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倉本 智明 20060301 理論社,161p. ■倉本 智明 20060301 『だれか、ふつうを教えてくれ!』,理論社,よりみちパン!セ17,161p. ISBN-10: 465207817X ISBN-13: 97846-52078174 1260 [amazon] ■出版社/著者からの内容紹介 ふつうっぽく見られたい。 でも、なにがふつうか、わからない。 目で見る。 自分の足で歩く。 それってあたりまえ、と言われる社会で、ぼくたちが気づかないでいることはなんだろう。 いつか出会う誰かを思いうかべながら、「障害」をとおして、常識やルールのなりたちをゆっくり、とことん考えるための手引き。 ■目次 第1章 ふわふわとしたことばが隠してしまうもの 第2章 誰にとっての「ふつう」なの? 第3章 どっちつかずである生きにくさ 第4章 「わからない」からはじめる 第5章 簡単であり、難しくもあること ■紹介・引用 第1章 ふわふわしたことばが隠してしまうもの ・小学校も高学年になり遊びの変化が訪れたことをきっかけに、目が見えにくいという特性を持つ筆者の前に、その障害がどっしりと重たい存在として意識されるようになった。かつては、目が見えにくいという特性をマイナスのものとして捉えることもなく、さほど意識せずに過ごすことができていた。それが、「野球」という遊びを通して、人と人との交わり方のかたちに変化が現れ、それらの意識をもたらす結果となった。友人たちは、筆者を交えて野球で遊べるようにと変則ルールを考案してくれた。そのことに関して友人への感謝の気持ちが述べられている。しかし、別の次元の話として、ゲームに参加していることへの充実感を味わうことはできなかった。それは、サポートをしてくれた友人側にもいえることであった。「参加する」とは「ただそこにいる」ということと同義ではなく、真の意味での「参加」とは何かを提言する。また、その意味での「参加」が誰にでも保障されることが「共生」の実現に繋がると述べる。「共生」という言葉は障害者と健常者が"何かをいっしょにする"時によく用いられることがしばしばあるが、その内実を問うことなく安易に使われている傾向がある点は問題であると指摘する。そこに隠されている現実から目を逸らせてしまうという危惧を伴いやすいからである。本当の意味での「共生」とは何か、目の前の現実にあてはまるのか否かを冷静な思考をもって判断することの必要性を主張している。 第2章 誰にとっての「ふつう」なの? ・筆者は今までに二度、駅のプラットホームから線路に落ちた経験を持つ。地下鉄のホームで初めて落ちた時は腰骨にひびが入る怪我を負ったが入院までには至らなかった。落ちてみてはじめてホームが意外に高かったことを知る。このような話題を、転落経験のある友人と冗談まじりに話すこともある。しかし、その裏には過剰な緊張感や恐怖心を払拭したり、嫌な経験について距離をおいて眺めるために働く心理的な作用がある。それほどまでに、ホームに落ちるということはショックな経験であると言う。視覚障害者用の誘導ブロックが全国的に普及するようになった以後の調査でも、全盲者やほとんど見えない人達の、約4人に1人はホームからの転落事故を経験しているとの結果がでている。また、別の調査では3人に2人とも言われている。このような転落率は異常である。これは、視覚障害者の不注意として片付けるべき問題ではない。高い割合で事故が起こっているという事実は、個人の責任に帰すことのできない問題がそこにあることを示唆している。つまり、個人の努力では回避しようのないリスクがプラットホームに待ち受けているということである。こうした状況が問題となり、視覚障害者たちの声とともに様々な対応が取り組み始められるようになった。しかし、根本のところで解せないところがあると筆者は言う。昔から視覚障害者はいたにもかかわらず、どうしてそのような取り組みが以前からなされなかったのか?という点である。それは障害のない人たちだけの利用を想定して駅の施設が作られていたに他ならない事実があったと筆者は指摘する。エレベーターや誘導ブロックの必要性は、"足が不自由である""目に障害がある"という問題から生じる、つまりは"ふつう"でないからだにこそ原因があるという理論で語られる。しかし、何が「ふつう」であり、誰が「健常者」であるかは相対的に決まるものである。「ふつう」の定義について考え直される必要性を強調するとともに、「ふつう」「ふつうでない」といった見方がなくなる時が真の意味でのバリアフリーの浸透に繋がると述べている。 第3章 どっちつかずである生きにくさ ・重い障害をもっている人たちを「重度障害者」障害の程度が軽い人たちを「軽度障害者」という呼び方をする。しかし、この重度と軽度の境目は必ずしも明確であるとはいえない。世間では、障害が軽度である人たちの困難の理解は比較的乏しい。むしろ、重度の人に比べれば…と思い込んでしまう傾向にある。