HOME > BOOK >

“What’s at Stake in “Gay” Identity ?”

Hames-Garcia, Michael, “What’s at Stake in “Gay” Identity ?,” Linda Martin Alcoff, Michael Hames-Garcia, Satya P. Mohanty, and Paula M. L. Moya, Identity Politics Reconsidered: Palgrave Macmillan. 304p.


このHP経由で購入すると寄付されます

■Hames-Garcia, Michael, 20060122, “What’s at Stake in “Gay” Identity ?,” Linda Martin Alcoff, Michael Hames-Garcia, Satya P. Mohanty, and Paula M. L. Moya, Identity Politics Reconsidered: Palgrave Macmillan. 304p. ISBN-10: 1403964467 ISBN-13: 9781403964465 [amazon] ※ g02





二つのテーゼと結論(p.78)
(1)近代西洋の同性愛の政治的意味について考えるとしたら、性的欲望や性的行動ではなく、アイデンティティの地位statusについて問うことが重要になる。
(2)欲望の地位statusを固定するアイデンティティの本質主義的理解は、(ある種の)構築主義の下で棄却される。本質主義はアイデンティティを共有する集団内の同質性samenessや統一性unityを前提にしているせいで、複層的な抑圧を説明できない。これに対して、構築主義は複層的な抑圧の文脈の中で同性愛アイデンティティを理解する。

⇒ (少なくともある文脈では)社会的に構築されたアイデンティティが示すのは、抑圧oppressionsとの関係で世界が構造化される仕方である。ゲイやレズビアンのアイデンティティの政治的な重要さは、特定の欲望や行動にあるのではなく、社会の組織化にある。さらに抑圧の複層化について考察すると、ゲイやレズビアンのアイデンティティは、ホモフォビアとの抵抗および共謀によって構築されるだけではなく、人種主義、植民地主義、資本主義との抵抗および共謀によって構築される。


構築主義/本質主義論争(pp.78-79)
□ ゲイ・レズビアン研究と本質主義/構築主義論争 = 同性愛の起源は、生まれに依拠するか/育ちに依拠するか
→ ゲイ・レズビアンのアイデンティティに関する議論は同性愛の原因論・因果論にズレていく

(背景)18世紀・19世紀のヨーロッパ・北米で同性間の性行動に対するものの見方に転換
= 刑罰や宗教言説の対象(罪を犯す能力は人間本性に内在している) → 同性間の性行動は医学や心理学及び精神分析学の言説の対象(性的衝動は個人病理に源泉をもつ)

⇒ 同性愛が文化に依存して存在しているか独立して存在しているかという議論が、20世紀にあらわれる。これが構築主義/本質主義論争の原型である。

→ 同性愛の起源・原因探しと、どのようにして、いつ、なぜ、自らを同性愛者とアイデンティファイし、また他人から同性愛者としてアイデンティファイされたのかの批判的探求を区別する。同性愛を選択する戦略的身振りにおいてさえ、同性愛の原因に対する問いは捨て去られなくてはならない。


概念区分(p.80)
□ ラジャ・ハルワニ(Raja Halwani)「セクシュアル・アイデンティティの未来の形而上学についての序説 本質主義/構築主義論争再論」

(1)構築主義は「セクシュアル・アイデンティティ」を対象にする 
= 西洋近代の同性愛は、同性same sexに性的魅力を覚えるという特質を基盤にした、パーソナリティ――非性的な行動にも影響を与える――の重要な面という意味でのアイデンティティ。これは文化的・歴史的に構築されたものである。
(2)本質主義は「性的欲望sexual desire」を対象にする
= 同性に対する性的・情緒的な関心としての同性愛は、文化・歴史を貫通して存在する。

⇒ ハルワニの視点では、「セクシュアル・アイデンティティ」の構築を、「性的欲望の本性」(性的欲望は社会的に構築されたのか本質的なのか、自然なのか文化なのか、何に由来するのか何を派生させるのか、という問い)から切り離して考えることができるようになる。

