問題にしていけば、それはガーフィンケルの実験と同じように破綻をきたすか、あるいはなんらかの基準を導入しない限り、けっして回答はでない。そして機能分析の説明方法とは、結果にかかわる諸要素の状態を同一の客観的な現象があるという前提の想定をおくことによって、同一の現象的水準のものとして表象する方法だと考えられるのである。 U 被害者なき犯罪 シャーは、「被害者なき犯罪」という概念を提出し、法的に犯罪として定義されているものの、加害者と被害者とが同一であるような犯罪について論じている。彼はそれらの犯罪として中絶・同性愛的行為・ドラッグ常用をあげ、デュルケームによって提出された観点にもとづいて、これらが「集団の結合力が高められ、法律等を順守する個人の間の集団成員としての意識が強化される」ためのものとしている[Shur 1965=1981, 14]。 シャーの研究においては、道徳が犯罪政策を規定しているという観点がその基礎を構成している。しかし、道徳と犯罪政策の関係はシャーが論じているように直線的なものなのだろうか。 V モラル・パニック論 モラル・パニック論はコーエンの研究[Cohen 1972]からスタートした。コーエンはモラル・パニックを次のように述べる。 ある状況またはエピソード、あるいはひとや集団が、社会的な価値や利害を脅かすものとして定義されるようになること。その性質は、マスメディアによって様式化されたステレオタイプ的な形で表現される。モラルのバリケードが編集者や聖職者、政治家その他の良識ある人びとによって配置される。社会的に公認された専門家が、それらに対する診断と解決法を表明する。対処方法が考案されるか、あるいは(より多いことに)行使される。それによって、その状況が消え去るか、潜在化するか、あるいはより悪化してみえるようになる。 この観点をドラッグ政策研究に応用したものに、グードやベン=イェフダの研究がある[Ben-Yehuda 1990:Goode and Ben-Yehuda 1994]。ベン・イェフダは、社会が一枚岩のようなものではなく、いくつもの象徴的=道徳的領域(symbolic-moral universes)から成り立っており、とくにその中心部に位置する象徴的=道徳的領域の行為者が、周縁的な象徴的=道徳的領域の住人に対して権力を行使し、彼ら自身の道徳の優位性を獲得すると同時に、周縁の住人たちを逸脱化し、スティグマ化すると考える[Ben-Yehuda., 97]。成立したドラッグ政策とはそのスティグマ化であり、それに先行するモラル・パニックの結果であるとされる。 この考え方は、彼にのみ特徴的なものではなく、そのような行為者を、ベッカーは道徳企業家(moral entrepreneurs)、ガスフィールドは象徴十字軍(symbolic crusade)と呼ぶ。 ベン=イェフダはミルズの「動機の語彙」論[Mills 1940=1971, 344-355]を下敷きに、動機を社会統制の個人内的リソースとして位置づけると同時に、その語彙が先の象徴的=道徳的領域に存するものと考えることによって、いわゆるミクロ‐マクロの結びついた方法を考案している。「ある状況におかれた行為者や他の成員にとって、動機は、ひとつの合言葉として、社会的・言語的行為にかんする問いへの、疑問の余地のない解答として役立つ。安定した動機というのは、状況を正当化するような対話の行きつくところなのである」[Mils 1940=1971, 347-348]。その場合「動機の語彙」はそれ自体として言語表現装置(rhetorical device)の貯水池(reservoir)を構成するものとされており[Ben-Yehuda op.cit., 18]、このような方法論は、言語的な装置を社会に起源をもちつつ個人を統制する、いわば媒介する装置として設定しており、その意味で社会学の伝統的な方法論を入念に整理したものであるといえるだろう。 この方法は先にあげた問題から逃れられてはいない。それはとくに、「動機の語彙」という興味深い概念を活用しながらも、それを価値システムならびに象徴的=道徳的領域と結びつけているからである。すなわち、「動機の語彙」は、そもそも状況づけられた行為を説明するものとして、行為と状況における秩序との関連を表象するために、主としてその状況におかれた人びとに用いられる言語的装置である[Mills op.cit.]。