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『構築主義の社会学――実在論争を超えて 新版』 平 英美・中河 伸俊 編 200604 世界思想社,369p. 2415 作成:大谷通高(立命館大学大学院先端総合学術研究科)* *http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/g/om03.htm ■平 英美・中河 伸俊 編 200604 『構築主義の社会学――実在論争を超えて 新版』,世界思想社,369p., ISBN-10: 4790711773 ISBN-13: 978-4790711773 2415 [amazon] 内容(「BOOK」データベースより) エンピリカルな構築主義の再興へ。新たな調査研究の実例を紹介し、エスノメソドロジーやルーマンとの対話を手がかりに、構築主義論争の決着を提示する。構築主義的研究の将来像を探る、待望の新版。 内容(「MARC」データベースより) エンリピカルな構築主義の立場から構築主義アプローチを採る調査研究の実例を紹介。新たな研究例を紹介し、エスノメソドロジーやルーマンとの対話を手がかりに構築主義論争の決着を提示、構築主義プロジェクトの将来像を探る。 ◆目次 平英美・中河伸俊 「新版のためのはしがき」pp1-4 T 事例研究編 ジョエル・ベスト(足立重和訳) 「第1章 クレイム申し立てのなかのレトリック――行方不明になった子供という問題の構築」、pp6-51 1 レトリックとクレイム申し立て 2 行方不明の子供―事例研究 3 前提 4 論拠 5 結論 6 討論 ウィルバー・J・スコット(馬込武志訳) 「第2章 DSM-Vにおける心的外傷後ストレス障害(PTSD)―-診断と疾病の政治学における事例」、pp52-92 (紹介↓) 1 DSM-TおよびDSM-Uにおける戦争神経症 2 DSM-Uと精神医療の実践 3 反戦ヴェトナム帰還兵(VVAW)と街角の精神医療 4 シャタン――「ヴェトナム後症候群」 5 セントルイスの分水嶺 6 進行中のDSM-V――「変更の計画はない」 7 ヴェトナム戦争の退役軍人のための作業グループ――後戦闘障害 8 反応性障害委員会――心的外傷後ストレス障害 9 討論 ロバート・M・エマーソン/ケリー・O・フェリス/キャロル・B・ガードナー(渡会知子訳) 「第3章ストーカー行為の自然史――関係についての非対称な認識の展開過程」、pp93-151 1 データと調査方法 2 「関係的ストーキング」の概念 3 関係的ストーキングの自然史 4 日常的な追いかけ――付け回されること 5 アクセスについての情報と追いかけられること 6 最初の提案と最初の拒絶 7 継続とストーキングの認識 8 復讐への転回――敵意、嫉妬、怒り、そして暴力 9 結論 中村和生 「第4章 「推定無罪」と科学知識の社会学――成員の達成としての実在論VS.懐疑論」、pp162-183 1 科学的知識と社会学と法廷闘争 2 知識社会学マシーン 3 検察にとっての科学――技術的背景 4 弁護士団における科学――法的および社会的コンテクスト 5 DNAフィンガープリンティングに関する「論争」 6 尋問的エスノグラフィー 7 行為のただ中にあるものとしての裁定申請 8 結論 U 理論編 スティーブ・ウールガー/ドロシー・ポーラッチ(平英美訳) 「第5章 オントロジカル・ゲリマンダリング――社会問題をめぐる説明の解剖学」、pp184-213 1 社会問題をめぐる論争の構造 2 オントロジカル・ゲリマンダリングの作業 3 経験的文献 4 児童虐待の事例 5 社会問題と逸脱の社会学 6 含意 7 結論 田中耕一 「第6章 構築主義論争の帰結――記述主義の呪縛を解くために」、pp214-238 1 構築主義論争の始まり――「オントロジカル・ゲリマンダリング」をめぐって 2 厳格派の立場――イバラとキツセによる構築主義の再定式化 3 分析的構築主義――再帰性の社会学? 