⇔ だが、この二つを二極分解させるハルワニに対して、性的欲望は常に社会的文脈、社会的役割、経験を媒介するアイデンティティによって条件付けられていると考える。その上で、ハルワニの概念区分を、同性愛のアイデンティティの構築性を言明することと、同性愛の欲望の原因を求めることとを、(不可分ではあるが思考の上で)切り離すために役立てる。
= 同性愛嫌悪の結果であると同時にそれに対する抵抗として、社会的アイデンティティが構築される。


アイデンティティの選択(pp.80-81)
選択されたアイデンティティと行動がズレる場合/例えば、男性とセックスするストレートの男性やレズビアン。彼らは性調査では「バイセクシュアル」と分類されるが、彼ら自身のアイデンティティは「ストレート」か「レズビアン」である。これらの自己意識、社会的に構築されたアイデンティティは、個人が自分の行動や欲望を分類する地図以上の何かである。また例えば、男性とも関係をもつが、性的指向性が女性に向いている女性がいて、彼女は自分を「レズビアン」だと考えている。この人のケースは、社会における異性愛主義、同性愛嫌悪、強制的異性愛heteronormativityの構造的役割を理解した上での選択である。この場合の「レズビアン」とは、異性愛中心的な男同士の絆が女同士の絆を格下げすることに抵抗するポジションであるといえる。
⇒ 「したがって、ある人が自らの意識の中でアイデンティファイする仕方は、彼女あるいは彼が抑圧の構造とどのような関係をもっているかを理解する仕方と深く関係している、と言えるのである」(p.81)


本質主義の陥落(pitfall)(pp.82-87)
アイデンティティとナショナリズム
□ 性的欲望の起源からアイデンティティを切り離す政治的な重要性
(1)「私たちはアイデンティティを本質主義者が考えるような仕方で理解できるだろうか、あるいはもっと構築主義者の線にそって理解するべきなのだろうか。」
(2)「アイデンティティはこの世界について何を教えてくれるのだろうか。」
(この節では第一の問いに答える)
常識的な(commonsense)ジェンダーのイデオロギーを補強する本質主義的アイデンティティ
≒ ナショナリズム(民族主義・国民主義)のアナロジー
≒ フェミニスト理論における二つの批判的本質主義

□ ファノン『地に呪われたる者』「民族意識の悲運(The pitfall of National Consciousness)」
ファノンは、植民地主義と闘争する非植民地人における民族主義の問題を論じている。被植民地人エリートは植民地主義の奴隷になるのではなく、また、自らの利害を実現するために民族主義を利用するのではなく、被植民地民衆の利害を実現する道具になるべきである。民族主義がもたらす統一性が反植民地闘争に利用できる、とファノンは考えた。
だが、ここでナショナリズム(民族主義)は、二つの過ちを犯している。

(1)すべての被植民地人が経験・アイデンティティ・利害を共有すると前提にしている
(2)共有される利害はエリートの利害であると前提にしている
ナショナリズムの陥落とは、現に存在している植民地化された国家の構成員に過度に同質性や統一性を想定してしまうことである。たいていは小ブルジョワの男性の特定の利害が民族国家の利害になってきた

→ 本質主義の陥落と民族主義の陥落は同型である(フェミニスト、ゲイ、レズビアンの社会運動でもこのアイデンティティの統一作用が使われている) 
= ひとつの集団の中で早急にも同質性や統一性を想定してしまうこと

□ この政治的な利用しやすさに加えて、直感や常識に働きかけて受け入れられやすいという点で、本質主義には魅力がある。J・マイケル・ベイリィ(ノースウェスタン大学心理学科主任)『女王になろうとした男 ジェンダー転換とトランスセクシャリズムの科学』
男性らしさ、女性らしさ、ゲイ、ストレートという誰もが理解していると想定される常識に、セクシャルアイデンティティの本質主義的理解が働きかける仕方の事例
・ベイリィの基本主張/性的指向性、ジェンダー・アイデンティティ、ジェンダー役割行動は、相互依存的である → 「男らしさ、女らしさは生まれながらのものであり、社会的影響の結果ではない」
⇔ ベイリィは、荒っぽい遊びを嫌うとか、人形遊びをするとか、ハイヒールを履くとか、異性愛者の少女や女性がもっている普遍的な性質ではない、特殊文化的な性質には注意を払わない。ベイリィは、同性愛欲望を本質化するのではなく、アイデンティティを本質化する。ジェンダー・アイデンティティやジェンダー役割の本質主義である。彼は、超文化的・歴史的な性的指向は、超文化的・歴史的なトランスセクシャルのアイデンティティ(transsexual identity)とリンクしていると考えた。
・「ゲイ男性は女らしい」というベイリィの調査結果 ⇔ 当然ながら、マッチョなゲイだっている → しかし、「男性らしさ」「女性らしさ」の本質的理解を捨てないせいで、ベイリィは、ゲイは「トランスセクシャル・ゲイ(transsexual gay)」であると述べるにいたる(つまり、男性の肉体に閉じ込められた女性の魂)
⇒ ベイリィの本質主義は、抑圧的イデオロギーを自然化し、欲望とアイデンティティを混同するものである。


