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『「心」はからだの外にある――「エコロジカルな 私」の哲学』

河野 哲也 20060225 日本放送出版協会,269p.


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■河野 哲也 20060225 『「心」はからだの外にある――「エコロジカルな私」の哲学』,日本放送出版協会,269p. ISBN-10: 4140910534 ISBN-13: 978-4140910535 1071 [amazon]

■内容(「BOOK」データベースより)
「心」とは、自己の内に閉ざされたプライベートな世界なのか?環境と影響しあうエコロジカルな「心」という清新な視点から、他者や社会と生き生きと交流す る自己のありかたを提示。行動や社会現象の原因を人の内面に求め、不毛な「自分探し」を煽る心理主義的発想を、身体性や他者の軽視につながるものとして批 判しながら、「個性」「性格」「内面」など自己をめぐる諸問題に鋭く迫る。社会(環境)を個々人のニーズに合わせて改善し、快適な生活を主体的に形成して ゆく展望を示す、自己論の革命。

内容(「MARC」データベースより)
「心」とは、自己の内に閉ざされたプライベートな世界なのか? 環境と影響しあうエコロジカルな「心」という視点から、他者や社会と生き生きと交流する自己のありかたを提示。

■著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
河野 哲也
1963年東京生まれ。慶應義塾大学大学院文学研究科博士課程修了。専攻は哲学。日本学術振興会特別研究員(国立特殊教育総合研究所)、防衛大学校助教授 などを経て、玉川大学文学部助教授(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

■目次

序論 心理主義の罠
第1章 環境と共にある「心」―ギブソンの知覚論から
第2章 なぜ「自分探し」に失敗するのか―「性格」という自縛
第3章 行動すなわち心―「内面」へのエコロジカル・アプローチ
第4章 なぜ私はかけがえがないのか―「個性」を考える
第5章 世界は私の表象だろうか―身体図式と所有
終章 身体と環境のデザイン―「真の自分探し」に向けて

■引用(安部彰

2 ノーマライズされた社会へ―「障害=個性論」検討
 個性という言葉には、社会的に有用な特長という意味が含まれていることを私たちは見てきた。そう考えたときに、特別支援教育や福祉の分野でときどき耳に する「障害は個性である」という表現は興味深いものに思えるだろう(ここでは、「障害は個性である」は、「あらゆる障害は個性であるという全称命題として 扱うことにする。「私の障害は個性である」は、検討したり反論したりする必要のない個人的な宣言であるから、ここでの考察の対象にはならない」)。この表 現はすでに70年代から使いはじめられているが、障害は、普通、特長とは見なされていない。通常の日本語の語感からしても、障害を「個性」と呼ぶことはや や奇異だからである。しかし、この標語はあえて逆説的な言葉を使用することで、人々の障害に関する見方を変えようとしている。(河野 2006: 166)

 もしも障害を個性と見なすことで、偏見や差別的待遇に変化をもたらすことができ、同時に障害をもった人が積極的な気持ちで人生を歩めるとするなら、この 表現を批判する理由はまったくない。しかし問題は、こうした表現がせいぜい障害をもった人に対する眺め方を(しかも不正確に)変化させるだけであり、障害 をもった人が被っている不利益を改善するにはおそらく何の役にも立たない点にある。/あらゆる障害を、「個々人をそれぞれ特長づけている社会的に評価され る性格」という意味での「個性」として捉えることは妥当ではない。以下、障害=個性論に反対する理由を述べる。/まず、個性は、何らかのかたちの身体的・ 心的なふるまいの特性のことを指しているはずである。しかしながら、いくつかの障害はあまりに重く、生活を送るうえでのもっとも基本的な能力を奪うものさ えある。こうしたタイプの障害はふるまいや活動上の特性とは言えないし、そもそも生命に関わる危惧もある以上、「個性」などと呼べる類いのものではない。 私たちは障害を特定の人に降りかかる困難と考えがちであるが、私たちの多くは障害者としてその生涯を終えることになるだろう。私が障害=個性論を批判する ひとつの理由は、この説が疾病や老化に起因する障害をまったく考慮に入れていない点にある。障害をもった人は若くて健康であるとは限らない。/第二に、個 性はある程度一定で持続性のある性質(たとえば「粘り強い性格」「計算に長けている」など)と見なされているが、いまあげた疾病や老化に障害が起因する場 合には、症状は変化する。逆に治療やリハビリテーション、特殊教育によって何らかの改善の見こみがある場合には、障害を個性と呼ぶことは誤りであるばかり でなく問題がある。個性であるなら治療やリハビリなど必要ないはずだからである。/第三に、障害を、「前向きに受け入れる」と言うが、障害を個性と見なす かどうかは、本人の態度によって決まる。たとえば、同じく高機能自閉症やアスペルガー症候群と診断される場合でも、その障害を自分の人格に関わる独自の特 徴として捉える人もいれば(T・グランディン,1997,『自閉症の才能開発』学習研究社、W・ローソン,2001,『私の障害、私の個性』花風社)、人 格とは無関係な単なる疾患として扱う人(D・ウィリアムズ,1996,『こころという名の贈り物』新潮社)もいる。あらゆる障害を個性と呼ぶことは、本人 の障害の捉え方の点から考えても適切ではない。/たしかに、あるタイプの障害をもった人が、そうした障害をもたない人とは異なった仕方で生を営み、それが ひとつの生命ないし生活の型(スタイル)として独自性を示している場合がある。……これらのこと〔手話という独自の表現様式を備えたメディアや視覚障害を えてからのクロード・モネの画風〕が示しているのは、障害をもつことを単純に健康状態の欠損と考えてはならず、人間は、ある特定の障害をもつという条件の もとで、そしてその条件のもとでしかありえないような、独特の生命の型、運動や動作の型、表現の型を生み出すことがあるということである。私は、この意味 において、障害が条件となって独自ある生活が生み出されることを否定しない。それどころか、しばしばそれらを目撃してきたつもりである。にもかかわらず、 そうした独自性としての個性を生み出すのは、障害そのものではなく、その障害を自分のあり方として取り込んでしまう人間の全体的な生命力・生活力・ 創造力なのである。そして、ある条件のもとで、そしてその条件のもとでしかありえなかったであろう生命のスタイルを創造するということは、健常者 においても同じなのである。したがって、障害という特性そのものを個性と呼ぶことはやはり適切ではない。(河野 2006: 168-171)


 作成:橋口 昌治立命館大学大学院先端総合 学術研究科

UP:20071105
哲学/政治哲学(political philosophy)/倫理学
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