4 再帰性のドグマ――構築主義とエスノメソドロジー 5 記述主義の呪縛――本来の問いを取り戻すために 矢原隆行 「第7章 システム論的臨床社会学と構築主義」、pp239-259 1 社会構築主義をめぐる諸観察の観察 2 観察の観察と有用性 3 「チャイルドラインにおけるリフレクティング・プロセスの応用」の事例から 4 観察の不定さとコミュニケーションの窺い知れなさ 樫田美雄 「第8章 フィールド研究の倫理とエスノメソドロジー――社会リアリティの変化と社会理解ループの変化」、pp260-284 1 はじめに 2 「社会リアリティの変化」がフィールドワークを変える可能性の検討 ――リスク細文化型保険登場の意味 3 フィールド研究の倫理――諸学会の動き 4 エスノメソドロジーと現代社会――研究のオチとしてのインデキシカリティ(indexicality)を採用しない態度とフィールドワークの現在 5 おわりに 中河伸俊・平英美 「第9章――エンピリカルな見地からの課題と展望」、pp285-328 1 経験的レファレンスの位置 2 本書の仕組み――収録論文の解題 3 課題と展望 引用文献 主要人名・事項検索 執筆者・訳者紹介 >TOP ■Scott(ウィルバー・J・スコット) ? ? ? =2006 馬込武志訳,「DSM-Vにおける心的外傷後ストレス障害(PTSD)―-診断と疾病の政治学における事例」,平・中河編[2006:52-92] cf.PTSD 1 DSM-TおよびDSM-Uにおける戦争神経症 2 DSM-Uと精神医療の実践 3 反戦ヴェトナム帰還兵(VVAW)と街角の精神医療 4 シャタン――「ヴェトナム後症候群」 5 セントルイスの分水嶺 6 進行中のDSM-V――「変更の計画はない」 7 ヴェトナム戦争の退役軍人のための作業グループ――後戦闘障害 8 反応性障害委員会――心的外傷後ストレス障害 9 討論 「本論文では、どのようにして心的外傷後ストレス障害が公式の精神障害となったのかを記述する」([53]) 「心的外傷後ストレス障害がDSM‐Vに登場した時にそのクライマックスに達した、さまざまな人々が行った作業を検討する。また、それを通じて、公式の精神医学の一つの現実としての心的外傷後ストレス症候群が備えている影響力を検討する」([53]) 「わたしがここでやろうと思っていることは、この新しい診断の様々な擁護者たちが、どのようにして医学の仕事にとってレリヴァントな、世界内の、いつでも――すでに――そこにある対象として、新しい診断を明るみに出したかを示すことである」([54]) 「同性愛の場合と同じように、その擁護者達による心的外傷後ストレス障害を認知させるための闘争も、きわめて政治的なものであった。それは、その専門用語を定義するための様々な専門家の間および「街頭」での可能な限りの交渉、同盟の形成、戦略の構築、連帯の確認、そして戦いのオンパレードであった」([54]) 「以下で私は、できごとの連鎖を再構成し、ドラマの主役達を確定し、クレイムと対抗クレイム(Spector and Kituse[1977]1987参照)を探求し、心的外傷後ストレス障害の診断を裏付けるために使われた証拠を記述する。私は、いく人かの主要なクレイムメイカー達への直接のインタビューと電話インタビュー、新聞、雑誌、公文書を通して、私の説明のために必要な証拠を収集した。」([55]) 1 DSM-TおよびDSM-Uにおける戦争神経症 pp55-60 1952年に、DSM-T出版 「全ストレス反応(gross stress reaction)」が記載 編者たちの見解 全ストレス反応は戦闘に携わっている兵士たちに起こり、今までに精神的問題を起こしたことがない者にも起こりうる。 精神病と区別して、環境がもたらす極端なストレスによって引き起こされる一次的な状態として記述。これは、個人がストレスに満ちた状況から脱した後に消失するものとして結論づけた。 グリンカーとスピーゲル(Grinker and Spiegel 1945)の見解 多くの反応は戦場で起こらず、のちになって突然起こるもの。症候が何ヶ月もしくは何年も続く。全ストレス反応に「遅延性」や「慢性」の面があると認める必要があることを示唆。 1965年にアメリカはヴェトナムに戦闘部隊を送る。 同時期に、アメリカの精神医学会は『精神障害の分類と診断の手引き』の第2版(DSM-U)出版の準備を開始。 