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『社会空間の人類学』

西井 凉子・田辺 繁治 編 200603 『社会空間の人類学』,世界思想社,454p.


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■西井 凉子・田辺 繁治 編 200603 『社会空間の人類学』,世界思想社,454p. ISBN-10: 4790711625 ISBN-13: 978-4790711629 \3990 [amazon][kinokuniya]

■内容

内容(「BOOK」データベースより)

人間の生のアクチュアリティへ接近する。人びとの相互行為や権力作用が繰り広げられる多様な「社会空間」――その日常的実践の現場からモダニティにおける身体、モノ、主体、他者の関係性を鮮やかに描き出す。

内容(「MARC」データベースより)

人びとの相互行為や権力作用が繰り広げられる多様な「社会空間」。その日常的実践の現場から、モダニティにおける身体、モノ、主体、他者の関係性を鮮やかに描き出す。

■目次

■引用

「社会空間の概念」

はじめに―自然空間と社会空間

自然的生命体であるヒトを特殊人間存在に変換するのは、人間自身の行為であるから、この行為こそが自然的空間性ではない、時間化した特殊人間的空間性、すなわち社会的・歴史的空間を産出するというべきである。したがって、社会空間の定義は、人間たちの社会的行為または相互行為に帰着する(p.35)。

人間的行為

人間と動物の差異について

人間の行為は、現実的である。「現実的」というのは、所与の現実を否定するとき、所与の現実性を同時に引き受ける (p. 37)。

行為は常に自己を意識する行為である (p. 38)。

自然の中の病気としての人間

自分の内なる動物性を否定するという異常なことを成し遂げながら生き延びるのが人間という生き物であるとしたら、この生き物は死を抱えながら、死を食って生きているとしか言いようがない (pp. 40-41)。

空虚な無または夜としての人間

自然界のなかで例外的に自然の連続性を破る特殊な存在が、人間としての純粋無あるいは夜である。この夜から現実的世界が、結局は人間の歴史的世界が、人間の根源的欲望の展開として、闘争と労働として、政治と経済として発展する (p. 42)。

虚栄心とみせかけ

自己の価値と尊厳を、自分が自立的な人間「であること」を自分にも他人にも証明するためには、死の恐怖を恐れないという勇気と気概を、つまりは純粋な威信を、他人に向けて誇示しなくてはならない。〜中略〜虚栄心は、たとえ自分が現実に死ぬことがなく、ひそかに生き延びを期待しているとしても、表面ではそれを恐れない勇気の心映えを見せることにある。だから虚栄心は、見せ掛けの要素を必ず含むのである (pp. 42-43)。

そして根本的に、人間たちの日常的「社交生活」(世間的なつきあい)は、ほぼ虚栄心の束であり、またそれ以外ではない。〜中略〜なぜなら、どの領域でも、人は他人から現にそうである以上の価値を評価してもらうことを激烈に願望しているからである (p. 43)。

社会関係または、相互行為は、現実には政治であり経済である。こうした領域が物理的空間を土台にして、その上に立ち上がってくるためには、絵家印に自己同一的な無限の自然のなかに分割線がひかれるからである。人間の欲望とはこの原初の分割線であった (p. 45)。

おわりに

本稿は、相互行為を成立させる要素、あるいは相互の構成契機を、人間の根源的な欲望のなかに見出そうとしてきたが、この欲望は社会的人間に関するかぎりでは自然的欲望から峻別されなくてはならない (p. 46)。

「ケアの社会空間」――北タイにおけるHIV感染者コミュニティ

はじめに

社会空間そのものだけでなく、社会空間の「統治」を問題とする場合、保健医療政策は近代国家の統治における重要な領域として現れる。〜中略〜この章で私は、一九八〇年代末にはじまる北タイのHIV感染爆発という危機のなかで、感染者やエイズ患者たちがいかに国家のエイズ対策に関わる統治の対象となり、また逆に統治の権力作用に対していかに彼らが自律した道を探求していったかを考えてみたい(p.373)。

保健医療をめぐる統治性

保健医療プログラムにおいて強調されるのは、コミュニティへの積極的な参加であるが、さらに注目すべきことは、古いコミュニティ的枠組みと類似した義務と責任を遂行することが要請されることである。しかし他方で、保健医療改革プログラム自体はあくまで個人を対象としながら自己責任に基づく健康管理、リスク管理を目指している。そこにはコミュニティ的な健康資源の追及と個人的な自己責任による健康の追求という、一見して矛盾する志向が共存しているように思える(p.376)。

自助グループの社会空間―ネットワークからコミュニティへ

自助グループはそれぞれのニーズや組織上の特徴をもつコミュニティであり、新たに構築された感染者・患者たちの治療やケアをもとに追及する社会関係と、そこに漸次的に形成される慣習や価値評価の傾向性を共有する社会空間である。

「コミュニティ・ケア」の出現

感染者・患者たちがこうした日常的な生活環境を確保していること自体は、かならずしもそこに公共空間が存在することを意味しない。たしかに彼らのコミュニティは、労働、治療、ケア、食養生などすべての活動を通して親密空間として構築される。しかし同時に〜中略〜そうした活動が拡大していることこそが公共性への参与の軌跡にほかならないのであり、その起点となっているのがコミュニティであろう (p. 385)。

ハビトゥスの改変と下からの統治性

「コミュニティ・ケア」における良き生の追求は、近代医療による治療行為よりも日常生活における養生に重点がおかれている。ここでいう「養生」とは、近代医療による治療行為とは違って、HIVに対する心身の抵抗力を強め、あるいはエイズ関連症状などの発症を抑えるためにとる技法の総体である (p. 386)。

彼らのいうハビトゥスは、苦悩と苦痛のなかで排除と差別に直面し、偶然の出会いを契機として集まった人びとが、彼らの経験の延長線上に試行錯誤しながらに生み出した慣習である (p. 386)。

自助グループのなかで醸成される親密性は、具体的な感染者たちそれぞれが痛み、悲しみ、苦悶の感覚に共感し共有するような身体と身体の「あいだ」に成立する。それは個人から独立し、個人とはちがった行為主体、「あいだ」そのものがもつ主観性/主体性であり、木村敏が「私的間主観性」と呼んだものに相当するであろう (p. 387)。

個々人の発話でありながら共通体験であるようなこれらの知識は標準化されることなく、特異性をもったままネットワークを構成するコミュニティのあいだに流通していく。

感染者や患者たちのそうした自己統治は、〜中略〜ネオリベラルな統治性の対極に位置するいわば下からの統治性と言ってよいだろう (p. 389)。

おわりに

ネオリベラルな上からの統治性が押しすすめるリスク因子の排除と自己責任による自己管理に対して、間主観的に結合する主体のケア・配慮関係と活動を基礎とするコミュニティの可能性がある。それは自己へのケアを中心としながら構築されるフーコー的な抵抗点とともに注目しなければならないだろう (p. 390)。

*作成:中田喜一
UP: 20090903
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