HOME > BOOK >

『うたまーい――昭和沖縄歌謡を語る』

知名 定男 20060224 岩波書店,271p.

last update:20120407

このHP経由で購入すると寄付されます

■知名 定男 20060224 『うたまーい――昭和沖縄歌謡を語る』,岩波書店,271p.
ISBN-10: 4000222031 ISBN-13: 978-4000222037 \2,415 [amazon][kinokuniya]

■内容
沖縄歌謡の第一人者、知名定男の自伝。戦後、父と共に沖縄に密航し、天才少年としてデビューして以来、多くのヒット曲を出し、島唄をさまざまに発展させた功績は大きい。多くのミュージシャンに影響を与え、近年はネーネーズのプロデューサーとして活躍するなど、現代沖縄大衆音楽の重鎮が語る沖縄音楽の昭和史。知名定男にしか語れない逸話多数。(「BOOK」データベースより)


■目次

まえがき
第一章 大阪時代 琉球民謡の曙
第二章 セイ小と天才少年 民謡興隆の道
第三章 第一期民謡黄金時代の光と影 天才少年からの脱皮
第四章 第二期民謡黄金時代への胎動 宮古・八重山・マルテル
第五章 第二期民謡黄金時代 若手リーダーとしての自覚
第六章 本土デビューと民謡界 知名定男の栄光と挫折
第七章 民謡協会の変遷 組織と人間関係
第八章 プロデューサーの試練 借金地獄からの復活
第九章 第三期民謡(島唄)黄金時代 沖縄音楽の行く先
あとがき
年表


■引用


■第一章 大阪時代 琉球民謡の曙
・ウチナーンチュ差別の経験(24−)
「大阪ではウチナーグチはある程度聞けました。20パーセントか30パーセントくらいは分かりました。だから、芝居のセリフはそのままを覚えるのです。普段は使ったこともないものだから。使ったら差別されますから。沖縄では覚えるのはもう早かった。」(27)

・NHKのど自慢
「NHKののど自慢の沖縄大会というのがありまして、一回目の代表に選ばれたのは山内昌徳さんです。その時には、沖縄代表を送るというシステムがなかったので、オブザーバーで参加したんです。NHKのど自慢の全国大会でも選手としては出場していない。今年は沖縄県からオブザーバーで特別に参加いたしました、という形で、「なーくにー」を唄いました。それで次の年、山内さん、こんどは勝負に出たんです。沖縄予選、第一回目の優勝者はまた山内さんです。その勝負で一番になってまた行ってますよ。連続二回行ってる。ところが全国大会では番にもかからなかった。審査員、訳が分からんのですよ。だからあそこに行って入賞した人は、後にも先にも宮良康正さんだけですね。宮良さんは全国優勝しました。チャンピオンになった。「とぅばりゃーまー」でチャンピオンになりました。
 沖縄大会で三回目に優勝したのが宮里恵子さん。四回目が「なーしび節」で瀬良垣苗子さんです。その時はまだ「うんじゅが情け」は出来てません。
 日本テレビも民謡の祭典みたいなものをやりましたね。あれでリッキ(中野律紀)も日本一になってるし、築地俊三さんもあれで日本一になってますよ。[…]僕はね、のど自慢向きの歌ってあると思いますよ。」(56−57)
cf 唄者・宮良康正さんのプロフィールhttp://tb.jcc-okinawa.net/miyarakousei/
NHK 沖縄放送局 70年のあゆみhttp://www.nhk.or.jp/okinawa/fk40/history.html
沖縄市「民謡が息づく音楽のまち」 http://www.city.okinawa.okinawa.jp/site/view/contview.jsp?cateid=45&id=4452&page=3


■第三章 第一期民謡黄金時代の光と影 天才少年からの脱皮
「人気のあった唄サーはほとんどマルフクの生え抜きなんですよ。定繁はマルタカレコードだから。大阪ではもともとマルフクでした。帰ってきて恒勇さんがいなかったものですからマルタカに入ったと思うんです。そういう時に恒勇さんが帰って来て、またマルフクを起こしました。それで、普久原朝喜さんが帰って来た時に、帰郷記念レコードやったんです。それが17歳でした。」(81)