1970年に、ピーター・ボーンが『人間・ストレス・ヴェトナム』を出版 戦争中の兵士の精神疾患が軍の中で重大な問題になっていた。 しかしヴェトナムではその症状の割合が低かった。 それの、二つの要因 経験的に根拠づけられた戦争神経症問い概念の普及 軍による戦闘地帯での治療技法の実施 第一次世界大戦 イギリス軍の精神科医が、戦闘中や戦闘後の兵士の朦朧とした状態や混乱した状態を表すのに「砲弾ショック」という用語を使用し、その状態を砲弾の爆発によって生じた、目に見えない生理的な損傷とした。 しかし、大砲の弾幕にさらされていない兵士の間でも同様の症状があり、軍の指導者や軍医は砲弾ショックとは、臆病、仮病の一種であると主張した。 また、戦場で「気がふれる」のは臆病者だと信じられていた。 1917年、合衆国が大戦に参加したとき、トマス・サーモン少佐がフランス駐留のアメリカ空軍の主席精神医療コンサルタントに任命。 フランス軍の例にならって、合衆国の師団ごとに精神科医を割り当て、できるだけ早く、できるだけ前線の近くで戦争神経症を治療する手順を確立(=サーモン・プログラム) 兵士が任務に戻ることを期待。 治療を受けた兵士の65%が前線に復帰。 第一次大戦直後、フロイトなどの多くの精神科医が精神神経症を心理学的原因によると強調し、砲弾ショックのような生理学的な説明は不人気になった。 しかしながら、戦争神経症は臆病者が悩まされるものという意見が残存。 第二次大戦中 軍は、精神神経症の可能性をもつ就役予定者を締め出そうと努めた。合衆国の徴兵委員会は、100万人以上の男性を心理学的に戦争に適さないと宣告。 しかし、徴兵検査の基準を満たしている軍人にも、精神医学的負傷者がいることに医療関係者が注目。精神神経症を防ぐために軍役に適しない人物を選別する努力がなされ、サーモン・プログラムは忘れられたが、1944年に復活。 朝鮮戦争 軍部は、第一線での治療を供給するために、日本に大きな精神医療施設を用意。 朝鮮半島に駐留する各師団に精神医学センターを準備、サーモン・プログラムを導入。 兵士1000人あたり50人の精神医学的負傷者が30人に低下。 ヴェトナム戦争 サーモン・プログラムの改訂版が開戦時から整備されていた。 軍の司令部は、歩兵大隊ごとに精神医学的治療の訓練を受けた医療担当者を供給し、歩兵連隊、海兵隊師団ごとに精神科医とスタッフを配属。 軍人は速やかに持ち場に戻るという強固な予測に基づいて戦闘地域の近くで対処。 1965年から1967年の間、精神衰弱の発生率が1000人当たり5人に。 1968年にアメリカの精神医学会はDSM-Uを出版 新しい診断の手引きには、それまで病気(disorder)として特定されていなかったものが、記載されていたり、DSM-Tに記載されていたいくつかのものがはずされていた。 はずされていたものに、「全ストレス反応」。DSM-Uには、戦闘によって引き起こされる精神の病気は含まれていなかった。 DSM-Uの執筆者に、戦争神経症患者を直接診断した者がいなかった。 ヴェトナム戦争に関わった権威のある精神科医たちが、当初は、公認の病名で戦場での病気のすべてがカヴァーされていると指摘していた。 アーチボルトとタッデンハイム(Archibald et al. 1962; Archibald and Tuddenham 1965)は、退役軍人を対象に15年および20年後の追跡調査を開始。 戦争神経症の診断の意義を再確認。 各戦争中の戦闘によるストレス経験者に、症状が持続していることを証明。 捕虜強制収容所の生存者を対象とした似た研究でも同様の結果が報告されていることを発見。 これらがDSM-Uに載らなかったのは、かれらが自分の関心を編者に知らせなかったこと、DSM-Uにおいて全ストレス反応の位置づけがどうなるかをはっきり知らなかったため。 1967年7月、一部のヴェトナム戦争の退役軍人が、ヴェトナム戦争へのアメリカの関与に講義するためにニューヨークの街を行進。(Vietnam Veterans Against the War 以下、VVAW) 「兄弟たち」を家に連れ戻して戦争を終結させるために、ヴェトナム戦争の退役軍人が団結することを熱心に呼びかけた。 