アイデンティティと女の本質/
□ ダイアナ・ファス『本質的に語れば』
ファスの定義では、本質主義の本質とは、時間と空間を超えて存在する、アイデンティティの基盤、アイデンティティの本質主義的側面である。本質主義は誤っているが、避けがたいものであり、少なくとも政治的には有用である(戦略的本質主義)。
・主体形成/ファスは、同質性としての本質(すべての男性は男性を規定する共通要素をもっている)に、差異(すべての男は互いに異なっている)を対置している。本質は主体を構成しない、差異に対して同質性が優位化されることによって主体は構成される。
→ 主体形成においては構築主義も本質主義を避けることはできない。
⇔ 他方で、アイデンティティ・カテゴリーを虚構であるとする構築主義が想定する本質主義は、文化の作用を受けない統一感ある安定した外部が存在するという思想である。そして、このような本質・エッセンスは、男性カテゴリーを覗いても経験的に対応するものが見つからない。
⇒ すべてのアイデンティティを拒絶するか、あるいは――ファスが支持しているように――アイデンティティ・カテゴリーは不可避だが、戦略的に本質主義の用語で定式化するか。
(ヘムズ・ガルシアによると)ファスは、文化の作用が及ぶ安定した統一的な外部なしに、リアルなものに届く概念を形にしようして、本質主義は不可避ではあるが、そうであるがゆえに「戦略的に」引き受けられるべきものだ、と結論づけたのではないか。

□ クリスティン・バターズビィ『現象としての女 フェミニスト形而上学とアイデンティティの類型』
ファスと同じく本質主義に価値を見出そうとする議論。本質主義をもって、自然らしさがもつ説得力を拒絶し、同質性や統一性の陥落に打ち勝とうとする。
・新しい主体(女の身体)に生命を与える規範・基準・法normに基礎付いた哲学的主題 
⇔ 伝統的な西洋哲学は、主体を考える規範normとして男性身体を前提にしてきた
→ 新しい女性主体のポジションを作り出そうとして、バターズビィは、自然の地位をもたされた同質性や、女の間の差異を超えて経験されるものを否定した。
⇒ 女性の社会的アイデンティティと女性の身体との関係を、女性の生物学を自然化することなく、言語の言及作用の因果論をもって理解しようとしている。
= この言及作用の核心にあるのは、女性の多様性と、家父長制的文化の中で肉化する理想的規範のせいでさらされる女性の苦境である。バターズビィにとって家父長制とは、「権力を行使することで、男性の身体とライフパターンを規範や理想にさせる社会組織の形態」である。
⇔ 社会が規範や理想とするのは、男性の身体だけではなく、白人男性の身体であり、ときには白人女性の身体でもある。
→ 女性身体の能力は、家父長制の下で搾取される(単純に男の身体では子どもは生めない)。女性身体は生命を生み出す身体としてシステムの中にあり、そのシステムは生む身体に介入しながら女性の再生産能力を管理しようとする。バターズビィは、女性における階級や人種の差異(人種主義・植民地主義・資本主義)という観点から、家父長制を分析することができていない。1950年代から60年代にかけての米国の白人女性に産児育成が言われるなか、プエルトリコ系の女性には不妊手術が施されていた。
⇒ バターズビィの本質主義もまた陥落におちいっている。