筆者は今日までの人生の中で、軽度障害者と重度障害者の両方を経験してきている。その経験からも、軽度であるがゆえに周囲に理解されなかったり誤解されたりする困難さを経験してきたと述べている。視覚障害者というと、大半の人は全盲の人を思い浮かべる。しかし、8割は弱視であり、知られていないということ自体が、人間関係など色々な場面において厄介な事態を引き起こしていることを体験談から明らかにしている。また、軽度障害者には、存在を理解されにくいことや実態を把握されにくいことから生じる社会的対応の立ち後れがあり、その困難さに拍車をかけていると指摘している。次に、障害者が自分の障害を隠したがる傾向がある点に関して述べられている。特に軽度の人に多くみられる傾向だという。その背景の1つは、自分の障害に対して否定的な感情を抱いているためだと考えられる。しかしもう一方では、実利的な理由から障害隠しをしているという2つの動機があげられる。後者の場合は、周囲の好奇の目や同情の目、障害があるからといって先入観をもって不利に扱われることがなければ、隠すという面倒なことはしなくてすむのである。最後に、障害を隠すことについて筆者の思い出が書かれている。そこには、ふつうに演じようとする軽度者の心理と落とし穴が述べられている。健常者のように振舞うことは周囲からの無言の要求がある。それによって軽度者のしんどさは増幅され悪循環から抜け出しにくくなるのである。 第4章 「わからない」からはじめる ・同じように障害がある人でも、人によってできることとできないことがある。一人ひとりが何に困り、どのようなことをしんどく感じているかによって当然求められる対応や必要とされるサポートも様々であることは認識されなければならないがその点は見落とされやすい。視覚障害者に限った話ではなく、ひとくちに重度・軽度といってもそのなかにはいろいろな人がいることは、すべての障害について言えることである。ところが、世間の大半の人は、(健常者だけではなく障害者自身も)そのことに思いが至らない。聴覚障害者なら手話、足に障害のある人だったら車いす、という具合に安易なイメージと結びつけられて、単純化され理解されることが多々ある。困難さや大変さは人それぞれで中身が違っているが、だからといってすべてをリストアップしていくのは厄介である。それらを基に考えると、最近よく言われている「障害者の理解」も実は理解できることには限度があることが分かってくる。障害者であろうが、健常者であろうが人間を簡単に理解することは、不可能に近い。大切なことは、"自分は相手のことをわかっていない"ということを知ることである。それが前提にあることで相手の言葉にしっかり耳を傾けることができ、理解に繋がっていく。しかし、中にはわかった気になっている人が割りと多くいる。それに関して筆者は、以前図書館の対面読書のサービスを利用していた時のエピソードを挙げている。サポートをする側は基本的な姿勢や知識・技術について正しく理解していればそれでよいというわけではない。援助者側による独りよがりな押しつけが行われる危険性は常にある。知識はあくまでも参考程度に留めておいて、向き合うべき目の前の人を十分に理解することが大切であると述べる。 第5章 簡単であり、難しくもあること ・人と接する際に大事なのは、誰にでもあてはまるとは限らない事前の知識をため込むことではなく、目の前にいるその人をしっかり見据えることである。事前の知識が現実を解釈するためのヒントになることはあるだろう。しかしそれは、あくまで参考程度に利用するといった柔軟な姿勢こそが肝要だと言う。また、障害をもっているからといって、いつでもその人達が困っているわけではないということも理解しておく必要がある。健常者の思い込みで突然サポートに入るのではなく、先ずは声をかけるなどして尋ねることからはじめるのが賢明である。筆者は親しい友人を例に挙げ、始めからそのような関係があったのではなく、お互いの「わからない」ところを言葉や経験から「わかる」ことへ変えていったのであって、そのプロセスは直線的なものではなかったと述べる。失敗を繰り返しながらも信頼関係を築きあげていくことは、障害をもった人とつきあっていくことと通じるものがあり、とりわけ難しいものでも特別なものでもないと語る。 最後に筆者は、多くの人とうまくやっていくためには、時には自分を抑えることが必要だと言っている。しかし、それと自分を完全に殺してしまうこととは別問題であると指摘する。人間関係であれば時に自分を抑えて相手との間に妥協点を模索することが求められ、バリアフリーのための設備の設置であれば、お金の負担というかたちをとる。いずれにしても、「共生」は「タダ」ではすまない、ということである。共生が現実のものとなるには、会ったことのない誰かのためにも想像力を働かせて積極的に負担を行える人たちがどれだけいるかに左右されるだろうと締めくくっている。 *作成:溝部恵(立命館大学大学院応用人間科学研究科対人援助学領域) UP:20070810 ◇BOOK ◇障害学 ◇視覚障害 |