「その頃から、民謡ベストテンという番組がRBCであって、リクエストの一番多かったのが順位を揚[ママ]げていくんです。そういうラジオ番組があって、何週かは僕がトップになりました。「おぼろ月」でベストワン。その頃から、テレビの民謡紅白も始まり出して、僕は一回目から出てます。」(84)
●RBC民謡ベストテン、テレビ民謡紅白。

・コザ一派とルネッサンス(95−): 照屋林助、山里勇吉、与那覇朝大、普久原恒勇、ビセカツ、三田信一・・・


■第四章 第二期民謡黄金時代への胎動 宮古・八重山・マルテル
・マルタカ=高良時計店: ビクターの特約店。沖縄の代理店。当時のビクターには森進一などの演歌全盛期。
・沖縄コロンビアの対抗: 照屋楽器、普久原楽器、照屋時計店の三社で結成。コロンビアには美空ひばり、都はるみ、こまどり姉妹など。
・ゴモンレコード発足(照屋時計店の照屋三郎氏)
 喜納昌永と知名定男が東京のコロンビアスタジオで約200曲をレコーディング。

「僕が言う黄金時代というのは、ラジオとかレコードとか全部含めて島唄がハイになったということではなくて、それだけの交流があったという、質の高い唄があったということです。そこまでが一期。だから、昭和30年代から40年代の中頃までですかね。そうこうしてくるうちに、二期黄金時代に突入していく。二期黄金時代は見えました。一期黄金時代に感じられました。これまた違う波が来るなーという。それが民謡クラブ全盛期です。これが二期黄金時代。」(121−122)
●第1期黄金時代: 昭和30〜40年代中頃
●第2期黄金時代: 民謡クラブ全盛期


■第五章 第二期民謡黄金時代 若手リーダーとしての自覚
「民謡クラブを自分達で最初に経営したのは喜納昌永さん。ミカドという店です。でも最初にクラブで民謡ショーをしたのは普久原恒勇さんです。恒勇さんと知名定男と当山達子。三人頼まれて行きました。桜坂ですね。桜坂はクラブばっかりでしたから。頼まれて三日くらい唄いました。」(138)
●民謡クラブでのライブのスタート

「海洋博は75年ですね。その前後に琉球フェスティバルがありました。「今、沖縄は何もありません。海洋博のお陰で海は真っ赤になってます。今、沖縄に行っても歌い手は一人もいません。皆ここに居るのです」。(142)

「一回目は日比谷の野音で、74年ですか。その時、4000名くらい入りました。その頃は野音が今より大きかった。今はせいぜい3000人くらい。大阪ではフェスティバルホール。3000人のキャパシティー、お客さん入らんかったですね。下はほとんど埋まりました。その時には普久原さんが夫婦で出ました。男性陣は一回目は嘉手苅、林助、金城睦松、山里勇吉、国吉源次、哲ちゃん、林次、僕、それくらいですかね。林次はほら、もうオヤジさん(嘉手苅林昌)について伴奏もせんといかんかったから。睦松タンメーも一回目だったと思います。二回目の時は来てないです。あの人、「にっぽんのみなさん」って言ったんですよ、
 睦松タンメー。ヤマトゥグチで「世界中からお集まりのにっぽんのみなさん」。(142−143)

「翌年二回目の時に日比谷と京都の丸[ママ]山公園でやりました。大阪はなんば花月。京都では200人くらいしか入ってない。4月1日です、覚えてますよ。東京は竹中一派がものすごく呼び掛けをしたみたいです。あの人、相当な勢力を持っていましたから。竹中一派っていうのは過激派とか、核[ママ]マル派とか。その辺に相当影響力を持ってましたから。
 だけど僕はえらいと思いますよ。まあ今時の沖縄が日本でこれだけ注目されるようになったのは、発端は竹中労さんですよ。僕はそう思います。竹中さんはジャーナリストであったり、自分ではルポ・ライターと言ったりね。民謡に関してはもうただ一途に沖縄の芸に惚れてたみたいな感じでした。
 竹中さんが最初に琉フェスをやった時に、たいてい最後はカチャーシーするでしょう。ものすごく後のほうから出て来て最後まで踊り狂ってたおばさんがいました。後で聞いた話しですけど、この人、医者の奥さんらしいんですよ。それで旦那さんはヤマトゥンチュで。東京で偶々そこに嫁いで周囲に自分はウチナーンチュという事をひた隠しにしている訳です。カチャーシーになった時に、踊りたくてたまらん訳。でも自分がウチナーンチュというのがばれるという、おそらく知り合いは誰もおらんよ。踊りたくてたまらんけどもう、泣きながら我慢してたって。我慢してた。「唐船どーい」になった時にもう我慢が出来なくなって、もうどうでもいい、ダーっと走って来てもう我を忘れたみたいに踊った。そんな話しを聞きました。
 まだウチナーンチュというのを、ある種、ちょっと表に出せない、そういうウチナーンチュ差別というのがあったんですね、その人にとってはね。もうどうなってもいいという感じで。その話しを後で聞いた時に涙が出ましたよ。そのおばさんらしい人、僕も記憶あるから、見てるから、何かやたら踊りまくってるから、最後のほうに来て、なかなか止めん訳ですよ。いや、もう血が騒ぐ、肉は湧く、もう押さえようがない訳。おそらくあそこで全名誉をかけて出て行ったはずですよ。気持ちは、今の幸せをもう全部捨ててもいいという。」(144−145)
●琉球フェスティバルの本土在住ウチナーンチュへの影響。「今の幸せ」を捨てる身振りと主体性の解放と獲得。