何が社会的アイデンティティの核心なのか(p.88-92)
抑圧のポジションとしてのアイデンティティ
バターズビィの問いを引き受けると、女性の本質として自然化される女性の生物学biologyではなく、社会において苦境を経験する仕方になりうる女性の生物学はいかにして可能か(『アイデンティティの再主張 リアリストの理論とポストモダニズムの苦境』で議論している内容)

□ 小活
本質主義の陥落とは、同質性samenessと統一性unityである。セクシュアル・ポリティクスやゲイ・レズビアン研究におけるアイデンティティは、文化と自然を対立させるポジションや性的欲望の原因に関する議論から、切り離さなくてはならない。セクシュアル・アイデンティティは、性的欲望や行動と同じく、抑圧との関係とそれに対する抵抗から構築される。レズビアン・アイデンティティの真理は、他の女性に向かう女性の性的行動を分類する地図ではなく、所与の社会の中での女性の場所についての彼女の解釈なのである。

□ 白人性
・筆者自身の経験/メキシコにおける白人性Whitenessと米国における非白人性 → 自然な身体ではなく、所与の社会が構築するリアリティについての事例。白人性とは「私の皮膚のメラニン色素に貼り付けられる真偽のラベル」である。白人性は、個人・集団と人種的組織化との関係を記述するのと同時に、階級・ジェンダー・能力・セクシュアリティの複層性との関係も記述している。(「ゲイ」や「白人」というアイデンティティは恣意的なものではない)

□ 同性愛嫌悪と複層的な差別
・ウィリアム・S・ウィルカーソン『君は僕に話さなくちゃいけないことがあるのかい? カミングアウトと経験の曖昧さ』
ゲイやレズビアンのアイデンティティは、どのようにして、複層的な抑圧のひとつである同性愛嫌悪に応答して形成されてきたのか。ゲイ・レズビアン研究で人種に光を当てると、セクシュアリティはその構築において、人種主義、植民地主義、資本主義と歴史的に結びついてきたことが分かる。
・「Incite!」/カラードの女性に対する暴力と闘う活動、刑務所産業複合体の中での対人関係の暴力をとくに扱っている。西洋近代のゲイ・アイデンティテイを考えるならば、性的抑圧の経験だけでは不十分である。
→ 西洋近代のセクシュアル・アイデンティティは、オリエンタリストや植民地主義者の理論のレンズで非西洋の人々を性的に(再)植民地化することで可能になった。
・「ハワイ・ゲイ・リベレーション・プログラム」(GLQに再録)/同性婚運動では、ハワイ独自の文脈が乱暴にも、米国における(宗教右派と闘う)LGBT活動と並べられた。実は、ハワイにおける性的なツーリズムが同性婚制度化を推進していた。例えば、Kanaka Maoli(ネイティヴ・ハワイアン)LGBTの特殊なニーズ(「anina or land」)は、アメリカのゲイの運動(ニューヨークのストーンウォールに始まる)とは異なる。ハワイの土地の脱植民地化は、LGBTのセクシュアリティの脱植民地化と切り離せない。ゲイ・リベレーションは性的自律性を至上の価値に設定し、同性愛嫌悪への抵抗と植民地主義や人種主義の実践を切り離していたのである。

□ 結論
私たちが性的にアイデンティファイする仕方を精査することで分かるのは、レッテルの選択や欲望の本性についての解説ではない。性的アイデンティティ、人種、植民地主義、資本主義、軍事主義、商品化の複層的な相互作用が明らかになるのである。本質主義/構築主義論争を超えて、性的アイデンティティの理解は、ゲイやレズビアンのアイデンティティの核心を示してくれる。「クイアな人たちがグローバリゼーションや脱植民地化の議論の中心に置かれ、私たちは何度となく問い直すことになる。どのようなコミュニティやアイデンティティに/から、私たちはカミングアウトするのだろうかと」


■書評・紹介

■言及


*作成:高橋 慎一
UP: 20080520 REV:20081001
ゲイ gay/レズビアン lesbian  ◇身体×世界:関連書籍 2005-   ◇BOOK
TOP HOME (http://www.arsvi.com)