『パレスチナの平和と“私たち”の役割 私たちは何者の視点から「歴史」を見るのか――岡真理講演録』
日本聖公会東京教区エルサレム教区協働委員会 発行 20060515 非売品,68p.+年表
■日本聖公会東京教区エルサレム教区協働委員会 発行 20060515 『パレスチナの平和と“私たち”の役割 私たちは何者の視点から「歴史」を見るのか――岡真理講演録』,非売品,68p.+年表
■目次
0 はじめに
1 60年目のアウシュヴィッツ/ヒロシマが私たちに問うもの
2 占領下パレスチナの現実
3 「遠いパレスチナ」とは何を意味するのか?
4 出来事の記憶――記憶される出来事とされない出来事
5 もう一つの9月――サブラー、シャティーラ
6 「ナクバ」――出来事の根源の根源にある「暴力」
7 「違法な」占領と「合法な」占領
8 結びに代えて――連累と歴史への応答責任
応答と質疑
資料
■引用(発言:岡 真理)
「パレスチナ人は、自分たちが追いこまれている状況の中で「自爆」という行為を選ばざるをえない。それが「テロ」であるということには疑い得ないのですけれども、それを行うということをもって彼らに「テロリスト」というレッテルが貼られることで、そうした行為がいったいどのような状況から生みだされているものなのかということに、私たち自身が、人間的な想像力や理解を向けようとすることをシャットアウトしてしまう、そういう状況があると思います」(p.5)
「「テロと報復の連鎖」と、よく言われます。そのときの「テロ」というのは、誰の誰に対するテロのことでしょうか。そこで含意されているのは、決してイスラエル国家がパレスチナ人に対して行使する暴力のことではない。「テロ」という言葉が使われるとき、それがつねに意味しているのは、パレスチナ人がイスラエルに対して行う暴力のことです。占領地においてであれ、イスラエル領内においてであれ」(pp.17-18)
「日本の新聞はこのように、「暴力の悪循環をいかに断ち切るか」などと、あたかも自分たちはその悪循環の外側にいて、第三者として中立であるかのように語っていますけれども、このイスラエル国家が国際法にも違反して、国連決議にも違反して、国際社会の非難にも耳を貸さず38年にわたって行使しつづけているその占領の暴力と、そのなかでパレスチナ人が絶望の極みにまで追いやられた結果行う自爆を「同じ暴力だ」と語ってしまうことが、はたして公正なことでしょうか」(pp.19-20)
「パレスチナは遠いから、とよくいわれます。パレスチナ人が今申し上げたような状況におかれているということが、私たちにとって、もし他人事であるとしたら、それはパレスチナが地理的に遠いからなのでしょうか。そうした状況が日本のものだったら、私たちはそれを自分たちの問題だと思って、向きあって考えるのでしょうか」(pp.25-26)
「ですから、ここで私たちが問わなければいけないのは、私たちはいったい何者の視点から歴史を見るのか、ということなのです。ヨーロッパのユダヤ人のなかの、パレスチナにイスラエルというユダヤ人国家を作るということを自分たちの政治信条としている人たち、その人たちの視点からパレスチナを見るのか、それとも今申し上げたように、かつてヨーロッパでユダヤ人がナチス・ドイツの手によって、そこに何百年と暮らしてきた自分たちの故郷から無理やり引き剥がされ、追放され、いたましく死んでいったのと同じように、自分たちの故郷から引き剥がされ、虐殺されているパレスチナ人の視点からパレスチナというものを見るのか、ということなんです」(p.40)
「日本人がイスラエルという国家のありよう自体を根源的に問わないということは、論理的に、朝鮮植民地支配の歴史を免罪することにつながるのです。ここでも、パレスチナに正義がないとすれば、それは日本の私たちに正義がないといった先の言葉と非常につながってくるんですね」(p.44)