以後、この活動がDSM-Vに心的外傷後ストレス障害を掲載させる運動の中心となっていく。 2 DSM-Uと精神医療の実践 pp61-65 1969年9月、サラ・ヘイリーがボストンの退役軍人局(VA)で勤務。 彼女は、後に「ヴェトナム戦争の退役軍人のための作業グループ」のメンバーとして、心的外傷後ストレス障害の診断を後押しするのに重要な役割を果たす。 勤務初日にヴェトナムの退役軍人と出会う。 その軍人が、ミ・ライという村での虐殺に参加した小隊仲間から、口外したら殺すと脅されたことをサラに話した。彼は病院に来る2、3日前に軍務を解かれ、非常におびえていたが、その話を証明するものはなかった。 サラはその話を信じたが、病院の職員は信じず、彼の症状を妄想性統合失調症と診断。 当時の精神保健の専門家は、戦争によって引き起こされる心的外傷が含まれていない診断上の学名のリストを使って、退役軍人を診断。 軍隊での経歴を診断の材料として聴取せず。 医師の多くは、ヴェトナム戦争の退役軍人は、戦闘の範囲の外にある原因やダイナミクスによって神経症や精病に苦しんでいると考察。 多くの精神科医がDSM-Tの「全ストレス反応」として特定された記載を、妥当なもので、役に立つと考えていた。 1969年、精神科医のジョン・タルボットが『国際精神医学雑誌』にDSM-U批判の中で、将来のDSM-Vの編者に全ストレス反応の項目の再掲載を求めた。 当時の退役軍人局の精神科医で同局の精神医療部門の医局長になった、アーサー・ブランクは「多くのアメリカの精神科医が、[略]ヴェトナム戦争の退役軍人を診察する際に、心的外傷後ストレス症候群のようなものは存在しないという公式の見解に準拠していた」その頃の状況は、のちに「逆機能的で異様」だったと記述(Blank 1985:73-74)。 しかし、退役軍人局内部においてもその治療は一枚岩ではなかった。 1971年にヘイリーは、反戦ヴェトナム帰還兵会(VVAW)のボストン支部に、退役軍人施設に退役軍人を治療目的で来させるときに使うようにと評価用の表を提供。 3 反戦ヴェトナム帰還兵会(VVAW)と街角の精神医療 pp65-68 1969年12月15日にロバート・リフトンが「なぜ、非戦闘員が戦争の犠牲者になるのか」という表題で『USニュース・アンド・ワールド・リポート』に掲載(Lifton 1969)。 リフトンはヴェトナム戦争に熱心に反対してきた精神科医。 朝鮮戦争にも軍の精神科医として従軍。 学界では、広島の被爆者のうちに生き残った人々についての研究で知られていた。 1970年1月27日にリフトンが、アラン・クランストン上院議員の小委員会に出席して、ヴェトナム戦争が退役軍人に与える心理的影響について証言(Lifton 1970)。 ミ・ライのような事件は、戦闘員の心理的麻痺や敵の非人間化といった心理的プロセスが、ヴェトナム戦争の特質と結びついて興奮しやすくなることで、発生すると主張。 戦争の精神的影響と、残虐行為を結びつけ社会問題として主張? 1970年4月29日、アメリカ軍と南ヴェトナム軍が、カンボジアで北ヴェトナム軍とヴェトコンの拠点への総攻撃を開始。 2、3日後に、アメリカ中のキャンパスで反対運動が発生、5月4日には、オハイオ州兵がケント大学で反戦デモの群集に発砲して4人が死亡、9人が負傷。 精神科医のチェイム・シャタンが、このような事態が発生する前に、リフトンにニューヨーク大学で講演させる準備を整えていた。 リフトンとシャタンは、カンボジア侵攻とケント大学での射殺事件にテーマを変え、ニューヨーク一円にその講演を宣伝。 それが、何人かの反戦ヴェトナム帰還兵会のメンバーを含む、学生以外の多くの人々を講演へ招き寄せた。 戦争とそれによる精神的影響の問題性を、話題となっている問題と接合したことで、多くの人に問題関心を植え付けることに成功。 この集会に似たような他の集会を経て、リフトンやその他の反戦精神科医たちが、反戦ヴェトナム帰還兵会と緩やかで持続的な結びつきが確立。 このカンボジア侵攻に対する大規模な急進的なデモを契機として、反戦ヴェトナム帰還兵会の組織化が促進。 この時期、各地域ごとに数々のインフォーマルな退役軍人の活動組織があったが、それらの活動に反戦ヴェトナム帰還兵会の支部が参加。 