にもかかわらず、ここではそれを個々の状況との関連ではなく、個々の状況を貫徹する価値システムとの関連で捉えている。したがって、そこではやはり、そのように説明すること自体が、さまざまな行為の現象的水準の同一化を保証してしまうという問題をともなってしまうのである。 W 法と道徳 1 法が先か道徳が先か ダスターは、ドラッグ政策とドラッグをめぐる道徳との関係を論じた[Duster op.cit.]。ダスターにとって出発点となるのは、法と道徳についての一般的な見解である。道徳とはそもそも善悪について人びとがいだいている強い感情であり、したがって一般的には道徳こそが先にあって法は二次的なものとして位置づけられている。とくに均質性の高い社会では、まず第一に参照されるものとして道徳命令があり、法が正当化されるのはこの道徳命令によるという意味で、法は二次的なものとして捉えられているとする。 ダスターは、「どのようにしたら道徳という概念を経験的に把握可能か」という問いを立て、いわば道徳の操作概念化を試みる。ダスターによれば、社会秩序はその上層に位置する人たちの地位を維持するための管理イデオロギーを発達させ、そのイデオロギー下においては、その地位に変更をうながす可能性のある問題が道徳的問題(a moral issue)の候補となるという。それは生活領域のなかで行動が二分化されて、コミュニティの成員資格(membership)が判断されるような特定領域の問題である。これはすなわちトータル・アイデンティティ[Garfinkel 1956]として表象されるアイデンティティが存在する領域のことを意味している。 トータル・アイデンティティ[Garfinkel 1956]とは、それによって個人の属性がすべて判断されてしまうような道徳性を強く帯びたアイデンティティをいう。これは別の言い方をすれば、逸脱的地位のことである。たとえばベッカーは、ヒューズの「主位的地位特性」と「従属的地位特性」の議論を参照しながら、ある特定の地位が他の地位に対して支配的な位置を占め、それがその個人の属性判断の基準となってしまう逸脱的地位のことを指摘したが[Becker op.cit., 47-49]、トータル・アイデンティティとは、ほぼこれと同義と考えていいだろう。これにはたとえば、売春婦や同性愛者というカテゴリーがあてはまる。 そこで法と道徳の関係を問題にするのであれば、管理イデオロギーによって設定されたトータル・アイデンティティがどのように適用されるのかが問題となる。このように考えると、一般的に考えられているように道徳が法律を導きだすという観点とは逆に、法律の制定が道徳を変化させるということが示される。 それゆえ、ここではある意味で、逸脱をめぐる奇妙な円環が成立する。というのは、法制定側は人びとの意見を懲罰的政策の誘因(あるいは文章表現上の〔rherorical〕誘因)とする一方、人びとがドラッグに対して反対する理由は、それがまさに法的に重罪だからなのである。それゆえに、論理的にはこれらのどちらが先行するのかを考えるのは不毛である、とダスターは主張する。 2 サンクションの調査研究 リハビリテーション用の制度体CRCについてダスターが注目するのは、まず、CRCの存在そのものと、さらにはそこで行われるグループ・セラピーが、依存者を依存者として隔離してしまう象徴的な機能をもつ.点である。というのは、これらによって依存者はつねに依存者という非ノーマル・アイデンティティを意識させられ、自分たちが属しているのは依存者の世界であることを思いおこさせられるからである。さらに問題は、この制度体においてインタビューに答えた依存者の多くが、CRCのプログラムに出合って自分の道徳が非依存者に対して劣っているという意識をもったこと、そしてその劣った道徳が自分の性質の構成要素であって、自分の意思や治療(treatment)では変わらないと信じていたことであった。しかも依存者は他の依存者に対し、依存者であることを理由に非難の目さえ向けていたという。 これらは依存者がすでに依存に対する一般的な道徳意識を自分のなかに有していることを示している。すなわち、リハビリテーションは、そのリハビリテーションという言葉が示すように、不道徳から道徳への移動と定着という二つの道徳的カテゴリー間の動きとして構想されている。しかしながらそのように考える限り、依存者たちはすでに依存にかんする道徳意識を共有しており、しかも自分の道徳が劣っており、それが矯正不可能だと考えているため、リハビリテーションは失敗するとダスターは指摘する。