「また直彦さんがね、「定男が皇居に向かって歌います、南洋小唄」、そんな事言う訳ですよ。何で僕、皇居に向かって唄わなーあかんねん。あれ、どっちかと言いい[ママ]ますと、竹中労さん向きのコメントですね。」(146)

「二回目のなんば花月は満員でした。わりとウチナーンチュが入って。」(146)

「その時が二回目の琉球フェスティバルでした。興行的には赤字だったはずです。」(146)

「竹中一派から神格化されてましたから。嘉手苅林昌は連中から何をしても喜ばれる訳ですよ。何をしても。セイ小さんとしては面白くない訳さ。」(148)

「75年に琉球フェスティバルが入って、本土デビューが78年でした。その前の77年に昌吉が本土デビューしてますから、僕は一年後です。」(148)


■第六章 本土デビューと民謡界 知名定男の栄光と挫折
「だから一期黄金時代には二期黄金時代が見えた訳です。二期黄金時代というのは民謡クラブ全盛期です。昭和30年代から40年代の一期黄金時代、4、50年代の民謡クラブ、これが二期、僕はそう見てます。」(176)


■第九章 第三期民謡(島唄)黄金時代 沖縄音楽の行く先
「色んなメンバーをデビューさせた流れの中に、第二期の琉球フェスティバルもありました。僕はもう第三期黄金時代に突入したと思ってます。形は変わってきましたけど。だから二期黄金時代があって、その間に結構長いブランクがありましたね。そのような時にも相変わらず昌吉も林賢もへこたれないで頑張ってましたし、僕も単発的ではありましたが東京でソロコンサートをやってましたから。」(251)


■年表
1945年4月21日北九州にて誕生 → 大阪で育つ
1956年 夏 沖縄へ密航、「すーきかんなー」でデビュー
1958年 山内昌徳 NHKのど自慢全国大会にゲスト出演
1966年 大阪で外間宏祐に古典師事
1968年 宮古・八重山彷徨、ゴモンレコード発足
1969年 マルテル勤務
1970年 喜納昌吉「ハイサイおじさん」録音
1971年 「うんじゅが情け」発表
1972年 クラブコザで民謡ショー
1973年 極東放送民謡大賞で作曲賞
1974年 琉球フェスティバル(金城睦松、山里勇吉、国吉源次、大工哲弘、桃原愛子、普久原夫妻)
1975年 琉球フェスティバル 春(八木、北島、大城美佐子)
    琉球フェスティバル 夏(登川誠仁、糸数、知名定繁、ナビー、饒辺愛子、里国隆)
    極東放送民謡大賞で大賞
1977年 喜納昌吉 本土デビュー
1978年 「バイバイ沖縄」で本土デビュー。アルバム『赤花』
1989年 坂本龍一世界ツアー(沖縄から3名参加→ネーネーズ結成へ)
1990年 ネーネーズ結成
1995年 琉球フェスティバル 第二期


■書評・紹介


■言及



*作成:大野 光明
UP: 20120407
沖縄 竹中労  ◇「マイノリティ関連文献・資料」(主に関西) BOOK
TOP HOME (http://www.arsvi.com)