他の反戦運動の団体との抗議活動や、 退役軍人の自助活動の支援、など、 どちらに重きを置くか、どんな形の活動をするかは支部によってさまざま。 1970年11月、当時反戦ヴェトナム帰還兵会の会長、ジャン・バリーがリフトンに援助と助言を求める手紙を出した。 これに対し、リフトンとシャタンはニューヨーク支部の退役軍人が自らの経験について議論するインフォーマルなセッション、「対話グループ」に参加。 リフトンとシャタンに対して、セラピストではなく、戦争反対という立場を共有する対等な人間としてセッションに参加するように求める。 以後、「対話グループ」が、精神医療的な機能と、破壊的で個人的なヴェトナム戦争の経験を調査するという機能をもつようになる。 (前提として、政治的戦術として、退役軍人のヴェトナム戦争の経験を民衆に伝える必要性と欲求があった。これをかなえるために、学術的にその経験を調査する必要があった。) 反戦ヴェトナム帰還兵会は「遅廷性の」全ストレス反応のための政治的戦術と治療を街頭で発展させた。 4 シャタン――「ヴェトナム後症候群」 pp68-71 1971年3月に、アメリカ予防精神医学会(AOA)の年次大会がワシントン市で開催。 精神保健の専門化が幅広く所属。 大会のトピックに社会問題の心理学的側面に関与するものがあった。 リフトンとシャタンがその大会で退役軍人が参加するヴェトナム帰還兵のパネルディスカッションを企画。 800人がセッションに出席。 1971年4月30日にドワイト・ジョンソンという黒人男性が酒屋で強盗を働き、定員に射殺される。 ドワイトが国の最高の賞であるアメリカ議会名誉勲章を授与された帰還兵だったことで、この事件は世間の関心を集めた。 『ニューヨーク・タイムズ』、『アメリカ予防精神医学雑誌』、その他の出版物で取り上げられた。 シャタンは、ドワイト事件に強く関心を抱いていた。 シャタン(Shatan 1971)は反戦ヴェトナム帰還兵会の対話グループに参加することが、戦争の反対に有効な手段で、ヴェトナム戦争の退役軍人の支援になると見ていた。 シャタンは、DSM-Uのなかに戦闘によるストレスという診断がないことについて憂慮。 1971年2月に『ニューヨーク・タイムズ』の特集ページのために対話グループについての記事を準備。すぐには掲載されず。 1972年春に、デトロイトで行われたアメリカ予防精神医学会の大会で発表するために、より学術的で長いものに書き換えられた。 ドワイトの家族と会って彼らを慰めた。 新聞記事と学術論文の二つの論稿で、対話グループの観察に基づいて、ヴェトナムから帰還して9ヵ月後に起こる「ヴェトナム後症候群」について記載。 「遅れて生じる重大な心的外傷」として記述 テーマは罪悪感、強い怒り、スケープゴートにされているという感覚、精神的麻痺、疎外感として特定。 偶然で発症するものではなく、戦闘地帯にいる兵士が悲しむことができないということに由来するものとして強調。 アメリカ予防精神医学会の大会の後、『ニューヨーク・タイムズ』の編集者を招き、準備した特集の記事を掲載。編集者も賛成。 1972年5月6日の『ニューヨーク・タイムズ』に「ヴェトナム後症候群」が掲載。 ものすごい反響。 以後、反戦ヴェトナム帰還兵会の対話グループは、関心が同じであってもお互いを知らなかったグループ同士を結びつけるインフォーマルな情報センターとなった。 5 セントルイスの分水嶺 pp71-75 1973年、リフトンが『戦争からの帰還』という著書を出版 著書の内容 「死に直面したときや、仲間を助けたりした時の個々人の気高さや勇気と」、「かれらが戦うことを求められた恐ろしく、汚らわしく不必要な戦争」とを注意深く区別。 戦争には残虐な行為が内在しており、道徳的目的と清廉さを欠いた戦争は、残虐行為が多く発生すると主張。 ミ・ライの虐殺事件の関与者の話を記載。 戦争に行った退役軍人への批判だけでなく、戦争を許しているアメリカ民衆にも批判を行った。 軍事精神医療を批判。 戦争神経症を抑え、いかに早く前線に復帰させるかについての戦争時の精神医療の有効性を主張した識者を批判。 患者である兵士よりも、軍事的利益を優先していると指摘。 