その意味で、逸脱のリハビリテーションのプログラムは、どれもそれ自体の基準―すなわちリハビリテーションという基準―によって失敗を運命づけられているというのがダスターの見解である。 ダスターのインタビューの分析方法には、自然主義的な調査方法論を採用しているという問題点がある。自然主義的な方法論とは、まず前提として調査地点に対象者の世界があり、それに対して調査者が参加して対象者自身の話を聞きだすことができ、そして、そのさいラポールが十分形成されていれば、いわば「本当に思っていること」や対象者が「本当に経験したこと」を聞きだすことができるというような、ある意味で素朴な方法論的な立場である[Gubrium and Holstein 1997, Chapter 2]。 どれが「本当のこと」なのかはなんらかの基準(たとえば「本人がそういった」など)を導入しなくては決定できず、そしてその基準の妥当性は、またもやなんらかの基準を導入して判断せざるをえないという形で無限に決定できない。にもかかわらず、人びとがある特定の事柄を「本当のこと」としているのは、それをそのように考えることが妥当であると想定するふるまいにおいてである。これもやはり「合理性の非合理的基礎」と呼ばれる問題機制である。したがってダスターの見解をこのような観点で検討するのは、社会学的調査もまた、社会現象のひとつであることにもとづいている。 3 当事者の発話 「極端な事例の編成(Extreme case formations、以下ECF)」とは、会話や書かれた文章のなかでしばしば聞かれたり見つかったりする、「みんな」「いつも」「全然」「完全」「絶対」などの極端な修飾語をともなう事例の呈示によって、その発話の聞き手や文章の読み手に対して、ある特定の現実のありようを前提とするよう求めることで、発話者の主張の正当化などを行う言語編成である[Pomerantz 1986]。ECFは、いくつかの形で発話者の主張の正当化を求めるものとされる。ポメランツは日常会話におけるECFの三つの使用法をあげている。(一)苦情、非難、弁明、言い訳などの正当化に対して防御するため、あるいはそれらに対抗するため、(二)ある現象が「客体的である」あるいは相互作用や環境によるというよりはむしろ客観的なものであるということを主張するため、(三)ある行為がそれが頻繁におこったり一般的になされているために、悪くないあるいは良いことであることを主張するため。 たとえば、「あなた、いつもパチンコばかりいって。たまには子供の面倒もみてください」という発話の前半部は、世界をそのまま描写したものではありえない。なぜなら、パチンコ以外の他の活動(たとえば食事をすること、仕事にいくことなど)も存在するからである。ということは、それ自体は「そのままのこと」「実際のこと」を述べたわけではない。だとすると、この発話は一種の言語行為だと考えられる。とくにこの場合は、「子供の面倒もみてください」という依頼を正当化するという行為を行っていると考えることができる。 「ヤク中よりひどい奴なんていないね。ヤク中なんてガキだし、いつも自分のやっていることをもっともらしくいうくせに、いつも他の奴の非難ばかりしているんだぜ。そんな奴は世のなかでやっていけないよ、だから腰抜けの出口に逃げ込むんだ」「俺はいままで何百人ものヤク中を知っているけど、わかったのは、連中は誰に対してもどうしようもないってことだよ。連中は世界で一番自分勝手な奴らさ」 このように発話することによって、発話者は「一般人(being ordinary)」[Sacks 1970, 215]としてのアイデンティティを達成しているということを、聞き手(調査者)に示しているのである。ダスターの研究の趣旨にそって考えるのであれば、心理学的な表現を用いて道徳的な問題をかかえた者として依存者を表象する発話が、まさにこのセラピー共同体において適切、または道徳的であるとされていることが推察できる。これはすなわち、当事者(依存者)さえもが依存を個人に由来する道徳的な問題、しかも更生がきわめて難しい心理学的な問題として語らなくてはならないような状況を明らかにしており、おそらくはそのように語ることができるようになることが、リハビリテーションの達成度を測る指標にもなっていると推察できるのである。 第三章 ディスコースの分析―方法論的ディスコース主義― T言語的活動について 1.