「精神科医(や牧師)と軍司令部の汚れた同盟が「すべてを覆う、精神的に再強化された内面の腐敗が生き残りの代価であるような偽の世界を」作り出し、それが戦闘後の再統合にとって中心的障害となるのであった。」([72]) 反戦ヴェトナム帰還兵会の情報センターを正式化することを次の目的。 草の根運動を行いながら、それを通して作業を進める戦略を実施。 そうした草の根運動のなかでよく二人が連絡を取った団体として、全米教会会議(NCC)がある。 1973年はじめにニューヨークの市のNCCに加盟する牧師のひとりが、「ヴェトナム戦争期の退役軍人の感情的ニーズに関する第1回全米会議」を企画。 ルーテル教会のミズーリ州宗派会議が経費として8万ドルを提供。セントルイスにある同派の神学校で4月にその会合を主宰することに同意。 NCCのマーク・反戦牧師と、ニューヨークの対話グループの創設メンバーだった退役軍人のアーサー・エゲンドルフが、対話グループや組織に積極的に関与している退役軍人、精神科医、その他の全米の人たちのリストを新たに作成。 二人はこの会議に退役軍人局の中央事務局から代表団を招く。 1973年4月、会議開催 会議に退役軍人60名、精神科医30名、退役軍人局の中央事務局10名、全部で130名が参加者。 会議は3日間続いた。 さまざまな自助グループが参加。 どの活動が正しいモデルかを議論することに多大な時間を費やす。 一つの正しいモデルは存在しないという結論。 激しく議論したが友好的であった。 しかし、退役軍人たちには、退役軍人局に対してのネガティブな感情があり、友好的でない場面もあった。 退役軍人局の職員は、退役軍人が社会に順応できないという問題は、退役軍人に問題があると指摘して、多くの参加者を怒らせた。 退役軍人の問題についてイニシアティヴをとるための組織的な枠組み「全米帰還兵救済策プロジェクト(NVRP)」を作成。 12人を理事として選出。 ジャック・スミスが理事会長に選出。 海兵隊としてヴェトナムに従軍。ヴェトナム介入の意義を熱心に信奉。戦争に行く前にヴェトナム史とヴェトナム語を勉強。 ⇒ しかし、彼はヴェトナム戦争の経験後に、ヴェトナム戦争を政策失敗として位置づける。 選任後、精力的に活動。 彼が会長に選ばれたことで、混乱は起こらなかった。 6 進行中のDSM-V――「計画の変更はない」 pp75-78 全米帰還兵救済プロジェクトの課題の一つとして資金問題 資金要求すると、退役軍人の問題が国の問題になっていないことを理由に断られる。 ⇒ この問題を証明する必要が生じる。 スミスは、リフトンとエゲンドルフなどとの議論のあと、同年代の従軍していない人たちと退役軍人とを比較する「ヴェトナム世代の研究」を提案。 これに平行して、アメリカ精神医学会内部でのできごとが、事態は急を要するという認識をもたらした。 1974年4月4日、DSM-Uに記載された同性愛の位置づけについての会員投票が実施。(Conrad and Schneider 1980:204-209) ロバート・スピッツァーが、議論の解決策としてDSM-Uの「同性愛」を「性的適応障害」に置き換えるように提案し、その用語の変更について全員参加の投票が実施。 スピッツァーの提案が可決。 ⇒このできごとによって、さまざまなことに対する提案の門戸がひらき、要求を検討するモデルができた。 1974年6月、DSM-Vを作成するニュースが『精神医学ニュース』に掲載。 ヴェトナム退役軍人の事件の裁判で、弁護士が「戦争神経症」を扱おうとしたが、裁判官が、DSM-Uに記載されていないという理由から、却下された。 弁護士が、スピッツァーに電話で、DSM-Vに戦争によるストレス行動を再録するかどうかを聞き、「変更の計画はない」と返答された。 ⇒ このニュースをシャタンが聞き、危機感を覚える。 DSM-Vに記載させるための、目的の記述と正当性の確保といった準備はしていなかった。 ヴェトナム世代の研究はゆっくりと進行。最初のインタビューを開始。 ⇒ シャタンとリフトンとスミスは、その研究とプロジェクトとはべつに、DSM-Vの変更の運動を開始。 7 ヴェトナム戦争の退役軍人の作業グループ――後戦闘障害 pp79-81 DSM-Vの変更を求める活動 1974年に、シャタン、スミス、リフトンらが、ニューヨークのラジオ局でヴェトナム戦争の退役軍人についての24時間放送を企画。 