言語行為について 言語行為論によれば、陳述(statement)はなんらかのものごと、事態や事実を記述するものでのみあるわけではない。それは「その文を口に出して言うことは、当の行為を実際に行なうことにほかならない」[Austin 1960=1978,11]事態を示す場合もある。そのような文のことを、オースティンは遂行的発話(performativeあるいはperformative utterance)と呼んだ。たとえば「私は、この船を『エリザベス女王号』と命名する」という発話は、それがまさに命名という行為を行っているという例がそれにあたる。 オースティンは、ある文がある行為、たとえば質問として成立する条件を、発話者の意図や文脈上の前提条件などによって確定しようとした。これは遂行的発話と叙実的発話(コンステイティブ、constative utterance)との区別の条件とも重なる問題設定であるが、そもそもそのような形でのアプローチが無理であったことが、シェグロフによって示されている[Schegloff 1984:1988]。シェグロフは、会話の断片を分析しながら、文の表現上は命令や質問と読める発話がそうではないものとして受け手に受けとられていることを示し、遂行的発話を意味づけるものとして相互作用の連鎖(sequence)構造を提案している。山田もこれにもとづき、たとえば「問い」の後におかれているという会話の連鎖構造上の位置づけによってのみ「答え」が「答え」という発話行為を遂行する、としている[山田 1999,18-19]。 ある特定の文、(の部分)は、それに続く文(の部分)によって、遡及的にその遂行的意味を確定される。と同時に、その続く文(の部分)は、前の文(の部分)によって反映的にその遂行的意味を確定される。つまり、発話の遂行的意味は、会話分析でいう連鎖構造のなかにあるのである。したがって、先の例にある「私は、この船を『エリザベス女王号』と命名する」という発話は、実は単にそれがあるだけで命名という行為を行うわけではなく、それを命名とみとめるような後続する発話や行為がそれを命名とするのである。山田が述べる「答え」もまた、それを答えとみとめるような後続する発話や行為が、それを答えと位置づけるのであって、実は「問い」の後にあれば「答え」というわけではない。そしてそれゆえにこそ、予備連鎖(先行連鎖)や拡張連鎖が可能になると考えられる。 予備連鎖(先行連鎖)とは、たとえば勧誘(映画にいかない?/いいね)を示す隣接対に先行して、それを準備するものとされる先行対(今晩忙しい?/いや)であり、会話分析において、単純な隣接対を標準的な連鎖とした場合にでてくる考え方である[Psathas 1995=1998, 47-48]。 拡張連鎖とは、たとえば会話において物語を組織化するなどの相対的に規模のおおきな連鎖構造のことを指す[Psathas op.cot., 52-63]。山田が指摘しているように[山田 1999, 25-26]、その場合、物語やトピックの一貫性を組織する場合があるが、その場合も「結果的に」組織されるという観点を必要とする。また、物語を導入する装置として「場違いのマーカー(あるいは分離標識displacement marker)」があげられるが、これ自体がそれに先行する発話あるいはその連鎖を特定の意味合いに一時的に確定することを求めている。後述する観点からすればひとつの提案を行っているということになる。 2.提案と承認 したがって、以上のような意味の確定を生じる機制は、差しあたって、先行する発話による「提案」と、後続する発話による「承認」という形で把握可能である。それは確定であるが、一時的な確定であり、その意味は後続する発話や文、あるいはそれらの部分によって疑問ともなされる。その連続性をとおして現実がつねに一時的にではあれ作りだされる、しかも本来的には状況的なもの―つまりその会話のもの、そのテキストのもの―として作りだされる。 3.ディスコース分析 このような考え方にもとづいた分析方法の特徴は、会話に限らず行為、テキストやイメージを含むあらゆるディスコースを分析の対象とできることにあり、その意味ではディスコース分析のひとつのバージョンに位置づけられる。 ディスコースとは、「なんらかの仕方でまとまって、出来事の特定のバージョンを生み出す一群の意味、メタファー、表象、イメージ、ストーリー、陳述、等々を指している。