ニューイングランド地域のリスナーに、意見や質問の電話をするように呼びかけ。 公衆に、退役軍人の問題を知ってもらうための活動。 運動のキーマンとして、マンハッタン州立病院の院長ジョン・タルボット。 ロバート・スピッツァーと友人。 ニューヨーク精神医学会のニューヨーク支部長 アメリカ精神医学会でも著名。 アメリカ精神医学会では、シャタンとリフトンはアウトサイダー。 タルボットは、精神医学会内部でヴェトナムの退役軍人の問題を可視化するために、シャタンとヘイリー、エゲンドルフをニューヨーク精神医学会の例会に招いて、「ヴェトナム後症候群」についての報告をさせた。 1974年6月にヘイリーの「患者が残虐行為を報告するとき」という記事が『一般精神医学記録』誌に掲載。(Haley 1974) 戦争に対するセラピストの感情が、戦争体験によって心的外傷を負った患者を治療するセラピストの能力を、どのように妨げるかを詳細に記述。 1975年のアメリカ精神医学会大会で、この3人のグループは、スピッツァーとの会見を設定。 1975年5月、シャタンがワシントンでアメリカ予防精神医学会の年次大会で、「戦争の子ども」というラウンドテーブルを組織。 戦闘時のストレスが世代から世代へ伝達されることを示す。 ヴェトナム戦争退役軍人の子どもを対象にしたヘイリーの仕事を紹介。(Shatan 1975;Haley 1975) 1975年7月、精神科医のレオナルド・ネフが、カリフォルニア州アナハイムでのアメリカ精神医学会年次大会で、「ヴェトナム戦争退役軍人――再適応問題の継続」というテーマでパネル討論を組織。 リフトンとシャタンによる発表が大きく取り上げられる。 この学会大会間に、アナハイムで、シャタンとリフトンらとスピッツァーが短時間会見。 スピッツァーが、他の精神科医のヴェトナム戦争の退役軍人の研究を指摘し、それらの中のヴェトナム戦争の退役軍人問題についての診断に関して特段の区分を設ける必要がないとの主張が誤りだということを証明することを要求。 ⇒シャタン、ネフ、ヘイリー、リフトンは、スピッツァーの会談後、『ヴェトナム戦争の退役軍人のための作業グループ』を結成。上述の主張の反証を行うようになる。 『ヴェトナム戦争の退役軍人のための作業グループ』 「後戦闘障害」という診断カテゴリーを立案。体系的に証拠を収集。 シャタンの友人、ウィリアム・ニーダーランドとヘンリー・クリスタルがイェシーヴァ大学で戦争の被害に関する会議を組織。 強制収容所からの生還者に焦点を合わせた調査を実施。 シャタン、アーチボルト、タッデンハイムらは、前から、収容所からの生存者と戦闘に携わった退役軍人の再適応プロセスに類似点があることに注目。 ニーダーランドとクリスタルは、作業グループに参加。 作業グループは診断カテゴリーをより一般的な現象についてのものとして考察。 後戦闘障害は、そのカテゴリーに含まれる一例にすぎないと判断。 8 反応性障害委員会――心的外傷後ストレス障害 pp82-86 1975年夏、『ヴェトナム戦争の退役軍人のための作業グループ』は、ニューヨークのコロンビア長老教会病院でスピッツァーと会食。 グループの考えとデータ収集の試みを売り込む。 ⇒ スピッツァーはなおも挙証責任を強調。しかし、反応性障害委員会という公式の委員会を選任し、調査を進めさせ、DSM-Vの特別委員会へ報告することを約束。 反応性障害委員会 スピッツァー、精神科医のライマン・ウィニー、ナンシー・アンドリアセンのDSM-Vの特別委員3人が代表として構成。 委員長はアンドリアセン。スピッツァーは、アンドリアセンとリフトン、シャタン、スミスの三人とが診断の正当化と発展を進める作業をするよう指示。 ⇒ この精神医学会の委員会によって、作業グループはDSM-Vの執筆に正式に参加することが可能になった。 作業グループの3人が、証拠を提出し、特別委員3人を納得させるというのが、委員会の分業の目的。 スミスはアンドリアセンをキーマンとして照準。 もともとの作業グループは、反応性障害委員会に働きかける媒介の組織として、絶えず拡大。 スミスは、ニューヨークのルーズヴェルト病院の精神科医長のハーレー・シャンズと会談。 