それは、一つの出来事(あるいは人、あるいは人びとの種類)について描写された特定の像、つまりそれないしそれらをある観点から表現する特定の仕方を指す」[Burr op.cit., 179]。本書がディスコースに「言説」という訳語を用いないのは、「言説」がすでにフーコー流のディスクールの意味で使用されることが多く(たとえば[赤川 1999]参照)、誤解を招きかねないからである。むしろディスクールはディスコースの特殊一類型であると考えられる。 ディスコース分析とはエスノメソドロジー、言語行為論、記号学などを基礎とし、発話やテキストを社会的実践として捉え、それ自体の権利において分析する方法、さらにはその実践におけるリソースを分析する方法である[Potter and Wetherell 1987]。 伝統的な社会科学の言語観では、発話やテキストはその源にあるなんらかの世界を代理するものとして捉えられてきた。したがって、たとえば診察の会話は、その会話のトピック(課題)である患者の身体などの対象を代理しているものとしてあつかわれ、その意味で会話自体は媒介にすぎない。しかしながらディスコース分析においては、発話やテキストそれ自体が現実を作りだしながらなんらかの実践を行うものとして対象とされる。 そしてその過程においては、発話者や執筆者に利用可能なさまざまなリソースが用いられるが、そのようなリソースがある限られた動きをしていることを記述し特定することが分析の日的となる場合もある。とくにそのような分析はレパトワール分析と呼ばれる。 その場合、それらのリソースによって現実が作りあげられるという観点からすれば、これは単にリソースを拾いあげるということ以上の意味をもつ作業である。なぜなら、それらのリソースが限られた動きをするということを記述し特定することは、そのようなリソースが用いられる状況や集団の特徴、つまりは現実の特徴を明らかにすることだからである。そのようなリソースの限られた動きは「解釈的レパトワール(interpretative repatoire)」[Wetherell and potter 1988:1922]と呼ばれ、ギルバートとマルケイによる科学の社会学的研究[Gilbert and Mulkay 1984=1990]においてはじめて考案されたものである。 4.発話とテキスト ディスコース分析は構築主義パースペクティブのプログラムのひとつとして理解されるべきものであり、会話の分析や新聞報道の分析においては会話分析やレトリックの分析を一部応用した分析スタイルをとることになる。 5.テキスト分析の事例(その一) 医療的相互作用過程、すなわち医師‐患者コミュニケーションの質的分析について、社会的相互作用論と会話分析とのあいだで小さな論争がかわされた。その論争で社会的相互作用論に依拠するテキストは、会話分析に代表されるミクロ分析には二つのタイプ―医療における社会関係の非対称性の研究と診療場面の会話の構成過程の研究―があり、それらの問題点として@ミクロ状況の権力構造や支配戦略や会話の構成過程の分析であって医療を対象とする必要はなく、A医療活動に固有の問題をあまり明らかにしていないうえ、B会話分析のトランスクリプトが読みにくい、などをあげた[宝月 1995]。これに応答したのがエスノメソドロジー的観点によるテキストである。このテキストは会話分析の立場から先の批判をある程度受けいれたうえで、それらの批判は会話分析を狭く解釈した結果とし、今度は逆に社会的相互作用論的分析の結果である、医師と患者の相互作用の三つの特徴―パターナリスティック・パートナーシップ・顧客関係―を、「常識的」で「陳腐」なものと批判した。そして、そのような相互作用がどのような実践であるかを分析するには会話分析が有効であり、会話分析と社会的相互作用論を対立的なものとしてではなく、相補的なものとしてエスノグラフィに利用すべきであると提案した[好井 1999]。一方その間、社会的相互作用論による新たなテキストは、「医療場面の会話分析」を再び批判しながら、具体的な診療データを示しつつ、社会的相互作用論の観点からより洗練された分析を提出している[宝月 1998]。したがって、以上のような社会的相互作用論による批判、会話分析による反批判は、ひとつの対話(dialogue)として考えてみることもできる。 定式化(formulating)とは、「情報提供者のこれまでの話を要約したり、別な言葉で置き換えたり、要点をさらに展開させたりする会話作業である」[山田 1995,129]。