二人は労働災害の被害者と収容所からの生還者や戦闘に携わった退役軍人のそれと類似していると、結論づけた。 同様に、作業グループは、ストレスに関する心理学的な調査研究(Horowitz 1976)の最終段階にあった、カリフォルニア大学サンフランシスコ校のマージ・ホロウィッツと書簡を交わす。 ⇒ シャンズとホロウィッツが作業グループに参加。 作業グループは、それ以外の大災害による犠牲者に関する文献に目を通し、災害の各領域の専門家から援助を引き出した。 ⇒ 広い範囲にわたる研究者や臨床医と接触。ここからさらなる証拠や激励、支持を得る。 1976年3月、アトランタでアメリカ予防精神医学会の年次大会が開催。作業グループが戦闘による障害のワークショップを準備。 アンドリアセンをセッションに招き、新しい診断カテゴリーに関するデータを整理。 このデータは、ヴェトナム戦争の退役軍人のケース・ヒストリーからのもの。 アンドリアセンを説得するための他の証拠も用意。 アンドリアセンのやけどの犠牲者の治療に関する経験について話し合い、その患者の症状を退役軍人のストレス反応に照らし合わせて考察。 ⇒ それにより、アンドリアセンが同盟者になる。 1977年、作業グループが収集したヴェトナム戦争退役軍人のケース・ヒストリーが700件を超える。 作業グループはシャタンとヘイリーとスミスは、立場を示す論文を執筆し、DSM-Vのための自分達の勧告をコード化して提示。(Shatan et al. 1976) 「破局的ストレス障害(CSD)」という見出し語に、急性(ACSD)、慢性(CCSD)、遅延性(DCSD)という表示をつけたものを要求。 破局的ストレス障害の唯一の重要な要因として、心的外傷を引き起こす出来事と主張し、その症候、経過、治療は原因や障害の始まりによって異なると述べた。 その論文には破局的ストレス障害のサブカテゴリーに社会的災害、後戦闘ストレス反応(PCSR)についてのセッションも記述。 1977年5月に、トロントでのアメリカ精神医学会の年次大会で、この提案を公にするためのパネルディスカッションを開く。 ワシントン大学のセントルイス校の研究者達から反対意見が提出。 現在ある標準的な診断カテゴリーで、退役軍人の症候を十分にカヴァーできるという反論 ⇒ アメリカ精神医学会の反応性障害委員会のメンバーであること、十分な証拠、予行練習された発表、十分に組織化された研究活動、など負ける要素がなかった。 1978年1月、スピッツァーが反応性障害委員会で作業グループの研究成果を発表させるためにメンバーを召還。 リフトン、スミス、シャタンはスピッツァー、アンドリアセン、ウィニーとの会合で証拠を提示。 リフトンらは自らの調査を要約し、破局的ストレス障害という見出しをリストに加えることを主張。 戦闘地域の被害者と、「人為的な」災害で心的外傷を受けた人たちとの類似点を提示し、強調。 自然災害の被害者にも類似点があることを指摘。 ⇒ 会合は成功。 その月の終わりに、スピッツァー、アンドリアセン、ウィニーは委員会決定の最終草案を公表。 「心的外傷後ストレス障害」というレッテルのもとでの診断を推奨。 作業グループがわの心的外傷後ストレス症候群の記述は人災と自然災害の区別を強調していないが、その他の点では作業グループが準備した診断の案を踏襲。 9 討論 pp86-90 精神科医と退役軍人を中核とする人々が意識的かつ計画的に、その掲載を目指して何年も働きかけた結果として、心的外傷後ストレス障害がDSM-Vに記載されている。 「むしろ、心的外傷後ストレス障害についての物語を語ることで、私は、客観的現実(このケースで言えば、戦争の恐怖の認識、心的外傷後ストレス障害の臨床事例として治療可能な人々、患者保険適用を受ける資格等々)を作り出すために使われるかの詳細な理解に貢献したつもりである。新たに心的外傷後ストレス障害の臨床的診断が行われるたびに、新たに正当な医療保険の請求が行われるたびに、新たにこの障害について語られるたびに、その現実、その客観性、それが「まさにそこにある」ということが再確認される。」([87]) UP:20070314 REV:0411 ◇構築主義 ◇身体×世界:関連書籍 ◇BOOK |