ディスコース分析の観点から考えた場合、定式化とは、それを表出するテキストにおける現実構築の提案方法のひとつである。つまり、聞き手が話し手の話を要約したり置換したりすることによって、ある意味で相手と協働で、ある特定の現実のありようを提案する方法と考えられる。 U文脈的状況と客体化機能 テキストを分析するさいには、その筆者の経歴や人柄などの文脈情報を加味することで、テキストの成立した状況を推察できると考えられがちである。しかし、そのような文脈情報を無条件で考察に組み入れることは、常識的推論、あるいは物語的理解を無批判に採用してしまうことになる。文脈がテキストに影響しているのであれば、それはテキストそのものにあらわれているはずであり、これを分析していくことになる。 リアリティ分離とは、相互作用の参加者が前提として想定する現実が、一致しない状態のことをいう[Pollner 1975=1987]。 有標化とは、会話分析でいうものであり、応答を求める発話が後にくることをあらかじめ示す会話作業である。 患者の応答と医師によるそれを受容したうえでの応答というやりとりは、その状況自体が埋めこまれる文脈を提案している。このように、状況においてそれ自体が埋めこまれる文脈のことを、その状況性を強調するために文脈的状況と呼ぶことにする。その文脈的状況とは、たとえば、患者は積極的に医師に病状を説明するべきだ、などという形で、結果的に道徳性を帯びる[佐藤 2003a,47]。これは、そもそもからその状況あるいは社会の道徳がきまっていて、それを内面化してふるまうということ―これは伝統的な社会学的な道徳観である―を意味しているのではなく、まさにその場の相互作用を通じた文脈的状況として作りだされるのである。 そのような「作りあげた」作業を隠して、その状況のありようを自然な、あるいは必然的なものとして表象するのが、特定のディスコースとその機能であり、本書ではその機能をディスコースの客体化機能と呼ぶ。客体化ディスコースは、相互作用過程における客観的実在の構築と交渉可能範囲を策定する。診察における専門用語の機能は、それによって指示される対象が客体であるように示すことにある。しかも、すでに提案と承認によって確定された意味をこれに読み替え再確定することで、その場において提案と承認で確定したということ自体を隠してしまうのである。それが結果的に、病状という現実―カルテなどに記載される客観的現実―を作りだし、そして、そもそもからそうであったかのように表象されるのである。 それと同時に別の水準において、その客体化ディスコースは、それが関連すると想定可能なカテゴリーに言及し、そのカテゴリー間の相互作用とその文脈的状況を実践する。つまり、そこでは医師カテゴリーに関連すると想定可能な固有の語彙、器具や技法を提案することが、その状況を専門家と素人という対比において理解するべき文脈的状況であることを同時に提案する。それは医師と患者というカテゴリー対比によって成立する制度的状況を作りだしている。 V社会問題構築論と逸脱の医療化論 社会問題構築論は、そもそもはシンボリック相互作用論をその出自としているために、実質的には構築主義パースペクティブにもとづいたものではなかった。むしろ、その方法論をめぐる論争を経由することで、構築主義パースペクティブのバージョンを、そのなかに作りだした。 クレイム申し立て活動という方法論では「個人やグループ」を特定することが前提とされている点で、すでに指摘した研究者による物語的構成を行っていると考えられる。 医療化論という問題構成が可能になるのは、医療に社会統制の手段としての政治性などが含まれているからというよりもむしろ、医療化論それ自体に独特の政治性があるからである[佐藤 1999]。すなわち、逸脱の医療化論も含めた医療化論は、そもそも「本来」医療的な領域と「本来」そうでない非医療的領域の境界が客観的なものとして仮定されていることによって立論可能となっている。しかしながら、「本来」医療的な領域というのも、相互作用過程を経て結果的にそもそもからそこにあったかのように客体化され表象されるものである。したがって、「本来」そうであるものと「本来」そうではないものという判断の基準は、対象領域に属すのではなく、何を問題にするかという当の医療化論側のふるまいに属すものである。 UP:20070421 ◇医療社会学 ◇薬 ◇BOOK |